go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..十四章

 2011年7月1日。電気関係の法律により、東京電力管内と東北電力管内の大きな事業所は、電気使用制限が始まった。
 各事業所は、昨年に比べて15%の電気使用量の削減が強制された。違反すると、罰金が科せられるという。
 わたしの知り合いも、この波に飲まれている。
 事業所は、電気使用の少ない土曜日と日曜日に開業して、平日を休むことにしたのだ。また、5月の連休あたりから休日そのものをなくして、夏場に仕事のない日を作っているのだ。
 電気を使わないようにするには、工場やオフィスを稼動しないようにせねばならない。エアコンの設定温度を上げるとか、小まめに部屋の電灯を消す程度ではどうにもならないのだろう。
「まったくよぉ。なぁんか、かったるいんだよな」
 関所の真正面にある工場。首都リーブスで働く赤坂さんが、愚痴る。
「やっぱ、金曜には一週間が終わるって感じが大事ですよね」
 わたしは、関所のいつもの場所で赤坂さんの話を聞く。
 そう、7月1日は金曜日だったのだ。
「あしたも、あさっても仕事なんだよ」
 赤坂さんは、やや震える手で日本酒をなみなみと入れたコップを口に持っていく。
 首都リーブスは、大手自動車メーカーのエンジンに関する部品を製作している。重要な下請け会社だ。赤坂さんのような職人たちが、ロボットや工作機械では作れない1ミリよりも小さな単位の研磨や調整をした部品を朝から晩まで作っているのだ。
 部品を納入する元請会社が、土曜日や日曜日を稼働日にして、平日を休みにすると言えば、首都リーブスのような下請け会社は、従わざるを得ないのだろう。ましてや、その会社でさらに契約会社からの派遣として働く赤坂さんには、労働組合のような働く者の権利を擁護する仕組みはないのかもしれない。
「そういえば、センセー。こないだの介護保険のやつ、ありがとな。きのう休みを取って、全部払ってきたよ」
「毎月、口座から引き落とす方法もあったけど、一括にしたんですね」
「毎月っちゅうのは、なんか面倒でさぁ」
 引き落としは自動的に行われるので、口座契約者の赤坂さんが何かをする必要はないのだが、よけいなことを言うと混乱させるので、黙っていた。
「しかし、あの介護保険の通知だって、よくわかんない通知でしたね」
 赤坂さんが、わたしに藤沢市役所から送られてきた介護保険に関する分厚い封筒を見せてくれたのは、6月下旬だった。

 仕事帰りに自宅近くの酒屋「坂の下の関所」に寄る。
 もう少し歩けば、家にたどりつくのに、その手前で寄り道をする。
「ただいまぁ」
「おかえりー」
 レジで若女将が首筋に汗を光らせて迎えてくれる。レジの奥では大将が、汗がしみたシャツのまま一息ついている。
 赤坂さんが、いつもの日本酒をコップに入れながら、目で「おかえり」と言う。
「センセーさぁ。こないだ、うちに役所からヘンなものが送られてきたんだけどさ。何か、わかるか」
 それだけの情報では、何もわからない。
「どんなものが送られて来たんですか。手紙、封書、小荷物」
 赤坂さんは、両手を長四角にして見せてくれる。
「これぐらいの封筒に入ってた」
 何が、入っていたのだろう。酔っ払い相手に事情を聴きだすのは難しい。
「なんだか、介護保険の支払いに関するものだった」
「だって、赤坂さんの介護保険料って毎月の給料から引かれているんじゃないの」
「そうなの。だから、これ以上、払う必要があるのかっていいたいの」
「そういえば、赤坂さんの誕生日っていつだっけ」
「5月5日のこどもの日」
「じゃぁ、6月の給料ってもう出ましたか」
「いつも月末だから、もうすぐ出るよ。でも何でそんなこと聞くの」
「だって、これまで給料から引かれていた介護保険料の請求が突然やってきたっておかしいでしょ。考えられるのは、65歳をさかいにして、介護保険料は自分で支払うことになるのかもしれないってこと」
「封を切って、中を覗いたら、介護保険支払い証明書ってのが見えたんだよな。これまで払っていたものがいくらになりましたよって、教えてくれてんのかな」
 役所から封筒が送られてきたと言っていた。行政がそんなサービスをするとは考えにくい。
「あした、その封筒ごとここに持ってきて見せてください。その方が早そう」
「おぅ、悪いな」
 わたしも介護保険料を給料から天引きで支払っている。でも、これまで役所からそれに関する報せが来たことはない。
 翌日、わたしが封筒のなかみを確認したところ、やはり6月から来年の3月までの月ごとの介護保険料支払いの請求書だった。その請求書の右端にミシン目がついていた。ミシン目の右側に支払い証明書が同時についていた。窓口で支払ったひとに、そのミシン目から切り取って、右側の証明書を渡す仕組みになっているのだろう。
 それにしても、行政の通知はわかりにくい。
 拝啓。このたび貴殿が65歳になったことを契機に、介護保険料はご自身で支払う決まりになっています。ついては、来年3月までの請求書をお届けするので、金融機関などの窓口で支払いをお願いします。
 このような文章が入っていれば、赤坂さんは迷うことがなかっただろう。

 関所の自動ドアが開く。
「あら、いらっしゃい」
 買い物客が入店する。若い男性だ。品物を選ばずに、レジで大将に目配せをしている。祭りで御輿をかついだり、地元の消防団の仕事をしたりするひとかもしれない。何度か、関所に入店するのを見かけたことはあるが、積極的に話したことはない。
「へー、先生、見て。この方、香山さんっていうの。ご自身で被災地に品物を届ける活動をしているのよ。ほら、こんなに写真があるわ」
 若女将の手には、透明な袋状のファイルが数枚綴じ込まれたクリアブックが4冊ぐらい。表紙の固いプラスティックページを開くと、パソコンで打ち出したデジタルカメラの映像に、コメントがついている。ページによっては、写真よりもコメントが多いページもある。それは、どうやら香山さんの活動記録らしい。
「テレビや新聞で見たような写真ばかりだね。これ、場所はどこですか」
「牡鹿半島です」
 サーファーと言ってもいいぐらい小麦色に焼けた香山さんの肌と、被災地の牡鹿半島がいまいちピンとつながらない。
「どなたか、こちらにお知り合いでもいるんですか」
「いえ、たまたまテレビを見ていて、そこの避難所が映ったんです。そうしたら、不足している物がわかったんで、とりあえず車を飛ばしました」
 香山さんは、平然と言う。
「お仕事は、そういう運送かなんかの」
「いえ、全然関係ありません」
「じゃぁ、週末とかを利用して」
「えー、ほとんど日帰りですけど」
 牡鹿半島まで、神奈川県鎌倉市から車をとばして何時間かかるのだろう。
 わたしは、自分で車を運転していると眠くなってしまうという危険な能力を持っている。だから、長時間の運転は自殺行為になってしまう。もっとも助手席に乗ったら、たちまち寝てしまうので、わたしの肉体は車に乗ったら眠るという条件関係が成立しているのかもしれない。これが、列車の場合は全然違うから、脳は神秘だ。
 その話はさておき。
「こんばんは」
 自動ドアが開く。生ビールを入れるプラスティックのカップを持参して、長谷さんが登場した。ふだんは、一人で登場するが、きょうは彼氏もいっしょだ。
 長谷さんは、30才前後だろうか。長谷で輸入雑貨を扱うお店を経営している。関所近くの銭湯「野田の湯」の二階に彼氏が住んでいて、週末はいっしょに過ごすらしい。金曜になると空になった生ビールのプラスティックカップを持参して、生ビールを買っていく。多くのひとが一度使ったら捨ててしまうプラスティックカップを大事に使うエコライフを実践している。
 いつもは生ビールを注いでもらうとそれを手にして帰るのに、きょうはふたりでそのまま生ビールを飲んでいる。
「おー、立ち飲み体験だね」
 わたしは、冷やかす。
 野田彼は、口元に泡をつかながら苦笑いをする。
「そんじゃ、俺、行くから」
 赤坂さんが、リュックを背中にして戸口に向かう。ふと、振り返る。
「いいよなぁ。あしたから休みのひとは。俺なんか、あしたもあさっても仕事だぁ」
 だれかに慰めてほしいのだろう。
「気をつけて帰ってね」
 わたしは、遠くから赤坂さんに声をかける。
 電力の使用制限を決めた国会議員。そのひとたちのなかに、関所で寂しそうに帰って行く赤坂さんの気持ちを想像したひとがどれぐらいいるのだろう。全国に、7月1日金曜日、週末を喜ぶことができないひとたちが大勢生まれた。そのひとたちの憤懣やあきらめが、たくさん集まり、渦になって、入道雲のように空に舞い上がっていく。

 長谷さんは、きれいな黄色いビーサンを履いていた。
「それもお店で扱っているの」
「えー、そうです。今度、来てくださいよ」
「俺は、ビーサンは葉山のげんべいって決めてんだぁ。あそこのは生ゴムだから、履きやすいんだよ」
「これだって、生ゴムです」
 生ゴムのビーサンは、げんべいだけではないのか。だとしたら、わざわざ遠くまで行く必要はない。
「ねぇ、だれか。はえ取り紙をたくさん売っているところを知らないかしら」
 若女将が、店内の立ち飲み仲間に声をかける。
「最近は、見なくなったなぁ」
 洋酒コーナーで、同じ会社のひとたちと盛り上がっていた相田さんが返事をした。
「はえ取り紙って、風にぶらぶら揺れてさ。前に、俺さ、髪の毛にくっついちまったことがあって。あれ、一回くっつくと大変なんだ。取ろうとした指までくっつきやがんの」
 唇をとがらせて、相田さんは、過去の記憶を披露している。しかし、話は、どんどんずれていく。
「どうして、はえ取り紙なの」
 演説している相田さんには聞こえないように、わたしが若女将に質問する。
「日曜日に、香山さんがまた牡鹿半島に行くんですって。そのときにいま向こうでは、はえが大量に発生していて、それを駆除するのに、はえ取り紙が必要なんだっていうのよ。この辺でも昔は普通に使っていたけど、いまではちっとも見かけなくなったから」
 そういえば、わたしがこどもの頃は食堂でもはえ取り紙を使っていたところがあった。就職してすぐの頃、夏休みに研修旅行で行った民宿の食堂にもはえ取り紙がぶら下がっていた。はえ取り紙の威力は強い。あの粘着力は、はえならずとも効果が大きい。そして、食事をしている最中、目の前ではえ取り紙に吸着したはえが息絶えていく姿を目の当たりにするのは、あまり好きではなかった。ときどき、自分の足を引きちぎり、ほとんど胴体だけになって逃げていく猛者もいたが、あのはえは次に着地するときが大変だっただろう。
「香山さんは、向こうでこういう写真を携帯で撮影しているんですか」
「携帯のときもあるけど、デジカメもあります。でも、思ったことや感じたことをツイッターに載せると、反応がものすごく早くて驚きます」
「へー、たとえば、どんな」
「ついこないだも行ってきたんです。震災から3ヶ月が過ぎているのに、まだ何も始まっていない場所がけっこうあるんです。そんなとき 『ひっでー』とか打つと、すぐに反応があったりして」
 なるほど、インターネットは見ず知らずのひとたちを瞬時に場所をこえてつないでいるらしい。
 それにしても、3月11日の東日本大震災以降の政府と東京電力の対応には大きな疑問や不満を抱く。全国から多くの義援金が日本赤十字社や中央共同募金会に集まっているのに、その分配先が決まらないという事実は、この国の縦割り行政という仕組みの大欠点を露呈した。部署が異なると、それぞれに権益を主張する。だから、必要なところに必要な義援の手が届かない。
 関所周辺の地域では、3月下旬から計画停電が実施された。東京電力が不足する電力を有効に使うために、管内を5つのグループに分けて強制的に送電を停止したのだ。そんなことをしておいて、3月下旬の電気料金の請求にはまったくそのことに関する詫びが一言もなかった。非難が集中し、その後「詫び」だけを記したはがきが送られてきた。無駄なことだ。すべての契約者にはがきを送るのに、いったいいくらかかったのだろうか。

 7月2日は土曜日だった。
 わたしは、数年前から始めた陶芸を習いに、葉山町の先の横須賀市大楠というところに行っていた。ろくろで作る陶器だ。土のかたまりを菊練りをして空気を押し出す。ろくろに乗せて、土の中心をとる。これはとても難しい作業で、わたしなどにはまだできない。師匠はなんとかやらそうとするが、数ヶ月に一度の教室では前回のことを思い出すのが必死で、新しいことを吸収するのは至難の業だ。
 陶芸教室の帰りに、わたしは関所に寄った。
「こんにちは」
「あれ、きょうは欠席だったんじゃないの」
 関所には、ほぼ毎日顔を出しているので、行かない日を教えてある。そうしないと体調を崩したのではないかと心配をかけるからだ。土曜は陶芸教室があるから欠席すると伝えてあったのだ。
「うん、でも早めに終わったし、これを届けたかったから」
 わたしは、紙袋に入ったたくさんの文庫本を若女将に渡した。いっしょに陶芸教室に通うひとに貸していた文庫本が戻ってきたのだ。
 わたしは、だいたい5日間で1冊の本を読む。趣味というよりも、読書をしていないと落ち着かないので、中毒なのかもしれない。だから、値段の高いハードカバーはあまり読まない。文庫本を愛読している。読み終わった本は、どんどん知人に貸してしまう。そうしないと、自宅の書庫がいっぱいになり、床が抜けてしまうかもしれないからだ。ほとんどの知人が読み終わったら、よほど手元に残しておきたい本以外は、ブックオフに持って行く。
「センセーに借りた本、まだまだこんなにあるよ。読み終わるのに何年もかかりそう」
 そんなことを言うが、若女将もかなりの読書家だ。読むペースが速い。
「それからね。これも置かせてもらいたかったの」
 わたしは、新聞紙にくるんだできあがったばかりの葉っぱの形をした陶器の皿を三枚取り出した。
「これを、この棚に置かせてほしいんだ。給食の残りを運んできたときに、いつも紙コップを使うのはもったいなくてさ。これなら洗って何度でも使えるから」
 小学校に勤務するわたしの昼食は、給食だ。
 給食は、必ず毎日残食が出る。ぴったりすべてのおかずや主食が食べきられることはめったにない。調理場のひとたちにしてみれば、不足して食べられないこどもを作らないために、やや多く作るのだろう。しかし、その結果、配膳を終えても、おかわりをしても、手のつかないおかずが残ってしまう。その後、食べきれなかったこどもの残し物が加わり、それらは残食となって捨てられてしまう。
 一時期、学校給食の残食は、家畜のえさになったことがあった。しかし、こどもの残り物が加わっているので、そこに細菌やウイルスが含まれている可能性があり、畜産農家が受け入れを拒むようになったのだ。
 わたしは、こどもが残した物を戻す前の「残り」をタッパーに詰める。ご飯ならばラップにくるんでおにぎりにする。以前は、夜遅くまで仕事をする職員たちに夜食用としてプレゼントしていた。しかし、最近になって持ち帰ることにしたのだ。それを、関所の電子レンジで暖めてもらい立ち飲み仲間の肴として提供することにした。
 これが、なかなか評判がいいのだ。
 本当は給食の残りを持ち帰ってはいけない決まりになっている。

 若女将は、わたしが作った陶芸作品を見て驚く。
「やだぁ、そんなことしなくていいのに。割れてしまったらもったいないもの」
「いやぁ、いつも紙コップを使っているほうがもったいないよ。それに、かたちあるものは必ず壊れるんだから、割れてしまうことなど気にしないで」
 立ち飲み仲間は、わたしがせっせと運んでくる給食の残りを当てにするようになった。そうなると、配るときに使っている皿替わりの紙コップはもったいない。5人に配れば、毎日必ず5個の紙コップがゴミになる。その点、専用の皿を用意すれば、洗う面倒だけあるが、ゴミを増やすことにはつながらない。
 給食は、大腸菌による食中毒の発生によって、全国的に加熱処理が原則になった。かつては定番メニューだった、生野菜を使ったサラダが禁止された。必ず中心温度が80度まで加熱しないといけない食品ばかりになったのだ。だから、サラダは消えた。カットしてあるリンゴもなくなった。皮がついているくだものはいいらしい。だから、冷凍みかんは消えない。バナナを半分にカットしたものが出たのだが、あれはどうして許可されるのだろうか。
 また、給食の残りは必ず、調理場に戻さなければならなくなった。おなかがいっぱいで食べきれないというこどもは、紙袋に入れて家に持ち帰ることができなくなった。わたしのこどもの頃は、クラスのこどもたちの家の経済状態が、いまほどよくなかったから、夕飯にとっておくと言って、おかずを持ち帰るのは日常的に行われていたのに。
 だから、毎日、ものすごい量の「残り」が出る。
 飲食店の仕入担当が見たらきっとあきれるほどの「ゴミ」の量である。せっかく用意した食材の3割ぐらいが残ってしまうのだ。それらは、かつて畜産農家に引き取られた。しかし、いまはこどもたちが口にした物が混ざっている可能性があるので、畜産農家が引き取らなくなった。こどもたちの細菌やウイルスが食べ物の残りを通じて、家畜に感染するかもしれないからだ。
 その結果、あふれるほどの給食の残りは、必ず捨てられている。
 何が、環境教育だと叫びたい。
 何が、もったいないを合い言葉にだと叫びたい。
 日本の公立学校では、日々、ものすごくたくさんの食べ物をゴミとして捨てているのだ。
 だから、わたしはこっそり給食の残りを持って帰っている。少しでも、生産者や調理員のひとたちの労苦を思い、ゴミの量を減らすことに、ひとり奮闘しているのだ。
 ひとの口に入る物なので、食中毒のような衛生面には気を使っている。
 まず、クラスのこどもに配膳した後、おかわりなどで減ったおかずを専用のタッパーに詰める。もちろん、こどもが嫌いな食べ物を戻す前の段階だ。それをすぐに冷凍庫に保管する。帰る時間が5時頃なので、お昼からだいたい4時間は冷凍庫で保管される。ほとんどの食材は冷凍状態になっている。それをビニール袋で梱包して、関所まで運ぶのだ。たくさんタッパーに詰めた日は、けっこう荷物が重くなる。デリバリーは力仕事だ。

 週が明けた。
 わたしは、その日、うずら玉子とタケノコの五目煮をタッパーに詰めて関所にたどり着いた。
「おかえりー」
 若女将の元気な声。藤沢から1時間かけて歩いて帰ってきたわたしの背中には汗が吹き出している。
「あっためようか」
 すでに、若女将はキッチンに向かおうとしている。毎日、キッチンのレンジを使わせていただいているので、習慣になっている。
「申し訳ありません。よろしく」
 わたしは、タッパーを渡した。
「よ、センセー、きょうの給食はなんだい」
 県立フラワーセンターで、清掃の仕事をしている永田さんが目を輝かせている。
「きょうは、うずら玉子とタケノコの五目煮です」
「なんじゃそりゃ。ずいぶん、しゃれてんじゃねぇか」
 60才に近い永田さんにしてみれば、たしかにそういう給食メニューは記憶にないだろう。
「麺がポリポリした焼きそばにかける餡みたいなものですよ」
 いつも焼酎の四合瓶が陳列してある棚の一角に、紗綾形模様の刺し子が施された花布巾がかけてある。その花布巾を引き上げると、先日、関所に持参した陶器の皿が重ねてあった。わたしは、それを焼酎の瓶がないスペースに並べた。
「こんなんでいいかしら。冷たいようだったら、言ってね」
 若女将が電子レンジであたためたうずら玉子とタケノコの五目煮を運んできた。
「ありがとうございます」
 わたしは、それを葉っぱの形をした皿に盛り分けた。もうじき、シンロートの相田さんたちも登場するだろう。彼らの分も取り分けておいた。五目煮は、片栗粉でとろみをつけてある。だから、皿のように平たい容器だと、端からこぼれそうになる。でも、入れ物はこれしかないから仕方がない。わたしは、こぼさないようにそーっと永田さんのくつろぐ関所中央のお中元コーナーに五目煮を運ぶ。
「いやぁ、いつも悪いねぇ。まぁこれでも食えよ」
 永田さんは、返礼のつもりなのか、柿の種とピーナッツが10粒ぐらい入った一口サイズのおつまみをくれた。
 気遣いは無用なのに。

 自動ドアが開いた。
「ちわっすぅ」
 額から汗を垂らして、シンロートの相田さんが登場した。
「暑くて、やってらんないよ」
 手のひらをうちわ代わりにして、ひらひらと自分を扇いでいる。洋酒コーナーに荷物を置く。五目煮に気づく。
「お、センセーいつもありがとね。きょうのは、こりゃ、なんだ。あれか、あの、かたい焼きそばの上にかかっているやつか。なんっつったけぇ、ポリポリ麺だ」
 いつも相田さんは、一人で問いかけて、一人で答えを出してしまう。そして、あははと笑う。
「ビール代がかかっていけねけなぁ」
 そう言いながら、瓶ビールを持ってレジに来る。
「センセー、いただきます」
「はぁい、どうぞ」
 こうして、ゴミになるはずだった給食の残りが、一日の仕事を終えた労働者の胃袋に消えていく。衛生面とか、食中毒とか、心配しだしたらきりがない。でも、捨てるよりも、食べたほうが食べ物にとってはいいはずなのだ。
 これがアメリカのニューヨークあたりだったら、宗教団体系のボランティアグループが定期的にファーストチェーン店の残りを回収して、路上生活者に配っているのだろう。そして、そのことをとやかく言う人などいないのだろう。
「センセー、これ、うまいんだけどさ。食いにくいなぁ」
 相田さんから早速クレーム。
「言われると思ったぁ」
「こういうとろとろしたやつ、ちゅうか、汁物みたいなやつは、お椀っちゅうか、小鉢みたいな容器のほうがいいと思うよ」
 その通りなんです。
「ちょうど、うちにあったから使って」
 若女将が、近所の製麺所のポリポリ麺を持ってきた。五目煮と和えて食べる。確かにあの揚げ麺焼きそばのできあがりだ。
 わたしが、自宅にあった4脚の片口を関所に届けたのは、その週の終わりだった。

 7月11日は月曜日だった。
 梅雨が明けた。関東地方は例年よりもかなり早い梅雨明けだった。猛暑の記憶しかない去年の夏よりも、梅雨明けが早いという。先が思いやられる。
 その日の給食の残りは、夏野菜のカレーと枝豆だった。それを若女将にあたためてもらっている間、わたしは臨時の店番をしていた。
 自動ドアが開く。作務衣を着て雪駄を履き、頭にタオルを巻いた宇佐斗(うさと)さんが登場した。
「いま、お風呂の帰りですか」
「えー」
 にやっとしながら、宇佐斗さんが頷いた。
「いま、ちょっと奥にいるので、お待ちください」
 宇佐斗さんは、わけがあって休職している。しかし、休職していても行動的だ。借りているらしい農園で、プロも顔負けの野菜を栽培している。東日本大震災では、何度も東北とこちらを往復して、支援物資を届けた。近所の銭湯に夕刻に浸かり、その後で関所で生ビールをあおるのが日課になっている。そのまま生ビールを持ち帰る日もあれば、関所に残って立ち飲みをしていくときもある。
「はい、いらっしゃい」
 若女将が枝豆をあたためた容器をわたしに渡す。わたしは、それを葉っぱのかたちの皿に小分けして、お中元見本の置いてある棚に生ビールのカップを置いて一息ついている宇佐斗さんの横に置く。
「ビールには合いますよ。給食の残りなんです。遠慮なくどうぞ」
 いわゆるスキンヘッドの宇佐斗さん。にっこり笑うと、ひとのいい和尚さんみたいだ。
「うん、けっこううまい」
 口に入れて、じっくり味わい感想を言う。きょうは、そのまま帰らずに、ここで飲んでいくことに決めたらしい。
「よし、今度はわたしがお礼をしよう。きゅうりがきょうだけで150本もとれたんだ」
「150本ですか」
 びっくり。
「すごいのよ、この方は自分で耕している畑でいつもおいしい野菜を作っているの」
 若女将が解説をする。
「塩もみをしてそのまま食べるのが一番うまいんだけど、どうやって持ってこようかな」
 すでに、提供する側の気持ちになっていた。
「その皿は、わたしが作りました」
 実際にはろくろを使って成形しただけだ。乾燥させて、底を削ったり、窯で焼いたりしたのはお師匠さまである。相田さんのリクエストに応じて持参した、片口も見せた。
「これね、ちらっと見てなんだろうって思ってたんだ。湯冷ましにいいじゃない」
 あれ、もしかして、宇佐斗さんって陶芸通なのかな。
「どこで焼いているの」
 陶器を見て、窯を聞くひとは珍しい。
「横須賀の大楠近くの窯です。葉山の長者ケ崎の先になります」
「それって、寶扇窯(ほうせんがま)かな」
 えーっ、なんで宇佐斗さんがお師匠さんの窯の名前を知っているの。

 わたしは、鳥肌が立った。
「宇佐斗さんも、重松先生のところに通っているんですか」
 わたしは、師匠の名前を出して質問をした。
「いや、昔から陶芸や陶器が好きで、いろんなところに行っているんです。寶扇窯には、ずいぶん昔に行ったっきりですよ」
 本当にそうなのかなぁ。
 ずいぶん昔に行ったっきりなのに、横須賀の大楠っていったら、すぐに窯の名前が出てくるというのは、かなりお師匠さんと親交があるのかもしれない。そう思ったら、素人丸出しの自分の作品が、宇佐斗さんの手のひらのなかにあるのが、とても恥ずかしくなってきた。
 自分で作ったなんて、言わなきゃよかった。
「どうも」
 自動ドアが開いて、香山さんが登場した。
「香山さん、この方が宇佐斗さん。宇佐斗さん、この香山さんも宇佐斗さんと同じで、牡鹿半島の避難所に物資を運んでいるのよ」
 若女将が、いい具合に話を切り替えてくれた。
「わたしと、妻の実家が、大槌町なんです。今回の震災では、両家あわせて、14人の親戚が亡くなり、いまも8人が行方不明です」
 その数の多さに、日本酒をすするわたしは胸が痛む。
 香山さんも手に取った米袋をレジに置こうか、持とうか迷ったまま固まっている。
 わたしは、ふたりから少し離れて、缶ジュースやビンビールが入っている大きな冷蔵庫の前に立つ。ふたりは、互いにどうやって被災地に向かったか、何がいま不足しているかなどの情報交換をしていた。
 しばらくして、若女将がキッチンから夏野菜のカレーをあたためて持参した。そこに相田さんや永田さんが登場して、いつもの立ち飲みメンバーがそろい始めた。
 夏の日は長い。夕刻6時半を過ぎても、まだ空は青い。
 わたしは、湯気が出そうな夏野菜のカレーを片口に配膳した。
「はーい、きょうは夏野菜のカレーです。ビタミンAがたくさんあるので、夏ばて帽子に役立つよ」
 永田さんと相田さんに差し出した。
「最近のがきゃぁ、いいもん喰ってんなぁ」
 いつも、永田さんは一言、言いたくなるらしい。
「うん、センセー、おいしいよ。これぐらいなら大丈夫」
 辛いものが苦手な相田さんから合格印が出た。

 7月15日、金曜日。学校の給食は1学期最終日だった。ビーフシチューの予定だったのに、福島県産の牛肉からセシウムが検出されたので、教育委員会は、ポークシチューに変更してしまった。しかし、使う予定だった牛肉は埼玉県産だった。どうして、福島県産の牛肉ではないのに、使うのをやめてしまったのか。
 同じ公務員でありながら、役所で働くひとたちの頭のなかは、わたしには理解できない。
 こどもたち。このポークシチューがよほど気に入ったらしく、全部食べてしまった。
 というわけで、関所に到着したわたしは、いつものような給食の残りを持参していなかった。
「センセー、きょうで給食は終わりだったよな。きょうのは何だい」
 大船植物園で終日汗水流して働く永田さんは、もうすっかり給食の残りを楽しみにしていた。
「ポークシチューでした」
「おぅ、そりゃ、うまそうだ」
「でも、残念ながら、こどもたちが、みんなうまいうまいと食べてしまったので、きょうは残りはないんです」
「うへぇ」
 そのときの永田さんの寂しそうな、残念そうな表情を見て、申し訳なくなった。
 次々とおかわりをするこどもたちに「そんなに食べたら、太ってしまうぞ。残す程度がちょうどいい」とでも言って、一人分でも持ってくればよかった。
「しょうがねぇよな、永田さんは給食費を払ってねぇんだから」
 関所の奥から、首都リーブスの赤坂さんが追い討ちをかける。
「今度は9月です。でも、それまでに俺が家で何かこしらえて持ってきますから」
 赤坂さんから痛いところを疲れた永田さんは、ぺロッとべろを出して、表に行ってしまう。
 16日から始まる三連休。その最終日は海の日だった。
 わたしは、かつての教え子の結婚式に呼ばれていた。気楽に行ってお祝いをするのとは違う。当日だけではあるけど、仲人を頼まれていたのだ。関東では頼まれ仲人と言うが、正式には媒酌人と呼ぶそうだ。
 永田さんに、給食を届けられなくて申し訳なかったけど、わたしの頭のなかには、当日紹介する新郎新婦の生い立ちのことで頭がいっぱいだった。ぶつぶつ言いながら記憶をよみがえらせ、当日の原稿を思い出す。
「そんなの、原稿を見ながらでもいいんでしょ」
 若女将に言われる。その通りだ。
「そうなんだけど、この仕事をしている以上、原稿を見ながらっていうのは情けないじゃん」
 教員の意地なのかもしれない。よく式典で校長や代表が挨拶をする。そのときに原稿を読み上げると、同業者から苦笑される。覚えられないのかよと。こころのこもった言葉は、相手を見ながらしゃべるものなのだ。

 7月19日、火曜日。火曜日は関所は定休日だ。
 立ち飲み仲間のほとんどは、近くにあるバス停前の焼き鳥屋「鳥藤」に向かう。わたしは、肝臓を休める日を作るために、火曜日はそそくさと家に帰る。しかし、早くに帰り、シャワーを浴びて、ゆでたての枝豆を前に、缶ビールの栓を抜いてしまう。
 肝臓さん、ごめんなさい。
 台風6号が、大雨を降らしながら四国から近畿を経て、東海地方や関東地方に近づいていた。
 前日の媒酌人の苦労などふっとぶほど、19日の学校は忙しかった。
 教育委員会から各学校宛に「翌日(20日)は台風の影響で休校になるかもしれないので、本日中に成績表や20日に渡すものを全部渡すように」という指令が届いたのだ。
 防災頭巾、上履き、体育館履き、成績表、宿題プリント、道具箱など、19日と20日の2日間で渡そうと思っていたものを、一日で持ち帰らせろという。
 特別支援学級のこどもは、多くが保護者が送迎をする。それでも数人は自力で登下校をするので、わたしは合羽を着て、一番遠くに住んでいるこどもの家までいっしょに荷物を運んだ。
 少し、期待しながら、翌朝はテレビで天気予報を見た。しかし、台風6号はなぜか陸地から離れ、小笠原諸島へ向かってしまっていた。
 20日は通常通り開校だった。すべての荷物を持ち帰っていたので、終業式を終えたこどもたちは荷物の片付けも、配布物も何もない。することがなくなった。
「何とかしてよ」
 同僚たちの要望を受けて、たっぷり時間をかけた音楽の授業を下校時間までつないだ。同僚たちはその間、わたしの指導をフォローしていただけだ。これで同じ給料だというから、少し納得がいかなくなる。
 ま、いっか。割り切らないと胃に穴が開く。
「ただいまぁ」
 夕方に関所のドアをくぐる。
「おかえりー」
 若女将のいつもの声。
「どうだった、結婚式」
 あー、そっちか。なんだか、まだ数日しか経っていないのに、台風騒ぎでずい分昔のような気がしていた。
「赤ワインと白ワインを飲み続いていました」
 うん、これは事実なのだ。わたしは酸化防止剤の入っているワインを飲むと、翌日頭痛に悩む。しかし、長野のアルプスワインのように酸化防止剤の入っていないワインの場合は、まったく頭痛が起こらない。不思議な体質なのだ。
「フロアのひとに、酸化防止剤が入っているかどうかを聞いたら、ご安心くださいと言われてさ。がんがん注いでくれたよ」

 一般に夏休みというと学校はこどもだけでなく、教職員も休みかと思われている。
 これは、過去にそういう時期があったから、その頃にこどもだったひとたちが、いま40代から50代になり、社会の中堅層として活躍しながら「教職員夏休み説」を唱えているのだ。
「いまは、昔と違って、俺たちは出勤なの」
 だから、そういう誤解をしているひとたちに、わたしは巷の伝道師になり、事実を伝えてまわる。
 辻説法ならぬ、辻説明だ。
「またまたぁ、センセーなんか、働きが悪いから夏休みも働きなさいって言われているんじゃないの」
 口の悪いひとに反撃をくらう。
 それでも、伝道師はうろたえない。
「働きが悪いのは否定しないけど、働きのいいひとも出勤しなきゃいけないんだよ」

 台風6号が過ぎて、夏とは思えない寒気が上空を覆った。関東は軽井沢の高原並みにさわやかな空気に包まれた。

 7月21日も22日も、わたしは出勤をして、帰りに関所に顔を出す。
「いったい、何をしてんの」
 授業のない教員は、学校で何をしているのか。
 どうやら、立ち飲みのみなさんには基本的な疑問らしい。することは山ほどあるのだが、どれも大して魅力のある仕事ではない。ほとんどが掃除とか書類整理のような事務仕事、単純作業なのだ。だから、わざわざ説明はしない。

「ラジオを聴きながら寝てます」

 嘘も方便。このほうが面白いではないか。
「ラジオといえば、地デジが始まるってか」
 首都リーブスの烏丸さんが、間延びをした声で発言する。
 ラジオとデジタル放送は無関係だが、いちいち突っ込まないでおこう。
「そうですね。烏さんのところはもう変更しましたか」
「おぅ、ばっちりよ。マンションで一括してな」
 集合住宅では、個々に変更するのではなく、全体で変更することも可能なのだ。別に、ばっちりよと自慢することではないのだが、やはり、いちいち突っ込まない。
「センセーよぉ、うちのテレビはどうなんだ」
 永田さんが、深刻な表情で聞いてきた。うちのテレビはと言われてもなぁ。

 地上デジタル放送は、郵便はがきが勝手に値上がりしたり、消費税がどんどん値上がりしたり、介護保険が勝手に導入されたり、東電の都合でいきなり停電させられたり、そういうくくりと同じだ。
 そういうくくりとは、ひとびとの生活に大きく影響するのに、かんじんのわたし個人は何も知らされていなかった生活の変化劇のことを意味する。わたしがぼーっとしていて知らなかったのではない。わたしには、考えや質問や意見を発する自由が認められていなかった。
 日本の政府や官公庁は、たびたびこういう唐突な政策を強行する。
 中国で高速鉄道が事故を起こした。その車両を翌日、重機で埋めてしまった。その横暴さを日本のメディアは批判していた。しかし、そこまで極端ではなくても、国内に目を向ければ、同じように批判すべき対象はたくさんある。
 なのに、テレビも新聞も問題にしない。
 理由は、かんたんだ。批判すべき対象が大事な大事なスポンサー様だったり、許認可庁のお役人様だったりするからだ。
 にらまれたくないのだ。
 原子力発電に批判的な意見や発言を、国の予算で監視する業務がある。今回の原子力発電所の事故で明らかになった。反対意見を封じようとする国家機関の封建制と、それに税金が使われていることの憤懣を、だれも問題にしない。
 つくづく政治的には、行き詰っている国だ。

 そんな通信や情報機関が7月24日を境界にして、またまたひとびとの生活に大きな変化を強行したのが、テレビの地上デジタル放送への移行だ。
 わたしの知り合いには、アナログ放送とデジタル放送を明確に区別して説明できるひとは、ほとんどいない。わたしだって、素人の雑学程度の知識しかない。なぜ、アナログ放送を終了しなければいけないのか、とても理解していない。
 ただ「終了する」というから、「仕方がない」とあきらめている。
 アナログ放送を残して、デジタル放送にしたいひとは自分でお金を出して、移行しましょうというのなら、ゆるやかな変化として受け入れることもできる。しかし、これまでのアナログ放送を終了して、一斉に切り替えることの必然性と意味がまったく理解できないのだ。
 きっと多くのひとは、デジタル放送に切り替えても、これまでと同じ地上波を見るだろう。チャンネルが変わってしまったことに驚きながら。
 あのボタンがいっぱいのリモコンを駆使して、データのやりとりを楽しむひとなどほんのわずかだ。なのに、デジタル放送に切り替えた。
 きっと、ものすごく儲かっている業界があるのだろう。それぐらいの想像は、わたしにもできる。
「永田さんのテレビにはアンテナがついていますか」
 まず、そこから聞かないと通じないだろう。

 ウイスキーグラスに氷を入れて、指でかき混ぜる。飲んでいるのは焼酎だ。
「それがな、こないだ市役所のひとが来て、テレビをいじっていったのよ」
 うーん、そういうことってあるのかなぁ。
「大家さんが、あんたはいつもいないから、最後になっちゃったって言ってたから、ほかの部屋はみんな終わっているんだろうな」
 いったい、市役所のひとはひとの家に上がりこんで何をしたのだ。
「なんか、テレビとアンテナのコードを入れる穴との間に端末をつけたんだな」
 永田さんの口から「タンマツ」という言葉が出て、おもしろい。
「そのタンマツはなんですか」
「そんなもん、知るけぇ」
 だろうなぁ。
「ところが、そのタンマツをつけたら、鎌倉ケーブルが映るようになったのよ」
 げ、どういうことだろうか。
「永田さんは、鎌倉ケーブルと契約をしているんですか」
「しているわけ、ねぇだろ」
 わたしは、意味がわからず、若女将に生ビールを頼む。琥珀色の液体の力を借りないと状況が飲み込めない。
「あの、整理しますね」
 わたしは、民事の相談を受けた刑事のようだ。
「ある日、市役所のひとが来た。そのひとがテレビに端末をつけた。そうしたら、いままで見たことがなかった鎌倉ケーブルが映った。っとまぁ、こういうことですか」
「大変よくできました」
 考えられる可能性は、複数ある。
「永田さんのテレビは、アンテナで見ているんですよね」
「たぶんなぁ」
「えー、たぶんってどういうことですか」
「ほら、アパートだから、部屋の柱に穴があって、そこに先っちょが二つに分かれているコードをつなぐわけ」
 いまどき珍しいアンテナ線を利用しているらしい。なるほど、テレビの頭にアンテナを乗せているのではないのだ。
「もしかしたら、アンテナは共同ではないですか」
「さぁな」
 あまり、そういうことに興味のないひとにとって、デジタル放送への切り替えはハードルが高すぎる。

 厳密に言うと、鎌倉ケーブルというのはテレビ局の名前であって、チャンネルの名前ではない。
 鎌倉のように自然の谷あいが多い地域では、もともとラジオやテレビがまともに受信できない地域が多い。そういう地域では、行政が補助金を出して、ケーブルテレビへの移行を勧めている。いぜんは、UHFアンテナの導入を推奨していたが、鎌倉市と松竹が共同出資してJCN系列の鎌倉ケーブルテレビを作ってからは、ほとんどケーブルへと移行した。
 わたしはいまの家に転居してから、鎌倉ケーブルテレビと契約をした。
 これにより、地上波以外に、衛星放送(BS)、通信チャンネル(CS)が見られるようになった。大好きなアメリカンフットボールばかり放送するチャンネルがついていたので、大いにケーブルの恩恵にあずかっている。
 そのたくさんのチャンネルのなかに、鎌倉ケーブル自身が番組を提供している枠がある。大船や北鎌倉の地域情報や、台風や地震の情報、夏には花火大会の生中継などを放送する。おそらくは、防災放送の役割を担っているのだろう。
 永田さんの家のテレビは、突然、その鎌倉テーブルテレビの専用チャンネルが映るようになったというのだ。
「リモコンはありますか」
「ない。だって、ひとからもらったテレビだから」
 リモコンはテレビに必要なのではない。テレビに放送の信号を送るチューナーのコントロールに必要なのだ。リモコンがないということは、市役所のひとはデジタル放送のチューナーをつけていったわけではないようだ。
「でもな、TBSが映らないんだよ」
「え」
「たぶん、テレビが故障しているんだな」
 デジタルとは無関係だろう。
「もしかしたら、アパートのような集合住宅では大家さんが防災放送への移行をする義務があるのかもしれませんね。でも、それって地デジとは関係ないです」
「要するに、24日を過ぎて、見ることができるかどうかってことだよな」
「たぶん」
「いまから、鎌倉テレビに電話をして、デジタルにしてくれって頼めばいいのかな」
「そりゃもちろん。でも、永田さんは契約をしていないから、まず契約をするところから始まりますよ」
「なぁんだ、勝手に向こうでアナログからデジタルに切り替えてくれるわけじゃないんだ」
 確かに、それで切り替えができれば、わたしたちの生活は大きく変化することはなかった。
 7月24日は日曜日だった。わたしは茅ヶ崎にある日帰り温泉の塩サウナでテレビを見ていた。午前11時50分あたりから、番組はデジタル放送へのカウントダウンをしていた。日曜日も仕事の永田さんは、きっと夕方に家に戻ってから、答えを知るのだろう。

 結果から先に言うと、24日の正午を過ぎても永田さんの家のテレビは放送を続けた。
 それがどういう理由かは不明だ。
 7月25日に関所で会った永田さんが笑顔で「いやぁ、テレビは映ったよ」と教えてくれたのでわかったのだ。そもそもテレビは映るものなので、映らない状況の方がおかしいのだが。

 週明けの月曜日。わたしは仕事を休んだ。
 病気だったわけではない。職場の小学校が翌日の火曜日に市内の小学校水泳大会の会場になる。そのため、前日から関係者がたくさん来校して準備をする。学校内のことを知らないひとたちがたくさん来校するので、たまたま勤務していると、ちょっとすみません攻撃に遭う。
「トイレはどこですか」
「水は飲めますか」
「更衣室はどこですか」
「校長先生はいますか」
 何でもかんでも聞かないで、少しは自分で調べてほしいと思うのだが、ぐっと言葉を飲み込んで、作り笑顔で質問に応じてしまう。そのため、水泳大会の前日と当日は、数年前から休暇を取って休むことにしている。

 月曜日は、午前中に台所に立つ。国産の小麦粉を使ってピザ生地を練った。強力粉と薄力粉を同量使う。ふるいにかけて、仕込み水で生き返らせたドライイーストを混ぜる。夏場はイーストの発酵速度が速いので、仕込み水には氷水を使う。常温の水でも、小麦粉を計量している間にぶくぶくと小さな泡を立てて発酵を始めてしまうのだ。
 発酵しすぎた生地は、間に空気の穴(正確にはイーストが出す二酸化炭素)がたくさんできて、食べたときにすかすかしてしまう。粉に水を混ぜるだけに見えて、なかなか奥が深いのだ。
 この生地を使って、トマトソースのピザとわさびベースのピザの二種類を二枚ずつ四枚作った。自宅のランチにそのうちの二枚を食べる。残りの二枚をカットして熱を冷ましてラップにくるむ。冷蔵庫に仮保存した。
 冷蔵庫のチルドに入っている夏野菜を片っ端からシンクの洗い桶に出す。野菜だけのマリネを作る。わたしは酢が好きなので、レモンやゆず、シークワァーサーを使ったオリジナルドレッシングでマリネを作ることが多い。マリネにすると野菜はしなっとなって、場所をとらない。また適度に水分が酢に溶け込んで、おいしい野菜ジュースになる。皮の硬い野菜は酢揚げにすることがある。今回は油を使いたくなかったので、蒸すことにした。
 鍋に湯を敷き、蒸し器をセットする。庭のピーマン、オレンジピーマン、しめじ、にんじん、たまねぎなどを蒸していく。蒸しすぎると色が変わるので、熱が通ったらさっと上げてしまう。
 大きなボウルにたっぷりのマリネを作り、タッパーに小分けする。自宅用と関所用に分ける。
 準備が整って、わたしはピザとマリネを袋に入れて、関所に向かった。

 大船で用事を済ませて、昼のうちに立ち寄った関所に戻る。立ち寄ったときに、ピザとマリネを預けてきた。
「ただいまぁ」
 自動ドアをくぐる。
「おかえりー。さっき、永田さんが、ピザ、ごちそうさまって言ってたわよ」
 若女将が教えてくれた。昼に立ち寄ったときに、どういうわけか、永田さんがいたのだ。もしかしたら、月曜日は仕事が休みなのかもしれない。
 シンロートの相田さん、山ちゃん、首都リーブスの烏丸さんたちが登場する。
「じゃ、あっためてくるね。お店をよろしく」
 若女将が奥に引っ込んで、ピザを電子レンジで温めてくれる。出来上がるまで、わたしがレジに入る。お客さんが来ても、待っていてもらうしかできないが、だれもいないよりはましだろう。
「できたわよ」
 ほっかほかのピザが運ばれてきた。
 わたしは、陶芸教室で作ったお皿にピザを並べる。片口やお椀にマリネを入れる。
「相田さんは、辛いのが苦手っていうから、このわさびの方は気をつけて。もう一つはトマトだから大丈夫」
 我が家では昼にピザを食べていた。そのとき、家族はわさびが辛すぎると閉口して、わざわざチーズの下から、わさびを出していたのだ。
「センセー、俺、唐辛子はだめだけど、わさびは平気だから、あはは」
「うん、これぐらいなら、平気じゃないかな」
 若女将も、わさびピザを味見する。
 ひとの舌は千差万別だ。
「このドレッシングはどうやって作ったの」
 マリネを味見した若女将。さすが、目の付け所が違う。
「これは、ほとんどがレモンです。それに酢を混ぜて、オリーブオイルを少し。蒸したときの野菜汁も混ぜています。でも、酢漬けにしているから、野菜からもうまみが染み出していると思うんだ」
 いわゆる野菜ジュースだ。キャベツやレタスを少なくしたから、トマトやたまねぎなど、甘みのあるジュースが出来上がっていた。もっとレモンを入れてもよかったかなと思うほど、酸味は少なくなっていた。
「何の味かなぁ」
 相田さんが首をひねる。
「あー、もしかしたら、鰹節かも」
「そうだ、これは鰹節の味だ。かなり強いよ」
 野菜の蒸し汁で鰹だしを作ったのだ。相田さんの舌は敏感だった。

 8月。わたしは本格的な休暇に入った。
 県の法律で認められている夏季休暇5日間、25年以上勤続したご褒美のリフレッシュ休暇5日間、有給休暇から5日間の合計15日間を上旬の3週間に集中的に夏の予定に計上した。
 小学校の仕事は、一般企業や自営業者のひとたちと違って、時間と空間の拘束が強い。
 朝の8時半から夕方の5時まで、決まった場所にいなければいけない。ちょっとそこまで出かけるにも、管理職の許可が必要だ。また、やらなければいけないことが、こどもがいる時間帯は分刻みで詰まっているので、自分の時間というのがほとんどない。
 わたしは、午前6時ごろに出勤して、自分の時間を作り出している。その時間がないと、こどもたちの授業準備ができないのだ。こどもが帰った後の時間は、会議や研究会が入ることが多い。わたしが勤務し始めた25年前は、放課後に会議があることなどめったになかった。しかし、いまは何かにつけて会議、会議、会議だ。外部からの圧力が強くなったので、みんなで集まって相談しておかないといけないことが増えた。会議が終わると、午後5時が近づいている。多くの職員は、勤務時間を過ぎても学校に残り、自分の仕事を片付けてから帰る。
 わたしは、朝のうちに済ませているので、さっさと帰る。
 そんな日常を過ごしていて、最大の楽しみは年に一度の夏休みだ。
 いつも、8月には休暇をまとめ取りする。
 休みを取って海外旅行や遊園地に行くためではない。
 心身ともにリフレッシュし、自分の時間を一日中、思いっきり過ごしたいのだ。
 寝たければ寝る。歩きたければ歩く。料理を作りたければ作る。本を読みたければ読む。
 今回の休暇は、わたしにとって、人間ドックとセットになった。休暇の後半に人間ドックに行くので、暴飲暴食は慎まなければならない。
「こんな時期だけ気をつけても意味がない」
 関所の立ち飲み仲間は言う。
 しかし、そういう時期が年に一度ぐらいあってもいいとわたしは思う。
 からだの大掃除というか、手入れ期間みたいのものだ。
 8月に休暇を取るために、7月中はほとんど出勤した。こどもがいない教室で、朝から帰りまで壁や床を磨く。2学期以降の学習の準備をする。ラジオをつけて、エフエム横浜を聴く。かなりの自由度だ。
 1学期は、給食の残りを関所に運んでいた。立ち飲みの仲間に、酒の肴としてふるまった。しかし、7月の中旬以降、給食は終わってしまった。
 よーし、8月になったら、午前中に関所用の料理を作って、昼に届けよう。それまでにジョギングを済ませておく。しぼった身体で料理を作り、午後は大船を歩く。夕方に関所に集い、仲間に味見をお願いする。
 とてもささやかなことだが、わたしにとってはふだん逆立ちしてもできない豪華な時間の過ごし方だ。

 8月1日、月曜日。久しぶりに昆布出汁を作る。久しぶりに作ったので、試しに昆布出汁で出汁巻き玉子を作った。
 関所に差し入れをする。
「きょうの玉子焼きは昆布出汁なので、味が薄くて玉子の味しかしないかも」
 一応、言い訳をしておく。
「センセー、これ、何も入ってないんじゃないの」
 一口、食べた相田さんが早速食って掛かる。
「だから、昆布出汁だけなんだって」
「昆布の味なんかしないよ、安い玉子を使っただろ」
 そりゃ、一個500円のウコッケイみたいな高級玉子ではないよ。
「お店を開こうとするんじゃ、これじゃ、いけねぇなぁ」
 うんちくになっちまった。
「おー、山ちゃん、これ食ってみな。センセーの玉子焼き」
 到着したばかりの山ちゃんに、相田さんは出汁巻き玉子を分ける。
 山ちゃんが、一口、放り込む。
「どうだ、これ、何の味もしねぇだろ。昆布だかわかめだか、出汁が効いてるんだって。でも、何もわかんねぇよな」
 まだ、山ちゃんは何も言ってないのに、相田さんは一つの方向に山ちゃんの気持ちを誘導する。
「これは、きっと玉子が悪いんだ。安いやつを使ったから、こういう何の味もしなくなっちまったんだ」
 山ちゃんは、目で、わたしに微笑みかける。
 山ちゃんは、相田さんと同じ会社に勤める。年齢は相田さんよりもずっと上で、社内では、立場が上なのだろう。

 あーあー、また相田が勝手なことを言っちまってー。センセー、ごめんな。
 
 わたしは、自分に都合のいいように勝手に山ちゃんの微笑を読み取った。
「ありがたいのよ。こうやって、率直に意見を言ってくれるひとがいるってことは」
 若女将が、腐りかけていくわたしのこころを見越して、腐敗を止めようとする。
「実際に、お店を開くときは、センセーが好きな味だけではお客さんに受けないってこと。そういうことを教えてくれているのよ」
 こころの腐敗は、ちょっと止まった。

 8月3日、水曜日。
 2日に同僚のマンションで日本酒パーティーを開く。いつの間にか寝てしまう。そのままフローリングで朝を迎えた。腰や肩がガクガクした。
 一番電車で戻り、午前中は寝た。昼前に、せっかくの休暇を酔いつぶれて過ごすのはもったいないと起きる。熱いシャワーを浴びて、冷蔵庫からばら肉を出した。
 日本酒パーティーの締めに、冷やし中華をふるまった。そのときのために、きのうは朝からばら肉のスープを作り、残ったばら肉に塩と味噌を塗りこんで保存しておいたのだ。
 二本のブロックを半分から切って4つにした。
 さらに4つを半分にして8つにして、いくつかのタッパーに入れておいた。そのうちの2つを取り出して、包丁でさいころ状に切りそろえた。
 炒飯を作る。
 かつて、中華街のお店を食べ歩いて研究した炒飯の作り方は、腕が覚えている。紹興酒がなかったのが残念だが、日本酒で味付けを代替した。
 相田さんに「安い玉子」と言われた玉子を使って、炒飯を作る。
 中華鍋を温める。表面から煙が出るまで熱する。次に薄く油を敷いて、ティッシュで伸ばす。さらに煙が出るまで熱する。
 さいころのばら肉を軽く炒める。表面に焼き色が着いたら、ザーレンで油をこす。
 長ネギの端の硬い部分で、ネギ油を作る。割った生卵を、玉じゃくしで軽く混ぜてネギ油に注す。まだ十分に火が通らないうちに、白米を玉子の上に乗せる。玉じゃくしの裏に水をつけて、白米を薄く伸ばす。米の間に玉子を広げていく。
 やや火力を抑える。
 塩、オイスターソース、コショウをふりかける。よーくあおって、材料と調味料が米の間に広がるように混ぜていく。一粒一粒に空気が入り込むように、あおっていく。慣れない頃は、あおりすぎて、レンジ廻りに具材を散らばせたものだ。
 仕上げに、日本酒、中華出汁(ばら肉)、醤油、ごま油を加えて、火力を上げる。一気にあおって、汁っぽくなった炒飯を蒸し焼きにしていく。
 大皿に広げるように配膳する。よくプロは玉じゃくしでお椀のかたちに丸めるが、素人があれをやると、逆に水っぽくなるので、わたしはやらない。あおった意味がなくなるのだ。
 室温で冷まして、タッパーに分ける。
 残りを自分の昼食にした。玉子とばら肉しか使っていない炒飯だ。うまい。シンプルがいい。思わず、冷蔵庫からアサヒのプレミアムモルツを出して、専用カップで飲む。うーん、こちらもうまい。
 平日、水曜日。ふだんは絶対にできないぜいたくなランチの過ごし方だ。

 わたしは関所で、片口やお椀に差し入れの炒飯を分ける。
「きょうは、酒の肴というよりも、ご飯なんです」
 へぇっという顔で、赤坂さんや永田さんがわたしを見る。
「でも、大きめのばら肉が入っているので、それを肴にしてください」
 自動ドアが開く。相田さんの登場だ。
「相田さんは、家に帰って飯を食うって言ってたよね。炒飯だけど、食べるかな」
 瓶ビールをぶら下げた相田さん。
「そんなに量はいらないけど、いただきます」
 ははは、こないだと同じ玉子だぜ。
「センセー、うまいよ。こういうやさしい味がいいなぁ」
 赤坂さんが、喜んでくれる。嘘でも嬉しいではないか。休みになると朝から酒を飲み続けている赤坂さんの胃袋に、米と玉子と肉を届ける。忘れていた消化を思い出してくれますように。
「お、これはいいなぁ」
 相田さんの御発声。パクパク食っている。
「うーん、肉もうめぇ。玉子もいい。やっぱりこないだ俺に言われて、玉子を変えたな」
 だから、同じ玉子だよーん。
 わたしは、一葉さんが差し入れてくれた葉唐辛子も炒飯の端に乗せた。
「センセーね。これ作っていたら、葉っぱが少なくなって実ばっかりになったの」
 一葉さんが言った通り、それは葉唐辛子というよりも、青い唐辛子の煮込みのうようだった。
「これは、辛いなぁ」
 赤坂さんが顔をしかめた。唐辛子をそのまま食べてしまったようだ。わたしも口に含む。中から種が出てきて、わたしの頭の中に火花が散った。
 そこに、ニンニクを生で食べる辛さの帝王、泥橋さんが登場した。
「泥橋さん、さっき一葉さんが差し入れてくれた葉唐辛子なんだけど、試してみてよ」
 わたしは、泥橋さんの皿に、ことさらに実だけの葉唐辛子をてんこ盛りにした。
「おいしいよ、たいしたことない」
 泥橋さんは平然としていた。
「少し、味付けが濃いかな」
 味わっている。驚きだ。
「だって、泥ちゃんは、タバスコを瓶ごと飲んじゃうひとだよ。これぐらい朝飯前だって」
 奥から山ちゃんが教えてくれた。

 極楽寺でインドからの輸入雑貨を扱うカディーさんが、プールに行く途中で関所に寄った。
「これ、どう。きょうはただだよ。次からお金取るから」
 いつものごとく、ものすごく一方的な商法でわたしの手にジップ付袋を2つ握らせる。
「何ですか、これ」
「ほら、こないだ、言ったじゃん。忘れたの」
 たくさんのこないだがあるから、いつのことを言っているのかわからない。
「忘れました」
「正直でよろしい」
 お褒めいただく。
「福島の被災地に行ってきたのよ。そこでカレーを作った。そのときに、向こうのひとたちにもらったの。粟と稗。何とか、売り物にならないかなぁ、センセー、考えておいて」
 それじゃ、と手を振ってプールに行ってしまった。

 粟はイネ科の多年草で、もともとは米という字も粟をさしていたそうだ。中国では昔から食用だった。4000年前の遺跡では、粟から作った麺が見つかっている。小麦など他の穀類と混ぜて利用されることもある。パンには、メリケン粉7に対してアワ3の割合で混ぜるとよく膨らみ、色が美しい。麺類ではうどん粉と半々、天ぷらの衣に加えるのもよい。

 稗もイネ科である。イヌビエから収穫できる実をさす。日本ではかつて重要な主食穀物であったが、昭和期に米が増産されるとともに、消費と栽培が廃れた。現代の日本では、小鳥の餌など飼料用としての利用が多いが、最近になり、優れた栄養価を持ち、また食物繊維も豊富なことから、健康食品として見直されつつある。増加しつつある米や小麦に対する食物アレルギーの患者のための主食穀物としての需要も期待されている。

 わたしは、粟と稗の袋を手にした。
「泥橋さん、これ、生で食べたことある」
 語尾を上げて質問する。
「ないよ」
「やってみようか」
 わたしは、粒が小さい粟を手のひらに出した。食べてみても、あまり味がしない。一粒がたぶんたらこよりも小さい。次に、稗を出す。こちらはやや粟よりも大きい。食べてみたら、香ばしい風味がした。まるでナッツを食べているような感じだ。
 うーん、どんな料理方法があるだろうか。

 8月8日は暑い月曜日だった。
 前日の7日の日曜日に大船の仲通商店街で買い物をしていた。
 ユータカラヤでばら肉のブロックは100グラムあたり108円で売っていたのだ。昨年の九州の感染病以来、ばら肉が130円よりも安くなることはなかった。久しぶりの100円台に、思わず2ブロックも買ってしまった。1ブロックがだいたい500グラムある。一葉さんにも頼まれていたので、合計では3ブロックも買った。
 さらに大きな白菜が半分で100円で売っていたので、これも買う。
 帰り道は、とても重かった。
 
 それを月曜日は朝から調理した。
 大鍋にたっぷりの水を入れて沸かす。ばらブロック肉を餃子用の250グラムを残して、残りを入れる。ばら肉からエキスを抽出するのだ。にんにくと生姜をいっしょに入れる。
「朝から家のなかににんにくが充満している」
 家人に小言を言われる。
 仕方がないから、換気扇を「強」にして臭いを外に出す。
「こんな時間から中華料理でも作っているのか」
 庭で彫刻を作っていた父親が台所を覗く。
 まったく、やりにくい。

 スープを作っている間に、フードプロセッサを出してきて、餃子作りの準備をする。
 北海道産の「春よ恋」という強力粉を300グラム計量して、網でこして、粒子をそろえる。
 165グラムの水を用意する。ワンタンは熱湯を使うが、餃子の皮は水で大丈夫だ。
 フードプロセッサに粉と水を入れて「練る」。フードプロセッサは、練りの初期をやってくれるので助かる。ある程度粉と水が一体になってきたら、まな板に出して、手でこねる。菊練りを繰り返して、生地を成形していく。だんごにして、濡れ布巾で包み、冷蔵庫で寝かせる。
 フードプロセッサの刃を交換して、カッターにする。
 白菜とニラとばら肉を計量する。白菜は500グラム、ニラは50グラム、ばら肉は250グラム。わたしはこのレシピがいつも覚えやすいので、使っている。これで60個の餃子ができる。皮を40個にすれば、やや大判の餃子になる。
 フードプロセッサを使って、白菜をみじん切りにする。ボウルに出して、塩をふり、水気を出す。ニラとばら肉をみじん切りにする。ばら肉は、やや形が残る程度にしておく。あまりミンチにしてしまうと、食べたときに、ジューシーさがなくなってしまう。

 ときどき大鍋を覗いては、あくを取る。

 ばら肉のミンチに味付けをしていく。
 こしょう、生姜汁、紹興酒大さじ1杯、醤油大さじ2杯、サラダ油大さじ1杯、塩少々、ごま油少々。それぞれの調味料を入れるたびに混ぜる。全部を入れてから混ぜると味に偏りが出る。好みに応じて、醤油の量は増やしてもいい。
 よく水気を切った白菜とニラを混ぜる。全体に粘りが出るまでよく混ぜる。ここで妥協をすると、皮に包む段階で水っぽくて後悔することになる。余分な水気はキッチンペーパーで吸っておく。

 まな板に打ち粉を打って、冷蔵庫から生地を出す。
 団子状の生地をまな板の上で中央から端に向かって両手を使って転がしながら伸ばしていく。包丁で真ん中を切る。さらにそれぞれを伸ばしていく。今度は、包丁でそれぞれを三分の一に切る。だいたい同じ長さの生地が6本できる。
 この1本から10枚の皮を作る。
 切った断面の両方に打ち粉をつけて、手のひらでまな板に押し付ける。500円玉ぐらいの円形に広がる。それを麺棒で薄く伸ばしていく。中央から周囲へ伸ばしていく。少しずつ生地を回転させていく。一周したら皮が円になるように微調整してできあがり。10枚の皮ができたら、餡を中央に乗せて、生地を折り曲げてひだを作る。できた餃子から、トレイに乗せる。10個ともできたら、一度、冷凍庫で凍らせる。たくさん作る(今回は60個)ときは、最初に作った餃子の生地からグルテンが出てきて、となりの餃子やトレイの底に生地がくっついてしまう。それを防ぐために凍らせてしまうのだ。
 これを6回繰り返す。
 手早くやらないと生地が乾いてしまうが、わたしの場合は30分ぐらいはかかってしまう。
 すべての餃子ができたら、焼きに入る。
 本当は、鍋にお湯を沸かしておいて、そこに突っ込んで水餃子にするのがおいしい。しかし、水餃子はその場で食べないと旨みが伝わらないので、焼いてしまう。

 フライパンを熱する。
 油をしいて、ちり紙などで平らに伸ばす。
 手早く60個の半分、30個の餃子を円形に並べていく。やや火を強めて、餃子の底の皮の色がキツネ色になるのを待つ。全体がきつね色に変わったら、火を弱めて、お湯を注ぐ。作った生地なので、あまりお湯の量はいらない。パン全体にお湯が広がる程度で大丈夫だ。
 蓋をして、蒸す。
 お湯が蒸発して、プツプツという音が聞こえてきたら、味付けでごま油を軽くかける。
 強火にして、完全に水分を蒸発させたら、焼きあがり。
 パン全体に大きめのお皿を裏返しにして乗せる。パンを左手で、皿の底を右手で押さえて、天地を逆にする。
 できあがりだ。

 8日の日差しが皮膚を刺す。
 わたしは、大きなお皿に餃子を乗せて、ラップをかけて、関所に運ぶ。
「こんにちは」
「わぁ、こんなに作ったの」
 お昼の時間帯に餃子を届ける。保冷剤を入れて、冷やすわけにはいかないので、お皿のまま持参した。

 大船で買い物をして、夕方に関所に再登場した。
 若女将に、餃子をあたためてもらう。
「きょうは、餃子なんです」
 いつもの永田さんや赤坂さんが、おっという顔をする。
「はい、お待ちどうさま。これ、センセーが皮から手作りよ」
 若女将が、餃子の宣伝をしてくれる。
「俺には信じれねぇ」
 赤坂さんが、コップの酒を口に運ぶ。休みの日にはついつい朝からウィスキーを飲んでいる赤坂さんには、想像もつかないのだろう。
 わたしは、陶器に2個から3個ずつ取り分けて、永田さん、赤坂さん、大将に渡す。
「ほう、皮がもちもちしてんな」
 永田さんは、なかなか鋭い。
「うまいよ、でも、これじゃ、売り物にはならないな」
 大将が感想をこぼす。
 どういうこと?
 わたしの表情を見て、関所の奥のコーナーを指差す。そこには、これから、昆布出汁の出汁巻き玉子を「安い玉子を使いやがって」と罵った相田さんがこれから来る。
「予行練習をしておかないと」
 相田さんの口に、合うかなぁ。辛くはしてないから、たぶん大丈夫だと思うけど。

「ちわっす」
 想像通り、相田さん登場。
「きょうは、餃子を作りました」
「へぇ、すげえじゃん、センセー。毎日、仕事さぼって、好きなことしてていいなぁ」
 そういう褒め方なのだろうか。
 相田さんが、一口、餃子を口に入れる。
「お、センセー、うめぇよ。皮が違うな」
 相田さんは、口は悪いが、食べ物の良し悪しはわかるらしい。手作りの皮を感じていただけたようだ。
「でもなぁ」
 おっと、油断してはいけない。

 相田さんは、まだ皿に残っている餃子を箸でつまむ。
「センセー。これ、具が少なくないか」
 なかなか鋭い突っ込みである。
 わたしは、自分で皮を作ったときは、餡をぎりぎりまでは入れないようにしている。餡の水分が生地を溶かしてしまうからだ。そうすると、皮を閉じることができず、焼いている途中に餡が外に出てしまうのだ。
「一口餃子だからさ」
 そういうことにしておく。
「これじゃ、ワンタンだよ、ワンタン。知ってるでしょ。するっと食べちゃうやつ」
 そりゃ知ってますよ。
「相田さん、いいじゃないの。これはこれで」
 赤坂さんが助け舟を出してくれる。
「いや、俺は餃子にはうるさい男だから、妥協はしたくない」
 別にお金をもらっているわけじゃないのだから、相田さんは何に対して妥協したくないのだろうか。
 その後、相田さんと同じ会社のひとたちが何人か訪れた。そのたびに、相田さんは事前通知を繰り返す。
「これさ、センセーが作った餃子なんだけど、餃子だと思って食べるよりも、ワンタンだと思って食べた方がいいから。そのつもりで、よろしく」
 そんなことを言われて、同僚たちは、どうリアクションすればいいのか。
「おいしいワンタンですね」
 これではわたしに角が立つ。
「おいしい餃子ですね」
 これでは相田さんに角が立つ。

 9日の火曜日は関所が休みだ。
 みんなに満足のいく料理を作るというのは、とても難しいと相田さんが教えてくれる。
 時間がある火曜日の午後、どこかで飲むよりも、手間のかかる料理を作ろうと考えた。
 それは、たまに関所でスパイスをくださる極楽寺に住むインド人のカディさんを思い出して決めた。タマネギとトマトから本格的なカレーを作ろう。そのなかに、これまでいただいたスパイスをガンガン入れてしまおう。
 きっと香辛料が辛いから、相田さんは手をつけない。
 ひとの餃子をワンタンだと言い換えたお仕置きだ。

 大きな鍋にオリーブオイルをたらす。
 つぶしたニンニクのかけらを3個入れる。火をつけて、オイルにニンニクをしみこませる。ばら肉の脂の部分だけを使って、さらにオイルにこくを出す。
 あらかじめタマネギ3個とトマト6個をフードプロセッサでみじん切りにしておいた。まずはタマネギを入れる。底がこげないように、ヘラでかき混ぜながら、炒めていく。よけいな作業はない。ただそっとかき混ぜ続ける。退屈な作業だ。
 タマネギがあめ色に変わる。トマトのみじん切りを入れる。ジュースもそのまま入れる。火を弱めてぐつぐつ煮る。これも底がこげないようにヘラかき混ぜ続ける。
 この段階では、とてもカレーには見えない。濃厚なトマトスープだ。
 極楽寺に住むインド人のカディさんにいただいた様々なスパイスを、瓶を逆さまにして投入する。いままでスパイスの味がきついので少量ずつ使ってきたが、きょうだけは気持ちがいいほど使い切る。
 マサラ、クミン、ターメリック、ペッパー、コリアンダーなど、本場のひとが使うスパイスが大量に入っているのだろう。たちまちキッチンが異国情緒に染まる。
 胸肉を一口大にしておいた。あらかじめフライパンで焼き目をつけてある。途中からそれを混ぜ合わせた。カディさんのスパイスには、殻がついたままのものが多く、これでは食べるときに口のなかに違和感が残る。
 わたしは、ヘラで殻を潰しながらかき混ぜた。当然、胸肉も粉々になっていく。
 どんどんトマトの水分を蒸発させていたら、ドライカレーのようになってしまった。
 あわてて火を止める。きっとキーマカレーというのはこんな作り方をするのだろう。
 時計を見たら、オリーブオイルをたらしてから3時間が経過していた。
 まずは自宅でランチに試食。炊き立てのご飯と別盛のカレー。濃厚なカレーなので、少量でご飯がたくさん進む。お、なかなかいけるではないか。

 わたしは以前にギャバンのカレーセットを使って本格的なカレーを作った。そのときは13種類のスパイスをきっちり計量し、ヨーグルトも混ぜた。
 今回はそのときに比べると、はるかにアバウトに作った。基本はタマネギとトマト、それにスパイスなので、味見をしながら適当に作った。
 それでも十分うまいカレーができた。
 カディさんへのお礼として、空になったスパイスの瓶にカレーを詰める。残りをタッパーに入れて、関所への差し入れにする。立ち飲み仲間は、肉体労働のひとが多い。昼間に汗を流して働いているので、夏ばての防止にもカレーが役立つことだろう。ただし、みなさんにとってもカレーが小麦粉を使った市販のカレーだったら、舌には合わないかもしれない。
 ま、そのときは持って帰って自分で食べよう。
 わたしは、お世話になっている関所の家族用に平たく伸ばしたカレーをラップにくるんで冷凍した。こうしておけば、使いたいときに、必要な分量が使えるのだ。

 10日の水曜日。ちょっとワクワクしながら、関所で立ち飲み仲間に手作りカレーをふるまった。
「センセー、これうまいよ」
 永田さんが感動してくれる。
「本当にタマネギとトマトから作ったの」
「えー、それにカディさんのスパイスを大量に入れました」
「へぇ、カレーってこうやって作るんだ。知らなかったなぁ。また作ってよ」
 簡単に言う。
「永田さん、このカレーは手間がかかっているのよ。煮込むだけで3時間もかかったんだから」
 若女将がフォローしてくれる。
「ふだん、野菜を食わない俺たちにはありがたいよ」
 赤坂さんが、箸の先にちょこっとつけたカレーを肴に日本酒を飲む。
 確かに、ほとんど繊維質しか残っていないけど、タマネギとトマトの量はとても多い。

 14日の日曜日。
「こないだピカちゃんの送別会をやったんだよ」
 東京でひとのために仕事をするカンちゃんが教えてくれた。
「送別会って、いよいよ引越しってこと」
「ほら、ピカちゃんの会社、横浜に移転したでしょ。だから、住む場所も変えるって言ってたのよ」
 若女将が解説。
「いきなりやってきて、カンに連絡を取れって言うんだから」
 どうやら、ピカちゃんはカンちゃんをご指名して、お別れを告げたらしい。
「鳥藤に行ったんだけど、全然いつもと違ってさぁ。一言も話さないの」
 カンちゃんがそのときの様子を教えてくれる。鳥藤は、関所に近い焼き鳥屋だ。ピカちゃんは、本当はとてもナイーブなひとなのだ。
「そんでね、その翌日に引っ越したの。そうしたら、もうきょうやってきた」
 ガクッ。若女将が言う。
「新しいところに行ったら、照明がなくて、一晩真っ暗ななかで過ごしたんだって。だから、こっちのアパートから持っていくって」
「そういうのは、横浜なんだから、近くの電器屋で買えばいいのに」
「きっと、それは言い訳でさ、こっちに戻ってくる理由が必要だったのよ」
 なるほど。

 お盆に入った。
 関所周辺の工場は、交代でお盆休暇を取る。平日ならば多くの立ち飲み仲間でにぎわう関所も、週末のように静かになる。
 わたしは17日の水曜日を、自分の食堂最終日に決めていた。
 夏休みを使って、関所に集まるひとたちにお酒以外の食べ物を提供しようと始めた配達専門の食堂。18日は人間ドック。19日は所用。20日は土曜で21日は日曜なので、ひとが集まらない。そして、21日から仕事へ復帰する。
 だから、17日しか、ゆっくり料理を作っている時間がなかったのだ。
 おまけに17日は人間ドックの前日なので、自分で作っても同じようにパクパク食べるわけにはいかない。だから、本物の料理人の感覚だった。
 17日のメニューは、いつもよりも多かった。
 茄子の天婦羅、人参とネギのかき揚げ。これは小麦をこねすぎて、できあがりがあまりさくっといかなかった。相田さんが食べたら「へただなぁー」とどやされていただろう。
 沖縄麩のチャンプルー。生卵と出汁をたっぷりしみこませて、夏野菜炒めに突っ込む。以前、仙台麩を使って似たような料理を作ったことがある。沖縄麩のほうがさっぱりした感じだった。
 チーズ入りオムレツ。生協が宅配してくれるサービスを使っている。たまたま玉子がたくさん届いたので、連日玉子を使った料理を考えていた。オムレツは、4秒ぐらいしかフライパンに火をつけていないので、スピードが勝負の料理だ。なかが黄身でトローッととろけるように作るのが難しい。
 これらをタッパーや段ボールに入れて、関所に運ぶ。
「こんにちは」
「おぅ」
 昼時に近い時間だった。レジには大将がいた。
「これ、きょうの差し入れです」
「いつも、わりいなぁ」
「でも、きょうが最後です。あとでみんなが来たら、分けてください。俺は、あした人間ドックなので、食べることができないから、届けるだけです」
「おぅ」
 そう言いながら、奥の大型冷蔵庫に保管させてもらう。
 本当は、みんなが食べる表情を見ながら、うまくできたのか、失敗だったのかを判断すべきだろうが、そんな状況にいたら、自分も食べてみたくなってしまう。
 
 午後7時ごろに、カンちゃんから「お料理を食べていいのかなぁ」というメールが届く。すでに食事制限直前のわたしは、自宅からうらやましさを込めて「どうぞ」の返信を送った。

 20日は土曜日だった。大船の仲通を散歩して関所に戻る。
 前日までの暑さが嘘のように涼しくなっていた。半そで半ズボンだったのに、わたしはその日は長袖長ズボンを着た。
 夏の全国高校野球の決勝戦が午前中に行われた。西東京代表の日大三高が青森代表の光星学園に11対0の大差で勝った。
「センセー、これ、食べるかな」
 若女将が、ゆで落花生を出してくれた。
「わぁ、大好きなんだ。ありがとう」
 食堂を閉店したら、反対に向こうから食べ物がやってきた。やや硬めにゆでた落花生だったが、かめばかむほどに落花生の甘みが口のなかに広がった。
「お疲れです」
 永田さんが、リュックを背負って帰って来た。きょうも県立大船植物園で仕事をしてきたのだ。リュックを床に置き、宝焼酎の空ボトルを取り出す。なかには琥珀色の液体が入っている。
「はい、これ」
 若女将に差し出す。
「センセーにも、ほれ」
「何ですか、これ」
 受け取りながら、質問をする。
「梅にリンゴ酢と砂糖を入れて漬けておいたらできたんだ」
 わたしはキャップを開けて、ホンの少しコップに入れて、口に含んだ。梅の香が口中に広がり、喉の奥に酢の酸味が広がる。甘さをつけてあるので、そのまま飲んでもおいしい。
「永田さん、ありがとう。これ、おいしいですよ」
「いつも、センセーにはお食事をいただいたからな」
 ここでも、食堂を閉店したら、飲み物が向こうからやって来る。
 善意の連鎖はあるものだ。
「これは、炭酸を入れて飲んでもおいしいですね」
「あー、でもあれは気が抜けちゃうんだよな」
 永田さんは職場にこれを持参するそうだ。炭酸で割っていくと、ちびちび飲んでいるうちに炭酸がとんでしまう。なるほど、風呂上りに一気に飲む分には喉にクエン酸と炭酸の泡がしみておいしいだろうに。
「ありがたくいただきます」
 オイルや塩、こしょうをまぜてドレッシングにするのもいいだろう。頭のなかはまだ食堂店主の気分だった。
「こんにちは」
 お、久しぶりにさぶちゃんが登場した。

 さぶちゃんは、山崎の谷戸奥深くにあるアパートに住む独身青年だ。新宿まで出勤している。パソコンを使って人物や乗り物を描くコンピュータ・グラフィックのプロだ。バス停の近くの焼き鳥屋「鳥藤」を根城に、飲み歩く。
 ただし、終電で大船に午前1時ごろに帰ってくる生活が日常なので、平日に会うことはめったにない。週末にたまに、近所ですれ違ったり、鳥藤で会ったりする程度だ。関所にはおもにタバコを買いに来る。
 最後に会ってからもう2ヶ月ぐらい経っていた。
「こないだ、仕事場を変えるって言ってたけど、どうなったの」
「よく覚えていますね」
 記憶力だけは、この仕事には欠かせない能力だから、日々磨いておかないとね。
 さぶちゃんは、話のとっかかりを探していたのか、わたしの質問を受けて、奥の冷蔵庫からチューハイを持ってきた。関所の売上に貢献したぞ。
「こないだから、正規に採用になりました」
「そりゃ、よかったね。いままで契約状態だったからね」
 さぶちゃんの業界のひとは、会社と正規に契約せずに、少しでも自分の作品を高く買ってくれる会社に売り込むことが多いらしい。テレビゲームとかパチンコのディスプレイとか、一つの大きなプロジェクトごとにチームが結成されて、完成すると仕事が終わる。また新しい仕事を探すことの繰り返しだと聞いた。
 しかし、そろそろやりたいことだけではなく、組織に入って、求められることもやらねばと、前回にさぶちゃんはしみじみと言っていたのだ。
 たしかに、おそらく30歳は過ぎているだろうさぶちゃんが、今後恋愛や結婚を考えるなら、いつまでも契約社員では生活が安定しない。
「正規に採用って、正社員ってことでしょ」
「そうそう、そうです」
 なんだか、とっても嬉しそうだ。
「でも、自宅のパソコンのディスプレイを増やしたら、ネットにつなげなくなって、やけを起こしそうになっているんで、気晴らしに出てきました」
「モニターを増やすってどういうことなの」
「一つのパソコンにディスプレイ(画面)が一つあるじゃないですか。電器屋でディスプレイだけ売ってんです。それを2つ買ってきて、パソコンの両側につないで同時に3つのディスプレイが見られるようにしたんです」
 同じ画面が3つもあって、どういう利点があるのか、わたしにはわからない。
「そんなことをして、何かいいことがあるの」
「だって、画面が広くなるってことは、それだけ同時にたくさんのことができるってことじゃないですか」
 どうやら、画面の広さが広くなって、右でインターネット、中央でワープロ、左で作画みたいのを同時に楽しめるということらしい。

 さぶちゃんは、仕事場だけではなく、家でも仕事と似たようなことをしているのだ。
「うちでゆでた落花生よ、食べなさい」
 若女将がさぶちゃんにゆで落花生を提供する。
「ありがとうございます。うわぁ、これゆでてあるんですか。俺、こういう食べ方は初めてです」
 落花生は、収穫した状態では食べられない。しばらく天日干しをして乾燥させ、さらに炒ることによっていわゆる「ピーナッツ」として商品になる。しかし、収穫してすぐにゆでて食べるととても甘くておいしいのだ。まだ水分が残っている状態でゆでるので、うまさが凝縮されている。
「落花生って、あれですか。枝豆になる途中が落花生ですか」
 プッ。わたしは、口に含んでいた日本酒の山猿を鼻に入れてしまいそうになった。
「逆だよ、枝豆を放っておくと落花生になるんだよ」
 大将が、ものすごい適当なことを言う。
「へぇ、今度合コンで使えるなぁ」
「さぶちゃん、全然違うよ」
 それに、こんな話題に乗ってくる合コン参加の女性がいるとは思えない。落花生の生産日本一の千葉県の女性だったら、軽蔑するかもしれない。
「ちゃんと茎があって花が咲くんだから。その花が結実するときに細いストローみたいのが伸びて土の中に入っていくんだよ。そして、土のなかで実になるの」
「なんだ、根にブツブツできるわけではないの」
 若女将も知らなかったらしい。
「それじゃ、イモになっちゃんじゃん」
「なるほど、花が地面に落ちるのね。だから落花生かぁ。これも合コンに使えるぞー」
 さぶちゃんは、そういう基準で雑学を得ようとしている。
「ところで枝豆は放っておくと、じゃぁ何になるんですか」
「大豆だよ」
「えー、じゃぁ枝豆を作って、大豆にしようとしたらそのまま収穫しなければいいんだ」
 理屈的にはそうかもしれない。しかし、いまの枝豆はかなり改良されているので、枝豆の時期に収穫しないと、大豆まで育ててもおいしいとは限らない。反対に大豆を育てて、枝豆の時期に収穫しても、枝豆としておいしいかどうかはわからない。そのことをさぶちゃんに説明した。
「じゃ、小豆って小さな大豆を収穫したわけですか」
「おいおい、あれは別の種類の豆だって」
「わー、合コンネタがいっぱい集まったぞー」
 初対面の女性に、いきなり落花生や大豆、枝豆の話をするさぶちゃんの姿を想像する。きっとその合コンは、成功しないだろうと心配になる。

 永田さんが壁にかかっていたカレンダーを眺めている。
「センセー、学校ってのは9月1日に始まるんだよな」
「そうですよ」
「でも、いきなり、1日から給食が始まるわけじゃないんだよな」
 おっと、そういうことか。
「はい、すぐには始まりません」
 佐々木食堂が閉店したので、永田さんの次の期待は給食の残りにシフトしている。なかなかの変わり身の早さ、切り替えのうまさだ。
「別に、給食がいつ始まるのかって聞いているわけじゃないんだよ」
 永田さんは、わたしのこころを読んだかのように言い訳をする。
「それって、聞いているようなものですよ」
「そっかなぁ。では、いつからですか」
「たぶん、5日の月曜日から始まると思います」
「まだ、しばらくあるなぁ」
 永田さんは、しげしげとカレンダーを眺める。
 わたしは、給食の残りがいつも捨てられてしまうことに憤慨して、汁物以外はなるべくタッパーに保存して、関所に運んでいた。それが1ヶ月前のことだ。1学期の終わりに給食が終了してしまったので、それ以降は自分で食べ物を作って食堂を開店していたのだ。
 そして21日の日曜日も、わたしは関所に寄る。
「あーあー、いよいよあしたから仕事だぁ」
「何いってんだよ、みんな暑い中、働いてるんだぜ」
 パソコンで調べ物をしている大将に忠告される。
 おっしゃるとおりである。きっと、わたしのように長期の休暇を連続して取得した勤労者は日本全国でもそんなにはいないだろう。しかし、欧米では夏の間に2ヶ月ぐらいばっちり休むのは当然のことなのになぁ。過ぎてみれば3週間なんて、あっという間だった。
「そういやぁ、横須賀線を昔走っていた113系が近々イベント用でもう一回走るんだってよ」
 113系と言えば、国鉄時代の車体だ。アイボリーホワイトと濃紺のツートンカラーは「スカ色」としてマニアから人気があった。JRになってから、軽量安価のアルミ車体が導入されて、横須賀線から113系はずいぶん前に撤退したのだ。
「どんなイベントなの」
「ほら、その後、113系は房総を走っていたけど、いよいよ完全に引退なんだってさ。それで、かつて走っていた横須賀線を走るみたいだよ」
 いまでも113系が内房線や外房線で走っていたのは知っている。それもいよいよ引退するのか。アルミ車体は国鉄時代の鋼鉄車体と違って軽い。だから、強い横風が吹くとすぐに運行を停止してしまう。車体が軽いので風によって横転してしまうのだ。鋼鉄車体は錆びるので、全面にペンキを塗らなければならない。ステンレスのアルミ車体は錆びない。だから少量のペンキですむ。安上がりなのだ。
 効率を優先させた発想が、中国の高速鉄道事故でどんな結果を招いたかを知っているので、113系の引退は、悔しい。

 8月25日は木曜日だった。
 わたしは出勤して定時の5時で退庁した。藤沢から久しぶりに歩いて帰ろうかとも思ったが、蒸し暑さの前に断念して、電車で大船に戻る。
 大船駅からは、徒歩で関所に向かう。自動ドアの前まで来たときに、数メートル前方をわたしの父が歩いていた。きょうは仕事がなかったのかもしれない。
「こんにちは」
 あーあーあー。
 永田さんや相田さんが、わたしの顔を見て声を上げる。
 なんだ、なんだ。そんなに悪いことはしてないぞ。
「いま、お父さんが帰ったところなんだよ」
「あー、お店の前で後姿を見ました」
 相田さんが教えてくれる。
「きょうは、息子は遅いなぁとか言ってさ」
 ん、どういうことだ。
「はぁい、お待ちどうさま」
 若女将が奥から、餃子を乗せた皿を持ってくる。
「あら、センセー、いまお父さんがいらしてたのよ」
 えー、あの父がひとりで関所にいたのか。
「ピンチヒッターですかって、聞いといたんだぜ」
 大将がにこにこしている。
「まさか、ひとりでここに来るとは」
 わたしは、驚いた。父は昔から性格的にひとりでお店に入ることが苦手なのだ。どんなに空腹でも、いっしょに入るひとがいないと飲食店には入らない。どんなに買いたいものがあっても、ひとりではお店のなかに入らない。
 どうすればいいのか、あわててしまうのがいやなのだ。
 母が亡くなってからは、自炊生活をしているので、食材は仕方なくひとりで買っているようだ。それでも、にぎやかな大船駅のルミネの惣菜コーナーで選んでいることが多い。それもあれもこれも選ぶのではなく、一度おいしいと思ったものを飽きるまで買い続けるタイプだ。
「お風呂に行った帰りだってさ」
 永田さんが教えてくれた。
「えー、お風呂って、あそこの銭湯ですか」
 銭湯のような開けた場所にひとりで父が行くとは想像できなかった。
「そういうタイプの人間ではないんですよ。ひとりでは、ふつうのお店にすら入らないんだから」
「あー、俺も似たところがあるなぁ。ひとりで食堂なんか入ってもうまくもなんとないから、どんなに腹が減っていても、うちに帰ってくるよ」
 大将が納得している。おー、ここにも父と同じタイプのひとがいた。

 父は昭和12年に満州で生まれた。永田さんによると、加山雄三と同い年だそうだ。
 戦後、祖母といっしょに内地に引き上げた。満州時代に、弟と妹が生まれたが、ともに戦時中に病気で亡くなっている。祖母は、侵攻してきたソビエト軍に連れて行かれた祖父と別れ、8才の父と二つの小さなお骨を持って、朝鮮半島を蒸気機関車で下り、九州に船で到着した。
 父に当時のことを聴くと、あまり詳しくは覚えていないという。
 ただし、満州の首都、新京(シンキョウ・現在は長春)はとても大きな町だったそうだ。平原が郊外に続き、朝も夜も太陽は地平線から昇り、地平線に沈んだという。その雄大さは、後に美術を志す父の作風に影響を与えたと思われる。
 引き上げてきた祖母は、そのまま蒸気機関車を乗り継いで、祖父の実家である八戸にたどり着く。祖父の実家は、八戸では有名な和菓子屋だった。その和菓子屋の屋根裏部屋を間借りして、金も何もない生活を始めたのだ。祖母は生前「あのときが一番、つらかった。戦争で悪いことをしたわけではないのに、よく生きて帰って来たなぁと文句を言われた。早く父さん(祖父)が戻ってきて、一日でも早く八戸を離れたかった」と教えてくれた。
 そんな祖母の苦労をまったく知らなかった父は、反対に三陸海岸の自然毎日満喫した生活を送る。ほとんど学校は機能していなかったので、毎日海岸に行き、岸壁から飛び込む。ウニも鮑も取り放題だったそうだ。
 一年後に、いのちからがら満州から祖父が引き上げてきた。父は戦前、内務省(いまの国土建設省)でダムやトンネル、道路の設計をしていた。召集令状で満州に行ってからは、からだが弱かったので、軍馬の世話係だったそうだ。それでも、軍隊にいたというだけで、戦後は公職追放の対象にされた。しかし、地元のひとの特別なはからいで、しばらくは役所の仕事をしていたそうだ。
 その後、建設や設計の腕を買われ、ふたたび陸運局の仕事に携わり、神奈川県鎌倉市大船にあった官舎に家族で引っ越す。父と10歳違いの弟は、この官舎に引っ越してから生まれる。父は、このときに大船中学に入学した。
 陸運局を定年で退職した祖父は、品川にあった港湾工事専門の建設会社に再就職した。そこではおもに開発計画の進んでいた横浜港地区を担当した。いまのそごう、ベイクォーター、高島倉庫の解体などは祖父が設計した図面が元になっている。民間会社に就職したので、祖父は官舎を出て、山崎地区に土地を借り家を建てた。父はそこで高校、大学時代を過ごし、結婚をした。つまり、わたしはそこで生まれた。
 ビールが大好きな父は、わたしがこどもの頃、関所の社長からケースでビールを頼んでいた記憶がある。
 美術を志していたが、芸術家で生計を立てられるほど、資産があったわけではない。父は教員免許を取り、美術の教員になった。

 大和市にある市立渋谷中学が初任地だった。
 そこで美術教員のスタートを切る。
 その後、神奈川県立日野高校に異動した。高校の美術教員になった。
 そして、神奈川県教育委員会に異動になり、学校現場を離れる。桜木町の紅葉坂を上がったところに青少年会館が完成し、美術室が開設された。その担当者になった。
 一般のひとのための美術教室を企画したり、自分が講師になって美術教室を開講したりしたのだ。この青少年会館時代が父の教員生活ではもっとも長かったと思われる。
 わたしがこどもの頃の記憶では、父は毎日、この青少年会館に通勤していた記憶しかない。また、専門の美術室なので高価な美術器材や絵の具が公費で入手できた。父は、仕事をしながら、自分の作品をそこで制作した。
 美術室のとなりには音楽室があった。軽音楽の演奏やコンサートができる設備が整っていた。いわゆるスタジオである。県立の組織でスタジオがあるというのは当時はとても珍しかった。町のスタジオを借りて演奏したり録音したりするととてもお金がかかったが、音楽室は基本的には無料だった。わたしは中学から仲間とフォークソングのバンドを組んでいた。父は音楽室の担当にわたしを紹介した。おかげで、大学を卒業するまで、何度かそこの音楽室でコンサートをさせていただいた。
 おそらくずっと美術室で仕事をしたかったのだろうが、わたしが大学に進学した頃、父は神奈川県教育委員会の美術専門の指導主事になった。こちらは県庁に勤める役人だ。仕事の合間に自分の作品を創るというわけにはいかない。
 青少年会館から県庁に勤務した時代に、父はだいぶ野毛や関内、桜木町を仲間と飲み歩いたらしい。帰宅しないこともたびたびあったので、夜はどこで何をしていたことやら。
 わたしは大学4年の夏に神奈川県教育委員会の教員採用試験を受ける。その試験のなかにデッサンの実技試験があった。出題者は父だ。だから、周囲にへんな疑いをかけられないようにするという理由で、父は試験の一ヶ月前から県庁近くのホテルに連泊して、試験終了まで帰宅しなかった。いま思えば、試験問題などもっと前にできているだろうに、そんなことで疑惑が晴れるのかわからないのだが。
 実技会場で、父が机間を巡視して、目と目があったときには恥ずかしかった。
 県庁勤めの後に、父は鎌倉にある横浜国大附属中学・小学校の副校長に異動した。附属学校は校長が大学の教授なので、副校長は実質的に校長と同じ仕事をこなす。
 同じ頃、わたしは葉山町で教員のたまごとしての新任生活を始めていた。
 附属学校で3年を過ごした父は、なんと次に葉山町立葉山中学校の校長に異動した。わたしは小学校に勤務していたが、同じ町内に侵入してきたのだ。
「あのひと、佐々木さんのお父さんでしょ」
 同僚や先輩、保護者から、何度も同じことを質問された記憶がある。

 それまで、人事面では上から指示されるままに動いてきた父が、中学校の校長になって、初めて自分の意思を教育委員会にぶつけた。
 海外日本人学校への派遣である。
 海外に在住する日本人のこどもたち。そのこどもたちに日本政府が国内と同じ学習内容を保障するのが、海外日本人学校だ。文部科学省の管轄と思われがちだが、じつは外務省の管轄なのだ。
 だから、海外日本人学校へ教員として派遣されるということは、教育という専門家としての外交官として派遣されることになる。もちろん、出発前には語学の研修が課せられ、赴任地の国内状況などの説明が行われる。
 基本的に赴任地は希望できない仕組みになっているが、父は有名な美術館のある都市を内心では希望していたらしい。パリ、ニューヨーク、ロンドン、マドリード。しかし、現実は厳しく、赴任地は台北だった。意気消沈しているのかと思ったら「あそこには故宮美術館がある」と目を輝かせていた。あくまで美術家なのだ。
 父は母とともに、三年間の台北生活を送った。
 母は、築地の生まれで、結婚して鎌倉に来た。当時は大船に行っても品物が少なく、銀座や築地に直接に買い出しに行っていた。
 おいしいもの、きれいな服、楽しい話題が大好きだった母は、どちらかというと地味な結婚生活を長く送っていた。
「あの三年間は、わたしの人生で最高の三年間だった。すばらしい宝物がいっぱいだった。絶対に忘れない」
 生前、母は台北時代を振り返り、山ほどのアルバムを愛しげに眺めながら話してくれた。
「妻には何もしてやれなかった。だけど、あの台北での三年間をプレゼントできたことが、自分にはせめてもの罪滅ぼしになった」
 母の葬儀のとき、父は涙をいっぱい溜めて、参会者に挨拶をした。それだけ、台北での三年間は意味ある日々だったのだ。
 わたしはその三年間、祖父母と同居した。その期間に祖母が倒れた。クモ膜下出血だった。海外日本人学校に派遣された教員たちの規定で、個人的な理由での一時帰国は認められていなかった。唯一認められていたのは、家族が亡くなったときだけだった。祖父、わたしの家族、妹夫婦、叔父夫婦で交代交代で看病したが、祖母は二度と意識を取り戻すことなく亡くなった。12月30日だった。
 通夜、告別式が決まって父母は帰宅を許された。
「自分がわがままを通して、海外に行ったので、神様が罰をくだした」
 台北で生活を悔やむような台詞を、父が祖母の葬儀でこぼしたことを覚えている。
 台北で三年を過ごし、帰国した父は、鎌倉市立大船小学校で校長をして定年退職を迎えた。そのまま自宅で創作三昧の暮らしをするのかと思ったら、定年後は京浜女子大学(いまの鎌倉女子大学)、横浜高等教育専門学校に再就職して、現在に至っている。

 定年後も仕事を続けた、いくつかの理由の一つには、母の死があったと思う。
 父は定年後は、夫婦で全国をのんびり旅したい、海外ものんびり旅したいとつねづね言っていたのだ。その伴侶がいなくなった口惜しさと寂しさは、仕事でもしていないとまぎらわせることができなかったのだろう。
 母が肺がんの末期で、治療から痛みの緩和へと診療方針を転換したとき、父は仕事帰りにこっそりポットに母の好きだった赤ワインを入れて見舞っている。病院が禁止しているものをこっそり持っていく度胸が父にあったとは思えなかったので、とても驚いた。
「こいつを飲むと、嬉しそうなんだ」
 父は、母がモルヒネの影響で意識が混濁してしまうまで、毎回、こっそり赤ワインをプレゼントしていた。
 いま、父はわたしといっしょに暮らしている。同じ敷地内に別々の棟を建て、それぞれ自立した生活を送っている。一応、洗濯も掃除もしているようなので、一人暮らしにも慣れて来たのだろう。
 まさか、それでもひとりで銭湯に行って、ひとりで関所に立ち寄るとは思わなかった。
 相田さんが、解説してくれる。
「お父さん、生ビールを持って、こっちに来るんだよ。お風呂に入ってきたって言ってさ。息子はまだかなぁって心配していたよ。たまには、いっしょに酒でも飲んだらどうなのよ」
 近くにいると、そんなに気を使わないので、あえて酒を飲むこともないなぁ。
 今度、父の部屋にビールを届けて「あのとき話していたひとは相田さんって言うんだよ。俺の作った餃子をワンタンと言った失礼な男なんだ」と教えてやろうか。
「へぇー、あのひとがお父さんだったんだぁ。俺はてっきりあそこのおじいちゃんかと思ったよ」
 永田さんが出した名前は、近所の歯科医院の先代のご主人だ。とっくに亡くなっている。それじゃ、幽霊じゃないか。
「永田さん、今度お父さんが来たら、足元を見てごらんよ」
 大将に笑われている。
 自動ドアが開く。
「あーら、カディさん。こんにちは」
 輸入業のカディさん登場。
「こんばんは、センセー、あした、暇、京都に行こう」
 いつもカディさんは前置きがない。理由もない。
「京都のひと、難しいね。これどうですか?食べてみませんか?こっちから言うと、いいですって、逃げちゃう。向こうから何か行ってくるのをずっと待つしかない」
 そっか、お店に出している商品のセールスに行くんだ。
「おっと、センセー、ちょこっとごめんよ」
 わたしとカディさんの間を抜けて、烏さんが帰るところだ。すれ違いざまに、烏さんがわたしの肩を叩く。
「じゃ、ママに聞いてな。あれ、よろしく」
 烏さんは、夏の間にわたしが酒の肴を作ってきたお礼にといって、日本酒を入れておいてくれたのだ。

 9月になっても暑い日が続いていた。
 ことしの9月11日は、アメリカの同時多発テロから10年、3月の東日本大震災から半年という区切りだった。
 8月の終わりで、関所への食事の提供は終わっていた。
 わたしは、9月になってから、関所に給食の献立を持参した。それを永田さんに渡したら、関所のカレンダーの壁に貼った。
「これこれ、うずら玉子の五目煮ってやつ、うまそうだなぁ。うめじゃこごはんもいいなぁ。このじゃんばらやってなんのこっちゃ」
 給食の献立を見ながら、ぶつぶつと独り言を繰り返す。こどものなかには、給食の献立を配るとすぐにメニューをチェックするこどもがいる。そのこどもの姿と永田さんが重なって見える。
「あのー、楽しみにしてくれるのはいいんだけど、こどもにとっても楽しみなメニューのときは、必ず残りが出るとは限らないので、あまり大きな期待をしないでくださいね」
「そうだった、そうだった」
 永田さんは、少し恥ずかしそうに頭をかく。
「先生、こないだの日曜日に新人がデビューしたのよ」
 若女将が教えてくれた。
「新人って、どういうことなの」
「すぐそこの郵政官舎があるでしょ」
 関所から歩いて数分のところに、郵便局に勤務する独身者のための寮がある。いまは民営化されたので、官舎という言い方は正確ではないかもしれないが、いまでも地元では官舎で通っている。
「ことしの春から久里浜の郵便局に勤務し始めた宮里さんというかわいい女性よ。これまでも買い物だけは寄っていたみたい。日曜日に思い切って生ビールを飲んでいったの」
 残念。日曜日は仲間と日帰り温泉に行っていたので、関所には寄らなかった。
「春から就職っていったらものすごく若いってこと」
「えー、20歳って言っていたわ」
 おー、気持ちはわかるが、ほとんどが工場労働者しかいない関所の立ち飲みに20歳そこそこの独身女性がメンバーとして加わる。その意味を考えてしまう。
 酔っ払うと、同じことを何度も繰り返すひとたちである。
 なかには、自分の気持ちのままに発言してしまうひともいるのだ。
「そうしたらね。次の日も来たのよ。月曜日にね。そこで相田さんにつかまって」
 わたしは、その月曜日に宮里さんという女性には会っていないぞ。急用があって関所には寄らなかったのか。
「相田さんにつかまったってどういうことなの」
「もう、気に入っちゃってさぁ。かわいいかわいいって連呼していたの」
 あー、想像つくぞー。相田さんの巨体が空気を揺らした大声で、かわいいを連呼している姿を。

 その後、何日経っても、わたしが関所に寄る日には、宮里さんは姿を見せなかった。きっと、相田さんの「かわいい攻撃」に嫌気がさして「二度と行くものか」と思ったのだろう。
 まったく、相田さんときたらなぁ。
 9月14日、水曜日。まじめに仕事をして、定時過ぎまで学校にいたので、関所に着くのが遅くなった。
「あれ、センセー、いつもよりも遅いんじゃないの」
 自動ドアをくぐって、正面に向かって左の隅で、相田さんが携帯電話を片手に、瓶ビールを飲んでいた。
「まじめに働くと、これぐらいの時間になるんですよ」
「そんなこと、言っちゃってさぁ。割り増しがつくんでしょ」
 割り増しって何のことだろう。
「割り増しって」
「残業手当だよ」
「俺たちの世界って、一切、残業手当はないんですよ」
 これは、本当の話だ。5時に勤務時間が終了する。その後、学校でどんなに遅くまで仕事をしていても、給料には関係ない。一円ももらえない。まったくのボランティアである。
 だから、わたしは給料がもらえる5時までにすべての仕事が終わるように段取りをしている。本当はこどもが帰ってから45分間の休憩時間がある。休憩時間は、近くの喫茶店に行ってくつろいでもいいし、自宅が近い人は干してある布団を取り込んでもいい。仕事をしなくていい時間だ。しかし、わたしは休憩を取らないで、翌日の授業の準備や、その日のこどもたちの活動の記録を書いている。
「残業手当がなくてもさぁ、ほら部活動とか顧問をしていると手当てがつくんじゃないの」
 相田さんは、何とかして、わたしの給料にプラスアルファをつけたいらしい。
「中学や高校の運動クラブの顧問とかには、多少の手当てはあるかもしれないけど、小学校ではそんなもんないですよ」
 わたしは、リュックのなかから、その日の酒の肴を取り出す。タッパーのなかには、味噌汁の具とコーンシチューが凍っていた。コーンシチューは火曜日の給食の残りだ。火曜日は関所が休みなので、そのまま冷凍しておいた。味噌汁は水曜日のメニューだった。水曜日は、白米、味噌汁、カジキのステーキ、大豆の五目煮、そして牛乳。味噌汁以外は、こどもたちが全部食べてしまったので、仕方なく味噌汁の具だけを集めたのだ。わかめ、たまねぎ、ジャガイモだった。
 若女将に電子レンジで温めてもらう。それを器に取り分ける。
「はーい、きょうは味噌汁の具とコーンシチューです」
「うわぁ、いつもわりいなぁ」
 永田さんが嬉しそうだ。
「センセー、味噌汁の具ってのはなんだ」
 相田さんが食いついてくる。

 味噌汁は、汁物なので凍らせても学校から関所まで運んでくる途中でリュックのなかでこぼれてしまう可能性がある。だから、廃棄処分はもったいないが、汁は捨てて具だけをすくってきたのだ。
「だって、汁まですくうと運んでくる途中でこぼれたらやだもん」
「味噌汁ってのは、味噌があってこその味噌汁だぜ」
 相田さんはご不満らしい。
「じゃ、味噌汁の具って思わないで、これからヌタを作ろうとしている一歩手前のわかめとたまねぎとジャガイモってのはどう」
「いや、ごまかされないぞ」
 ごまかしているわけではない。最初から、ネタをばらしているのだから。
 自動ドアが開く。
「あーら、センセー久しぶり」
 一葉さんが、登場した。
「こちらこそ」
「これ、さっき漬けたばかりなんだけど」
 一葉さんは、ビニル袋をわたしに渡した。そのなかには、大根、人参、キュウリの塩漬けが入っていた。塩漬けといっても軽く塩もみしただけなので、サラダ感覚だ。
 わたしは、一葉さんの差し入れを器に盛り分ける。それを関所の立ち飲みメンバーに配って歩く。
 そんなことをしていたら、さっき買ったばかりのホッピーがぬるくなってしまった。
「これ、栓を抜いてないから、冷たいのと交換してもいいかなぁ」
 若女将に尋ねる。
「あ、どうぞどうぞ、センセーはここに来てもひとのために何かをしているから、忙しくてかわいそう」
 毎日が駆け足で過ぎていく。
 さっき関所で笑っていたと思ったら、もうそれはきのうのことになり、おとといのことになり、先週のことになる。時間が自分のまわりだけ、新幹線のように高速で過ぎていくようだ。
「週末は連休だなぁ」
 永田さんが、給食のメニューをめくっている。
「連休ってのは、なんだ、やっぱり給食も休みか」
 そりゃそうだ。食べるこどもがいないのに、作ってもしょうがない。
「今度は、月曜が敬老の日だから。火曜日まで給食はないのか」
 ため息をついている。
「永田さん、火曜日はうちは休みよ」
 若女将が定休日を教える。
「うへー、じゃぁ次の水曜日まで給食はなしかぁ」
 もしかすると、給食本来の求められ方が、ここ関所にはあるのかもしれない。

 台風15号が沖縄近海で停滞していた。
 北の高気圧と太平洋高気圧が本州を包むかたちで動かないので、台風が進路を東に向けられない。そのために、台風が吸い寄せる太平洋上の湿気を含んだ空気が帯びのように九州から四国、近畿、東海地方を経て東北まで雨雲を運んでいく。たまたま関東地方は、そのはざまになって、とても9月中旬とは思えない猛暑に襲われていた。
 9月18日の日曜日は、関所は早仕舞いと聞いていた。
「何でよ」
 前日の土曜日に寄ったよき、赤坂さんがだだをこねるこどものように口を尖らせていた。電力対策で首都リーブスは数年前から夏場だけは土日出勤にしている。だから、日曜日も赤坂さんは出勤なのだ。関所周辺の飲食店は日曜日が休みが多い。きっと、赤坂さんにすれば、仕事帰りに寄るところがないのが不満なのだろう。
 まっすぐ帰ればいいのにな。
 そう思うのは簡単だけど、本人にすれば、家よりも落ち着くところで、仕事の疲れを落としたいのだろう。
 わたしは、日曜日の朝から仕事をしていた。家でできる仕事をしていた。
 そして、お昼近くになって一段落したので、車で学校に行った。給食の白衣、水泳の水着、ふだんの作業着などが土曜日のうちに洗濯をして乾いていた。それらと給食の残りを入れるタッパーを積んで学校に行った。月曜日にまとめて運べばいいのだが、電車通勤だとなるべく手荷物は少なくしたい。
 日曜日といえども学校には無給で働く職員たちが数人いた。
「あれ、珍しいじゃん」
 校長が呼びかけた。
「休みの日にも、出勤することあるんだ」
「俺だって一応はね。でも荷物を運びに来ただけだよ。やり残した仕事をしにきたわけじゃない」
「あんたは、仕事とプライベートをきっちりと切り分けているもんだと思ってた」
 どうも、校長はわたしに対して誤解しているらしいが、やりあっている時間がもったいないので、適当に相槌を打ってその場を離れる。
 そういえば、経済協力開発機構という世界的な組織の調査結果が新聞に載っていた。その結果、日本の教員は経済協力開発機構に加盟している先進国と呼ばれる国の中で、給料は安く、労働時間は長いことが判明したそうだ。また2005年の給料を100としたときに2010年の給料は95になっていたことも。
 わたしはそういうことを内側の人間として感じてはいた。しかし、あらためて外国との比較で示されると「わりにあわない仕事だなぁ」という思いを強くする。おまけに自民党の安倍総理大臣のときに決めた教員免許更新制度がちっともなくならないので、10年ごとに自腹で大学に2年間も通って免許を更新しなければならない。
 教員の不祥事が増えた。有能な若者が集まる職業には思えないのだろう。当然のことだ。

 学校に荷物を置いた帰り道、わたしは近所のフジスーパーで上新粉を買った。
 帰宅して、カディーさんから購入したきびを使って、きび団子作りに挑戦した。
 きび50グラムに対して、上新粉を100グラムも使うので、明確な意味できび団子と呼べるものかどうかは疑問が残った。でも、最初に入手したレシピを尊重して、とりあえず作ってみて、それ以降は自分なりにアレンジしようと思った。
 50グラムのきびを水で洗う。2回から3回水で洗う。米を研ぐ要領だが、きびの粒は米よりも小さいので、研いだ水を捨てるときにきびが流出しないように気をつける必要がある。
 よく水を切ったら、あらためて100グラムの水を入れて炊く。レシピには電子レンジで8分と書いてあったが、ももたろうの時代に電子レンジはなかっただろうから、鍋で炊くことにした。弱火でだいたい10分間ぐらい。ときどきヘラでかき混ぜないと、なべ底にきびが焦げつく。水分がほとんどとぶと、きびは最初の大きさに比べて3倍ぐらい大きくなる。香ばしい、懐かしいにおいがする。
 炊いたきびをすり鉢に入れる。一粒一粒がつぶれるまですりこぎ棒でする。やわらかく炊き上がっているので、大した力は使わない。
 全体として一つになったら、100グラムの上新粉と50グラムの水を混ぜて練る。この作業は一度すったきびをボウルにあけてやった方がやりやすい。わたしはすり鉢のなかでやろうと横着をしたら、鉢の溝に生地が入り込んで大変なことになった。また、たぶんきびからだと思うがかなりのグルテンのようなねばねば成分が出るので、ボウルのほうがやりやすかった。
 きびと上新粉を混ぜた生地を4つぐらいに分けて、蒸す。わたしはたっぷり10分間蒸した。
 蒸しあがった生地は、ヨモギ団子のようにぷるんぷるんの肌触り。ふたたびすり鉢に戻して、今度は搗(つ)く。すりこぎ棒を水で濡らして、餅つきの要領だ。ぷるんぷるんだった表面が、餅のように強く弾力を得ていく。
 最後は、一口サイズに手のひらで丸める。
 出来上がりをそのまま食べてみた。とても手間がかかるわりには、素朴な味しかしなかった。
 ももたろうが「お腰につけたきび団子」を、サルや雉に「あげましょう、あげましょう」とほいほいあげてたとしたら、よほど気前のいい男だったのだろう。それとも、あのきび団子はおばあさんが作ったものだから、きび団子を作る大変さをももたろうが知らなかったのかもしれない。
 試しに、韓国海苔で包む。これは海苔で包んだ餅感覚でうまかった。砂糖をまぜたきな粉をまぶす。これは文句なくうまかった。
 10個ぐらいをタッパーに入れて、関所に向かう。「きびの使い方を考えてよ」と押しつけていったカディーさんに成果を届けなくては。
「こんにちは」
「おぅ」
 大将がレジにいた。

 日差しが暑いだけではなく、日差しがまぶしい。
 わたしは、大将にきび団子が入ったタッパーを渡す。
「きょうは早仕舞いでしょ。その前に、カディーさんが来たら、これを渡しといてください」
 なんだそれ?という顔をした。
「カディーさんから買ったきびで作ったきび団子です。すっげー手間がかかるわりには、味は大したことなくて、ちょっとがっくりなんですが」
 生ビールを頼む。
 いつ、カディーさんが来るのか分からなかったので、冷凍庫に入れさせてもらった。
 自動ドアが勢いよく開く。
「いやぁー、たまんねぇな」
 いつもはのんびりとした動作で、一日の疲れをいやしにくる烏丸さんが、俊敏な動作でアイスクリームの冷凍庫に向かう。
「頭、冷やさないと、壊れちまうよ」
 本当に頭を冷やしているのではないかと思うほど、冷凍庫のなかに頭を突っ込んでいた。工場の作業着を着ている。普段着しかみていないので、ちょっと新鮮だ。
「お疲れ様です」
 アイスクリームを抱えた烏丸さんは、疲れと暑さでやや目がうつろになっている。
 ラジオでは、九州や四国で台風15号が大雨を降らしているニュースを放送している。
 3月には東日本大震災で東北地方を中心に地震と津波で多くのひとびとのいのちが失われた。夏は猛暑で、熱中症で倒れたひとたちがいる。秋になったら、台風だ。
 ことしの日本列島は、自然の猛威を前にして、ひとびとの力がとてもひ弱だということを痛感する。だれが10メートルを越える大津波を予想しただろう。だれが原子力発電所が爆発することを予想しただろう。だれが山が崩れて川をせきとめ、家を流してしまうことを予想しただろう。
 わたしにとっての関所の日常は、そんな自然災害と無縁ではいられないだろう。
 いまは気づかなくても、これからことしの自然災害と関係のある何かが、わたしを待ち受けているかもしれない。
 それでも、わたしは仕事帰りには関所に寄る。数年前と比べると、関所の立ち飲み仲間は少しずつ変化している。遠くへ行ってしまった方もいる。たまにしか会わなくなった方もいる。新しく仲間に加わった方もいる。ずっと変わらず、飲み仲間を続けている方もいる。
 絆。それがわたしにとっての絆なのだ。大きなことはしていない。
 ボランティアや社会貢献活動や福祉活動をしているわけではない。
 ただ、ひたすら同じ日常を繰り返し、地元で同じひとたちと顔を合わせて声をかけあう。小さな話題の積み重ねが、少しずつかけがえのない絆をつむいでいく。
 いつか、関所は役割を終えて、静かにシャッターを閉ざす日を迎えるかもしれない。しかし、それは地元での絆が途絶えることを意味しない。そうなったときに、新しい関所が築けるように、いまのひとたちと過ごす日々が重要なのだ。

 9月21日、水曜日。
 台風15号は、停滞していた沖縄沖を離れて、九州や四国の南海上を北東方向へ移動した。近畿・東海地方に豪雨をもたらす。名古屋では10万人を越える規模の避難勧告と避難指示が出された。
 21日は早朝から風雨が強かった。わたしは、いつも築地の買出しに持っていく膝までの長靴を履いて出勤した。モノレールや電車に乗るときに、ちょっと恥ずかしかったが、足元が濡れると水虫の原因になるので、健康優先に後悔はしなかった。
 午前6時に出勤する。珍しく教頭が出勤してきた。ちょっと遅れて校長も出勤してきた。
「もしかして、この時間は通常なの」
 校長と教頭はわたしの顔を見て一様に驚いていた。
 ふたりは、こどもの登校に関しての相談をするために早めに出勤してきたのだ。きのうの段階で保護者には、21日の午前6時半に緊急電話連絡網で対応を流すと手紙を出していた。
 教頭は周辺の小学校の管理職とまめに電話連絡をする。こういうときでも「横並びの対応」が必要なのか。突出した対応への積極性は感じられなかった。
 結果。臨時休校になった。
 同じ日に6年生が日光へ修学旅行に行く。こちらは休校とは関係なく予定通りに出発だという。21日の午後から北関東は暴風雨になると思ったが、わたしが口をはさむ問題ではない。
 わたしは、支援学級の教員と電話やメールで連絡を取り合い、こどもたちへの対応を確認しあう。こうなったときのために、前日までに準備は進めていた。
 こどもたちは臨時休校でも、職員は出勤だ。台風が心配で休みたいひとは休暇を取るしかない。なのに、職員室の電話は、若い教員から「仕事は休みなのか」という問い合わせが続いた。教頭は頭を抱え「そんなわけないでしょ」とカリカリしていた。
 わたしは30年に近くなる教員経験で、何度か休校は経験しているので、職員は出勤という大原則は知っていた。しかし、休校を経験していない教員は、こどもと同じように自分も休みだと思ってしまうのだろうか。いやはや、それで給料が出ているのだから、世間に冷笑されるのも無理はない。
 藤沢は東海道線で大船とは駅が一つしか離れていない。歩くと1時間ぐらいかかるが、電車に乗ると4分で着いてしまう。途中に柏尾川という大きな川が流れている。数年前の台風で、東海道線が止まった。藤沢から大船へ行くバスも止まった。仕方なく歩いて帰ったとき、もう少しであふれそうになる柏尾川沿いを歩きながら、恐怖を感じた。小さな橋を渡りながら、もしも濁流が欄干を越えてきたら、ひとたまりもないと思った。
 だから、東海道線が止まる前に休暇を取ってとりあえず大船までは戻ろうと思った。
 3月の地震といい、今回の台風といい、自然との対話を少しずつ学ぶ。
 大船まで帰れば、生まれてからずっと住んでいる町なので、たとえ水没していても、マンホールがどこにあるかまで熟知している。もしかしたら、関所は早く閉まっているかもしれないと覚悟した。こんな日に、いつものように立ち飲みをする客などいないだろう。
 でも、いるかもしれない。
 どうかなぁ。
 とても、興味があった。

 藤沢駅に午後1時30分頃に到着した。すでに雨が降り始めている。風も台風特有の地鳴りを伴う強いものになっていた。
 東海道線の電光掲示板を見る。そこにはこれから来る電車の時刻が表示されている。なぜか午後1時5分の電車が表示されている。嫌な予感がした。これまでの経験から、駅の電光掲示板に、いまの時刻以前の電車が表示されている場合は、電車が遅れていることを知っていたからだ。案の定、駅のアナウンスが繰り返している。
「お客様にご案内いたします。13時5分発の普通電車東京行きは台風15号の影響で徐行運転をしています。現在、二宮駅を出発したという情報が入っています。当駅到着は、13時40分頃になる予定です」
 もともと遅れていた電車が、たまたまあと10分ぐらいで来るというのだから、わたしはラッキーだった。しかし、ホームはずっと待っている客であふれそうになっている。
 わたしは、乗降口の列に並ぶ。読書をしていたら、ふたたびアナウンス。
「さきほど二宮駅を出発した東京行きは、現在、大磯駅に到着しました」
 お、確実に藤沢に近づいているではないか。さらに読書を続ける。
「大磯駅を出発した東京行きは平塚駅に到着しました」
「現在、平塚と茅ヶ崎間を走行しています」
 ずいぶん、JRはていねいなアナウンスをするではないか。
「お客様にご案内いたします。現在、台風15号の影響のため、平塚と茅ヶ崎間で風速計の数値を越えたため、運転を見合わせています」
 ぎょぇ。順調に藤沢駅に近づいていた東海道線は、相模川を越えることができずに、線路上で止まっているのか。わたしは、すぐに並んでいた列を離れて、改札口に行く。もしも風速計の限度を越えたというのなら、台風が通り過ぎるまで電車は動かないだろう。すぐにバスを使って大船まで移動することを選択した。
 改札口に上がって精算コーナーへ行く。スイカへの入場記録を消してもらわなければならない。
 ここでもアナウンスが流れている。
「現在、平塚と茅ヶ崎間で運転を見合わせていますが、さきほどの東京行きはすでに茅ヶ崎駅に到着したと連絡がありました。徐行しながら、これから辻堂駅に向かいます」
 スイカの入場記録を消してもらおうとしたわたしは、戸惑った。ホームのアナウンスと改札のアナウンスが食い違っている。こういう緊急時には情報が混乱することがしばしば起こる。たまたまわたしは精算コーナーの駅員に近いところにいたので、もっとも正確な情報を耳にすることが可能だった。
「さっき、ホームでは東京行きは茅ヶ崎の手前で運転を見合わせているって言ってましたけど、こちらでは茅ヶ崎を出発したと言っていましたね。どちらが本当か確認してください」
 こういうときは、非難してはいけない。努めて冷静に、聞きたいことだけを確実に質問する必要がある。

 若い駅員はわたしの質問を聞いて、表情を混乱させた。まだこういう自然災害の経験が少ないようで、押し寄せる乗客たちからの様々な質問や要求に応じ切れているようには見えなかった。
「え、下ではそんなことを言ってるんですか。ちょっとお待ちください。いま確かめますので」
 彼は内線電話でホームと確認を取る。
「はい、はい。なるほど。わかりました」
 受話器を置いた彼は、わたしに向き直った。
「茅ヶ崎駅に到着した東海道上り電車が辻堂に向かっているのは確かです」
 その返事を聞いて、わたしは回れ右。ふたたびホームへの階段を目指した。わたしと同じように、清算コーナーで並んでいた多くのひとが、わたしと同じように階段を目指した。
 数分して、乗客であふれる東海道線が入線した。
「この後の上り電車は、しばらくございません。お急ぎのところ、申し訳ありません」
 そんなアナウンスをするものだから、ホームにあふれる多くのひとたちが、ものすごい圧力をかけて乗車口に押し寄せた。わたしは流れに身を任せて、乗車と同時にどんどん車内に押し込まれた。
 大船までの4分間は、あばら骨が折れるのではないかと思うほど、窮屈だった。
 風が強いためにただいま徐行運転をしていますという、車内アナウンスがあったが、わたしが知る限り、車窓の景色はいつも通りに動いていたから、運転手は通常運行をしていたと思う。
 大船駅ホームに降り立った。全身の力が抜ける。台風の接近に伴って、何とか藤沢を脱出した。その成功感で満たされる。まだ風雨は強くなっていない。
 わたしは空腹を感じて、モノレール駅近くの「ときわ食堂」に入る。
 店内はがらんとしていた。親父さんが、こちらへどうぞと4人がけをすすめる。たった一人のわたしに4人がけをすすめるのだから、あまり客は来ないと想像しているのだろう。
 カウンターの隅のテレビでは各地の台風情報を流していた。東海地方や名古屋では多くのひとに避難勧告が出ている。
 わたしは、瓶ビールとアジフライを頼む。「ときわ食堂」は蕎麦がうまい。蕎麦がうまい店は、間違いなく揚げ物がうまい。そのセオリーどおり、ここにアジフライは肉が厚くて、ジューシー。衣がさくっと揚がっている。
 至福のランチを済ませて外に出たら、現実に押し戻された。モノレールは強風で運行中止。タクシー乗り場は長蛇の列。迷うことなく、わたしはバス乗り場へと向かった。幸い、まだそんなに混んではいなかった。
 バス停の天神下で降りる。さて、関所は開店しているのか。だれか立ち飲み仲間はいるのか。期待をふくらませて、一方通行道路に入って、八百屋の角を曲がる。

 関所はシャッターを半分閉めて、営業していた。
「ただいまぁ」
 まだ3時ごろだった。
「あらー、早いわね」
 若女将が迎えてくれた。
「電車が止まっちゃうと思って、早めに休暇を取ってきました」
「おぅ、センセー、難儀だなぁ」
 店の奥から、烏さんの声がする。
「あれ、早いですね。赤坂さんも」
 首都リーブスのふたりが、すでに酒を飲んでいた。
「ほら、こんな天気だから、仕事は早く終了したんだ」
 でも、帰らないで、関所にいたら、結局は台風の影響が強くなる頃に、帰らなきゃならなくなる。まぁ、おとなのやることだから、いちいち指導は必要ないだろう。
「学校は」
「きょうは休校になりました。だから、昼まで仕事をして、早く帰って来たんです」
「じゃぁ、給食はないんでしょ」
「はい、大船のときわ食堂で食べてきました」
 若女将の瞳が、きらっと光る。
「じゃぁ、もう飲んできたわね」
 鋭い読みだ。
「当たりです」
 ドアの外は、みるみる暗くなっていく。横風が強くなり、歩くひとたちが傾き始めた。
 プップー。
 クラクションが鳴る。ドアの向こうで近くの病院の送迎者を運転している男性が関所のなかに向かってジェスチャーをしている。若女将が強い風のなかへ出て行く。まったくクラクションでひとを呼び出すなんて、横着な。わたしもいっしょに出てみた。
 運転手が指差す先には、近所の草木の枝が折れて道路に落ちていた。それをどけてくれという意味らしい。まったく、そんなことは自分でやれと言いたかったが、若女将はやさしいので、いやな顔を一つもしないで、枝を拾ってあげた。
「まったく、自分で車から降りて拾えばいいのに」
 店のなかに戻ってから若女将に文句をぶつける。
「あー、あの方はよくお店に買い物に来てくださる方なのよ。互いに顔を知っているから、あーやって教えてくれたんじゃないかしら」
 見ず知らずというわけではなかったのか。地域の絆が、台風の強風で吹き飛んだ枝の存在を教えてくれたのだ。

 9月24日は土曜日だった。23日が秋分の日で休み。三連休の中日だった。
 わたしは、秋の晴れ間を楽しもうと、大船をぶらぶら歩いていた。昼飯をどこかで食べようと思ったが、どこに行っても、なぜか踏ん切りがつかなかった。理由はわからない。
 行列ができていた店では、並ぶのがいやだと思った。
 すぐにでも入れそうな店では、わたしの前に入店したひとが何となくいやだった。
 新しい店を発見したと思ったら、まだ開店していなかった。
 こういう日は、帰ってから、自分で作ろうと思った。テクテクと秋の日差しを浴びて、自宅への道を歩く。
 もう少しで関所というとき、「沖縄そば」「カレーつけめん」というのぼりが見えた。
 いくつかの飲食店が入っている小さな長屋。その端っこに「クアパパ」という店がある。いままでも何度か通り過ぎながら、興味があった。しかし、ひとりで初めての店に入るには抵抗があった。
 クアパパのマスターは、関所にタバコを買いに来る。バス停近くの焼き鳥屋でもカウンターで並んだことがある。でも、対面で話したことはない。サーフィンが大好きな湘南スローライフ実践マンという感じだ。
「こんにちは」
 思い切って、開けっ放しのドアから入った。正面にカウンター。右手にテーブル。焼酎、泡盛、ウイスキーなどが棚に並ぶ。わたしの好きな日本酒は入口近くの冷蔵庫のなかで冷やされていた。
「いらっしゃい」
 マスターは、調理していた。やがて、皿に盛った料理をラップでくるむ。
「ちょっと配達に行ってくるので、待っていてください」
 一見の客を店に残して、配達していいのだろうか。
 わたしが悪人だったら、どうするつもりだろうか。
「じゃぁ、待っているあいだに、生ビールだけでもいただけますか」
 網戸から吹き込む涼しい風を浴びながら、大型画面に流れるサーファンのDVDを肴に、わたしはひとりでカウンターの端っこで生ビールを飲んでいた。全体に茶色で統一した店内の雰囲気に、落ち着きを感じ、ひとりでいるのに、心地よい時間。
「すんません」
 しばらくして、マスターが戻る。
「おすすめは、カレーピラフプレートです」
 ビールを飲んでいたので、ご飯ものはいらない。メニューを見て、ソーキそばを選んだ。
「あー、ネギがないんですけど、いいですか」
 ソーキがないと困るけど、ネギがなくても許そう。生ビールを飲み干した頃、トロトロにとけそうなソーキを乗せたそばが登場した。

 クアパパのマスターは、180センチぐらいの長身だ。引き締まったボディはサーフィンで鍛えているのだろう。肌は小麦色だが、それが太陽の光によるものなのか、酒によるものなのかは初対面では判断できない。長髪は肩にかかる程度。ややウェーブがかかっている。とても歯並びがよく、色が白い。ホワイトニングでもしているのだろうか。年齢は、50歳を過ぎた程度。
 店にはカウンターに座っているわたしと、キッチンで調理しているマスターしかいない。わたしの正面にある大画面では、さっきから吹き替えのない英語のサーフィンが延々と続いている。
「もしかして、関所でお目にかかったことがありますか」
 マスターから切り出してくれた。
「はい、ときどきタバコを買いに来ますよね」
 わたしが関所にいることをチェックしていたのか。目立たないようにしているつもりでも、いつも同じ位置で同じ時間に立ち飲みをしていれば目立つのかもしれない。
「あと、こないだバス停近くの焼き鳥屋でもとなりに座っていらした」
 マスターはかなり記憶がいい。
 たしかに、わたしは数日前に、焼き鳥屋の「鳥藤」でカウンターで飲んだ。左隣の鎌倉さんと酒を飲んだ。あのときにわたしの右隣にマスターがいて、鳥藤の女将さんとマンツーで話していた。
「たしかに。あのときは鎌倉さんの旅話に付き合っていました」
 鎌倉さんは、関所の前にある首都リーブスの社員だ。工員ではなく事務関係の仕事をしている。ほぼ毎日、仕事帰りに鳥藤に寄って軽くウイスキーのホワイトを傾けていく。60歳の定年退職まで残りが少ない。
 わたしが行くと、いつもアマゾンに行く夢を語ってくれる。
 数年前までは、ロトシックスというくじを当てて、アマゾンに行くと言っていた。だから、カウンターに鎌倉さんを見つけるたびに、まだくじに当たっていないんだなぁと思ったものだ。
 定年が間近に迫り、アマゾン行きへの思いに変化が見られたようだ。それをこないだの鳥藤で聞かされた。その話にマスターは聞き耳を立てていたのだ。
「いやぁ、あのひとはユニークなひとだね。自分でパスポートの取り方も知らないのにアマゾンに行こうとしているんだから」
 そうなのだ。鎌倉さんは万事においてのんびりしている。そして、焦ることを知らない。いつも何とかなるだろうと余裕がある。だから、頼んだ食べ物を半分以上残しても、気にしないで帰ってしまう。
 あのときも、どうすればパスポートが取得できるのかと質問をされた。今頃、そんなことを質問してくる鎌倉さんに唖然としながらも、彼らしいと笑ったのだ。
「たしか、あのひとはそのために来年になったら旅の練習をすると言ってましたよね」
 マスターはかなり記憶している。

 わたしは、鳥藤の古ぼけた年季の入ったカウンターを思い出す。その止まり木で、生ビールを傾けながら、鎌倉さんの落語のような話を聞いた。
 それによると、いきなりアマゾンというのは危険なので、その前に旅の練習をしたいということだった。どこに行くのかと思ったら、まずは台湾、次に香港だという。台湾や香港を旅しても、ちっともアマゾン旅行の練習にはならないだろうと思った。そのことを言うと、あくまでも旅の練習なので、海外に行ければいいのだそうだ。
「そんなにたくさん聞いているのなら、話に加わればよかったのに」
「いやぁ、そういうのは苦手なんです」
 そんな風には見えない。
「マスターは沖縄の方なんですか」
 メニューに、沖縄料理が多い。
「いえ、小田原なんです」
「え、同じ神奈川県の小田原ですか」
「はい。でも17年前に鎌倉に引っ越してきました」
「それ以来、飲食のお店をやっているんですか」
 職業柄、ついついひとの個人的な部分まで立ち入ってしまうのは、わたしの悪い癖だ。
「いえいえ、5年前まではふつうの電気関係の会社に勤めていたんです」
 脱サラをして、飲食を始めたのか。そこにはひとには言えない理由があったのかもしれない。想像しても、40歳を過ぎての脱サラと思える。会社勤めなら立場的に退職する必要はあまりない年齢だろう。そんなわたしの心配に気づく。
「会社から、2年間、シンガポールに長期滞在しないかという話があったんです。給料は日本の分と現地の分が出るので、戻ってきたら溜まった金でバーかなんかを始めたいなぁとは思っていました。もともと飲むのは好きだったので。でも、いろんな事情から、シンガポールに行くのはわたしではなく、別の人間になってしまって。そうしたら、何だか、仕事を続ける意欲がしぼんじゃってね」
 シンガポールでの2年間に大きな期待を抱いていたのかもしれない。自分ではなく、ほかのひとが行くことになったとき、どうして自分ではなくなったのか、納得のいく理由の説明は得られなかったのだろう。
「それで、思い切って、仕事を辞めて、ここを始めたんです」
 まったくの素人だったとは知らなかった。壁にはサーフィンボードが掛かっている。
「波に乗られるんですか」
「いまはここの2階に寝泊りしてますが、それ以前は稲村に住んでいたんです。だから、毎日のようにサーフィンをしていました。いまは稲村でスクールをやっています」
「えー、スクールって言ったら、マスターはインストラクターですか」
「ま、そんなとこです」
「だから、波情報を聞いて、いい波が来ているとここはクローズにしています」
 肩に力を入れないのんびりした生活があった。
 大金や安定した未来は保証されないかもしれない。しかし、自然に近い生活に身をゆだねることは、精神にとって、何よりもの栄養補給になるはずだ。
「さぶちゃんなんかも、一回だけど、来てくれたんですよ」
 共通の知人登場。地域の絆は、接点を広げれば広げるほど、だれかとだれかがどこかでつながるようにできている。

 10月3日。月曜日。
 すっかり空気が夏から秋に変わった。帰りに通る工場の掲示板で表示している湿度が60パーセント台になっていた。頬をなでる風が、涼しい。秋分を過ぎて、日の入りが早くなった。季節は確実に、夏の終わりを告げている。
 ことしの夏は、3月11日の東日本大震災以降、電力が不足するからと、東日本各地で節電が実施された。とくに大きな工場では、休日を変更して、働くひとたちの日常生活に犠牲を強いた。エアコンの設定温度が上がり、無理をしてエアコンを使わない生活を送ろうとしたひとが熱中症にかかった。
 その反面、福島県を中心とした原子力発電所事故の影響は、夏を過ぎても終息の気配を見せない。実りの季節を迎え、米やお茶などの農産物から、恐れていた放射性物質が検出され始めている。福島県に住んでいた多くのひとが、他県に引っ越した夏でもあった。
「ただいまぁ」
 関所に入る。外の風を入れるためか、自動ドアは開放されている。
「おっす」
 きょうは、若女将ではなく大将がレジにいた。時計は5時半を指している。飲食店への注文取りに忙しい時間のはずなのに、大将がレジにいていいのだろうか。灯油やビールの配達を待っているひとたちがいるのではないか。
 しかし、わたしがよけいなことを考えてもしょうがない。もしかしたら、この日は若女将が配達をしているのかもしれないのだ。
 一つだけ、問題があった。
 それは、給食の残りを運んでいたからだ。いつもならば、若女将に託して、奥の台所で電子レンジを使って解凍してもらう。しかし、大将だとなんとなく頼みにくい。悪いことをしているわけではないのだが、そこまで甘えていいのかという遠慮が胸を突く。いつも、給食の残りを容器に入れて持ち帰る。そのなかから立ち飲み仲間に酒の肴として、小分けして提供してきた。この日も、ネタは仕込んであった。
 永田さんが店の中央で静かに焼酎の水割りを飲んでいる。わたしは永田さんに近づく。
「永田さん、きょうも入れ物を持ってきたかなぁ」
「おぅ」
「きょうは、若女将がいないみたいだから、あたためるのはやめてみんな永田さんの入れ物に入れるよ」
「え、そうかぁ。わりいなぁ」
 店の奥。大きな冷蔵庫と調味料が並ぶ棚の間。人目につかないところで、永田さんがリュックからまだ買ってきたばかりの包装をはがす。そこには、お弁当に使えそうな立派なプラスティック容器が二つも入っていた。
「ちょうどいいや。二つもあるなら、全部入れられるかも」
「ありがとう。助かるよ」
 わたしは、月曜日のメニューから、関所に運んだジャコご飯、野菜の煮物、みそ汁の具だったわかめと玉ねぎを容器に移した。
「凍っているから、火を通してね」
 いつだったか、永田さんは、うちには電子レンジなんてしゃれたもんはねぇと教えてくれた。だから、解凍には鍋を使うしかないだろうが、調理は嫌いではないと言っているから何とかするだろう。
「センセーに悪いこと、しちゃったなぁと思ってさ」
 いきなり店の正面から懐かしい声が届く。
「あー、泥橋さん、久しぶり。どうしていたのよ」

 泥橋さんとは、8月中旬に大船の観音食堂という店で偶然会って、しばらく飲んだきり、会っていなかった。 
「なんか、一回り、小さくなっちゃったんじゃないの」
 見た目に、こじんまりした印象がある。
「そうなんだよ。観音食堂で会った次の日の朝礼でぶっ倒れちゃってさ」
 えー、わたしは手にしたおちょこの山猿をこぼしそうになる。
「熱中症ですか」
 あの当時は、まだまだ暑い日が続いていた。
「いやぁ、それがね。気づいたら病院のベッド。救急車で運ばれたらしいんだけど、よく覚えてないんだよ」
 意識不明になったのだ。心臓か脳の病気が疑われる。
「次の日からずっと会社を休んで家で休んでいたんだよ。外出は、ときどき病院に薬をもらいに行くぐらい」
「どうしちゃったんですか」
「罰が当たったんだよ」
 泥橋さんは、真面目な顔をして、そんなことを言う。
「そんなわけないでしょ」
「いやぁ、本当なんだって。あのとき、センセーが知り合いと観音食堂で楽しそうに飲んでいたのに、わきからぼくなんかが割り込んで、いい気になって話しこんだじゃない。あのとき、しきりにセンセーが『いつ帰るんですか。あまり長居をすると罰が当たりますよ』って言ってたじゃん」
 確かに、その記憶はある。すでにわたしが観音食堂に入る前から、泥橋さんは観音食堂でひとり定食をとり、酒を飲んでいた。お勘定を済ませて帰ろうとしたところで、わたしを見つけて割り込んできたのだ。すでに呂律はあやしく、足元もおぼつかなかった。わたしの知り合いは、泥橋さんのことを知らない。だれだろう、このひとは?疑問に思いながらも、適当に合わせてくれた。しらふのときならいいが、酔ったときの泥橋さんは、説教っぽくなるか、同じことを何度も話し出すかのどちらかだ。知り合いに迷惑がかかると思って、早く帰るように「罰が当たる」と言ったのだ。
「どんな症状だったんですか」
「血圧が低くなっちゃってさ。上が80だよ」
 わたしはふだんでも上が100よりも少し下なので、それが低い血圧だとは思わないが、泥橋さんの血圧としては低いのだろう。
「きょうから、やっと仕事に復帰」
 復帰した日から、関所に寄って、生ビールを頼む泥橋さんを見て、たくましいと思えばいいのか、アルコールの怖さを感じればいいのか。

 10月9日、水曜日。
「ただいまぁ」
「あら、お帰りなさい」
 若女将がレジで迎える。月曜日はいなかったので心配したけど、きょうはいつもどおりだ。
 永田さんと、なにやら話し込んでいた。
「どこかに、行ってきたんですか」
「名古屋に行って来たの」
 若女将の母親は、愛知県に住んでいる。
「はーい、これ、お土産」
 海老せんべいを渡してくれた。ピンク色の海老せんべいは、噛むと香ばしい。
「うぉ、本当の海老だねぇ」
 決して、海老風味ではない。
「でも、どうして」
 わたしは、愛知のお母さんに何かがあったのかと心配した。
「もう何年も帰ってないし、たまには驚かせてみようかと思ったのよ」
 日ごろから、商売人は忙しくて、家族の時間を過ごせないと、自分に言い聞かせている若女将。本当に驚かせてみようと故郷に帰ったという話をそのまま信じていいものか。しかし、それぞれの人生に、それぞれの事情があるのだから、詮索はしない。
 自動ドアが開く。やや突き出てきた腹を叩きながら、相田さんが登場した。
「こんばんは。あれ、ママさん、こないだはどうしたの。どっか行っちゃったのかと思ったよ。夜逃げとか、家出とか、病気で入院とかさ。でも、見たところ、元気そうだな」
 ひとの人生にずばずば切り込むタイプのひとが、こんなに近くにいたとは。
 若女将が事情を説明しようとするのに、はははと笑い飛ばし、お菓子と飲み物を注文して、相田さんはさっさと自分のコーナーに行ってしまう。深くひとの人生に切り込んだつもりではないのだ。挨拶代わりに、直球勝負。
「お母さんやお姉さんが驚いたでしょう」
 わたしは、話を向ける。
「何しろ、11年ぶりだから。でも、田舎の風景って、長い時間が経ってもあまり変わっていないのよね」
 大船のようにひと月行かないだけで、店の名前も売っているものも変わっているということはないらしい。
「びっくりさせようと思って、午後9時ごろに着いて、ピンポーンって押したのよ。そしたら、だれも出てこないの」
 もしかして、物取りや緊急の病気で取り込んでいるところに帰ってしまったのか。

 事実は小説よりも奇なりという。作家が考え出す物語よりも、日常生活のほうが、よっぽどおもしろいことは多い。
「何度もピンポンしても出てこないから、さすがに玄関を開けて、ただいまって言ったの。そしたら、どうしていたと思う。奥の茶の間で『サスケ』っていうテレビを見ながら母と姉はすっかり盛り上がっていて、ピンポンに気づかなかったのよ」
 わたしは、その光景を思い浮かべる。
 以前、わたしが書いている関所の話を若女将がコピーして、お母さんに送ったことがある。そのときにお母さんからお礼の手紙が届いた。その手紙はわたしの書斎の壁に、いまも画鋲で留めてある。そこには、こんなことが書いてある。

『私の知らない娘夫婦の生活がよくわかり、とっても嬉しいでした』

 今度は、若女将の口から、反対にわたしの知らないお母さんとお姉さんの生活の一端が見えてきた。
「久しぶりに帰ったのに、会うなり、『あれー太った』よ。そんなことないって反論すると『いやぁ、確かに太った、太った。ねぇ、太ったよねぇ』と姉に同意を求めて、姉まで『太った』って言う始末。いきなり15回ぐらい太ったを連発されたの」
 どうして帰って来たの。鎌倉で何かあったの。からだの調子でも悪いの。
 気づかう言葉はなかったらしい。テレビ番組のサスケで盛り上がっているところに、久しぶりに帰って来た娘を見て、太ったを連呼していた。それが事実に近いのだろう。
 この関所第14章も、いずれはコピーされて愛知県のお母さんに届くのだろう。末尾に、わたしからお母さんへのメッセージを添えて、章了としたい。

 名古屋駅から実家までの電車の風景は11年前と変わらないと若女将は言っていました。よのなかには、変わっていくものと変わらないものがあります。
 変わらないでほしいのに、変わっていくもの。
 変わってほしいのに、変わらないもの。
 きっと電車の風景は、そのどちらでもなく、ひとびとが長く守り続けながら、変わらないことを願ってきたものなのでしょう。
 ことしは3月11日に大地震がありました。藤沢の職場で、わたしは立っていられないほどの揺れを経験しました。その後の津波と原子力発電所の事故によって、大地震は大震災へと被害を悪化させています。
 関所に集うひとたちにも、震災の影響は大きく出ています。休日が変わってしまったので、いつも夕方から集まっていた立ち飲み仲間の顔ぶれがそろわなくなってしまったのです。
 今回の第14章は、そんな3ヶ月間を記してみました。
 いま関所のレジには二つの空き缶が置いてあります。そこには「復興募金」のカードが打たれ、お客さんたちがおつりの一部を入れています。その缶詰は津波で被害に遭った缶詰工場で流されなかったサバの缶詰を洗ったものです。募金は、地元の方(本文では仮名で香山さん)がまったくのボランティアで牡鹿半島まで物資を運ぶ手助けとして使っています。
 大地震の前の状態に戻れれば。多くの被災者が、それを夢見ているでしょう。変わらない日常のありがたさを身にしみて感じているでしょう。しかし、変わってしまったものを受け止めて、そこから新たな一歩を踏み出しているひとたちがいることに元気をもらいます。ひとりひとりの元気は、とても小さいものですが、少しずつ集まって、束になって、何かを変えていく力になればいいと願っています。
 ご自愛のほどを。
(第14章 了)

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