go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..十六章

2012年夏は、イギリスでロンドンオリンピックが開催された。

 田中さんが甚平を着て入ってきた。
 手にはタッパーが二つ握られている。
「あれ、お早いお着きで」
「きょうは、ちょっと早めに仕事から上がってきました」
 わたしは、8月上旬。こどものいない学校に勤務して、帰って来たところだ。
 道を歩くだけで、湘南地方はサウナ状態。汗がひかないまま坂の下の関所の自動ドアをくぐっていた。手には、凍ったグラスに生ビールが注がれている。
「これ、こないだの胡瓜。三日目ぐらいかな。こっちは今朝つけたばかりで、れいの昆布茶をまぶしたやつ。よかったら、先にやっていて」
「ありがとうございます」
 田中さんは、横浜に畑を借りている。いつの時期も野菜を絶やさないで、糠漬けを作る。関所に集まるひとたちの酒の肴として定番になった。わたしは、もともとあまり漬物は食べない。しかし、田中さんの胡瓜丸ごとサイズの糠漬けを食べたら癖になった。
 ことしの人間ドックは血液中の塩分濃度が上がっているかもしれない。
「きょうは何分で出てくるかな」
 銭湯に向かう田中さんの背中に若女将が声をかける。それぐらい田中さんの入浴時間は早い。
 わたしは陶器の皿を出して、胡瓜をいただく。
 がぶっ。
 糠の酸味と胡瓜の味が口のなかに広がっていく。
 もぐもぐ、思わず食べてしまうサイズなのだ。
「センセーは、いつまで仕事なの」
 若女将が尋ねる。
「あしたまででーす」
 こどもたちは、7月下旬から夏休みだが、教職員の夏休みは法定の5日間しかない。毎年、それに有給を組み合わせて、8月の大半を休みにしている。
 暑い中、仕事をしているひとたちには、とても申し訳ないのだが、そういう権利が認められているので、決してずるをしているわけではありません。

 日曜日からは、食堂をオープンするぞぉ。

 火曜日。
 年に一度の人間ドック。わたしは40歳を過ぎた頃から、健康診断ではなくて、人間ドックを受診するようにしている。
 健康診断ならば、費用は無料、時間も短い。しかし、検査項目が少ないので、大きな病気を見逃しやすい。
 母や祖父など、身近なひとの死が、人間ドックを受けて、自分のからだの声を聞かなければと思った動機かもしれない。
 いつも、横浜ランドマークタワーのなかにある人間ドック専門病院「アムス」に通っている。厳密に言うと、去年だけ違った。去年は、神奈川県の職員になって25年が経過した「ご褒美」で県から脳ドック無料券をもらっていたのだ。残念ながら、アムスには脳ドック検査ができる機械がなかったので、ホテル「インターコンチネンタル」近くにある「けいゆう病院」で受診した。
 ことしは、もう無料券はくれなかった。いままで通り、アムスを予約した。
 8時までに行くシフトに入った。
 大船を6時半の京浜東北線に乗る。
 前日の夕方まで、関所で飲んでいた。一応、血中アルコール濃度に気をつけて、無添加のアルプスワイン赤を炭酸で割って飲んだ。しかもグラスに氷を入れて、さらに薄めた。これがジュースのように飲み心地がいいので、ストレートで飲むよりも量が進んでしまう。
 人間ドックの血液検査に影響がなければいいなぁと、自分勝手に心配する。

 じゃぁ、飲まなきゃいいじゃん。

 そうもいかないところが、人生の難しいところだ。
 7時過ぎの桜木町は、これから出勤するひとたちであふれていた。みなさん黙々と動く歩道に身を任せて、ランドマークタワー方面に吸い込まれていく。こういう近未来的な町で仕事をする。
 ちょっと憧れてしまうなぁ。
 でも、どこもかしこもアスファルトばかりで、やや息苦しい。
 エレベーターで、アムスのあるフロアまで上がる。扉の前に7時半に着いた。一番乗りだ。バックから小説を出して、立ち読みを開始した。

 8時近くなったら、扉が開いた。
 わたしはアムスに来て、初めてよのなかには人間ドックのような検査専門の病院があるんだということを知った。検査専門だから、治療はしない。医師よりも、看護師や技師が多い。検査の最後に所見を言う内科医は、たいていほかの病院に勤務していて、日替わりでアムスに詰めている。
 アルバイトなのだろうか。
 名前を記入して室内履きに履きかえる。
 持参した事前の質問用紙、便検査、利用券を提出する。保険証で本人確認がされた後、ロッカールームの鍵を預かる。
 これが、治療を行う一般的な病院での人間ドックだと、急患や予約していた患者が優先になるので、一連の流れが途切れ途切れになってしまう。
「骨密度の検査が、保険組合さんからの補助で受けられますけど、どうしますか」
 受付の女性が説明してくれる。オプション検査というやつだ。
 基本的な検査で十分なのだが、オプション検査をするとさらに細かい情報を得ることができる。ただし、それぞれのオプションが有料なので、わたしは1年おきぐらいにしか、オプションをつけていない。
「おいくらですか」
 こういうことは遠慮なく聞く。
「3000円の補助が出るので、お支払い分は150円です」
 骨密度検査は3150円なのか。というか、150円って消費税分かなぁ。
「だったら、お願いします」
 オプション追加用紙に必要事項を記入して提出した。
 ロッカーで、検査着に着替えた。パンツだけを残して、あとはロッカーにしまう。上下スウェットのような検査着だ。
 大きな窓からみなとみらいの風景が見える。大観覧車の時計が8時半をさしている。大きなソファに座り、持参した本を広げた。
 ほどなく、名前を呼ばれた。
 最初の検査は採尿だ。
「この容器の2つ目のラインまで尿を入れてください。できれば、中間尿をお願いできます。できそうですか」
 かわいい顔の若そうな看護師さん。そんなこと、言われても、膀胱に聞かないとわかりません。わたしは答えに窮した。
「無理そうなら、最初からでもかまいませんよ」
 最初にそう言ってください。

 紙コップに尿を採って、所定の場所に置いてきた。
 次は、採血だった。
「どちらの腕にしますか」
 わたしは、利き手と反対の左腕を出した。
「ちくんとしますよ」
 畳針のような太い尖った針が肘の内側に刺さる。わたしは、痛いことを承知でいつもあの瞬間を見てしまう。サディストの気質があるのだろうか。
 どぼどぼと、あまり勢いがいいとは言えない血液が小さな菅に溜まっていく。

 鮮血というよりも、なんだか紫に近いなぁ。
 きのうのワインが赤だったからかなぁ。

 ぼんやりと考える。看護師は菅に血液が溜まるたびに空の菅と交換する。3本の菅に血液が溜まった。
 血液は、からだの情報がたくさん詰まっている。オプション検査の情報源はほとんどが血液だ。癌にかかっているのもわかるというからすごい。コレストロールや中性脂肪も一目瞭然らしい。γ-gtpもわかっちゃう。
 針を抜いた後に、小さなガーゼをあてて、テープで留めた。
 ソファに戻ると、エコー検査が待っていた。
 超音波(エコー)検査は、内臓の様子が映像としてわかる。超音波を利用しているので副作用はない。
 パンツを腰骨まで下げる。上着を鳩尾まで上げる。技師の女性がおなかにゼリーを塗る。エコーで使う機器の滑りをよくするためだ。
「あれ、痣がありますね」
 おへその横に数日前にソフトボールの試合でボールをおなかで受けたときの痣だ。事情を説明した。
「痛かったら言ってくださいね」
 もう痛みのある時期は通り越していた。しかし、最近、痛みはなくなっていても、傷痕の治りが遅くなった。年を重ねるとはこういうことなのだ。
 胃や肝臓、すい臓や胆嚢、腎臓をエコーで調べる。そのたびに、ボールのようになっている機器がグルグルとおなかの上をスライドする。痛くもかゆくもない。それでも、からだには超音波が当てられている。
 医療機器の発達はすごい。

 ゼリーをふいて、再びソファに戻る。
 そこからは、学校の健康診断項目が並ぶ。
 身長、体重、握力、肺活量。
「おなかを引っ込めないで」
 そう言われてもついつい無駄な息を吐き出してしまう腹囲計測。
 心電図、視力、聴力、眼底、眼圧。
 待ち時間がほとんどないので、どんどん検査が進んでいく。
 レントゲン撮影が終わった。
「胃の活動を抑える薬を注射します」
 胃部レントゲン検査。いわゆるバリウム検査の前に、左肩に筋肉注射を受ける。これがかなり痛い。筋肉に薬液がじわーっと広がっていくように、注射の後に自分でもまなければいけない。
 あの注射液は、胃だけの働きを抑えるのではない。見え方がぼやけたり、動きが緩慢になったりするので、全身的な作用があるのだろう。
 バリウム検査。
「まず、この白い粒粒を口に含んで水で一気に飲み干してください」
 その粒は炭酸の粒だ。長く口に含むと泡になってしまう。水といっしょにごくん。あごを引いてげっぷが出ないようにする。
 何度か、検査中にげっぷをして、やり直した経験がある。
 ロボットのようなベッドに背中を当てる。ベッドは垂直に立っている。大きな紙コップに半分以上、バリウムの白い液体が入っている。
「ゆっくり飲みましょう」
 窓の向こうから技師が指示をする。
 バリウムが食道を伝わる様子を撮影しているのだ。
「では、台が動きます。両端の手すりをしっかりつかんでください」
 垂直だったベッドがゆっくりと後方に倒れていく。地面と水平よりもさらに足がやや上がるぐらいまで倒れて止まる。
「手すりをぐっとつかんで。はい、がまん」
 たぶん、バリウムが胃のなかから出ていかないように上部に寄せているのだろう。しかし、この姿勢は腕力の弱いひとには辛いはずだ。
「右に一回転」
「左にちょっと腰をあげて、はいそこで息を止める」
「うつ伏せになって右腰をちょっとあげます」
 先端医療検査なのだろうが、この検査だけはなんだかとてもアナログな感じがする。

 朝から口に何も入れていない。
 バリウム検査が終わって、ソファ近くの飲料機械の前に立つ。
 どれも無料だ。ついつい貧乏性の癖が出て、飲まなきゃ損と思ってしまう。
 まずはあたたかいオニオンスープ。ゆっくり喉や食道を潤した。次は冷たいレモンジュース。最後はあたたかい緑茶。3杯も飲んでしまった。
 最後にオプション検査の骨密度を測る。右足のくるぶしにゼリーを塗る。検査する機器にくるぶしを入れると両端からパッドが近づいてきてくるぶしを固定した。それだけで、検査は終了。
 これ一回で3150円かぁ。
 検査はもうかるわけだ。

 内科医から所見を聞く。
 机上のモニターには、肺レントゲン写真、エコー写真、胃レントゲン写真が並んでいる。書類には血液検査、尿検査の結果が記入されている。
「どれも問題ありませんね。ただし適正体重より10キロも多いので、肥満です。痩せましょう」
 そんなこと、言われなくたってわかっている。

 会計を済ませる。
 1000円の食事券をもらう。
 ランドマーク、周辺のビル、中華街など、いくつかの飲食店で使えるようになっている。ただし、当日限りだ。
 朝食を抜いて、バリウムしか口にしていない。空腹だけど、胃に存在感がある。
 わたしは、ランドマークプラザ5階の「やまと」という豚肉創作料理の店に行った。
 窓際で、景色のいい席に座り、一番絞りの生ビール。至福。
 日替わり定食は、冷たいたぬきうどんとヒレカツのセットだった。
 夏休み中とは言え、働いているひとはたくさんいる。そういうひとを窓から見下ろして見つける。
 おーい、俺は人間ドックで仕事は休みだよー。昼から生ビールだよー。
 こころのなかで、自慢する。
 1000円の食事券を有意義に使って、わたしはランドマークをあとにした。

 桜木町駅から横浜に出る。横須賀線に乗って、久しぶりの逗子駅で降りた。
 関所の若女将に、「げんべい」のビーサンを頼まれていたのだ。
 自分用のビーサンもそろそろ買い足さないと、薄くなっていたので、ちょうどよかった。
 わたしは、教職に就いて、最初に葉山町に赴任した。鎌倉で生まれ育ったのに、それまで葉山に行ったことは一度もなかった。それぐらい縁のない場所だった。だから、どうやって行くのかさえわからなかった。小さな町で、電車が通っていないのが驚きだった。公共交通機関はバスしかない。道路が空いていれば南北の道路を15分ぐらい走れば、葉山の端から端まで通り抜けてしまう。東西方向は細くなっていて、丘陵地だ。ほとんどが市街化調整区域で、奥深い山が残っている。御用邸があるので、むやみな土地開発は禁止されていると聞いた。
 南北方向に長い葉山は、西側が海に面している。
 逗子市との境に田越川(たごえがわ)が流れている。
 北部の逗子市との境にかかる渚橋から、海回りと呼ばれる道路が海岸沿いに御用邸まで続く。反対に、逗子駅から葉山の東側に連なる丘陵地を縦貫する山回りと呼ばれる道路が、やはり御用邸まで続いている。
 海回りと山回りの二つの道路に挟まれている地域に、住宅地がある。
 海岸沿いは、漁港とマリーナがあり、観光客が多く集まる。鎌倉や逗子と違って、ほとんど砂浜はない。岩礁地帯が続いているのだ。やどかりやカニ、小さな魚やたこなどを見つけることができる。
 山回りには役場や消防署があって、地元で働くひとたちが集中している。飲食店も山回りに多い。
 わたしは、大学を卒業した22歳から5年間を葉山で過ごした。住んでいたのは鎌倉だった。毎日、葉山まで通った。そのうち何日かは、酔っ払って電車がなくなり、葉山の同僚の家にお世話になった。いまのように学校が赤外線防犯システムを導入する前の時代だったので、鍵を開けて校舎に入り、保健室のベッドで寝たこともある。
 のんびりした時代だった。
 独身の一人暮らしを案じて、保護者の多くが「きょううちで夕飯を食べなさい」と招いてくれた。そのまま宴会になり、そこで宿泊。翌朝、こどもといっしょに登校した。
 いま、そんなことをしたら教育委員会に訴えるひとがいるだろうなぁ。

 葉山の夏は、5月の連休明けから始まる。梅雨もあるが、海からの湿った重たい風が一日中吹きつける。ぬるいサウナに入り続けているような感じだ。外出時には帽子は必需品だった。
 長ズボンは汗がくっついて歩きにくい。襟のある上着は、首回りの汗がべっとりついて、毎日洗濯しなくてはならなかった。
 そんなとき、地元のひとたちが生活雑貨を買う店を紹介してくれた。
 それが、げんべいだった。
 海回りにある雑貨屋だった。
 麦わら帽子、地下足袋、軍手、ビーチサンダル、Tシャツ、作業ズボン、虫取り網、虫籠、浮き輪、家庭用のプール、下着など。
 オリジナルブランドを作っていて、どの製品にも「げ」の文字がプリントされていた。ビーチサンダルは、すべて生ゴムを使用している。生ゴムは、ゴムの木から抽出した樹液のみを使う。石油精製品を混ぜない。だから、長く使っていると、どんどん足の形に変形していく。親指の付け根やかかとなどがどんどんへこんでしまう。やがて1ミリぐらいになると、ある日、穴があいて寿命が尽きる。あくまでも全部生ゴムなので、捨てるときは「燃やすごみ」でいい。
 わたしが藤沢に異動になって数年が経ち、げんべいは経営者が代替わりをした。その方が経営者として優秀だったのか、「げ」マークの製品を大きなデパートにどんどん売り込んだ。
 それまで、げんべいの製品を買うには不便な葉山にまで行かなければならなかった。それが、横浜や藤沢で買えるようになった。「げ」マークのシャツを着るおとなやこどもが藤沢でも見られるようになって、驚いた。
 ビーサンは、デザインを一般に募集して、優秀なデザインを商品として販売した。これがヒットして、げんべいのビーサンが有名になった。サッカーチームのロゴ、野球チームのマーク、映画のキャラクターデザインなど、次々と付加価値をつけたビーサンが販売された。
 わたしは、昔ながらの無地のビーサンが好みだ。いつも買いに行くと、いっぺんに3つぐらいは買ってしまう。ふだん使い、車の運転用、職場でのくつろぎ用など、生活場面に配置している。

 関所で、げんべいの話が出たことがあった。
「えー、わたしにも買ってきてよ」
 そのときに、若女将から注文をもらったのだ。ふだんは、なかなか葉山に行くことはない。人間ドックで横浜に出ることが決まったとき、午後はそのまま横須賀線で葉山に行こうと決めた。
 逗子駅から海回りの京浜急行バスに乗る。若いカップルでいっぱいだ。バックにはタオルやしぼんだ浮き輪が入っている。若いカップルって、どうして男性よりも女性の方が目立つのだろう。日焼け止めでしっかり肌を守っているからか、男性よりも肌理も細かく見える。それに対して、青っ白い男性のすねや二の腕には、パワーが感じられない。
 ま、どうでもいいか。
 一人席に座り、窓外に目をやる。バスは駅前ロータリーを出発して京浜急行逗子駅を通過する。田越橋を右折する。右手に田越川を見ながら、渚橋へ向かう。渚橋の交差点は鎌倉方面からの国道134号線と交差する。地元では「海岸道路」で通っている。夏は渋滞のメッカだ。国道と市道では信号の時間が違う。国道が優先されるので、バスはなかなか交差点を通過できない。久しぶりの風景を楽しむわたしにはちょうどいい。
 田越川河口でこどもたちといかだを作ったなぁ。サーフィンの練習をしたなぁ。逗子の砂浜で夜遅くまで宴会をしたっけ。キャンプをしてこどもたちと朝日を見たよなぁ。
 バスは交差点を通過して、葉山に入る。海回りの出発点だ。
 右手に海が広がる。鎧摺(あぶずり)港。左には、大正時代から続く日影茶屋。日影茶屋は和食割烹だが、港の突端にある「ラ・マーレ・チャヤ」は正統的なフランス料理だ。初任給をもらったとき、両親と妹をラ・マーレに招待したことを思い出す。ワインが好きで、がばがば高いワインを飲んでいた母は、いまはもう天国だ。
 葉山マリーナを右に見ながら、バスはすれ違うのやっとという細い道に入っていく。こういうところを毎日運転するバスドライバーは、神経が擦り減ってしまいそうだ。
「次は、元町」
 アナウンスを聞いて、降車のボタンを押す。
 バスはクーラーが効いていたが、外に出たらアブラゼミの鳴き声とムンとする暑さが全身を包んだ。
 見慣れた風景だった。しかし、どこかが違う。
「あれ、シャッターが閉まっている」
 そうなのだ。げんべいのシャッターが閉まっていた。定休日はきのうだったのに、なぜ。せっかくここまで来て、わたしは愕然とした。
 とぼとぼ店先まで行く。しまったシャッターに張り紙がしてあったのだ。
「本店移転のお知らせ」
 げんべいは、店舗を別の場所に移していた。しかも2店舗もオープンしている。長柄(ながえ)店と一色(いっしき)店。長柄店は、山回りを逗子に戻る。一色店は御用邸近くだ。しばらくバスは来そうにない。
 わたしは、かつて過ごした長柄地域をぶらぶらしながら、長柄店を目指した。歩くほどに、頭のてっぺんから汗が額や耳、首筋に流れ落ちた。

 葉山には小学校が4校ある。長柄小学校、葉山小学校、一色小学校、上山口小学校。中学校は2校だ。南郷中学校、葉山中学校。私立学校と高校はない。
 南郷中学校はすべて長柄小学校の卒業生だ。
 葉山中学校は、ほかの3つの小学校の卒業生が進学する。
 だから、長柄小学校に入学したこどもは南郷中学校を卒業するまでの9年間、同じメンバーと過ごすことになる。だいたいクラスは2クラスが標準なので、クラス替えがあっても、9年も経過すればどのこどもとも一度は同じクラスになったことがある関係になる。
 人間関係がとても濃くなる。
 だから、仲間外れやいじめが起こると修復や改善にとても時間がかかる。相手を意識しないという環境が作れないので、ぎくしゃくした日常を過ごさなければいけない。わたしが赴任したとき、先輩たちから「授業なんて何年もやれば次第にうまくなる。でもこどもの関係を良好に保つ技術は、いまから全力じゃなきゃだめだ」と何度も言われた。
 放課後には、こどもの様子を何度も質問された。
「休み時間に見ていたんだけど、あのこどもはだれにも相手にされていないよ」
「給食のときに教室を見たんだけど、わざとあのこどもだけおかずの量を減らされていないかなぁ」
 チェックはとても細かい。わたしがまったく気づいていないことが多く、指摘を受けて、翌日には対応した。
 長柄交差点から逗葉(ずよう)新道方面は曲がる。右手の丘陵地に長柄小学校がある。
 わたしが教員になって最初の5年間を過ごした学校だ。山頂を切り開いて学校を建設したので、山頂には学校しかない。地震のときの津波による被害から住民が避難してくる場所だ。
 道路から100段以上の階段が校門まで続いている。大学卒業当初、運転免許を持っていなかったわたしは、その階段を毎日昇り降りした。あのときの階段は、いまも同じように急傾斜地にまっすぐ伸びていた。
 小学校入口を通り越して、すぐ「げんべい・長柄店」を発見した。
 若女将のサイズは22.5。あらためてビーサンのサイズを見たら、22とか23はあるけど、その中間のサイズはない。仕方がないから両方買うことにした。以前はわらじも売っていた。室内ではくにはちょうどいい。しかし、新しいげんべいにはなかった。かつての元町げんべいにあった作業着や軍手などもなかった。代替わりをして、営業方針を転換したのだろう。
 わたしは自分用のビーサンとシャツを買った。
 せみしぐれの長柄の杜を背にしながら、逗子までの道のりを汗をふきながら歩くことにした。

 水曜日は朝から曇っていた。
 わたしは、ことしの夏の課題作品である生パスタに挑戦した。初めて作るので、インターネットでレシピを5種類ぐらい取り寄せた。小麦粉を生卵だけで練るというのが新鮮だった。餃子の皮を作る要領だが、きっと微妙に違うのだろう。
 とりあえずこんなものかという麺を作って、ミートソースをあえた。
 火曜日に買ったビーサンとパスタ料理を持って関所に行く。
「こんにちは」
「いらっしゃい。暑いねぇ」
 若女将のおでこには汗が噴き出している。まだお昼前の時間だ。
「前に頼まれていたビーサン買って来たよ」
 わたしは、げんべいの包みを渡す。なかからレシートを出した若女将がレジから代金を払おうとする。
「これから大船に行ってくるから、帰りでいいや」
 代金は後で受け取ることにした。どうせ、そのほとんどが関所のビールや日本酒に消えるのだ。
「それから、これ」
 わたしは、パスタ料理の入ったタッパーを渡す。
「なに」
「生パスタを作って、ミートソースをあえたの。初めてだから、どうなのかなぁ」
「じゃぁ、冷蔵しておくね」
 料理を置いて、わたしは大船に向かう。
 大船仲通商店街。わたしがもっとも好きな商店街だ。とくに何かを買うわけではなくても、いつもひとが多くて元気がわいてくる。魚や野菜、果物が安くて新鮮なのだ。
 最近は、ドラッグストアとパチンコが大きな区画を独占するようになったが、まだまだ中心地を離れると昔からの小売店が頑張っている。
 昼時だったので、仲通商店街の入口にあるうどん屋に入る。
「運ど運や」
 暖簾に書いてある。ウンの間にドがあるから、ウドンなのだ。
 ドアをくぐったら、客がみんなわたしの方を見ていた。しかし微妙に視線が上を向いている。ドアの上にテレビがあって、そこでオリンピックを放送していたのだ。
 わたしはメニューのなかから、季節限定の「冷たいごまだれ極ほそうどん」を頼んだ。

 「冷たいごまだれ極ほそうどん」はつけ麺だった。
 このごまだれがとてもうまかった。うどんは、おなじみのこしのあるつやつや麺。ここの麺は小売をしている。飲食しないで麺だけを買いに来る客も多い。
 以前、日本酒の会を仲間としたとき、ここのふと麺を買って行き、最後に一口うどんを出したら、とても喜ばれた。
 食後は、仲通をひと歩きして大船駅ビルルミネの本屋で立ち読み。3時近くなったのを確認して、山崎に戻る。
 平日から、時間がゆっくりと流れている。
 夏の贅沢だ。
 銭湯「野田の湯」。入口の靴箱。75番をいつも使う。何だか縁起がよさそうだ。ときどきひとに使われている。そういうときは73番か77番にする。きょうは75番が空いていた。トランプよりも大きな75と焼印された木札をカバンに入れる。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
 ご主人の戸田さんがにっこりと笑う。450円を渡して、ロッカーの鍵を受け取る。
 3時開店の銭湯は、なぜか2時45分には客が入っている。シャッターの前でお客さんを待たせるのが忍びないという戸田さんの気持ちで、いつもよりも15分早く開店している。
 だから、3時に行くと、すでに洗い場では全身に石鹸の泡をまとったご老人が何人もいる。
 わたしは湯船を背中にした洗い場でかけ湯をする。正面の鏡に、背中側で入浴しているひとが映っていた。鏡の中のわたしを見て、細い目をさらに細めて笑っている。
 泥ちゃんだ。
 泥橋さん。にんにくを生で食べる超人。辛いものが大好きで、液体のタバスコを瓶のまま飲んでしまう。ことし定年だが、厳しい会社の命令でことしの最初は3ヶ月間の地方出向に耐えた。
 わたしは、振り返って、泥ちゃんに挨拶をする。
「やぁ、センセー、ご機嫌よう」
 こういうパブリックなところで、職業名を言うなっちゅうの。入浴しているひとや、洗体しているひとが、ほら、こっちを見るんだ。
「ずい分、ご機嫌なのは、そっちじゃないの。水曜から銭湯ですか」
 ご機嫌ようって、上品な方々がお別れのときに言う挨拶じゃなかったっけ。
 うーん、泥ちゃんの方角から、強烈なニンニク臭が漂ってきた。
「夏は仕事はお休みなの、いいのいいの」
「泥ちゃん、またにんにく、生で食ったでしょ」
 わたしの非難の目など、泥橋さんはまったく気にしていない。

 夏の銭湯は、噴き出した汗が乾くのに時間がかかる。団扇で何度も体を仰ぐ。髪の毛はバリカンで刈るほど短くしたので、ドライヤーをかけなくてもすぐに乾いてしまう。しかし、からだは次々と噴き出す汗があるので、そうはいかない。
 それでも、湿り気の多い湘南の風がべとっとからだにまとわりついていたので、風呂でそれらを汗といっしょに流すと、一瞬でも皮膚がサラサラになり、気持ちがいい。
 濡れたタオルを振り回しながら、野田の湯から関所に向かう。
「あー、喉が渇いたぁ。生をくださーい」
「はーい」
 わたしは、クーラーから冷えたビールジョッキを出して若女将に渡す。
 ビールジョッキは田中さんが自宅にあったものを持ち込んでいる。二つあるので一つを借用しているのだ。
「はい、どうぞ」
 冷たいビールがジョッキの壁にうっすらと汗をかかせる。唇をジョッキの淵にもっていき、こぼさないように、ごくごくと喉に流し込む。
「うー、うまい」
 この一瞬があるから、夏はやめられない。
 わたしは、奥に保管してもらっていた食堂の料理を取りに行く。自前の食器にそれらを盛りつける。きょうは初挑戦の生パスタだ。ソースは冷蔵庫にあったミートソース。
「はい、どうぞ」
 若女将に試食してもらう。
 表情が暗くなる。眉間にしわが寄る。
「センセー、これは食感が粉っぽくて、あごが疲れそう」
 あちゃー。確かに自宅で試食したとき、似たような感想をもった。それでもこれが生パスタかなぁと思ったのは勘違いだったかもしれない。
「生パスタっていうのがどういうのかわからないから、何とも言えないんだけど、これは売り物にはならないね」
「そっかぁ、どこが悪かったのかなぁ」
「これなら、乾麺で十分なんだけど。わたしは厳しいからね」
「いいんです、遠慮しないでください」
 その後も、自宅で何度か生パスタに挑戦した。粉っぽかったのは、伸ばし方が弱くて厚かったことが原因だった。薄く伸ばしたら、厚さが消えて、粉っぽさは消えた。ところが、薄く伸ばした生地を包丁で日本そばみたいに切ると、切り口からグルテンが出て、となりの麺とくっついてしまう。仕方がないから、どんどん沸騰した湯でゆでた。しかし、この方法だと、最初にゆでた麺と最後にゆでた麺とで時間差ができてしまう。
「これ、コシがないっすね」
 日本酒の会という仲間の飲み会で提供した。パスタが好きな若者の感想だった。そうなのだ、ゆで過ぎているから、コシがなくなっていく。
「俺、焼うどんかと思った」
 日本酒大好きの仲間にしてみれば、ちょうどいい肴になったようだった。

 木曜日。暑い夏の日差しが遠慮なく照りつける。
 空気にじとっと暑い湿気がまとわりついていて、それが腕やおでこなどに吸着する。少し歩くと、その湿気が集まって汗になる。
 タオルで拭いても拭いても、次々と汗が流れる。
 前週から妻は実家に戻っている。いつも、お盆の時期は実家の長野の伊那に戻る。ことしは昨秋に義母が亡くなったので、新盆を兼ねてやや早めに帰省した。
 娘と父は、わたしの妹が住んでいる伊豆半島の松崎町へふたりで泊まりに出かけた。美術家志向のふたりは、途中の美術館などを廻りながら、よく旅をする。父は、わたしも妹も美術には興味を示さなかったので、孫娘を連れ出すことに喜びを見出している。
 息子は、中央線の武蔵境の会社まで連日出勤している。10時に入社、午後7時に退社。しかし、7時に退社できる日はほとんどなく、いつも中央線で東京まで出て、東京駅最終の東海道線下りに座って乗り、大船まで帰ってくる。
 というわけで、昼間の時間は、我が家はハッピーとホックという2匹の猫とわたししかいなくなった。
 早朝から洗濯機をまわし、昨晩洗っておいた洗濯物は物干しに出す。クイックルワイパーを使ってフローリングを掃除する。炊事の片づけをする。ゴミの日を確認して、きょうのゴミを出す。二つあるトイレの掃除をする。
 家事はなかなか忙しい。
 そして、晴れの日が続いているので、玄関前、庭、ウッドデッキの植物に水をやる。
 びっしょり汗をかくので、シャワーを浴びる。
 夏の休暇を取っているのに、ちっとも休暇を楽しんではいない。
 それでも、いつもは仕事をしている時間に、家事や自分のことをやっていられるというのは、かなりリッチな気分になる。
 ラジオ代わりにつけているテレビでは、高校野球を中継している。グランドの選手もすごいが、スタンドの応援団は、あの熱気にどうやって耐えているのだろう。28度設定のエアコンでも、汗をかいているわたしは罰が当たるのだろうか。
 午後3時ごろに、野田の湯を出て、関所に立ち寄った。
「暑いねぇ」
 それしか言葉が出ない。
「もう朝から3度もシャワーを浴びちゃったよ」
 若女将が首に巻いたタオルでおでこの汗を拭く。
 冷えたジョッキに生ビールをもらう。
「今度、築地に行くので、この段ボールにちょっと注文を書かせて」
 わたしは、定期的に築地魚市場に買い出しに行っている。8月の買い出しが近づいていた。

 段ボールにマジックで、注文を書く。
「とりあえず、中落ちは3つね。それからサクが5000円分」
 関所マークを書いて、マグロの注文を書いた。
 マグロだけは、お店の仕入れの関係から、一週間前に電話で予約を入れる。毎日、セリではマグロを落としている。しかし、おなかを切ってみて当たりと外れがある。予約しておくと、もっとも当たったマグロの中落ちやサクを保管しておいてくれるのだ。
 自動ドアが開いた。
 額から汗を流す泥橋さんが登場した。
「あれ、泥ちゃん、早いじゃない」
「冗談じゃないよ、こんな暑くちゃ、仕事なんかやってられないっちゅうの」
 すでに、泥橋さんには数リットルのアルコールが入っている様子だ。
「また、休んじゃったんですか」
「センセー、人聞きの悪いこと言わないでよ。俺なんか、もうすぐ定年だから、有給があまっててさ。たくさん働きたくても、会社が、ヤスメーヤスメーってうるさいんだから」
 相変わらず、世界が自分中心に回っているらしい。
 わたしは無視をして、マグロの注文表を作成する。
「あれ、センセー、何やってんのよ」
 いろいろ説明するのが面倒なので、さらに無視をする。
「センセーね、ときどき築地に買い出しに行くのよ」
 やさしい若女将が、泥橋さんをフォローしてあげる。

「築地って、あの築地か。タコとかイカとか売ってる」

 それもあるだろうが、まずはマグロだろ。
「それで、みなさんからの注文を受けて、まとめて買って来てくれるのよ」
 酔っ払い相手に、とても手短に説明してくれて、ありがとう。どうせ、何もわかっちゃいないと思うけど。
「よし、その話、乗った」
 いや、乗らなくていいです。
「俺も、頼んじゃおうっと」
 そんな勢いで頼んでも、絶対に忘れるんだから。
「きーめた、きーめた。センセー、俺も注文してあげる」
 その言い方が気にくわない。

 泥橋さんは、右に左に揺れながら、わたしに近づいてくる。
「な、な、何ですか」
「だからさぁ、注文するって言ってるの」
 うー、にんにく臭い。
「いくつですか」
 少しずつ後退しながら、泥橋さんが30センチ以内に入らないように距離を保つ。
「いくつがいいかな」
「一袋、1050円です。だいたい800グラム。中落ちですよ」
「知ってるよー、それぐらい。中落ちって、一番うまいとこじゃん」
 たぶん、ミンチみたいになった粘土みたいなマグロをイメージしているのだろう。
「じゃぁ、3つちょうだい」
「3150円だよ。前払いです」
「えー」
 そう言いながら、ポケットのなかの小銭を探す。
「きょうは持ち合わせがないから、あしたね」
 そんなことだろうと思ったよ。
「わかりました。でももしも前払いをしてくれなかったら、買ってこないからね」
 実際にはそういうわけにはいかない。予約をしてしまうので、こっちがかぶらなきゃならない。そのときはそのときで、知人でほしいひとがいたら売ればいい。
 時計が5時になった。
「鳥藤に行ってきます」
 うんと若女将が頷く。鳥藤に築地の注文を聞きに行くことは、若女将にはわかっている。
「センセー、なに、これから焼き鳥かぁ。俺も行っちゃおうかな」
 行かなくていいです。
 こころで叫んで、背中で無視。
 天神下というバス停の向かいにある焼き鳥屋「鳥藤」。ママがひとりで切り盛りしている。
 もともと肉屋だったので、市場で買ってくる肉を見る目は一品だ。気に入った肉がないと買ってこない。
「お久しぶりです」
「いらっしゃい」
 ママは炭を起こしながら、笑顔で迎える。
「また、築地に行くので、中落ちをどうするかなっと思って」
「そうねぇ、2ついただこうかしら」
 起こした炭を脇に避けて、ママは封筒にお金を入れて渡してくれた。

 日曜日。きのうは雷と急な豪雨で嵐のような一日だったが、ふたたび入道雲がわく暑い夏に戻った。
 4時半に起きて、空を仰ぐ。早朝だというのに、もう体中にじっとりと熱気がまとわりつく。
 わたしは家の脇にずっと放置していた桜の幹を庭に運んだ。以前、家のとなりが駐車場だった。その中央に大きな桜の木があった。駐車場を壊して、宅地造成するときに、その桜の木も根こそぎ伐採された。造園のひとに頼んで、そのときの桜の木を50センチぐらいに切ってもらい、手に入れた。
 いつか、庭の腰掛けにしよう。
 そのときは気楽に考えていた。
 しかし、時間の経過とともに、その桜の存在を忘れてしまう。その結果、雨風にさらされ、内部はすっかりシロアリの巣となった。
「何とかしてほしいんだけど」
 家人に言われ、この夏に処分しようと思っていた。連日の猛暑で昼間に作業をするのは危険だと判断し、この日の早朝に決行することにした。
 幹の周囲をのみで削る。すっかり腐った桜の皮は、彫刻を削るように簡単にはがれていく。その皮のなかにたんまりとシロアリが巣くっていた。皮をはがし、芯の部分をのこぎりで切った。直径が30センチぐらいあったので手動ののこぎりで切るのは力仕事になった。
 全身が汗だくになった。
 シャワーを浴びて、朝からエビスを開ける。
 食堂の料理を作り、関所に運ぶ。大船に買い物に行き、昼食をとる。午後3時頃、野田の湯に行き、筋肉痛が始まりかけた腕をほぐす。
 この夏の日課をゆっくりと過ごしていく。
「こんにちは」
 風呂上がりのわたしは、額から汗が噴き出している。
「おぅ」
 大将がレジで迎えてくれる。
「生をお願いします」
 わたしは、クーラーから冷えたジョッキを出して、大将に渡す。
「まったくぅ、痛風まっしぐらだなぁ」
 それでも、汗をかいた後のこの一口がたまらない。
「あら、いらっしゃい」
 奥から若女将が登場した。家の仕事をして、店の仕事もこなす。商人の家で働くというのは、日常が忙しい。こちらの贅沢が申し訳ない。
 自動ドアが開く。
 お盆期間中なので、ふだんは顔を出さないような近隣の住民がビールや酎ハイを買いに来る。見たことのない若夫婦だ。
「信じられへん」
 わたしがジョッキで生ビールを飲んでいるのを見て、夫が驚く。
「酒屋かと思ったら、飲んでる」
「うちは、立ち飲みできるんですよ。お客さんもいかがですか」
 すかさず、若女将が情報提供をする。

 ふだんは、きっと坂の上に住んでいて、大船と家を往復するとき、関所は素通りしているのだろう。
 アルコールは買うだろうが、量販店に車で乗り付け、箱ごと買うのかもしれない。
 町の酒屋は、常連客が多く、見知らぬ若いひとがビール一本を買うのに寄るというのはあまりない。
 自動ドアが開く。
 また、知らない若夫婦が登場した。
 ビールの冷蔵庫の前で銘柄を確認している。夫が周囲で立ち飲みをしている客に気づく。
「ここで飲んでもいいんですか」
「どうぞどうぞ、座れませんが」
 レジで若女将が生ビールをふたりに注ぐ。
「いやぁ、以前からここを通るたびになかでみんな何をしているんだろうって気になっていたんですよ」
 妻がほほえむ。
 以前は、もう少し大船に近いところに住んでいた。最近、坂の奥にできた宅地に引っ越した。それで、ここを通勤のために通り過ぎるようになった。
 酒屋のはずなのに、なかでは陽気な笑い声や話し声がはじけている。不思議だなぁ。
「うちはねぇ、地域の方々が気軽に立ち寄れる店を目指しているんですよ。ここに来て、話して、少し元気になって帰ってくれたら嬉しいなぁって」
 若女将がここぞとばかりに宣伝を担当する。
「これ、どうぞ」
 食堂のメニューを提供する。きょうのメニューは蒸し野菜だ。
「えー、つまみもあるんですか」
 サービスの充実ぶりに、ふたりはとても驚く。
「あら、じゃぁわたしからも」
 奥に戻った若女将は、築地のいりこで作った肴を持参した。
「うわぁ、至れり尽くせりですね」
 ビールで上気した妻が感動する。
「お勤めはこの辺なんですか」
 だれともなしに、ふたりに質問が集中する。
「いえ、千葉なんです」
「えー、毎日、ここから千葉まで通勤しているんですか」
「はい」
 総武線を使えば乗り換えなしで行けるとはいえ、千葉は遠い。もっと職場に近いところに住むという選択肢もあるだろう。
「ぼくらは、ふたりとも、もともとここの人間ではないんです。でも、たまたまここに住んでみたら、とても住み心地がよくて、職場は遠いですけど、住む場所としてはここかなって」
 いえいえ、関所で立ち飲みをしたら、その瞬間から、あなたたちはここの人間になったも同然です。

 木曜日。朝から熱気が山崎の谷戸をくるんでいた。
 早朝5時半に、わたしは東京の築地魚市場に買い出しに出かけた。だいたい2カ月に一度、近所に住んでいる築地の師匠であるお母さんと娘さんと築地に行く。お母さんは60歳過ぎまで築地の仲卸として、マグロ専門店で魚臭い男たちに混ざって、卸のセリで冷凍マグロをせってきた経験がある。
 築地は、全国から良質の品物が集まる。それだけ東京は大消費地なのだ。地元ではどんなに良質でも値段が高くつかない品物でも、築地に送れば高く売れる。商品の流れは自然と地方よりも中央のほうが良質なものが集まるようになる。
 8月の買い出しは、生ものの保存が効かないので、知り合いからの注文が少なかった。
 関所からは中落ちとサク。ドクター佐藤からはジャコ。神崎さんからは海苔。鳥藤からは中落ち。そして、泥ちゃんこと泥橋さんの中落ちだった。
 6時半から2時間ぐらいをかけて買い物をした。わたしは、いつも築地で買うものがある。鰹節、ジャコ、海苔、千鳥酢、ハラペーニョソース、それに今回はハバネロとかんずりの合わせソース「雷」を買った。どれも保存が効くものばかりだ。千鳥酢は酢のものだけでなく、オリーブオイルと併用するとまろやかなドレッシングが作れる。近くのスーパーでは400ミリリットルで600円もするが、築地なら一升瓶で1000円だ。
 9時半には山崎に戻った。11時半ごろに関所に頼まれた品物を届けに行った。
 お母さんたちと買ってきたものでランチをして昼寝をした。
 夕方の4時半ごろに野田の湯に行く。5時過ぎに鳥藤に中落ちを届けた。
 甚平を着て、バリカンで頭を丸めたわたしの姿を見て、鳥藤の常連である花田さんが驚く。
「いやぁ、どうしたの。その頭」
「ちょっと出家しようと思って」
 鳥藤のママが「お疲れさまでした」と生ビールをサービスしてくれた。風呂上がりの一杯を喉に流し込む。
「あなたがいると、なんか華があるねぇ」
 それって、ほめられているのかな。
「なんちゅうか、後光が差しているみたいな」
「そんな言われると、照れちゃうよ」
 花田さんは、ずっと前から退職したらアマゾンにこもって生活すると宣言している。その前に宝くじをあてて、資金を稼ぐとも。しかし、まだ資金のめどがたったという報告はない。
「俺も、背中に懐中電灯をくくりつけようかな」
「それって、なに」
 ママがカウンターの向こうから突っ込む。
「後光だけに、あやかりたいと」
 わたしは、ジョッキを飲み干して立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「あれ、もう行くの」
 花田さんはもう少し話をしたそうだった。
「これからお布施を集めに行かないと」
 冗談を言って暖簾に手をかけた。

 金曜日。わたしは仕事を休んで日帰り温泉に行った。
 もうすぐ終わる夏を前に、からだの調子を整えておこうと思った。風呂からあがってくつろいでいると携帯電話に関所からの着信履歴があった。
 かけなおす。
「もしもし、何かありましたか」
 大将が電話に出た。
「おぅ、緊急事態、緊急事態発生」
 親父に何かあったか。
 でも、もしそうなら関所から電話があるとは思えない。
「もしもーし、センセーですか」
 声が大将から別人に代わっていた。
「はぁ」
「千代田ですよ、覚えていますか」
「えー、千代田くん」
「そうです、千代田です」
 わたしが教員になった1985年。葉山の小学校で最初に担任した4年2組の教え子だ。当時は10歳だったはずだから、もう40歳を目前にしているだろう。
 そういえば、フェースブック上でわたしが関所の話題を出したときに千代田くんが「何時からやっていますか」と質問をしたことがあった。あれは、自分が行くつもりだったのか。
「久しぶりだね」
「突然、こちらにお邪魔しました」
「あー、ごめん。俺はそっちに行けないんだ」
「えー、若女将から聞きました」
 どうやら説明してくれたらしい。
「いま仕事はどうしているの」
「江戸川なんですよ」
「え、住んでいるのは」
「いまも葉山です。小学校の近くに住んでいますよ」
「じゃぁ、きょうは大船で途中下車したわざわざ関所まで行ってくれたんだ」
「えーまぁ」
「でも、きょうの仕事はどうしたの」
「午後、休暇を取ったんです」
 とても申し訳ないことをした。
 再会を願って電話を切った。でも、その日の帰り道、この仕事のだいご味を味わっていた。教え子の自立を促すのがこの仕事の目的だとしたら、千代田くんの自立を達成させた気持ちがしたのだ。休暇まで取って、かつての担任の住む町を訪ねた。見知らぬ町だ。その見知らぬ関所という酒屋を探し出して、たどり着いた。しかし、そこには担任はいなかった。何らかの事情を説明して、生ビールを飲んだのだろう。
 ひとりで生きてゆく。その手助けは、教え子と担任の関係が終わってからも続くのかもしれない。

 晴れた土曜日。この夏の食堂最終日だ。
 月曜日からは仕事が始まる。日曜日は野球の試合で食事を作っている暇はない。
 だから、土曜日が最終日。
 わたしは、約3週間にわたって店の一角を食堂として提供してくれた関所にお礼をこめて、早朝から和出汁を作った。昆布、鰹節、どんこでそれぞれに作った出汁を合わせる。黄金色の液体だ。醤油の合わせ具合で味が作りかえられる。
 大きなペットボトルに関所用とたくさん野菜をくれた田中さん用を作った。
 キッチンに香りが立つ。携帯電話のバイブレータがふるえた。メール着信だ。

「おはようございます。私の方こそ、昨日は失礼しました。連絡してから伺えば良かったですね。でも、久しぶりにお話できて良かったです。ごちそうにもなり、関所の方々のご配慮に感謝です。おかげさまで、気持ち良く帰りました。改めて、ご都合の良い時に関所で飲みましょう。よろしくお伝えください。それでは、また」

 きのう関所を訪ねてきた教え子の千代田くんからのメールだった。
 りっぱなおとなになっていることが文面からわかった。
 わたしには、それだけで十分だった。彼の長い人生で、わたしがかかわったのは小学校4年生の1年間だけだ。10歳。たった1年間だけでも、彼の記憶に少しは残って、いまもつながりを維持してくれていることがわかった。
 それ以上は何も望まない。

 昼は大船で観音食堂に入った。
 いつもはラーメンなどで軽く済ますのだが、きょうはゆっくりできる最終日なので、ひとり暑気払いをしようと思った。
 カウンターに座る。読みかけの本を出す。
「生ビールとブツ、厚揚げね」
 顔なじみのお姉さんに注文した。
 ビールをちびちび飲みながら、本のページをめくる。聞くとはなしに、背中方向から客の話声が聞こえてくる。
「まったくさぁ、年金なんて、これっぽっちももらえないんだよ」
 どこにも年金受給に不満をもつひとがいるのだなぁ。
「それでも、これからの若い世代を考えると、まだ俺なんて60歳からもらえるから恵まれているんだけどさ」
 そうか、このひとは定年を迎えるのか。
 なんだ、自慢をしているのか。それなら小声でしゃべればいいのに。
「一日二万くれるバイトがあったら、嘱託なんてやんないんだよ」
 そんなバイトあるわけないだろ。
 あん、この声、この言い方、どこかで聞いたことあるぞ。同じことを飲み屋でしゃべって、みんなで総攻撃をかけた。泥ちゃんだ。まさかね。
 わたしは、ゆっくり後ろを向いた。
 座卓。熟女を前にして泥橋さんが演説をぶっていた。わたしに気づき、座卓に顔を埋めた。反対にお尻が見えた。
 たぶん、わたしよりも先にいたのだろう。わたしが気づかなかったのだ。

 観音食堂。
 わたしはひとり暑気払いを続行した。
 背中で泥ちゃんがどんなに自分の今後を嘆いても、一斉同調せず、参加せず、反応せず、ビールを飲み干した。
「あの、これ、あそこのお客さんからです」
 お姉さんが生ビールのジョッキをわたしに寄こした。
 あそこの、手を向ける先には泥ちゃんがいた。
 わたしは、片手をあげて礼をした。
 これは、熟女との密会を黙っていてくれという口止め料だと判断したのだ。
 江戸っ子の粋な心意気。わたしは江戸っ子ではないが。
 ひとしきりゆっくりしたので、観音食堂をあとにした。会計を済ませるときに、ちらっと泥ちゃんと目が合った。目礼をして店を出たが泥酔の泥ちゃんに伝わったかどうかはわからない。
 大船。
 駅ビル「ルミネ」の本屋で新刊本をチェックして、仲通を歩く。
 その足で、銭湯の野田の湯に行く。
 たっぷり夏の汗を流して、太陽が傾きかけた時間に関所の自動ドアをくぐった。
「こんにちは」
「まったく暑いしか言葉が出ないわ」
 若女将がクーラーの効いた室内でなおもうちわで首を扇いでいる。
「ビミソワーズを作ったの、食べてみる」
 ビシゾワーズは冷製ジャガイモスープだ。ビミゾワーズなんて料理は聞いたことがない。奥から若女将が器に入れた緑色の冷たいスープを持参した。わたしはスプーンでスープを口に運んだ。
 口の中で緑色のスープが広がる。豆の味がしたが、具体的な野菜の名前が出てこない。
「おいしいです」
 豆の甘みと旨みが塩味とマッチして、夏バテ防止に役立ちそうだった。
「さて、この野菜は何でしょうか」
「いきなりクイズですか」
「先生も食べたことがあるよ。春に」
 わたしには、まったく思い出せなかった。
 それは、農業を志す田中さんが、春に大量に関所に持ち込んだインゲン豆の一種類だった。

 商品名を「サクサク王子」というらしい。
 スナップエンドウのような豆かもしれない。食べたときの食感が、水っぽくなくて、しゃきっとしているから、名前がついたのだろう。
 そのサクサク王子をたくさん田中さんからもらった若女将が、料理の腕を発揮して作ったのが、冷製スープの「ビミソワーズ」だった。もちろん、ジャガイモの冷製スープ「ビシソワーズ」のもじりだ。
 いつも夏は暑いのだろう。
 しかし、ことしの夏はとくに暑いように感じた。年齢を重ねたせいかなぁ。
 そんなときに、一瞬の涼を呼ぶ若女将お手製のスープは、喉にやさしく体温を少し下げてくれたような気がした。
「そうそう忘れるところだった」
 わたしは荷物のなかから、ペットボトルを二本出した。
「けさ作った一番出汁です」
「え、いいの」
「ことしも食堂を開店させてくれたお礼です。いろいろとご迷惑をおかけしました」
「そんなこと、気にしなくてもいいのに」
「こっちは、田中さんへのです。もしも俺がいないときに来たら渡してください」
 8月後半の日暮れは少しずつ早くなっていく。
 まだまだ空気は熱気をまとって、ちょっと動くと全身から汗が出る。昔から季節は、少しずつ変化してきた。その少しずつの変化を日本のひとびとは柔軟に生活のなかで受け止めてきたのだろう。
 自動ドアが開く。
 仕事帰りのドクター佐藤さんが登場した。
「こんにちは」
 ゆったりとした歩みで、いつもの奥の冷蔵庫近くに荷物を置く。
「お久しぶりです」
 横浜の病院に勤務する佐藤さんは、休日や研究会の日を使って、福島や長野など遠隔地の病院に応援に行っている。
 いつもは秋田の高清水を飲んでいるのに、きょうは奥からほかの銘柄の一升瓶を持ち出してきた。
「築地のジャコを持って帰ろうと思って」
 そうだ、そうだ。まだ佐藤さんに買い出し荷物が届いていなかったのだ。
「今回はキロ4000円のがやや湿っぽかったので、佐藤さんがお好みの乾いていてうまみがしみ込んでいるもう少し安いのにしてきました。だからお釣りがあります」
 日本丸大という築地魚市場場内仲卸で小魚や干したものを専門で扱っている店で、わたしはいつもジャコを買う。そのジャコを以前に佐藤さんに紹介したら、すっかりお弁当の定番になって、いまでは家族が競ってお弁当に入れていくという。

 晴れた日曜日。きのうでこの夏の関所食堂は閉店していた。
 わたしは、早朝6時半に近所のマンション前にいた。いっしょに社会人野球チームを作っている諭吉さんが車に乗せてくれるというのだ。
 諭吉さんといっしょに作った野球チーム。名前は「爺(じじぃ)」。40歳以上のメンバーで作る壮年の部というカテゴリーに入っている。どう考えても読売ジャイアンツを意識したとしか思えないユニフォームの左胸に燦然と「爺」の漢字が縫いつけられている。試合の時以外では絶対に着たくない。
 試合は10時からだったが、練習をするという。
 近くの中学校の校庭を借りて7時から8時半まで練習をした。早朝とはいえ、校庭の温度は30度近かったのではないか。砂埃と汗が試合前のユニフォームを汚した。
 ふたたび諭吉さんの車で試合会場へ移動する。
 センターを守る。見上げると空は青く、雲がない。
 高校時代を思い出す。低空を赤とんぼがよれよれ飛んでいた。
 試合は6対3で勝った。体中の水分が失われてしまったのではないかと思うほど、汗をかいた。わたしは、次の試合の審判をするとい諭吉さんを残し、早めに帰るひとの車に乗せてもらい、関所近くで降りた。
「はぁ、行ってきました」
 自動ドアをくぐる。エアコンの冷気が気持ちいい。
「よ」
 大将が、レジからこちらを見る。
「野球をやってきました」
 汗しかしみ込んでいないタオルで頭や顔を拭く。
「よせよぉ、こんな炎天下に」
 中学時代や高校時代にスラッガーとして鳴らした大将は、炎天下の野球がどれだけつらいかを知っている。
「だって試合時間は向こうが指定してくるんだもん。それより生をお願いします」
「あーあー、痛風まっしぐらだぁ」
 冷えたジョッキを傾けながら、大将は呆れる。
 一杯目はほとんど水のように一気に飲み干してしまう。
「もう一杯お願いします」
「お前なぁ、少しは味わえって」
 この一杯が欲しくて、炎天下を耐えていたのだから。おっともう二杯目だった。

 ロンドンオリンピックは終わっていた。
 パラリンオリンピックが始まろうとしていた。
(16章・完)

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