go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..十二章

 2010年6月。南アフリカ共和国で、サッカーワールドカップが始まった。4年に一度の世界大会なので、テレビも新聞も、開幕前から大騒ぎだ。
 しかし、関所に集まる面々にとっては、あまり大きなイベントではなさそうだ。
「昔から勝負師ってのは、勝負の勘を鋭くするために、賭け事にかかわっていたんだ。それをいちいち取り上げて、相撲は日本の国技だからみたいな言い方で突っ込んだら、力士がかわいそうだよ」
 毎週末に競馬に夢をかけている山ちゃんこと山田さんが、焼酎をホッピーで割りながら熱弁を振るう。山田さんは、ことしの秋で60歳の定年退職を迎える。見た目にはとても60歳には見えない。やはり競馬で勝負の勘を鋭く磨いているから、若々しく見えるのか。
 関所は、酒屋だ。
 日本酒、ビール類、ウイスキー、ワインなどはもちろんのこと、お茶、ジュース、コーヒーなどのソフトドリンクも扱っている。そのほかにもクッキーやせんべい、塩や砂糖などお菓子や日用品も並べている。季節には、贈答品を送るサービスまでしている。
 売り場は、三間四方ほどある。約九坪ぐらいだ。ほぼ店内は正方形をしている。道路に面した西向きが大きな自動ドアと窓になっている。
 自動ドアをくぐって右側、つまり南側にレジと焼酎コーナーがある。いつもわたしやドクター佐藤が陣取る場所だ。
 自動ドアをくぐって正面、つまり東側には横一列の商品棚と壁に埋め込まれた保冷庫がある。商品棚にはワイン、日本酒の一升瓶がきれいに並ぶ。反対側の商品棚には、塩や砂糖、醤油や炭酸が並ぶ。保冷庫は大きな扉がいくつかついている。お茶やコーヒーなどのソフトドリンクから、ハイボールやチューハイ、ビールなどのアルコールまでがギンギンに冷えている。
 自動ドアをくぐって左側、つまり北側には縦一列の商品棚と壁の商品棚が並ぶ。棚と棚の間には細い通路がある。縦一列の商品棚には、ヨッちゃんの酢漬けイカ、ポテトチップ、ベビースターラーメン、せんべい、缶詰など、ちょっとした駄菓子や酒のつまみが並ぶ。30円から売っているのだから、毎日買っても破産はしない。壁の商品棚には年代物のウイスキーや紹興酒が並ぶ。熱弁を振るっている山ちゃんは、ウイスキーの商品棚と保冷庫のぶつかる角が定位置だ。
 立ち飲み仲間の定位置は、法律で決まっているわけではない。
 ただなんとなく暗黙の了解がまかり通っている。しかし、日常生活には、このなんとなくだけど、暗黙のルールというのが確実に存在する。それを何も知らないひとが往々にしてぶち壊していく。何も知らないのだから、ルールを壊しても仕方がないのだが、少しは空気を読めよという、その場のひとたちの念力が伝わらないと、そういうひとは浮いてしまう。
「邪魔だよ、帰れ」
 みなさん、おとなだから、そんなことは言わない。
「しかし、関取ってのは儲けてんなぁ。一回の勝負に何万も賭けるんだから」
 山ちゃんのとなりでウイスキーのロックを傾ける相田さんの声が聞こえる。

 関所の店内には有線放送のような音が流れている。
 ときどき若女将がCDデッキを持参して、お気に入りのCDをかけては小声で口ずさんでいるので、音源がラジオなのかデッキなのか定かでないこともある。
 ラジオ放送のスピーカーは天井に埋め込まれている。いくつかあるスピーカー。長年の労苦によって、現在、元気な一台が天井から放送を流し落とす。そのスピーカーは、ちょうど山ちゃんと相田さんの定位置の真上にあるのだ。だから、わたしのように二人の定位置と反対のポジションにいると、ラジオ放送はほとんど何を言っているのかはわからない。何かを伝えているのだろうとは思うが、具体的ななかみはわからない。
「というわけで……から始まった……カーワールド……初戦のメキシコ……は……ちました」
 こういう聞こえ方ではストレスが溜まる。
 バタン。保冷庫の扉を閉じる音がした。左右にからだを揺らしながら、野球帽をかぶった烏丸さんがウイスキーのウーロン茶割りのペットボトルを買いに来た。
「あら、センセー、お久しぶりです」
 うそー、きのうも会ったよ。
「南アフリカは、遠いなぁ」
 お、関所にもサッカーワールドカップに興味を持つひとがいたとは。
「始まりましたね、いよいよ」
 うんうん。烏丸さんは何度も頷く。山形県寒河江市郊外の農村育ちの烏丸さんは、いまでもふるさとの言葉を大事にしている。そのため、早口でやられると聞き取れない。
「やっとな、まだボチボチだけどよ」
 ずいぶん、サッカーに興味があるような言い方だ。
「これから一ヶ月もやるんですね」
「そうかなぁ、そんなに続くといいんだが。寝不足になっても困るんだ」
「そんなに続くといいんだがって、こういうのって予定が決まっているから、途中で止めるってことはないでしょ」
「わっかんねぇよ、また、いつ、これになっか」
 烏丸さんは、自分の首を手刀で切った。なんか、ずれている。
「サッカーのことじゃないんですか」
「は、サッカーって、なんのこっちゃ。夜勤の話じゃ、ねえのか」
「なぁんだ、夜勤のことだと思っていたんですか」
「俺だって、昔はやっていたんだよ」
「もう、夜勤のことはいいですよ」
「違うよ、これ」
 烏丸さんは、足でボールを蹴るジェスチャーをした。
 ほんまかいな。
「烏さんが、サッカーをやっていたなんて話、これまで聞いたことないですよ」
「だれが、サッカーをやっていたなんて言ったの。これだよ、卓球」
 さっきのは、ボールを蹴るジェスチャーにしか見えなかった。少なくとも、手にラケットを持っていたようには、絶対に見えなかった。

 もうすぐ夏至。
 日暮れが確実に伸びてきている。仕事が終わってから、関所に集まるひとたち。顔をあわせたときに、まだ店の外が明るいと、なんだかいつもと様子が違う。
 でも、わたしはそれだけ長く関所に居座れる気持ちになって、夏の関所は嬉しい。若女将や大将には迷惑な話だろうが。
 鋳物を専門にする首都リーブスの赤坂さんは、研磨職人だ。かなり前に、機械が停止している工場を案内してもらったことがある。鋳物を機械のやすりで削って仕上げる。
「一日にどれぐらい磨くんですか」
「多いときは六千ぐらいかな」
 わたしのように、時間で区切られている仕事と違い、工場の仕事は注文された品物を作るまでは終わらない。仕事の能率が低いと、終わる時間が遅くなる。分業が徹底している工場では、どこかの工程で作業が遅れると、それよりも後ろの工程のひとたちの作業がもっと遅れる。だから、各自が自分の仕事に対して手を抜けない。
「一つ磨くのに、五秒ぐらいかな」
 そうでしょう、そうでしょう。
 それぐらいのペースで磨かないと、とても一日に六千個も磨けない。わたしと同じ時間に関所で酔っ払うことは不可能だ。クーラーから桜色の紙パックに入った酒を取り出す赤坂さんに尋ねる。
「いまも、磨いているんですか」
 いや。赤坂さんはガラスのコップに日本酒を注ぎながら首を振る。
「注文がなくなったから、いまは別の仕事」
 どんな仕事かはわからないが、ひじから下の腕がやけどに近い状態に腫れあがっている。本人は「汗疹」と言っているが、毎日高熱にさらされた皮膚が傷ついているように見える。
「じゃ、炉の解体は」
「それも、別のやつがやっているよ」
 鋳物工場では、定期的に溶鉱炉を解体する。毎日、ものすごい高熱で金属を溶かし、型にはめていく。溶鉱炉は、解体して、整備しないと、すぐに隙間ができて、溶けた金属がこぼれ出てしまうそうだ。炉の解体は、工場が休みの週末に行われる。もちろん時間外なので、ふだんとは別の日当が出る。
「給料安いから、その日当がありがたい」
 赤坂さんは、かつて炉の解体をしていたとき、教えてくれた。その仕事も、ほかのひとがやっているのか。
「お、こっち、来い」
 赤坂さんが、自動ドアの向こうに手招きをする。イヤホンを耳にした若者が、関所前を通り過ぎようとしていた。手を振って帰ろうとする。「いいから」。赤坂さんは、それでも彼を手招きする。
「あしたは、休みだろ」
 若者は、イヤホンを外すと、会釈をしながら、関所に足を踏み入れた。
「センセー、こいつがいま俺に代わって、炉の解体をしているよ」
 彼は明らかに日本人ではなかった。

 赤坂さんは、気前がいい。
「ママ、こいつに生ビールをお願い」
「はい」
 財布からお金を出そうとする彼に対して、これは赤坂さんからとよ、若女将は生ビールを渡す。
「いただきます」
 彼は、赤坂さんに礼を言って、近くに立っているわたしにも目でお辞儀をした。なかなか礼儀正しい若者だ。
「モンデ、このひとは学校のセンセーだ」
 ひとは、どうして職業から説明するのだろう。とくに教員の場合は、名前よりも職業を先に言われてしまうことが多い。逆に、わたしが赤坂さんを知人に紹介するときに「このひとは、研磨職人だ」と言ったら、ちょっとおかしいだろう。
 多くのひとは、センセーと聞いて、一瞬、ひるむ。
 それだけ、学校とか教員のイメージや記憶は悪いものなのだろう。「いやぁ、先生ですか。会えて嬉しい」と喜ぶひとには、会ったことがない。だから、初対面のひとには、名前で紹介してほしいのに、赤坂さんは、わたしの気持ちには気づかない。
「おー、センセー」
 生ビールの泡を唇につけながら、モンデと呼ばれた青年が驚く。
「モンデは、どこの国から来たの」
 国際交流が始まる。
「ペルーだよ」
 なかなか日常会話が上手ではないか。語尾までしっかりしている。ただし、初対面のひとに「だよ」という語尾はいただけない。
 ま、そんな細かいことはいいか。
 わたしにとって、ペルー人といえば世界中でたったひとりしか知り合いはいない。ローリーだ。
「モンデ、昔、工場で働いていたローリーを知っているかな」
 うんうん。モンデは首を小刻みに縦に振る。これって、ペルー式の肯定合図か。
「知ってるよ。ローリー、とても世話した」
 逆だろ。世話になったというんだよと、教えてあげた。
 アメリカから始まったサブプライムローンの破綻は、その年の終わりには日本国内の派遣労働者解雇へと影響した。派遣労働者のうち、外国人労働者は真っ先に契約打ち切りになったのだ。首都リーブスのように、熟練した技が必要な工場では、国籍に関係なく、仕事のできる人材は必要だった。たとえ不況になっても、人材を確保しておかないと、次に大きな景気の波が訪れたときに、作業できる工員がいなくなってしまうからだ。首都リーブスでも同じはずだった。
 それなのに、あの年末。50歳に近いローリーは「きょうでお別れね」と陽気に笑って、関所から去った。
 こどものいる日本人女性と結婚し、川崎方面に住む。ふたりのこどもは作らないと言っていた。理由は、彼女の連れてきたこどもを愛せなくなってしまうからだと。虐待の末に、継父がこどもを殺す事件が頻繁に起こる日本人感覚が異常だということを、ローリーは知っていた。
「モンデは、あのときもこれにならなかったんだ」
 これ。そう言いながら、赤坂さんは自分の首を手刀で切る。派遣労働者が情け容赦なく解雇された悪夢の季節に、会社から雇用を保障されたのだ。
「若い、まじめ、仕事ができる。これがよかったんだろうなぁ」
 しみじみと、赤坂さんがモンデの肩を抱く。気づくと、モンデの腕にはバンドエイドが貼ってある。わたしの視線に気づく。
「これ、やけど」
 モンデが教えてくれる。バンドエイドを外して、傷口を見せようとするから、それは手で制した。
「湯を差すから、飛び散るんだよな」
 この場合の「湯」とは溶鉱炉のなかでどろどろになった液状の金属だ。それをいくつもの型に流し込んで行く作業を「湯を差す」と呼ぶ。
 最初、わたしはこの専門用語がわからず、鋳物工場は冷却用にお湯を使っているのかと思っていた。そのことを、ほかのひとに聞いたら、液状の金属に湯をかけたら、水蒸気爆発を起こすと言われた。「先生は、もっとよのなかのことを知らないといけねぇなぁ」と。
「長袖の服を着るとか、熱を防ぐシールドを用意するとかしないの」
「暑くて、そんなもの、用意しないよ。Tシャツが一番、いい」
 外れかけたバンドエイドを、ぺったんぺったんと腕に押しつけながら、モンデが教えてくれた。

 南米出身のモンデは、サッカーに興味があるかもしれない。
「いよいよ、ワールドカップが始まるね」
 話のきっかけになればいいと思った。
「そうそう、楽しみね。南米、たくさん、すごいよ。ブラジル、チリ、アルゼンチーナ(モンデの発音では、アルデンティーナと聞こえた)、パラグアイ(これもモンデの発音では、パラガァと聞こえた)、ウルグアイ(これはウルガァ)。5つも出るよ。それにアメリカ、メキシコ。アメリカ大陸すごいね。こんなにたくさん。みんな強いよ」
 きっかけどころじゃない。南米のサッカー熱に火をつけてしまった。
「ペルーは出ないの」
「うーん、ちょっと残念。でも、南米のひと、みんな国は違っても応援するよ。エスパニュールつながり。ブラジルだけ違うけど」
「ブラジルはポルトガル語だっけ」
「そう、ちょっとエスパニュールと違うよ」
「でも、ちょっとなら、なんとなくわかるのかな」
「そう、なんとなくなら、わかるよ。日本の言葉も、国によって、違うでしょ。それに似ている」
 モンデのいう国とは、おそらく故郷と書いてクニと読むものだろう。近いところにいい例がいる。
「烏さんは、山形というクニのひと。だから、ここの言葉と違うね」
 モンデは、烏さんと同じ工場だから、彼の言葉を知っている。
「烏さんの言葉は、ときどきわからないことがある」
「えらい、モンデはときどきなら。俺なんて、ほとんど、わからない」
 日本酒の棚の向こうで、コホンと烏さんの咳払いが聞こえた。
「ペルーでは、こどもが生まれると男の子なら、みんなサッカーボールをプレゼントするよ」
 みんなというのは大げさかもしれないが、小さいときからサッカーボールが身近にある生活環境なのだろう。日本のように、サッカーを「習う」環境ではなく、サッカーで「遊ぶ」環境がこどもの頃からあるのだろう。
 ニンテンドーDSをして、スイミングに行って、ピアノを習い、塾に通い、ときどきサッカーをするわけではない。サッカースクールに行き、試合には親が付き添い、移動にはパパたちが運転手になる環境ではない。
 どこまでがコートなのかわからない空き地で、裸足のこどもも混ざりながら、朝から晩までボールを追いかける原石のようなサッカーが生活にあるのだろう。
「日本チームは、どれぐらいまで行くかな」
 モンデは、ちょっと肩をすぼめる仕草で、微笑んだ。
「カメルーン、デンマーク、オランダ。みんな強いね」
 それが答えだった。

 サッカーワールドカップは、熱戦が繰り広げられていた。
 わたしは、ふだん3時半から4時ごろに起きるので、それぐらいから始まるテレビ中継は、日常生活の延長だった。ただし、5時半に出勤するので、後半が終わっても同点の場合、延長戦は見ることができなかった。
 ワールドカップに登場するチームは、どこも素人のわたしが見ていても、うまかった。タフだった。芸術的だった。だから、テレビ中継を見ていて飽きなかった。
 サッカーは、いつ点が入るかわからないから、退屈だ。
 ずっと、そう思っていた。それは、あまり上手ではないプレーの試合を見ていたから飽きていたのだろう。うまくて、タフで、芸術的だと、なかなか点数は入らなくても、わくわくするようなシーンやハラハラするようなシーンが連続する。だから、ついつい試合に引き込まれてしまうのだ。
「あれ、銀のカップが置いてあるね」
 関所。ボトルが冷えているクーラーに見慣れない銀のカップが置いてあった。
「カディーさんが、マイカップと言って、置いていったの」
 若女将が教えてくれた。
 カディーさんは、インド人だ。関所近くにある鎌倉市営の「こもれび」というスイミングとフィットネスが合体したスポーツ施設に通っている。おもにプールで歩いているという。こもれびの往復で、関所前を通過する。頭からすっぽりかぶる薄い生地のインド服を着ているので、遠くからでもよくわかる。鼻が高く、瞳が黒くない。しかし、日本語はとても格調高く、上手だ。
 いままでは、関所前を通過することが多かったのだが、関所の常連である中島さんが仕事関係で知り合いになったことをきっかけに、ときどき顔を出すようになった。
 カディーさんは、煮豆を持ち歩く。小瓶にわけて持ち歩き、行く先々でプレゼントする。天狗豆、大豆、小豆、黒目豆。カディーさんのおかげで、いくつかの豆の名前を覚えた。豆そのものは、とてもおいしい。ヘルシーだ。しかし、味付けがいつも似たようなインド独特の香辛料を使っているので、同じに感じる。
 醤油に慣れている日本人には、微妙な味やコクの違いがわかる。
 きっと、香辛料に慣れているインドのひとにはそれぞれの分量の違いで、風味や軽重の違いがわかるのだろう。しかし、残念ながら、関所のみなさんにはその違いはわからない。よく、プレゼントしてくれる煮豆を口にしながら「こないだと味が同じだ」という声をよく耳にする。
 あるとき、カディーさんは極楽寺に住んでいるということを知った。ずいぶん、遠くからここまで来ていることになる。
「今度、散歩がてらに行ってみようかな」
「たぶん、カディーさんの家の近くに中華料理屋さんがあると思うの。そこのママと、昔、いっしょに宝塚を見に行く仲だったのよ。一度、お店に行ってみたいと思うけど、うちと同じ火曜休みだから行ったことがないの」
 若女将が教えてくれた。よし、ランチはその中華料理屋。その足で、カディーさんの家を探してみよう。
 カディーさんは、自宅をお店にしていると教えてくれていたのだ。

 散歩は、ことしに入ってから本格的に始めた。
 去年の夏、人間ドックで「メタボリック症候群の一歩手前」と診断された。メタボリック症候群そのものが「生活習慣病を引き起こす一歩手前の状態」だから、さらにその一歩手前、つまり二歩手前ということは、そんなに気にする必要がないことなのかもしれない。
 でも、そのときに管理栄養士と「来年の体重目標」を立てた。そのために、日々の取り組みを相談した。管理栄養士は、仕事として、だれに対しても同じように計画を立てるのだろう。わたしは、そのとき立てた計画を年末まで実施してきたつもりだったが、劇的な効果は上がっていなかった。朝食後に腹筋を10分ずつ。これがけっこうきついのだ。時間がなくてさぼることもあった。やりながらも、きょうは5分にしようと規模を縮小させたこともある。
 そんなんじゃ、成果は出ない。
 年が明けてから、わたしは次の作戦に出た。
 歩こう。万歩計を買って歩数を記録しよう。
 いつも仕事帰りに利用している東海道線に乗らないで、藤沢から大船までを歩く。普通に歩いて、60分かかる。これを続ければ、少しは腹回りの脂が落ちるかもしれない。
 さらに、週末の土曜日か日曜日に近所を散歩しよう。
 テレビでも散歩はブームになっていた。ウォーキングではない。散歩だ。ひたすらに目標を決めて、歩くことだけを目的にするのではない。歩きながら、季節を感じ、店を覗き、うまいものがあれば立ち止まる。気分転換の散歩でいい。
 藤沢から大船まで歩く。それまでは、酔って藤沢で最終電車がなくなり、タクシー代金をけちったときだけ、歩いていた。どこをほっつくのか、だいたい2時間かかった。ひどきときは3時間ぐらいかかり、全身、引っかき傷がついていたこともある。だから、覚悟して始めた。しかし、素面で歩けばぴったり1時間の道のりだった。
 東海道線は、都内の山手線と違い、駅と駅の間が長い。その駅、一つ分を歩いているという事実は、かなりわたしの腹周りに刺激を与えた。とても少しずつだが、体重は減少傾向になった。
 週末の散歩は、横須賀線やバスで動いていた鎌倉を、自分の足だけで歩くという事実が、自信を与えた。
 あれ、けっこう、俺のからだって、動くじゃんと。
 寺をめぐった。自然公園をめぐった。小町通りで甘味を食べた。海岸で風に吹かれた。こだわりのパン屋でベーコンパンを買った。鎌倉の散歩は、予想以上に楽しい。
「だれかといっしょなの」
 関所で聞かれたことがある。
 ひとといっしょだと気を使う。散歩はマイペースだから楽しい。わたしは、だれとも散歩をしない。ひとりで歩く。しかし、春までの散歩は、最終的に食堂や飲み屋に入り、疲れたからだを生ビールでいやしていた。これでは、体重は減らない。やばい。これでは、生ビールを飲むために散歩をするようになってしまいそうだ。それに気づいて、少し作戦を変更した。それまで、昼前に出発し夕方に戻る設定だった。それを早朝に出発して、昼過ぎに戻るように変更した。こうすれば、午後はシャワーを浴びて、昼寝や読書に当てられる。
 この作戦変更は功を奏し、体重の減少傾向は確実なものとなる。そして、ついに、わたしは一日三万歩作戦を始める。

 万歩計をつけている。
 だいたい一日の平均は一万五千歩ぐらいだ。仕事上、動きまわることが多いので、軽く一万歩は越えるとは思っていた。体育のあるときにこどもといっしょに走ったり、歩いたりすると、二万歩を越えることもあった。
 反対に、雨が続いたり、休日に家で休養していたりすると、ほとんど歩いていないことに気づく。なんだか、足が「歩かせてー」と叫んでいるように感じる。
 ならば、計画的に鎌倉散歩で三万歩を目指してみよう。その計画のなかにカディーさんの住む極楽寺をコースに入れた。
 始めた頃は、ウィーキングにはしないであくまでも散歩と決めていた。しかし、やり始めたら、歩く距離や時間などどんどんレベルをアップさせていた。わたしの悪い癖だ。ついつい「とことん」になってしまう。そして、あるとき、飽きてしまうのだ。この傾向は、料理によく現れる。チーズにはまったら、何でもかんでもチーズばかり。焼きそばにはまったら、毎朝やきそばばかり。こういうわたしの傾向を知っている家族や知人は、あまり驚かない。「いつかまた飽きるのだから、どうぞお好きに」と見放している。ちなみに、いまの料理ブームは納豆と出汁巻きたまごだ。
 大学時代の四年間。わたしはワンダーフォーゲル部に所属していた。
 ワンダーフォーゲルとはドイツ語で「渡り鳥」のことだ。ワンダーが「渡り」、フォーゲルが「鳥」である。ワンダーフォーゲルとは、テントと食料を背負って、各地を渡り歩くひとたちの総称だ。多くは、山を対象にする。登山部や山岳部と違って、山頂にたどり着くことが目的ではない。長いコースの途中に山頂はあるが、いくつもの山頂を越えて、山や川、谷や荒野を歩きぬくことが目的になる。だから、登頂思考といって、山頂に最短距離で最速時間で登ることは考えていない。一般的な山道をゆっくり時間をかけて登って行く。
 当然だが、たくさん歩く。一日に20キロから30キロはざらに歩く。登山のように上り下りの激しいコースでも、かもしかや猪のようにひたすら歩く。基本的に、歩くことが上手になる。疲れない、膝や腰に苦痛のこない歩き方を覚える。そのために足の裏全体に水ぶくれができたり、足の指全部の爪がはがれたり、代償はかなり大きかったが。
 ワンデリング(歩くこと)は、山ばかりではなかった。山手線一周、九州は甑島列島完全歩行、町田のキャンパスから群馬の山小屋まで歩き抜くなど、町や里を歩くことも多かった。
 ドイツでワンダーフォーゲルが盛んになったのは、もともと青年たちによる教育の普及活動が中心だった。古いしきたりの多い地方や田舎に、新しい価値観や文化を伝える役目を負った若者たちが、何日も同じテントで共同生活をしながら、国中を歩き回ったのだ。宗教家が宗教を伝える布教活動と似ている。しかし、日本の大学のワンダーフォーゲル部には、そんな高邁な目的はない。手段としての歩行が、目的と化していた。
 あれから25年以上が経過している。
 歩く自信はなかった。しかし、少しずつ距離を伸ばしていったため、もしかしたら三万歩は可能かもしれないと感じていたのだ。わたしの一歩はだいたい80センチだ。三万歩は、一日に24キロ歩く計算になる。大学時代の復活だ。毎日、ランニングや荷物を背負ってトレーニングしていた時代とは違う。
 ちなみに正月の東京・箱根往復駅伝の選手は、だいたいひとり20キロ走る。時間にして1時間ぐらいだ。選手たちの異常な体力に気づくだろう。

 朝食を済ませた。
 時計を見ると午前7時。わたしは、梅雨とは名ばかりの暑くなりそうな7月上旬の鎌倉へ歩き出した。
 小袋谷(こぶくろや)交差点の点滅信号。横浜や藤沢から車でくるひとが、必ず鎌倉に入るときに通過する交差点だ。近くに横須賀線の踏切があるので、渋滞のポイントでもある。しかし、早朝なので、ほとんど車はいない。
 そのまま鎌倉街道を歩く。瓦屋根が立派な小坂(こさか)郵便局を左手に見る。その先に左に曲がるわき道がある。わたしはそこで左に折れる。やや登り道。横須賀線の踏切がある。北鎌倉駅が間近な権兵衛(ごんべえ)踏切だ。踏切を渡り、直進する。道はどんどん勾配を上げる。地名では高野台と呼ばれている地域に入る。
 高野台は、不動産業者によって開発された新しい住宅地だ。まず住宅地に上がる120段のコンクリートの階段に取り付く。わたしの心臓は、一週間の不摂生を後悔するかのように急激に血液を全身に送る。脈拍は150を越える。息遣いが粗くなる。とても鼻から吸って口から吐くという段階ではなくなる。口を開け続け、吸っては吐き、吐いては吸う。背中やおでこに汗が噴き出す。
 一気に心臓に負荷をかけ、徐々に運動にからだを慣らしていく。すると、不思議なことに、ある瞬間から脈拍が下がり、呼吸が安定する。発汗は続くが、水分を補充すればいい。からだ全体が運動モードに切り替わるのだ。
 階段を登り切り、高野台の住宅地を歩きながら、からだが運動モードに切り替わる実感に浸る。運動モードに切り替わると、火事場の馬鹿力みたいに、いつもとは違うパワーが出るのだ。
 高野台の住宅地の外れに、六国見山(ろっこくけんざん)への登山道入り口がある。そこからは、アスファルトとは縁遠い山道に入る。まずは320段の階段が待っている。階段を登るとき、わたしはこころのなかで10まで数える。そのたびに指を折る。また10まで数える。次の指を折る。こうしていくと、いまどの辺にいるのかとか、もうすぐゴールが近いという事実が把握できる。ひとのからだはこころと連携しているので、見通しがあると、からだに余分な力が必要とされないのだ。大学時代に教わった方法だ。
 六国見山の山頂は晴れるととても見通しがいい。富士山、大島、丹沢はもちろん。横浜や東京湾も眺望できる。ベンチがあるので小休憩する。お茶を飲む。写真を撮る。
 わたしは、手ごろな竹を手にする。落ちている竹のなかからしなりのいいものを選ぶ。ここから先の山道は、おそらくふだんひとが通らないところだ。確実にくもの巣が道をふさいでいる。竹のしなりを利用して歩きながら、くもの巣をよけて行く。山頂からそうやって起伏のある尾根筋をしばらく歩くと、今泉の住宅地に出る。ここはわたしが小学生の頃に開発された住宅地だ。もう30年近く経つだろうか。車がないと、どこに行けないような不便な場所だ。住宅街を歩く。途中に、北鎌倉の明月院からの道路との合流点がある。静かな住宅地で唯一、車やバイクを多く見かける場所だ。
 その合流点からさらに登り勾配を歩く。外れの外れに、天園(てんえん)ハイキングコースの入り口がある。鎌倉のハイキングコースは、どれもハイキングとは名ばかりで、しっかとした山道だ。だから、最低でも運動靴をはかないとけがをする。飲み物とタオル、携帯食をリュックに入れて歩くと、なかなか通だ。

 いくつかあるハイキングコースのなかで、もっとも険しく、もっとも長いのが天園だ。
 わたしは、そのコースを端から端まで全部歩く。
 樹木の間を抜ける日光が、風に揺られて、山道に陰影を作る。すっかりプロの域に達した鶯が何度も美しい声色を聞かせてくれる。尾根筋は基本的には平らだが、ときどきアップダウンもある。しかし、気持ちのいい時間が流れるので、気にならない。
 天園に入ると、休日の午前8時から9時という時間帯なのに、ひとに会う。体脂肪率ゼロに近い体形のひとたちが、個人で走っている。山道を走っている。そういう競技があるのだろう。わたしは、あのひとたちの楽しみに触れられないが、荒い息をして、山道を走る姿には感動する。高齢の夫婦が、かなりハードな登山姿でゆっくりと歩くこともある。長袖長ズボンは登山の基本だが、こういう場所でその姿は、むしろ熱中症を誘引するのではないかと心配になる。中年の女性が複数で歩く。わたしと似たような準備だ。このひとたちに驚かされるのは、山道を歩いているのに、息を乱すことなく、喋り続けているのだ。だんなのこと、こどものこと、近所のこと。かなりプライベートななかみを大声で喋り続ける。登り道がきつくても、下り道に気をつけなければいけなくても。なぜか、話題は鎌倉の自然にはならない。さっさと追い越して、声が聞こえないところまで差を広げてしまう。
 山道の途中には分岐点がある。建長寺への分岐、覚園寺への分岐を通り過ぎ、やや大きめの岩場を登り切ると、太平山(おおひらやま)山頂に出る。山頂といっても、木の札があるだけのそっけないところだ。しかし、晴れていると、みなとみらいのランドマークタワーがくっきりと見える。すぐ眼下には、鎌倉パブリックゴルフクラブのコースが広がる。ここには早朝から自家用車でゴルフを楽しみに来る客がたくさんいる。駐車場はほぼ満杯になっている。
 ハイキングコース唯一のトイレがある。用を足し、わずかな距離で六国峠にたどり着く。北は金沢八景、東は鎌倉宮・瑞泉寺へと分かれる。峠には大きな茶屋がある。シンロートの山ちゃんこと、山田さんが仲間とここまで登ってきて、一杯やって野毛に繰り出す場所だ。
 峠を過ぎると、山道は少しずつ下り勾配になる。やや急な勾配になったなと思ったら、コンクリートの階段が現れ、瑞泉寺近くのハイキングコース最終点に到達する。
 汗をぬぐいながら、水分を補給し、アスファルトを歩く。鎌倉テニスクラブでは、いつも複数あるコートがプレーヤーで埋まっている。駐車場の車はどれも外車ばかりだ。金持ちしか会員にはなれないのかもしれない。
 ゴルフもテニスも、運動だ。ひとは自分にあった運動で健康を維持すればいい。わたしは、金のかからない方法で、ひたすら歩いている。
 鎌倉宮から、清泉女学院の脇を抜け、法華経の寺が立ち並ぶ裏通りへと入る。大町の交差点を渡り、横須賀線の踏切を越える。風に海の香りが混ざる。材木座は一気に潮の町だ。
 魚屋や酒屋を眺めながら通り過ぎる。九品寺(くほんじ)を右に見ながら、正面に国道134号線が登場した。国道の下をくぐると、材木座海岸。
 これから多くの海水浴客でにぎわう。まだ海の家が完成していない。建設途中が多い。海開きは来週だったか。
 わたしは、波打ち際まで砂浜を歩く。湿気を吸った砂は歩きやすい。寄せては返す波に濡れないように気をつけながら、由比ガ浜、長谷を目指す。

 長谷の海は、これが同じ鎌倉の海かと思うほど、由比ヶ浜や材木座に比べると、荒れている。漁船が漁から戻ったまま陸地に上がり、カラスやカモメが漁のおこぼれを狙って、砂浜をヨチヨチ歩いている。海の家も、ここではあまり儲けを見込めないのだろう。長谷海岸には大きな海の家は建たない。それだけ、素朴でのんびりしている。そういう風情を楽しみたい地元のひとが、犬の散歩や流れ着いたわかめの採集に訪れている。
 わたしは、砂浜に別れを告げ、国道134号線の信号に向かう。歩行者信号が青になるまでに、靴を脱ぎ、砂を払う。わずかに靴底に残る砂が落ちた。
 長谷から極楽寺に向かう道は、江ノ電の線路に平行している。もっとも江ノ電はトンネルに入るので、道路はそのわずかな斜面に沿って上っていく。右手に神社、左手に成就院が見えてきた。成就院は昨今では、北鎌倉の明月院に並んで、紫陽花を愛でる観光客に人気のスポットだ。成就院じたいは、そんなに大きな境内をもたない。山門から本殿に続く坂道の両岸に見事な紫陽花が咲きそろう。いくつもの種類の紫陽花が、色やかたちを競って、観光客のカメラに収まる。
 成就院を抜けて、やや道は下りになる。
 目の前に極楽寺と江ノ電の極楽寺駅が見えてきた。江ノ電から多くの旅行者が降りてくる。わたしは、極楽寺山門前でカメラを構えた。出発する江ノ電の屋根のポジションからシャッターを切った。
「これが成就院ね。紫陽花がきれいと言ってたけど、見えないわね」
 としの頃、60歳を過ぎたにぎやかな女性たちが極楽寺山門で会話する。
「もうちょっと中に入ってみれば見えるかもしれないわよ」
「そうね、行ってみましょう」
 そこは、成就院ではなくて、極楽寺ですよ。だれかが教えてあげればいいのだが、ほかの観光客もあまり鎌倉のことはしらないらしい。そのにぎやかな女性集団の後を何となく追っている。わたしがとやかく言うことではない。なぁに、こんなに近くまで来ているのだ。本物の成就院を見つけるのは時間の問題だ。
 わたしは、それよりも、カディーさんのお店を探すことにした。
 カディー株式会社、カディー輸入商会、カディーのお店。どんな看板を掲げているのかわからない。しかし、極楽寺の風情にインド風のカタカナ看板は目立つだろうと汗を拭きながら探した。稲村ヶ崎小学校の周囲も探した。極楽寺駅の周辺も探した。考えられる小道すべてに入って探した。意外にも、インド風のカタカナ看板はなかった。そんなはずはない。せっかくここまで来たのだ。極楽寺駅前に、周辺町内会の地図があった。そこに、カディーの文字を見つけた。それまで何度も通り過ぎていた場所だったが、看板など出ていない。そこには、総二階木造建造住宅がそびえていた。おそらく昭和の初期に建てられて、住人が大事に手入れをしてきた家屋。庭には柿や梅が枝を張る。縁側が広く、軒下にどこかで見かけたことのあるインド模様の大きな布がひるがえっていた。表札らしき陶器に、カタカナでカディーと透かしが入っている。
 これ、ふつうのうちじゃん。

 一間ばかりの玄関。ガラスの引き戸。
 わたしが生まれ、就職するまで住んでいた故郷の家屋も、同じような引き戸だった。
 ガラガラと音がする。
「こんにちは」
 名前を名乗る。上がりかまちが半畳はあるだろうか。さらに玄関のたたきだけで二畳はあるだろう。そこに、関所でおなじみの香辛料がところ狭しと並んでいた。一応、値札がついている。お店ってここ?
「いやぁ、センセー、お待ちしていました」
 え、何で、待っていたのだろう。直接、彼に行くとは伝えていないのに。
「いま、豆を作っているから、どうぞ上がってください」
 自宅の場所がわかればいいと思っていた。それにたくさん汗をかいて、汚れている。すぐに失礼しようと思っていたのに、カディーさんの瞳に見つめられると断れない。
「カディーさん、これじゃ、どこがお店だかわからないよ」
「そう、振り返ってごらん」
 靴を脱いで、たたきに上がる。振り返ると、引き戸の上に「カディー株式会社」と看板がある。
「玄関の内側に看板を掲げていては意味がないじゃん」
「たしかに、そうだね」
 わかっていて、わざとそうしているのだろう。
 こちらへどうぞと言われ、わたしは広間に通された。広間は障子のレールを境にして縁側を接していた。しばらく、縁側のある家屋に足を踏み入れていない。丸い座卓には、いつもの煮豆が大きく盛られていた。
「きょうは、どうやって、ここまで来た。電車、バス、車」
「ずっと、歩いて来ました」
「よろしぃ。鎌倉市役所に行って、センセーの車の重量税を返してもらいましょう」
 こういうジョークに慣れていないので、ひきつった笑いを返してしまう。
「そこに寝てください」
 いったい、何が始まるのだろう。わたしは言われるままに広間の畳にあおむけになった。
「静かに目を閉じて、両手はからだの横に」
 わたしの両足の下に、座布団のようなものを入れてくれるのを感じた。ウグイスが聞こえる。ホトトギスもときどき混ざる。
「ゆっくり息を吸って、肺の中を空気でいっぱいにしましょう。頭のなかは空っぽに」
 もしかして、カディーさんはヨガの達人か。おっと、何も考えるなと言っていたっけ。
「吐くときは、息をゆっくり吐きます」
 なぜか、言われるままにしているわたしがいた。

 わたしは縁側で丸い座卓を挟んでカディーさんとお茶をしている。
 庭に面したガラス戸は、全部外されていた。さっきまで15分間ぐらい、畳であおむけになりながら、カディーさんの指示に従って、ゆっくりな呼吸と、両手を合わせて気を逃がすツボ療法をやっていた。肩の張りや腰の疲れが減っていた。
「こないだ、わたし、そこの小学校から、環境教育について、こどもたちに話してくれと頼まれました」
「国際理解教育の一環ですね」
 小学校にも外国の文化や言葉を学習する時代が到来しているのだ。ごちごちの学力主義者は、テストをして成績をつけろと息巻いているが。外国の文化や言葉に触れるということと、それらを覚えて試験を受けるということの間には、深い溝がある。楽しみが、苦痛に変わる溝がある。エリートにはそれが一生わからないだろう。
「わたしは、断りました」
「何のことについて、頼まれたのですか」
「牛乳パックの再利用が、エコにつながるという話をしてくれと言われたんです」
 ははぁ、ピンと来た。わたしは、10年前に小学校の生活科で、牛乳パックからパルプを抽出し、紙を作る学習をやったことがある。捨ててしまうだけの牛乳パックを再利用するのだから、環境にやさしいのではないかと想像した。その想像が、浅はかだったことを、すぐに悟った。牛乳パックには水漏れを防ぐために内側にラミネートシールがべったり貼ってある。石油を原料とするビニルから作ったシールだ。これをはがさないと、パルプは抽出できない。もちろん手ではがせない。一番、手っ取り早いやり方は熱湯にしばらく浸ける。ふやけてきたところを一気にはがす。シールはきれいにはがれ、パルプは無駄なく残る。
 わたしは、そこまでやって笑ってしまった。なにがエコだ。これでは、逆にエネルギーを使ってしまい、ゴミまで出す。熱湯を用意するのに火を使ったり、電気を使ったりするのだ。
「もしかして、カディーさん、瓶の話ならいいと言ったんじゃないですか」
 大きな瞳、長い眉毛がピクン。
「ジャスト。よくわかりますね。どうして、瓶はなくなってしまったのでしょう。あれこそ、使い回しの利く入れ物だったのに」
「牛乳瓶を運んだり、回収したりするひとたちが、重くて、大変だからと聞いたことがあります」
「それも一つの理由かもしれません。さらに、紙パックにすると喜ぶひとがいたのでしょうね」
「製紙会社とか、ビニルを作る会社ですか」
「そう、もっとおおもとは石油関連会社でしょう」
「たしかに、一回飲んだだけで、あとは捨ててしまうラミネートシールがパックの内側に貼ってあっても、多くのひとは気づきませんね」
 庭の梅の木を見上げたカディーさんは、少し寂しそうだった。

 お茶は、ルイボスティだった。たっぷりの蜂蜜が入って、驚いた。
「メキシコ湾で石油が流出しました」
 そのニュースは知っている。海洋性生物が多く死に瀕しているという。
「あの動物についた石油を拭き取るには、ポリエステルが入ったタオルではだめなんです。もとが同じ石油だから、完全には吸い取れない。全部、綿でできたタオルが必要なんです。近所に住んでいるひとが、全部綿でできているタオルを集めて、メキシコに送ろうという運動を始めました。わたしも誘われました。でも、断りました」
「今度は、どこが引っかかったんですか」
「どうして、オバマは、アメリカの石油をメキシコ湾で掘ることを許可したのか。そのことを調べて、事故の責任を取らせるのなら協力すると言いました。でも、そのひとはそこまでは考えていないと言いました」
 カディーさんの一面を見た。近所のプールに来て、からだを大事にするだけのひとではなさそうだ。
「センセーは、太平洋の真ん中に大きな渦があることを知っていますか」
 鳴門にも渦はある。太平洋にもいくつもあるだろう。
「その渦は、海底5000メートルぐらいまで続く大きな渦です。そこには、太平洋中のゴミが集まります。大きな洗濯機。ゴミのほとんどはペットボトルです。ペットボトルは、その渦にもまれて海底深く落ちていきます。ひとは、石油を掘り出し、石油からペットボトルを作り、海に捨てている」
 かなり刺激的な自然主義者かもしれない。
「横須賀のアメリカの航空母艦。あれは、日本の領海から出たとたん、艦内のゴミを一気に海に捨てます。うんちやおしっこは分解されるからいい。でも、プラスチックやビニル、ペットボトルはいけない。それでもものすごいゴミを捨てます」
 具体的に見たわけではないが、あの国はそれぐらいことはするだろうなと予想がつく。
「東京で音楽の先生をしているというひとが、こないだ泊まりに来ました。ここで鳥の鳴き声を聞いていました。帰るときに、カディーさん、あの鳥の鳴き声のCDを教えてくださいと言いました。音楽のプロが、自然の音と人工の音の区別ができなかったんです」
 カディーさんの話は、脈絡なくとぶ。しかし、きっと根っこでつながった話なのだろう。愚かなわたしにはつながりが見えてこない。
「カディーさん、そうやってよのなかのことを突き詰めて考えると、悲しくなってきますね」
「ひとは愚かです。一つのことに満足すると、それでは飽き足りなくなって、もっと満足したくなる」
 彼は、ぐいっとルイボスティを飲み干した。

 わたしは、あぐらを解き、縁側から庭に膝から下を投げ出した。少し背中を反って、両手でからだを支えた。
「カディーさんは、どうやって、ひとの愚かさと自分の考えの間に折り合いをつけているんですか」
「折り合い」
 難しい日本語か。
「許していると言い換えてもいいです」
「わたしは、みんなを許しています。でも、間違いは間違いと言います。間違いはまねしません。ひとは間違うことがあります。でも自分ではそのことに気づきません。だから、それは違うよって言ってくれるひとが必要です。違うよって言うと、怒ります。自分は間違ってないと。間違ってないと思うから、間違えているのです。正しいとばかり思っているひとは、間違っています。わたしも、センセーも間違いはいっぱいしますね」
 わたしは大きくうなずく。
「その間違いを違うよって言ってくれるひとが友だちです。ひとは自分がやっていることよりも、自分の間違いを言ってくれる友だちを大切にしなければいけません。その友だちが、たくさんたくさん増えれば、いまよりも少しは幸せな社会ができるかもしれません」
「カディーさんから見たら、関所に集まるメンバーは、とっても愚かなひとたちですね。肉も食うし、プラスチックのコップも使うし、酒も飲んでたばこも吸うし、盛り上がる話と言ったらギャンブルの話だし」
「おとなのひとはいいんです。間違いに気づいてもひとのせいにはしません。そして、間違いを言ってもなかなかわかってくれません。これからは、こどもに対して、たくさんたくさん考えていることを話していきたいと思っています」
 カディーさんの話はシンボリックすぎるので、こどもにはわかりづらいかもしれない。しかし、相手の気持ちをつかまえて、真剣に考えを伝えようという姿勢は、おとなよりもこどものほうが受け止めるだろう。おとなは、すぐに裏を読んだり、斜に構えたりする。
 午後から築地本願寺に源氏物語の独唱を聴きに行くからいっしょに行かないかというカディーさんの申し出を丁重に断って、わたしはカディーさんの家から数分の中華料理店「盛華園」に向かった。ランチをとるならここと、カディさんと関所の若女将がそろって教えてくれた店だった。

 盛華園は江ノ電の極楽寺駅から橋を渡り、すぐ右側にある。両隣も飲食店だ。
 店内は、北極かと思うほどエアコンが効いていた。
「こんにちは」
 あまり広くなかった。6人掛けのテーブルが一つと、4人も座れば満席になるカウンターがある。カウンターの向こうが調理場だ。白衣を着た男性が仕込みの最中だったようだ。奥から「いらっしゃーい」という声が聞こえた。
 壁には中国語と日本語でメニューが書いてあった。わたしは、カディーさんのお勧めの焼きそばをお願いした。
「やわらかいの、かたいの、どっちにします」
 昔、地下鉄はどうやってトンネルに電車を入れたんだろうというネタで売れた漫才師がいた。その男性にそっくりだった。
「やわらかいのにしてください」
「はい、わかりました」
 スポーツ新聞を手元に寄せる。トイレの扉かなと思ったら「関係者以外立ち入り禁止」の札が貼ってある。その扉から、大仏のように細かいパーマをかけた女将が登場した。
「いらっしゃいませ」
 わたしは、頭を下げた。
「山崎の関所の若女将からの紹介です」
「あら、どういうつながりかしら」
 北極のように冷えている店内で、女将のおでこには汗が光っている。
 わたしは、関所の常連であるということと、そこでこのお店を教えてもらったことを伝えた。
「以前は、よくいっしょに出かけたんですよ。いまはすっかりご無沙汰しちゃって」
 懐かしむように教えてくれた。
「関所の若女将も、休みが火曜だから、こちらに来られなくて残念だと言っていました」
「いまも、お元気かしら」
「たぶん、昔と変わらず、パワフルですよ」
「あら、そう。わざわざ、こちらまで来てくださったんですね」
「ちょうど、散歩の途中でしたし。それに、そこのカディーさんからもここを紹介されました」
 女将は目を丸くして「え、カディーさんが」と驚いた。
「カディーさんは、週に何回か山崎にあるプールに通っているんです。途中に関所があって、最近は、その帰りに立ち寄って行くんですよ」
「ひとは、つながっているんですねぇ」
 調理場から、元気な声がした。女将は奥に引っ込んで、出来立ての焼きそばを持ってきた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
 焼きそばは、本格的な中華のあんかけそばだ。生麺をゆでる。ゆでた麺をよく湯きりして、軽く油を敷いた鍋で炒める。そこに別に作っておいた野菜や豚肉を炒めた具とあんを乗せてできあがりだろう。具が多く、麺もおいしかった。

 サッカーワールドカップは、スペインが優勝した。
 参議院選挙は、与党が負けた。
 大相撲は謹慎力士が多く、テレビとラジオの中継がなかった。
 ことしの夏は、花火のように大げさなニュースが続発している。
「ただいまぁ」
 この頃、関所に入るとき「こんにちは」とか「こんばんは」ではなく、「ただいまぁ」になってしまった。
 常連のひとたちも、お店のひとも「おかえりー」と迎えてくれるからだろう。
 財布から140円を取り出す。
「はい」
 若女将に渡す。冷蔵庫からホッピーを取り出す。まずは、暑いなか歩いてきた自分へのご褒美に、喉を潤す。コップに勢いよく注ぐと、ホッピーはビールのように泡立つ。
 人間ドックまで一ヶ月を切り、ホッピーを焼酎で割るのはやめた。昔のようにストレートに戻した。飲んでみれば、それで十分なのだ。
「センセー、俺には苦くてだめだよ」
 赤坂さんが、ゴーヤの煮物のような料理を渡してくれた。皿に入っているので、だれかからのもらいものなのかもしれない。
「お疲れ様です」
 横浜の病院で麻酔科の医師をしている佐藤さんがやってきた。
「あれ、はやーい」
 佐藤さんは、ホッピーと焼酎を取り出していた。
「えー、あした朝が早いので、きょうはちょっと早く出させてもらいました」
 ゴーヤの煮物をつまむ。かなり醤油や砂糖で味付けがしてあるので、わたしには苦さはあまり感じなかった。佐藤さんも、つまんでいる。
「うーん、苦くないですね」
「佐藤さんは、本場で食べてきたんでしょ」
 先月だったか、仕事の関係で沖縄に行っている。
「向こうのゴーヤは、違う意味で、まったく苦くないんです。採れたてだと、新鮮で、苦味が出ないのかもしれません」
 ということは、あの苦味は古くなってきた証なのか。
「あしたは、また遠くへ行くんですか」
 週末が近づくと、佐藤さんは関東地方の病院に手術の応援に行く。全国的に麻酔科医が不足しているので、彼は自分の休みを返上して、ほかの病院を手伝っている。
「えー、あしたは鹿島です」
「鹿島って、あのサッカーの鹿島アントラーズの」
「そうそう、でも、あの町はほかに何もないんですよ」
 わたしのホッピーは、あっという間に空になった。冷蔵庫から、山猿の一升瓶を取り出した。

 割れせんべいの「吾作」。ゴマせんべいを探し、さらに手の中で細かく割る。
「そこにあるわりと大きな病院なんですけど、麻酔科医がひとりしかいないんです。俺の大学のときの同級生で。だから、彼は24時間勤務なんです」
「それって、労働基準法違反でしょ」
「もちろん、ある時間になったら帰っていいんですけど、いつでも呼び出されたら、病院に行かなきゃいけないっていう意味で」
 それは、大変だ。旅行にも行けないし、深酒もできない。デートはおろか、映画を見ていても落ち着かないだろう。
「ただ、彼は酒は飲めないんです」
 それは、救いだろう。
「でも、仕事のストレスを、どういうかたちで発散してるんでしょうね」
「それが、かなりユニークなんです。一ヶ月に4日連続で二回の8日間の休みがあって、その4日間で香港に旅行に行っちゃう。必ずいつもってわけじゃないけど、ほとんど香港です。同級生だから、けっこうな年齢だけど結婚はしていません。そんな生活を何十年も続けているんです」
「佐藤さんは、その4日間のピンチヒッターってわけですか」
「そうです」
「その方は、もう何十年も香港に行っているとしたら、お店や通り、ホテルの従業員にも、かなり顔がきくんでしょうね」
「えー、相当なビップ待遇だと聞いています」
 およそ10日間の連続勤務。そして4日間の連続休日。この繰り返しを何十年も。
「うらやましいような、ちょっと自分には難しいような」
「いろんな生き方があっていいんですよ。もちろん、彼だって、いつも楽しい4日間ばかりではないと思いますよ。何かおもしろくないことを背負って香港から戻ることだってあるでしょう。ただ、自分と自分の仕事との間に、休みは連続して思いっきり過ごすぞっていう折り合いをつけて、それをやり切っているんでしょう。その休みのときに、だれかがフォローすれば、彼の折り合いは実現する。だから、できるひとが、できる時間に、そのフォローをしているわけです」
 佐藤さんは、早朝の新幹線で鹿島に行き、終日の手術勤務に入る。その話を、とても簡単に話す。医療を志すひとの気持ちは、常人よりもずっと深いのか。
「ときどき、旅行に行かないで、鹿島で会うことがあります。彼は飲まないんですが、いっしょに食事をします。そういうとき、俺が酒を飲んでいても、脇でお茶をおいしそうに飲んでいますよ。結局、だれかに迷惑をかけない限り、自分が満足した生き方を送ることが、とても幸せなんだなぁって、思います。そういう彼の生き方を不思議に思ったり、文句を言ったりするひとがいても、きっと彼は意に介さないでしょう。自分に自信があるっていうのかな。余裕を感じるんです」
 ぐい飲みに入れた山猿を軽くなめた。

 だれだって、楽しみもあれば不安もある。わくわくするときもあれば、がっくりすることもある。とくに、つらいとき、悲しいとき、弱っているとき、ひとは何かに頼ろうとする。
「佐藤さんは、そうやってお仲間の仕事をフォローして、けっこう体力的につらいと思うんだけど、気持ちまで疲れてしまうことってないんですか」
 佐藤さんも、焼酎をしまって、高清水を取り出した。
「もちろん、からだは疲れます。でも、こういうことで気持ちがへこむことはないなぁ。以前、仕事がらみのことで、精神的につらいことはありました。でも、それ以降、気持ちの持ち方をコントロールしようと心がけました」
 わたしにも、似たような経験がある。必死になって仕事をすると、ついついやりすぎて、自分よりも仕事をしないひとをさげすんで見る癖がつく。これがエスカレートすると、ひとの気持ちを踏みにじって、傷つけ、仕事の上で、トラブルを引き起こす。
「悪いことをしている気持ちはないのに、だれも自分を正しく評価してくれないと、こんなにがんばっているのに、何にもわからない周囲がおかしいんじゃないかって、思えてくるんですよね」
 佐藤さんは、高清水をコップに注ぎながらうなずいた。
「結局、そういうのって、自分が何をやりたいかではなく、いつもひとの目を気にしているだけなんです。だから、仕事でも趣味でも中途半端になってしまうか、周囲と壁を作ってとことん突き進むかになってしまう。ひとの評価が重要だからです。でも、冷静に考えればわかることです。ひとは、ひとを評価なんてできないし、否定も肯定もできないとね。ひとが自分をどう思っているか、見ているかを気にしているひとは、それ以上の気持ちで、自分がひとのことを評価していることに気づけない。自分より上、同じぐらい、自分より下という三段階でしか、ひとの分類ができないんです」
「秋葉原で多くのひとを殺傷した男の裁判が始まりましたね」
「あー、あれはまさにこういう典型でしょう。すべてをネットや母親の育て方など、自分以外の責任にしている。それでいて、やった行為に対しては後悔し、反省している。つまり、自分は悪気はなかったのに、ほかのモノやひとのせいで、悪いことをしてしまった。ごめんなさいという構図です」
「これから、こういう考え方の犯罪は増えていく予感がするなぁ」
「親がこどもを自分の思うような路線にはめようとする。その期待にこたえようとしたけど、どこかで息苦しくなる。ここでいう親とこどもは、会社と従業員とか、よのなかと個人と言い換えてもいいんです。つまり、自分でものを考えようとしないと、いつか地面がぐらついたときに、全部、ひとやもののせいにしてしまう。そこには、希望も解決策もなにのにね」
 わたしと佐藤さんの会話を、となりで烏さんがするめをくわえながら聞いていた。
「ふったりとも、難しいこと、しゃべってんなぁ。俺なんて、ちんちくりんよ。でもな、昔はよかったんだよ。いまみたいに、給料は振り込みじゃなくて、手取りだったから」
 烏さんが聞いていたのは、何だったのだろう。

 わたしも、教員になった25年以上前は給料を現金で受け取っていた。そんな期間が数年間はあったと思う。いつから完全に銀行口座に振り込みになったのか、もう忘れてしまった。
「でぇもな。まっすぐけぇんないと、途中でパチンコに寄ったら、ぜーんぶ使っちまうから、やばいんだ」
「そんなこと、言って。じつは全部つぎ込んでしまったこともあるんじゃないの」
「いや、それはしない。必ず、いったん帰る。帰ってから封筒から何枚か抜いて遊びに行くのよ」
 夕方の訪れとともに、空に灰色の厚い雲が広がっていた。
 いつもは、西の空が赤く染まる時間なのに、きょうはすでに外は暗くなりかけている。
 ペシャ、パシャ。乾いた音が遠くで聞こえる。
「おー、きょうはみんな帰ったほうがよさそうだぜ」
 配達を終えて戻ってきた大将の表情が真剣だ。
「雲の動きが早すぎるから、あっという間に嵐になる」
 断定的な言葉に真実味が宿る。
 わたしも、佐藤さんも、赤坂さんも、烏さんも、関所にいた立ち飲み仲間は、そそくさと帰り支度を始めた。
「じゃぁ、またあした」
 自動ドアを出て、それぞれが自宅方向に舵を切る。
 わたしは、いきなりの急な坂にとっつく。ふっと閃光が走った。肩をすぼめ、身構えた。5秒ぐらい後に、バリバリっという音。まだ雷は雲の中でとどろいている。やや早足に坂道を登り切る。
 登り切ったところで、男女の高校生が部活帰りなのか、スポーツバックを抱え、ふたりでガードレールから遠くの景色を見ていた。晴れていれば丹沢が見えるだろうが、きょうは雲にさえぎられて何も見えない。ふたりは、何を見ているのだろう。
 脇を通り抜けた。
 自宅までもう少しというところで、大粒の雨が頬を打った。
 来た。いよいよ来た。
 鍵を開け、玄関に身を入れた瞬間。ドアの向こうで、閃光と同時にドカーン。落雷の衝撃が伝わってきた。関所のメンバーはバスやモノレール、タクシーに乗れているだろうか。
 服や靴、荷物をタオルで拭く。上がりかまちに腰掛けながら、わたしにとって、関所の立ち飲み仲間はどういう存在なのだろうと考えた。きょうのように、雷の危険が迫れば安否を心配する。それぞれに仕事が違うので、日常的には意識のなかに存在しない。ただの立ち飲み仲間なのだろうか。それにしては、ほかのだれよりも多くの会話をしている。職場の同僚や家族以上に、日常的に会話をしている。会話を通じて、互いの考えや疑問を交換する。答え方や仕草で、相手の人間性が見えてくる。
「はーっくしょん」
 それどころではない。早く風呂に入らないと風邪を引きそうだ。夏風邪は長引くから、気をつけないと。


十二章・了

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