go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..四章

 関所ではいつも世話になりっぱなしなので、ときにはわたしから御礼をすることもある。
 以前に、学級で「今月の歌」として歌っていたオリジナルソングを音楽CDにしたことがある。ある音楽メーカーが一般公募していたので、だめでもともとと思って、カセットテープに録音して送ったら、採用されたのだ。だから、いわゆる自費出版ではない。
 その後、数年間、夢の印税生活を味わった。印税といっても、半年で数百円というものだったが。
 自分でも記念に100枚を買い取っていた。
 折に触れ、それらを知り合いにプレゼントしていた。引越しのときに、棚の奥にしまったのをすっかり忘れていた。暮れの掃除で偶然見つけた。
「これ、お年賀に」
少し照れながら、わたしは若女将にCDを渡した。
「え、あら、なに、これ」
何のことやらわからないので、戸惑ったのだろう。制作の経緯を説明した。
「へー、センセーって器用なんだね」
「いえいえ、器用貧乏ってやつだよ」
「これ、いただいてしまっていいの」
「うん、もしよかったら。眠れない夜の睡眠薬にでも使ってみてよ」
「それはない。横になったらたちまちグー。朝まで起きない」
 関所には有線放送やラジオがBGMとして、日常的に流れている。相撲や野球の季節は、関所に集まるメンバーの要望にこたえて、スポーツ中継も流れる。
 だから、わたしは、まさか、あのときにプレゼントしたCDを昼間の営業時間に流すとは思ってもみなかったのだ。
 CDを渡して数日後。わたしが関所に立ち寄ると、若女将が目をまん丸に見開いている。
 え、なに、おれ、なんかやばいものでもどっかにくっつけているの。
 鳩の糞かなんかが、頭のてっぺんから、たらーっと尾を引いているとか。
「きょう、すごいことがあった」
あー、びっくりした。なんか、すごいことがあって、それを言いたくて待っていたのか。
「なになに」
荷物を置きながら、クーラーから山猿を取り出す。ふと、レジに見慣れないCDデッキが置いてあるのを確認した。コップに山猿を注ぐ。
「きょう、昼間にセンセーのCDを聞いていたら、お客さんのなかにほしいってひとがいたんだよ」
えーっ、思わず、小さじいっぱいぐらいの山猿がコップから飛び出した。

 わたしは、頭のなかを整理する。
 昼間にあのCDを聞いていた。それって、奥の居間でくつろぎながらではなく、店内で仕事中に聞いていたってことなの。
 お客さんのなかにほしいってひとがいた。だれもいないときに、こっそり聞き、お客さんが来たらボリュームを絞ったのではなく、お客さんがいても、ずっとそのまま聞いていたってことなの。
 しかも、どこのだれだかわからん素人の歌声を聞いて、CDがほしいって思ったひとがいたっていうわけ。
 そんなこと、あるわけないじゃん。
 わたしの脳は、否定の結論をはじき出した。ちょっと早いエイプリルフールだなぁ、こりゃ。
「うそばっかり」
「本当よ。しかもその方は、CDを買いたいっておっしゃったの」
今度は、口に含んだ山猿が小さじいっぱいぐらい鼻に逆流した。どうやら、事実らしい。
「だからね、ちゃんと説明したのよ。こういうひとがいて、よくここに来て、料理が好きでとか」
「信じられないなぁ。でも、まさかお店でかけているとは」
「だって、昼間じゃないと聞く時間がないもの」
そりゃ、そうでした。
「じゃぁ、あした新しいのを持ってくるよ。もちろんプレゼントしてください」
「了解」
そういうことってあるんだなぁ。
 その後、わたしが持参したCDは、若女将を経由して、無事に希望したお客さんに届いた。
 ことしは、よっちゃんの酢漬けイカは当たるし、CDは日の目を見るし、なんかいいことがあるかも。そんな思いで、週末の日曜日、午後の時間に関所を覗いた。
 平日の仕事帰りとは違う。休日は、メタボ対策と大船の町チェックを兼ねて散歩をする。じっとしていられない性分なのだ。その帰りに寄った。
「こんにちは」
さすがに、ほかに呑み助はいない。
「ちょうどよかった。さっきね、あのCDを渡した方が、ただでいただくのは気が引けるって言って、これを置いていってくれらのよ」
若女将の手には、封筒が握られていた。受け取って開封すると、なかみは図書券だった。
「そんなぁ、そういうつもりじゃなかったんだから」
「いいのいいの、もらっておきなさい。あらぁ」
そのとき、わたしは知らないお客さんが来店した。商売の邪魔をしてはいけないと思い、わたしはクーラーから山猿を取り出した。
「センセー、この方よ。CDを気に入ってくださったのは」
「えーっ、ありがとうございました」
わたしは、左手に一升瓶、右手にコップを持ちながら、お辞儀をした。
「あらぁ、なんか歌のイメージが崩れちゃう」
その方は、やや困惑した様子だった。あー、いまのわたしの状態は、どう見ても、演歌が似合う。友だち、仲間、笑顔というテーマがてんこもりのあのCDのイメージからは、世界の果てまで到達するほど、はるかに遠い雰囲気なのだろう。
「申し訳ありません」
でも、なんで謝らなきゃいけないんだろう。

「あー、びっくりした」
「そろそろ佐藤さん、来る頃かな?センセー、メールしてみてよ」
わたしの驚きなど、どうでもいいらしい。
「佐藤さんは、きょうもあそこなの」
 あそことは、市立の自然公園のことだ。関所から近いところにある。もともとは、田畑の広がる鎌倉にいくつもある谷戸の一つだった。乱開発を防ぐために、鎌倉市が買い取り、自然公園として整備したところだ。
 その管理と運営は、地元のひとたち有志が行っている。
 佐藤さんは、その有志のボスなのだ。ボスといっても、実際には事務的な仕事が多いらしく、毎週、休日になると忙しく動き回っている。平日はひとの命にかかわる仕事をこなし、休日はひとの生活にかかわる奉仕活動をこなす。佐藤さんにとっての休養とは何だろうと考えてしまう。こういうひとこそ、メディアは取り上げるべきだ。
 この時期は、公園内外の古い木を間伐し、炭を作っている。昨今では、炭焼きの煙と臭いに対して、批判的な住民が登場し、昔ながらの炭焼きは難しくなったとぼやいていた。
「さっき、きょうの仕事が終わったからって、ビールを買っていったところ」
「じゃぁ、ここには来ないで盛り上がっているんじゃないかな」
「それがね」
若女将の声が小さくなる。
「最近では、ひと目につくところでお酒を飲んでいると何かとうるさいんだって」
いやな時代になったものだ。
 自然公園の管理と運営という奉仕活動に携わるひとたちが、一日の仕事を終えて乾杯している姿を、同じ地域に住むひとは、ありがたいと思いこそすれ、どうして批判的な思いで見てしまうのだろうか。
「そういうことに、文句をいうひとって、本当は自分もやりたいけど、その一歩が踏み出せないだけじゃないのかな」
「難しいことは、わかんない」
 わたしは、携帯を取り出し、老眼鏡をかける。
>地域貢献活動。ご苦労様です。
>仲間と乾杯して盛り上がっているところでしょうか。
>いま関所にいます。
>よろしかったらお立ち寄りください。
 送信ボタンを押した。
「こんにちは」
さわやかな顔をして、カンちゃんこと、神崎さんが登場した。
「海のほうまでサイクリングしてきた。あれ、センセーいたの。あのCDいいねぇ」
ぎょ、カンちゃんもCDを持っているのか。

「そうでしょ、そうでしょ。わたしは、この7番目の歌が好き」
そう言いながら、若女将はCDデッキのスイッチを入れた。
 一曲目の前奏。バイオリンとギターの静かな音が始まる。
「ちょうど、カンちゃんも来たことだし、いっしょに歌いましょう」
関所はいつから歌声喫茶になったのだ。
「いいよ、そんな恥ずかしい」
わたしは、隅で小さくなる。
「わたしも、目覚めのCDはずっとセンセーのだよ。ただ、最後までは聞いたことがないけど」
「どうして」
「だって、朝は忙しいから、全部を聞いているひまがないじゃん」
そりゃそうだけど、CDデッキは昔のカセットテープデッキと違い、聞きたい曲の頭出しが簡単にできるはずだ。
「聞いていないところから、スタートすればいいじゃん」
「そんなの面倒だし」
すごい無精者だ。そもそもレコードがCDに駆逐されたのは、その利便性が最大の理由だった。その利便性を無視し、面倒だと看破し、レコードと同じ聞き方をしているひとがいた。
「なかなか7番目にならないのよね」
若女将は、歌詞カードの7番目を開いて、曲がかかるのを待っている。
「あの、もしかして、いつも最初から聞いて、7番目が来るのを待っているの」
「そうよ。そして7番目が終わったら、また最初から聞きなおすの」
CDには12曲収録した。好みの曲が12曲目だったら、若女将はいつも全曲を聞いてくれていたかもしれない。
 ここにもCDのレコード的使用をしているひとがいた。3人しかいない店内で、2人が同じ使い方をしている事実を向き合うと、わたしの知識は少数否決。多くのひとが、この2人のような使い方をしているかもしれないという気持ちになってきた。
「この三角のボタンを押すと、どんどん曲が飛ぶんだよ。ほら、一気に7番目になったでしょ」
「だめよ、そんなことしたら、CDが傷ついてしまうじゃない」
若女将は本気で怒る。
 もしかして、CDもレコードと同じように針で再生されていると思っているのかもしれない。わたしは、それ以上、このことに関与するのをやめた。
>いま、寿司屋です。
>すぐに行きます。
佐藤さんから返信が届いた。

「佐藤さんがそこの寿司屋にいて、いまから来るって」
わたしは、話の展開を別方向へ持っていく。
 自動ドアが開き、大将が大きなため息とともに配達から戻る。
「また、昼間っから飲んでんのか」
「いいじゃんよ。悪いか」
大将の矛先はわたしではなく、カンちゃんだ。カンちゃんも負けていはいない。
「ねぇねぇ、佐藤さん、そこの寿司屋にいるんだって」
若女将の言葉に大将がうなずく。
「いま、酒の配達に行ったら、宴会やってたよ。まだ料理が出てないのに、みんなかなり真っ赤だった」
 わたしは、かなり嫌な予感がした。疲れて酒を入れた佐藤さんが来る。カンちゃんもいる。また深酒になるのではないか。
 幸い、外はまだ明るい。でも、あしたは月曜日。お仕事です。
「わたし、何がいいかな。アンキモ、そうだ、アンキモがいい。あそこのアンキモ、おいしいんだよ」
>若女将よりアンキモの注文が出ています
わたしは老眼鏡をかけ、すかさずメールを送信した。
 大将は自動販売機のタバコの在庫を確認している。残りが少ない商品を若女将に伝える。若女将は壁の棚から、カートンを出す。それを受け取り、大将は商品を自動販売機に詰める。
 一仕事を終えて店内に戻る大将に、若女将は電話で注文のあった品物を伝える。灯油、ビール、焼酎。大将はそれらを届ける道順を考えながら、レジに放り投げた車のキーをふたたび握る。
 ふわぁー。さっきよりも大きなため息をこぼし、配達に。自動ドアを出る。振り向きざまに言う。
「佐藤さんに、オオトロの握りでいいって、よろしく」
いやぁ、それはできないでしょ。
 大将と入れ替わりに、佐藤さんがレジ袋に入ったアンキモを持参して登場した。確かにおでこも頬も真っ赤だ。
「佐藤さん、やだ、かなり足元ふらふらだよ」
カンちゃんが、二歩退く。
「いやぁ、みんなで注文したから、料理が出てくるのに時間がかかっちゃって。はい、これ」
レジ袋に入ったアンキモを若女将に渡す。佐藤さんは、本当にアンキモを買ってきたのだ。だったら、わたしもウニを頼んでおけばよかったか。
「そんで待っている間に、けっこう飲んだ」
何も食わなくても、飲めるひとだということは、よく存じ上げております。

 きのうは日曜だというのに、わたしは関所で飲みすぎた。
 その翌日の月曜日。きょうは軽くコップ酒2杯で切り上げると、自分に宣言して、関所の門をくぐる。
「ただいまぁ」
だんだん我が家のようになってきた。
「お疲れ様」
首都リーブスの赤坂さんが、店内中央でこちらにお辞儀をする。
 すぐ隣りで、難儀だなぁの烏丸さんが、ニタッと笑う。
 奥の商品ケース沿いでは、永田さんが焦点のあわない目で、お湯割を飲む。
 ウイスキーコーナーの近くでは、シンロートの相田さんと山ちゃんが、仕事の愚痴をこぼしあう。きのうの競馬は、あまりいい結果ではなかったらしい。
 わたしは、レジ横の定位置に行き、荷物を下ろし、ジャンバーを脱ぐ。
「センセー、難儀だなぁ」
きたぁ、一発。烏丸さんが話したそうだ。
「いや、まだ月曜ですよ」
「俺、あした、これ」
そういって、烏丸さんは右手に刃物を逆手で握るポーズをし、自分の腹を横一文字に腕を動かす。それじゃ、切腹だ。
「どうしたんですか」
「健康診断の結果よ。病院に行けってさ」
健康診断では、あまり悪くはなくても再検査になることがある。そして、再検査をすると何でもない。ひとをびびらせておいてと怒りたくなる。
「精密検査をするんでしょ。いきなり、手術ってことじゃないと思いますよ」
わたしは、山猿をコップに注ぐ。
「いや、俺にはわかるんだ。なんてったって、てめぇの身体だから」
それだけよくわかっているなら、もっと早く手が打てただろうに。
「カラス、そろそろ、帰るぞ」
赤坂さんが、帰り支度を始めた。
「もう少し待てよ。今夜は名残の酒かもしんないんだから」
どうやら、本気で精密検査の結果が悪いと感じているようだ。
「大丈夫だって」
赤坂さんが、気を配る。
「さすけねぇんだな。もうちっと飲む」
「しょうがねぇなぁ。じゃぁ俺のをやるよ」
赤坂さんは、いつものように紙パックの酒を、烏丸さんの空のコップに注ぐ。これが始まると2人の帰りは遅くなる。

 その翌日。
 赤坂さんは腰をかがめていた。
「どうしたんですか」
「いやぁ、きのうカラスと飲み過ぎて」
だろうと思いました。
「あいつも、いつもよりかなり飲んだ」
それも、だろうと思いました。
「しょうがねぇからタクシーでうちまで送ったのよ。その後、うちの近くでタクシーを降りて坂道を歩いていたら、ずっこけた」
 以前にも赤坂さんはそうやってけがをしている。前歯を折ったり、額から出血したり。でも今回は見た目には傷はない。
「またですか」
「今度のは新しいバージョン」
バージョンなんて、言葉を知っているのか。
「坂道を登っていたら、後ろにこけた」
「あーぶない」
わたしは、思わず大きな声を出した。打ち所が悪かったら、大怪我になるところだ。
「けつをドカーンと打って、しばらく息ができなかった。立ち上がろうとしても、立てない。だれかに助けを求めたけど、だれも通らない。うちまで、這ってけぇった」
「そんできょうは病院に行ったんですか」
行くわけがないとわかっていても、聞いてしまう。
 赤坂さんは、手を振る。
「湿布を貼った」
「それでも痛いんでしょ」
「佐藤さんが来たら、相談しようと思う」
佐藤さんは専門外だと思うんだけど。ま、赤坂さんが決めたことだから、わたしが軌道修正する必要はない。早く、このけが人に愛の手を差し伸べるべく、佐藤さんが来ないかな。
 しかし、わたしの願いは虚しく、次に登場したのはスキンヘッドのピカちゃんだった。
「もう、これでやめよう。きょうがラスト」
毎回、そういってタバコを一箱買っていく。どんなに寒い日でも、パジャマに裸足のサンダル。仕事から帰って入浴してから買い物に来る。以前、わたしは同い年と騙された。確かに干支は同じだったが、一回り上の同い年だった。
「あれ、番頭さん、しゃきっとしなきゃ。腰が曲がってるよ」
「だめだよ、痛いんだよ。こけちまってさ」
赤坂さんは、泣き笑いしながら、ピカちゃんに言い訳をした。

 ピカちゃんは関所の掛け時計を見た。
「まだ、この時間じゃ、飯はねぇな。しょうがねぇ、一杯やってくか」
「あら、珍しい」
若女将は、ワンカップ大関をピカちゃんに渡す。
 ピカちゃんは体格がいい。きっと190センチぐらいはあるのではないか。骨格も太い。体重があるようには見えないが、骨格の太さとスキンヘッド、喋り方の豪快さが、人間を大きく見せている。
 ワンカップ大関も、ちびちびやらずにごくごく飲む。あっという間に空になる。
「センセーよ。なに飲んでんだ。うまそうだなぁ」
わたしは、すかさず山猿を空になったワンカップの入れ物に注ぐ。ピカちゃんは、酒の臭いをかいだ。ごくっと一杯やってから、遠くを見つめる。
「センセーのうちは新聞、何」
「うちは毎日ですけど」
ピカちゃんは、また遠くを見つめる。また山猿をごくっと飲む。もう残りが少ない。
「それじゃ、話が終わっちまうんだよな」
あれ、そういうことなの。
「こないだ、読売に変えました」
ピカちゃんは、ふんと横を向く。残りの山猿を飲み干した。わたしは、空になったワンカップにふたたび山猿を注ぐ。
「その後、朝日に変えました」
ピカちゃんの目が輝く。
「そうだろ、そうだろ。そうこなくっちゃ。そんで、去年の秋の朝日を覚えているか」
そりゃ無理だ。たとえ、朝日新聞を取っていたとしても、半年も前の記事は覚えていないだろう。それに、文脈上、わたしが毎日新聞を読んでいることは、ピカちゃんにもわかっているはずなのに。
「なにか、目新しい記事が載っていたんですか」
「載ってはいない」
はぁ。霞をつかむコミュニケーションだ。
「でも、挟まっていた」
あー、折込のことね。だとしたら、朝日新聞ではなくてもありそうだ。
「何か、広告のことですか」
「違うよ、お嬢、あれ見せて」
ピカちゃんにとっては、若女将はお嬢さんなのだ。
「はいはい、これね」
若女将はスクラップブックから、鎌倉市の広報を引き抜いた。その最後のページを開く。読者からの投稿ページだ。いくつかの投稿のなかに、ペンで囲った投稿があった。

 その記事は、知っているひとが読めば、この関所のことだとわかる記事だった。
 常連のひとりが、自分の町にはホッとできるステーションとしての酒屋があることを紹介していた。わたしには、だれが投稿したのかわからなかった。しかし、かなり文学的な表現が多かったので、少なくともそれがピカちゃんではないと推測できた。
「へー、すごーい。紹介されたんですね」
 ピカちゃんは、まだわからないのかと言わんばかりに投稿の後半を指差す。
「ここに、マダムって書いてあるだろ。若いマダムって」
確かに、若いマダムがあなたをお待ちしていますみたいなことが書かれている。
 そこだけを読んだら、酒屋の記事だとは思えない。
「いいか、ここはマダムの店なんだ。だから、あまり品にないことはしちゃいけねぇ。上品に振る舞うんだぞ」
 それが言いたかったのですか。
 そのために、わたしに「新聞、何」と聞いたのですか。
 ピカちゃんの思考は、かなり回りくどい。
「俺、来月、誕生日」
二杯目の山猿も空になっていたので、三杯目を注ぐ。これは誕生祝のつもりです。
「誕生日ですか。おめでとうございます」
ピカちゃんは、長い人差し指をアメリカ人みたいに立てて鼻の前で左右に振った。
「誕生日っていうのは、一生に一度しかない。生まれた日のことだろ。毎年、誕生日があったら、ひとはいつまでも年を取らない。二回目以降は、誕生記念日って言わなきゃ。センセーは、とくに言葉の使い方は正しくな」
確かにおっしゃるとおりです。それにしても、こういう深いことを意識している御仁とは知らなかった。
 関所には何人かの常連がいる。しかし、挨拶や短い会話はするけど、長話をすることはめったにない。もともとそれぞれが他人からの干渉をあまり受けたくなくて、ひとりで関所のドアをくぐっている。そこで静かに一日の疲れや、自分自身と向かい合い、アルコールで元気を取り戻す。気分が乗れば、近くのひとと世間話をする。
 だから、わたしのようにだれかれともなく会話をしてしまう種族は異端なのかもしれない。わたしは、コミュニケーションによって元気を取り戻すタイプなのだ。
 数日後に関所に寄ったら、ピカちゃんからの差し入れとして、山猿の四合瓶が入っていた。
「えー、そういう意味ではなかったのに」
三杯はご馳走したけど、四合瓶をいただいたら、わたしが得をしてしまう。
「いいのよ、ピカちゃんは。あー見えて繊細なひとなんだから」
若女将は、ひとの機微やこころの彩りを大事にしている。

 週末の金曜日。
 あしたは休みだと思うと、かなり嬉しい。
 大船駅の改札を出ると、ほかの日よりも待ち人が多い。金曜夜の大船で、楽しい時間を過ごすひとたち。約束の時間が迫っているのだろう。
 わたしは、いつもと同じ。もう金曜だからといって、だれかと居酒屋に行くことは少なくなった。なんだか、それだけで疲れてしまうのだ。それより、関所でいつもよりもちょっとだけ多い酒を飲めれば幸せだ。
「はい、どうも」
関所の自動ドアが開く。自宅の出先に帰ってきたようだ。
 仕事がなかなか片付かなかったので、きょうはやや遅く関所に着いた。そのためか、若女将は大女将と交替して夕食を食べている。
「悪いね、ばあさんで」
わたしは、何も言ってないのに、大女将がぼやく。
「いや、いつまでもお元気で何よりです」
わたしは、レジ横に荷物とジャンバーを置く。
「センセー、カレンダーなんかいらない」
業者がたくさんくれるらしい。
「鉄道のカレンダーもあるよ」
それは嬉しい。
「どれですか」
くれる前から、カレンダーが丸めて立てかけてある箱を、わたしは物色する。
 そこには、鉄道会社の名前が印刷されたカレンダーが入っていた。
「センセーも、電車が好きだっていってたものね」
「ありがとうございます」
いただいたカレンダーを、リュックに入れようとしたとき自動ドアが開いた。
「あれ、センセー、久しぶり」
「あら、こんばんは」
首都リーブスの鮑さんが登場した。
 鮑さんはわたしよりも若く、こどもも小さい。医者の指導を守って、週末以外は禁酒を実行している。だから、金曜日は堂々と飲めるらしい。
 そういえば、鮑さんは電車の写真を撮影する趣味があった。
「あら、来てたのね」
奥の引き戸が開き、若女将が登場する。
「ありがとうございました」
退場していく大女将に、わたしは礼を言う。
「なんか、もらったんですか」
鮑さんが言うので、カレンダーを見せた。鉄道写真のカレンダーと瞬時にわかった鮑さんのメガネの奥の瞳が光った。

「ほら、いつまで飲んでんだ」
風呂上りの大将が、奥から登場した。シャンプーの香りが漂う。
「そうだ、大将も鮑さんも、てっちゃんだよね。ここで電車の当てっこをしよう」
わたしは、カレンダーを肴にしたゲームを提案した。
 カレンダーにはひと月ごとに風景と車両が撮影されている。JR東日本管内の路線ばかりだ。
「じゃぁ、一月からいくよ。せーの。これ路線はどこで、車両は何でしょうか」
雪原を行く気動車が映っている。やや遠方からの写真で、車両の見極めが難しい。にもかかわらず、鮑さんは余裕の表情だ。
「あー、これは○○線。車両は、○○系」
即座にあてる。
 わたしと大将は唖然とする。
「すごーい、鮑さん。すぐわかっちゃうんだね。じゃぁ、二月にするよ。これ、なーんだ」
こんなことを、十二月まで繰り返した。鮑さんは、十月を除いて、どれも瞬間的に路線と車両を正解した。十月は、紅葉が広がる大地のすみっこに、ちょびっとだけ電車が走っている風景写真だった。
「これは、たぶん、あれかな」
この写真だけ、鮑さんは自信がなさそうだった。
 ゲームを終了し、どうして十月だけは悩んだのかを、鮑さんに聞いた。
「あの写真だけ、どこのスポットから撮影したかがわからなかったんです」
「ということは、ほかの写真は、撮影した場所までわかっていたの」
「えー、鉄道写真って、案外、撮影に適したところって限られているので、てっちゃんたちは同じ場所でカメラを構えることが多いんです。だから、このカレンダーの写真は、どれも有名な撮影スポットを使っていました」
「すんげえなぁ。鮑さん」
大将も感嘆の声を上げている。
 本当の趣味人とはこういうひとをさすのだろう。これだけの写真撮影をするために、いままでどれだけの時間と手間をかけてきたのかを想像する。ほとんど休日のたびに、早朝から家をあけて、外出していたのではないだろうか。
「撮影したい電車があったら、日本全国、どこへでも行ってしまうの」
わたしは素朴な質問をする。
「そうですね。朝一番の便で羽田を発って、その日のうちに帰ってくるってことも、若いときはしていました」
「奥さんに文句を言われなかったの」
「そりゃ、言われましたよ。でも、結婚する前から知っていたので、文句というよりも、呆れられたって感じかな」
 いまは、三月のダイヤ改正で消えてしまう九州行きのブルートレインの撮影に、大船周辺の撮影スポットに出勤前に通っているそうだ。

 二月の後半に春のような陽気になった。
「もう春かなぁ」
関所の常連が季節を先読みする。
 しかし、三月に入って、ふたたび真冬並みの寒い日が訪れた。
「冷えちゃって、鼻の頭が赤くなっちゃった」
若女将が、肩をすぼめる。
 わたしは、「そうだ」と思い出し、荷物のなかから一冊の本を取り出す。
「これ、今度、佐藤さんが来たら、渡しておいてね」
横山秀夫さんの書いた「出口のない海」という本だ。
 以前に、若女将に貸した。それを佐藤さんが続けて読んだ。そして、わたしの手元に戻っていた。こないだ、佐藤さんが奥さんに話したら「読みたい」と興味を示していたと聞いたので、リュックに入れておいたのだ。
「あー、奥さんが読みたいって言っていたのね」
若女将は情報が早い。
 わたしは、自分が読んだ本を何冊もひとに貸してしまう。
 また、ひとが読んだ本も、遠慮なく借りて読んでしまう。
 若女将からは、パトリシア・コーンウェルさんの本を10冊以上借りている。そのうちの5冊は、さらにわたしの知人の手元に渡っている。
 わたしの本も、何冊かは若女将の手元に渡っている。さらに、そこから佐藤さんにも届けられている。遠方に出張のあるときは、時間つぶしのために本を買わなくて済むようになったと、佐藤さんは喜んでいた。
「こんばんは」
ちょうど、そこに佐藤さんが登場した。
「よかった。これ、センセーから」
若女将が、「出口のない海」を佐藤さんに渡す。佐藤さんはバックを開けて、別の本を取り出す。
「これ、読み終わりました」
それは、佐々木譲さんの「カストロの冒険」という本だった。この本も、わたしの手元を離れて、知っているだけで5人のひとに読まれて、いまふる里帰りを果たした。
「こないだ、おもしろい話を聞いたんだよ」
佐藤さんは、クーラーから高清水を取り出した。
「いっしょに、谷戸の会で活動しているひとがいるんです。そのひとが、いきなり、わたしに山猿って酒を知ってるかって聞いたの」
 山猿は、この辺では、この関所でしか扱っていないはずだ。
「そのひとは、山猿を飲んだの」
わたしは、その山猿をコップに満たして、ぐいっと口に含む。
「奥さんが、関所で買ってきて、それを飲んだんだって」
「それって、もしかして」
わたしと佐藤さんは、記憶の一点で合流した。
「そう、あのときのひとが、その方の奥さんだったんですよ」
「たしか、ご主人の誕生日だからって、日本酒を探しに来たんですよね。あまり日本酒を知らないっていうから、俺と佐藤さんで、これがお勧めっていって、山猿を紹介した」
「そうそう。まさか、あのひとと谷戸の会のひとが夫婦とは知らなかったから」
 レジの奥で、大将と若女将が満面の笑みをたたえる。わたしたちの会話が筒抜けのようだ。
「客が客に酒を勧める。一番、味を知っているひとどうしのつながりがいいんだよなぁ」
大将の一日の終わりの疲れが、少し和らいだみたいだ。
「ここを、そういうお店にしたいって、ずっと願ってきたんだ」
若女将の瞳が、清流のように澄んでいた。

四章・了

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