go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..八章

 ことしの湘南地方は、梅雨に入っても、しとしと雨が続くことがない。
 雨が降ると、風を伴い、大雨になる。それが翌日には、カラッと晴れ上がり、夏のじめじめした蒸し暑さが空気を占領する。
 関所の自動ドアの向こう。アスファルト道路を隔てて、コンクリートの壁がある。関所の向かいの施設は、関所の位置よりも数メートルも高い場所にある。コンクリートの壁の上は低い樹木で覆われている。そんなかに、山百合に似たかたちの花が空に向けて、五つの大きな花びらを広げていた。
「あの花は、何ていう百合なの」
わたしは、割れせんべいを手にしながら、若女将に聞く。
「たしか、ニッコウキスゲじゃないかしら」
 百合にしては、色が鮮やかな黄色でおかしいとは思っていた。なるほど、ニッコウキスゲか。わたしが商売柄、修学旅行で行く日光で何度も見ているニッコウキスゲは、あんなに大きくない。きっと、湘南の温暖な気候では、たくましく大きく育つのだろう。
 きのうは一つ咲いていた。きょうは、となりにもう一つ咲いている。
「あら、佐藤先生、早いわね」
ドクター佐藤が、手荷物を持って仕事から帰ってきた。
「未明に急に呼ばれて」
きっと病院から急な呼び出しがあったのだろう。佐藤さんは、クーラーから高清水を取り出す。
「お疲れさまです」
わたしもクーラーから山猿を取り出して、ガラスのコップに注ぐ。
「早く出勤して、そのまま病院にいたんですか」
「いえいえ、とりあえずの応急処置をしたら、帰りました。それから、いつものように出勤したんです」
ひょぇー。
「じゃぁ、眠いんじゃないのかな」
「そうね。3時ごろ過ぎたら、ボーっとしちゃって。だから、きょうは早く帰らせてもらったんです」
それでも、まっすぐ帰宅はしないんだなぁ。
「そういえば、こないだの日曜日は無事に田植えがすんだんですか」
佐藤さんは、地元で自然公園をフィールドにしたボランティア活動に参加している。
 参加。そんな受身な存在ではなく、代表を任された年度もあったぐらいだから、かなり中心的な存在だ。
「それがね。テレビ局が来たの」
佐藤さんの目が丸く輝いた。

 てっきり、地元のケーブルテレビ局の取材だと思った。
「こんにちは。あれ、二人とも珍しく早いな」
首都リーブスの赤坂さんが、仕事帰りにやってきた。
「いつもは、赤坂さんのほうが早いのに、きょうは逆ですね」
佐藤さんが、少し嬉しそうに自慢する。
「赤坂さん、佐藤さんたち、テレビに出るんだって」
「そりゃ、すげぇ」
赤坂さんは、奥の大きなクーラーから缶ビールを取り出す。ふだん、日本酒しか飲まない赤坂さんが、350ミリリットルの缶ビールを飲むようになると、季節は夏だ。
「そんな大したことじゃ、ないんですけどね」
佐藤さんは、いつも謙遜する。
「どこのチャンネルに出るの」
わたしは、質問する。
「むかし、10チャンでニュースステーションっていうのをやっていたでしょ。その後、報道ステーションって名前を変えたんだけど」
「あー、古館さんがキャスターをやっているやつ」
そうは言っては見たものの、最近、10時前には寝ているので、どんな番組か、わたしには正確にはわからない。
「そうそう、そのなかのお天気コーナーなんですけどね」
「あれか、田植えの季節になったとか言いながら、天気を放送するわけ」
赤坂さんが想像をふくらませる。
「なんだか、最近は、お天気キャスターも大変みたいで。スタジオで原稿を読んでいればすむわけにはいかなくて、折々の行事を体験して季節感をテレビを見ているひとに伝えるのも仕事みたいなんです」
「ということは、谷戸の田植えを体験しに、キャスターが取材に来たの」
「えー」
言いながら、うなずく佐藤さんの頬が紅いのは、高清水に酔ったからではないだろう。何か、楽しかった思い出が脳裏に浮かんだのではないか。
「最近のキャスターというか、お天気お姉さんというのは、有名な大学を出て、気象予報士の資格を取って、しかも美人なんですよね」
ホラホラ。佐藤さんは、取材とは関係なく、田植えにちゃんと集中できたのだろうか。
 テレビの取材。非日常が、ボランティア活動に入り込んで、いつものペースを乱したのではないだろうか。ひとは、お祭り的日常に弱い。
「しかも、朝から田植えの準備をしてきて、最後まで、いっしょに体験していきました。番組で流れるのは、きっとわずかな時間だと思うんですよ。番組作りというのは、時間と手間がかかると感じました」

 わたしも10年ぐらい前に、フリースクール活動で、テレビの取材を受けた記憶がある。何日間も、いや何ヶ月も取材に来た。
「その田植えの様子は、いつ放送されるの」
赤坂さんが、佐藤さんに確認する。でも、赤坂さんは、帰ったらテレビを見ないでウイスキーを枕元に置き、寝てしまうはずなのに。
「たしか、きょうのお天気コーナーって言ってたような」
「ずいぶん、早いんだね」
わたしは、驚く。ま、でも田植えに行ってきた話をするのに、収穫の頃に放送しても意味はないか。
 後日、聞いてみよう。谷戸でボランティアをするひとたちの活動が、電波に乗って、全国の茶の間に届く。その届き方はどうなっていたのかを。もしかすると、画面には田植えに勤しむ佐藤さんが映っているかもしれない。こっそり、カメラ目線で。
 わたしは、関所正面の日本酒コーナーに足を運ぶ。
 最近、ホームページに「関所コーナー」を開設した。新しい商品をチェックして、勝手に宣伝をしているのだ。
「あれ、山猿に、違う銘柄があるよ」
「やっと、気づいたのね」
奥から、新生姜の酢漬けを皿に盛って、若女将が出てきた。
「うわー、生姜、うまいんだよな」
「この時期の生姜は、格別ですね」
赤坂さんも、佐藤さんも、山猿には興味がないらしい。
「これ、ニホンバレって読むのかな」
 新しい山猿は、ラベルが白い。そこにおなじみの味わいのある書体で「山猿」と書かれている。漢字の上に、日本晴れ使用の活字。わたしがふだん愛飲している山猿は、穀良都と書いてコクリョウミヤコと読む酒米を使っている。酒米が違うのだ。
「日本晴れは、わりとほかの日本酒にも使われている米だぜ」
いいところに気づいたと言わんばかりに、大将が注文聞きから戻って教えてくれた。新しい山猿は、日本晴れを使い、本醸造と純米酒の二種類があった。わたしは、携帯電話をカメラモードにして、早速撮影した。値段は、穀良都よりも500円ぐらい安い。これはお手ごろだ。
「どうする、そろそろ終わりそうだから、次はそっちにしてみるかな」
若女将は、わたしが入れている山猿の残り量を把握している。
「まだ、ちょっとあるから、もう少し飲んでから考えるよ」
「遠慮するなって、こっちで処分しておくから」
大将が、右手の親指と人差し指で猪口をもつ格好をした。

 新生姜の酢漬けを楊枝で刺して、口に運ぶ。
 口のなかで、酸味が広がり、唾液が舌の両脇からあふれ出る。その唾液に包まれて、生姜のうまみがあまみへと変身する。ボリボリと食べてから、喉に流し込む。食道を通過したら、山猿で追いかける。
 酒のうまみが、生姜のあまさを連れて、いっしょに胃袋に滝となって落ちていく。
 日本酒を飲んでいて、一番、幸福感にひたるひとときだ。
 佐藤さんは、バス停の前の小さな窓こと「鳥藤」に向かった。今夜の放送に間に合うように帰られればいいのだが。
 赤坂さんは、「最近、弱くなった」と咳き込みながら、フラワーセンターのバス停を目指して関所を後にした。
 奥のコーナーには、いつもにぎやかなシンロートのメンバーがいない。不景気の波は、特殊塗料メーカーにも影響を与える。今月は、金曜だけでなく、月曜も休みの週があるという。
 わたしは、縦長のカレンダーを見て、ボールペンで印をつける。
「今度、二十日に築地に行ってきます。もしも、何か注文があれば、考えておいてね」
「あら、何がいいかしら」
 前回の買出しから二ヶ月以上が過ぎていた。キムチやジャコが底をつき、わたしの食生活は悲しいものになっている。生の魚はさすがにあっという間に食べてしまう。しかし、日持ちする食材は、築地のものが安くてうまくて量が多い。スーパーで30グラム500円ぐらいで売っているようなジャコは、高すぎる。築地ではキロ単位でグラム400円前後のものが最高級品だ。
 自動ドアが開く。尻尾を振って、大型犬のミッキーが関所に入る。首からかかるひもを手にして、飼い主の中島さんが入店した。
「よ、元気か」
大将が、クーラーボックスからチーズを取り出す。
 待ってましたとばかりに、ミッキーが大将の前に鼻を突き出す。しかし、口元にチーズを持って行くまで、大将の手元からチーズを奪って食べることはしない。しつけができているのだろう。
「こないだ、関所の話を会社のひとに見せました」
えーっ。どういうこと。
「センセーがインターネットでここのことを小説にしているって教えたのよ」
若女将が教えてくれた。
「ぜひ、あの小説の中のテッチャンとお話がしたいと思いました」
中島さんは、わたしよりも年上だ。大将たちと同年齢かもしれない。
「中島さんも、鉄道が好きなんですか」
好き。そんなレベルじゃありませんよと言わんばかりの目じりで、生ビールを口に運ぶ。
 年季の入った鉄道ファンだと確信した。

 わたしと中島さんと大将が、ひとしきり鉄道談義に花を咲かせる。
「あーあ、つまんない。わけ、わかんない」
若女将は、正直な感想とともに、ため息をつく。
 横須賀線や東海道線の旧車体の話題。わたしはてっきり現在のアルミ車体の前の話かと思っていた。しかし、よく聴くと、中島さんも大将も、さらにふたむかしぐらい前の車体の話をしている。
 自分が雑誌や映画でしか見たことがない車体は、実感がわきにくい。ましてや、蒸気機関車の話題になると、わたしには古典としか言いようがない。
「番組でも、横須賀線を取り上げたんですよ」
「番組って、メディアの仕事をなさっているんですか」
わたしは、こんなに身近にテレビ番組制作スタッフがいたとは思わなかった。
「いえいえ、鎌倉市から委託された市民チャンネルに協力しているんです」
 何しろ、さっきから何杯か山猿を飲んでいるわたしには、正確な状況判断は困難になっている。中島さんの正体は、いまの状況では理解しづらいだろう。ただ、どうやら本業は別にあって、ライフワークとして市民チャンネルの番組制作に携わり、さらにむかしからのテッチャンらしいことはわかった。
「以前の番組なんですが、サイトに公開してるんですよ」
「わー、見よ見よ」
ため息をついていた若女将が元気になって、パソコンのスイッチを入れた。
 その番組は、スカ色と言われたアイボリーと青の二色に塗られた、鉄でできたむかしの横須賀線が、ステンレスアルミ車体に変わることを伝えていた。北鎌倉や明月院近くの線路際からの撮影とともに、すでに姿を消しているむかしの車体が鉄道模型として走行していた。HOゲージと呼ばれる縮尺のように見えた。
「この模型も中島さんが制作したんですか」
「えー」
とても満足そうにうなずいている。
 わたしは、最近は時間がないのを言い訳にして、鉄道模型は走らせていない。しかし、お金のなかったこどものとき、模型店のウインドーにかじりついて、鉄道模型が走り続けていた光景を眺めた。いつか、お金を稼ぐようになったら、お店にある鉄道模型を全部買って、専用の部屋を作り、思う存分、模型を走行させるぞと願った。その夢は、一部はかなったが、ほとんどはかなっていない。
 模型専用の部屋をもつなど、いまのわたしには許されない。
 お店全部の模型を買う。仕事につけば、それぐらいのお金を稼ぐだろうと思っていた自分が情けない。宝くじにでも当たらなければ、全部を買えるわけがない。それぐらい鉄道模型は精巧で高価だったのだ。

 関所は火曜日が定休日だ。
 シンロートメンバーが月曜日も休みになってしまった。不景気は、社会の隅々にまで広がり、長引いている。
 だから、木曜日に会うと、次に顔を合わせるのが水曜日。約一週間後になってしまった。去年は、いや半年前までは、火曜日と週末を除けば毎日会っていたのに。
 つくづく不景気が、よのなかに与えるマイナスの影響を考えてしまう。
 ひとは、日常を繰り返していくことで、こころもからだも安定させている。少しの変化が、不安をもたらし、こころとからだのどこかに小さな影響を与える。
 さらに、ひとはひとのなかで生きている。孤独とはともだちになれない。
 不景気を理由に従業員から仕事を奪う会社は、仕事のない日にはアルバイトを認めればいい。わたしのような公務員は、給料が減った分、労働時間を短くしてほしい。労働時間以外では、アルバイトやほかの仕事をしていいように法律を改正してほしい。
 勤労意欲はあるのに、働かせないで、給料だけを少なくする。このクニがよくなるはずがない。
「こんにちは」
 水曜日の関所はにぎやかで好きだ。
 正面に赤坂さんが陣取る。奥のコーナーに、永田さんや烏さん。左のウイスキーコーナーに、シンロートのメンバー。最近は、わたしがふだんいるソーセージと焼酎コーナーに名前を知らない首都リーブスの方が固定している。
 なんにせよ、にぎやかなのは楽しい。
 だいたいわたしが定時に職場を出て、関所に着くのが5時40分ぐらい。横浜で病院に勤務し、5時過ぎに退庁する佐藤さんが着くのが早くても6時半ごろ。その間に、このにぎやかなメンバーの多くは、家路に着く。にぎやかな時間と静かな時間が潮の満ち引きのように繰り返す。
 佐藤さんが登場する6時半以降は、近隣の方やスイミングをした帰りの中山さんが訪れる。さらに7時半過ぎまで長居をすると、東京でよのためひとのために働くカンちゃんが登場して、さらに帰り時間が遅くなる。
「ちょっとつついてみて」
若女将が持ってきたのは、コロッケだ。
「どうしたの」
「東京の娘がたくさん作ってきてくれたのよ」
 長女さんは、東京で結婚して暮らしている。ときどき関所を手伝うために里に戻る。そのときにたくさんの料理を作る。まさか、それを立ち飲みのメンバーが食べているとは思わないだろう。
「ごちそうさま」「ありがとう」「ソースはどこだぁ」
関所のあちこちから、感謝の声が上がる。
 わたしは、何もつけないでアツアツのコロッケにがぶりと噛みついた。

 30歳を過ぎたときに、わたしは高血圧で倒れた。そのときは上が200を超えていた。
 通院しながら、医師のアドバイスを受け、塩分や醤油を使わない食事をこころがけた。
 いまでは、お刺身に醤油をつけない。餃子はもちろん、そのまま食べる。かまぼこは塩分が多すぎるので、それ自体を食べない。
 わたしは、祖父母に育てられた。長野県長野市に生まれた祖母。岩手県八戸市に生まれた祖父。必然的に食卓は味の濃いもので占められていた。祖母は78歳のとき、クモ膜下出血で亡くなった。お新香に醤油をかける生活だった。炊きたてご飯に塩をふって食べたこともある。
 40歳を過ぎた頃から、糖分も控えめにした。それまでと同じように食べていたら、代謝が悪くなったので、消費しないで残ってしまうカロリーが多いことに気づいたのだ。
 いまでは、最高血圧が110を超えることはめったにない。
 そして、何よりも舌が敏感になった。味つけをしないか、少ししか味をつけない料理を食べていると、味覚が敏感になる。そのうちに、どんな料理を食べても同じ味が混ざっていることに気づいた。それは、あの化学調味料だ。ここで、あえて商品名をいうと営業妨害になるので触れない。
 それ以来、あえて、化学調味料を使わない調理や料理にこだわるようにした。すると、食材のうまみを感じられるようになってきた。これは、鶏がらや豚ばら肉を使ったスープ作りや、鰹節やジャコを出汁をして使う調理方法などに活かされている。
 化学調味料は、レトルトと呼ばれる食材に多く使われている。また、安価なレストランや食堂でも使われている。意外にも、わたしの好きな中華街の多くの店は化学調味料をふんだんに使っている。
 だから、完全にあの共通する「うまみ」から逃げ出すことはできない。しかし、自ら調理する料理ぐらいは、食材のうまみと自分の腕で味の勝負をしたい。
 若女将が出してくれた長女さんが作ったコロッケ。それをがぶりと噛みつき、もぐもぐと咀嚼した。ジャガイモのふんわりした感覚。舌に広がるイモのあまみとうまみ。コロッケはレシピ本でも砂糖を使うケースが多い。しかし、わたしの感じた味にはほとんど糖分はない。あったとしても、わずかな量しか使っていないのではないだろうか。
「こりゃ、うめぇなぁ」
奥のコーナーから、永田さんが感動の声を上げる。
 やはり、おいしいものは年齢を問わないのだ。ふと、空になった永田さんの皿を見たら、ソースがたっぷり。
 あれでは、このコロッケの売りになっているイモのやさしさが、ソースの強さに負けて、わからない。もったいない。でも、おいしさはそれぞれのものだから、わたしの価値観を押し付けるつもりはない。ただし、いつか飲食店をオープンしたら、テーブルに調味料は置かない。使わせないのだ。
 あまりにもイモがうまかったので、思わず残り半分のパン粉やつなぎを断面で観察した。こだわりの長女さんなら、パン粉も外国産の安いものではないかもしれない。そう思って、残りを堪能しながら、口に運んだ。

 若女将が空になった皿を片づける。
「どう」
わたしに、味を聞く。
「すごい、うまかった。いただいちゃって、申し訳ないぐらい」
「それは、喜ぶわ。娘の旦那もね、料理が好きなひとなのよ」
 そうでしょう。コロッケのような日常的なおかずにこれだけの心遣いをこめられるのだから、ご主人が理解あるひとでないと価値を高められない。
「前に、センセーが出汁をくれたことがあるでしょ」
「うん」
 鶏がらと豚ばら肉を煮込んで、万能スープを作ったのだ。それをペットボトルに詰め替えて、関所にプレゼントした。
「あれでラーメンスープを作ったときに、娘の旦那が、これはちゃんと出汁を取っているってわかってくれたの」
「それはすごい。かなりいい味覚」
「いつかね、こっちに来て、小料理屋みたいのを開きたいみたいよ」
 おそらくわたしよりも20歳近く若いだろうご主人。その年齢から、いい味を舌に覚えさせておけば、きっといいお店が開けるだろう。
 ぜひ、夢を実現してほしい。
 いや待て、わたしもいずれは飲食店をオープンしたいと思っているので、競合してしまうな。
 関所の自動ドアが開く。
 佐藤さんが、右手を上げて登場した。
「佐藤さん、ほら、センセーがお待ちかね」
ウイスキーコーナーの奥から、からだの大きな相田さんが佐藤さんに挨拶をする。
 おいおい、わたしは男色の趣味はない。
 若女将は、奥からコロッケを出す。
「どうしたんですか、これ」
カバンを下ろし、クーラーから、高清水とコップを出す。
「東京の娘が作ってくれたのよ」
「すごい、うまいよ」
わたしは、太鼓判を押す。
「熱いうちに食べるのが礼儀だよ」
わたしは、割り箸を佐藤さんに渡す。
「佐藤先生は、ソースは使わないのか」
奥から、永田さんが中濃ソースを手に現れる。

 佐藤さんは、わたしの顔をチラッと見る。
「やっぱり、あれですか。このコロッケは、何もつけない方が」
わたしは、佐藤さんに血圧の話で食の改善をしたことを、以前に伝えてある。だから、うまいものには味つけをしない、がまんできないほどまずいときだけ味つけをするという、基本ルールを知っている。
 わたしは、もちろんと目で伝え、うなずいた。
 中濃ソースを手にした永田さんを傷つけないように、佐藤さんは「ありがとうございます」とソースを受け取った。そっと、それを冷酒の棚の奥にしまう。
 佐藤さんも、がぶりとコロッケに噛みついた。ややずり落ちたメガネを左手の中指で押し上げる。
「や、これはおいしい」
 それを聞いて、レジの若女将と大将は笑みを浮かべる。
「ところで、昨夜は報道ステーションで流れたの」
わたしは、田植えの様子を取材に来たというお天気お姉さんのことを思い出した。さっき、佐藤さんの顔を見るまで忘れていたくせに。
 これを、わたしの業界ではラベリングと呼ぶ。忘れてしまうかもしれない記憶。それをいったん忘れても、思い出させるラベルを、わたしたちの脳は、記憶に対してつけていく。
 ラベルは、どうでもいい記憶にはつかない。天気予報とテレビ放送、田植えの様子。これらのキーワードでは、わたしの脳は反応しなかったかもしれない。しかし、佐藤さんが熱弁した美人で有能なお天気お姉さんという存在が、脳にラベルを貼らせた。
「それがね。ちゃんと流れたんですよ。でも、あれだけ長時間撮影して、えっこんだけ?っていう短さでした」
 きっと、録画したひとたちが多いだろう。たとえわずかな時間でも、自分たちの活動がテレビを通じて流れたという経験は、こころの財産になる。
「佐藤さんは映っていたの」
「お姉さんの後ろのほうで、ボーっと突っ立っている感じで」
「手かなんか、振らなかったの」
「そんなこと、できやしません」
 やはり、佐藤さんはシャイなのだ。わたしなら、踊っているかもしれないのに。
「そうだ、佐藤さん、また築地に買出しに行こうと思っているんだけど、何か買って来ようか」
「いつですか」
わたしは、縦長のカレンダーを指差す。
「その日かぁ。ちょうど遠くに行っているので、今回はパスします」
佐藤さんは、週末になると、専門の麻酔の技術を活かして、地方の病院に泊まりこむ。麻酔医を常駐させられなかったり、ひとりしかいない麻酔医の休みの日に困っていたりする病院をまわるのだ。
「でも、ジャコはお願いします」

 6月20日土曜日。
 わたしは、前夜から気合を入れて朝を迎えた。何しろ、午後8時前に寝たのだ。だから、3時半に目覚めたとき、頭もこころもすっきりしていた。金曜日だというのに、お酒も絶った。
 そこまで気合を入れるのは、この日が築地への買出しの日だからだ。
 わたしは、以前から、家族や仲間と食材を持ち寄り、何かの記念日や互いに都合のいいときに食事会をしてきた。こどもたちが大きくなり、母が他界してからは、家族での食事会の回数は減った。互いに時間をやりくりして顔をそろえることが難しくなったのだ。全員の血液型がB型なので、そういう機会が少なくなることを、寂しいとか残念とか感傷にひたる感覚の持ち主はいない。だから、家族の食事会は減っても、仕方がないと、それぞれが納得している。
 仲間との食事会も、最近はそれぞれの都合がなかなかつかなくなってきた。それでも一年に数回は実施している。それぞれの得意料理を食べるたびに、いままで自分はどれだけレストランや飲食店で、味の濃い料理や素材の悪い料理を食べてきたのだろうと思い知らされた。
 だから、わたしにとって、仲間との食事会は、将来、自分で飲食の店をもつときのための練習であり、勉強であり、修行でもあるのだ。
 食事会は、仲間の家を転々と会場にしていた。そのうちに、仲間本人ではなく、そのひとの母親が腕をふるうケースが発生した。その仲間の家での食事会になると、お母さんが登場して
「あー、その包丁の握り方、見てらんない」
「なにそれ、それじゃ、魚の食べるとこ、なくなっちゃうじゃないの」
わきから料理人にプレッシャー。挙句の果てに
「ちょっと、どいて。わたしのやるのを見てらっしゃい」
こうなるのだ。
 この仲間には妹がいる。名前の一部をとって、あーちゃんと呼ばれている。あーちゃんは妹だから、わたしの知り合いの仲間はお姉ちゃん。ふたりの母親はお母さんだ。残念ながら、ご主人は3年前に亡くなった。
 わたしは、お母さんに魚のさばき方から、餃子の皮の包み方、酒の飲み方、握り寿司の握り方など、多くを学んだ。何しろ、教えてくださいと頭を下げなくても、師匠の方から、あーしろ、こーしろと指示を出してくれるので、自尊心やプライドがひとよりも少なければ、だれでもいい弟子になれるのだ。
 そのお母さん、お姉ちゃん、あーちゃんとともに、築地に買出しに行く。
 約束の時間はお母さんの家に午前5時。遅れようものなら、何を言われるかわからない。
 二日酔いで車を運転したら、次の食事会の格好のネタにされてしまう。
 中学、高校、大学と体育会の運動部で先輩後輩の上下関係のなかで、わたしはもまれてきた。そのときの緊張感に似た真剣さが、早朝の買出しにはみなぎっているのだ。

 ジープのチェロキーは、車庫でアメリカ車特有の大きなエンジン音を上げていた。
 まだ外は暗い。
「おはようございます」
小声で、荷物を入れるリュックを持ってきたお母さんに挨拶をする。以前、大声で挨拶をしたら、「隣近所に怒られるからいい加減にしなさい」と指導された。
 大船を午前5時に出発する。車は、神奈川県立フラワーセンターを左に見ながら、玉縄の山間を抜け、国道一号線に合流した。ここからは、首都高の銀座出口まで信号を気にしないで運転できる。助手席のお姉ちゃんが、料金所に着くたびに、小銭を用意してくれる。妹のあーちゃんは仕事が忙しいので、後部座席で二度寝をしている。
「きょうは、どこから注文が入っているの」
お母さんが、後部座席から質問をした。
「えーと。関所と佐藤さんと鳥藤とうちです」
「ずいぶん、たくさんの注文をとるようになったのね」
「あ、忘れていた。赤坂さんからもです」
「だれ、そのひと」
「関所のメンバーで、首都リーブスで働いているおじいさん」
「いつもお店の正面にいて、黒っぽい服を着ているひとかしら」
「そうそう。かなり目立つと思います」
 お母さんは、犬の散歩で関所の前を通過する。そのときに、わたしの酔い加減もチェックしている。ひとのつながりの濃い地域では、壁には目や耳だけでなく、口も手も足もありそうだ。
 車は横浜新道から首都高横浜羽田線へ。ランドマークタワーを右手に見ながら、羽田の地下トンネルへと突入して行く。空港を抜け、湾岸線をかすめながら、銀座出口へと向かう。
 その頃には日の出を迎え、窓外はかなり明るい。
 築地本願寺わきを徐行し、築地市場の交差点から場外へと入場して行く。ターレーと呼ばれる三輪車が狭い場外を荷台に発泡スチロールに入った品物を乗せて、客の待つ駐車場やお店へと走り回る。バスのハンドルよりも大きいと思われるハンドルとアクセルを上手に操りながら、ターレードライバーは、車とひとの間をすり抜けて行く。
 左に波除神社を見ながら、右折する。目指す築地第一駐車場の入り口で、空車の表示を確認する。時計は6時を指していた。大船を出発してから、ちょうど1時間だ。
 これまで、わたしは何度か運転を失敗し、自分でどこを走っているのかわからなくなったことがある。ひどいときは、湾岸線をひた走り、千葉まで行って戻ったこともある。到着が遅れて、場内の大渋滞のなか、駐車場が空くのを何分も待ったこともある。同乗していたお母さんたちには、そのたびに迷惑をかけた。
 そんな失敗のおかげで、最近はほぼ1時間弱で確実に築地第一駐車場に入庫できるようになった。
 失敗しても、責めないで、いっしょになって次の一手を考えるお母さんたちに支えられてきたからだ。

 第一駐車場は4階まである。6時に到着しても1階が空いていたことはない。いままでの記録では2階以上だ。きょうは3階に入庫した。
 まずトイレに行く。場内にもトイレはある。しかし、とても汚い。そして混んでいる。駐車場のトイレで膀胱を空にしておけば、尿意に耐えながら魚を選ぶ必要はなくなる。
 生産者が品物を運び、せりを行うせりがある。以前は、一般のひとも見学に入れた。わたしはお母さんの顔で、マグロのせりを見学したことがある。
 お母さんは、いまは退職した。以前は、築地場内のマグロの中卸店で働いていたのだ。完全に男社会の築地で、女性で初めてマグロのせりに立った歴史的人物なのだ。これっぽっちもそういう自慢をしないので、わたしはずっとお母さんの偉大さを知らないまま、築地に行ったときは、荷物運びの付き人のように、後ろを追い掛け回していた。
 せりで値段が決まった商品は、中卸の店に運ばれる。中卸の店は、場内と呼ばれる扇形の大きな屋根に覆われた一帯に、所狭しと並ぶ。ほんの小さな区画で、権利料金が一千万円以上というから、驚きだ。
 場内は、扇の骨にあたる通路を大路と呼び、大路と大路は、かすがいのような横筋の道で結ばれている。大路も横筋もいくつもある。いくらか大路が道幅は広いが、おとながふたり並べる程度だ。横筋になると、ひとひとりがやっとの道幅になり、すれ違うには注意を払う。すれ違ったはずみで店先の商品を落としたり、触ったりしたら、店主から怒鳴り声が飛ぶ。すれ違うために、少し長く店先で立ち止まると「買わねえなら、さっさと行きやがれ」と店員に脅される。
 おもに場内は、プロの仲買人が買い付けに来る。魚屋の主人、料亭の女将、すし屋の板前。もっと大きなスーパーなどの鮮魚担当者というケースもある。また、中卸や卸の従業員が、自分のおかずを買うこともあるようだ。
 最近は、市場の冷え込みが響き、場内はプロだけでなく、観光客や学生も増えた。デジタルカメラ片手に、新鮮な魚介類を撮影する。そのために立ち止まる。以前なら、罵声が飛んだが、ウエルカムということらしい。
「シャッターを押しましょうか」
愛想のいい店員も登場した。
 しかし、英語やドイツ語、フランス語で、堂々と質問をする外国人観光客に対しては、いまもむかしも強気の返事をしている。
「日本語を覚えてきやがれ」
手の甲を手前から向こうに振って、あっちへ行けと追い払う。たいていの外国人は、両手を広げて、オーマイガッ。その威勢のよさに、わたしはこころのなかで拍手を送り、とぼとぼ帰っていく外国人の大きくて高い背中に、ざまーみろと目で語る。
 これに対して、中国語や韓国語を話すひとたちはたくましい。あっちへ行けと追い払われても、意に介さない。
 アンニョンハシムニダァ、ニィハォ。ワタシ、スコシ、ニホンゴ、ワカル。
 嘘つけ。店主が何を言おうと、商品を手に取り、財布からお金を出そうとするのだ。そして、決まって、値引き交渉。日本では、手にしたら、商品が置いてあったところに戻してはいけないことを、出国する前に、ぜひ教わってきてほしい。

 場内の外側に広がる雑貨や食店、材料店などの総称が、築地場外だ。
 一応、場内の商品を買った小売業者の店という触れ込みだが、実際はどうかはわからない。だって、刃物や調理器具は場内では売っていないのに、場外には専門店が多い。また、新鮮で安い肉屋も多いのだ。わたしが知る限り、場内で扱う生き物は魚介類と野菜と果物だと思うのだが。
 一般の観光客は、場外の名だたる握り寿司店に行列を作る。築地市場が視界に入る場所。その立地条件を考えれば、まさかシャリの上に乗っているものが、近くのスーパーで買ってきたものとは思わないだろう。しかし、本当に場内で買われたものかどうかを確かめる方法はない。そして、意外と値段が高いのだ。場内の魚介類は、小売に出る前の段階だから、当然、魚屋やスーパーの鮮魚コーナーに出るよりも安い。それが握り寿司になったとたん、その値段はないだろうと思うほど、高価な代物に変身している。
 トイレを済ませて、まずは場外から目的の買い物に行く。
 場外で買うものは、保存が利くものが多い。だから、早めに買っても腐ることを気にしなくていいのだ。お母さんたちは、海苔専門店で大判の海苔をいつも買う。次に、波除神社のはす向かいにある鰹節専門店で、削り節と粉節を買う。わたしは、パックに入った削り節を買う。ここの削り節は、息子も好物で、冷凍のたこ焼きを温めては削り節をてんこ盛りにする。たこ焼きよりも、削り節のほうが価値があることに、いつか気づくだろうか。どら焼きや草もちがおいしい「茂吉」の店頭で、お姉ちゃんとあーちゃんが相談をしている。茂吉の並びには、牛丼チェーン店の「吉野家」の本店(一号店)がひっそりと開店している。
「オレ、キムチを見てきます」
お母さんに告げて、漬物専門店に行く。1キロ1200円のキムチ。白菜の半分を使ったものだ。市販されている、ふたのついたプラ容器に3個分ぐらいの中身が取れる。しゃきしゃきとして甘くて辛い。我が家の冷蔵庫のレギュラーだ。
 キムチをぶら下げて、待ち合わせの緑茶専門店でお母さんたちと合流した。店頭で、高価な緑茶を試飲できる。作りたての緑茶は、喉とこころを潤す。わたしは、そこでいつも鳥藤ママの注文のお茶を買う。100グラム500円の粉茶。以前は500グラムの注文だったが、今回は奮発して1キロの注文だった。500グラムの粉茶の袋を2つ持って奥の台場に行く。
 緑茶が大好きな鳥藤ママは、スーパーであまりおいしくない緑茶が1000円ぐらいの値段で売っていることを日ごろから怒っている。わたしが、おいしくて500円のがあるよと教えたら、信じてくれなかった。実際に買ってきてからは、すっかりファンになり、今回は倍の注文となった。
「わざわざ、築地まで行ってお茶を買わせてしまって申し訳ない」
ママは恐縮する。
「いいんですよ。俺が買えばお店のひとも喜ぶし、ママも嬉しいでしょ。そういう手伝いができたと思うと、自分も嬉しくなるんだから」
ちょっと、気障な物言いをしてしまう。

 場外での買い物を終えると、いったん買ったものを車に積むために、駐車場に戻る。
 わたしは、リュックを背負い、膝までの長靴に履き替える。
「さ、いざ、場内へ」
「どっから見ても、素人には見えないなぁ」
お姉ちゃんがカメラを構える。
 わたしは、ポケットのなかのメモ用紙を確認する。関所の赤坂さん、若女将と鳥藤ママ、そして、我が家の注文を頭に叩き込む。
 初めて築地に来たとき、わたしはお母さんの後ろを追いかけるので必死だった。とても早足のお母さんは、かつて築地で何十年も働いていたので、どこの大路や横筋に何のお店があるかを熟知している。ターレーが縦横無尽に荷物を運ぶ場内で、よろよろ歩いていたらけがをするだろう。だから、お母さんの歩く速度はとても速い。その後姿を見失わないように、わたしは必死に追いかけていた。
 2ヶ月から3ヶ月に一度ずつ築地に連れて行ってもらう。その繰り返しは3年を超えた。いつの間にか、わたしにも場内の位置関係が少しずつわかってきた。頭で覚えたのではなく、からだが吸収した。
「まずは、ジャコ屋さんから行こう」
お母さんの宣言を聞き、日本大丸というジャコ専門店をイメージする。どこの大路だったかを思い出し、わき目もふらずに向かう。
 大丸は大路の端にある大きな店構えの中卸だ。ジャコだけでなく、シラスや干し魚も多く扱っている。値札はどれも1キロ単位だ。
「こんちは」
威勢良く声をかける。中途半端にしていると店員はいつまでも注文を聞いてくれない。こちらのペースで買い物をする。以前は500グラムを買うのに「申し訳ない」と頭を下げた。1キロ単位で売っているのだから、それを計りに乗せて半分にしてもらうのは気が引けた。しかし、中卸だけではやっていけないのだろう。最近では100グラム単位で計り売りもしてくれるようになっている。
 わたしは、4700円という札と5000円という札のちりめんジャコの箱の前で立ち止まる。いままで大丸で一番値段が高いジャコは4000円だった。4000円と3500円の味の違いは、わたしにはよくわからない。そういうときは、迷わずに3500円を買う。
 今回は、一気に値段の最高記録を塗り替える商品が二つも並んでいた。
 両方のジャコを少し手のひらに乗せる。香りをかいで、口に含む。わずか300円の違いだが、5000円のジャコは、うまみが口のなかで広がった。4700円もうまみを感じたが、同時にしょっぱさも感じた。
「これ、1.5キロよろしく。伝票は500ずつ、3つお願い」
品物を買うときは、迷いなく、必要な情報だけをはっきり伝える。今回のジャコは、我が家、関所、佐藤さんの三口の注文。それぞれ500ずつ。1キロの箱と500グラムの計り売りをもらう。1キロのジャコを半分ずつにするのは、帰ってからの作業だ。
 スーパーで見かけるちりめんジャコは、せいぜい30グラムから50グラムがパックに入っている。値段は500円から600円だろうか。築地最高級の今回のジャコは1キロで5000円だ。100グラム500円。50グラムだと250円。スーパーのジャコよりも単価はずっと安いのだ。

 マグロはめっきり減っていた。
 世界的な取り決めに、日本政府が屈したために、築地に入ってくるのは大型で値段の高いマグロが増えた。中型から小型のマグロが規制されたので、庶民の台所に届いていたキハダマグロやメバチマグロは買えなくなった。
 見上げると、店の案内を載せている看板の近くに「春闘」という文字が目立つ。築地にも労働組合があるのだろう。春闘の文字に続いて「移転反対」と大書されている。今回の買出しでは、そのプラカードを場内の随所で見た。
 政治家たちの思惑で、マグロの扱いを減らされ、移転の危機を突きつけられた築地。そこで働く多くのひとや、場外で築地とともに生計を立てる多くのお店のひとは、怒りをため息に変えているのかもしれない。
 お母さんは、むかしからなじみのマグロ専門店に入る。店長はお母さんよりも若い。若いといっても、50歳から60歳の間だろう。
「こないだのマグロがおいしかったから、今回もあれぐらいのができるでしょ」
「いいよ、ちょうどいいのがある。お姉さんにはむかしさんざん世話になったからなぁ」
 お母さんは、女性として初めてマグロのせりに参加していた当時、自分の店だけでなく、ほかの店のひとたちにも絶大な人気があった。魚を見る目はもちろんだが、それ以上に、困っているひとの話を聞き、助言や援助を惜しまなかったのだ。
 わたしが若女将に頼まれたアサリを探していると「だめ」「まだ」「わりといい」「買ったら」と、貝の専門店をいくつもまわりながら、瞬時にアサリを見て判断を下す。わたしには、どのアサリも値段があまり変わらないので、同じに見える。
「じゃぁ、ブロックにして、予算はこんぐらい。大トロはいらない」
お母さんは、こんぐらいと言いながら、指で数字を宙に描く。その単位が千なのか、万なのか、わたしにはわからない。
「それから、中落ちを二つお願いね」
 その専門店は、大きなマグロからうまいところだけを切り取り、おそらくお得意さんだけに出している。残りの部分は、店頭には置かないで捨てている。そうやって、お得意さんとの信頼関係を維持している。お母さんは、その捨てている部分を分けてもらうのだ。捨てているといっても、十分に町の魚屋さんではサクで2000円から3000円の値段がつく部分を残している。
 だから、そのお店では、マグロのあばら骨から中落ちをスプーンでこすぎ落とすことなどやったことがなかった。それを前回の買出しでお母さんが強引に作らせたのだ。大きなビニル袋いっぱいの中落ちを取ってくれた。
「いくらにすりゃいいかな」
若い店員に、わたしが値段を聞かれた。
「予算は1000円なんだけど」
明らかに、その中落ちの量と質は3000円ぐらいの価値がある。
「じゃ、1000円でいいよ」
あっさりと交渉が成立した。その記憶があったので、今回は中落ちを倍の2000円分買うことにした。前回の中落ちを渡した鳥藤ママや佐藤さんから、強い支持を得ていたのだ。

 その店長に、お母さんが質問をする。
「今回のお客さんのなかに、鯨のベーコンがほしいというひとがいるんだけど、どこか置いている店があるかな」
 わたしは、若女将と赤坂さんから、鯨のベーコンを頼まれていたのだ。
「脂ばっかりの白いやつじゃなくて、身が乗っているやつね」
「白と赤(身)が混ざっているのは、あるかもしれない。でも赤だけのは、もう見ないなぁ。でも、混ざったのも、すごく高いよ。イルカやシャチのベーコンなら、あるかもしれない」
 わたしは、鯨のベーコンをあきらめた。無理に値段の高いものを買って、食べてみたら脂っぽくておいしくなかったら、頼んでくれたひとに申し訳ない。お金がもったいない。
 近海の魚を専門に扱う「小畑」に行く。
「こんにちは」
「や、久しぶり」
温厚な顔の店主が、出迎えてくれる。お母さんは、かつて「小畑」のとなりのマグロ専門店で働いていたので、小畑夫婦とはつながりが深い。小畑さんはご主人が店に出て、奥さんが台場で帳面をつける。職場が同じ夫婦共働きだ。
 小畑さんも、魚へのこだわりは強い。料亭や魚屋のお得意さんがついているのだろう。売れ残った魚を翌日に安値にして売らない。捨ててしまう。だから、もともと仕入れが少ない。
 山口県でとれる高級イカの白イカを、わたしは、以前、箱で全部買ってしまったことがあった。ひとに頼まれて買ったので、わたし個人の懐は痛くなかったのだが、その買いっぷりをご主人は覚えている。その後、お店に行くと
「きょうは、キンメがうまいよ」
「きょうのアジはたたきにしてね」
と心強いアドバイスをしてくれるようになった。
 今回のわたしは、若女将にキンメダイとイサキとアジを、我が家にカマスを買った。キンメダイは、三枚におろしてもらい6つに切り分けてもらった。
 場内を出て、野菜や果物を専門に扱う「やっちゃ場」に向かう。築地市場は野菜も扱っているのだ。あーちゃんが、梅干しを作るために、和歌山の梅を5キロ買った。
 みんなリュックにも両手にも魚や貝、果物や野菜でいっぱいになった。それらを駐車場まで運ぶ。
 最後は、場外の玉子焼き屋さんと肉屋に向かう。赤坂さんの注文だった鯨のベーコンが買えなかったので、予定を変更して、厚焼き玉子とチャーシューを買おうと思ったのだ。お母さんも肉屋でひれ肉を選ぶ。駐車場に近いところにある場外の肉屋は、間口は狭いけれど、いい肉を安く置いているのだ。
 玉子焼き専門店「玉友(たまゆう)」で、赤玉厚焼き玉子を買う。肉屋で出来立てのチャーシューを二つ買う。赤坂さんは、鯨のベーコンを関所のメンバーに食わせてあげたいと言っていた。つまり、自分ではたいして食うつもりはないのだ。きっと、若女将に面倒をかけて、包丁を入れてもらうつもりなのだろう。だったら、すぐに食べられるものがいい。そう考えて、玉子焼きとチャーシューにした。
 わたしは、肉屋でばら肉を500グラムずつ1キロ買った。ここのばら肉で作るスープは、濃厚で深みがある。スープをとったばら肉は、それだけでも味わいが残り、料理に使える。
 すべての買い物を終えて、午前10時過ぎにわたしたちは築地市場を出発した。

 父の日が終わった6月下旬。夏休みまでは、あと一ヶ月ほど。
 わたしは、額と首の汗を手ぬぐいで拭きながら、関所に到着した。
「こんにちは」
「お帰り」
「お疲れ様」
「や、お久しぶりです」
 ん、顔を上げると、正月に「手術をするからしばらく関所に来れない」と言っていた烏さんがいる。
「あらー、烏さん。久しぶりじゃないですか。もう酒を飲んでもいいんですか」
わたしは、リュックを冷酒コーナー近くに置いた。烏さんは、にんまり笑って、顔の前で手を横に振る。
「すぐ、医者にばれちゃう」
なぁんだ。まだ解禁じゃないんだ。
「だったら、やめたほうがいいよ」
いい気分で、ウイスキーのウーロン茶割りのペットボトルを口に運ぶ烏さんに、こんな言葉は野暮だった。
「センセー、難儀だなぁ」
出たぁ、久しぶりの難儀コール。烏さんは、手術台から帰還しても、難儀を忘れていなかった。
「お医者さんのいうことは守ったほうがいいと思いますよ」
「インフルエンザ」
はぁ。院内で感染してしまったというの。
 烏さんは、野球帽のひさしをちょっとあげて小声になった。
「オレたちがこどもの頃は、学校に行くと、洗面器に白い消毒液が張ってあって、みんなそこに両手を入れたもんだよ」
「もしかして、最近流行している新型インフルエンザのことですか」
「それそれ。あのときの白い消毒液を学校ではやらないの」
少なくとも、わたしがこどものときにも、湘南地域ではそういう衛生指導は消滅していた。山形では存続していたのか。
「その白い液体って、何ですか」
「知るわけ、ないだろ」
どんな薬かも知らずに、烏さんはこどものとき、洗面器のなかに両手を浸していたのか。
「センコーがな。おっと、センセー前にして、こんなこと言っちゃいけねぇな。当時のセンコーがさ」
言っちゃいけないと思っても、言葉が訂正されていないのですが。
「これに手を入れれば、風邪を引かないって命令するわけ」
「石鹸みたいなものかな。それって、自分の前のひとが手を入れた後に、同じ液体に手を入れるんですか」
「そりゃそうよ。一つしかないんだから」
本当に、それは消毒につながるものだったのだろうか。

 烏さんは、少し得意そうに、ウイスキーのウーロン茶割を口に含んで、ぐいっと飲み干した。
「だから、俺は新型にはかからない」
いくらなんでも、それはないと思うんだけどな。
「いま、かかっているひとたちは、あの白い消毒液で作った風呂に入ればいいんだよ」
「それが本当なら、すごいことですね」
少しは、話をあわせることも必要だ。
「さすけねぇ」
 彼の故郷、山形の言葉「さすけねぇ」。大したことないという意味だろう。
 いつも烏さんといっしょにいる赤坂さんがいない。
「赤坂さんは、まだ仕事ですか」
土曜に築地で買ってきた玉子焼きとチャーシューを、関所で預かってもらっている。
「きょうは休み。珍しいな。鬼の攪拌(かくはん)か」
「いや、それを言うなら、鬼のかく乱でしょ。鬼がミキサーのなかで、ぐちょぐちょになっている姿は気持ちが悪いだけですよ」
「さすが、センセーは物知りだ」
「どんなに腰が痛くても仕事を休まない赤坂さんが珍しい」
 レジで若女将もうなずいている。
「だから、あの玉子焼き、うちで買い取っておいたから。日持ちしないでしょ」
「うわぁ、かえって迷惑をかけちゃったみたい」
 ま、でも、赤坂さんの手に渡っていたら「これ、切って。みんなに出して」と若女将にお願いをしていただろう。それを思えば、関所の家族が食べてくれた方が、赤玉にとってはよかったかもしれない。
「いっぱい、作ったから、みんなでどうぞ」
若女将が、関所のメンバーに、築地の中落ちをふるまう。醤油とお酒のたれにつけこんである。
「うわ、ママさん。これ、うまい。すごいうまいよ」
シンロートの相田さんが感激をする。そりゃそうでしょ。この辺のスーパーでは売ってないよ。
「ねぇ、山ちゃん、うーちゃん、食べてごらんよ」
いま関所に来たばかりのふたりに、相田さんが中落ちを勧める。
「あー、すみません。ママさんいただきます」
山ちゃんは、言われるままに、中落ちを口に運ぶ。次の瞬間、目が見開かれて、口元が緩む。
「うまい」
山ちゃんは、少し相田さんの言葉を疑わないのだろうか。うまいよと言われて、うまいと応じるだけではなぁ。
「じゃぁ、これはどうかな」
若女将は、玉友の玉子焼きを切って出す。
 あれ、それは家族で食べる分じゃないのかな。
「きょうは、酒が進むぞー」
関所のあちこちで、歓声が上がる。わたしも、つられてコップに山猿を継ぎ足した。

 天神下と書かれたバス停。その文字がぼやけて見える。
 わたしは、まっすぐ歩こうと思っていた。しかし、気持ちとは裏腹にからだが右の方に傾いていく。左足の蹴りが強いのか。関所で、中落ちと玉子焼きを肴にして、山猿を飲んだ。そのうちに、鳥藤に届けた築地の注文品を思い出した。おいしく食べてもらえただろうか。その後が知りたくなった。思い立ったら吉日。わたしは、関所を出て、鳥藤に向かっていた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
焼き鳥を焼く炭火。ママが背中を向けたまま返事をする。わたしは、カウンターに荷物を置く。
 鳥藤の店内は縦に長い。引き戸を開けて中を見る。左側にカウンターが6席。右側にテーブルが3つ。6人掛けが1脚に4人掛けが2脚だ。有線放送でジャズが流れている。演歌や相撲ではない。
 わたしは入り口に一番近いカウンター席に座る。カウンターを挟んで焼き鳥を焼く台があり、そこに座ると焼き鳥を焼くママが目の前に来る。ママ目当ての客には特等席だ。
 いつもの高清水の冷酒をガラスのコップに注ぐ。
「何にしましょう」
ママが注文を取る。
「ホルモンをお願いします」
「はい」
淡々としたやり取りだ。しかし、わたしはカウンターの高い椅子に座りながら上半身が左右に揺れるのを抑えきれない。
「センセー、だいぶやってきたわね」
ママが、網にホルモンを並べながら心配する。
「なんか、効いちゃったみたい」
 それでも、冷酒を一口含んだら揺れがおさまった。やばい、これでは完全なアル中ではないか。
「こないだの築地のは、もう何か食べましたか」
「おかげさまで」
 その日、わたしは何時ごろまで鳥藤にいたのかを覚えていない。
 気づいたら帰っていて、布団のなかだった。
 きのう夕飯食べたっけとか、風呂には入ったっけと、家族の者に聞けずに、翌朝早くに起きて考えた。
 どんなに考えても帰宅してからの記憶がない。書斎に行くと、きのう着ていた上着や靴下が、強盗にでも遭ったかのように散乱している。この状況証拠から、わたしは昨夜、夕飯を食べず、風呂にも入らずに寝たと判断した。急いで風呂をわかす。もともと、朝食は自分で作るので問題はない。おなかが空いているのかどうかわからないほど、飲みすぎの気持ち悪さが全身を包んでいた。

 午前6時。
 出勤しようとしたら、いつも肩に下げているバックがないことに気づいた。
 飲んだ翌日になって、携帯や財布がないことは珍しくない。また、やっちまったかと自己嫌悪に陥る。しかし、今回は携帯も財布も、ついでに家の鍵も、ちゃんとリュックに入っていた。となると、バックがないことは事実だが、そのなかに何が入っていたかを思い出せない。そんなに重要なものではないだろう。
 朝の忙しい時間に、ほかのことであれこれする余裕はない。
 わたしは、いつも通りに家を出た。もちろん、家族はまだだれも起きていはいない。消えてしまったバックに、老眼鏡と読みかけの本が入っていたことを思い出したのは、大船駅のホームに着いてからだった。
 いつものように、電車を待っているときに本を読もうとしたら、リュックのなかに入っていないことに気づいた。そこで、バックに入れていたことを思い出しのだ。本は、パトリシア・コーンウェルさんの検屍官シリーズ。老眼鏡は、その本を読むのに必需品だ。がっくりする。
 いったい、どこにバックを置いてきたのか。
 関所か鳥藤のどちらかしか思いつかない。きょうは火曜日だ。火曜日は、関所が休みなので、きょうももう一度鳥藤で確かめてみよう。
 午後6時。
 わたしは、ふたたび鳥藤のカウンターにいた。
「あのー、じつはきのう来たときに、ショルダーバックを忘れていかなかったかな」
「ちゃんと帰りに持っていらしたわよ」
ママの確かな記憶の前に、わたしのバック探しは振り出しに戻る。
 関所か鳥藤だと思っていた。時間的には先に関所にいた。後から鳥藤に行った。だから、鳥藤から出るときにバックを持っていたということは、関所に置いてきた可能性はないということだ。
 さて、どこに行ってしまったのか。途方にくれながら、きのうと同じ高清水をコップに注ぐ。口に含んでも、あまり酔えない。水のようにごくんと飲み干す。
 そのとき、わたしの携帯にメールが着信した。妻からだ。
>家の前の桜の木の根本に、いつものバックを見つけました。
>もしかして、きのう帰るときにそこでツヨシくんをやってなかったですか。
>バックはきちんと置かれていて、近くに読みかけの本と眼鏡が置いてあります。
>拾うのはかなり恥ずかしかったのですが、持ち帰ってきました。
 あちゃー。
 またやってしまった。たぶん、桜の木の根本に座り込み、自宅と勘違いをして、しばらく寝ていたのかもしれない。そのうちにバックから本を取り出して、読書でもしようと思ったのか。わたしは、妻に感謝のメールを送った。
「というわけで、バックはありました」
妻からのメールをママに見せた。となりで飲んでいた永田さんが目を細める。
「そういや、病院で働いていたときにそんなバックが見えたなぁ」
永田さんは桜の木が生えている病院で掃除の仕事をしている。
「だれのかなぁと思ったけど、へんなもんが入っていたらやだから、放っておいたんだ。なんだ、センセーのだったのか。それにしても、だれも拾わないなんて、しあわせな町だな」
 確かに、盗むひとが24時間近くいなかったのは、幸せといえる。
 しかし、多くのひとが気づいていただろうバックを、だれも拾得物にしなかったのは、幸せと言えるのだろうか。

 水曜日。
 湘南地方独特の湿度の高い日が始まる。温度はあまり上がらなくても、梅雨から夏にかけて、相模湾の水分をたっぷり含んだ風が陸地に吹き付けるので、湘南の空気は肌に触れると重たく感じる。天然のミストサウナにいるようなものだ。
 15年近く前に亡くなったわたしの祖母は長野市の出身だった。祖父と結婚して、満州、盛岡、八戸を転々として、最後に鎌倉で病死した。その祖母が、鎌倉の夏を毎年嫌っていた。
「暑いのはいいのよ。扇風機でもうちわでも使えば何とかなるから。いやなのは、湿気。せっかく扇風機やうちわで風を作っても、その風が気持ち悪いんだから。この土地のひとたちが、夏のあいだに表で生活するのは信じられない」
 早朝や夕方の涼しい時間帯しか外出しようとしなかった祖母を思い出す。
 きっと、寒い地方で生まれ育ったので、からだから汗が出る構造がわたしのように生まれたときから湘南地方の人間とは違うのだろう。汗はもともと体温を下げるはたらきがある。だから、風邪で高熱を発したときに、汗をかくのは自然なからだのはたらきなのだ。汗とともに水分が蒸発してしまうので、こまめに水分を補給しないと脱水になってしまう。風邪で弱っているときは、飲みたいとか飲みたくないとか判断する前に、水分を補給しなければならない。ちなみにアルコールでは水分の補給にならないそうだ。
 反対に寒い地方で生まれたひとは、汗をかきやすいからだの構造ではまずい。体温が下がってしまって、保温できない。汗を出す部分の穴が小さいとか、出す部分そのものの数が少ないとか、自然環境に応じたからだの違いがあるのではないか。
 しかし、そういう体質のひとが湘南地方で暮らすのは、苦労するだろうと同情する。
 そして、そういうひとは、わたしの周囲では決まって夏に風邪を引く。
 仙台で生まれ育った赤坂さんもそのひとり。
 わたしは、風邪は寒い時期に鼻水を流しながら咳をして引くものだと思っていた。しかし、夏風邪を引くひとは、暑い時期でも鼻水をティッシュでかんでいる。瞳がくぼんで、頬がこける。声が枯れて、食欲が減退する。発熱のため、体温と気温の差が感じられなくなり、暑さを意識できなくなる。とても暑い日でも、長袖や長ズボンを着ている。
「ただいま」
関所に入る。きょうも、正面の赤坂さんの定位置にはだれもいない。
「まだ、調子が悪いの」
わたしは、指を赤坂さんがいつもいるあたりに向けながら、若女将に聞く。
「さっき、来て、すぐ帰ったわ。センセーのチャーシューを渡したからね」
「じゃ、とりあえず、仕事はしたんだ」
「うん、でも、かなりきつそうだったよ」
「鯨のベーコンがなくて、申し訳なかったなぁ」
「そんなことないよ、チャーシューを渡したら、喜んでいたもん」
 持って帰ったのか。赤坂さんは、鯨のベーコンを注文したときは、関所のみんなに分けるからと言っていた。しかし、チャーシューになったら分ける気持ちに変化が生じたのか。
 鯨はあまり好きではないけど珍しいからみんなに振舞おう。チャーシューはもともと好物だから、自分だけで食べよう。そんな計算が働いたのか。
 いずれにせよ、赤坂さんの支払いで買ったものだから、彼がやりたいようにすればいいのだ。

 わたしは、カレンダーを見ていた。
「どうした。また、飲みすぎたと反省してんのか」
外から戻ってきた大将がわたしの背中で冷やかす。
「もう7月になったんだなぁと思ってさ」
「うっそ、そんなロマンチックなことを考える脳があるわけ、ないじゃん」
 本当は、6月のカレンダーを見ていた。そのなかのNマークの数を数えていた。目標は一ヶ月に4本だ。なのに、6月は5個のNマークがついている。日々の量を減らしているのに、なかなか4本の大台に乗れない。なぜだろう。そんなことを考えていた。
 だから、大将の冷やかしは、ずばりだった。でも、そうなんですよ、ボリボリと頭をかくほど、わたしも素直ではない。
「はい、140円」
大将と並んで立つ若女将に、わたしはお金を渡す。そして、クーラーボックスを開ける。最上階に整列しているこげ茶のリターナルビン軍団。最前列の一本を手にする。容量は360ミリリットル。その名は、ホッピー。麦芽とホップだけの炭酸飲料だ。
 25年以上も昔の大学時代。日本酒やビールが高くて買えなかった。その頃、安い焼酎とホッピーは学生だけではなく、仕事帰りの会社員も含めた、国民的飲み物だった。コップに焼酎を入れて、ホッピーを注ぐ。炭酸がコップ上方に泡を作る。ホッピーの色はビールそっくり。ビールよりも安い値段で、擬似ビールが完成する。しかも、焼酎を注ぎ足せば、ホッピー一本で三杯ぐらいの擬似ビールを飲むことができた。
 わたしは、日本酒が大好きだが、飲みすぎてしまう傾向がある。
 自覚しているアル中だ。だから、何とか毎日の量を減らしたいと願っている。
 そのために、カレンダーにNマークをつけてきた。しかし、いくらカレンダーとにらめっこをしても、なかなか量が減ることはなかった。むしろ、自分の飲むペースが客観的に把握でき、やはり毎日二合ぐらいは飲んでいると確信した。お茶やコーラを買ったことがある。しかし、何だか違う。麦焼酎やビールを買ったこともある。これは確かに山猿の量を減らすことには貢献したが、多くの関所のメンバーに「意味がない」と冷笑された。その通り。
 そのときに、かつてのノンアルコール飲料(実際にはほんのわずかだがアルコールは入っている)の代表格、ホッピーを思い出したのだ。しかし、関所にはホッピーはなかった。
「調べたら、30本で一ケースなの。そんなに入れて、みんな飲んでくれるかしら」
ぜひ、ホッピーを入れてくださいとお願いした。賞味期限は3ヶ月だという。毎日、わたしが一本ずつ飲めば、一ヶ月ちょっとで頼んだ分は消費できる。
「たとえ、みんなが飲まなくても、俺だけで飲むから大丈夫だよ」
 数日後、クーラーボックスの最上階に、6本横並びで5本ずつ縦並びに整列したこげ茶色のホッピー軍団を発見した。迷惑をかけてはいけないと思い、わたしは来る日も来る日も、一本ずつホッピーを飲んだ。少しずつ、ホッピー軍団は減っていく。これは調子がいいぞ。ところがあるときを境に、わたしがいくらホッピー軍団をやっつけても、敵は数が減らなくなった。まるで、こちらをあざ笑うかのように前日と同じ、6本横並びで5本ずつ縦並びで整列しているのだ。
 勘弁してよ。これじゃ、3ヶ月先に全部飲み干すことなんてできないじゃん。

 ある日、わたしは若女将にホッピーのことで降参する。
「飲んでも飲んでもホッピーが減らないから、賞味期限までに飲み干すのは無理だよ」
 若女将は、笑い飛ばす。
「センセー、マジ?もう何回も注文をしているのよ」
「え、そんなにほかのひとも飲んでいるわけ」
「やっぱり、懐かしいらしくて、買い物だけのお客さんもホッピーを見つけると、思わず買ってくれるわけ」
 それならそうと、教えてくれればいいのに。
「気づいてなかったの」
「うん、わからなかった」
「あー、やだやだ。これだって決めたら、ほかが見えなくなるんだから。ラーメン屋って言ったら、いまも大船のことぶきなんでしょ」
 その通りですが、ここでは、ことぶきの話題はつながらないでしょ。
 改めて関所を見回すと、メンバーの手元にホッピーのビンがあった。なぁんだ、みんな買っているじゃん。お、山ちゃんなんて、二本いっぺんに買って、焼酎で割っているよ。あれ、佐藤先生も宝焼酎を買って、割っている。
 わたしは、ホッピーをグラスに注いで、喉で飲む。炭酸が苦手だったはずなのに、最近ではホッピーのおかげで、喉をシュワシュワする刺激がたまらないと感じるようになった。
「でもね」
若女将が付け足す。
「ホッピーだけで飲んでいるひとは、たぶんセンセーだけ」
ぷっ。炭酸が鼻に戻る。目の付け根、涙腺の部分が刺激を受けた。
「なんでかなぁ、かなり、うまいのに」
「だって、みんな、酔いたいから、ここに来るのに、わざわざアルコールを減らそうとしているひとなんて珍しいに決まってるでしょ」
若女将は、解説をする。
 それでも一ヶ月以上ホッピーだけを飲み続ければ、関所のメンバーは違和感を持たなくなった。ときどき永田さんが
「センセー、きょうもホッピーだけかよ」
と、帰り際に言うぐらいだ。
 わたしは、7月のカレンダーに、まだNマークがついていないことを確認する。そりゃそうだ、7月になったばかりなのに、もうNマークがついていたら、また7月も4つというNマークの目標を達成できないかもしれない。ホッピーを飲みながら、すっかり体調がよくなった赤坂さんに尋ねる。
「築地のチャーシューはいかがでしたか」
チャーシューを肴にホッピーというのも、うまいだろうなぁ。
「あー、センセー、ありがとう。ひとりで全部、食べちゃったよ」
「え、あれ、けっこう量があったと思うんだけど」
 タコ糸でグルグル縛ってあったチャーシューを2つ買ってきたのだ。それを、2つとも自分だけで食べたのか。

 わたしも、あのチャーシューはほしいと思った。しかし、味付けしてある商品は、はずれだったときに悲しい。だから、赤坂さんの分だけを買った。もしかしたら、おすそ分けがあるかもしれないという計算があったのだ。
 しかし、赤坂さんはこちらの意図を見透かしたのか、チャーシューを持って帰り、自分の胃袋に入れてしまった。
「ご飯といっしょだと合うでしょ」
あつあつご飯に、切ったチャーシューが乗っている光景が目に浮かぶ。
「いや、ご飯を炊くのはめんどくさい」
赤坂さんは、顔の前で手を振る。
「じゃ、ラーメンに乗せたんですか」
チャーシューといえば、ラーメンが定番だ。
「お湯をわかすのがめんどくさい」
赤坂さんにとって、ラーメンとはカップめんのことなのか。
「じゃ、どうやって、チャーシューを食べたんですか」
「包丁で切って、そのまま食べた」
「野菜とか、ほかに何もなしで」
「いや、ウイスキー飲みながら」
 そうか、酒の肴になったのか。やや濃い味がするかもしれないと思っていた。ウイスキーにはちょうどいい刺激になったのだろう。しかし、あのかたまりを、ひとりで全部食べてしまったとは驚いた。
「センセー、次に築地に行くのはいつだよ」
もう、注文かな。
「たぶん、8月の後半だと思うけど」
「そんときに、買ってきてほしいもんがあるんだ」
また、チャーシューかな。
「何ですか」
「明太子」
「明太子って、博多のですか」
「まぁな、あまり北海道産のってのは聞いたことない。築地ならうまいのがあるかなと思ってさ」
 楽しみにしてくれるひとがいるというのは、嬉しいものだ。
 何を注文しようがいいではないか。
 そのひとにとって、待ちわびるモノがあるということが大切だ。
「任せてください」
赤坂さんは、前回のように「ここのみんなに分けてやろうと思ってさ」とは言わなかった。
 ウイスキーを傾けながら、チャーシューを食べた。そのときに、次は明太子がいいと思ったのだろう。その願いをかなえてあげたい。ただ、アルコールと明太子のように塩分が多い食品だけでなく、何か繊維質や炭水化物系をいっしょに摂ってほしい。彼にそれを要求するのではなく、こちらが作戦を立て、そうせざるを得ない状況を作り出そう。

 横浜の中華街に永楽製麺所というお店がある。
 中華街の大きな通りから外れた中華街パーキングの並びにある。とても大きなお店だ。
 一階が店舗になっていて、おそらく二階以上が工場なのではないか。
 わたしは、ここの麺を食べて以来、ほかの麺が食えなくなっている。それほど、わたしにはうまい。また、店員もキャラクターが濃くておもしろい。
 石田さん。アメリカ人が日本人を描かせたら間違いなく彼になるほど、細目で目尻がつり上がり、眼鏡をかけている容姿は、アジア人そのものだ。いつもわたしが買い物に行くと、服や靴を見ては冷やかしてくる。わたしも、新しい商品を見つけては「これは詐欺だ」とか「このスープはいらない」と強いことを言い返す。
 寺田さん。若いお兄さんだ。人間がやさしくできているのだろう。石田さんの押しに圧倒されながら仕事をしている。やや哀れに感じてしまう。しかし、最近では石田さんが工場に行っていないときなど、かなりフランクに話しかけてくる。
 久保さん。元町に住んでいるお母さん。人当たりがよくて、癖のある石田さんを上手にコントロールしている。ポイントカードをいつもサービスしてくれる。
 青木さん。肝っ玉母さん。噂話や世間話が大好きなタイプ。こちらが黙っていると、こどもはいるの、どこから来たの、仕事は何なのなど、プライベート情報を何でも聞き出そうとする。
 わたしは、かつてここで蒸し焼き蕎麦ばかりを買った。だいたい一袋で3回ぐらい調理できた。野菜や魚介類を使って麺といっしょに蒸し焼きにする。特製ソースをあえて出来上がり。麺がうまいから、ソースが辛くなくていい。しかし、一生分の蒸し焼き蕎麦を食べた気がしてからは、ほとんど買わなくなった。
 おじいさんの髭のように細い老髭麺(ロウソウメン)や、ゆでると透き通って光り輝くタンメンなど、片っ端から麺を食べた。それほどに太さや作り方の違う麺がたくさん置いてある。
 わたしは、そのなかで蒸し焼き蕎麦を買っていた昔から変わらずに買う麺がある。イーフー麺だ。昔の中国で、伊さん一族が作り出した麺と言われている。伊府と書く。「イーさんのうち」みたいな意味だ。
 小麦粉をたまごでこねて麺にしたのがイーフー麺だ。だから、水やかんすいでつないだ麺に比べて、歯ごたえが違う。細い麺であるにもかかわらず、一本一本が自分を主張している。麺がうますぎるので、あまり具はいらない。
 スープは40種類ぐらい売っている。醤油、塩、味噌、豚骨はもちろんのこと、ゴマ、あご、マグロ、かぼすなど独特なスープもある。自分好みのスープを買って、一袋に3つから5つ入っている麺を異なる味で食べ分けるおもしろさがある。
 永楽の麺は、横浜のそごうや大船のルミネでも売っているが、種類が少ない。興味があるひとは、ぜひ中華街の本店に行ってほしい。どこにあるかわからないひと。中華街にとりあえず行く。どのお店のひとに聞いても、永楽を教えてくれるだろう。お店への卸をしていないので、永楽にはお店のひとが直接買いに来ているのだ。
 久しぶりに永楽に行ったとき、わたしは、関所の家族のみなさんにタンメンとスープを買ってきた。

 7月に入って数日が過ぎた。
 仕事を終えて、東海道線藤沢駅の3番線を歩く。かなり辻堂方面に歩く。ホームにペイントしてある3番乗車口まで歩く。
 ここから上りの東海道線に乗ると、大船駅でちょうど階段の上り口で降りることができる。
 途中に小田急線からの乗り換え階段がある。ホームが狭くなる。そこにも乗車口がある。
「あれ」
思わず、声に出すところだった。
 わたしは、4月に関所で見かけたバラ男さんを見つけた。結婚記念日に真っ赤なバラの花束を買って帰る。ロマンティストな方だ。
 そっか。ここから電車に乗るのか。わたしは横目で近くを通り過ぎる。バラ男さんは、手帳を出して、ぶつぶつ言っていた。手帳のメモを朗読しているのか、メモを読んで感想を述べているのか、なんとなく独り言モードなのかはわからない。
 いつもの3番乗車口に行ってから、バラ男さんがいたあたりを振り返る。そこは遠すぎて、ほかの乗客が間に入り、どこに彼がいたのかはわからなかった。
 そうなると、翌日も気になる。そして、予想通り、彼は同じ場所でまた手帳を読んでいた。いまだけ、フッと顔を上げてくれればわたしと目が合うのに。そうしたら、なんて言おう。
「やぁ」じゃ、気軽過ぎる。
「こんにちは」が、無難かな。
「きょうも関所に行きますか」は、よけいなお世話だろう。
 そもそも、彼がわたしを覚えているかどうか疑問だ。関所で彼が買い物に来るのは、何度か見ているが、そんなに親しい関係ではない。まだ正式に会話をしたこともない。
 その翌日も気になった。しかし、三日目はいなかった。どうしたんだろう。気になる。
 病気かな。残業かな。きのうまでの二日間がたまたま早かっただけかな。
 心配しながら、関所に寄った。
「きょうは、ホームにバラ男さんはいなかったよ」
「あの方ねぇ。足元さんって言うんだって」
若女将が教えてくれた。
「え、名前を聞いたの」
「だって、こないだ買い物に来たとき、赤坂さんが、バラ男さんって言っちゃうんだもん」
あちゃー。
 わたしは、紙パックの日本酒をコップに注いでいる赤坂さんをにらむ。
「いつまでも、バラ男さんじゃ、悪いと思ってな」
そうじゃないでしょ。バラ男さんというのは、本人には言わないから通用していた呼び名じゃん。
「赤坂さんがね、いつもバラ男さんじゃ申し訳ないから名前を教えてくださいって、聞いたのよ」
ありゃー。
 それじゃ、関所の立ち飲み連中がいつも彼のことをバラ男って呼んでいたってばらしたようなものじゃない。そんなことを教えられたら、おもしろくないよ。
「バラ男さんて、だぁれだぁ」
奥から、ウイスキーのウーロン茶割りを手にした烏さんが戻ってきた。いいのいいの、ややこしくなるから。

 わたしは、東海道線のホームで声をかけなくてよかったと思った。
 何気なく互いに気づいたとしても、本人に内緒で、バラ男と呼び合っていた連中となんか話したくないだろう。
「足元さんは、センセーと赤坂さんの名前は知っていたわよ」
え、どういうことだろう。わたしは、名乗ったことがない。それなのに、足元さんがわたしのことを知っているのは不思議だ。
 山猿を口に含んで、べろの上で味を確かめながら考える。すると、ある仮説が浮かぶ。
 わたしがいないときに足元さんが買い物に来る。そこにいた赤坂さんや烏さん、もしかすると永田さんも含めて、だれかがわたしのことを足元さんに伝える。
「いつものセンセーがさぁ、あんたの名前を知りたがっているもんで」
これぐらいの売り方はかんたんにするひとたちだ。
 運命は不思議だ。
 ちょうどそのとき、足元さんが関所に買い物に来た。
 赤い買い物籠を持つ。店内を歩く。だいたいのコースが決まっている。まず日本酒コーナーで鑑賞する。気に入ったのがあるとぐいっと一升瓶を手にする。高清水が多かったが、最近は山猿を買うこともある。次に奥のビールクーラーへ。数本を買う。最後にわたしがいる焼酎コーナーへ。ビンの焼酎を買う。
 この瞬間を逃す手はない。わたしは、近くに来たときに声をかけた。
「こんにちは」
意外な表情で足元さんが笑った。それでもかまわない。
「いつも藤沢駅を利用しているんですか」
刑事でもあるまいに、こんな聞き方はないだろう。われながら、いかんいかん。
「えー、何度か、お見かけしました」
足元さんが言ったのだ。わたしが言おうとしたことを、反対に彼が先に言ったのだ。
「やだ、気づかなかった。俺も、何度か、見かけたんですよ」
話してみると、足元さんは気さくな感じだった。いつもたくさんのアルコールを買う。よほど好きなのだろう。
「ホッピーなんていかがですか」
ホッピー販路拡大部長のわたしは、ここでも商売をする。
「ホッピーですか。何だろう」
知らない世代ではないだろう。それとも、若いときから裕福でホッピーで焼酎を割る必要がない飲み方をしていたのだろうか。
「ビールの味がしてアルコールが入ってないんです。麦芽とホップだけ。とても健康的ですよ」
永田さんが奥から声を上げる。
「兄さん、ふつうは焼酎で割るんだよ。センセーみたいに、そのままぐいぐい飲むひとなんて、見たことない」
「じゃ、一本だけ」
足元さんは、きっとやさしいひとなのだろう。こげ茶色のビンに入った自分が知らない飲み物を買ってくれたのだ。
 それとも、このややこしい会話に巻き込まれるのを防ぐために、早々に退散しようと思ったのだろうか。

 ミッキーが来た。
 飼い主の中島さんがミッキーの後ろから、関所に入る。
「こんにちは」
大型犬のミッキーはこころがやさしくて、大きな話し声を嫌う。
 大将がクーラーボックスから八分の一にカットしたチーズを出す。それが何を意味しているのかがわかるミッキーが、尻尾を振る。
「こないだのセンセーのCD。大船のライブハウスのオーナーに渡しましたよ」
ぎょー、そんな。
 夜の街、大船のライブハウスで演じるにはもっとも遠い世界の曲調だと思うのだが。
「それから、会社のひとに関所の話を読ませているんです」
えー、どんな会社なんだろう。こないだも言っていた気がする。
 ねぇ、きみ、ちょっと。これ読んでみないか。
 何ですか、それ。
 うちの近くに酒屋があってさ、そこの物語なんだよ。
 酒屋さんに物語になるような出来事があるのかな。
 まぁ、読めばわかるからさ。
 そうして彼女は彼から原稿を渡されたのだった。
 いや、どうして勝手に中島さんが紹介したひとを女性にしているのだろう。そもそも原稿は関所の若女将にだけ縦書きに直して渡しているので、プリント原稿が持ち出されているわけがない。
「関所の話は印刷してないよ」
「パソコンで見ているんです」
あーそうかそうかそうねぇ。ますます、どんな会社なんだろう。こないだもインターネットって言っていた気がしてきた。
 ねぇ、きみ、ちょっと。これ見てみないか。
 何ですか、それ。
 うちの近くに酒屋があってさ、そこの物語なんだよ。
 酒屋さんに物語になるような出来事があるのかな。
 まぁ、読めばわかるからさ。
 そうして、彼はパソコンの画面を彼女に向けたのだった。
 おっと、また彼女にしてしまった。
「そのひとがね、一度、ここに来てみたいって言ってましたよ」
「わぁ、すごい。センセー、宣伝ばっちりだね」
若女将はうきうきしている。
 ミッキーは大将から細かくしたチーズをもらいご機嫌だ。
「どれ、わたしも買ってみようかな」
中島さんは、よっちゃんの酢漬けイカを手にした。関所の話に、わたしが「運を使い果たした」とその後言われ続けることになる、ことしのはじめの連続あたり事件を載せた。そのことを言っているのだろう。
「あら、あたりよ」
中島さんの目が輝いた。わたしは、あれ以来、何十連敗もしているのに。
 ビギナーズラック。
 勝利の女神は新人にやさしいのだ。
 中島さんは二個目のよっちゃんを手にした。それもその場で開ける。
「みなさんで食べてください」
「やだ、またあたり」
若女将が、驚く。
 出たぁ。脅威の連続あたり。
 さすがに三個目のよっちゃんは、その場では開けなかった。中島さんの三個目のよっちゃんは、クーラーのなかに保存された。
 その翌日、まだクーラーによっちゃんが保存されていた。
「あー、それね、中島さんがセンセーにどうぞって言っていたわよ」
「わぁい、嬉しいな。お金の節約になるね。それに、二度あたった後のご利益よっちゃん。またあたったりして」
 わたしは、クーラーから中島と青のマジックで書かれたよっちゃんを出す。若女将がはさみであたりくじの部分を切り取る。
「やったぁ。はずれ。いつもどおり」
どうして、そんなに嬉しそうなの。

 わたしは、夕方の富士見町を歩いていた。火曜日は関所が休みだ。
 七夕だった。
 このまま帰るか、鳥藤に寄って行くか。とても重要な決断をしなければならない。鳥藤に寄るなら、帰宅しての夕飯は、なしにする。人間ドックが近いというのに、喰いすぎは厳禁だ。夕飯を食べないなら、早めに自宅に連絡する必要がある。妻が夕飯の支度をしている。「もっと早く知らせてくれれば、一食減らせたのに」と小言を言われないように。
 7月の風は熱く、湿気を含んで重い。だいぶ太陽が傾いたとはいえ、日差しは遠慮なく、腕や足、肩や首を直撃する。
 早く帰ってお風呂で汗を流す。
 鳥藤のギンギンに冷えた生ビールで生き返る。
 究極の選択に身もだえをする。
 そんなときだった。ポケットの携帯電話が揺れた。
 大将からだ。
「もしもし」わたしは、相手を確認するまで自分の名前を言わない。
「あー、俺」これじゃ、確認のしようがない。
「なに」用件を聞く。
「いま、どこ」
「帰り道だよ」
「だから、どこ」
「えー、富士見町の小川さんのところ」
 小川商店は、地元の農家の野菜をたくさん並べる貴重な八百屋だ。
「俺たち、いま新海」
「はぁ」
「だから、新海だよ、し・ん・か・い」
そんなのわかっているって、まさか夫婦で深海に潜っているわけではないだろう。
「あー、こないだ教えたとこ、行ったんだ」
わたしは、数日前に大将と若女将に新海を教えた。
 ふたりは、火曜日にゆっくりできる飲食店を探している。その情報をわたしはときどき教えている。新海は、そのなかの一つだった。7月から開店した新しいお店だ。旬の魚を珍しい日本酒を売りにした和風居酒屋だ。
「来てもいいぞ」
「はぁ」なんだそれ。
「だから、これから新海に来てもいいって、言ってるわけ」
「それって、なんか俺が行ってもいいかなって、お願いしているみたいじゃん」
「何でもいいからさ」そういうことなんだ。
 わたしは、歩く方角を反対に変えた。いま来た道を戻る。携帯をメール作成にして、妻にメールを送った。
>大将が急に電話をしてきて、どうしてもいっしょに飲みたいっていうから、つきあってきます。夕飯はいりません。急な連絡で申し訳ない。
 ま、当たらずとも遠からずってとこでしょ。

 大船仲通。
 代々木ゼミナールへ続く道が交わる。道路幅の広いその道は通称「代ゼミ通り」と呼ばれている。代ゼミ通りを歩くと、右手にリリアンという手芸専門店がある。わたしは、いまの仕事に就くまで手芸にはまったく興味がなかった。しかし、仕事上、刺繍や縫い物を教えなければならなくなってから、すっかりはまってしまった。リリアンにはよく通う。
 そのリリアンを通り越して最初の交差点。右の角にビルがある。地下に下りる階段。景気がよかったときには、この地下には数軒の飲食店が入っていたが、いまでは、たった一軒しか入っていない。新しく開店した新海だけだ。
 階段を下りて、暖簾をかきわけ、店内に入る。
「いーらっしゃいませー」
異常に大きい声で迎えてくれる。
 店長の新海さんは、わたしの中学校のときの野球部の後輩だ。実家は、大船では有名な鶏肉専門店「鳥恵」。高校卒業後、ずっとそこで働いてきた新海さんは、やっと自分の店を持つという夢をかなえたのだ。
 板場のなかに新海さんを見つける。こんちは。目で合図を送る。
「わぁ、センパイ。また来てくれたんっすんか」
 探すまでもなく、大将と若女将は入り口に近いテーブルに陣取っていた。
 わたしは、ふたりを挟むお誕生席に座る。若いお姉さんが冷たいおしぼりを運ぶ。手を拭いて、おでこから顔を拭く。冷たさがしみる。
「お飲み物は」
瞳がくっきりしたお姉さんは、髪の毛を後ろで束ねている。新海さんの奥さんか。大船でお店を張るには、家族総出じゃないときついのかな。
「生チューをお願いします」
「あら、珍しい」
 すでにジョッキの半分までビールが減っている若女将。
「きょうは七夕でしょ。なんかいいことあるかなって思いながら帰っていたんだ」
「いいこと、あっただろ」
 ビールが終わり、焼酎を飲もうとメニューを見る大将。
「ねぇねぇ、佐藤さんにも連絡をして」
いつもレジで働く若女将、注文の品物を運ぶ大将。休みの日のリラックスした気持ちが表情に出ている。
「あのひと、携帯見ないんだよね」
 わたしもそうだが、佐藤さんも携帯にメールをすると、返事が来ない。数日後に「見ました」という返事だけということもある。一応、電話をした。緊急の手術が入っていたら、つながるはずがない。
「はい」
「あ、俺です」これじゃ、大将と同じだ。
「いま、電車のなかです」
「申し訳ない。用件だけ伝えます。大船で大将と若女将と飲んでいるので、大船に着いたら電話をください」

 数分後、佐藤さんから携帯に電話が入る。
「用事を済ませてから、そちらに向かいます。また電話をします」
 生ビールを飲み終えた。手作り豆腐を食べた。海老のシンジョウをつまんだ。次は日本酒にしようと思った頃、佐藤さんから電話が入った。
「なんていうお店ですか」
「し・ん・か・い」
「どこにありますか」
「うーんとね、地下」
 酔いがまわった頭では、何かを説明するのは難しい。わたしは携帯を若女将に渡す。どうやら、待ち合わせ場所を決めたらしい。若女将はいったん店を出て行った。
 大将、若女将、佐藤さん、わたし。七夕の宴会が始まった。
 新海は、鳥恵からの常連客がついているらしく、客足が途絶えることがなかった。わたしは、日本酒がうまくて嬉しかった。
「ま、ここにすわんなよ」
注文を取りに来たお姉さんをくどく。
「マスターの奥さんですかって、聞かれるんですけど、違うんですよ」
そうなのかそうなのか。
 新海さんは俺よりも2つ下だ。だから、40台前半になる。
「新海さんよりも、ずっと年下なんでしょ」
「えー、10才以上も」
ということは、30台前半か。やだやだ親父はすぐにこういう計算をしてしまう。
「お店で働く前は」
「栄養士をしていました」
「栄養士って、管理栄養士かな」
「えー、そうです」
 わたしは、仕事柄、管理栄養士のひとたちとはつながりがある。
「いつか、自分でお店を開きたいんです。そのためには、調理師の資格も必要かなと思って、ここで働いているんです」
 飲食店を開くには、衛生管理士の資格は必要だが、厳密に言うと、調理師の資格は必要ない。もちろん調理師の資格をもっていて損をすることはない。
「センセーもね、いつか自分でお店を開こうとしているの。いいじゃない。そのときに調理をしてもらったら」
若女将の話はかなり飛躍している。
「えー、そうなんですか」
 運命なんて、どうなるかわからない。この先、何かの縁でつながることがあるかもしれないし、永遠に重ならない人生を歩くことになるかもしれない。しかし、若い女性が自分の夢を実現するために、飲食の仕事を選択した清清しさが嬉しかった。管理栄養士の仕事だけを続けていれば、調理のひとたちの苦労は見えにくかったかもしれない。栄養と調理の両方を習得したマダムの店が大船にできるとしたら、わたしにとっては強敵現るだ。
 この出会いは、七夕だからかなぁ。

 7月16日。関東地方は梅雨明けをした。
 梅雨明けと言われる以前から、湘南地方は猛烈な夏の日差しが連日降り注いでいた。
 ふだん日本酒を飲んでから、ホッピーでアルコール調整をしているわたし。さすがに、関所にたどりついたとき、喉の渇きをうるおすために、まずホッピーを買うことが多くなった。
「はい、140円ね」
若女将に百円玉を二枚渡す。関所で140円と言ったら、ずばりホッピーだ。若女将は迷うことなく、おつりの60円をくれる。
 クーラーのなかで、きょうもきちんと整列しているホッピー連隊。最前列の一本を手に取る。栓を抜く。コップに、トトトトトと注ぐ。上部3割ぐらいが泡になる。わたしは、それを一気に喉に流し込む。ぐいぐいぐいぐい。
 麦とホップの香りが喉の奥から鼻をつく。炭酸が喉から、声帯、気管支、食道を刺激しながら通り抜ける。アルコールがないので、コクやうまみはない。ビールの味がする炭酸刺激飲料だ。
 日本酒以外で酔う必要のないわたしには、こんなに適した飲み物はない。
「うまっ」
わたしは、二杯目をコップに注ぐ。赤坂さんが珍しいものでも見る目で、こちらを眺めても気にならない。
「あーあー、カンちゃん来ないかしら。センセー、メール来てないの」
なんで、わたしの携帯にカンちゃんがわざわざメールを入れるんだ。会いたいのなら、女性同士、若女将の携帯にメールが入るだろう。
「いま、何をしているか、呼び出してみればいいじゃん」
「ま、いいわ。今週は早いって言っていたから」
 なんだ、わたしの知らないときにカンちゃんは店に来て、若女将とスケジュールについて打ち合わせをしているではないか。
 わたしは、空になったホッピーのビンを床に置く。クーラーから山猿の一升瓶を取り出す。割れたせんべいばかりを集めた吾作が少なくなっている。山猿を棚に置き、吾作のかごを調べる。たくさんゴマが入っているのはどれだろう。
「あー、カンちゃん、来たぁ」
自動ドアの外を眺めていた若女将が歓声を上げる。いつもカンちゃんが登場する時間にしては早すぎる。いくら仕事が早く終わっても、東京から戻るのに、こんなに早くは帰って来れないだろう。
「おっす」
カジュアルな服装でカンちゃんが来た。きょうは、仕事が休みだったのかな。
「また、ちょっと、太ったんじゃないの」
うるさい、うるさい。この体格ハラスメントめ。
「これ、ちょうだい」
体重攻撃を無視して、わたしはせんべいの袋を若女将に渡す。お金を払って、焼酎コーナーに引っ込む。
「わたしさぁ、センセーに聞きたいことがあったんだよね」
ぎょ。そろそろ帰ろうと思っていたのだが。

 吾作の袋に青いマジックで名前を書く。全部を一度に食べきることはできないので、キープしておくから、名前が必要だ。
「わたしの知り合いに相談されたんだけど」
カンちゃんは、生ビールがなみなみ入った大きなプラスティック容器を片手にこっちに来る。
「知り合いの知人が、どうもふつうとは違うみたいなのよ」
ビールをぐいっ。わたしが棚に置いた吾作の袋に手を伸ばし、慣れた手つきでゴマせんべいを抜き取る。お前か、ひとのせんべいを勝手に少しずつ食べていたのは。
「そのひとは、30歳に近いのにいつもお母さんといっしょなんだって。そして、人生とか仕事とかの相談にのってほしいって来たらしいの」
カンちゃんの知り合いは、カウンセラーか。それとも、占い師か。占い師が客のことで知人に相談する姿は想像しにくい。
「いまのよのなか、30歳だろうと40歳だろうと、親と切れないひとは珍しくないよ」
「それがね、頭はめちゃくちゃいいらしいの。高校や大学は進学校を卒業しているし」
そもそもいい頭とは、どういう頭をさすのか。そこらあたりのことは、一般のひとたちはあまり気にしないのだろう。学校の勉強ができて、進学校を卒業していると、すばらしい脳の持ち主と認められる。そういうことに疑いを持たない。
「でもね、仕事が長続きしないらしいんだ。どんな仕事に就いてもひとづきあいができない。だから、職場で浮いてしまう。孤立するんだね。そのうち、退職しちゃう」
「それって、辞職なの、解雇なの」
「たいがい、自分で仕事に行かなくなって、それが何日も続いて、辞めてしまうみたい」
 胸のポケットに辞表を忍ばせて、課長の机に叩きつけるという方法ではないらしい。
「俺は、カンちゃんの知り合いとその知人がどういう関係かを知らないので、一方的なことしか言えないよ。つまり、そのお母さんと切れないひとの言い分はなしで、知り合い側の言い分に沿って判断するってこと。そこから判断すると、そのひとはおそらく発達障害だね」
「障害っていっても、受験をして大学も卒業しているんだよ」
「発達障害のうち、自閉症スペクトラムと言われる脳をもつひとは、大脳に問題がないケースが7割なんだ」
「むずかしー。なんかセンセーみたいな言い方」
しょうがねぇだろ、職業なんだから。
「ま、言葉はどうでもいい。自閉的傾向とでも思っていてよ。この場合は、ひとづきあいがうまくいかないということだから、コミュニケーション不全が大きいね。もしも、退職の流れがなんとなくいつの間にか辞めているのなら、社会性不全も含まれるなぁ」
 自閉的傾向の三大要素。コミュニケーション不全、社会性不全、イマジネーション不全のうち、二つも特徴が見られるというのは、かなり重症だ。
「知り合いは、そのひとにどんなアドバイスをすればいいのかな」
「まず、病院に行って、正しい診断をしてもらうことだね」
「病院って、科目は」
「そりゃ、精神科でしょ。いまはメンタルクリニックとか、ハートクリニックなんて、おしゃれなネーミングの精神病院が増えているから抵抗感は少ないと思うよ」
「それでもなぁ、いきなりそんなことを言ったら、怒り出してしまうんじゃないのかな」
「怒らせればいいじゃん」
 そんなことで怒るのであれば、大した問題ではない。

 一杯の山猿で済ませるためにホッピーを飲んでいる。
 しかし、カンちゃんの話題につきあうには、もう一杯の山猿が必要になった。
「自閉的傾向を直すことは難しい。だから、なるべく小さいときから家庭と学校、病院などの専門機関が協力して、よのなかとつきあう方法を何度も何度も繰り返し教えていく必要があるんだ。でも、勉強ができるケースでは、友だちが少なくても、ときどきわがままなことを言っても、親や教員は大目に見て、何も矯正指導をしないまま成長させてしまうことが多いんだ。そういうこどもが、いざ就職となったとき、勉強だけでは通用しないことに気づき、挫折しちゃう。だから、30歳に近いのに、自閉的傾向を直す指導を受けてこなかったというのは、今後、社会的生活を送るのには、かなりの困難を覚悟する必要があると思うよ」
「そっかー」
カンちゃんはため息をつく。
「でも、だからといって、何もしないでいると、状況はいまよりも悪くなる」
 カンちゃんの話。本当に知り合いから相談を受けた話なのかは、わからない。
 障害に関する相談は、いままでいくつも受けてきた。
 自分や自分のこどもが、自分の家族が障害者なんです、と率直に相談するひとはあまりいない。自分のこととして考えたくないので、知り合いや友だち、同僚など他人からの相談というかたちをとることが多いのだ。だから、あまり単刀直入なアドバイスをすると、かえって相談しに来た本人がへこんでしまう。
 カンちゃんのため息をどう読むか。
 知り合いを例に出したけど、じつは自分が関係していることなのか。
 知り合いにこのことを伝えるのは、気がめいるのか。
「コミュニケーションがうまく取れないというのは、結果的にひとづきあいが悪くなる。だから、気持ちを整理させるトレーニングと、整理した気持ちを言葉や文字にするトレーニングが必要なんだ。幸い学力が高いみたいだから、そういう事情を説明すれば、意欲的に取り組んでくれるかもしれないね。それから、社会性が低いというのは、結果的に組織からはみ出さざるを得なくなる。日常的に、上司や同僚、関連する部署などとのひとたちとの付き合い方や言葉の使い方などのトレーニングを積む必要があるよ」
「どうして、仕事が長続きしないんだろうっていう質問への答えは」
「そんなのいらない。そんな答えがわかったところで、状況はなにも変わらないのだから」
「じゃぁ、こうすればいいというアドバイスが必要なんだね」
「その通り。ただ、さっきも言ったけど、そのトレーニングには時間がかかるから、30歳に近いという年齢は、いまからすぐに効果が現れるとかんたんに考えない方がいいよ」
「もし、そういうトレーニングを拒否したら」
「きっとよのなかに対する漠然とした不満がふくらんでいくだろうね。そして、あるときその不満が爆発する。それは、自分に向かうかもしれないし、周囲へ向かうかもしれない。手首を傷つけるかもしれないし、爆弾を用意するかもしれないってこと」
「えー、そうなっちゃうの」
「あるいは、家族が手におえなくなって、長期滞在型の病院に入院させるかね」
 発達障害に対して、きちんとした指導と支援をしなかったツケは、最終的にだれが負うのか。いまのお粗末な日本の精神医療体制では、明確な位置づけがされていない。

 関所周辺はいくつかの町内会から構成されている。
 いまでは町内会という言い方をするが、昔は部落と呼んでいた。その後、部落という言い方は、被差別部落をさす差別用語となり、文章やテレビ、ラジオの世界からは消えた。しかし、日常生活では、古くからのひとはいまでも部落をふつうに使っている。
「こないだ、部落の会合でさぁ」
この辺でもっとも大きい山崎町内会で役職にある東さんはよく言う。
 町内会組織はきっと全国的なものだろう。
 古くからの地域の町内会は伝統があるので、きっと江戸時代以前から続くひとの集まりの単位なのではないかと想像する。
 新しくできた住宅地やマンションにも町内会ができる。しかし、新しくできた町内会は、ひとのつながりが希薄なので、組織はあっても機能はしない。せいぜい冠婚葬祭の回覧板がまわる程度か。
 関所周辺には、山崎、戸ヶ崎、富士見町、末広、台などの大きな町内会がある。そのなかで、現在も神輿を使った夏祭りをしているのは、山崎と富士見町だ。
 ことしの山崎の夏祭りは7月19日だった。
 大将や佐藤さんなど、多くの担ぎ手によって、神輿は北鎌倉方面まで練り歩いた。夕刻には、関所の前で神輿をもんだそうだ。
「佐藤先生って、声をかけたんだけど、向こう側にいて、聞こえなかったみたい」
若女将が、祭りの翌日に佐藤さんに言う。
「ここに来たときには、もう自分でもどこで何をしているのか、わからない状態でした」
麻酔科の佐藤ドクターは、神輿をかつぎながら、自身の脳内物質で酔っていたのだろう。
「ママさん、暑いなぁ、クーラー入れてよ」
奥から、シンロートの相田さんが注文する。
 そうだ、そうだと、わたしはリュックから新作のショルダーバックを取り出す。
「いかがでしょうか」
洋裁の腕がある若女将に、手芸作品を作ると見てもらう。
「あら、また作ったの。今度は、マチがしっかりしていて、すごい。模様もあわせていて結構結構」
どんなことでも、ほめられるのは、嬉しいものだ。
「もう、ずいぶん、作品が増えたんじゃないの」
仕事上、刺繍やバック、巾着を作り始めた。そのうちにおもしろくなり、時間ができると構想を練り、作品を作っては、生活に使っている。
「うん、かなりね。お店ができそう」
「そういうの、ブランドっていうんでしょ。すごいじゃないの」
 巾着やショルダー、布巾にブランドがあるのかどうかわからない。
「わたし、ブランドものって、全然知らないの。以前、キタムラのボストンバックをいただいたことがあって」
キタムラのバックといえば、丈夫で長持ち、いい革を使っている。そして、値段が高い。ボストンバックのように大きなバックなら、かなりの高額だ。

 わたしの母は、独身のときから、結婚後も、自宅で革製品の仕立てをしていた。
 多くは牛革を使っていたが、品物によってはワニやイタチなど、珍しい皮も扱っていた。すでになめされた革が届くのだが、それでも生き物独特の臭いが家の中にこもっていたことを思い出す。
 母は、おもに輸入革製品を扱う銀座や築地のお店に完成品を送っていた。イブサンローランやシャルルジョーダン、ルイビトンやシャネルなど外国のブランドから、作り方を書いた書類と革、革にブランドロゴマークが印刷されたものが送られてくる。それを使って、革専用の工具とミシンで作り上げるのだ。それで、メイドインフランスなのだから、いんちきだと、こどもながらに思った。
「メイドインオーフナじゃ、お客さんが買わないでしょ」
悪びれることもなく母は弁解した。オーフナってことはないだろう。
 だから、革製品が高額なのはこどもの頃から知っている。たとえ国内のメーカーでも、同じことがいえる。
「キタムラのバックって、Kマークだよね」
「そうそう、だから、わたしはずっと亀甲萬だと思っていたのよ」
 プッ。
 いくら、酒屋だからって、醤油メーカーとバックメーカーが同じだなんて。
「キッコーマンも、ずいぶん、しゃれた商品を作るのねって、長いこと、思っていたんだ」
 醤油作りを軽蔑するつもりはない。
 大豆から作り出す醤油には、いくつもの工程があって、時間や手間がとてもかかることを知っている。完成した醤油の一滴は、日本酒にひけを取らない価値がある。
 その同じ蔵の別室で、革のなめし職人がいて、日夜、牛の皮をなめして、のばし、カットして着色する仕事をしている。
 そういう絵は想像できない。そこを、いともかんたんに飛躍していく若女将の自由な発想はすばらしい。
「あー、佐藤さん、はやーい」
神輿をかついだ疲れを背負って、横浜から佐藤さんが帰ってきた。
「お疲れ様です」
わたしは、佐藤さんが通りやすいように通路を開ける。
「そういえば、また8月に築地に行く予定なんですけど、佐藤さんは注文がありますか」
荷物を床に置き、上体を起こしながら、佐藤さんは顔を上に傾けて考えた。
「そうだ、またジャコをお願いします」
「前回、500グラムも買ったけど、もうなくなっちゃったの」
「前は、わたしがお弁当に使う程度だったんだけど、こないだのジャコあたりから、こどもたちがごはんにかけたり、弁当に入れたりするようになって、減り方が激しくなってしまったんです」
 築地でジャコやちりめんを専門に扱う日本丸大の親父が聞いたら喜ぶだろう。高級料亭ではなく、育ち盛りの若者たちに好まれているジャコ。いい品物を卸して売っていると自信をもつだろう。

 梅雨が明けた。
 少なくとも関東地方は明けた。
 気象庁が発表した。すると、急にしとしとじめじめ雨降りの天気が続く。7月後半は、気象庁泣かせの気圧配置なのだろう。ニュースでは1993年の夏も「明確な梅雨明けは確認できなかった」と気象庁が認めたそうだ。梅雨からそのまま秋に移行した。当然、夏は記録的な冷夏になる。農作物が受けた被害は甚大だった。
 ことしも冷夏なのだろうか。
 7月23日。関所のひとびとは、翌日の仕事に備えてすでに帰った。
 わたしは、仕事はあるのだが、夏休みに入っていたので、こどもたちがいない。こどもたちがいない学校は、やろうと思うことを、いつやってもいい自由がある。
 こどもたちがいると、授業時間が決まっているので、授業の準備やプリントの作成、教材の用意などは、こどもたちが帰った後にならないとできない。放課後は、いつも暇なわけではない。職員会議、学年会議、研究会など話し合いが入ることが多い。だから、用事のない時間を見つけて、自分の仕事をする。
 しかし、夏休みはこどもがいない。会議もない。だから、出勤してから退庁するまでの時間を自分でコントロールできるのだ。この自由度は、気持ちを楽にする。
 何しろ、ふだんは服務上、職務専念義務という規定があって、教員は学校の敷地から勝手に出てはいけないのだ。こどもたちを連れて近くの公園に行こうと思ったら、数日前から申請書を出して許可を必要とする。しかし、夏休み中は「ちょっとそこまで」と挨拶をして、近くの100円ショップや本屋に行くことも自由だ。
 そろそろ、俺も帰ろうかな。
 そう思ったとき、自動ドアの向こうを懐かしい知り合いが通過した。
「よ」
わたしは、片手を上げて合図を送る。自動ドアが開き、知り合いが関所に入る。
「また、きょうも飲んどるのか」
こどもが小学生や中学生だったとき、保護者のソフトボールチームでいっしょにプレーをした黒木さんだ。営業の仕事をしていて、いまは静岡市に単身赴任している。
「きょうはまだ週の中日なのに、戻ってきたの」
「東京で会議があった」
「そっか、そんで自宅に帰って、あした静岡へ」
「あしたもおる。東京でまた会議がある」
 博多出身の黒木さんは、どこに行っても博多言葉が出てくる。これで営業職がつとまるのだろうか。
 会うのはとても久しぶりだ。でも、ソフトボールチームのメンバーとして何試合もゲームをした経験は、時間が経過しても、互いの関係を変わらないものにしている。
「なに、のんどる」
黒木さんが、わたしのコップを覗き込む。
「日本酒だよ、飲む」
「いや、日本酒はあしたがつらくなる。生ビールをください」
 ちゃんと標準語も喋れるじゃん。

 わたしは、山口県の日本酒「山猿」が入ったコップ。黒木さんは生ビールが入ったプラスティック容器。ふたつをあわせて乾杯をする。
「浜松に行ったのって、いつ頃だっけ」
黒木さんは、静岡の前は浜松勤務だった。
「ちょうど、去年のいまごろ」
 割れたせんべいを集めた吾作をあげる。
「じゃ、一年も経たないうちに異動になったの」
「浜松は閉鎖。静岡は新規」
 たしか、黒木さんは浜松に新しく作る営業所の所長として単身赴任したのだ。
「じゃ、世界的な不景気の影響を受けて、浜松での営業は難しかったんだ」
「あー、もう秋には閉鎖の話を本社から言われてた」
 はや。
 企業とはそういうものか。
「浜松に比べたら、少し静岡ならこっちに近くなったね」
 週末に地元の少年野球のコーチをしている黒木さんは、そのたびに鎌倉に戻ってくる。少しでも近い方が便利だろう。
「本社からは、もう東京へ戻って来いって話やったんだわ」
「そりゃいいじゃん。なんで、静岡なのよ」
 黒木さんは、ひじでわたしの肩を小突く。
「俺にも、意地ってものが、あるわけよ」
「だって、浜松でうまくいかなかったのは、黒木さんの責任ではないでしょ。世界的にどうにもならない流れだったんだから」
「そんなことはわかっとるがな。そやけど、つぶれた営業所の整理をして本社に戻ってみ。同期や後輩にどう思われる。負け犬や、それしかない」
「いいじゃん、それでも」
「センセーは企業の恐ろしさを知らないから、そんな甘いことが言えるんだなぁ」
「いいだろ、恐ろしさなんて知らないほうが、身のためだもん」
「あかん、話にならん」
 黒木さんの本心はわかっていた。でも、企業で営業職として働く責任感の前に、自分の生活や健康をつぶしてほしくないのだ。わたしは、彼が東京勤務だったとき、何度も早朝6時半頃に、大船からふらふら帰宅する姿を見ている。接待で遅くまで飲み歩き、早朝の電車で帰宅。わずかな時間だけ休んで、ふたたび出勤。そんな生活ではからだが悲鳴を上げる。
「あ、中田さんだ」
 痩身の中田さんが、スーツケースを手にして関所の前を通り過ぎる。わたしと黒木さんに気づいて、関所に入った。
「久しぶり」
中田さんも、黒木さんと同様に、ソフトボールをいっしょにやった仲間だ。わたしや黒木さんよりも年上だ。

 ニコニコしながら、中田さんがスーツケースを床に置く。
「俺のでよかったら、酒がありますけど」
「ありがとう、いただこうかな」
わたしは、若女将からコップを受け取り、中田さんに渡す。
「山猿っていう山口県のお酒。珍しいんですよ」
一杯、口に含み、味わいながら中田さんは、山猿を飲み込んだ。
「米と麹の味が、口のなかで広がっていくね」
さすが、中田さんは通だ。
「どれ、わいにも寄こせ」
黒木さんが、空になったビールの容器を突き出す。
 きみは、日本酒は飲まないんじゃなかったのかな。
 わたしは、仕方なく、山猿を注ぐ。ビールの泡と混ざって、やや白濁した。
「中田さんは、フィットネスから平塚に移ってもう長いんですよね」
「うん、そう」
「また、そろそろJR関係の別会社に異動するんですか」
 営業職の意地で、自分のからだを犠牲にしている黒木さんに聞こえろー。
「フィットネスの時代は、JRからの出向だったんだけど、いまは、もう平塚のルミネビルの正式な社員なんだよ。だから、ほかに行くことはないんだ」
 中田さんは、分割民営化以前の国鉄時代から国鉄で働いていた。
 ずっと事務職で、切符の売り上げ計算を中心に本社での仕事を長く経験した。
 分割民営化とともに、いくつかの子会社へ会計事務の責任者として派遣された。最後は、多摩の方にあったフィットネスクラブの会計をしていると聞いた。家に帰る時間が遅くなって大変だと嘆いていた。
 数年前に平塚に移ったんだと、喜んでいた。東海道線一本で通勤できる距離、ラッシュとは反対方向の通勤、どちらもからだにはよかったのだろう。
「じゃ、JRは退職したことになるんですね」
「ま、そういうこと」
 長年、勤務してきた会社を辞めるというのは、どういう気持ちだろう。まだ働き盛りの中田さんのような専門職を、退職させる会社に未来はあるのか。給料の安い若い人材ばかりを集め、専門的な技術が必要な部分は出向社員や派遣社員に任せる。コスト削減が至上命題の日本株式会社。
 すでに、沈没していることを、みんなで認めていきましょう。
 アメリカは4兆円。日本は11兆円。まだ食べられるのに捨てている食品の総額だそうだ。2008年度一年間での金額だ。日本の人口はアメリカの約半分なのに。
 見栄とはったりと無駄の社会。
 わたしは、壁の時計を見上げる。
 8時を過ぎた長針は、6の数字に近づこうとしている。
 リュックを背負う。
「お先に」
「なんやねん、もう帰るんか」
だって、もうずっとここにいるんだから。
「いま、来たばかりなのに」
そうそう、中田さんはね。
「ごゆっくり」
 わたしは、若女将に手を挙げる。背中に、黒木さんと中田さん。ふたりは、いつもの関所のメンバーではない。でも、そういうひとでも地元に生きて、地元で暮らしている。単身赴任で、たまに帰ってきたときでもいい。仕事帰りに、知り合いを見つけたときでもいい。それぞれに、その気になったとき、気軽に立ち寄り、少しのアルコールで、コミュニケーションをはかる。
 わたしが、最後までふたりに付き合ったら、きっとふたりは今後もわたしがいないと関所には入らないだろう。それでは、意味がない。わたしは、ふたりを関所に引き寄せた。その役目を果たせただけで十分だ。そこから先は、それぞれの気持ちで動けばいい。
 ひとがひとの生き方をしにくい日本株式会社。
 自殺者は、年々増加し続ける。生きにくいよのなかから、生きられないよのなかへ。
 一部の金持ちと、一部の資産家と、一部の御曹司にばかり、富が集中する社会。
 ため息をつくことは簡単だが、これらを変えていくことは容易ではない。
 どの街にも、関所が増えるといい。ひととひとが、一日の決まった時間に顔を合わせ、意味のあることからないことまで、会話を交わす。酒屋でもいい。碁会所でもいい。公園でもいい。花屋でもいい。八百屋でもいい。喫茶店でもいい。
 考え方の違うひとどうしが、よのなかを支えていることを、日々、感じ取ることができる場所が、わたしにとっての関所なのだ。

八章・了

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