go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..九章

 「ちわっす」
酒類の卸問屋が伝票を持ってレジに来る。
 細面の彼は、華奢に見える。ビールケースや一升瓶のケースを運ぶのは腰に大きな負担がかかるだろう。
「ジュースかお茶をどうぞ」
若女将が伝票を受け取り、彼にサービスする。
 いえ、大丈夫です。声には出さないが、頭を軽く下げ、ジェスチャーで遠慮する。わたしならば、すぐに「ラッキー」と受け取ってしまうのに。
「そんなこと、言わないで、どうぞ」
若女将は、彼の遠慮を受け流す。少し、彼の表情に笑みが浮かぶ。
「いつもすみません」
小さな声だが、感謝をこめた言葉が伝わる。太い綿糸を縫込み、藍色で染めた前掛けがユニフォームだ。
 わたしは、関所に出入りするまで、酒類の流通について、ほとんど知らなかった。まさか、野菜や魚のように、市場でせりをするわけではないだろうとは理解していた。しかし、具体的にどうやって酒蔵から販売店に酒類が届くのかは、勉強不足だった。
 だれも教えてくれなかったと、ひとのせいにはしない。わたしが、知ろうとしなかっただけだ。
 関所で、長居をしながら、コップを傾けていると、物流について、初めて知ることが多い。酒屋は酒ばかり売っているわけではない。お菓子、缶詰、醤油、サラダ油、塩や砂糖。日々の食事に必要なものを多く扱っている。これらは、それぞれ問屋が違う。だから、多くの異なる種類の問屋との取り引きが必要になる。仕入れや支払いが複雑になるだろうが、関所の経営スタッフは、そういう煩雑な部分を表情に出さない。
 大変だ、大変だー。
 あちー、あちー。
 ため息や悲鳴をあげているのは、いつも夕方になると仕事を終えて、関所を訪れる住民ばかりだ。もちろん、わたしもそのひとり。
「こないだ、飲み屋に行ったら、珍しい日本酒が置いてあって、これがけっこううまくてさ。ママさん、ここにも、あれを置いてよ」
煙草をプカプカ吸いながら、相田さんが注文する。
 長く、関所に通っているのだから、酒類の流れについて、もう少し学習したほうがいいですよ。わたしは、こころのなかで、相田さんに指導する。

 湘南の9月は、秋とはいえない。夏の暑さが残り、下旬までセミが鳴く。
 しかし、秋分の日を過ぎると、日没が早く感じられるようになる。
 まだ、来たばかりなのに、自動ドアの向こうが薄暗くなっていた。きょうは、到着が遅かったかなと思ったが、時計はいつもと同じ6時前だ。こうやって、季節が移っていくんだなぁと感傷に浸る。
「あー、お父さん。手、振ったぁ」
若女将が、関所の前を通過した父を見て素早く反応する。
 わたしの感傷は、あっという間に吹っ飛ぶ。
 赤坂さんが、紙パックから日本酒をコップに注ぐ。
「センセーのお父さんは、手を振るようになったなぁ。前は、こっちを見て、にこって笑うだけだったのに」
にこっと、笑うだけでも、わたしとしてはやめてほしい。
「あと、もう少しで、立ち飲み仲間だな」
そういう日が来たら、わたしはここから卒業しなければならない。
「センセーがいないときなら、来たことがあるんだけど」
息子のいないときに、お忍びのつもりかな。
 すっかり暗くなった角の八百屋を通り抜けて、黒いショルダーを下げたおじさんが見えた。
「あ、きょうは三、三かな。四、二かな」
わたしは、話を強制的に転換する。
「また、酔っ払ってばかりいやがって」
おじさんが、赤坂さんをじろっと睨む。その後で、すぐに笑顔になる。
 おじさんの背後から、配達を終えた大将が戻ってきた。
「きょうは、大四、小二あたりかな」
 おじさんは、発泡酒が大好きだ。だいたい6本買う。そのときの財布のなかみとの相談で、サイズの割合が変化する。財布のなかみは、どうやら競馬の結果と連動しているらしい。
 あたりが出ると、大ばかり六ということもある。しかし、外れると、100円のを三つと極端に少なくなる。100円のというのは、一合の紙パック酒だ。
「きょうは、本当にねぇ」
ねぇ、とは、ないという意味らしい。おじさんは財布をさかさまにして見せる。チャリンと小銭が何枚かレジに落ちた。
「だから、100円のを一つ」
「おいおい、ちゃんと当ててくれよな」
大将が、紙パック酒を入れているかごから、一つだけとっておじさんに渡す。
「じゃぁな、酔っ払い」
おじさんは、後ろ向きに手を上げて自動ドアの向こうに消えた。
 毎日、必要ならば、配達してもらう方法や、もっと量の多い酒を買う方法があるだろう。しかし、おじさんは少しの量を毎日買い続ける。ひとそれぞれの時間やもののとらえ方や考え方がある。おじさんの日常が、それでよければ、だれも何もいうことはできない。

 「きょうは、そごうで北海道物産展をやっているので、それが楽しみ」
 各地の物産展のうち、いつもお客さんでにぎわうのが、北海道物産展だ。わたしは、北海道で教員をやろうと思って、北海道まで行き、教員採用試験を受けた。それぐらい北海道には思い入れがある。
 どうして、そんなに北海道に思い入れがあるかは、秘密だ。だれにでも語りたくない秘密があっていい。
 今回の物産展では、自分の買い物だけでなく、いくつかの注文を取ってきた。そのなかに、関所の注文があった。
「今度、北海道物産展に行くんだけど、何か買ってこようか」
若女将に聞いた。
「そうねぇ、ワインにあうチーズなんかあるかな」
 チーズは、わたしが好きなお店が出店しているのでお勧めだ。
「あるよ、どんなチーズがいいの」
「そんなこと言われてもねぇ。わたしが知っているチーズは、6Pか8Pかな」
「なんだそりゃ、それって、もしかして、ここに入っているチーズのこと」
わたしは、思わず、日本酒やホッピーを冷やしているクーラーボックスのなかの円形のチーズを指差す。
「そうよ、決まってるじゃないの。それ以外にチーズなんか、知らないわ」
 酒のつまみに、中島さんの愛犬ミッキーの好物に、いつも消えていく6つか8つに区切られたチーズがそこにおさまっていた。
 わたしは、顔の前で手を振る。ノーノー。
「6Pって、6ピースってことでしょ。ついでに8Pって8ピースってこと」
「そんなのわかってるわよ」
 だから、それってチーズの銘柄ではなくて、チーズのサイズなんだけどなぁ。
「まぁ、いいや。ワインにあうチーズというコンセプトで買ってくるね」
 若女将は、奥で新聞を呼んでいる大将に、そうだ、あれ覚えてないという顔を向けた。
「ほら、あれ」
「そんなんじゃ、わかんないだろ」
「あれよー」
「あー、あれか。イカとウニの」
 どうして、あれとしか言ってないのに、大将はイカとウニが導き出されるのだろうか。
「昔ね、北海道から直接、取り寄せていたことがあるのよ。塩漬けにしたウニのなかに、イカの切り身が入っているの。あれ、とってもおいしかったね」
大将が、思い出したかのように、右手でお猪口を持ちぐいっと飲む仕草をする。
「あうんだよなぁ」
「イカの切り身のなかに、ちょっとだけ、ウニがあるんじゃないのね」
わたしは、念を押す。
「反対、ウニのなかにイカ」
そんなの、売っていたっけなぁ。
「イカととびっこ(とびうおのたまご)の混ぜ物はあったよ」
「パパは、とびっこはダメー」
大将は、香草だけではなく、とびっこもアウトか。
「すごくおいしくて何年か直接取り寄せていたんだけど、社長さんが変わってね。そうしたら、味が変わっちゃって、それ以来頼まないことにしたの」
 これは、難しい注文だ。イカのウニ漬けですら、あったかどうかもわからない。たとえあったとしても、その味が若女将や大将の覚えている味に近いかどうかの判断が難しい。
「よけいな味付けをしていないことが基本だよね」
わたしは、確認をした。
 北海道物産展は予想通りひとであふれていた。
 こういう買い物は、カップルや家族連れには向かない。孤独なハンターをイメージして、片っ端から試食、店員の説明を右耳から左耳に受け流し、自分の舌を信じる。うん、いけると判断したら、保存の利くものから買っていく。
 焼いておいしいカチョカバロチーズ、サラダ感覚のクリームチーズ、ワインにあうカマンベールチーズを買う。ウニのイカ漬けは、たった一店舗でしか扱っていなかった。試食はなかったが、中年女性の店員にわがままを言って食べさせていただく。
「きょうは最終日だから、まけとくよ。100グラム420円だけど、300グラム買ったら1000円。お得でしょ」
これは、かなりのお得だ。きのうまで定価で買ったひとがかわいそうになるぐらい。
「じゃぁ、300グラムお願いします」
ついつい買ってしまうのだ。
「ありがとう、じゃぁ300グラムで3000円ね」
「ちょっとちょっと、さっきと話が違うって」
 店員さんは、連日の大賑わいで疲れがたまっていたのかもしれない。

 秋分を過ぎると、鎌倉は急に日暮れが早くなったように感じる。
 大船から関所まで歩くと、それを痛感する。
 藤沢から大船まで電車に揺られる。読書をしていることが多い。大船に着いても、読書の場面がいい場面だと、ついついわたしは歩きながら読書を続ける。知り合いに会うたびに「あれだけは危ないからやめろ」と言われるが、なかなかやめられない。
 そのわたしの歩行読書を不可能にさせるのが、暗闇だ。
 秋分過ぎの帰り道は、暮れてしまった太陽のせいで暗い。本を広げても文字が見えない。秋分からわたしは半年間、歩きながらの読書を断念しなければならないのだ。
 まだ、大船駅に着いたときは、観音様の向こうに夕焼け空が広がっていた。しかし、20分ぐらい歩いて関所に着いたときには、すでに見上げた空は暗くなっていた。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい」
「お、生きていたか」
「あれ、先生、きょうは遅いね」
 関所に入ると、若女将をはじめとした常連メンバーが返事をしてくれる。
 わたしは、入ってレジのとなりのいつものコーナーに荷物を置く。近くで烏丸さんが、ウイスキーのウーロン茶割りの入ったペットボトルを口にあてていた。
「おや、先生。ご苦労さんです」
「どうもどうも、お互いさまですよ」
わたしは、財布から140円を出して若女将に渡す。クーラーから一本140円のホッピーとコップを取り出す。栓抜きで開けて、コップに注ぐ。シュワーっと泡が広がる。グーっと飲む。
「プハーッ」
一日の疲れが、喉から潤っていくようだ。最近ではみなさん慣れたのか、わたしのホッピーストレート飲みを批判しなくなった。慣れとはそんなものだ。
「それにしても、先生なぁ。最近のイモは皮がむいてあんのな」
烏丸さんがいきなり聞いてきた。
「どういうことですか」
「イモ煮会をしたのよ」
「へーっ、だれとですか」
「そんなの、いいじゃん」
秘密と言わんばかりに、烏丸さんは人差し指を口にたてにあてる。
「別に深くは聞きませんよ」
イモ煮会をするメンバー。それを烏丸さんはひとに言いたくない。少なくとも、ロマンチックな話ではないだろう。鍋でイモを煮ながら愛を語り合う姿は、あまり想像できない。

 わたしは、ホッピーをコップにさらに注ぐ。
「そんで、スーパーでイモを買ったのよ」
秘密のイモ煮会なのに、烏丸さんはまだ話を続ける。本当はいろいろ喋りたいのかもしれない。
「イモって、サトイモですか」
「そりゃ、イモ煮って言ったら、サトイモに決まってるだろ」
反論すると話がややこしくなるのでうなづいておく。
「家に帰って皮をむこうとしたら、ツルンって滑るわけ。ありゃどうしたと思ったら、最初から皮がむいてあって、びっくりしたぁ」
秘密のイモ煮会のはずなのに、烏丸さんはもう会場をばらしている。
「それって、夕飯ですか」
わたしの質問に、烏丸さんは、笑顔で応じて、肩をたたく。
「ほかに何があるの」
 いつか、わたしもこのように支離滅裂な会話を笑顔でする酔っ払いになってしまうのだろうか。どんなに年齢を重ねても、理性を失わない会話をこころがけたい。
「どうだ、カラス、お前もちょっとやるか」
赤坂さんが、自分の日本酒を烏丸さんに提供する。
「おう、じゃ、軽く一杯な」
わたしは、このひとたちの軽くを信じない。軽くは「これから」と同義語なのだ。
「カラス、少しは俺のも飲めよ」
永田さんが、中国酒を手にして後ろの商品棚から登場した。
 その中国酒は、大将が知り合いからもらったらしい。
 最初に関所のみんなでおちょこに少しだけ分けて試飲した。コーリャンを原料とした42度の酒だ。ウイスキー並みのアルコール度数。味は慣れないときついものがある。
「あの酒を飲んだら、吐く息が生臭くなった」
永田さんが、その酒をひとに勧めるたびに、相田さんは決まって生臭くなった経験を持ち出す。その後、なぜか口を開けてハァーってやるのだが、あれには意味があるのだろうか。それに、酒を飲んだから生臭くなったというのはあまり科学的ではない。もっと根本的に違う理由があるのではないかと心配している。だから、最初に飲んで以来、もう相田さんは口をつけていない。何日も経って、中国酒の話題のたびに、生臭いからやめろ、ハァーっていうのは不思議だ。もしも、いまも息が生臭いとしたら、それは中国酒のせいではないだろう。だいぶ胃が荒れているのではないか。
 だれも残りの中国酒に手をつけない。だから、永田さんと赤坂さんがその中国酒を大将からもらった。わたしの山猿が入っているクーラーにいっしょに鎮座している。
 永田さんは、いろいろな種類の酒をちびちび飲む習性がある。だから、クーラーには永田さん名義のワイン、日本酒、中国酒、焼酎が並ぶ。どれも少しずつしか飲まないから、なかなか減らない。
「俺もな、最初からこいつはきちーぃんだよ」
言いながら、永田さんは中国酒の栓を抜く。
「だから、ビール、焼酎と飲んで最後にこいつを飲むようにしているんだ」
そういう飲み方は、胃や腸に負担を与えるので、途中で水やお茶をはさんだほうがいいのだが。

 酒の飲み方はひとそれぞれだ。自分の飲み方をひとに強制するのは野暮なことだ。
 ひとそれぞれ、流儀というものがある。永田さんがそれでいいなら、かまわない。
「永田さん、わかったから、早くその瓶に栓をして」
強烈なコーリャンの臭いがわたしの鼻をつく。
「うーん、いい臭い」
自分の鼻を瓶の口に持っていき、酔いしれる永田さん。
「センパイ、ついにネジが一本抜けちゃった」
永田さんを先輩と慕う相田さんにも見放された。
 わたしたちのやりとりを若女将が目を細めて耳にしている。
「そういえば、カンちゃんが、先生に塩せんべいをどうぞって言ってたよ」
わたしは、クーラーのなかを覗く。たしかに、塩せんべいの大きな袋が入っている。袋の表にマジックで「カン」の文字。小さく「食べてもいいよ」と書いてある。
「カンちゃん、日本語の使い方を間違えてるなぁ」
わたしは、袋を取り出す。
「えー、それでいいんじゃないの」
「ときどき、俺の吾作から、胡麻せんべいばかり狙って食べているんだから、こういうときは、いつものお礼です。どうぞ自由にお食べくださいって書かなきゃ」
塩せんべいの袋から、小分けした塩せんべいを取り出す。一枚一枚、包装されている。
 わたしが飲む日本酒「山猿」の肴は、レギュラーが3つある。
 ひとつは、当たりくじつきのよっちゃんの酢漬けイカ。
 もう一つは、小さいサイズのミニベビースターラーメン。
 そして、吾作だ。吾作は、本来の醤油せんべいを作る過程で割れてしまったものばかりを集めて250円で売っている。薄い醤油せんべい、濃い醤油せんべい、胡麻せんべいの3種類から構成されている。せんべいのアウトレットだ。もともと不良品の集まりだから、袋によってせんべいの割合が異なる。わたしは、胡麻せんべいが好きなので、吾作を買うときは、袋のなかになるべく胡麻せんべいが多いものを選ぶ。
 その吾作から、ときどきなぜか胡麻せんべいだけが減っていることがある。前日に、わたしが食べたのかもしれない。すっかりそれを忘れていることは珍しくない。しかし、買ったばっかりで1枚か2枚しか食べていないのに、翌日にはほとんどの胡麻せんべいが姿を消していることもあるのだ。
 そんなことをするのは、だれだろう。ひとを疑うのはよろしくない。わたしがいるときに、ほかのだれかが「ちょうだいね」と言ったのを、わたしが覚えていないというのが、ほとんどだろう。

 関所を取り巻く商店街には、飲食店が複数ある。
 あまり人通りの多い地域ではないので、こんなに飲食店があって、よく繁盛していると驚いてしまうほどだ。
 夕方になると、飲食店の女将さんが、空になった生ビールの業務用タンクを持って来る。交換に新しいタンクを買っていく。
「お店に届けるってことはしないんですか」
以前に、大女将に質問したことがある。大女将は、手招きをして小声で言った。
「なるべくつけ払いはしないことにしているの。そのつどそのつどお店で現金扱いにしたほうが確実でしょ」
 長く商売をしていると、飲食店のようにたくさんのアルコールを注文しながら、月末にまとめて支払うときになってトラブルが発声することもあるのだろう。狭い地域だから、ひととひととの関係に、お金の問題がからむと、ややこしくなる。
 中華街で、おもに中華麺を専門に製造し販売している永楽製麺所。ここも、小売が専門だ。中華街にある多くの飲食店では、永楽製麺所の麺を使っている。しかし、配達はしない。必ずお店のひとが一般の客と同じように店に来て、レジで現金を支払っている。
「卸せば大量に販売できるのに」
なじみの店員である石原さんに言ったら、石原さんは顔の前で手を横に振った。
「大量に届けることと、集金することは別なんだよ」
 関所も永楽製麺所も、きっと小売に自信があるのだろう。
 きょうも関所から歩いて1分のところにある居酒屋の女将が空のタンクを持参する。すでに割烹着を着て、髪の毛は整えている。
「どうも、ご無沙汰しています」
烏丸さんと、日本酒を注いで注がれて、帰るタイミングを逸している赤坂さんが、女将に頭を下げる。
「ほんと、ここには毎日いるんだから、たまにはうちにも来てよね」
 いやー、参ったなぁと、赤坂さんは頭をかく。
 それぞれの飲食店の開店時間はだいたい同じだ。だから、生ビールや煙草の補充に女将さんたちが来店するのは時刻が重なることが多い。同じ町で似たような商売をしていると、顔では笑っているが、こころではライバル心を燃やしているのだろうか。
「そうそう、こないだそこを黒木さんが通って声をかけてくれたわ」
若女将が嬉しそうに教えてくれた。
「えー、いま静岡だと思うんだけど戻ってきたんだね」
 夏の終わりを思い出す。
 黒木さんと中田さんと山猿を飲んだ。わたしは二人を残して先に帰った。
 わたしがいなくても、黒木さんは若女将に声をかけてくれた。自分にとって、身近な空間として黒木さんが感じてくれたのだろう。黒木さんは静岡に単身赴任しているので、あまり会うことはできない。でも、今度会ったときに、次はひとりで立ち飲みだねって背中を押してあげよう。

 10月7日。
 台風18号が沖縄方面から太平洋上を本州に接近。台風に刺激された前線の影響で、近畿から関東地方にかけては雨降りになっていた。そして、強い風。
 わたしはかつて大型の台風が神奈川県沖を通過したときに、藤沢で飲んでいた。電車もバスも動かなくなり、暴風雨のなか、歩いて、大船まで帰った。途中、柏尾川という大きな川を渡る。水位が高く、ほとんど河岸の道路と同じ高さになっていた。あと、数センチで水があふれそうななか、流されそうになっている橋を渡った。強風でからだが飛ばされそうになる。欄干につかまる。全身がびしょぬれになって帰宅。それ以来、台風情報には敏感になった。自宅待機の命令が出なくても、勝手に休暇を取って自主的に待機することにしたのだ。
 しかし、7日はそうはいかなかった。
 わたしはことし、市から委嘱されて、教育委員会の仕事を一ヶ月に一度している。任期が二年間なので来年度もやる。給料が出るのかと思ったら、公務員は出ないと知り、委嘱を受けなければよかったと反省した。
 7日は、たまたまその日だったのだ。その仕事自体が延期になればいいのだが、その連絡はなかった。仕方がなく、わたしは会場の市立養護学校(いまは特別支援学校と呼ぶ)に向かう。
 時間に余裕をもって、藤沢駅周辺に早く着き、読書をして調整しようと思っていた。
 朝から夕方までの仕事なのでランチが必要だ。いつもなら給食があるのだが、その日はない。外食でもいいのだが、わたしは午前4時ごろから起きて弁当を作る。カチョカバロを小さく刻み焼いておかずにした。
 7時25分発の東海道線に乗るつもりで歩いて大船に向かう。階段を上がり、改札に近づく。放送が聞こえる。
「ただいま、横須賀線が運転を見合わせています。それにともなって、東海道線にも遅れが出ています。いまのところ、復旧の目途は立っていません」
 これまで何度もこういう不通状態を経験した。若いころはそれでもホームで復旧を待った。しかし、いつになれば復旧するのかわからない待ち時間は体力だけでなく、精神力も萎えさせる。また、スイカで一度改札をくぐると、電車に乗らないままでは、再び改札から出られなくなる。スイカには入場券という発想がないらしい。そのたびに駅員のいる窓口に行き、ロックを解除してもらわなければならない。出勤時間帯の電車が動かない。駅員は多忙になり、スイカのロックをやっている暇がない。たくさん待たされる。
 だから、運転していないらしい、あるいは電車が遅れているらしいという情報をキャッチしたら、改札をくぐらない。小学生のように、回れ右。逆方向にある湘南モノレールの改札を目指した。別の方法を使うのが、何よりもの選択肢なのだ。

 7時半頃に大船駅に到着したモノレールからは、定員の倍ぐらいの乗客があふれ出す。だれもが時間に余裕がない。あわてて鉄道の改札口を目指す。わたしは、そのひとの流れに逆行する。
「みんなみんな、そんなにあわててホームに行っても、電車が来ないよ。あきらめなよ」
こころのなかで叫ぶが、だれも気づいてくれない。
 モノレールで江ノ島に向かう。空いていた。江ノ電の江ノ島駅から電車に乗る。鎌倉から横須賀線をあきらめて、代替乗車してきた客が多かった。
 江ノ電の藤沢駅は、小田急デパートのなかにある。そこから駅前ロータリーのコンコースを抜ける。JR藤沢駅を通過して、バス乗り場へと急ぐ。いつもなら素通りできる駅舎内がひとであふれていた。よく見ると、ホームにはひとがあふれ、いまにも落ちそうになっている。これ以上、ひとをホームに入れると、線路に落ちるひとが出てくるので、改札口が封鎖されていた。
 わたしは、大船駅で、すぐに電車をあきらめたことが幸いして、ほぼ予定通りの時刻で藤沢に到着した。いまからバスに乗ると出張会場に早く着きすぎる。読書できる喫茶店を探す。スターバックスは満席だったので、ベルーチェに行く。出勤できない客が喫茶店で時間を潰していたのだ。ベルーチェでも、喫煙席しか空いてなかった。煙ばかりで地獄だった。
 かつてはわたしも煙草を吸ったが、いまは吸いたいとも思わない。特別な治療をしたわけではない。気持ちだけでやめたので、安上がりだった。
 さっさと紅茶を飲んで店を出る。
 神奈川中央交通バス。3番乗り場。このバス停もひとが並ぶことなどめったにないのに、7日だけは長蛇の列だった。わたしは長い列の後ろについて立ち読みをした。
 藤沢04系統。辻堂団地行き。8:30発に乗る。藤沢から辻堂に行きたい客が殺到していたのだ。大半が浜見山で下車し、辻堂駅行きに乗り換えていた。
 朝からどっと疲れた。
 おまけに会議の最中、窓外には暗雲が広がる。雨脚が強まり、松や杉が風に大きく揺れていた。小さい折りたたみ傘しかないわたしは、数年前の台風被害を思い出す。トイレに行くと嘘をついて、こっそり帰ってしまおうかな。本気で考えた。
 会議の途中で、養護学校の校長が参加者に教えてくれた。
「小学校校長会からの連絡で、あしたは市内の小学校はすべて休校です」
その会議には、何人か小学校教員が参加していた。中学校の情報は、養護学校の情報は。ほかの参加者が質問したが、詳しいことはその場では不明だった。
 5時過ぎに会議が終了した。雨が強い。バスを待つこともできるが、待っている間に濡れそうだ。悩んでいたら、出席したメンバーのなかに知り合いがいて「車で来ているから辻堂まで送るよ」と天使の一声をかけてくれた。

 わたしは、傘を折りたたみながら、その日の出来事を大将と若女将に説明していた。
「というわけで、あしたは臨時休校になりました。きょうは飲んじゃうぞ」
「何言ってんだ、いつもだって、飲んでんじゃねえか」
大将は、外の仕事で濡れた合羽をタオルで拭きながら呆れていた。

 週末の関所。
「今週は、佐藤さんは長野って言っていたね」
わたしは、カレンダーを見ながら、若女将に尋ねる。
「なんだか、発表するみたい」
 学会のイベントで定期的に発表しないと、その学会から認められている資格がなくなってしまうそうだ。
 わたしは、140円を若女将に渡す。ホッピーでまずは喉を潤す。以前は、何も割らないで飲むなんて信じられないと、関所のメンバーに驚かれた。しかし、時間というのはありがたいもので、何を言われようとも一つのスタイルを貫くと、驚いていたメンバーの気持ちが慣れるらしい。最近では、わざわざホッピーだけを買いに来る一般のお客さんもいるぐらいだ。
 クーラーからコップを取り出す。そのときに、佐藤さんがキープしている焼酎の瓶が目に入った。でも、瓶に名前を書いていない。
「これって、栓は切ってあるけど、名前が書いてないね。だれのだろ」
「佐藤先生のよ」
「でも、名前が書いてないみたいだよ」
わたしは、クーラーの扉をしめて、外から焼酎の瓶を調べる。
「名前を書くと、ひとに飲まれるから、わざと名前を書かないって言ってた」
「なんだ、そりゃ」
「佐藤先生の人徳ね」
「佐藤って書くと、みなさんどうぞって読めるわけ」
 穏やかな佐藤さん。ほかのだれかがこっそりおすそ分けをいただいても、きっと許してくれるだろうと思われているらしい。
 神棚の下でいつもの相田さんの声がする。
「ま、俺なんかね。そういうの興味ないから。仕事は仕事、遊びは遊びって、割り切ってるから」
 いつもの相田さんの声だが、少し緊張している。日本酒の瓶が並ぶ。その向こうに意識を向ける。関所には似合わないスーツにネクタイ、ワイシャツ姿の会社員が相田さんと並んでいる。親しげに話しているので、きっとシンロートの方だろう。工場だから、スーツ姿はないと思っていたが、営業職もあるかもしれない。また、その方は相田さんよりも年上に見えるから、常務とか専務のように役職がトップクラスの方かもしれない。
 ネクタイの方は、ぼそぼそ話すので会話はわからない。しかし、それに応対する相田さんの声が大きいので、文脈はだいたい伝わってくる。
「多くのひとはね。偉くなって、給料上がって、ラクをしたいわけでしょ。でも、偉くなって、給料上がると、責任とかとらなきゃならないから、ラクになれないじゃん。だから、ボクは、偉くなくても、給料上がらなくても、いまのままで十分なの」
 自分のことをボクと呼ぶ相田さんは、初めてだった。

 おそらくネクタイの方は、相田さんに昇級とか昇進についてアドバイスをしているのだろう。先輩として後輩を育てようと考え、場違いな服装で関所に寄っているのかもしれない。
 しかし、わたしは知っている。
 相田さんには、仕事上で出世しようという欲がまったくないのだ。どんなに仕事ができても、偉くなろうとしないので、部下はいらない。もともとひとに何かを教えたり、指図したりするのが苦手みたいだ。それがわかっていて、なおも相田さんに出世を指南しているとしたら、彼は会社では関所では見せない顔をしているのかもしれない。
「はぁぁ、よっこらしょ」
 買い物帰りの近所の主婦が立ち寄る。
 とくに関所で何かを買うわけではない。若女将や大将と二言三言交わして、ふたたび荷物を背負って行く。
「はい、いらっしゃい」
自動販売機が表にあるのに、レジで煙草を買うひとも多い。
 お客さんの好みを知っている若女将は、顔を見ただけで銘柄を思い出し、素早く棚から煙草を取り出す。
「あ、3ミリにします」
ときどき、これまでと違うものを買うお客さんがいる。
「少し健康に気をつけるようにしたんですか」
すかさず、若女将は変更に対応する。次に同じお客さんが来たときには、変更した銘柄がインプットされていることだろう。
 自動ドアの向こうに大きなトラックが停まる。
「あ、パパ、来たみたい」
若女将が、新聞を読んでくつろぐ大将に知らせる。自動ドアが開く。
 小柄な男性が伝票を片手に入ってくる。
「いやぁ、まいったよ。こないだの台風で海岸道路が陥没して、ちっとも動かない」
酒の卸問屋さんだ。注文の品物を届けに来たのだ。
「完全に道がふさがっているわけではないから、片側だけを使って交互通行をしてるわけ」
レジで、大将に自分が遅れてきたことを説明している。
「いつもなら、15分ぐらいで通過するところを、きょうはなんと2時間もかかったよ」
 台風18号による雨と波の影響で、海岸沿いの道路が陥没した。海岸沿いのアスファルト道路は、もともと地盤が砂だ。その上に基礎工事をしてアスファルトを敷いている。雨や波で砂がさらわれると、道路の下に空洞ができる。車が通過すると重みで陥没してしまう。
「まだ、きょうは回らなきゃならないところが山ほどあるっていうのに」
ぶつぶつ言いながら、配達伝票を切って問屋さんはトラックに乗った。
 台風18号恐るべし。

 プロ野球が太平洋をはさんで最終ステージに入る。
 夕方の6時を過ぎると、永田さんや相田さんらは、大将に店内放送をプロ野球にしてくれと頼む。大相撲は6時までに終わり、6時からはプロ野球。BGMがわりのスポーツ中継だ。その趣味は、親父そのものだ。
「どうせ、俺は結婚してねぇし、こどももいないから、親父の気持ちなんてわかんねぇよ」
ときどき、永田さんや相田さんは独身であることを卑下する。しかし、その生活スタイルは、どこから見ても立派な親父です。
 わたしは、ベビースターラーメンを肴にして、山猿をちびちび飲んでいた。
 人間ドックで栄養士さんと約束したダイエット。日々の少しの積み重ねコースを選んだ。そのため、毎日、悲鳴をあげるようなダイエットプランにはなっていない。しかし、ついついさぼると、たちまち体重が増えてしまう。
 本当はベビースターラーメンのような高カロリーお菓子は禁止なのだ。でも、少しずつ食べればいいだろうと自分にあまくなる。
 いけませんな。
「マスター」
奥の洋酒棚から、相田さんが大将を呼ぶ。相田さんは大将をいつもマスターと呼ぶ。
「あん」
レジ横の回転椅子で新聞を広げていた大将が返事をする。
「これから、クライマックスシリーズの第二ステージが始まるじゃん。あれって、なんで試合数が6試合なの」
「そんなこと、ねぇべ」
大将は新聞のスポーツ欄を広げる。
「あ、ホントだ」
「だろ、ボクは嘘はつかないんだ」
相田さんは少し得意そうだ。
「もしも3勝3敗だったら、どっちの勝ちにするんだろう」
相田さんの素朴な疑問は、ふだんテレビも野球も見ないわたしにも共感できる疑問だった。
「まてまて、ここにこう書いてあるぜ」
大将は新聞を朗読する。
 第二ステージ。リーグ戦一位のチームには一勝のアドバンテージがある。試合数は全部で6試合。
「この説明じゃ、わかんねぇな」
大将も腕組みをする。
「もしかして、3勝3敗だったら、監督同士がじゃんけんでもして決めるのかな」
相田さんは、本気で冗談みたいなことが言えるひとなのだ。

 永田さんが腕を組んで天井を見上げる。
「ラグビーなんかじゃ、両方とも優勝ってのがあるらしいぜ」
「じゃ、クライマックスステージも引き分けなら両方とも優勝かな。でもそれじゃ、日本シリーズはどうなるわけ」
相田さんは深く悩んでいる。
「ほら、相撲でも最後に優勝の可能性があるひとが何人もいたら、巴戦ってやるじゃん。あれをするのかな」
わたしも、会話に加わる。
 あまり、スポーツに関心のない赤坂さんは、どうでもいいと言わんばかりに煙草に火をつける。
「このワンタン麺って、本当にこんなにうまそうなワンタンが入っているのかな」
乾物コーナーを物色していた相田さん。カップ麺のひとつを手にして、ラベルの写真を眺めている。
 おいおい、プロ野球の話題はもうおしまいかい。
 答えがわからないから、これ以上考えないようにしたな。
 それにしても、見事な方向転換だ。彼は、話の切り替え選手権があったら、間違いなく初代チャンピオンだろう。
「そういうのって、中身のないワンタンの皮だけってのが多い」
永田さんが、いかにも経験者という感じで強く主張する。
 永田さんも、あっさりと相田さんを追従する。
 わたしが、クライマックスシリーズの第二ステージがどうして6試合しかないのか知ったのはずっと後になってからだ。
「そうだよね」
名残惜しそうに、相田さんはワンタン麺を棚に戻す。本当は食べたいようだ。
「じゃぁ、それって、ワンタン麺じゃなくて、ワンタンの皮麺だ」
わたしが合いの手を出す。
「でも、なんだか、いまボクの胃袋はワンタン麺を欲しているんだよなぁ」
相田さんは、すっかり食欲の塊になっている。最近、自分のことをボクと呼ぶようにしたらしい。
「うーちゃんと半分ずつにすればいい」
赤坂さんが新プランを提案する。
「だめだめ、うーちゃんはノンアルコールじゃないと」
たしかに、うーちゃんこと内田さんはアルコールは飲まない。アルコールなしで、関所のメンバーに付き合う貴重な存在だ。しかし、カップのワンタン麺とノンアルコールにどんなつながりがあるのだろうか。相田さんの思考回路は複雑すぎる。
「そうだなぁ、うーちゃんはペヤング専門だし」
おーい、赤坂さーん。相田さんの返事に納得してどうするのー。

 相田さんは、ペヤングのソース焼きそばを手にする。
「カップ麺の王道だよな。これだけ、ラベルに絵や写真がないんだぜ。それだけ、商品に自信があるってことだよ」
相田さんが、ペヤングおかかえのプレゼンテーターに変身した。
 でも、言われてみると、たしかに四角い箱のペヤングソース焼きそばのラベルには文字しか書いていない。なかみの宣伝になる絵や写真がないのだ。初めてこのソース焼きそばを買うひとは、なかみを想像して買うしかない。
 だいぶ昔だったと思うが、わたしはカップラーメンではなく、カップ焼きそばができたとき、たしか最初に食べたのがペヤングのソース焼きそばだったと思う。そのときの感想は、これは焼きそばではない!だった。だって、麺を焼いていないのだから、焼きそばと呼ぶには名前に無理がある。ゆで麺にソースをからめた新しいジャンルのヌードルだと思った。
「はーい、しょっぱいかもしれないけど、どうぞ」
若女将が夕食から戻る。お盆にはいくつかの小皿にチャーシューが乗っている。このチャーシューは、いつも味も歯ごたえも絶妙だ。わたしは最小限の味付けで十分なのだが、関所のメンバーにはそれでは物足りない。醤油で味付けをしてある。
「うわぁ、これが来たら、やっぱ、買っちゃおう」
相田さんの手には、カップのワンタン麺が握られている。
「ママさんのチャーシューは、最高の料理なんだよ。これを食べたら、ほかの店のは食べられない」
「うん、なかなかよろしい」
若女将はご機嫌だ。
 自動ドアが開く。
 中島さんがミッキーを連れて登場した。
「久しぶりです。こんばんは」
わたしは、中島さんに挨拶をする。大型犬のミッキーは行儀よく静かにしている。クーラーボックスのなかに好物のチーズを発見する。
「待て、ミッキー。急ぐな」
わたしは、チーズを一つ取り出して、中島さんに渡す。代金を払って、チーズを包装している銀紙をむく。ミッキーは、もうすぐご馳走にありつける喜びを尻尾で表す。
「できたどー。ここにこいつを乗せてっと」
 できたぞーではなく、どうして、できたどーなのだ。関所奥の相田さんのコーナーから、カップのワンタンメンの香りが漂ってくる。
 ズズズ、ズー。
「このスープにからめたチャーシューがうまい!」
こころなしか、チーズに満足しているはずのミッキーの耳がぴょんと相田さんの方角へ。
 ふと見ると、いつもは生ビールを飲む中島さんがお茶のペットボトルを手にしている。
「きょうは、これから電車を撮影に行くんです」
わたしが質問をする前に、中島さんが飲まない理由を教えてくれた。

 中島さんの話。
 東急田園都市線の長津田駅から支線に入る。いわゆる「こどもの国線」と呼ばれている支線だ。
 その途中に車両工場がある。そこへ深夜に撮影に行くという。
 東急電鉄で走っていた古い車両を改造して、奈良の伊賀鉄道に販売するそうだ。販売といっても、車両の販売なので移動をどうするかという大きな問題がる。既存のレールを乗り継いで行く方法があるが、そのためには多くの鉄道会社の協力が必要になる。レールを使わないで、車両を台車とウワモノとに分解して、大型トレーラーで運ぶ方法もある。
 その移動の様子をビデオに収めてくるというのだ。
「正確な時間が東急から発表されているわけではないけど、だいたいの目星はついているんです」
 鉄道会社に勤めるわたしの知り合いの話によると、日本の電車を建造しているのは、東急車輛ともうひとつの会社のみということだ。あのJRでさえも、自社生産はほとんどしていないとのことだった。だから、東急は電車を走らせるだけでなく、国内の車両すべてについての安全面に関する大きな責任を負っていることになる。
「わけのわかんねぇこと言ってて、オラ、もうけぇるぞ」
赤坂さんが荷物を背負って、自動ドアを抜ける。ドアが閉まりかけるときに、右腕を上げていた。あれは、バイバイのつもりだろうか。
「というわけで、きょうは早いけど、これで帰ります」
中島さんは、まだもう少し関所にいたがるミッキーの巨体を引っ張って、赤坂さんの背中に続いた。
「あー、あしたは火曜日。嬉しいなぁ」
若女将は、上機嫌だ。
「あーあー、きょうはまだ月曜日。一週間が始まったばかりで悲しいよ」
わたしは、今週の仕事の予定を思い出し、ため息をこぼす。
 関所は火曜日が休みだ。
「ママさん、ここも日曜日休みにしたら、どうかなぁ」
カップのワンタン麺を食べ終えた相田さんが、空になったカップを捨てに来る。
「そうしたら、みんな火曜日に行くところがなくて困らないのに」
どこまで行っても、相田さんの純粋な考えは、自分が基準だ。
「日曜日だからこそ、お店に来てくださるお客さんもいるのよ」
「そっかなぁ、俺なんて日曜は家で寝てるけどな」
 相田さんは横須賀に住んでいる。たとえ、日曜日に外出しても、わざわざ勤務先に近いここまで来ることはないだろう。
 わたしは、空になったコップを所定の位置に置く。山猿の一升瓶をクーラーに戻す。
「センセーは、あしたはどうするの?」
「たぶん、鳥藤。今度、買出しに行くときの注文を聞こうと思う」

 火曜日。関所は休みだ。
 わたしは、火曜日になると、鳥藤に決まって通っていた。そこで会った佐藤さんを関所に誘ったのだ。しかし、人間ドックを受けてから、肝臓にアルコールが入らない日を作ろうと決心した。その候補が火曜日だった。
 だから、決まって通っていた鳥藤は、めったに行かなくなった。こういう地元のお店は、いつも顔を出していた客が、ぱたりと顔を出さなくなると、たちまち噂の対象になる。
 たぶん、わたしは病気かなんかで入院していることになっているだろう。
 そんなことを考えながら、鳥藤の赤い暖簾をくぐった。
「こんばんは」
瞬時に店内を見回す。開店の5時を少し過ぎていたが、客はいない。ラッキー、一番乗りだ。
 カウンターのなかでママが炭を並べて、火を起こしている。
「どうも、久しぶり」
お手拭を出してくれる。わたしは入口に近いカウンター席に座る。ここは、ママが目の前で焼き鳥を焼くのが見える特等席だ。テーブル席にひとりで座ると、寂しい。カウンターの奥の席は、焼き鳥や煙草の臭いと煙が充満するので、できれば避けたい。特等席は、頭上に大きな換気扇があるので、煙の心配をしなくて済む。
「来週の買い出しで、何か注文があったら、買ってこようと思って来ました」
わたしは、お手拭でおでこから頬、頬からあごをぬぐう。
 やばい、おじさんっぽいことをしているぞ。
「そんな理由をつけなくても、来ていただいて、いいんですよ」
 はいはい。
 生ビールとホルモンを注文した。ホルモンができあがるまでに、生ビールを飲んでしまう。もう一杯注文する。そのなかで、買い出しの注文をメモした。だいたいいつもと同じなかみだ。
「今回はお茶はいいんですね」
「なーんか、ないときは全然ないんだけど、あるときはあっちからこっちから届いちゃってね」
 わたしの背中に外気が触れる。
 引き戸があいて、上木田さんが登場した。
「あ、センセー、ちょうどよかった」
上木田さんとは、久しぶりだ。久しぶりなのに、ちょうどよかったとは、これいかに。
「きょうは、ずいぶん、カジュアルな服装ですね」
わたしはスーツやワイシャツの上木田さんを見慣れている。しかし、きょうの上木田さんは、ジーンズにトレーナーだった。
「事務所がこないだの台風で大変なことになって、きょうまで大掃除ですよ」
なるほど。
「まだ片付いてはいないんだけど、だいぶ目途はついたんで、焼き鳥食ってビールを飲もうと思ってね」
肉体労働の後のビールはうまい。

 わたしは、上木田さんとジョッキで乾杯をした。一気に三分の一を飲み干した上木田さんは、ふーっと息を吐き出す。
「のんびり着替えていたら、ふとカレンダーが目に入ったんです。そうしたら、きょうが火曜日だということに気づきました。あわてて、事務所を飛び出してきたんですよ」
「どうして、火曜日だとあわてるんですか」
わたしは、出来上がったばかりのホルモンを一つ口に運ぶ。タレがこげた部分がホルモンの弾力に包まれていく。
「そりゃ、急いで行かないと、関所軍団が押し寄せてくるのがわかっているから」
「そんな大げさな」
「決して大げさではないんですよ。センセーは最近来られなかったから知らないでしょ。あっという間にカウンターは軍団で占領されるんです」
 上木田さんも、わたしと同じようにテーブルでひとりというのは寂しいタイプなのだろう。
 まさかと思った上木田さんの心配。それが確かな未来予測だったとわかるのに、1時間もかからなかった。
 ふたりで飲みながら語っていると、続々と関所のメンバーがカウンターを埋めた。
「さすけねぇなぁ」
ここでも、烏さんは同じことを言っている。
「湯豆腐一つ」
立ち飲みの関所では、あまり食べ物に口をつけない赤坂さんは、鳥藤でちゃんと食べ物を頼んでいた。少し安心する。
「こりゃまた、みなさん、おそろいで」
永田さんが、近くの銭湯帰りで登場した。
 上木田さんは、ほらねという顔で、わたしに目配せをした。もう、カウンターには空いている席は一つしかない。
「あらぁ、大変。これじゃ鎌ちゃんが座るところがなくなる」
ママは、あわてて残り一つになったカウンター席に「予約席」と書いたプラスティックの札を置く。
 鎌ちゃんこと、鎌倉さんは赤坂さんと同じ首都リーブスに勤務する事務職だ。もうすぐ定年を迎える。職階的には、管理職だろうと想像している。
 わたしは、たまに鳥藤で隣りがけに座り、親しくさせてもらっている。サッカーの結果を予測するくじや数字の並び方を当てるくじを定期的に購入し、いつか賞金でブラジルに旅立つ夢を持っている。だから、鳥藤で会うたびに「また、外れですね」が挨拶になる。鎌ちゃんは、関所に煙草を買いに寄るが、関所でアルコールを口にすることはめったにない。いつも、鳥藤のカウンターに座り、30分ぐらいホワイトウイスキーのロックを傾け、飲みすぎない程度で帰る。きょうも、もうすぐ鎌ちゃんが来るべき時間が迫る。

 鳥藤も関所も、わたしにとっては、ひととひとが出会う大切な場所だ。
 それをひとはなんと呼ぶのだろう。わたしが大学時代にワンダーフォーゲル部で全国を歩いていたとき、多くの道が交差する場所には「寄」という漢字を書いて「ヤドロギ」とか「ヤドロキ」と読む地名がいくつかあった。
 昔から、道が交差する場所は、ひととものが寄せては離れていく中継点だったのだろう。
 その中継点で、ひとびとの生活や暮らし振りを見守り続ける関所の大将や若女将、鳥藤のママは、昭和や平成という時代の生き証人だ。
 出張に行き、いつもより少し早く関所にたどり着いた。まだメンバーは仕事中らしい。大将が店番をしていた。
「こんにちは」
「よ、早いじゃん。また仕事、おさぼりか」
 またという言葉は、誤解を招く。いつもさぼっているみたいではないか。
 荷物を置き、よっちゃんの酢漬けイカの箱から、当たりそうな顔をしている袋に手を伸ばす。
「きょうは、出張先からそのまま帰ってきたから、早いの」
言いながら、30円と商品を渡す。
 当たりつきの酢漬けイカ。いつもは若女将が鋏でくじの部分を切り開き、結果を教えてくれる。
「俺に、開けろってか」
大将は、酢漬けイカを受け取りながら鋏を手にする。
 30円の商品なのでそもそもが小さい。小さいパッケージに小さい字で印刷してあるから、商品の説明もくじの結果もわたしには見えない。
「いや、じゃぁ、自分であけます」
わたしはバックから老眼鏡を出そうとする。
「いいからいいから」
大将は鋏で袋の角を切る。よく見ると、当たりくじの部分は袋の角にあって、四分の一の円が描かれていた。若女将はいつもそこをスパンと鋏で直線的に切るので、わたしはくじは三角形だとばかり思っていた。しかし、大将は大きなごつい手でていねいに鋏を動かしながら、きれに四分の一の扇のようなかたちに切り取ってくれた。
「やることがていねいだね」
 わたしが褒めても相手にしない。そーっとくじを開く。一瞬、目が見開かれた。次の瞬間にはガクッと膝が折れていた。
「当たっちゃったよー」
くじを開いたときの大将のポーズは、喜びではなく、がっくりというポーズだったのだ。
「やったやった、運がいい」
 わたしは、前日に鳥藤で飲みすぎたことも忘れ、酢漬けイカをもう一つただでゲットし、コップに山猿を注いだ。


九章・了

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