go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..七章

 あっという間のゴールデンウィークだった。
 突入前の予想通り、全国各地で高速道路は大渋滞になった。
 わたしは、休みを趣味の陶芸などでのんびり過ごした。おかげで、休み明けからすっきりした気分で職場に戻った。
「こんにちは」
「あー、いらっしゃい」
「おっす」
「久しぶり」
 関所に、いつものメンバーが戻っていた。
 わたしは、ガラスのコップに山猿を注ぐ。つまみは、250円の田吾作というせんべいだ。作っている途中で割れてしまったせんべいばかりを集めて大きな袋に入れて売っている。割れてしまったといっても、粉々になっているわけではない。せいぜい3つに割れた程度で、半分というのもある。運がいいと、割れていないせんべいもある。なぜ、このせんべいが袋に入っているのかはわからない。
 わたしは、ごまのついたせんべいが好きなので、田吾作の袋のなかから、ごませんべいの割合が多いのを探す。ときには、半分以上がごませんべいという幸運に恵まれることもあるのだ。
 せんべいをバリッと割る。口の中に頬張る。山猿を飲む。せんべいと日本酒が好きなわたしには、一日の終わり、疲れをいやす至福の一瞬だ。
「センセーってさ。教員の免許を更新しなきゃいけなくなったんでしょ」
シンロートの相田さんが、関所店内の端から端に届く声で質問をする。
 常連のみなさんの耳に、彼の大きな声が降り注ぐ。
「更新っていうか、10年間しか通用しない免許になったから、もう一度取り直すっていうのが正しい言い方だよ」
わたしも負けじと、みなさんの耳に大きな声を降り注ぐ。
「やっぱ、こういう普通のときに出張とか行って、パッパと講習を受ければいいんでしょ」
 いつもクラブやバーの彼女に、プレゼントをこまめに用意する相田さんが、そもそも何でこんな話題に興味をもったのか。アルバイトのホステスさんが、教員志望なのだろうか。
「それならいいんだけどね。8月とかこどもたちが休みのときに、まとめて大学に行くひとが多いと思うよ」
 ほかのお客さんには興味も関心もない話題だと思い、わたしはコップを持って相田さんの近くに行く。

 どうも。カチンと二人でコップを合わせる。
「わざわざ大学まで行くの。それって、交通費は出るわけ」
相田さんは、いつもは自分の話題で盛り上がるのに、きょうは畑の違う仕事に興味を持ち続ける。きっと、新しい彼女が教員志望なのだ。
「交通費も受講費も、全部自腹だよ」
「えーっ。そりゃひどい。運転免許みたいに、その日にパッパと手続きして更新なら、自腹でもいいけど」
「一日で終わらないんだよ。だいたい二年間も行かなきゃならないの」
「そんなに学校に行かなくてもいいわけ。大学生をまた経験できるのか」
やっぱり、相田さんは、ひとの話を聞いていない。
「あのね。10年ごとに二年間ずつ大学に入りなおす制度なんか作ったら、だれも教員にならないよ。金も手間もかかりすぎ。必要な単位数を取得するのに、こどもが登校しない時期を使うから、二年間は必要になるってこと」
「なんか、わかんねぇなぁ」
「俺だって、こんなあほな制度はなくしてほしいよ」
 焼酎にどぼどぼとウーロン茶を注ぎながら、相田さんは煙草を吸う。
「なんで、そんな無駄なことをするわけ」
 一般のひとには、ちゃんと無駄な制度だと理解できるのだ。
 それなのに、国の偉いひとたちには、必要な制度だと思っているひとがたくさんいる。
「俺だって、もし大学のときにこのことを知っていたら、絶対に教員なんかにはならなかったよ。10年ごとに失業の可能性と闘うんだぜ。たぶん、政府の偉いひとたちは、不真面目な教員とか、管理職の言うことを聞かない教員とかを、辞めさせたいのよ。そういう連中を、堂々と辞めさせる制度が作りたかったんだと思うよ」
「じゃぁ、センセーなんか、真っ先にクビじゃん」
ありがとよ。
「その証拠に、教頭や校長、総括なんかは、更新の対象じゃないんだぜ」
 なぜ一般の教員には免許の更新が必要で、管理職には更新が必要ではないのかというまともな説明を、教育委員会や文部科学省は拒否している。法律で教員免許は10年間しか有効ではないと決めたのに、それを過ぎても有効な特例措置を管理職に与える説明責任から逃げている。
 「管理職になる人間は、真面目で上の言うことに黙って従うから、更新の必要はない」と言えばいいだけなのに。
「総括って、なんだ」
 相田さんには聞きなれない言葉なのだろう。

 わたしは、山猿をコップに注ぐ。軽く口をつけ、喉をうるおす。
「前は、主任っていうのがいて、ひらと教頭の中間管理職だったのね。それがあまり機能しないんで、県が独自に作った階級だね。これは給料表を新しくしちゃったから、中間管理職じゃなくて、立派な管理職扱いになっちゃったわけ。ことしなんか、笑っちゃうけど、5人も総括がいるんだよ。そのうち、管理職ばっかになるかも」
「いや、そいつはねぇな。センセーだけは任命されないもん」
どうもどうも。
「そんなこと言ってる相田さんだって、ここに来るほかのひとたちが昇格しても、現職にとどまっているじゃん」
わたしも反撃を開始する。
「俺は偉くなりたくないの。時間が来たら、はいさようならがいいわけ。班長とか、主任とかになると、残業代もつかないし、若い連中に仕事を教えなきゃならないから、やなの」
 夕方からのプライベートな時間をこよなく愛する生き方。
 欧米では当たり前の生き方が、日本社会ではなかなか理解されていない。仕事一筋でやがて家庭崩壊、離婚、過労死という生き方が賛美される傾向は、まだまだ根強い。趣味は仕事と豪語する職業人が称えられる。
「俺も、相田さんと同じ。かんぱーい」
「そうなのかなぁ。なんか、センセーにうまくやり込められている気がすんだけど」
 そんなことはない。わたしは、そう言いながら手を振り、相田さんの場所を離れた。シンロートの山ちゃんたちが、風呂上りの上気した顔でやってきたのだ。
 いつものコーナーに行く。カレンダーを見た。
 先月は、カレンダーの新しい一升瓶のNマークを減らすことに、努力したけど、五つも並んだ。今月は、連休で関所に来ない日があることも含め、何とか四つにしたい。
 そのとき、カレンダーの裏の焼酎コーナーで、永田さんと東さんがにやにやしている。
「センセー、あれだな。たまには俺の飲んでいる高清水とセンセーの山猿を交換っちゅうのはどうだね」
永田さんが言う。
 永田さんはふだんは焼酎を飲んでいる。なぜか高清水を買ってしまった。ついでに山猿の味も知りたくなったのか。
「また、そういうこと、言うの。永田さん、その話、前にも、その前にも聞いたよ。俺は、山猿を飲む前はずっと高清水を飲んできたの。だから、高清水の味は知っているわけ。いまさら交換して飲まなくていいから、交換しない」
この返事も、いつもと同じだ。
「そっか、前に飲んでいたのか」
お願いだから、忘れないでください。単価にしたら山猿のほうが高いんだから、同じ量を交換したら、あなたが得をして、わたしは損をするのです。

 プラスティックのコップにビールを注ぎながら、東さんがにこにこしている。
「センセーは、焼酎は飲まないの」
わたしは、昔は何かを入れて飲んだが、いまは日本酒一辺倒だ。
「いまは、ほとんど飲まないなぁ」
「ビールもあまり飲まないんでしょ」
「炭酸が苦手なんですよ。だから、ビールを飲みすぎると、おならとげっぷがひどくなる」
「へー、喉にしゅわしゅわっていうのが気持ちいいんだけどな」
「センセーは、庶民の飲み物は飲まないってことか」
山猿を分けてもらえないから、永田さんは少しひねくれている。
「最近、日本酒の量が多くなったので、ほかに飲み物を用意しようと思っているんです。焼酎って、ぐいぐい飲まなくても、酔えますよね」
「ちょっと飲んで酔おうと思ったら、焼酎がいいよ」
東さんが教えてくれる。隣で永田さんもうなずく。
 わたしは、いくつかある銘柄のなかから「いいちこ」を手に取る。以前、いまほど日本酒を飲まなかったときに、いいちこを買って飲んだことがある。
「これ、お願い」
わたしは、若女将にいいちこを渡す。
「あら、珍しい。でも、センセーには焼酎は合わないと思うんだけどな」
「少し、日本酒の量を減らそうと思って」
「お酒を減らしても、その後で焼酎を飲んでいたら、アルコール量は変わらないんじゃないの」
おっしゃる通りです。
「このカレンダーのNマークを一ヶ月に4個以下にしたいんだよ。そうしないと飲みすぎだし、お金が持たないし」
「じゃぁ、今度は焼酎を買った日には、Sマークをつけとこうか」
 カレンダーにNだのSだののマークが入り乱れたら、出費を減らすことにはつながらないだろう。
「まぁ、何事も挑戦だから」
 自分でもよくわからなくなっていた。
「お、センセー珍しい」
わたしと反対側の洋酒コーナーで、相田さんと会社の話で盛り上がっていた山ちゃんが、わたしの買ったいいちこに気づいた。
「それだけで飲むと味気がないから、ビールを入れるといいよ。ほら、貸してみ」
山ちゃんは、わたしがいいちこを半分注いだコップを持って行き、自分が飲んでいるビールをコップに半分ぐらい注ぎ足してくれた。

 山ちゃんは焼酎のいいちこをビールで割ったわたしのコップを持つ。
「これが、いけるんだなぁ」
そう言いながら、コップをわたしに渡す。
「見た目は、ビールみたいだね。いただきます」
さっきまで透明だったいいちこ。それが、すっかり麦の黄金色に変わり、炭酸の泡がコップの内側についている。口に含む。味わいはビールと同じだ。
「うわぁ、これは飲みやすい。がんがんいけそう」
 関所の自動ドアが開く。配達を終えた大将が戻ってきた。わたしの手元を見て、にやっと笑う。
「珍しいもん、飲んでんじゃん」
語尾に、「じゃん」をつけるのは、湘南地方の言葉です。深い意味はない。
 やるじゃん、いけるじゃん、そうじゃん、違うじゃん、何でも通用する。
 もちろん、コチジャンや豆板醤とは、使い方が異なる。
「でも、これって、焼酎とビールだから、アルコール度数が高いよね」
山ちゃんは、出っ張ったおなかをポンと叩く。
「そ、だから気をつけなきゃ。ビールに赤玉ポートワインほどじゃないけどね」
 あれはひどかった、ぐでんぐでんになった。関所のあちこちから声が聞こえる。わたしの知らないときに、ビールに赤玉ポートワインを割るというブームがあったらしい。
「25度の焼酎に、7度のビールとして、32度のチューハイになるのかな」
わたしは、繰り上がりのある足し算を指を使って計算する。
「バカ言ってんじゃねえ」
レジの奥で聞き耳を立てていた大将が忠告する。
「じゃ、なにか。25度の焼酎、4つの銘柄をコップに入れたら、25×4で100度のアルコールになるわけ」
「そりゃないか」
「当然だろ」
 わたしは、コップを手にして、定位置に戻る。
 奥の扉が開く。
「お晩でがす」
大女将が、右手を軽く上げて登場する。
「こんばんは」
関所のメンバーが挨拶を送る。大女将は、上げた右手を声のする方角に向けながら、レジに入る。
「じゃ、食べてくるね」
入れ替わりに、大将と若女将が奥に消える。夕飯の時間なのだ。

 大女将が、若女将に夕飯のメニューについての事務連絡をする。
「おかあさん、すぐに戻るからね」
「いいよいいよ、ゆっくりしておいで。困ったときには、センセーに頼むから」
 何でもしますよ。
 お任せください。
 午後6時半から7時にかけて。関所の立ち飲みメンバーはすっかり出来上がっている。その時間帯は、一般の買い物客も多い。
「センセー、わりい、これ、いくらか調べて」
ビールの銘柄を確かめて、クーラールームの値札を確かめる。
「これに、ロング缶を5つお願い」
いつも同じ銘柄を買うお客さんのために、レジ袋に500ミリのビール缶を5つ入れる。
「あの上のタバコを3つ、取って」
タバコはケースに収納されている。上の棚のタバコは、大女将の身長では手が届かない。
 あるときは、気を利かせて、清涼飲料水を買いに来たお客さんのために、倉庫まで行き、6本入りのケースを運んだ。そうしたら、それは配達の注文だったので、ふたたび倉庫に戻しに行ったこともある。
 大女将には、個人経営の哲学やノウハウをいつも伝授される。
「自分でお店を始めるっていうのは、とっても大変なこと。だから、わたしは、近くで新装開店したところがあると、必ず買いに行くの。何があるかなんて調べないで。開店の最初の時期って、とてもお金がかかるのよ」
 かつて、大きな苦労をしてきた。その経験が、同じ苦労をするひとたちを励ましていこうという姿勢につながる。
 午後7時を過ぎると、山ちゃんや永田さんたちは帰っていく。赤坂さんも帰り支度をしている。
「食店さんとのつきあいでね」
飲食店のことを、業界では食店と呼ぶらしい。
「お酒やビールを入れるでしょ。うちはいまではほとんど現金にしているの。ツケ払いは、しない。こないだ、そこの新しい飲み屋さんのママがいらして、お酒を入れてほしいって言うから、うちはその場で現金扱いにしているけど、いいですかって確かめたの。そうしたら、ツケにしてほしいっていうから、申し訳ないけどって断ったわ。昔、大きくツケを貯められて、回収できなかったことがあったんだもの」
 商売は、信用第一というが、信用を崩す商売相手もいるらしい。
 甘いものが大好きな大女将。卒業式のときに父がプレゼントした紅白の饅頭を、いつの間にかひとりでぺろりと食べていたそうだ。わたしの家は、祖母も母もすでに他界している。反対に祖父や父が長く生きた。おっと父はまだ健在だ。
 だから、年配の女性との話は、何年も忘れていた感覚を思い出させてくれる。

 奥から若女将がふたたび登場。
 わずかな時間で家族の夕飯の準備と自分の夕飯を済ませてくる。
「これ、どうぞ」
手には、小鉢が乗っている。小鉢には、きょうの差し入れが盛られている。
「いつも、すみません」
「いいのいいの、おいしいって言えば、いくらでも出すから」
若女将のいつもの台詞だ。
「じゃ、わたしゃこれにて」
大女将が登場したときのように片腕を上げて、奥に戻っていく。
 わたしは、リュックから自分用の箸を取り出す。ちまたでは「マイ箸」と言うらしい。飲食店で箸を使うとき、多くは割り箸が用意してある。塗り箸が用意してある店は少ない。割り箸は、客が使った後に捨てられる。たった一食のために使われてゴミになる。地球温暖化とか、自然破壊とか、大きな自然問題は学者に任せる。わたしにできるゴミ減らしとして、自分専用の箸を持ち歩く。
 きょうの差し入れは、セロリの甘酢漬けだ。箸でつまんで口に運ぶ。セロリの風味と、甘酢の酸味が口のなかに広がる。
「うまい」
お世辞抜きに喜ぶ。わたしは、セロリは生でも食べるので、ドレッシングはいらない。でも、レモンや酢も好きなので、酸っぱさとミックスされたセロリもまたいい。セロリは見た目にも食感的にも繊維質のかたまりだ。しかし、やや独特な匂いがあるので敬遠するひとがいると聞く。もともとクレソンやバジルなどの香草が好きなので、わたしにはセロリの香りなんて、ないも同然なのだが。
 奥の扉が開いて、大女将が顔を出す。
「センセー、これ」
手には茶碗が握られている。
「あれ、これ、トン汁ですか」
「味噌が口にあうかどうかわからないけど」
「さっき、セロリもいただいたのに、申し訳ない」
わたしは、有難く、トン汁の茶碗を受け取る。大女将は、わたしにトン汁だけを渡して、奥に戻った。
 ありがとうは、ありがたいが語源だと聞いた。有難いと書く。あることが難しい。つまり、あまりありえないことに対して抱く気持ちなのだ。
 仕事帰りに立ち寄る関所。酒を飲み、言葉を交わし、セロリとトン汁をいただく。
 ありがたい。

 いつも、おいしいおいしいとばかり言っていると、進歩がないかもしれない。
 時々、せん越ながら、感想を伝えることもある。
 それが、その後の味付けに工夫されていることを知ると嬉しい。
 近くのスーパーで砂肝が安く出ることがある。
 これを湯通しして野菜を混ぜたサラダは、関所メンバーが待ちわびる一品だ。このドレッシングに、わたしは以前、無礼にも感想を述べた。
 というのは、みりんが使われていたからだ。
 みりん好きのみなさん、ごめんなさい。みりん生産、あるいは流通にかかわるみなさん、ごめんなさい。
 わたしは、いまはほとんど料理にみりんを使うことがないので、ドレッシングや出汁、タレにみりんが使われていると、素材の味がわからなくなるのだ。
 以来、若女将は砂肝サラダのドレッシングに、酒・醤油・ラー油を使うようになった。このドレッシングはとても砂肝の旨みを引き出す。
 ちなみに、みりんとは味醂と書く。
 半分が糖分で、14パーセントがアルコール分だ。たぶんわたしはこの甘さを感じてしまうのだと思う。そのため素材の味よりも、全体的に甘いイメージが口の中を支配し、違和感を覚えるのだ。
 もち米に米麹を加えて作る。焼酎や醸造アルコールをすぐに加えるので、麹菌によるアルコール発酵が抑制され、糖分が多く残る。もともとは飲み物だった。現在でも屠蘇や養命酒のベースになっている。
 熟成の初期からアルコールを加える製法は紹興酒に似ている。
 そのため、調理のときにみりんではなく、紹興酒を加えると、同じ効果が得られる。
 みりん風調味料は、1パーセント未満のアルコールに化学調味料や水あめなどを加えたもので、みりんとは異なる。また製法の違いから発酵調味料と呼ばれるものもみりんではない。ややこしいので、本来の製法で作られるみりんを「本みりん」と呼ぶこともある。
 つまりみりんの使命は甘みとアルコールなのだ。だから、甘みは素材から引き出し、アルコールはワインや日本酒など、アルコールそのものを使えば、みりんの役割を果たせる。

 砂肝は佐藤さんの大好物だ。
 砂肝は、鶏の胃袋の一部である。砂嚢と呼ばれるが、店では砂肝・砂袋・砂ズリなどと呼ばれる。
 鶏は食べたものを二段階方式で消化する。口に入れたものをガムでも食べるように何度も咀嚼している鶏を見たことはないだろう。鶏は、丸呑みする。
 だから、強力な胃袋を持っていないと、消化しきれない。
 最初の段階で「そのう」と呼ばれる胃袋に送られた食べ物が消化される。ここで消化しきれない食べ物が、砂肝に送られる。
 食肉業界の解体現場では、そのうは捨ててしまうそうだ。どんな味なのだろう。興味がある。さばいたばかりの砂肝は濃いえんじ色をしている。筋肉のかたまりだ。
 かたくて光るものを飲み込む習性があるので、貝殻やボルトなども口に含む。それらが砂肝の壁に刺さったまま解体される鶏もいる。それでも、からだが弱まるということはないそうだから、砂肝はかなり頑丈な作りなのだ。
 さばいたときに濃いえんじ色、つまり筋肉繊維が多いことを示す砂肝には、当然ながら鉄分が多く含まれる。肝、つまりレバーよりも鉄分は多い。貧血気味のひとで、レバーはちょっと苦手というひとには、砂肝がおすすめだ。
「お、ちょうどいいところに登場」
 わたしは、自動ドアの向こうで、手を振る佐藤さんを発見した。
「こんばんは」
 横浜で働く佐藤さんは、やや疲れた足取りで店内に入る。
「佐藤さんの口にあうといいんだけど」
若女将が奥から、さらに小鉢にセロリの甘酢漬けを持ってくる。
「砂肝かな」
佐藤さんは、やっぱり砂肝が好きなのだ。
「残念でした。きょうはセロリ」
 クーラーから高清水を取り出し、コップに注ぐ。
「きのうは来なかったでしょ」若女将の鋭い突っ込み。
「あれ、欠席届を出したのに」佐藤さんもやり返す。
「えー、覚えてないなぁ」
 わたしは覚えている。たしか、横浜スタジアムの仕事があると言っていたんだ。

 佐藤さんは、ぐいっと高清水を口に含むとゴクンと飲み込んだ。
「きのうは、一番やりたくない仕事だったんですよ」
週末も、地方の病院へ出張する熱血医師としては、めずらしく後ろ向きな発言だ。
「たしか、プロ野球の試合だったよね」
わたしは、数日前の記憶をたどる。
「そう」
佐藤さんは、もう一口、高清水を口に含みながら、うなずいた。
「横浜スタジアムで、選手がけがをしたときに、グランドに登場するドクター役なの」
「まさか、あれはチームドクターの仕事。わたしがやっているのは、球場の医務室勤務」
「医務室って、学校の保健室みたいなものかな」
「そうそう、あまり器材は充実していないけど、応急処置ぐらいはできるんだ」
「それが、どうしてやりたくない仕事なの」
わたしは、セロリを口に含む。
「まず、拘束時間が長すぎるんだよね。きのうなんて、試合開始前に、ルーキーズっていう映画の宣伝があって。出演者が登場するイベントがあったから、いつもよりも試合開始が遅れたんだよ。こっちは、そんな映画なんてどうでもいいから、野球をしてほしいのに」
長時間勤務のわりに、アルバイト料金が安いということなのか。
「試合が終わったのがきのうは9時45分。最後の客が帰って、球場閉鎖が10時半。石川町の駅が、10時45分だった。帰ったら12時前ぐらい。もうシャワーを浴びて寝るしかない」
長時間勤務で、からだが疲れるということか。
「だいたいお客さんのなかで体調不良を訴えるひとを診察するんだけど、もともと体調不良のひとは野球観戦には来ないでしょ。だから、医務室に来るほとんどのひとが、アルコール関係。飲み過ぎて気持ち悪いとか、吐いたとか、転んでけがをしたとかね。おまけに、無料だから、球場関係者が気軽に来ちゃう。風邪をひいているかどうかの確認とか、打ち身の湿布狙いとかね」
仕事のなかみに不満があるんだな。
「そういう仕事って、断ることはできないの」わたしは質問をする。
「球場に近い病院ということで、うちの病院が年間の契約をしていて、試合が開催される日に、交替で医者が行くことになってるんです。だから、仕事の一環というか、延長線上で考えられているので、断るのは難しいと思います」
 学校の世界も、教育委員会が主導して、教員の自主性を無視した研修や研究会への強制的な参加がたくさんある。仕事の一環なので命令が出されたら、行かなければならない。行政が企画する研修や研究会の多くは、民間教育団体の研修や研究会よりもつまらないし、得るものが少ない。何よりも、参加したくて行くものではないので、モチベーションが限りなくゼロに近い。
 佐藤さんが、やりたくないという思う気持ちに近いものがあるかもしれない。
「ただ、一つだけいいこともあるんです」
「えー、なになに」
「ふだん、あまり話をしたことのない看護師さんと、何時間もいっしょに医務室にいるので、病院の内輪話をたくさん聴くことができておもしろいんですよ」

 関所の外を部活帰りの中学生が、背中から疲れをにじませながら、帰宅する。
 数人で帰る者もいるし、ひとりが好きな者もいる。
 ひとりだからって、簡単に孤立していると考えるのは危険だ。疲れている肉体で、こころは気づかいながら、数人で帰るよりも、だれにも気づかいすることなく、ひとりで帰るほうが気持ちが楽なことだってあるのだ。
「こんばんは」
中学2年生のバレー部の女子が自動ドアから元気に入ってきた。
「あら、また少し身長が伸びたんじゃないの」
若女将は、女子の頭に手を乗せる。
「測ってみましょう」
「そっかなぁ、そんなに伸びた気はしないんだけど」
 ふたりは、奥の扉を開いて、柱のところで並ぶ。女子が柱に背中をつけて、若女将がマジックで線を引く。数ヶ月前に比べると、確かに身長は伸びていた。
「ほらね、こんなに伸びたじゃない」
バレーボールとかバスケットボールというスポーツでは、身長は最大の武器だろう。
 ふたりはレジに戻る。
 女子は、ポケットから携帯電話を出した。写真が保存されている画面を呼び出し、若女将に見せている。
「どのひとが彼氏なの」
「いまはいない」
女子は、平然と応じる。
「じゃ、一番最近付き合った彼は」
「この子」
彼は、この子呼ばわりされて、今頃くしゃみをしていることだろう。
「どうして、別れたのよ」
「浮気をしたから」
わたしと佐藤さんは顔を見合わせてふき出しそうになる。
 中学生どうしのつきあいとは、そんなに親密なものなのか。
 佐藤さんは、かばんの中から手帳を取り出す。
 これは、バスの時刻をチェックする儀式だ。だいたい毎日同じ時間に帰るのに、どうしていつもバスの時刻をチェックするのか、疑問だ。一時間に数本しかバスはないのだから、覚えてしまってもいいと思う。バスに乗らないわたしでさえ、だいたい覚えているぐらいだ。
「そろそろ、帰ります。きょうも、何も買わなかった」
自分の高清水以外は、サービス品を肴にしたという意味だ。

 それから数日間、わたしは日本酒以外に焼酎を飲むようにした。
 山猿は一日にコップ二杯まで。それ以降は飲まない。かわりに、焼酎を飲む。そうすれば、一升瓶は四日から五日はもつ。一ヶ月に四本という目標に近づく。
 酒量を減らすことが目的だったが、かわりに焼酎を飲むので、決して酒量が減ったことにつながらない。そのことに気づくまで、焼酎を二本飲まなければならなかった。
「センセーは焼酎は向かないと思うんだけどな」
若女将になんと言われようと
「そういうのって、なんかセンセーのスタイルと違うなぁ」
佐藤さんになんと言われようと、トライしたのだ。
 その結果、帰宅してからの記憶がぷつんと途切れ、翌日に胸焼けを経験することになった。日本酒だけのときは、翌日にまで持ち越すことはない。焼酎のアルコールが血液中から抜けないのだ。午前中は仕事をしても、呼気や汗からアルコールが漂っている気がしていた。
 だから、割るための飲み物を工夫した。あれこれ試してみた。ウコン茶で割ったら、健康にはよさそうだけど、まずかった。韃靼蕎麦茶で割ったら、飲みやすくなって危険だった。ノンアルコールビールで割ったら、焼酎ということを忘れて飲みすぎ、翌日に沈んだ。コーラで割ろうと思ったけど、きっと甘いだろうと思ってやめた。
 結果、500のペットボトルの「おーいお茶」が一番おいしいことに気づいた。500ミリも入っているので、一回の使用でなくならない。残りはクーラーに保存しておく。マジックで名前を書いて。そうすれば、翌日は山猿も焼酎もおーいお茶もクーラーから出して飲むので、新しく買う必要はない。財布から現金が出ていかない。節約につながる。
 その日も、山猿を二杯飲み、一升瓶をクーラーにしまった。かわりに焼酎とおーいお茶を取り出した。
「こりないねぇ」
「いや、こんな飲み方は邪道だと気づいたので、これがなくなったら、やめます」
ところで、お茶が重たい。
「あれ、きのうこれ半分ぐらいまで飲んだはずなのに、増えているよ」
「あー、それパパがね、間違えたのよ」
若女将にとって、パパとは大将のこと。
「配達を終えて、水分補給をするでしょ。いつも同じお茶を入れているから、センセーのをそれだと思ったのね。全部飲んで、ラベルをはがして捨てようと思ったら、そこにマジックで名前が書いてあることに気づいたわけ」
「全部、飲んじゃったんだ。じゃ新品を入れておけばよかったのに」
「それがね。もしもセンセーが来て、自分で名前を書いたお茶が勝手に処分されていたら気を悪くするんじゃないかって。たとえ、新しいのと交換されていたとしてもね」
 うーん、なるほど。読みが深い。

 鎌倉は、もうすぐ6月になる。
 あじさいがきれいな季節が訪れる。
 それが終わると、じっとしていても、肌から汗がわいてくる、湿気の多い夏が来る。
 こういう気温と湿度で、ばてそうな季節が近づくと、とてもスタミナのある料理を作りたくなる。そのとき、わたしの頭に浮かんだのは、ガラスープだった。スタミナがあるかどうかはわからない。でも、化学調味料を使わないスープを作って、朝食や夕食に使えたら、きっとおいしいだろうなぁと思った。
 30円のチキンラーメンは、酒の肴としてはおいしいけど、こればっかりを食べていたら、きっと血圧とカロリーのアップに貢献してしまうだろう。そんなことを考えながら、一口のチキンラーメンを頬張る。やっぱり、化学調味料系の味がする。その味に気づく舌を大事にしておこう。
 金曜日の関所。あしたは休みだと思うと、気持ちが楽になる。ひとりで山猿を傾けていても、こころは、ガラスープや手元のチキンラーメンを往復できる。
「そうそう、埼玉の母から手紙が来たのよ」
若女将が、水色の便箋を差し出した。
「こないだの返事かな」
わたしは、便箋を受け取った。
 以前、これまで書き溜めた関所の話をコピーした。それをホッチキスで留めて、若女将にプレゼントした。そうしたら、それを実家のお母さんに送ってしまった。離れて暮らす娘夫婦のことがよくわかったと喜んでくれたそうだ。
「ふだん、手紙を書かない母が、届いた荷物に手紙を入れていたから、びっくりしたのよ。最初、何を言っているのかわからなかったのね。よく読んだら、これはうちにではなく、センセー宛てってことがわかったの」
 わたしは、拝見させていただく。
 冒頭の下り。「いつも関所がお世話様になり有難く思っております」。
「ふつう、ここだけ読めば、自分宛てではないことに気づくでしょ」
わたしの言葉に、少しムッとする若女将。
「うるさい、うるさい」
 ゆっくり手紙に目を落とす。「先日、友達が来て関所の話に花が咲き、ぜひ読みたいとのことでしたので、コピーを渡したいと思っております」。
 わたしは、関所で繰り広げられる日常を記録しているだけだ。書記。語り部に過ぎない。
 それでも、こうして楽しみにしてくれている方が、遠くにいると思うだけで、書いていてよかったと感じることができる。
 登場人物はみなさん仮名だ。でも、知っているひとが読めばきっとわかっちまう。
 関所の出来事は、にぎやかで楽しいことばかりではない。でも、悲しいことやつらいことは、あえて多くのひとに届ける必要はない。当人の問題を、部外者が勝手に発信するのは、礼儀知らずというものだ。
 それでも、楽しみにしてくれている方がいる。
「ありがとう、よろしく伝えてください」
わたしは、水色の便箋を若女将に返す。
「いいのよ、これ、センセー宛てなんだから。もらっておいて」

 翌日の土曜日。
 わたしは、大船の仲通商店街で鶏のガラとばら肉を買った。ガラは二羽、ばら肉は500グラム。ガラは、鶏肉といえば大船でぴか一の「鳥恵」。一羽80円だった。ばら肉はにくの「たからや」で買った。大きなブロックでちょうど500グラム強。100グラム160円ぐらいだったと思う。
 帰宅してから、大きな鍋に水を張る。そこにガラ、ばら肉、ニンニク、生姜、ネギを入れて、煮込んだ。だいたい2時間ぐらい煮込んだ。仕上げにさっと鰹節を入れて出汁をとる。それらを冷ましてから、ペットボトルやタッパーに入れて保管した。だいたい5リットルぐらい作っただろうか。
 最初のスープで、翌朝、ラーメンを食べた。ガラスープに、味付けとして、塩と醤油と酢とオイスターソースを足した。市販のスープを使わなくても、十分に満足のラーメンスープができた。
 わたしは家族用に大皿に炒飯を作った。それにも仕上げにガラスープを混ぜた。
 いつも差し入れで関所にはお世話になっているので、ささやかなプレゼントを用意した。
 ガラスーププレーン。ガラスープ味付け。ウンパイロウ。煮豚。チャーハン。
 ガラスーププレーンは、文字通り、作ったままのスープ。これだけではコクのかたまりなので、味はない。
 ガラスープ味付けは、プレーンスープにラーメンスープで使った調味料を使って、そのままでも飲める味にしたものだ。
 ウンパイロウは、ガラスープを作るのに使ったばら肉を使っている。冷ましたばら肉を、薄切りにして、きゅうりとサンドイッチにする。醤油を少々混ぜたガラスープをタレにして食べる中華料理だ。
 煮豚は、スープで使わなかったバラ肉をいったん蒸す。脂が落ちたところで、細く切って、煮汁で熱する。落し蓋をかぶせる。煮汁は、ガラスープと酒と醤油で濃い目の味にした。
 炒飯は、商売の邪魔になってはいけないのでニンニクは使わなかった。
 それらを刺し子の布巾に包む。茶巾に入れる。
 10時半頃にそれらを届ける。
 レジには、大将がいた。こんな時間になんだろう。不思議な顔をしていた。
「いつもお世話になっているので、昼飯の差し入れです」
わたしは、用意してきたものを、レジに並べた。
「悪いねぇ〜」
大将にしては、珍しく、感謝の言葉だ。しかし、すべてを並べ終わったら、やはり。
「もっとほかにはないの?」
 ただでは済まない。

 関所に差し入れを置いて、わたしは大船に向かう。
 道中の陽気は夏だった。
 ルミネに行ったら、「みなとや」という古くからの酒屋が閉店していた。6月11日から、同じ場所に「源吉兆庵」という和菓子の店が開く。
 ユニクロで三足990円の五足を買った。ふだん葉山の「げんべい」という店のビーチサンダルをはいている。生ゴムだけを使用した足にやさしいビーサンだ。これが色落ちをして、靴下につく。だから、白や灰色系の靴下をはいていると、たちまちビーサンの色が足の裏に広がる。五足は黒や紺など、ビーサンの色が着いても目立たないものにした。
 自分でガラスープを作った。プロの味と比較しよう。
 テレビや雑誌の取材を断り続ける小さなラーメン屋「ことぶき」。
 ラーメンを頼む。じっくりスープを口に含む。
 やはりプロの味は、濃い。塩気と酸味が工夫されている。ただし、コクという見方をすると、オリジナルのほうが主張していた気がする。コクは料理に深みを添える。コクのない、あるいはコクの薄い料理は、どんなに調味料で味を調整しても、浅く感じる。素材の味が遠のく。
 わたしの作ったスープのレシピだ。
●ラーメンスープのレシピ
ガラスープ:500ミリリットル
酒:大さじ1
塩:小さじ1
酢:少々
オイスター:少々
醤油:大さじ2
●ガラスープ(5000)のレシピ
ガラ:2羽
バラ:300グラム
鰹節:10グラム
にんにく:3片
スライスしょうが:5片
あさつき:2本
 よろしかったら、参考にしてください。


 6月に入ったばかりの鎌倉は、気温が下がって、雨が続いた。
 もう梅雨かなと間違えるほどだ。
「こんばんは」
仕事の終わりが早かったり遅かったりして、わたしはいろんな時間に関所に到着した。
「センセー、きょうは遅いじゃん」
奥のビールやジュースがクーラーに入っている通路から永田さんの声がする。
「お仕事、お仕事」
わたしは、荷物を床に置く。
「ところでさぁ」
いきなり、ところでと言われてもなぁ。その言葉は、それまでの話の流れを変えるときに使う言葉でしょ。永田さんは、自分の携帯電話をわたしに見せる。
「これって、どうやって写真を撮るんだ」
 そんなこと、わたしに言われても困る。機種が違うし、会社も違う。
「たぶん、このボタンかも」
不安げに教える。
「なんだ、学校のセンセーは何でも知ってんじゃねえのか」
たとえ知っていたとしても、教える相手はこどもなの。ほかの場所では、脳ある鷹でいなくちゃ。
 しばらく待つ。画面が向こうの風景を写し出した。
「ほらほら、やっぱり、これだよ」
少し自信を取り戻す。
「で、どうすんだ」
少しは、自分で考えてよ、永田さん。
「この真ん中のボタンがシャッターになっているから、押す」
 永田さんは、携帯を動かしながら、被写体を探している。そのうち、画面に何も写らなくなった。
「おい、壊れたぞ」
そんなに簡単には壊れない。わたしは、携帯の裏側を永田さんに見せる。
「ここの小さな穴がレンズだよ。だから、ここに指が当たっていると、真っ暗になっちゃうの」
「ややこしいな」
 そう言いながらも、これまでカメラとして使ったことがなかった携帯の新しい機能に触れて、永田さんは嬉しそうだ。とりあえず、関所の店内を写した。
「で、写したもんは、どうすんだ」

 そこも知りたいのか。
「しばらく待つと、ギーッと音がして、どっかから、写真が出て来るのか」
携帯はポラロイドカメラではない。
「永田さん、そりゃ無理。第一、どこに印画紙がセットされているのよ」
「じゃ、どうすりゃいい」
「家にパソコンがあるかな」一応聞いてみる。
「そんなもん、触ったことない」聞いてみただけだよ。
「じゃぁ、もしかすると、このまま携帯を写真屋に持っていけば、現像してくれるかもしれない。でも、確かなことはいえない。そういう使い方をしたことがないんだ」
 永田さんにとって携帯で写真を撮影する意味とは何だろう。
「めんどくせぇな」
「そうしたら、この携帯自体をアルバムにすることもできるよ。撮影して、ときどき撮影したものを携帯の画面で確認するわけ」
「そりゃいい。じゃ、いま写したものもこんなかにあるわけ」
 きっと、永田さんにとっては不思議なことなのだろう。フィルムなしで写真が保存されているはずがないのだ。印画紙に現像しない写真なんかありえないのだ。
「そうだよ」
「見てぇなぁ」
 わたしは、データの機能ボタンを教える。かんたんにカメラのフォルダがわかった。そこを開くと、撮影した日付のついたフォルダが二つあった。
「あれ、永田さん、さっき写したばっかだよね。でも、二ヶ月ぐらい前にも写した写真が保存されているよ」
 永田さんの顔がうつむき加減になる。
「どうしてそんなこと、わかるんだ」
「だって、ここに写真が保存されているもん」
「ばれたか」
 容疑者を追い詰める刑事ではないので、そんなことを白状させても、わたしは嬉しくない。
「この以前の写真も見てみますか」
「おぅ」
 その写真を画面に呼び出した。
 わたしは、飲もうとした山猿をこぼしそうになった。
 そこには、永田さんのおそらく人差し指がでかでかと写っていたのだ。
「永田さん、これ、指だよ」
「そうみてぇだな」
ばつが悪そうに、永田さんは携帯をポケットにしまった。
「初めてのときって、ついついやっちまうもんですよ」
気にしないでください。
「センセー、これ内緒な」

七章・了

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