go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..二章

 冬至を過ぎた夕方、鎌倉の山並みは漆黒に包まれる。林道が整備されておらず、街灯がまばらなので、日が暮れると、木々の色合いは闇に溶け込む。
 モノレール線路が走るバス通りだけは、沿道に商店や病院が並び、ネオンがまぶしいが、一歩平行する裏道に入ると、5時半ごろでも自分の足元が見えなくなる。
「うわぁ、寒いねぇ。こんばんは」
わたしは、両手をこすりあわせながら、関所の自動ドアをくぐる。
「あ、お帰りなさい」
雑貨を買いに来た客におつりを渡しながら、若女将が応じてくれる。
「はい、どうも」
関所に入って真正面の一番目立つ位置で、首都リーブスの赤坂さんが後ろ手に立ち、お辞儀で迎えてくれる。
「あれ、センセー、遅いじゃん」
左側の商品棚の奥から、シンロートの相田さんの声がする。
「お仕事、お仕事」
わたしは、会釈を返しながら、いつものポジション、店内右手のレジ横に荷物を置く。モノレールに乗る前から尿意をこらえてきたのだ。
「すみませーん、トイレ、借ります」
返事も聞かずに、奥の扉を開き、トイレへと向かう。
 長い間、わたしは関所にトイレがあることを知らなかった。居酒屋ではなく、酒屋だから、客のためのトイレなどないと決め付けていたのだ。だから、飲んでいてトイレに行きたくなるのを避けるために、モノレールに乗る前に駅のトイレに必ず寄るようにしていた。しかし、そのために何度かモノレールに乗れないことがあった。
 あるとき、立ち飲み仲間が「トイレ借ります」と言うではないか。
 な、な、なに。ここにはトイレがあるのか。
 お店部分を除けば、もちろん残りは一般の住居だから、もちろんトイレはあるだろう。トイレを借りるというのは、その一般の住居部分のトイレを使うということか。それは、商売とは無関係の個人的な生活空間を邪魔することであり、わたしにはできないことだった。
 しかし、「トイレを借ります」仲間の行き先を観察すると、扉を開けて、どうやらすぐのところにトイレがあるらしい。扉の向こうにいきなり関所のみなさんの生活空間が広がっているわけではなさそうだ。
 初めてトイレを借りたとき、そのことを言い出すのに勇気が必要だった。思えば、昔から友だちの家に行ったとき、トイレを使いたいことを言い出せずによく腹痛を起こしたものだ。
 扉を開ける。柱に電灯のスイッチがある。上下式のわかりやすい黒いスイッチだ。それを点け、丸いノブの扉を開ける。ライトブルーの洋式便座がきれいに掃除されて鎮座していた。
 あー、これは家族だけでなく、間違いなく客が使うことを想定していると理解した。

 用を足して、店内に戻る。ちょうどそのとき外の仕事を終えて大将が自動ドアをくぐる。トイレから出来てきてハンカチで手を拭いているわたしをじろっと睨む。
「用もねぇのに、ひとんちのトイレばっかり使いやがって。今度からは一回につき20円の使用料を払ったらどうだ」
 用があるからトイレを使う。
 用もないのにトイレにこもって、何もしないで出てきたら、俺はかなり深刻なこころの問題を抱え始めている証拠だろう。
 でも、確かに「ひとんちのトイレ」であることには変わりない。昔、ひとんちのトイレを使えなかった記憶がよみがえる。掃除やトイレットペーパーの補充などを思えば、一回につきチップ程度の使用料を置いていくのは、いいアイデアかもしれない。うーん、それ以上に日本酒やよっちゃんの酢漬けイカ、ベビースターラーメンなどを買っていることを思うと、そこまですることはないか。
 トイレの心配をしないでよくなってから、わたしが関所に滞在する時間が確実に長くなっていることだけは確かだ。
 「おばんでガス」
奥座敷から、引き戸を開けて、大女将が登場した。
「よ、小泉」
元総理大臣のように右手をあげて歩く姿から、赤坂さんはいつもそう呼びかけている。
「やあねぇ。もう古いわよ。いまは、違うんだから」
確かに、あの総理大臣以降、もう何人も総理大臣が交代した。
「ちょっと先生、これ、運んで」
わたしは、大女将がレジに向かう道を作り、端によけていた。見ると、大女将の手には小鉢があり、イカの塩辛が盛られている。
「えーと、きょうは何人かしら」
大女将は店内を見回し、立ち飲み客の人数を数える。わたしに小鉢を渡すと、再び引き戸のなかに隠れ、両手に小鉢を持って再登場した。わたしや赤坂さんが手分けして、関所メンバーに塩辛を届ける。
「ごちそうさまです」
「いつも、すみません」
関所のあちこちから、お礼の言葉が飛んでくる。
 目の前で大きく手を振って、大女将は謙遜する。
「そんなに大したもんじゃないんだけどね。もらいもんだから」
わたしのように日本酒をちびちびやっていると、塩辛は最高の肴になる。焼酎やビールのひとも喜んで口に運んでいるから、塩辛はいろんなお酒にあうのかもしれない。
「そんじゃ、行ってくるね」
大女将と入れ代わりに、若女将と大将は引き戸の奥に消える。夕飯時間の到来だ。
 引き戸を閉めがてら、大将がチラッとこちらを振り返る。
「どうせ、俺は婿だから」
肩をつぼめ、威勢のよさはどこへやら。そんなことはないはずだ。大将は、大女将の息子さんなのだから。

 イカの塩辛をつまみながら、山口県の日本酒「山猿」を飲んでいる。
 気がつくと、シンロートの相田さんコーナーには、いつものように山ちゃんやうーさんがいて、会社の話題で盛り上がっている。3人ともその話題を本当にしたいのか、だれかが話題の中心にいて、そのリードにお付き合いしているのかはわからない。
 赤坂さんの周囲にも首都リーブスのメンバーが集まり、
「ぷはぁー、うんめぇ」
牛の鳴き声に似た感嘆の声を上げて、生ビールをごくりと喉に流し込む。
 みんな、きょうの肴は関所からの差し入れの塩辛だ。
 残念なことに、きょうは永井さんは別の用事があるらしい。6時半を過ぎて来ないときは、ほかの場所で飲んだくれているのだろう。
 近くに、なんだかいやな予感がして、そちらに目をやる。
 にやっ。烏丸さんが
「イカの塩辛はうめえなぁ」
そう言いながら、お得意の焼酎のウーロン茶割を飲んでいた。
 いつものように、難儀だなぁとさすけねぇを連発する烏丸さんに、適当に相槌を打ちながら、わたしはこれまでの差し入れを思い出していた。
 関所自前の差し入れは
「おいしいと言わなきゃいけないの」
という脅迫を、若女将から受けながら食べる。しかし、脅迫なんてしなくてもどれもとても美味い。とくに煮込み料理は、まだ味がしみていないというときでも、わたしには十分な味とやわらかさだ。具は大根、ぶり、牛筋、鶏皮など多彩だ。もしも白米があったら、十分に夕飯になってしまう。
 関所メンバーが、自分で作ったり、どこかに行ったお土産を持参したりすることもある。川崎大師の葛餅、成田山の鉄砲漬け。マグロのブツを、刻み生姜で煮込んだ手製料理を食べる幸運にあたることもある。
 もちろんだが、差し入れは毎日のことではない。たまに行って、差し入れの日ばかりに当たるほど偶然は続かない。また定期的なものでもない。期待してはいけないのだ。偶然のなかに、輝く好意が待っている。
 差し入れをいただく日は、酒をキープしていると、財布から金を出さないで帰るときもある。一円も払わないで2時間ぐらい、飲んで食って話して笑える関所が、よのなかにあるのだ。経験したひと以外は、だれも信じないかもしれないが。
 わたしは小鉢の底に残った最後の塩辛を楊枝に差した。時計は7時少し前。これを喰ったら帰ろう。コップの酒を計算する。うん、一口で飲める量だ。
 塩辛を口にして、山猿を流し込む。穀良都の芳醇な味わいが塩辛と混ざって、口の中に別世界を創造する。ジャンバーを着よう。床に置いたジャンバーを取ろうとかがんだ。
「あら、もう帰っちゃうの」
引き戸が開いて、若女将が再登場した。夕飯の支度が終わったのだろう。

 大女将が「ごゆっくり」と奥へ消えて行く。
 わたしも、リュックを背負って帰ろうと自動ドアへ向かおうとした。
「あ、先生、来たよ」
相田さんが大声を出す。
「いま、佐藤さんの話題をしていたところ」
赤坂さんも、笑顔で佐藤さんを迎える。そんな話題は聞こえなかったぞ。
「あら、どちら様。しばらく見ないから、名前を忘れちゃったわ」
すねる若女将。
 自動ドアがゆっくり開いて、佐藤さんが関所に入るまでに、怒涛の攻撃が彼を襲った。
佐藤さんは、目を丸く見開いて、何事かと立ちすくむ。わたしは、帰ろうとしていた動作を中断した。
わたしは、佐藤さんとは、出会ってから1年も経たない。しかし、出会いは遅くても、旧知の友のように感じている。佐藤さんがどう思っているかはわからない。
「早いじゃん」
わたしは、リュックを下ろし、ジャンバーを脱いで、再び関所の住人に早替わりする。佐藤さんは、レジの隣り、わたしの定位置の奥に荷物を下ろす。引き戸が開いて、夕飯を済ませてきた大将が顔を出す。
「お、きょうは何人、あの世に送ってきたんだ」
 佐藤さんは、横浜の総合病院に勤務する医師だ。
「えーと、何人だっけ」
指折り数えて、大将の突っ込みに即座にボケる。
 わたしは、クーラーボックスから、佐藤さんがキープしている秋田の銘酒「高清水」と専用コップを取り出して渡す。
「あ、どうも」
佐藤さんは、自分で栓を開け、コップに並々と日本酒を注ぐ。わたしも、しまったはずの「山猿」を取り出し、マイコップに日本酒を注ぎ、乾杯をする。
「きょうは、そんなに大きな手術が入っていなかったから」
 わたしは、佐藤さんと知り合って、医療従事者がものすごい激務をこなしていることを痛感した。プライベートな時間でも、病院から呼び出しがあれば即座に対応しなければならない。これまでに、飲み会の約束をして、実際に約束が果たされた試しがない。いつも、別件が入りキャンセルになってしまうのだ。
「すっかり、佐藤さんも、ここの住人になっちまったな」
赤坂さんが、やや呂律がまわらない口調で冷やかす。
「おかしいなぁ。こんなはずじゃなかったんだけど」
ぼそぼそと呟く。
「あら、それ、どういう意味。ここがいやってことかしら」
まだ若女将は、すね続ける。

 すべての医師がというわけではないのかもしれない。
 医療行政がずさんになって、病院の倒産や医師不足が深刻になっている。地方の中核病院でも、大きな手術に必要な医師が確保できないでいるという。
 佐藤さんは、毎週末になると研修の権利を使って、地方の病院にアルバイトに行く。栃木や長野、三浦に行く。新潟に行くこともある。日帰りできないときは、木曜に勤務を終えてから新幹線で行き、宿泊をして、地方の病院の求めに応じている。
 佐藤さんが登場して、やや奥へ場所をずらした烏丸さんが、またにやっと笑う。
「病院も難儀だなぁ」
うん、その難儀という言葉の使い方は正しい。わたしはこころのなかで烏丸さんに、赤ペンで○をあげる。
「まぁ、いまの時代は、病院だけではなく、どこも大変だと思いますよ。ただ、最近は、夕方が近づくと、ここに寄るために何時に仕事を終えて、片づけをして、着替えて、何時の電車に乗ればいいかと、頭のなかで計算している自分がいるんで、ちょっと困っているぐらいですよ」
「それ、常識」
わたしは、胸を張る。
 わたしも、勤務時間の終了が近づくと、急な仕事が入らないことを願う。お宅の生徒が万引きをしたので引き取りに来てほしいというスーパーからの通報。こどもがまだ帰ってこないので探しているという親からの相談。締め切りが過ぎている原稿がまだ届かないという教育委員会からの催促。
 およそ、授業とは無縁のことで、実際の学校は振り回されているのだ。そいういうひとたちに、教職員の勤務時間という意識はない。熱血教師がドラマで活躍する番組を見て、教職員は24時間休みなしと勘違いしているのだろう。ちなみに、教職員には超過勤務手当てはない。勤務時間を過ぎてからの仕事は、全部ただ働きなのだ。
「え、先生もそうなの」
ちょっと意外そうな顔で、佐藤さんがこちらを覗く。
「だって、求めに応じて、何もかも対応していたら、からだもこころも持たないって」
「まじめなひとは、それを無理してやるから、ある日、ぷつんときちゃうんだろうなぁ」
佐藤さんは、遠い目で呟く。病院にいると精神疾患の教員と出会うことがあるのだろう。
 ふたりで、杯を交わしているうちに、時計は7時をまわり、関所の住人たちは次々と帰っていく。
「そうそう、ここにのんびり来ると、みなさん、もう帰っているんだよね。だれもいないと、それは寂しい」
佐藤さんが、さっきまでにぎやかだった店内を見回す。
「やはり、職種は違っても、俺も佐藤さんも、ひとのために何かをしたいという気持ちが根っこにあって、いまの仕事をしているから、ひとのなかにいることが好きなんだよね」
わたしの言葉に、二度三度と佐藤さんは頷いた。

 大将が、関所の外になる商品を店内にしまい始める。そろそろ閉店の時間か。自動ドアを手動にして、閉じた。いつもよりも早い店じまいだ。
「はい、もうきょうはおしまい」
 何だか、いつもより早いな。佐藤さんが呟く。
 閉まった自動ドアの向こうで、これから関所に入ろうとする、ひとりの女性がいた。
 カンちゃんこと、神崎さんだ。
 カンちゃんは、閉まったドアを開けようとせず、透明なガラスに両手と自分の頬をあて、無言で「入れろ」と訴える。押しつけた頬が、ガラスで左右に伸び、つぶれた大福のようになっている。
「こっちのほうがいい顔してんな」
大将が茶化す。
 なるほど。閉店はフェイクで、カンちゃんが帰ってくるのが見えて、ドアを閉めたのか。
「こんばんは」
わたしと佐藤さんが、カンちゃんに挨拶をする。
「また、ふたりで飲んでるの。男どうしで、気持ちわりい」
おい、挨拶に応じろ。
 カンちゃんは、わたしと同い年だ。でも、それを認めない。早生まれのわたしは、4月以降に生まれているカンちゃんにとっては、学年がひとつ上だから、年上扱いなのだ。いいおとなになって、学年を持ち出されるとは思わなかった。
 カンちゃんも、佐藤さんに劣らず、東京で、世のためひとのために日夜働いている。勤務先が遠いから、どうしても関所到着は遅くなる。きょうだって、佐藤さんが来なければ、わたしはたぶん帰っていたから、会わなかっただろう。最近、カンちゃんに関所で会うことが多くなった。それは、関所にいる時間が長くなったことの証明だ。飲みすぎに注意しなければいけない。
「俺はいつものように飲んでいた。佐藤さんも仕事を終えて、ここに来た。別に約束をして飲んでいたわけじゃないよ」
うんうん。佐藤さんは頷く。
「あれ、センセー、少し太ったんじゃない」
おい、説明に反応しろ。
「生でいいよね」
若女将がプラスティックコップを出して、サーバーから生ビールを注ぐ。それを受け取り、ごくんとカンちゃんは、喉ごしを楽しむ。
「きょうも、変なやつがいてさぁ」
レジに両肘をついて、立っているのがやっとですと言いたげに、全身の疲れを放出する。世のためひとのために働いていると、どんな仕事でも、変なやつや嫌なやつに出会うものだ。そういう愚痴を、吐き出させてくれる関所の役割は、どんなメンタルヘルスよりも大きい。

 きのうは、カンちゃんや佐藤さんと飲みすぎた。
 いや正確には、きのうも、というところだ。
 週末の土曜日は、近くの工場が休みなので、関所は静かになる。わたしは、大船で買い物をした帰りに関所による。いつものように暗い時間ではなく、まだ夕刻前の明るい時間だ。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
若女将が元気に迎える。
「きのうは、飲みすぎたでしょ」
「うん、帰ったら、バタンキューで、風呂には今朝入ったよ」
「わたしも、付き合って、飲みすぎた。夜なんか足元がフラフラだった」
「そういえば、年末の立ち飲みはいつまでだっけ」
「えーっと」
カレンダーを眺めて、曜日と日付を確認する。
 いつ頃からかは知らないが、年末は立ち飲みが禁止になった。わたしが、関所に来る以前に決まったルールらしい。年末は、一般のお客さんに加えて、歳暮や進物などを求めてくる特別なお客さんが登場する。そういうひとたちにとって、店内で品物を選ぶときに、ビールや日本酒を片手にした呑み助がたくさんいると、気分を害してしまうかもしれない。
 関所じたいは、大晦日まで営業している。工場関連の立ち飲み仲間はもう少し前で年末の休業が始まる。それよりも早い時期に、立ち飲みは禁止になる。だから、それ以降、仕事納めまでの数日間は、みんな夕方をどうやって過ごすかと頭を悩ませる。まっすぐ帰宅すればいいものを、だれの頭にもその答えは浮かばないらしい。
「どうも、こんにちは」
自動ドアが開く。颯爽とスポーツウエアを着こなした山中さんが登場した。
 すでに現役を引退した年齢だけど、若いときに国体に出場した水泳で鍛え上げた肉体は、いまも健在だ。近くの市立温水プールでの水泳を欠かさない。山中さんは、料理も得意で、マグロと生姜の煮物やイカの塩辛など、関所への差し入れのご相伴にわたしはあずかっている。
 上気した肌で、生ビールを一気に飲み干す。炭酸が苦手なわたしには、まねができない芸当だ。
 山中さんを見ていると、わたしも定年になったら、このひとみたいに元気でいたいとこころから思う。元気でいれば、趣味を生かした楽しいことに挑戦できる。仲間と会って酒を飲める。
「先生は、そのぅ、宇宙とか生命とかって、詳しいの」
プッ。飲みかけた山猿を吐きそうになる。山中さんは、前触れなしに、核心に迫る。

 わたしは、いきなり山中さんに、宇宙や生命について詳しいのかと聞かれ、どう返事をすればいいのか迷う。ここで、多少は知っていると応じると、きっと質問攻めに遭う。その結果、大して知らないことが発覚し、なぁんだという落ちに着く。反対に、あまり知らないと応じると、きっと山中さんの講釈攻めに遭う。どこかで何らかの情報を得てきたから、こういう質問になったのだろう。自分が得た情報を伝えたくて仕方がないのだろう。しかし、その情報を正確に伝えきる自信があまりないので、どうしようかと迷っているのかもしれない。
 コップを、日本酒が置いてある棚の開いたスペースに置く。
「まぁ、小学校の理科程度のことなら、何とか」
本職なんだから、この言葉に嘘はない。
「そっか、じゃ、一つ教えてほしいんだけど」
あれ、単純な疑問から質問しているのかな。
「月っていうのは、太陽の光が当たって光って見えるんだろ」
わたしは、うなずく。そのうなずきを見て、山中さんは、自分でもうなずく。
「じゃぁ、ほかの星も、あーんなにたくさんあるほかの星も、みーんな太陽の光が当たって光って見えるわけ」
あちゃー。そんなことになったら、太陽は超巨大な燃える天体でないと間に合わない。地球なんてとっくに融けている。
「もしそうなら、太陽ってすごいよね」
すごいというレベルを通り越し、恐ろしい天体になるだろう。
「何か、そういうことを知りたいと思ったきっかけがあるんですか」
この話の出所を知らないと、どう答えていいかがわからない。
「きのう、テレビを見ていたらさ。いや、途中からなんで、よくわからなかったんだよな。最初から見ても、わからなかったかもしれないんだけど」
やけに、謙遜している。確かに、情報番組を途中から見ると、文脈がわからないから、何のことだかわからないことはあるだろう。
「そこでさ、太陽はもうすぐ燃え尽きるって言ってたのよ。これは大変だぞって思ったわけ」
それは大変だ。恒星が燃え尽きるとき、最後の瞬間に膨張し、超新星になって周囲の星は、巻き添えを食う。
「いつ頃、燃え尽きるって言ってました」
「そこなんだよ」山中さんは、パチンと両手を打つ。「その大事な部分を聴こうと思ったらコマーシャルになっちまってさ」
最近のテレビ番組は、やたらにコマーシャルを入れたがる。
「その間にトイレに行ったのよ。そうしたら、トイレに行っているうちに、コマーシャルが終わって、いつ太陽が燃え尽きるのかの説明をやっちゃったんだな。だから、俺がトイレから戻ってきたら、もう違う話になっていた」
 土曜日の夕闇が迫っていた。わたしは、関所で臨時定時制小学校を開校することになった。
 2008年が暮れていく。
 一年を振り返ると、仕事場と家庭の次に、関所にいる時間がとても多かった。酒を飲んでいる場所としては、自宅よりも関所のほうが時間的に多かったかもしれない。晩酌が減って健康にいいのか悪いのか。関所で飲んでいるのだから。
 もうすぐそれぞれの仕事の最終日が近づく。
 その日の関所は、近づく前からにぎやかな声が道路まで響いていた。最近では、どの仕事も不景気で、関所に名前も顔も知らないひとはあまり来なくなった。でも、きょうは年末が近づき、大船で忘年会をする予定のひとが多いのかな。それまでの時間を、関所で軽く飲んで過ごそうとしているのかな。想像が頭をめぐる。
「こんばんは」
 果たして、関所は大勢の呑み助で占領されていた。かろうじて、わたしの定位置、レジ横の通路が空いている。
 赤坂さんも、相田さんも、うーさんも、永田さんも、山ちゃんも、烏丸さんも、顔を真っ赤にして、出来上がっていた。きょうの関所がいつもと違うのは、さらに大勢の呑み助の一団が入口近くで盛り上がっていたことだ。この一団の声が、道路に響いていたのだ。
 よく見ると、その一団は南米のひとたち特有の表情をしている。赤坂さんに、目で合図を送る。赤坂さんは、わたしの視線に気づいて、一団のことと気づき、うんとうなずく。
「うちの会社の仲間」
赤坂さんが手招きをして、一団のなかのひとりを呼んだ。
 大声で缶ビールを片手に、英語ではない外国語で盛り上がっていた一団のなかから、リーダー格の男性が、わたしと赤坂さんのところにやって来た。
「こいつは、派遣社員なんだよ。だから、きょうで仕事が終わり。来月はもういないんだ」
赤坂さんが、その男性の肩を叩きながら教えてくれた。
 日本経済が、どん底の不況に陥っていた。政治無策の影響で、企業は派遣社員や期間社員を一方的に解雇し、失業者を増大させていた。テレビや新聞の向こうで語られる情報が、わたしの目の前で現実化した。
「ローリー、このひとは先生。うまくやれ」
赤坂さんはそういってローリーをわたしに紹介すると、少し離れたところに行ってしまった。うまくやれって、だれに言ったの。しかし、ここは国際協調。無下にはできない。
「ローリーって言うんですか」
「そうです」
流暢な日本語だ。よく見ると、ローリーはわたしと身長はあまり変わらないのに、胸板がボディビルダーのように厚く、腕も筋肉がびっちり張り付いていた。小さな毛糸の帽子がかわいい。
「わたし、いくつに見えますか」
「いくつって、年齢ってこと」
「そうです」

 わたしはローリーの肌理(きめ)や皺を観察した。若い肌をしている。やや目じりと額の皺が目立つ。苦労の多い人生を歩いてきた証拠だ。
「35歳かな」
「センセーさん、嬉しいね」
ローリーはわたしの名前を、センセーという音だと勘違いしている。
「もっと上なの」
ローリーは、親指を立てて、下から上にこぶしを上下させる。わたしは、少しずつ年齢を上げて答えたが、どれも外れだった。結局、たどり着いたのはわたしよりも4歳も上の年齢だった。
「信じられない。全然、そんなふうに見えないよ」
お世辞ではなく、こころからわたしは驚く。ローリーは、にやっと笑って、ニットの帽子を脱いだ。そこには、ふさふさの髪の毛の代わりに、やや地肌が見え隠れした少な目の髪の毛が乗っかっていた。肉体は若く見えても、髪の毛はごまかせないでしょ。ローリーは、そのことを言いたかったのかもしれない。
 ローリーは、帽子をかぶりなおす。ズボンのポケットから定期入れを取り出し、カードを見せてくれた。「外国人登録証」と書かれたカードには、ローリーの顔写真が貼ってある。
「こりゃまた、ずいぶん、若いなぁ」
「こりゃまた、こりゃまた」
わたしの反応が意味不明らしい。その顔写真は、おそらくローリーが来日したときの写真のままだろう。髪の毛がふさふさしている。登録証を返却した。
 わたしは、山猿をコップに注ぎ、ローリーと乾杯した。ローリーは缶ビールを飲んでいる。
「故郷(くに)は、どこ」
わたしは、日本にいる外国人と話すときは、なるべく日本語を使うようにしている。欧米人のなかには、ところかまわず母国語で喋り捲り、相手がわからなくてもおかまいなしのひとがいる。ここには、郷に入らば郷に従えということわざがあるのだよ。この考えを貫き通すとしたら、わたしが外国に行ったら、その国の言葉を使わないと矛盾する。だから、わたしは、極力、外国には行かない。もちろんパスポートも持っていない。日本語でさえ不十分なのに、これ以上の言語を覚えるには脳が年を取りすぎた。
「ペルー。知ってる、ペルー」
語尾を上げて、ローリーが言う。ペルーぐらい知ってるわい。でも、南米のどこかと言われると、かなりあやしい。太平洋に面している細長い国はチリだったよな。大西洋に面した大きな国はブラジルだったよな。あれー、どの辺だろ。
 確か、南米のひとたちの祖先はアジアやアラスカ、シベリアと遺伝子レベルで近い存在だったはずだ。どうりで、ローリーは日本人には見えないが、肌の色や骨格がアジア系を思わせる。
「いつごろ、こっちに来たの」
「いつごろ、知らない。30歳のとき、こっちに来たよ」

 わたしが計算してあげよう。彼の現在の年齢から30を引けばいいだけだ。
「うわぁ、もう19年にもなるんだね」
「そう、長いよ」
「ペルーの言葉は、何語だっけ」
 南米は、スペイン語かポルトガル語のどちらかだった記憶がある。
「言葉、エスパニョールね」
「エスパニョール、なんだそれ。スペイン語かい」
「スペインは、エスパニョールよ」
 よくわからない。エスパニョール、キンチョール、エルニーニョ。似たような音の言葉が頭を通り過ぎるけど、関連性が見えない。
 まぁ、いいや。
「日本語が上手だね」
「わたし、こっちに来て、なるべくペルー人とは喋らない。日本人がいると、日本人と喋るようにした。そして、言葉、覚えた。でも英語はだめ」
 よ、ペルー人、ローリー。さすが。
 こういう外国人労働者によって、日本の生産業や加工業は支えられてきたのだ。不景気になったからといって、真っ先に使い捨てのように派遣労働者を解雇する経営者には、彼のような地道な努力は永遠にできないだろう。
 お金をかけないで、日々の生活の中に学びを見つけていく。言葉の習得とは、本来、そういうものだろう。塾や家庭教師から英語を教わっているお坊ちゃんやお嬢さん、英語を知りたければ、英語を話す国に行って、汗水流して労働をしてごらんなさい。もっとも、世界中でもっとも多くのひとが喋っている言葉は中国語だからね。どこに行っても英語が通じると思ったら大間違い。ローリーはペルー語と日本語が達者だけど、英語は知らないでしょ。
「こっちで稼いだ金を、故郷の家族に送っているの」
 ローリーは、缶ビールを持たない手を顔の前で振る。
「お父さん、お母さん、もう死んだ。お兄さん、ペルーでお医者さん。お金ガッポガッポ」
 日本でもペルーでも医者は儲かるのか。
「わたし、奥さんとこどもにお金を渡すよ」
「結婚しているんだね。渡すっていうことは、家族で日本で暮らしているの」
「そう、鶴見。知ってる、鶴見。電車に乗るよ」
 鶴見の小さなアパートで、ペルー人夫婦がささやかな幸せを育んでいる姿が目に浮かぶ。その幸せを日本経済という魔物は、雇用調整などというひとを機械の部品と同じような扱いにして、就労機会を奪っていく。
「来月から仕事がなくなるんでしょ。どうするの」
 そんなことをわたしに言われても、ローリーはどうしようもないことはわかっている。

 しかし、ローリー本人は暗くない。
「奥さん、働いているよ」
「え、奥さんが働いているの。共稼ぎかぁ」
「奥さんも、仕事がなくなるってことはないの」
「大丈夫。日本人だし、社員だし」
 おや、ローリーは日本人と結婚しているのか。奥さんの話題になったら、ローリーの目は輝いた。
「それに、ピッチピチだし、綺麗だし」
なんか、話の流れが違う方向に行きそうだ。
「ローリーは、いつ結婚したんだい」
仕事柄、ついついプライベートなことに立ち入ってしまう。プロファイリングを開始する。
「40歳のとき。工場で班長をしていた。お前あっち、お前こっち。そこ何してる。これはこうやる。日本人に仕事を教えていた。そこに彼女がいた。ひゅー、お姉さん、きれいね。髪の毛は帽子の中に入れて。大変な仕事はボクがやるから、休んでいていいよ。そして、結婚した」
話をするローリーの目は宙を舞い、輝かしい記憶が脳裏に鮮明に映っているのがわかる。嘘をついている顔ではない。夢のような思い出に酔っている顔だ。夫婦の出会いを思い出すたびに、こんなに純情に盛り上がることができるなんて、うらやましい。
「彼女は30歳だった」
「ちょっと待て、ローリーが40歳で、奥さんになるひとは30歳だったの」
ローリーは、なかなかのプレイボーイだ。
「そして、こどもができたんだ」
「ノン、最初からこどもがいた。2人いた。女の子と男の子」
彼女にはこどもがいたのだ。それを承知で、ローリーは結婚したんだ。離婚したのかもしれない。未婚のまま、母になったのかもしれない。
「もう、こども、大きい。大学生と高校生。でも、かわいいよ」
 いまの日本で、大学生と高校生を同時に抱えると、とても親としてお金がかかることは、わたしが痛感している。大丈夫か、ローリーファミリー。
「ローリーは、奥さんとの間に、自分のこどもは作らないの」
 ローリーは、静かにうなずく。「どうして」と目で聞く。
「もしも、自分のこどもができたら、いまの2人のお父さんではいられなくなる。自分のこども、かわいい。いまの2人のこどもよりも、かわいくなってしまうから」
 わたしは、目頭が熱くなった。
 ローリーは、本物のプレイボーイだ。
 きみのようなひとを窮地に追いやる日本政府。その日本政府に税金を納めるひとりとして、わたしは深々と頭を下げ陳謝する。
 元気でいてください。ローリーの目に、こころで話しかけた。

 冬休みに入った。
 わたしは、年休の残りを消化するために学校には行かないで休暇を取る。
 大船で本屋をチェックし、「ことぶき」でラーメンを食い、「大船珈琲館」で読書をした。優雅な時間を過ごし、午後の明るい時間に関所に足を運ぶ。
「こんにちは」
「あら、きょうは早いわね」
「まったく、仕事もしないで、給料ばかりもらいやがって」
若女将と大将がレジでくつろいでいた。
「きょうは、リーブスのひとも、シンロートのひとも忘年会とか言っていたね」
静かな店内で、わたしはクーラーからいつもの山猿を取り出す。
 よっちゃんの酢漬けイカを30円で買う。
 若女将がはさみで当たりくじを開く。
「また、外れ」
「ことしは、一回も当たらなかったなぁ」
 レジ横の定位置でよっちゃんを肴に、山猿を口に含む。
 お客さんが次々とタバコや進物を買いに来る。関所は宅配便も扱っているので、進物を注文して、送り状をつけて行くひとも多い。
 シンロートの相田さんや山ちゃんは、今夜は最終前の電車に乗れるのかな。酒を飲まないうーちゃんも忘年会には参加するのだろうか。
 首都リーブスの赤坂さんは、年明けには仕事が半分以下になると言っていた。派遣の次は、下請けが切られると心配顔だった。今夜は自棄酒になるのだろうか。
 清掃業の永田さんは、この時間も病院内でごみの分別をしているのかな。
 医師の佐藤さんは、年末の手術の準備があると言っていた。「基本的に医療に年末年始は関係ないからね」。休むことよりも、働くことで元気になれるひとだ。
 忘年会をみんなでやろうよと言っていた神ちゃんは、きっとこの時間も東京で、世のためひとのために働いているのだろう。そういえば、わたしに相談したいことがあると言っていたけど、その話は年越しになりそうだ。
 宇宙の話で盛り上がった山中さんは、スイミングで肉体を鍛え、溌剌としているかな。今度は人類の誕生について知りたいと言っていた。少し、参考書を探して予習しておこうか。
 わたしの腹をなで「センセーさん、もっと鍛えて、ムチムチにならなきゃ。女のひと、寄ってこないよ」と笑ったローリーは鶴見で仕事を探しているだろうか。
 「難儀だなぁ。来月は病院からお呼び出し」とつぶやいていた烏丸さん。病院に行く前に憂いなくウイスキーのウーロン茶割を飲んでいるかな。
 関所の仲間がいなくても、わたしにはそこにひとりひとりの顔が見える。声が聞こえる。いまは一年の終わり。きっと年が明ければ、また思い出に浸る余裕などないほど、にぎやかな関所が復活することだろう。

二章・了

Copyright©Y.Sasaki 2000-無断引用はご遠慮ください