go to ...かさなりステーション  坂の下の関所・一章  二章  三章  四章  五章  六章  七章  八章  九章  十章  十一章  十二章  十三章  十四章  十五章  十六章  十八章

坂の下の関所..十五章

 2011年暮れ。
 冬至が過ぎて、すっかり暗くなるのが早くなっていた。
「ただいまぁ」
 わたしが関所の自動ドアをくぐると、右側のレジに若女将。
「お帰りー。きょうも歩いて来たの」
「いや、寒いので電車です」
 藤沢の職場から関所まで歩いてちょうど一時間の道のりを、明るい季節は歩いて帰っていた。
「こんばんは」
 わたしは正面に日本酒やワインの棚を見ながら、右に折れ、レジ横のワンカップや焼酎が置いてある棚コーナーに荷物を置く。定位置だ。
 正面の棚の後ろ側は、塩やごま油などの調味料が並んでいる。その端に、30センチ四方のベニヤが置かれ、赤坂さんがコップに日本酒を注いでいた。注ぎながら、ため息をつく。
「あー、また病院に行かなきゃぁなんねぇ」
 会社の健康診断が数日前にあった。
 いつも結果はあまり良好ではない。再検査の指示が多いのに、行かない。
「前に再検査というから、病院に行ったのに、何でもないですよって言われたから、それ以来、行かないことにした」
 行かないのではなく、行かなくなったということを強調していたことがある。
 たしかに健康診断や人間ドックでは、再検査の指示があっても後日精密検査をすると異常なしということは少なくない。本当は喜ばしいことなのだが、ちょっと腹が立つ。赤坂さんの気持ちもわからないでもない。
「また結果が悪かったんですか」
 わたしは、奥の保冷庫から山口県の日本酒「山猿」を持ち出す。
「いつものことなんだけど、今回は医者がふたりもいて、必ず行ってくださいだって」
 そんなに悪いのか。
「糖尿だろ、血圧だろ、肝臓だろ。すぐにでも診てもらえってうるさいんだ」
 赤坂さんは、藤沢で息子さんと住んでいる。息子さんは横須賀で仕事をしているので、仕事が遅くなると職場に泊まってくる。結婚した娘さんは、藤沢市からは離れたところに住んでいた。ときどき実家に戻って、赤坂さんの身の回りの世話をするという。
 奥さんは、わたしが赤坂さんと知り合う以前に病気で亡くなっていた。
 息子さんが不在のときは、アパートでひとり暮らしになっていたのだ。飲みすぎて、帰り道に転んでけがをしたことは数度。休みの日には朝からほとんど何も喰わないでウイスキーの水割りを飲み続ける。そのため月曜日に飲みすぎで出勤できないことも数度。
 65歳前後だったと思う。

 月曜日。
 その日は、いつもの立ち飲みメンバーだけでなく、久しぶりのメンバーも交代交代で関所を訪れ、とてもにぎやかになった。
 ドアの向こうは冷たい風が吹き抜ける。しかし、関所のなかは忘年会のように盛り上がっていた。配達を終えた大将がレジの奥に座り、瓶ビールをラッパ飲み。妻である若女将が小腹の足しにとおかずを提供していた。おふたりにとっては週に一度の定休日前。気持ちが少し楽になった瞬間だったのだろう。
 そんな喧騒のなかを、いつの間にか赤坂さんは帰って行った。
 いつもは、帰り際に振り返り、立ち飲みメンバーを見渡していくのに。
「そんじゃ」
 その声を聞かなかった。
 あとで思い返せば、よほど健康診断の結果にショックを受けていたのだろう。あるいは、すでに何らかの自覚症状が出ていたのか。
 火曜日で2学期の給食が終了した。こどもたちに配った給食の残りを少しだけタッパーに詰めて関所に運んだ。それも年内は終了した。関所は火曜日で定休日。
 水曜日。仕事を休むときは会社だけでなく必ず関所に連絡する赤坂さんが無断で休んだ。
 そして木曜日。
 わたしは、いやな予感がしていた。
「ただいまぁ」
 関所の自動ドアをくぐる。赤坂さんがいつもいるはずの正面の棚の向こう側を見る。
 いない。
「おかえりー。きょうも休んでいるらしいの」
 若女将が、わたしの視線に気づいて、教えてくれた。
「らしいって」
「昼に、烏ちゃんがタバコを買いに来て教えてくれたの」
 烏丸さんと赤坂さんは、関所の前の首都スリーブで働いている。
「絶対におかしいよ。こんなに長く無断で休むひとじゃないもん」
 わたしは、以前、焼き鳥屋「鳥藤」のママが倒れているのではないかと、ドクターの佐藤さんと心配して走り回った。
 荷物を置いて、頭を回転させる。
「赤坂さんの娘さんの電話番号ってわからないかなぁ」
「ちょっと待ってね。えーと直接はわからないけど、彼、こないだ仙台のご親戚に進物を贈っているから、その送り状の写しが残っているはずなんだ」
 書類フォルダーをめくりながら、一枚の薄い送り状を引き出した。
「あ、書いてある書いてある。ここに電話をして聞きだそう」

 鎌倉から仙台へ。電話をする。
「あ、突然の電話でごめんさいね。わたし、鎌倉の酒屋の者なんですが、いつも赤坂さんにお世話になっているんですよ。それが、ここ数日、会社にも店にも顔を出していないので、心配になってお電話しました。いつもは休むときは必ず電話をくれる赤坂さんが、何の連絡もしないので。えー、はい、何度かご自宅に電話をしたのですが、どなたもいらっしゃらないみたいで。息子さんは仕事が忙しくて、職場に寝泊りをしていると赤坂さんが言っていたような気がします。はい、それでね。大変申し訳ないのですが、娘さんの連絡先を教えていただけたらと思って電話を差し上げた次第です。ごめんなさいね、びっくりなさったでしょう。あ、はい」
 どうやら、先方は電話を信用してくれたらしい。受話器をもつ若女将が右手にペンを持つ。
「はい、はい、はい」
 電話番号をメモする。
 数分後、今度は教えてもらった電話番号へかけ直す。
「もしもし、わたし、鎌倉の酒屋の者なんですが」
 若女将は、事情を説明し、電話をかけた理由を話す。しばらく、無言で相手の話を聞いていた。表情が強張る。
「わかりました。くれぐれもお大事にと娘さんにお伝えください」
 静かに受話器を置いた。
「どうだったの」
 わたしは、いやな予感が当たっていないことを祈った。
「電話の相手は娘さんの旦那さんだったの。さっき赤坂さんと同じアパートの方から電話があって、何日も新聞がたまっていて不審に思ったんだって。そんなことはしないひとだから、ちょっと様子を見てあげてって。それで、すぐに娘さんがアパートに行ったら、倒れていた赤坂さんを見つけて、いま救急車で病院に運んだって連絡があったって」
 倒れていたってどういうことか。救急車が運んだということは、少なくとも最悪の事態は避けられたのだ。救急車は生きているひとしか運ばない。
「きっと詳しいことはこれから病院で明らかになるんだろうね。でも近所のひとが気づいてくれてよかったぁ」
 わたしは、全身の力が抜ける思いだった。
「それから、意識はあるって」
 意識不明になると、極端に生命を維持する能力が落ちる。倒れたからだで、必死に生きながらえようともがいていたのかもしれない。ただし、いつ倒れたのかが、今後の回復への分水嶺になるだろう。
 もっとも最悪なのは月曜の夜からだった場合だ。発見されたのが水曜の夕方。丸二日間近く倒れたままだったとしたら、動けない理由によっては後遺症が心配だ。

 冷たい床に横たわりながら、赤坂さんは二日間も何を思っていたのだろうか。
 その数日前に、会社の健康診断の結果が届き、たくさんの再検査に力をなくしていた。
「いらっしゃい」
 若女将は、気持ちの整理をつけながらも、何も知らないお客さんへの対応に追われる。いつも仕事帰りに寄る大工さんだ。いつもと同じタバコとビールを買っていく。
 わたしは、差し入れの入ったタッパーを器に開けて、空になったタッパーを道路に面した流しに持っていく。軽くゆすいでおくと、家に帰ってから洗うときにラクなのだ。
 タッパーを洗って、関所に戻ろうとしたら、さっきの大工さんが神妙な顔でこちらを眺めている。
「いつものあんちゃん、最近見ないけど、どうしたの」
 冬でも真っ黒に日焼けしている彼が、わたしに話しかけたのは初めてだった。
「あんちゃんって」
「ほら、奥でいつも酒を飲んでいる」
 あー、そういえば、大工さんが帰りに立ち寄ると赤坂さんは必ず「ごくろうさん」と声をかけていた。
「赤坂さんのことですね」
「そういう名前なんだ」
「はい」
 わたしは、いま知ったばかりの事実をどこまで話していいものか、瞬時迷う。
 とても個人的な話だ。それを見知らぬひとに話したら、赤坂さんは困るだろうか。いや、赤坂さんにとって、彼は見知らぬひとと言い切れるのか。
「じつは」
 心配してくれているひとに、隠し事をするのはよくない。わたしは彼を信じて、倒れて病院に運ばれたことを話した。
「そっか」
 小さくつぶやいた大工さんは、ヘルメットをかぶった。
「いつも、ここによると彼が声をかけてくれていたんだ」
 ヘルメットのなかから、くぐもった声が聞こえた。赤坂さんのかける「ごくろうさん」の声が、大工仕事を終えて帰宅する彼の疲れを癒していたのかもしれない。
 わたしは軽く会釈をして関所に戻る。彼はバイクのエンジンをかけた。
 タッパーをティッシュで拭いていたら、自動ドアが開いた。
「いらっしゃい、あら、いまお帰りですか」
 わたしよりも背が高い宇佐斗さんが、風呂上りの湯気を漂わせて登場した。
「こんばんは」
 わたしは、何を飲もうか考えている宇佐斗さんに挨拶をした。その声が聞こえているのか、宇佐斗さんは、あごをやや突き出しながら会釈を返した。

 宝焼酎のワンカップと黒ホッピーをもって、宇佐斗さんは若女将にお金を払う。
「これを飲んだら、黒ビールなんて飲めなくなるよ」
 日本酒ばかり飲んでいると、肝臓の値が悪くなるので、なんとかノンアルコールで喉ごしさわやかにと思って、以前、ホッピーをストレートで飲んでいた。いつの間にか、黒ホッピーが入っていた。
「黒ホッピーって珍しいですね」
 頭髪を全部剃った宇佐斗さん。いわゆるスキンヘッド。お寺に関係はないが、ときどき街で見知らぬひとに手を合わせられるという。その頭頂部を右手でポンポンと叩きながら目を細める。
「ここにホッピーがあったから、若女将に黒ホッピーも入れてってお願いしたんだよ」
 生ビールを入れる大きめのプラスティック容器にドボドボと宝焼酎を入れる。そこに、黒ホッピーを勢いよく注ぐ。ジュワーッと泡が湧き起こる。まるで黒ビールだ。
「ほら、あなたもちょっとやってみなよ」
「ありがとう、いただきます」
 わたしは小さめのコップを差し出す。宝焼酎が半分も入ってしまった。
「えー、こんなにいらないのに」
「ま、いいからさ」
 黒ホッピーが注がれる。乾杯。
 口にした焼酎の黒ホッピー割りは、たしかに黒ビールのような飲み口だった。さらに黒ビールのようなまとわりつく甘さや香ばしさはそんなにしない。
「あら、これ、飲みやすいですね」
 目を細めて、宇佐斗さんは小刻みに頷いた。
「そういや、オタクの娘さんのことを倅に聞いたら、よく知ったいたよ」
 以前、互いの家族の話になったとき、偶然にもこどもどうしが小学校や中学校の同級生だったことがわかった。じゃぁ、こどもに知っているかを聞いてみようとなったのだが、わたしはすっかり忘れていた。
 それにしても、宇佐斗さんはわたしのことを「あなた」だったり「オタク」だったり、異なる代名詞でどうして呼ぶのだろうか。ひとの名前を覚えるのが苦手なのか。
 いや、そんなはずはない。いまは休職中だけど、そもそもタクシー運転手なのだから、お得意さんも含めて、お客さんの名前は仕事がら覚える必要があるはずだ。
「センセー、今度、築地に行くんだってね」
 あら、センセーも代名詞扱いだ。
「はい、よく知っていますね」
「だって、ほら」
 彼が指差した先には12月のカレンダー。そこにはわたしの手で「築地」の文字が買出し予定日に書かれていた。

 わたしは、2ヶ月に一度ぐらいの割合で、築地に買出しに行く。
 築地、正確には東京都中央卸売り市場築地市場。魚介類が有名だが、青果部もあり、九州から完熟マンゴーも届いている。
 市場周辺には、おもに寿司屋を中心にした鮮魚中心の飲食店が軒を連ねる。魚屋も多い。いわゆる場外市場だ。
 多くの観光客は、場外のお店で何時間も並んで握り寿司を堪能する。それが「築地に行った」ことになる。
 しかし、わたしは仲卸が業者に販売する市場内で直接の買い物をする。場内と呼ばれるエリアでの買い物をする。
 全国から築地には、季節の旬のものが集まる。そして、年間を通じて、よいものが、とても安い。そもそも卸売りなので、ここで高値がついたら、魚屋の店先に並ぶときには庶民には手が出せない値段になってしまう。
 築地に行くようになって、もう10年近くになると思う。
 最初は自宅用の買い物をしていたが、少しずつ知り合いから注文を受け、それらも買ってくるようになった。
 12月下旬、この年の最後の買出しを予定していた。すでに関所に集まる佐藤さんやカンちゃん、山ちゃん、そして若女将から注文を受けていた。とくに手間と時間を必要とするマグロの中落ちは事前の電話予約が必要なので、注文は締め切っていた。
「わたしも、お願いしようかなぁ」
 宇佐斗さんは、注文すれば、簡単に品物が届くとでも思っているかのように気軽に言う。
 別に、わたしがお願いして注文を集めているわけではないので、お願いされなくてもいいのだが。
「いや、そんな無理に注文しなくてもいいんですよ。宇佐斗さんは、食べ物にこだわりがありそうだし」
 それとなく、お断りの打診をする。
「そーだなぁ」
 わたしが、若女将に渡した注文書の一覧に目を通している。まったく、わたしの言葉は耳に届いていないらしい。
「庄内のマダラって入るかなぁ」
 食べ物の話をするときの宇佐斗さんの目は、ふだんの半分ぐらいに細くなって幸せそうな表情になる。
「近海ものを扱う小畑さんという魚屋さんに聞いてみないとわからいないです」
 一応、注文者のリストに宇佐斗さんも加えてあげることにした。
 首都高速道路は順調で、築地本願寺周辺には、6時に着いた。
 毎年、暮れの買い出しは駐車場渋滞があるので、いつもよりも30分早く出発している。それでも、築地入口の信号から渋滞にはまった。
 予想以上に、早く帰る業者の車があったので、駐車場にはスムーズに入ることができた。
 おもに、関所に立ち寄るひとたちから受けた注文を次々と買い求め、9時には買い物を済ませた。鎌倉には10時過ぎに戻った。
 今回の買い出しでは、シンロートの社員、山ちゃんこと山田さんから大量の注文があった。マグロの中落ちや無頭冷凍海老などを、山ちゃんが指定した大船の立ち飲み屋に運んだ。昼過ぎの仕込みの時間に、大きな発泡スチロールを抱えて、ドアを開けた。
「こんにちは」
 間口は狭いが、奥行きのある店だった。立ち飲みと言いながら、カウンターにはバーの止まり木があった。
「あの、山ちゃんから頼まれていたものを運んできました」
 店主と思われる初老の男性に声をかける。
「そこのテーブルに置いておいて」
 そのとき、水洗トイレが流れる音がして、山ちゃんがトイレから出てきた。
「あー、センセー。ありがとう」
 ふだん見かける山ちゃんは夕方6時以降だ。仕事を終えてから会うのだから当然だ。こうやって、土曜日の昼間に明るい店内で会うと、何だか恥ずかしい。
「じゃぁ、俺、行くから。なかに伝票とおつりが入っているので、わかんないことがあったら、関所で言ってください」
「あいよ」
 もう山ちゃんの額は赤くなっていた。荷物が届くのを待って、飲んでいたのだろう。
 たしか、山ちゃんの家は相鉄線沿線のはずだ。なのに、休みの日に大船まで出てきてくつろげる店があるというのは、驚きだ。
 わたしは、仕事に就いたときから、仕事場の近くではあまり飲食をしないようにしていた。自宅に近いところまで戻ってきて、ほっと一息するタイプなのだ。仕事場の近くで、飲んでしまうと、きっと家に帰れない自分が想像できた。
 いったん家に戻る。朝からの疲れを取るために腰湯をした。
 午後5時に関所に行く。ちょうど、ドクター佐藤が築地の荷物を受け取るために関所に到着した。
 お歳暮を買いに来るお客さんが増えるので、立ち飲み客がうろうろしていると迷惑をかけるからだ。ちょうど、シンロートや首都リーブスのような近くの会社が御用納めになって、仕事帰りに関所に寄る仲間がいなくなる時期とも重なる。
 しかし、わたしが関所で長居をするようになって、自宅が関所近辺にある仲間も、立ち飲みをするようになった。このひとたちは、暮れのほっと一息を関所で過ごすことができない。そんなとき、年末、ぎりぎりまで営業しているバス停前の焼き鳥屋「鳥藤」は憩いの場所になる。
 わたしは、関所の奥の冷蔵庫から鳥藤のママに頼まれた築地からの品物を運び出す。
「これから、鳥藤に荷物を運びます。佐藤さんも行きますか」
 足下に築地の品物を置いたまま、佐藤さんは考える。
「新鮮なままうちに持って帰った方がいいか、ちょっと一杯飲んで帰った方がいいか、迷うなぁ」
 佐藤さんは、右手で頭をなでながら悩んでいた。
「誘っておいて申し訳ないけど、鮮魚を買ってきた身からすると、一刻も早く家の冷蔵庫に運び入れてほしいです」
 わたしは、念を押す。
「やっぱ、そう」
 なんだ、わかっているのに、言ってみただけか。
 ふたりでバス停まで歩く。
「まだしばらくはこっちに来るんですか」
 佐藤さんの家は、ここからバスで7個ぐらい先なのだ。大船駅から途中下車しないでまっすぐ帰った方がずっと早い。でも、いつも関所や鳥藤に顔を出す。
「もう少し仕事があるので、たぶん来ると思います。でも、関所は休みだから、焼き鳥屋です」
 厳密には休みではない。関所は酒屋としての使命を果たすために、年末の大忙しモードに入るのだ。そのため立ち飲みという「行為」が休みになるのだ。
「じゃぁ、まだ年内は鳥藤で会えるかもしれませんね」
 ちょうど大船から京浜急行バスがやって来た。軽く手を振り、わたしは佐藤さんと別れて道路を渡る。
 3月に大きな地震があった2011年。もう少しで、終わろうとしている。来年以降は、2011年は過去になる。本当に過去にしてしまっていいのだろうか。震災で大きな被害を受けたひとたちは、復興の名の下に、安心した年末を迎えようとしているのだろうか。
 小さくなっていく佐藤さんを乗せたバスの背中を見ながら、ため息をつく。
 わたしは、関所近くの銭湯「野田の湯」に行く。午後3時から開店なのだが、なぜか3時に行くともうからだを洗っているひとたちがいる。高齢の方々なので、服を脱ぐのに時間がかかるはずだ。銭湯に通う高齢のひとは、しゃきしゃきしていて、さっさと服を脱ぐことができるのか。いや、そんなことはない。パンツを脱ぎながらバランスを崩し、倒れそうになったひとをわたしは支えたことがある。だから、公式発表は午後3時開店だが、実際にはそれ以前にシャッターを開けているのだろう。みんな一番風呂に入りたくて、開店前から来ているのだ。
 鎌倉市内には、銭湯は4軒ある。材木座の「清水湯」。大船の「ひばり湯」。富士見町の「常楽湯」。山崎の「野田の湯」。4軒の銭湯のうち、清水湯を除く3軒は大船地区に集中している。わたしは、自宅から歩いて野田の湯に行けるが、となりに座ったおっちゃんと話をすると、腰越とか深沢など遠方から車で銭湯に来ているひとが少なくない。
「いいなぁ、あんちゃん。歩いて帰れるのか」
 おっちゃんの多くがうらやましそうにつぶやく。以前は、それぞれの地区に歩いて通える銭湯があったのだろう。しかし、どこの家にも内風呂が普及して、地域の銭湯は廃業したのかもしれない。だから、内風呂が普及しても、銭湯が残っている地域は貴重だ。そこの地域には内風呂がない家庭が多いわけではない。内風呂があっても、あえて450円も払って銭湯に行く精神的に裕福なひとたちが多いのだ。
 ということにしておこう。
「こんにちは」
 わたしは入口の自動ドアをくぐって、番台に450円を置く。
「いらっしゃい」
 だみ声のご主人、戸田さんが迎えてくれる。戸田さんの長男は、わたしの中学の先輩だ。同じ野球部の先輩だ。上下関係が人間関係を規定していたかつての体育会系野球部では、先輩と後輩の関係は殿様と家来のように厳しかった。だから、いまでも犬の散歩をしている長男の戸田さんに会うと、緊張してしまう。いまは銭湯の従業員という立場だ。しかし、先輩の父親にあたる戸田さんとは、無関係なので、緊張することはない。
「冷えますねぇ」
 番台に置いてあるロッカーのキーを受け取る。
 着脱場では、きょうも高齢の方々がゆっくりと服を脱いでいる。風呂場を見ると、まだ3時から数分しか経っていないのに、もう湯船に浸かっているひとやからだを石鹸の泡まみれにしているひといる。
 いったい、何時に来ているの。
 わたしは、ロッカーキーの番号を見て、同じ番号のロッカーの扉を開ける。着替えや貴重品を入れる。
 となりでパッチを脱ごうとしている高齢の方が片足立ちで裾を払おうとしてバランスを崩す。
「おっと」
 わたしは、倒れ掛かる肩を支える。
「わりいねぇ、あんちゃん」
 いえいえ、当然のことですよ。
っていない椅子や洗面器があるからだ。
 湯船に近い洗い場に、液体シャンプーと固形石鹸とかみそりを置く。かけ湯をして下半身を洗う。ときどきかけ湯も、下半身洗いもしないで、すぐに湯船にどぶんというひとがいる。不潔、不衛生きわまりない。たいがい、そういうひとがいると、湯船に入っているひとがいやな顔をするが、口に出して注意をすることは少ない。
 まずは、日替わり湯に腰まで浸かる。ここは毎日すべての湯を交換しているので、一番風呂を目指すひとたちの人気が高い。きょうは「ゆず」だった。温度計は40度をさしている。湯から出ている部分にじっとり汗が噴き出す。今度は肩までゆっくり浸かる。頭のてっぺんからスーッと汗の雫がおでこに降りてきたら、いったん出て、小休止。
 次に、寝湯に入る。こちらは広い浴槽になっていて、電気風呂、寝湯、超音波風呂がセットになっている。眉間に皺を寄せて電気風呂で格闘しているひとがいた。わたしは寝湯にからだを横たえる。ここの温度計は50度近くをさしている。かなりの高温なので、水で薄める。どんなに水で薄めても、温度が下がればふたたび熱水を加えるようにできているので、水を入れることに躊躇はいらない。
「はぁー」
 思わず、声が漏れる。一年の疲れがどーっと毛穴から抜け出ていく。
 全身の皮膚の表面がぶよぶよし、古い角質がはがれようとし出したら、湯から上がる。
 洗い場で、髪の毛から洗う。次に石鹸を泡立ててひげを剃る。最後にタオルに石鹸をつけてからだを洗う。わたしは家では、泡立てた石鹸を手に盛って、そのままからだを洗っている。石鹸は必要な油分まで落としてしまうので、タオルでごしごしということはしないようにしている。しかし、銭湯ではなぜだかタオルで隅々まで石鹸の泡を塗りたくってしまう。
 たぶん、深い理由はない。
「ここ、空いてますか」
 となりに来たひとがいう。
「どうぞどうぞ」
 顔も見ないで、返事をした。
「本日は、ご利用いただきありがとうございます」
 はぁ?わたしは鏡に移った隣客を見た。そこには宇佐斗さんがいた。
「あれ、宇佐斗さん。そっか、いつも来ているんだもんね。でも、きょうは早いんじゃないの」
 関所で飲んでいると、いつも風呂上りの宇佐斗さんが登場することを思い出した。宇佐斗さんは、内風呂があるのに、毎日銭湯に通う精神的に余裕がある種類のひとたちのひとりだ。
「冬はね、畑に行ってもすることがないから、きょうはずっと家で読書をしていたの」
 ときどき見知らぬひとが手を合わせて拝むという、宇佐斗さんのスキンヘッドを見ながら、これならシャンプーはいらないだろうなぁと想像した。
 宇佐斗さんも、同じ風呂に入ってきた。
 ドアをくぐって、30代の若者が入ってきた。近くのアパートで一人暮らしでもしていそうだ。その若者が、かけ湯をしないで、日替わり風呂に入ろうとした。
「あんちゃんよ、股の垢を落としてから入ってくれよ」
 宇佐斗さんの檄が飛ぶ。若者は、一瞬怪訝そうに目を細めた。しかし、汗粒が光るスキンヘッドに恐れをなして退散する。
「まったくよ、親は何を教えてるんだか」
 彼が風呂に入ってきたら、わたしは宇佐斗さんみたいに注意を与えただろうか。いやな気持ちになりながらも、見て見ぬ振りをしたかもしれない。風呂場のご意見番、宇佐斗さんは貴重な存在だ。
「若いやつぁ、まだいいよ。こないだなんか、いい年した爺が、こきたないもんぶら下げて、そのまま入ろうとしたから、ふざけんなって脅してあげたよ」
 そのおじいさんは、心臓が縮み上がったかもしれない。
 悪いことは悪いと、ズバッと言う。
 かつての町には、その機能があった。たとえ知り合いではなかろうとも、やってはいけないこととやっていいことの違いを、町のひとびとが共有していた。しかし、いつからか、こちらが注意をしても、逆切れされて、ひどい仕打ちにあってしまうような時代になった。そうなると、ひとはトラブルを恐れて、他人との境界線をくっきりと引いてしまった。
 だから、宇佐斗さんのように、高らかにその境界線を越えていくひとの近くにいると、気持ちがいい。スカッとする。
 そういえば、関所で世話になった赤坂さんも、だれかれとなくお客さんに声をかけていた。こどもにも、おとなにも、分け隔てなく声をかけていた。タバコを買いに来た仕事帰りのひとには、必ず「お疲れ様」と背中に声をかけていた。
 宇佐斗さんは、わたしよりも後に風呂に入ってきたのに、さっさと上がってスキンヘッドにかみそりを当て始めた。毛が抜けたわけではないので、まめに剃らないとどんどんひげみたいに生えてくるのか。意外と手間がかかりそうだ。
 野田の湯には別料金でサウナがある。日帰り温泉のような大きなサウナではない。テレビもない。ときどき利用しているひとがいる。
 大きな木の扉を開けて、サウナに入ってきた「おあにいさん」が登場した。背中に絵が描いてある。日帰り温泉は、からだに彫り物のあるひとや、シールを貼っているひとの来店を断っている。しかし、銭湯は基本的にだれでも受け入れる。
 おあにいさんが、からだの汗を両手でぬぐって、あたりに散らした。その散らした汗が、かみそりでスキンヘッドを剃っている宇佐斗さんの背中に飛んだ。
 やべぇぞ。
 鏡に写る背中のおあにいさんを宇佐斗さんが確認する。背中に絵が描いてあるおあにいさんは、自分の汗が宇佐斗さんの背中に飛んだことなど気づいていない。きっと気づいていても、なんとも思わないのだろう。
 そのまま、どぶんと水風呂に飛び込んだ。
 宇佐斗さんの堪忍袋の緒が切れた。振り返りざま、罵声を浴びせる。
「てめぇの汗が俺の背中に飛んだんだよ、おらおら、流せや。それになぁ、水風呂に入る前には汗を流してから入るんだよ。何にも知らねぇのか、おんどりゃ」
 おあにいさんは、負けてはいない。こういうときのために、日々、覚悟を決めているのだろう。
「なんだとぉ」
 水風呂から飛び出すや、宇佐斗さんに歩み寄る。
 ふたりの大声が、銭湯全体に反響する。たぶんとなりの女風呂にも届いているだろう。さっきまで、大声で聞こえていたおばちゃんたちのおしゃべりが沈黙している。
 扉が開いて、野田の湯の女将がモップを持って登場した。
「ふたりとも、何してんのよ」
「こいつが、俺にけちつけんだよ」
 おあにいさんがすごむ。しかし、ちょっと言い訳がましい。仁義なき世界のひとたちは、いちいち理由など言わないのではないか。
「あー、いいところに来てくれたぁ。このあんちゃんが、大事な大事なお客さんたちに迷惑をかけていたから、やさしく注意申し上げていたんです。そうしたら、かっとなって、暴力をふるってきて」
 宇佐斗さんの声は、さっきまでと異なり、いまにも泣きそうな小市民の声になっていた。
「ほんとなの、あんた。彫り物があるからって、いきがってんじゃないよ。何だったら、警察呼んでもいいんだよ」
 おあにいさんは、たぶん年齢は30代だろう。いきがってはいるが、修羅場の踏み方は少ないかもしれない。警察という言葉を聞いて、ややしゅんとなる。
「いや、暴力なんて、なんにも。ねぇ、みなさん、そうでしょ」
 急に周囲にいるわたしたちに援軍を求める。さっき、宇佐斗さんにかけ湯をしないで怒鳴られた若者が、どうしたらいいものか困っている。
「あ、そうだ。そろそろ出ようと思っていたんだったっけ。それじゃ」
 おあにいさんは、やや肩を落として背中を丸めて風呂場から出て行った。その背中を女将が追う。着衣場で、女将がおあにいさんに説教をしている。ドアが閉められて聞こえない。
 シナリオのある演劇みたいだった。日替わり風呂から出て、宇佐斗さんのとなりに座る。
「びっくりしました。まるで、ドラマみたいでしたよ」
「バッパとは、いつもこうして役割分担しているの」
「バッパって、だれですか」
「ここの女将だよ」
 ちゃんとシナリオのある演劇だったのだ。
 きのう、銭湯であたたかったからだは、夜になっても冷えることなく、むしろ羽毛布団では汗をかいたほどだった。
 着脱場で服を脱いでいると、宇佐斗さんが風呂場から出てきた。
「あれ、きょうは遅いじゃないの」
「いや、別にそんなことは」
 いつも決まった時間に野田の湯に行く宇佐斗さんにしてみれば、時間を決めていないわたしの行動は、不思議なのかもしれない。
 かけ湯をして下半身を洗い、日替わり風呂で腰湯をする。ちょうどお客さんが少ない隙間の時間になった。広い風呂場が自分ひとりのための貸しきり空間になる。これなら450円は高くないかもしれない。
 となりの寝湯や超音波風呂にも行ったり来たりする。電気風呂には関心があるが、なかなか勇気が出ない。肩こりがひどかったときに、接骨院で電気治療をしたときの緊張した記憶がこびりついている。
 水風呂にも入る。サウナ客に迷惑をかけなければ水風呂も入っていいのだ。
 たっぷり時間をかけてお湯で古い角質をふやかして、からだを洗う。
 1時間ぐらい入浴して、出た。服を着ていると、番台のほうから大きな声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だ。
 ありゃぁ、宇佐斗さんの声だ。
 わたしが来たときに出たのだから、ずい分長い時間、帰らないで番台で世間話をしているようだ。からだが冷えないのだろうか。
 わたしは着替えて、ロッカーの鍵を番台に返しに行く。
「ありがとうございました」
「はい、どうも」
 女将が番台に座っている。
「おぅ、センセーもこっちにおいでよ」
 番台の奥に、カタカナのコの字をしたようにソファが設置されていた。中央に小さなテーブル。そこにはカップの焼酎とホッピー、さきいかが乗っている。宇佐斗さんは、風呂から出てからかれこれ1時間も、ここで女将を相手に飲んだくれていたのだ。
「ここで酒を飲んでいいんですか」
 小声で質問する。
「いいもなにも、飲んじゃってるんだから」
 答えになっていない。ソファの横に、牛乳やジュースを冷やしている小さな冷蔵庫があった。壁が透明なガラスなので、なかが見える。その一番下の段に、レジ袋があった。宇佐斗さんは冷蔵庫のドアを開けると、そのレジ袋を取り出して、なかから新しいワンカップの焼酎とホッピーを取り出した。
「え、これって宇佐斗さんのキープなんですか」
 宇佐斗さんは、目を細めて、小さく頷いた。
 わたしは午前3時半に起きた。
 大晦日に作っておいた昆布出汁とどんこ出汁を取り出した。沸騰した湯に鰹節を入れて、出汁を作る。冷めたら、昆布出汁とどんこ出汁にくわえて、一番出汁にした。
 それを基にしてお雑煮の汁を作る。鶏肉・大根・人参を入れて、酢・醤油・酒・塩で味付けをした。早朝のキッチンに、和風出汁の落ち着いた香りが漂った。
 築地に買い出しに行くメンバーと6時に待ち合わせて八幡宮へ初詣に行く。例年は、徹夜で盛り上がってきたひとたちが家路に着く時間なので、横浜や東京から電車で初詣に来るひとたちとの隙間で境内はひとがいない。しかし、ことしはいままでよりも多くのひとがすでに参拝に訪れていた。
 8時前に自宅に戻り、となりに住む親父に挨拶に行く。
 午前中は、だらだらと実業団駅伝を見ながら、お雑煮やおせち料理を肴に日本酒を飲む。
 14時からボウリングをした。親父たちのソフトボールチームのメンバーで、深沢の湘南ボウルに集合した。ボウリングは1時間で終了。15時からボウリング場に併設している居酒屋風ファミレスで新年会。さらに夕刻には大船に行き、メンバーが馴染みのスナック「鎌倉」で飲む。煮しめやおせちなどの正月料理が登場した。カラオケで歌いまくる。帰り道、「天龍」でラーメンを食う。どこをどう歩いたのか、だれがいくら支払いをしたのか、まるで覚えていない状態で、家にたどり着いた。
 らしい。
 そのまま、風呂には入らないで寝る。
 坂の下の関所は、元旦から3日まで連休。いつも毎週火曜日しか休みがないから、大将や若女将にはゆっくり心身ともに休養を取ってほしい。年末に聞いたところでは、お子さんたちにプレゼントされた新潟の温泉旅行に行くと言っていた。
 正月2日。曇りの月曜日。5時に起床した。小雨が降る。6時に鎌倉をウォーキング。前日よりも人出が少なかった。駅前のベッカーズでホッとドックを食べた。こういうチェーン系のお店は気軽だが気楽にはならない。都会のなかで「ひとりぽっち」を意識してしまう。
 多くの知り合いとわいわい言い合いながら、立ち飲みをする関所の存在が大きい。
 帰宅して、箱根駅伝をラジオで聴きながら仕事をする。午後は、大船で本を買う。ことし最初の銭湯、野田の湯に行く。
 なんと、やっていなかった。
 誕生日。49歳になった。晴れた火曜日。
 4時に起床した。6時にウォーキング開始。鎌倉にはまだ初詣のひとがいた。海岸からの帰り道はいつもと違って源氏山公園を経由した。
 箱根駅伝は東洋大学が大会新記録で総合優勝した。往路の柏原選手が超人的な山登りをした。
 毎年、この日は自宅で食事会をする。1月に誕生日を迎えるわたしと妻、妹の夫のお祝い、年賀のお祝い、去年できなかった娘の成人のお祝いなど、理由はたくさんあった。
 この日のために暮れに築地市場に買い出しに行っていた。
 メニュー。
 デンマークチーズピザ。成城石井にあったデンマーク産のチーズを使ったピザ。生地は手作り。北海道産の薄力粉「ドルチェ」と同じ北海道産の強力粉「はるゆたか」を同量使って作る。
 スルメイカ。関所の若女将に以前もらって冷凍しておいた新潟の一夜干し。網で焼いた。
 タラバガニ。築地で買ってきた。関節ごとに切り分けて、殻を半分だけ割いて、肉を出し、網で焼いた。
 マグロの刺身、マグロの握り寿司、軍艦巻き。
 千鳥酢サラダ、イーフー麺、ローストビーフ。
 親父が「このスープはうまい」とラーメンスープを褒めてくれた。築地で買ってきた「矢澤肉店」のばら肉を3時間煮出して取ったスープをベースに、ラーメンを作った。ばら肉だけだと脂っこくなるので、ネギやしょうがもたっぷり入れて煮る。
 おなかの皮が破れるのではないかと思うほど、たくさん食べた。集まった家族や親族も「苦しい」と言いながら食べていた。
 わたしは、元旦から3日間をいつもと同じように過ごした。
 少し運動不足になるので、一日のなかで時間を見つけて、大船仲通を歩いた。大船仲通商店街は、不景気の時代のなかで多くはシャッターを閉め、5日とか7日とかからの営業開始を宣言していた。一年のほとんどを歩行者天国かと間違えるほど、仲通にはひとがあふれる。それが正月の3日間はほとんど人通りがなくなる。ぜいたくな空間を独り占めして歩く。
 歩きながら、去年の大震災からまだ1年も経っていないことに驚く。
 またことしも去年の正月と同じような3日間を自分が過ごしているからだ。
 しかし、同じように見えても、気持ちのなかではまったく去年までとは違う。いまも被災地では多くのひとたちが仮設住宅で暮らしている。経験したことのない心細い正月だろう。深刻になりつつある放射能汚染によって、強制的に住居や暮らしを奪われた福島県のひとたち。見知らぬ土地での正月は、なんらかのこころの区切りがつくものなのか。
 出勤。4時に起床した。晴れた水曜日。かなり寒くなる。
 藤沢の小学校まで歩いて出勤した。1時間10分ぐらいかかった。
 週案(一週間単位の授業プラン)・支援分担計画(一週間単位の支援者役割分担表)・餃子学習指導計画・学年会資料を作成した。
 半ドン。午後は休暇を取る。こどもがいない学校では何も急ぐことはない。自分のペースでゆっくり仕事にからだをなじませてゆけばいい。
 藤沢駅北口、ビックカメラのビルの上階にあるジュンク堂で本を探した。
 佐々木譲の「廃墟に乞う」と「暴雪圏」。パトリシア・コーンウェルの「変死体(上下)」。伊坂幸太郎の「ラッシュライフ」と「陽気なギャングが地球を回す」と「陽気なギャングの日常と襲撃」と「重力ピエロ」。東野圭吾の「ガリレオの苦悩」。堂場瞬一の「第四の壁」。
 ついついまとめ買いをしてしまう。
 大船に戻る。
 ひとり新年会を「海福」でする。握り寿司ランチと生ビール。
 野田の湯に寄る。
「あれ、さっき宇佐斗さんが出て行ったよ」
 野田の湯の主、戸田さんの女将が言う。
「ここで、飲んでいたのに、きょうは飲まないのかな」
 番台に450円を置きながら、わたしは質問する。
「ほら、関所がきょうから立ち飲み開始なんでしょ」
 そうだったそうだった、宇佐斗さんはそれを知っていのだ。
「みんなが待っているから、急がなきゃとか言っていたよ」
 なんでも、自分のいいように解釈できる宇佐斗さんは幸せ者だ。そもそも、みんなとはだれだ。わたしはこれからお湯につかろうとしているのだ。少なくともわたしは、関所で宇佐斗さんを待っている身ではない。それに、まだ周辺の工場が仕事を始めていないから、関所の立ち飲みメンバーは、まだそんなに多くはないはずなのに。
 つらつら思いながら、ことし最初の「日替わり湯」で汗を流す。
 のどがからからになった頃、関所を目指す。
「あけましておめでとうございます」
 すでに出来上がっている宇佐斗さんが、目を細めていた。
「いらっしゃい」
 久しぶりの若女将。なんだか元気がない。休み疲れかな。
「いかがでしたか、新潟旅行は」
「それ、聞かないで」
 ぴしゃっ。
った。いつもよりも10分短縮した。
 午前中は週案・2月の予定を作成し、新しく作っているファスナー付バックの裁断をした。逢坂剛の「しのびよる月」を読了する。
 半ドン。大船に戻り、ひとり新年会。駅前の観音食堂。
「いらっしゃーい。お一人様、カウンターでいいですか」
 たぶん小学校か中学校のときに同級生だったと思う女性がなかを仕切っている。お互いにたくさんの時間を経過して、それぞれのことなど忘れているのだろう。いや、わたしは覚えているから、彼女が一方的に忘れているのか。たしかに、あのときの面影をいまのわたしに探せと言っても無理だろう。
 カウンターの端に座る。
 カキフライ定食1300円。エビスビール680円。お燗400円。塩辛300円。かなり贅沢なひとり新年会になった。
 工場の仕事が始まった。関所の自動ドアをくぐる。
「おかえりー」
 きのうよりも、少し元気を取り戻した若女将の声が響く。
「やっと、メンバーが戻ってきましたね」
「そうねぇ、やっぱりうちはいつもと同じっていうのが、一番いいみたい」
 意味ありげな言葉で納得していた。
 正面の日本酒の棚の向こうで、首都リーブスの烏丸さんが、背中を丸めて焼酎を飲んでいる。
「こんばんは」
「あ、どうも、ご苦労サンです」
 やけに丁寧に頭を下げられた。
「どうですか、会社のほうでは、赤坂さんのことは少し事情がわかってきましたか」
 烏丸さんは、赤坂さんと同じ会社で働いている。
 こそこそと、足音を忍ばせて、わたしに近づく烏丸さんが言う。
「詳しいことは、わかんねぇけどよ。まずは3ヶ月は無理だろうってことだ」
 指を3本立てている。もしも、2ヶ月だったら、指は2本で勝利のブイサインになってしまう。
「えー、そんなにですか」
「やっこさん、ほら、病院に行くの、いやがってたから。だいぶよわっちまってたみたいだよ」
 かなり詳しいことがわかっているみたいだった。
「センセーも、飲みすぎには十分に気をつけてくださいよ」
「はい」
 そう言いながら、烏丸さんは、自分の焼酎をぐびっと喉に流していた。
 特別支援学級では、こどもたちが縫い物をする。だから、ミシンが置いてある。わたしは、そのミシンを使って時間があるときに手芸をしている。この冬の作品は、やや大きいポーチ作りだ。
 手縫いのときは、布の端を折り返してほつれないようにしていたが、ミシンでジグザグに縫うことを覚えたら、簡単にできるのではまってしまった。
 しかし、調子に乗るといいことがない。最後の1枚になって縫うところを間違えた。ほどくしかない。手縫いをほどくのに比べて、ミシンで縫ったものをほどくのはとても大変だった。
 ミシンの掟。縫うところを間違えないこと。
 半ドン。すっかり恒例になっているひとり新年会は大船の土風炉。天せいろ950円。熱燗。
 天婦羅の揚げ方はよかったんだけど、油がこってりしていて、気持ち悪くなりそうだった。
 夕方近く関所の自動ドアをくぐる。
「ただいまぁ」
「おかえりー、きょうはたくさんだよ」
 若女将が笑顔で迎えてくれた。
 きのうの首都リーブスにくわえて、富士見町モノレール駅近くのシンロートもきょうから工場が動き出していた。
「あー、センセー、明けましておめでとうございます」
 店に入って正面左側、いつものコーナーにシンロートで元気な相田さんが陣取っていた。
「久しぶりです。お元気でしたか」
「元気もなにも、ひたすら食っちゃ寝ての繰り返しだから、そろそろ仕事しなきゃからだがもたねぇんだよ。センセーだってそうじゃないの」
 自分の生活が世界の中心だと思っている相田さん。2012年になっても本質は変わらない。そのいつもと同じところに安心する。
「こら、ミッキー、まだ散歩してないじゃないか」
 大型犬のミッキーを連れた中島さんが、ミッキーに引っ張られるように関所にやってきた。
「ミッキー、明けましておめでとう」
 店内のあちこちから、ミッキーに年賀の挨拶がかかる。
 うー、ワンワン。
 ミッキーも、挨拶を返す。
「いつもなら、もう少し歩いてからここに寄るんだけど、きょうは久しぶりににぎやかだったから、ここを通り過ぎないでまっすぐ入ってきちゃったんです」
 中島さんが頭をかく。
 ミッキーも含め、多くの立ち飲み仲間が戻ってきた。わたしはすっかり寄って、閉店近くの午後9時頃まで、飲んでいた。
 わたしは床屋に行った。思い切って、髪の毛をばっさり短くした。いわゆるスポーツ刈り。もともと天然パーマなので、少しでも伸びると髪の毛がはねてしまう。湿気が多いと、さらにはね方がひどくなる。そして、50歳を前にしたら、頭のてっぺんの部分が薄くなってきてしまった。周辺の髪の毛が長くても、てっぺんが薄くいと、カッパみたいな印象になる。
 わたしは、小学校時代から大学を卒業するまで、ずっと運動をしていた。だから、ずっと短髪で過ごした。高校時代は公式野球部に所属して、バリカンでミリ単位の短さにしていた。だから、髪の毛を短くすることには抵抗がない。
「久しぶりだね。昔みたいに短くするのは」
 床屋の主人に言われた。
 わたしは、ずっと同じ床屋にしか通っていない。地元から離れていないので、小学校のときに、父親に連れて行かれた最初の床屋に、いまも通っているのだ。そういう客は、世界遺産並みに珍しいらしい。そして、床屋の主人も、あのときのままだ。お互いに年齢を重ねたので、なかみにガタがきているが、人間そのものに変化はない。
 首筋に冬の冷たさを感じながら、わたしは散髪を終えて、北鎌倉の町を歩く。
 関所で会うシンロート社員の山ちゃんが、鎌倉の天園ハイキングコースに行くというので、峠の茶屋で待ち合わせることにしたのだ。山ちゃんは、土曜日や日曜日は野毛の場外馬券売場で競馬をするのが趣味のひとだ。月曜日の関所では、いつもほかの立ち飲み客が、山ちゃんの戦果を気にしている。
「仲間が、天園を歩くっていうんだけど、俺でも大丈夫かな」
 もう1年以上も前に、山ちゃんに相談された。野毛の仲間のなかに、山歩きが好きなひとがいるらしい。そのひとに、天園ハイキングコースについて質問されたそうだ。わたしは危険箇所や上り口を教えていた。それ以来、天気の安定した週末には、仲間とハイキングコースを歩き、峠の茶屋で一服するのが習慣になっていた。
「今度の土曜日に、ことし最初の山登りをするけど、よかったらセンセーもどうだい」
 関所で山ちゃんに言われていたので、正月でだぶついた腹のあぶらを落とすために、山歩きを決意したのだ。
 明月院を右に見て、今泉台の住宅地へとアスファルトの坂を一気に上ると、曇っていても背中にじわっと汗をかく。住宅地を抜けて、天園ハイキングコースの上り口に到達した。そこからは、いわゆる山道になる。
 ハイキングーコースといっても、ヒールの高い靴ではとても無理な道だ。標識はあるので迷うことはないと思うが、それでも天候が急変したら、雨具や飲み物を携帯していないと危険がある。尾根筋だが、アップダウンに富んでいる。準備運動をしないと、筋肉を傷めてしまうコースなのだ。
「いま、北鎌倉駅から建長寺に向かっています」
 返信が来た。
 ということは、わたしの方が先に峠の茶屋に到着するだろう。
 約60分の山歩きを経て、目指していた峠の茶屋に到着した。
 わたしは、山ちゃんの競馬仲間を知らない。だけど、茶屋のベンチには2人連れしかいない。テーブルには、チーズや海苔、おでんが乗っている。明らかに山ちゃんの仲間のはずだ。
「あの、もしかして山ちゃんのお知り合いですか」
「あーあー、あんたがセンセーですか」
 あらかじめ山ちゃんから伝えておいてくれたらしい。わたしは近くのベンチに座った。首筋や額の汗をタオルでぬぐう。上着を脱いだら、シャツが汗で濡れていた。
「ありゃぁ、これじゃ風邪引いちゃうよ。あんちゃん、脱ぎなさい。乾かしておくから」
 茶屋のおばちゃんに無理やりシャツを脱がされて、上半身があらわになった。風がここちいい。リュックのなかから、着替えのために用意してある新しいシャツを取り出して着替えた。
 アサヒスーパードライを頼む。
「乾杯」
 まだ山ちゃんが来る前だったが、彼の仲間と缶を合わせた。
 ぐびっぐびっとビールが喉にしみていく。
「あー、うま」
 口角の泡を拭いたら、山ちゃんの姿が見えた。
「お先に」
 それから1時間ほど4人でおでんを肴にビールを飲んだ。
 関所での出会いから、まさか峠の茶屋で見知らぬ競馬仲間との宴会に発展するとは思ってもいなかった。
 山を降りる。3人は北鎌倉から横須賀線に乗った。大船に出て桜木町へ。野毛のいつものお店に行くという。樹林を抜けるハイキングをした午後に、競馬で盛り上がるひとたちがよのなかにいるというのが驚きだ。
 わたしは、そのまま地元の山崎まで歩く。
 野田の湯で、ゆっくり筋肉の疲労をとった。半身浴をしていたら、眠くなっておぼれそうになった。
 喉をカラカラにして、関所へ。
「ただいまぁ」
「おかえりー。あら、どこの山から帰ってきたのよ」
 一応、ハイキングスタイルをしていたので、若女将に驚かれた。
「山ちゃんと天園に行ってきました」
 太平洋沿岸は、東海地方から関東地方にかけて雪になる。
 近年の湘南地方は、暖冬の影響か、すっかり雪とは縁がなくなった。しかし、この日はしっかり積もるほどの雪だった。ただし、湿気の多いべたべたの雪なので、雪遊びをするこどもたちの服はすぐにぐっしょり濡れてしまった。
 冷えたからだをあたためるために。
 なんて理由はどうでもいいけど。
「ただいまぁ」
「おかえりー」
 関所の自動ドアをくぐる。
「きょうは、寒かっただろう。どうたった、連中は」
 レジの奥から大将の声がする。大将は、わたしが小学校で特別支援学級の教員をしていることを知っている。
「休み時間に遊ばせないと反乱が起こりそうだったから、許可を出したよ」
「そりゃそうだよ」
 手袋をしたほうがいいって言ったのに、濡れるからいやだという理由で素手で遊んだこどもが、雪が冷たいと言って泣いていた話。
 雪だるまを作って自慢していたこどもが、帰りに融けていて、だれのせいだと怒っていた話。
 数え切れないほどの逸話を披露した。
 すると、自動ドアの向こうに足元がふらふらしている親父の姿。こちらを見てにやにやしている。いやな予感がした。
「あら、お父さん。いらっしゃいな」
 若女将が手招きをする。
 いらないいらない、そんなことしなくていいのに。
「そっかぁ」
 ほうら、来ちゃった。自分から入ったのではなく、誘われたから入ったという状況を作り出す。
「きょうは、何だかご機嫌ですね」
 大将が親父をたきつける。
「わかるかなぁ。じつは大船で昔の仲間と、これ」
 お猪口を口に持っていく仕草をした。えー、飲んできたの。
「いいですね。でも、時間がえらく早くないですか」
 大将が時計をさす。
「みんな年寄りだから、夜の飲み会はだめ。帰りがあぶなくて。だから、昼から飲んでいたのよ」
 どうりで、ふらふらしているわけだ。
 その帰り道に、関所に立ち寄った。
 大将が相手をしているから、わたしは奥に引っ込んで自分の酒をちびりちびりと飲んでいた。
 自動ドアが開いた。
 つつつー。若そうに見える三菱の諭吉さんが登場した。ソフトボールをいっしょにやっている仲間だ。いつも深夜に帰るので、こんな時間に関所で会うことはめったにない。
「珍しいじゃん」
「たまには、こういう日もあるんですよ」
 諭吉さんは、親父とわたしの間にはさまるポジションに入った。
「こちら、お知り合い」
 親父が諭吉さんごしに、わたしに質問をする。
 どうだっていいじゃん。
「ソフトボールをいっしょにやっている諭吉さんです」
「あーそう、息子がお世話になっています」
 おいおい、小学生の保護者じゃないんだから。
「いえいえ、こちらこそ。でもないか」
 諭吉さんも、なかなか調子がいい。
「故郷はどちらですか」
 親父が、身辺調査をする。
「岩手です」
 へー、諭吉さんって岩手なのかぁ。知らなかったなぁ。
 それを聞いた親父の目が光る。
 やばい。そうだった。
「俺も、岩手。盛岡だけど」
「えー、ボクも盛岡なんです」
 じゃぁ、駅前の通りから一本入った辻の……。
 ものすごくローカルな話に花が咲いて、なぜか親父と諭吉さんは盛り上がっていく。
 わたしは、急速に疎外感に襲われて、とはいっても心地よい疎外感だが、ふたりの世界から距離を置いた。
 こういうタイミングって、だれか登場するんだよなぁ。
「おかえりー」
 若女将の声が響く。
 横浜のドクター、佐藤さんが登場した。
「佐藤さん、はい、こっちこっち、遠くに来て」
 わたしは、佐藤さんが親父と諭吉さんの会話に参加できそうにない立ち位置に招き入れた。
 朝も夕方も0度近くまで気温が下がる。
 関所の前に、見慣れた男が携帯電話をかけていた。
「王さん、おっす」
 わたしは、王さんに手を挙げて、脇を通り抜けた。
「おかえりー」
 若女将が迎えてくれた。
「いやぁ、疲れたぁ」
「何言ってんの。まだ月曜日じゃないの」
 電話を終えた王さんが、関所に入ってきた。
「センセー、あしたお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 王さんは、演劇のプロデューサーをしている。わたしにはまったく縁のない世界なので、彼がどんな仕事をしているのかはさっぱりわからない。でも、わたしが勤務する特別支援学級の介助員もやっているので、仕事上のつながりがあるのだ。芸能の世界は、午後や夜の仕事が多い。学校のように早朝から昼までが勝負みたいな世界とは逆だ。その時間を使って、王さんは介助員をしてくれているのだ。1時間900円という安いお金だが、賃金ももらっている。
「また、先週のセンセーが来てくれるんですか」
 この時期の支援学級では、こどもたちに療育の専門家を招いている。3週間連続で火曜日の決まった時間に楽器遊びを中心とした授業をお願いしているのだ。先週が1回目だった。
「それがさぁ、きょうの夕方にご主人から電話があって、彼女が急病になって入院しちゃったんだって」
 えー、王さんがのけぞる。
「だから、しょうがないから、あしたはいつもどおり、わたしが音楽をやるんです」
 こどもたちは、毎年この時期の専門家の授業をとても楽しみにしている。
「きっと、ぶーぶー言うかもしれないけど、こればっかりはしょうがないもん」
 王さんの目が光る。
「センセー、前に話していたこと覚えているかな。ほら、ムッシュ竹内っていう芸人が、こどもたちに自分の芸を披露できないかって言っていたこと」
 そんなこと、あったっけ。
「でも、あしただよ。いまからじゃ、無理でしょ」
「ちょっと待っていてください。聞いてみます」
 王さんは、自動ドアから外に出て携帯電話を耳にあてた。
 もしかすると、これがプロデューサーという仕事なのかも。
「センセー、ムッシュ、大丈夫です」
「本当ですか、だって、あしたですよ」
 いま連絡を受けて、あしたの講師をやろうというムッシュのフットワークの軽さに脱帽する。
「ちょうど、火曜日はオフにしているから時間があるんですよ」
 王さんは、ムッシュが突然の申し出にもかかわらず話を受けてくれたことに、あまり驚いていない。
「俺としてはとても助かります。ムッシュにもよろしく伝えてください」
 関所で、仕事の話をつけるというのは不思議な感覚だが、こんなありがたい結果につながるとひととひととの関係は大事だと痛感する。
 結果的に、ムッシュはその翌日と翌週の2回も芸を披露してくれた。
 タップダンス、ハーモニカの演奏、風船を使った創作、洗濯板と指ぬきによる演奏など、ボードビリアンというカテゴリーの技だった。わたしは間近でプロの技を堪能できて個人的にとても楽しんだ。ふだんは大きな音に過剰に反応する自閉的傾向が強いこどもたちも、めずらしさが先に立って楽しんだ。とくに後半の風船創作では、こどものリクエストのままに風船を形にしてプレゼントしてくれたので、こどもたちは列を作って何度もほしがっていた。
 鼻と口で別々のハーモニカを同時に吹く。それも鼻と口とでは異なる音階を吹く。きちんとハーモニーになっているのだ。それをやりながら、足ではタップを踏む。素人のわたしには、超人技にしか見えなかった。
 2月に入って、さらに朝夕は寒い日が続いていた。
 土曜日。わたしは大船の100円均一ショップで、教材に使えそうな品物はないか、探していた。完成された教材は、文房具やで買うととても高い。しかし、完成されているので、応用がききにくい。100円均一ショップの品物は、素材として使えるものが多いので、組み合わせることにより、オリジナル教材になるのだ。そうやって創作した教材が学校にはいくつもある。ほかの教員も参考にしている。
 バックに教材の素材になる品物を入れて、野田の湯でからだを温めた。
 そして、関所の自動ドアをくぐる。
「ただいまぁ」
「お、きょうはどうしたのよ」
 大将が、レジの奥から顔を出す。5時よりも早い時間に関所に行くと、配達の合間の時間なのか、大将が店にいることがある。
「大船で教材になりそうな品物を物色してきました」
「休みの日ぐらい、仕事と関係ないことをすればいいのに」
「そうしたいんですけど、なかなか」
「ふだんの日は、学校からまっすぐここじゃ、仕事以外のことはできねぇか」
「たしかに、そうですね」
 自動ドアが開く。
「おや、いいひとに会った」
 カディさんが登場した。
「これから、こもれびですか」
「そう、それよりも、センセーにこれをプレゼントしようと思ってきた」
 嘘ばっか。わたしがここにいたのは偶然なんだから。根っからの商人のカディさんの言葉はいつも流ちょうだ。
 袋のなかから、カディさんは2種類の豆を取り出した。
「ひよこ豆と緑豆、センセー知ってるかな」
 いつももらっているじゃないか。
情報を流した。しかし、ほとんどの場合は朝になると外れる予報ばかりだった。雪は降らなかったが、寒さはからだの芯から凍えてしまうほどだった。
 それでもうるう年で29日まであった2月最終日。
 わたしが出勤した時間は小降りだったが雪が次第に強くなり、10時ごろまでには積もった。
 休み時間にはこどもたちが外で遊べるほどになっていた。
 特別支援学級に通うこどもたちの多くは、下校時間に福祉デイサービスを利用している。通常学級のこどもが利用する学童保育の福祉版だ。しかし、デイサービスは車での送迎を原則にしているので、降雪によって道路の安全が確保されないときは、利用を制限する。この日はすべてのデイサービスが利用を中止した。各事業所から保護者に連絡が取られた。しかし、連絡が取れなかった保護者もいたので、下校後は対応に追われた。
 いつまでも学校の残しておくこどもの保育と、定期的に保護者に連絡を取る仕事とに分かれた。
 この日、県立養護学校は休校だった。賢明な措置だ。
 夕方にはほとんど雪は溶けて地面が見え始めていた。最後のこどもを保護者に引き渡して、やれやれと思いながら、帰途に着いた。
「ただいまぁ」
 関所の自動ドアをくぐる。いつもよりも声に張りがなかったかもしれない。
「お、きょうの連中は走り回ったか」
 レジで大将がにやにやしている。大将は、わたしが特別支援学級の教員をしていることを知っている。そして、こどもたちが雨とか雪が大好きなことも知っている。
「手袋もないのに外に出て雪だるまを作り、あまりの冷たさに、休み時間が終わってから泣いていた女の子がいました。遊んでいるときは楽しそうだったのに、授業時間になったら、冷たい冷たいといって泣くから、ありゃぁ確信犯じゃないかと話題になりました」
「センセー、きっとその女の子は、雪だるまを作っているときは本当に冷たさを感じなかったんだよ。それぐらい楽しかったんじゃないかな」
 なんとも大将の発想はやさしさに満ちている。
「それが、教室に戻って教科書やノートという現実と向き合って、急に感覚が正常に戻ったんだよ」
 はいはい、たぶんそんなものでしょう。
 わたしは、荷物をいつもの焼酎コーナーに置く。
「おや、センセー、お疲れです」
 烏丸さんが、宝焼酎のワンカップを手にしてお辞儀をした。
「こんなもんは、山形じゃぁ、雪のうちにははいんねぇよ。これぐらいの季節には、玄関の前に雪の壁ができて、それをスコップで階段状に削って、道まで上がるんだから」
 そんな豪雪地帯で育った烏丸さんにしてみたら、半日で溶けて消える雪など、雪のうちに入らないのだろう。
 東日本大震災から1年。3月11日は晴れていた。しかし東北地方は夕刻から雪になり、被災したひとたちは寒い夜を迎えることになった。
 あれから1年が過ぎて、湘南地方が、まるであのときの東北地方のように雪になった。
 わたしは、その日、午前5時半に鎌倉を出発して築地魚市場に向かった。
 数ヶ月に一度の買い出しだったのだ。関所で注文を集めて買い出しに行く。今回は12月ほどの注文はなかった。
 午前6時半。首都高速道路の銀座出口から地上に上がったら、大きなサイズの湿った雪が車のフロントガラスを覆った。
 頼まれた品物を買う。雪の築地は、いつもの築地よりも少し静かな気がした。
 しかし、テレビや雑誌で紹介される人気のにぎり寿司店にはいつものように長蛇の列ができていた。なかには中国や台湾、韓国のひとたちもいるという。あんな寒いなか、最低でも1時間以上も並ばされたら、きっと風邪をひいてしまうだろう。買い出しをしながら、横目で心配をした。
 東京都中央卸売市場築地市場。
 一般的には魚介類が有名だが、野菜やくだものなどの青果類を専門に扱う部門も大きな敷地を占めている。卸から競りで買った品物を仲卸が小売りに売るのが市場の役目だが、近年では、わたしのように仲卸に直接消費者が買いに行くケースもある。ただし、仲卸は小売店ではないので、商品の量は基本的に1キロからだし、商品に値札がついていないことが多い。小売店の目利きが市場を訪れ、仲卸の主と「これなんぼだい」「きょうのおすすめは」などと会話をしながら買い物をしていく。
 わたしが定期的に築地で品物を買ってこられるのは、以前までマグロの仲卸をしていたお母さんの存在が大きい。
 お母さんは偶然にも、わたしの近所に住んでいるのだ。娘さんは、中学校の後輩にあたる。仕事でも同じ学校関係に就職した。何かと縁のある家族なのだ。
 仲卸を退職し、鎌倉で悠々自適の生活を送るお母さんが、昔のよしみで築地に買い出しに行くときに同伴するのだ。
 「場内」とか「なか」と呼ばれる仲卸が軒を連ねている市場の心臓部に入ると、あっちこっちからお母さんに声がかかる。
「お、久しぶりじゃねぇか」
「たまには顔を出せよ」
「もうやってらんねぇよ」
 お母さんは、築地で初めて女性でマグロの競りに出た有名人なのだ。そして生来の世話好きで、築地で働くひとたちの生活の面倒を細かくみてきた。食パンを焼くトースターをプレゼントしただけで、感激されて、北海道のウニを大量にお礼にもらったこともあったという。
 築地の品物は全国から集まる。その品物は、どれも品質が抜群のものばかりだ。それをお礼にもらうのだから、自然と味に敏感になる。だから、いつもとは言わないが、ときどき築地の買った魚を食べたくなるのだろう。
 10時半には鎌倉に戻って、買ってきた荷物を仕分けした。
 それらを発泡スチロールに入れて、関所に届ける。
「いつも申し訳ありません」
 頭をかきながら、わたしはほかのひとからの注文の品物を関所の冷蔵庫に置かせてもらうのだ。
 新年度の始まりが日曜日というのは久しぶりだ。
 本来なら、この日に多くの役所で異動にともなう辞令交付式が行われるが、日曜日なので一日の猶予をもって、翌日の2日から辞令が交付される。
 新採用になったフレッシュなひとたち、長年の勤務先から新天地に異動になったひとたち、期待と不安で押しつぶされそうになりながら、辞令を受け取り、気持ちを新たにする。
 わたしは、いまの学校が4校目。
 辞令は4回受け取った。
 さすがに、4回も経験すると、緊張や不安はあまり感じない。それよりも、通勤方法や、学校周辺にはどんなお店があるのだろうという毎日の往復に関する情報に興味がうつる。
 ところかわれば、やり方や人間関係がかわるのは当然のことだ。
 そんなことに気持ちが左右されていては公務員はできない。
 異動がつきもものの公務員を覚悟して就職したのだから、異動のたびに「前任地では」と繰り返しこぼすおとなになっては情けない。
 だから、わたしには地域というかわらない場所が宝物なのだ。
 鎌倉の山崎地域。地名では「台」という無色透明な呼び方だが、町内会に残った戸ヶ崎、山崎、市場、末広、富士見町など、昔からの土地の呼び方には趣がある。
 そこに生きるひとたち、そこではたらくひとたち。ほかの町から引っ越してきたひとたち。狭い地域に多くのひとたちが片寄せあって暮らしている。このひとたちと、銭湯の野田の湯で会う。酒屋の関所で会う。焼き鳥屋の鳥藤で会う。モノレールの富士見町駅で会う。顔と顔を合わせて、互いに会釈をする。それだけで、ひとりじゃないんだと気づく。
 地域は、ふところであり、ゆりかごなのだ。
 4月1日は、朝から晴れていた。
 午前6時半からソフトボールの練習があった。山崎小学校の校庭に行き、地元のおとなたちとボールを追った。
 午前8時に自宅に戻る。職場の同僚に頼まれていたピザ生地を12個作る。
 前夜から浸しておいた昆布とどんこの出汁に、鰹出汁を合わせて一番出汁を作る。それを使って出汁巻き玉子を作った。出し殻に千鳥酢、醤油、唐辛子、日本酒、梅酢を入れて煮詰めた。出来上がりにジャコを混ぜた。
 休日だったが、車を出す。たくさんの着替え、白衣、ピザを積んで学校に運んだ。帰りに藤沢市市民活動推進センターに行き、今年度のロッカーの使用申請をした。古いロッカーから荷物を移した。
 自宅に戻り、関所に昼食用に出汁巻き玉子を届ける。その足で、大船のCoCo壱番屋に行く。狭い。研修生がおどおどしていて店長らしきひとが厳しくしつけていた。客として落ち着けなかった。手仕込チキンカツカレーの2辛を食べた。プレハブから新校舎への引越し作業で忙しかった前週に3回も同じカレー屋に行き、同じメニューを頼んでしまった。
 帰りに野田の湯、関所コースをたどった。
 晴れた。
 午前中に新しい特学メンバーで最初の学年会をした。
 話し合いだけで3時間もすると、最後に頭のなかが暴走し始めた。それでも、新年度体制のほとんどを決めることができた。
 ランチは、学校近くの食堂「漁火(いさりび)」。夜は居酒屋になる。生簀があって、夜はそこから魚を網ですくって刺身を作る。
 昼は、5品の定食から選ぶが、小さなカウンターと小上がりが3つの狭い店内。いつも常連で混んでいるので、空いていることが珍しい。
 新年度初日だったので、11時半頃に食べに行った。
 一般会社の休憩時間よりも早く出たので、余裕で小上がりに座る。
 海鮮石焼丼。韓国料理みたいだったけど、お醤油と海鮮が焼いた石皿にこげて、香ばしい香りがした。
 午後は着任者紹介から始まる。他校から新しい教頭が来た。
 これまで校舎改築に貢献した教頭はプレハブから新校舎への引越しを完了して異動になった。本人は残留を希望したらしいが、教育委員会の学務課は非情にも定期異動を優先したらしい。新しい教頭は棚からぼた餅状態だ。ふたりとも女性。女性同士の教頭対決で、教頭会は今年度火花が散るかもしれない。
 着任者紹介の後、すぐに新年度準備の連絡や校務分掌がらみの提案があった。職員会議は設定されていないのに、あんなに資料が出て、提案や検討をしたら、有給休暇をとったひとは浦島太郎になるだろうと思った。
 学校では、打ち合わせと言えば連絡事項を伝える場。会議と言えば原案が出て話し合い、物事を決める場。大事なのは会議なので、会議を欠席することはほとんどない。しかし、打ち合わせは休んでも後日打ち合わせ内容を記録から確認すればいいので、休んでも大きな支障はない。
 そういうはずで長年、学校は機能してきたのに、最近の流れは打ち合わせでも重要事項をばんばん提案するようになってきた。ならば打ち合わせなどと予定に入れずに会議とすればいい。しかし、あえて打ち合わせとするのは、会議にすると多くの職員が参加して原案に反対する意見が出て会議が紛糾するから、欠席者のいる打ち合わせで強引に決定させてしまおうとするせこい考えが背景にあるのだろう。どこかの国の国会のようだ。
 夕刻、帰り際、同僚が深刻な表情をした。
「わたし、右脇の下にたまご大のしこりができたんです」
「えー、いつから」
「気づいたのは最近なんだけど、できていたのはもっと前からかも」
 その同僚女性は、今年度で定年退職を迎える。
 特別支援教育の世界ではベテラン中のベテランだ。
 わたしと組んで、5年目になる。特別支援学級の教員は、昼間のほとんどの時間を同じ生活空間で過ごす。通常学級の担任と違い、同じ教室で同じ校庭で同じ体育館で同じ仕事をする。放課後も打ち合わせや会議をする時間が多い。
 特学の教員は、それぞれの家族よりも長い時間をともに過ごす。
 そういう業界内格言もあるほどだ。
 だから、人間関係がしっくりこないと悲劇になる。みんなおとなだから、互いを尊重しあおうとはするが、こころの根っこ部分では信頼しきれないものがあると、気持ちが疲れる。
 わたしは、そういう遠慮が嫌いなので、相手が先輩であれ、異性であれ、若者であれ、どんなときでも
「お前、いい加減にしろ」
「何度、言えばわかるんだ」
「少しは給料分は働け」
と、ハラスメントギリギリの発言を躊躇しない。
 そんなわたしの暴言にもめげないほど、できたひとなのだ。
 だから、彼女に万が一のことがあったら、今年度の特学は最初から大きな痛手を負う。
 4日に検査を受けると教えてくれた。
 関所でため息をつく。
 ため息をついて飲む日本酒「山猿」はあまりおいしくない。
 そこに、横浜の病院に勤務する佐藤さんが登場した。
「佐藤さん、専門的な話なんですけど、聴いてください」
「わたしの専門という意味かな」
「いや、医療分野という意味です」
 関所に立ち寄るひとたちは、仕事という空間から抜け出て、のんびりしたいから酒を飲む。そこで仕事の話を持ち出すのはご法度だ。
「いいですよ」
 やさしい佐藤さんは、受け止めてくれた。
 わたしは同僚女性の話を伝えた。
「たぶん90パーセント以上、脂肪のかたまりでしょう」
「腫瘍ということはないんですか」
「まぁ正確には、脂肪のかたまりも腫瘍なんですが、いわゆる癌のような腫瘍という意味では違います」
 わたしの説明を聞いただけで、さすが専門家はそこまで確信が持てるものなのかと、あらためて佐藤さんを見直した。
 前日、列島を爆弾低気圧が通過した。
 前日は、わたしの母の命日だった。午前中に円覚寺にお参りに行って、午後は自宅で腰湯をして過ごした。
「ただいまぁ」
「おかえりなさい」
 関所で、若女将が迎える。
 わたしは、冷蔵庫から麦焼酎の「いいちこ」を取り出す。紙パックのお得サイズだ。
「はい、140円」
 レジで若女将に小銭を渡す。
 小さなサイズの冷蔵庫から、黒のホッピーを出す。コップに黒のホッピーを注ぎ、いいちこを注入する。
 ごくっ。
「ふーっ」
 仕事帰りの喉に、ホッピーの炭酸がしみわたる。
「あー、ひとが飲んでいると、わたしも飲みたくなっちゃう。飲んじゃおうかな」
 若女将が、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
 本当にわたしが飲んでいる姿に触発されたのか、それとも飲むタイミングを待っていたのか。
 奥の引き戸が開く。
「あー、こんにちは」
 若女将の娘さんが、お子さんを連れて出てきた。すっかり実家への帰り支度をしている。
「そっか、お子さんはもう幼稚園なんだよね」
「えー」
 若女将と大将に似た娘さんは、とても美人だ。お姉さんは、輪をかけて美人だ。弟も美男子だ。3人姉妹弟でモデルとして売り出してもよかったかもしれない。
 春休みに入って実家に戻っていた娘さん親子が居住している新潟県に帰るのだ。
「それじゃ、センセー、こんど、会えるのは夏です」
「気をつけてね」
 幼稚園が始まれば、そうそうたびたび新潟と神奈川を往復することはできないだろう。こんど会えるのは夏と言った娘さんの目元がちょっと寂しそうだった。
 自動ドアの向こうに消えていく背中を見送りながら、わたしは、若いママに、連休も梅雨もきっとすぐに過ぎて、あっという間に夏が来るよと声援を送った。
 わたしは、午前7時前に娘と娘の日本画作品と画材を車に積んで多摩美術大学に行った。昨年の暮れに、大学の課題で大きな作品を描くので、画材とキャンパスになる大きな板を大学まで受け取りに行った。
 車なら電車よりも早くて便利だろうという世間知らずの娘は
「8時頃、出発すれば大丈夫だよ」
と、暢気なことを言っていた。
 国道16号線。八王子方面。休日に鎌倉を午前8時に出発したら、途中でたくさんの渋滞箇所にぶつかることが予想できた。
 しかし、わたしは娘に自分の考えの甘さを感じてもらうには、大変だったという経験が必要だと考えた。だから、望みどおり、そのときは午前8時すぎに出発したのだ。
 案の定、道路は渋滞だらけで、橋本にある大学キャンパスに到着したのは11時を過ぎていた。帰りも同じぐらい時間がかかり、鎌倉に戻ってきたのは午後2時ごろだった。ほぼ一日をかけたドライブになってしまったのだ。
 今回は、そのときの記憶をいかし、なるべく早く行こうと娘から言い出した。
 ひとは失敗から学ぶ。
 親が失敗をおそれて、こどもに成功ばかりさせていると、生き方を知らないこどもが育つ。
 昔から、失敗は成功のもとというではないか。
 土曜日の早朝、藤沢から用田を抜けて、県道40号線を北上した。国道をなるべく通らないルートをタクシー運転手の宇佐斗さんに教わっていた。
 カーナビなどついていない。
 娘に地図を渡してナビゲートしてもらう。
 地図が10年以上古いもので、そこに掲載されているコンビニやガソリンスタンドの多くが閉鎖されていた。
 大学には、9時頃到着。作品をアトリエに置いて、すぐに戻り、11時過ぎに鎌倉に戻った。
 往復とも前回よりも1時間短縮した。
 午後は、わたしの大好きな町、大船を歩く。
 駅東側に栄える仲通商店街は、いつでもひとでにぎわっている。歩くだけで元気がわいてくる。
 午後3時を気にしながら、近所の銭湯「野田の湯」に到着した。
「あれ、泥橋さんじゃないの」
 日替わりの湯で、玉の汗を流している泥橋さんを発見した。
「お久しぶりです」
「やぁやぁ、センセー、元気」
 あまりこういう公衆浴場で、職名を出さないでほしいんだけど。
「はぁ、何とか。泥橋さんはこっちに戻ってきてんですか」
「ほら、きのう会社の創立記念日だったから、半ドンでさ。きのうの午後から戻ってきた」
 泥橋さんは、もともと大船にある機械工場で働いていた。
 しかし、親会社の都合で2月下旬から3ヶ月間、静岡県に出向に行っている。もうすぐ60歳定年だというのに、大企業は容赦ない。
「もしかして、きのうこっちに来てから、ずっと飲み続けているでしょ」
「わかる」
 何となく、けだるい表情の理由は、アルコールだったか。
「きのう観音食堂で夕方までいたじゃん。そんでもって、フラフラしながら関所に行った。それから、今度はほらバス停近くの焼き鳥屋」
「鳥藤ですか」
「そうそう、でもママに怒られちゃったよ」
「また、何かしたんですか」
「センセー、聞き捨てならないこと言っちゃいけないよ。またとかそういうの」
「いや、いくつも伝説を作っている泥橋さんだから」
 泥橋さんのおでこから大粒の汗が頬をつたう。
「焼き鳥屋に入るなり、フラフラで何言ったか覚えてないの。ただ、ママが怒っていたことだけは覚えてる」
 かなりわがままをやってしまったのだろう。
「向こうでの生活はいかがですか」
「それがさ、会社の寮と工場の往復だけで退屈なんだよ」
「飲んでないんですか」
「町まで行くと門限に戻れなくなるから、寮の部屋で缶ビール一杯だけだよ」
 にわかには信じがたい。
「部屋でそれしか、飲まないの」
「仕事前に血圧とアルコールのチェックがあって、引っかかると帰らされちゃうんだよ」
 なるほど、飲みたくても飲めない仕組みになっているんだ。
「じゃぁ、睡眠時間がたくさん確保できますね」
「それが、ちっとも眠れなくて、薬を飲んじゃってるよ」
「えー、そうなんですか」
 もしも、アルコールがないと眠れない脳になっているとしたら、泥橋さんのからだが心配だ。
 4月に嬉しい便りを聞きました。
 娘さんに連れられて、首都リーブスに来られたそうですね。
 永田さんが教えてくれました。たまたま仕事を早く終えて、関所に来たときに、赤坂さんが娘さんと来たと。
 藤沢のアパートは引き払って、いまは娘さん夫婦の近くに引っ越したとか。
 退院をして、リハビリを続けながら、元気なからだに戻れるようになってください。首都リーブスへは、もしかしたら退職に関する手続きだったのかな。
 わたしが、関所で立ち飲みを始めるきっかけを作ってくださったのは、間違いなく赤坂さんです。
「ここではなぁ、センセー、みんな勝手に飲んでるんだ。だから、自分の酒をひとにやったり、ひとの酒を自分がもらったりしちゃいけねぇんだ」
 そんなルールをもっともらしく教えてくれましたね。そのくせ、自分はせっせと烏丸さんに日本酒をあげていたのを、わたしは知っています。
 関所の仲間。
 少しずつ、メンバーが入れ替わっています。昔からのひとだって元気なひともいます。
 ご近所の一葉さん。おかずをちょっと作ってはいまも差し入れしてくれます。先日は、ナナフシのようなキャラぶきをプレゼントしてくれました。
 ここにも書きましたが、泥橋さんはゴールデンウィークにも戻ってきました。連日、飲み続け、奥さんの顰蹙をかっていました。一日、2万円ぐらい使っているみたいです。
 佐藤先生はいつもながら元気です。福島のマラソンにも出場したそうです。先日は、製薬会社主催の研究会でもらったお弁当を食べないで持ってきました。なんと御代川の二段重ねの豪華弁当です。大将にあげていました。
 極楽寺のカディさんは相変わらず香辛料を手土産に、プール通いを続けています。最近は、粟とか稗のようにインド原産ではない食材を扱おうとしています。プールの前にビールを飲むことがすっかり習慣になってしまいました。
 シンロートの相田さんは、昇進したみたいで、スーツでネクタイという姿で関所に来る回数が増えました。でも、以前のように遅くまで関所にいることが減って、若女将がちょっと心配しています。
 定年退職後も嘱託として残った山ちゃんは、週末の競馬をいまも楽しみにしています。決して大当たりをしても、そのことは教えてくれません。
 おもに鳥藤の常連客の鎌倉さん。赤坂さんと同じ首都リーブスの社員です。退職までに宝くじを当ててアマゾンに移住する計画をまだ実行していません。先日は1週間の休みをとってスキーに行っていました。帰ってきてから聞いたら
「スキーをしている時間よりも、ロッジで休んでいる時間のほうが多かったよ」
と教えてくれました。
 ピンクの紙パックでしたね。いまも大型冷蔵庫の入り口に置いてあります。
 ほかのひとの残りなのか、赤坂さんの日本酒なのかはわかりません。
 いつも、わたしの日本酒を取りに冷蔵庫に入るときに、目に触れるので赤坂さんのことを思い出します。
 きっとお医者さんから大好きなアルコールは止められているのでしょう。でも、赤坂さんのことだから、こっそり自宅では飲んでいるのかもしれませんね。
 先日、烏丸さんがおでこに小さな切り傷を作って酒を飲んでいました。
 理由を聞きました。
「いい調子で飲んでてさ。家まで帰ったのはよかったんだけど、家のなかで、すってーんだよ」
 洗面台で自分の顔を見たら、血みどろだったみたいです。
 関所の立ち飲みメンバーは、酒に酔ってけがをしながらも、以前と同じようにわいわい夕方のひとときを楽しんでいます。
 いつか、赤坂さんが元気になって、ふたたび関所に立ち寄っても大丈夫なように、奥のコーナーは空けてあるみたいです。

 大型連休が終わり、関所にいつものメンバーが戻ってきた。
「ただいまぁ」
 わたしは藤沢の職場から1時間をかけて歩いて戻ってきた。背中には汗をかいている。
「やぁ、センセー久しぶりだなぁ」
 関所の中央奥の大型冷蔵庫前で烏丸さんが、焼酎のウーロン茶割を飲んでいた。
「お久しぶりです。烏さん、連休中はどこかに行きましたか」
 烏丸さんはにっこりして言う。
「ちょっとあったかい地方へな」
「西の方ですか」
「瀬戸大橋を渡って、淡路島とか香川とか、最後は広島に行って戻ってきた。一回だけ車で寝たけど、あとは民宿泊まり」
「それは、うらやましい」
 烏丸さんはドライブが趣味なので、軽のパジェロでどこまでも行ってしまう。
「センセーは、何をしていたの」
「わたしですか。わたしは野田の湯というお風呂屋さんに行き、関所という酒屋さんに行っていました」
 目尻にたくさんのしわを作って、烏丸さんが笑う。
「そりゃ、ぜいたくな連休だなぁ」
 あーあ、レジで若女将が背伸びをした。
「みんな、いいなぁ。でも、わたしは来週お仲間と鎌倉山に行くからいいんだ」
 少しずつお金を積み立てて食事会をしている仲間がいるそうだ。今回は、ローストビーフの鎌倉山に行くと言っていた。
 くれぐれも、事前に舞い上がりすぎて、当日までにエネルギーを使いすぎないように。
(第15章 了)

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