go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..三章

 2009年は快晴で年を明けた。
 昨年は、秋以降、世のなかは不景気一色になった。
 豪邸に住む総理大臣が、どんなに「国民の生活を最優先に」と言ったところで、生活者の困窮は変わらなかった。大量の失業者が先の見えない不安を抱えて、2009年を迎えたのだ。
 大きな会社の経営者は、雇用調整という、ひとをひととも思わない表現を使って、労働者を解雇した。生産や加工に従事するひとたちがいなくなれば、将来的に会社の機能そのものが低下することを想像できないらしい。
 巷にあふれた失業者のなかにも、「どんな仕事でもいいからお金を稼ぎたい」というひとばかりではなく、働く意欲があるのかないのかわからないひともいるらしい。そんなひとほど、「あれはやだ、これはやだ」と注文をつけるそうだ。
 日本社会は、1990年のバブル崩壊以降、経済だけの破綻ではなく、ひとの暮らしやものの考え方まで崩壊させたのかもしれない。社会学者の宮台真司さんが予言した、社会の島宇宙化やまぼろしの郊外が、いよいよ現実の姿を見せ始めた。
 わたしは、1997年に同僚らと「このままでは、こどもの学力の二極化が進み、平均的学力の意味が崩壊する。いまこそ、記憶中心の指導を改め、思考中心の指導に転換しないと、将来的に自分でものを考えられなくなるおとなが増える」と宣言し、新しい学校の設立運動を始めた。振り返れば、当時小学校6年生だった12才のこどもたちは、あれから12年が経過し、24歳を迎えている。働けない若者たち世代の真っ只中で、仕事のない社会を恨みながら生きているのだろうか。
 大船の街を歩いた。商店街は昔ほど正月だからといってシャッターを閉めていはいない。
 それでも、個人経営のお店は4日以降、もしくは7日以降よりという貼り紙が多い。活気ある大船では、それだけ休んでもまだ仕事を続けていけるということだろう。大手資本が経営するドラッグストアやパチンコ屋は、仕事がなく行き場のない正月休みのひとたちを大量に吸収していた。
 元日の朝に、ちょうど佐々木譲さんの「駿女」を読み終えていた。冬休みに入ってから読もうと思っていた本だ。文庫本でも分厚かったが、著者の筆力で、わたしはぐんぐん物語世界に引き込まれ、あっという間に読んでしまった。文庫本の買い溜めがなくなり、次はどうしようと思った。そのとき、関所の若女将から借りていたパトリシア・コーンウェルさんの検屍官シリーズがまだ残っていたことを思い出した。スカーペッタ検屍官が宿命の敵である連続殺人鬼ゴールトといよいよ対決する「私刑」を、手に正月の大船を歩いていた。いつも行く喫茶店やラーメン屋がやっていないので、駅ビルのスターバックスに入る。チャイを注文して、窓際のテーブルに着く。私刑を開き、コーンウェルの世界に没頭した。
 小一時間ぐらい読書をして、思い出した。そういえば、佐藤さんが載った男の弁当とかいう雑誌(正確には「クーネル」です)は、もう出版されたのかな。関所に行って確かめよう。

 「あけましておめでとうございます」
 関所の自動ドアをくぐる。
 ことしの関所は、正月3日からの営業開始だった。
「きのう、新羅亭に行ってきたのよ」
若女将が、笑顔で教えてくれた。
「うわ、いいなぁ」
「だって、センセーだって、暮れに行ったって言ってたわよ」
そうだった。職場の忘年会で利用したのだ。
 新羅亭は高級焼肉屋だ。大船から歩くと15分ぐらいかかる。商店の密集した場所にはない。それでも、駐車場には神奈川県内各地から家族連れや仲間うちでのお客が絶えない。
 店に入ると、真っ先にホワイトボードが目に入る。そこにはその日使っている牛の番号が書かれている。安心の証を客に見えるようにしているのだろう。
 以前、新羅亭で働いていたひとに聞いた。
「あそこでは、普通の焼肉屋の上が、普通のメニューです。だから、あそこで上と名のつくものを頼んだら、普通の焼肉屋では食べられない肉が出てくると思ってください」
確かにその通りなのだ。だから、頼むときに、メニューの端に書いてある値段を見ながら頼まないと、帰る時に財布がすっからかんになる。
 わたしは、家族や友人と行くよりも、何とか職場の宴会で利用したかった。職場の宴会は毎月ごとに積み立てをしているので、当日現金払いをする必要がない。積み立てているのだから、結局は自分の金を使っている。だったら、おいしいお店に行きたい。どのお店を利用するかは、幹事が決める。ことしの幹事が忘年会は、たまには大船でやりたいと言っていたので、わたしは候補として新羅亭を推薦した。結果的に、忘年会は新羅亭に決まった。
 わたしは、来年はもう肉を食わなくてもいいぐらい、後悔しなくていいぐらい、その忘年会で焼肉を食べまくった。みんながナムルやキムチ、ご飯を食べ、スープを飲んでいても、ひとりおかまいなしにタン、カルビ、ロース、ホルモンを食べまくった。
 その思い出がよみがえった。
 山猿をコップに注ぎ、よっちゃんの酢漬けイカを買う。ことしは当たるかな。
「きょうも、行くんだ」
え、2日間連続。うらやましー。それにしても、胃袋、タフだな。
 わたしは、忘年会の翌日は一日中何も食えなかったのに。
「こういう商売をしていると、年末年始が忙しいから、みんな手伝いに来てくれるのよ。きょうはそういう手伝いに来てくれたひとたちへのお礼」
なるほど。感謝の宴か。さぞや肉も酒もうまいことだろう。
 あ、若女将が声を上げた。
「当たったよ、当たったよ」

 去年は一度も当たらなかったよっちゃんの酢漬けイカが、正月早々の一番買いで当たったのだ。
「やったぁ、ことしは最初から縁起がいいなぁ」
 一個30円の酢漬けイカ。当たるともう一つサービスでもらえる。わたしは、新しいイカを棚から取り出し、クーラーボックスに入れておいた。この次、来たときには、当たったことを忘れているかもしれない。最近、そういうことが増えてきた。
 縁起のいいイカを手に、ことし最初の山猿を口に含む。
 この味がいい。口のなかに広がる米と麹の旨みと香り。喉を過ぎるときの心地よさ。細胞の一つ一つに染み渡っていくようだ。
「そういえば、佐藤さんはもう取材料をもらったのかな」
「そうそう、それを知りたくて来たんだ」
「確か、9000円って言ってたよね」
「うん、カンちゃんといっしょに新羅亭でごちになろうと約束した。まだ、佐藤さんは何も言ってないの」
「聞いてないなぁ」
 佐藤さんが雑誌に出たら、みんなで新羅亭に行って焼肉を食べようと言っていたのだ。
 表現は悪いが、わたしたちは「たかり」だ。にもかかわらず、佐藤さんはその話を決めたとき、嫌な顔を一つも見せずににこにこしていた。
 奥へ続く引き戸から大将が登場した。
「あけましておめでとうございます」
ジロッ。
「もう飲んでやがる」
 大将に続いて、お手伝いに来ていたひとたちが登場した。
 まだ関所は閉店ではないが、一足先に新羅亭で盛り上がるつもりだろう。新羅亭はふだんでも予約でいっぱいだから、正月はなおさらのことだ。店としても「予約」の札を出したまま空席にしておくのは、後から来た客を断るのに気が引ける。予約客には早く来てほしい。
「いいなぁ、新羅亭か」
わたしが、うらやましそうにつぶやく。
「そうだなぁ、カルビかロースがいいなぁ」
「すみっこの方、たっぷり焼いて炭になったのを持ってきてやろうか。一枚が高いよ」
お土産というのは、プレゼントにしてください。
 一団が新羅亭に向かった。
「じゃぁ、早く店を閉めなきゃね」
わたしは帰り支度をした。
「そんなに、気を使わなくてもいいのに。来週からは、この辺も工場も始まるから、またにぎやかになるわね。そういえば、休みの間に、何度かカンちゃんが来て、そのときにセンセーに聞きたいことがあるって言ってたわよ」
若女将は、みんなの伝言役でもあるのだ。

 正月明け一週間が過ぎた。
 役所も学校も工場も通常業務がスタートした。
 仕事を終えて、6時前に関所に入る。
「こんばんは」
 正面の目立つところで、赤坂さんが腕を背中に回して腰を伸ばしている。昨年の暮れに痛めた腰がまだ完治していないらしい。
「や、センセー、あけましておめでとう」
えびぞり姿勢を元に戻しながら、新年の挨拶。
 向かって左側、商品棚の横では、シンロートの相田さんが携帯電話をいじっている。きょうは新年会の予定があるのだろうか。
「センセー、どうも。なんか、年初めのサービスがあるみたいだよ」
 なんのことやらと思っていたら、ことし最初のお客さんには生ビール一杯のサービスがあるとのことだった。
 そうだ、そうだ。こうやって、みんなが集まるのはきょうがことし初めてなのだ。わたしは、クーラーボックスに入っているこないだ当たったよっちゃんの酢漬けイカに視線を向ける。やばい、あれをどうやって説明しようか。
「先生は、ふだん、生ビールを飲まないけど、一杯ぐらい、いいでしょ」
すでに、若女将はわたしの返事を聞かないで、コップに生ビールを注いでいた。
「どうも、ありがとうございます。いただきます」
コップを受け取って、わたしはレジ横の定位置に向かう。荷物を床に置く。
 正面の商品棚の向こう。通路で永田さんと烏丸さんが、すでにおでこを紅くしていた。
「こんばんは。ことしもよろしく」
わたしは、生ビールの入ったコップを掲げて、乾杯のジェスチャーをする。
 永田さんは、焼酎のロックを、烏丸さんは、ウイスキーのウーロン茶割を、それぞれに手にして、応対してくれた。2人とも、すでに生ビールサービスの時間は過去のことのようだ。
「こんばんは」
自動ドアが開く。シンロートの山ちゃんとうーさんが並んで登場した。
「若女将から、サービスがあります」
赤坂さんが2人を誘導して、レジに案内する。
「こんなんじゃ、毎日、年初めがいいな」
生ビールを受け取って、山ちゃんは嬉しそうだ。
「うーさんは、飲まないんだよね。なんでも、好きなのを一本取っていいよ」
ノンアルコール専門のうーさんに、若女将が気配りをする。うーさんは、恐縮しながらカロリーオフのコーラを選んだ。
 わたしは、さりげなくクーラーボックスから、当たりを引いて確保しておいたよっちゃんの酢漬けイカを取り出した。それを若女将に渡す。
「また、当たったりして」
「それは、ないでしょ」
はさみでくじを切り取った若女将の目が点になった。
「あらやだ、また当たったよ」

 正月明けの関所に、きょうから集まったみなさん。
 わたしは、こっそりそれ以前に来て飲んでいました。だから、ここに当たりのよっちゃんの酢漬けイカがあったんです。ごめんなさい。
 そう謝ろうと思っていたのに、だれもわたしの連続当たりには興味を示さない。きょう、買おうとしたイカが当たったと勘違いしたのかもしれない。それならそれでいいや。
 そのとき、奥で永田さんと話していた烏丸さんが、空になったペットボトルとサキイカの袋を抱えてレジにやってきた。それを高くかざして、若女将にお勘定を計算してもらっている。合計を出して、若女将が尋ねる。
「つけとくの」
え、烏丸さんは、立ち飲み代金をつけているのか。ひとには、難儀難儀と言っておきながら、なかなか図太いな。
「ちゃんと払うよ。明朗会計が一番」
わけが、わからん。
「カラス、もうちっと、待てよ」
赤坂さんが、帰ろうとする烏丸さんに言う。
 2人は、家が同じ方面なので、途中まではいっしょに歩いて帰るのだ。
「ま、ちょっと飲め」
パックの日本酒を、烏丸さんの紙コップに注ぐ。烏丸さんは、あまり日本酒は好まない。あんなに注がれたら、飲み干すのにしばらくかかるだろう。
 有無を言わさない赤坂さんのお酌にも、烏丸さんは泰然自若としている。しかし、わたしを振り返り、にやっと笑って言った。
「センセー、難儀だなぁ」
いや、この場合、難儀なのはあなたですよ。せっかく帰ろうとしていたのに、あまり飲まない日本酒を注がれてしまって。去年の花見の会と暑気払いで幹事をしたわたしは、出されたものを最後の一粒、最後の一滴まで残さないあなたを知っているので、さぞやいまの気分はブルーだろうとお察しいたします。
 烏丸さんの携帯電話が鳴る。
「うん、うん、わかってるよ。いま、すぐ、けぇっから」
独身のはずの烏丸さんを待っているひとからだろう。
「待っているひとがいるなら、早く帰ったほうがいいんじゃないですか」
「そうだよな。きょうはソーメンだって。もうゆでっちゃったって」
「お酒ぐらい、残しても、ばちは当たりませんよ」
「さすけ、ねぇ」
烏丸さんは、急ぐ様子もなく、ちびちびと日本酒をなめている。
「俺はずるいのよ。待っているひとがいるって、わかってっから、待たせちゃうんだな。甘えてるんだな」
「怒っちゃうんじゃないですか」
「だから、電話が鳴る」
 赤坂さんが自分のコップの日本酒を飲み干した。
「あれ、カラス、まだ飲んでんのか。しょうがねぇ、俺もあとちょっとだけ付き合うか」
手酌で自分のコップに注ぎ足す。これでは、この2人はいつまでも帰れない。ソーメンは干からびて、箸でつまめなくなってしまう。

 わたしは、連続で当たったよっちゃんの酢漬けイカで、3つ目のイカをクーラーボックスに入れておいた。
 その日は、いつものメンバーが新年会や用事でいなかった。
 代わりに、いつもは遅い時間に来る医師の佐藤さんが早く来た。
「センセーね。去年は一回も当たらなかったのに、年が明けたら連続で当たったのよ」
ショルダーを床に置いて、佐藤さんが目を丸くする。
「それは、すごい」
わたしは、クーラーボックスから2度目の当たりでもらった3個目のイカを取り出した。
「これ、佐藤さんにあげるよ」
「そんなぁ、いいですよ」
手を振って、遠慮をする。
「まぁ、お年賀だと思って」
「そうですか、じゃ、遠慮なく」
遠慮に見えたのは、何だったんだろう。
 若女将がイカを受け取って鋏でくじを切った。
「やだぁ、また当たりだよ」
 3回も連続した。当たりが3回も連続した。そんなことってあるんだ。一年の運を全部使ってしまったみたいで気味が悪くなる。
 レジの奥で新聞を読んでいた大将が、本当かよって顔で当たりを確かめる。
「おいおい、うちの商売、上がったりだぜ」
 わたしは、自分がつまむイカを買う。
「これも当たるかな」
「さすがに、それはもうないよ」
気のせいか、若女将の握る鋏の取っ手が震えている。
「信じられない。まただ」
当たりが続きすぎ。よっちゃんは、今回の納品に当たりばかりを入れてきたのではないか。
「こんばんは。どうしたの、みんな」
カンちゃんが自動ドアをくぐった。若女将が事情を説明する。
「えー、不思議なこともあるもんだね。これ、わたしも買ってみようかな」
カンちゃんの選んだイカのくじを、若女将が鋏で切って開けた。
「なんか変、また当たり」
当たりの連続ヒット。これでは、確かに商売にはならないだろう。
 10円玉を握り締めて夕方に駄菓子を買いに来るこどもが当てたのなら、素直におめでとうが言えるかもしれない。しかし、立ち飲み客がこんなに連続で当たりを引いたら、おもしろくもかわいくもない。
 こうして、クーラーボックスには、わたしと佐藤さんとカンちゃんが当たりで引いたよっちゃんの酢漬けイカが3つ仲よく並ぶことになった。

 1月も中旬に差し掛かると、関所のメンバーは口には出さないけど、同じ気持ちがこころに漂っているのがわかった。
 ついこないだまで、ここで顔を合わせていたメンバーが、いまはもういない。
 派遣労働者の契約打ち切りで、ローリーを始めとする陽気なペルー人たちは、仕事を追われた。
「派遣がこれだろ」
赤坂さんは、自分の首に手を当てる。
「次は、俺たち、下請けだよ。もう毎日、びくびくしてる」
 だれがこんな国にしてしまったのだろう。
 だれがこんな経済にしてしまったのだろう。
「こんばんは」
「よぉ」
 東田さんが、疲れた足を引きずって関所に来た。東田さんは、みんなに東さんと呼ばれている。運送関係の仕事をしている。一般の荷物ではなく、工業製品専門のドライバーだ。運転の仕事に携わっているが、根っからのビール好きだ。すでに年金をもらえる年齢にもかかわらず、現役でハンドルを握っている。実家は、この地域一帯の有名な地主だ。
 東さんは、いつも入口近くのアイスクリームを入れている冷凍容器の近くで缶ビールを飲む。きょうも、奥の大きなクーラーボックスから缶ビールを手にした。
「はい、コップ」
若女将がプラスティックコップを差し出す。缶ビールを飲むけど、直接、口をつけて飲むのが苦手らしい。東さんとは何度かバス停の前の小さな窓こと「鳥藤」で飲んだことがある。ビールが好きなのに、あまり生ビールは飲まない。
「同じビールなのに、どうして生ビールは飲まないんですか」と聞いたら
「あの管の中をビールが通るだろ。だから、ビールに管の臭いがつくんだよ」
とてもデリケートなひとなのだ。
 関所でも、あまり肴を口にしないで、黙々とビールを飲み続ける。帰るときには、4本ぐらいの空の缶を抱えて清算している。
「先生は、あれかい。色鉛筆って知ってるか」
そりゃ、もちろん。でも、それは多くのひとが知っていると思うのだが。
「はい」
「今度、病院のばあさんに持って行こうと思っているんだ」
東さんのお母さんは、長いこと入院を続けている。仕事帰りに病院に寄って関所に来ることが多い。わたしも数年前に母を亡くしたが、仕事と看病の日々は忙しかった記憶がある。
「そりゃいい。うちはもう、言葉もうまく出ない」
話を聞いていた赤坂さんが、東さんに賛同する。赤坂さんも高齢で入院しているお母さんを気にかけながらの毎日だ。
 わたしは、いちいち芯を削らなくていいように、芯だけでできたクーピーペンシルを教えた。いまどきはそんなものがあるのかと、東さんはメモしながら驚いていた。

 その日は、関所到着10メートルぐらい前から、にぎやかな声が通りに響いていた。
 もしかしたら、あのローリーたちが復活したのか。仕事帰りの疲れた足に、元気が充填された。
「こんばんは」
いつも、シンロートの相田さんたちがいる場所に見知らぬ若者が2人いた。さらに、相田さんとうーさんが上機嫌で若者をはさんでいる。
 わたしは、番頭の赤坂さんに目で合図を送る。赤坂さんは小さな声で教えてくれた。
「相田さんたちの会社の若いひと」
 これまでにも来たことがあるのかもしれない。でも、わたしは初めて見た。わたしに気づいた相田さんが、若者に言う。
「あのひとが、センセー。いつも酒ばっか飲んでいる」
自分だって同じだろう。そう思いながら、若者に会釈する。
「会社のひとですか」
わたしは、相田さんに尋ねた。
「そ、こっちが俺の部下」
それを聞いて、関所にいた常連たちが合唱した。
「かわいそー」
「なんだよ、それ。そんなことないよなぁ」
相田さんの部下は、照れ笑いをしながら、ポテトチップスを食う。
「そんでもって、こっちがうーさんの部下」
それを聞いて、関所にいた常連たちがふたたび合唱した。
「そりゃ、よかったー」
「ね、みんな、どういうこと。なぁ、うーさん」
相田さんに振られたうーさんは、困惑しながらも、笑顔で応じた。
 うーさんの部下は、関所のひとたちが、相田さんとうーさんをどうとらえているのかを瞬時に察した表情をした。
「カップ麺もあるから。お湯を入れてあげるよ」
若女将が若者に声をかける。その声色は、日々、わがままな酔客に向けるものではなく、優秀な息子さんや娘さんにかける母のやさしい響きになっていた。若者たちは、遠慮しながらカップ麺を選び、開封して、湯を受け取りに来た。
「若者は、よく食うなぁ」
わたしは、赤坂さんと顔を合わせた。
「どんなに食っても、ここは原価だから。遠慮なく食ったらいいぞ。先輩がおごってくれるから」
番頭の赤坂さんは、支払いのことまで決めてしまう。

 わたしは、コップの山猿を二口ぐらい飲んだ。わずかな時間だ。
 なのに、若者2人はもう空のカップを捨てに来た。
「はぇー、もう食ったの」
シンロートの仕事は、よほどハードなのか。ちゃんと噛んだか。わたしも、親父みたいな心配をする。
 相田さんの部下が、缶をすてるところにカップを入れた。
「そこは、違う。プラはこっちだよ」
自称、分別係のわたしは、若者を指導する。それを聞いたうーさんの部下が、縮こまっている。見ると、カップのなかにスープを残している。偉い偉い、塩分の取りすぎに注意しているのか。それとも、飲み方が足りなくて、からだがまだナトリウムを要求していないのか。赤坂さんが、うーさんの部下に教える。
「外に出て下水に流す」
あ、はいと返事をして、うーさんの部下は外に出て行った。
 そこに、ニコニコしながら、山ちゃんが登場した。ややO脚の山ちゃんは、外でスープを捨てている若者や、相田さんの隣りで焼酎をごちそうになっている若者を交互に見た。
「お、新人が登場だね」
若者は、相田さんやうーさんに対してとっていた距離感よりも、やや緊張した間合いを山ちゃんにとった。きっと、会社では山ちゃんはかなり上の立場のひとなのだろう。関所では、相田さんもうーさんもそういう上下関係をまったく出さないから、平板に感じてしまう。
 奥の商品棚の陰から永田さんが顔を出す。
「若者は食いっぷりも飲みっぷりもいいなぁ」
まったくです。
 しばらく談笑していたシンロートの5人は、その後も乾き物を食べ続ける若者を気遣い、大船に出てきっちり食おうということになった。
「そんじゃ」
相田さんが手を挙げる。にぎやかな一団が去った。静寂が戻る。
 よっちゃんの酢漬けイカが終わり、わたしもきょうは早く帰ろうか。そう思ったときにカンちゃんが登場した。関所は、みんな打合せをしているわけではないのに、役者が交互に入れ替わる。まるで、自動ドアの向こうで次々と出番を待っているようだ。
「あれ、センセー、もう帰るの。まさかねぇ」
帰り支度のわたしを見て、行動を読む。まさかねぇの後に続く、言葉を想像すると恐ろしい。
「じゃぁ、もう一杯だけ」
わたしは、優柔不断だ。ベビースターラーメンを手にして、30円を支払った。
 出会いと別れがかさなりあう関所。ことしも、去年と同じように始動した。

 若女将がカンちゃんに生ビールを差し出す。
「あのこと、聞いちゃえば」
わたしに聞きたいことがあると言っていた。レジで若女将と正対していたカンちゃんが、レジ横のわたしの定位置にビールのコップを手にしてやってきた。
「センセー、また太ったんじゃないの」
おい、聞きたいことってそれかよ。
「あのさぁ、教員って、わたしでもなれるわけ」
「そりゃ、なれるよ。免許、持ってるの」
「ない」
「じゃぁ、これから免許を取って、試験に受かれば採用だよ。小学校、中学校、高校。どれ。ちなみに大学の場合は免許はいらないよ」
「へぇ、そうなんだ。でも、年齢制限とかってないの」
「以前はあったけど、いまは神奈川は撤廃したと思う」
今度正確に調べて教えてあげよう。
「小学校の免許を取るとして、どうすればいいの」
「教員免許で一番、単位が多いのが小学校だから、一番大変だけどいいの」
「そっかぁ。でもやっぱ小学校だなぁ、やるとしたら」
「仕事を辞めて大学に通うの。仕事を続けながら資格を取るの」
「いまの仕事は辞めないで、免許を取りたい」
「じゃぁ、通信制がいいよ」
わたしは、通信制で小学校の免許が取れる大学をいくつか紹介した。
「あら、また勢ぞろい。佐藤さんが来た」
若女将が教えてくれた。
 病院の仕事を終え、佐藤さんが登場する。わたしの横に荷物を置いた。
「カンちゃんがね、教員になりたいんだって」
クーラーボックスから高清水を取り出す佐藤さんに伝える。カンちゃんは、プライベートなことをべらべらしゃべるなって顔で、上目遣いにわたしを見る。
「へー、いいんじゃないの」
ひとの生死にかかわる仕事をしている佐藤さんは、こういうことでは動揺しない。
「まぁ、あんまり教育の力を過信しないほうがいいとは思うけど」
わたしは、熱血で意欲満々でつぶれていった若い同僚を思い出す。
「せっかく、ひとがやる気になっているのに、水をささないでよ。たださぁ、教員なんてやったことないし、自信ないんだよね」

 わたしは、口に含んだ山猿をプッとふき出しそうになった。
「もともと教員をやって、自信もって、教員になるやつなんか、いないよ。ねぇ、佐藤さん」
「うん、医者だって、資格もないのに医療行為をやって、自信をつけてから、医者になるひとはいない。みんな、最初は未熟で、仕事をやりながらいろいろ覚えていくんだよ」
資格なく、教員や医者をやったら、いまの日本では逮捕されてしまう。
「じゃぁ、そもそも資格や免許ってなによ」
そういう深いところに行ってしまうのか。
「なんだろうねぇ」
そういう浅いところにかわしてしまう佐藤さんと、わたしは同じ岸辺に立つ。
「それとさぁ、もう一つ考えていて。臨床心理士もいいかなって」
確かに、カンちゃんの話の流れから想像すると、カウンセリング関係の方向も見えてくるだろう。内面に苦しさをかかえるおとなに出会い、相談に乗り、アドバイスをする。現状を少しでもいまよりも展望の開けた方向に導く。その舵取りをしたいという気持ちは理解できる。わたしは、仕事柄、心理士や福祉士のひとたちとつきあいが多い。だから、現状を教える。
「臨床の世界は、これから需要が多くなるとは思う。だけど、仕事に見合った給料という点で、まだまだ日本では十分なお金は入ってこないよ。学校にもカウンセラーさんが配属されたけど、給料はとても安いんだ」
「なんでなの。必要とされているのに」
「日本社会が精神医学を低く見ているから。正確に言うと、行政が教育や福祉をあまり重要視していない。そのなかでひとの内面や脳の発達を専門にする領域など、さらに軽視しているということ」
「わかんないなぁ」
「大多数のひとたちに支持されにくいって思ってるんだよ。それから、政治家は選挙のときの集票に直結しないともね。大多数のひとたちが傷んだ道路の修復や公共工事、失業者の減少を求めているときに、教育や福祉みたいに生産性の低いところに金を出したら、反発を食うんだろうね」
「病院だって同じでね。大都市ばかり、生き残って、地域の病院がどんどん閉鎖に追い込まれているんだよ」
佐藤さんが教えてくれた。
「なんか、やだね。そういう話って。元気が出ない」
じゃぁ、夢をあきらめるのか。
「そんな現実のなかで、俺も佐藤さんも頑張っているんだよ」
「だから、毎日、ここに来て酒を飲んで憂さ晴らししてるの」
そうじゃない。全然違う。わたしは、ゆっくり丁寧に言う。
「自分がやりたいことがある。それを実現する道筋もある。実際に、その夢を実現したら、そこから先には、もっと大変なことが待ち受けているってことを忘れてはいけないってこと。だから、自分が何をやりたいかって気持ちが一番大事なんだよ」
 若女将が、生ビールを飲むペースが早い。
「あー、3人で難しい話をしてつまんない。わたしばかり、のけ者にして」
佐藤さんが、ここぞとばかりに、手を打つ。
「お金が入りました。みんなで焼肉に行きましょう」

 佐藤さんは暮れに雑誌の取材を受けていた。
 働くひとの弁当を特集しているページに掲載されるという。クーネルという雑誌だった。先日、雑誌は見せてもらった。ご飯にいわし、玉子焼きに青菜というシンプルなメニューの弁当だった。記事のなかに、佐藤さんがおかずにこだわる過去の話が載っていた。ページを丸々使ったカラー記事だった。わきに、手術衣姿で弁当箱を手にする佐藤さんが丸がこみ写真になっていたのは、笑ってしまった。
「さすがに、こんな恰好ではふだん食べてはいないよ」
佐藤さんも照れ笑いをしていた。
 その取材協力費が9000円だった。そのお金を使って、みんなで焼肉を食べに行こうと約束していた。でも、どう考えても9000円を受け取り、それを使う権利は佐藤さんにある。その話に乗っかって焼肉を食べてしまおうというわたしたちは、たかりに過ぎない。
 なんのためらいもなく、焼肉のオーナーを引き受ける佐藤さんの懐の深さを思う。きっと、記事のなかに登場したお母さんの考えが、しっかりと受け継がれているのだろう。
 カレンダーを見て、焼肉の日を決めた。場所は、新羅亭。関所が休みの日にした。
 大将と若女将は6時に行って食べているという。仕事のあるカンちゃん、佐藤さん、わたしは7時に合流することにした。
「急いで来ないでいいからな。みんなが来るまでに、9000円分は胃袋に入れておくから」
冗談に聞こえない大将の笑顔。新羅亭は、とてもうまいがやや高級なので、本当に9000円はあっという間かもしれない。
 わたしも、佐藤さんと同じように思い出した。
「そうだ、そうだ。これを渡すのを忘れていた」
わたしは、リュックから音楽CDを取り出した。数枚、用意していたので、関所とほかの二人にも渡した。
「お年賀です」
30歳の頃に、仲間と作った音楽CDだ。たくさん作りすぎて余っている。それを年賀として配るのだから、大したものではない。一応、音楽会社がプロデュースして、流通にも乗った商品だ。ジャケットや装丁は市販のものと変わりはない。いわゆる自費出版ではない。
「わぁ、すごい。何でもやるんだね」
カンちゃんが、しげしげとジャケットを見る。
「でも、この写真、だいぶ若い」
 やりたいことをやっている。歌に自信があるとか、演奏に自信があるとか、相手を意識したものではない。ただ、自分が好きなことをかたちに残したいだけだ。それは、仕事の世界でも、趣味の世界でも同じということを、関所から自分が発信できたような気がして、少し嬉しくなった。

三章・了

Copyright©Y.Sasaki 2000-無断引用はご遠慮ください