railway review
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EF65形電気機関車1019 ●EF65形電気機関車塗色変更機

1987年の国鉄民営化以降、老朽化した機関車を除いた269両がJR各社に継承された。そのうち199両を継承したJR貨物は、新会社の宣伝を兼ねて、これまでの塗装とは異なった色を塗って走行させた。また側面にEF65と白抜きした1019号機は、スーパーエクスプレスレインボーの専用機関車として活躍している。
EF65形電気機関車1000番代 ●EF65形電気機関車1000番代

1969年、旅客用と貨物用と区別しない機関車として1000番代が誕生した。上越線での使用を想定したため、寒冷地仕様になっている。前面貫通型となった。現在も「出雲」「なは」を牽引している。
EF65形電気機関車500番代 ●EF65形電気機関車500番代

1965年6月、ブルートレイン牽引機として、500番代が誕生した。毎時100キロ走行を可能にした。東京と九州を結ぶ「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」「みずほ」「富士」などを牽引した。旅客用がP型、貨物用がF型と呼ばれた。
EF65形電気機関車0番代 ●EF65形電気機関車0番代

1964年東海道新幹線が開通した。これにより東海道線で活躍していた151系電車が山陽本線にも投入された。高速の電車が普及する一方で貨物列車の速度強化が求められた。電車による特急と協調する貨物ダイヤを組む必要から、高性能機関車が必要になった。EF60以降に改良された機関車の優れた点を集約させて、直流区間の貨物標準機として1964年より135両が投入された。
EF64形電気機関車 ●EF64形電気機関車

奥羽本線の難所板谷峠。1964(昭和39)年に試作機が完成した。福島と米沢区間に投入された勾配専用機関車。また1980(昭和55)年に登場した1000番代は上越線専用機関車として投入された。耐寒・耐雪装置が標準装備された。国鉄民営化後にJR貨物に引き継がれ、塗装が一新した。
EF63形電気機関車 ●EF63形電気機関車

1963(昭和38)年信越本線横川・軽井沢間がアプト式から粘着式にかわった。それにともなって開発された専用機がEF63だった。この区間のみの専用機として「峠のシェルパ」のニックネームをもった。長野オリンピック実施に伴う北陸新幹線長野開業に伴い横川・軽井沢の峠越え区間は廃線となった。
EF62形電気機関車 ●EF62形電気機関車

信越本線横川と軽井沢間の急勾配を運転するために開発された急勾配専用電気機関車。また高崎から長野までの全区間も通しで牽引できた。軸配置がC-C方式を採用している。現在、1号機と54号機が碓氷峠の鉄道文化村に保存されている。
EF61形電気機関車 ●EF61形電気機関車

昭和30年代のなかばは、電化区間の広がりにあわせて、大型蒸気機関車にかわる旅客用電気機関車の開発が期待された。1961(昭和36)年に登場したのが、EF61である。新幹線も高速道路もまだ完備されていない時代だった。東海道区間から山陽区間への大量の物資とひとの輸送に適した機関車として開発された。旅客用に開発されていたEF58にかわる新性能機だった。また101系や151系など電車が続々と開発され、やがて機関車が牽引する時代が終わっても活躍できるように、EF61には最小限の改造で貨物用に転用できるよう設計が施された。1991(平成3)年全車廃車になった。
EF60形電気機関車 ●EF60形電気機関車

1960(昭和35)年に東海道・山陽本線向けにF型直流新性能電機として登場したのがEF60形電気機関車だ。それ以前に高速貨物用に活躍していたEH10が8基の主電動機で最大2350kW出力だったのに対して、EF60は6基の主電動機で最大2340kW出力になった。さらに十両は10t以上も軽くなった。直列・直並列・並列の制御方式を採用し、各段の終わりに弱めの界磁制御を設定した。界磁制御の活躍によって、平坦地1200t貨物を牽引した場合、最大82km/hという高速走行を実現した。本来は貨物用に開発されたEF60だが、1963(昭和38)年には九州ブルートレイン「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」「みずほ」の4往復体制ができるとそれまでのEF58に代わって旅客牽引機として500番台が製作されるようになった。最大勾配22.5%の山陽本線瀬野・八本松(セノハチ)区間の牽引で威力を発揮した。143両製作されたが、現在は19号機が高崎運転所に、503号機が宮原運転所に残り、動態保存されているのは19号機のみになった。平坦地向けF型直流電機の決定版EF65開発の基礎を築いた。
ED62形電気機関車 ●ED62形電気機関車

ED61が飯田線に投入された。そのときに遊輪と呼ばれる中間台車と取り付けた。それがED62だ。なかでも15号機はお召し列車を牽引した。
ED61形電気機関車 ●ED61形電気機関車

ED60形の兄弟機であるED61は、中央本線の急勾配用に電力回生ブレーキを搭載したためにED60よりも1300mm長くなり、軸重が1t重い15tとなっている。
ED60形電気機関車 ●ED60形電気機関車

昭和33(1958)年に誕生したED60とED61は国産機として四半世紀ぶりに開発された初の直流新性能電気機関車で、以降製造される新系列機関車の基本となった。しかし、直流機がここまで最新技術を駆使できたのは、交流機の成功が大きく影響していた。B-B型の軸配置とし、それまでのED機特有のいかつい前面デッキがないスタイルとなり、貫通扉が設けられた。
EF59形電気機関車 ●EF59形電気機関車

EF59は昭和38(1963)年から47(1972)年にかけて戦前製のEF53,56を改造し、山陽本線瀬野・八本松間のいわゆる「セノハチ」専用機とした電気機関車。普通貨物列車からブルートレインまで後押しを黙々と勤め国鉄末期まで活躍を続けた。最大22.5%の急勾配「セノハチ」区間。碓氷峠、板谷峠と並ぶ国鉄3大難所。1894年の開業以来、瀬野には機関区が設置され、上り専用に補機が使用されてきた。
EF58形電気機関車 ●EF58形電気機関車

1946年から1948年まで生産された一次型は31両。1952年から1年間に渡って二次型が34両量産された。二次型は運転台正面に二枚の窓をつけクハ86と同じ流線型になった。60号機と61号機はお召し列車に指定された。1954年から3年間に渡って三次型が107量生産された。1953年からは「つばめ」「はと」を牽引した。東海道線が全線電化されてからは寝台特急「あさかぜ」などを牽引した。いわゆるブルートレインの先頭車だ。現在は61号機が東日本、122号機と157号機が東海、150号機が西日本に保存され、イベント列車の牽引用として活躍している。
EF57形電気機関車 ●EF57形電気機関車

EF56のモーターだったMT17をMT38へ交換。これにより出力が1350kWから1600kWへパワーアップしたのがEF57である。1940(昭和15)年から15両が生産された。すべて沼津機関区に配備され、客車列車牽引を行った。1949(昭和24)年に復活した特急列車「へいわ」の牽引車として用いられた。その後、「へいわ」は「つばめ」に改称される。東海道本線の完全電化にともなって長距離牽引に耐えられる機関車の必要性が増し、高崎機関区へ配置転換になった。1977(昭和52)年に全機引退になった。
EF56形電気機関車 ●EF56形電気機関車

蒸気機関車から発生した蒸気を客車に供給して冬季の暖房が行われていた。電気機関車が主流になってからは蒸気だけを発生させる暖房車が必要だった。この不合理性をなくすために、暖房用ボイラを搭載した電気機関車として開発されたのがEF56である。1937年から1940年まで12両生産されている。沼津機関区に配備。優等列車の牽引に使用された。1975年までに改造を受けなかった全車が廃車になった。
EF55形電気機関車 ●EF55形電気機関車

EF53の最後の三両分の資材を使って1936(昭和11)年に竣工した。沼津機関区に配備された。工業製品にも美的なセンスをというインダストリアルデザインという世界の流行を意識した流線型フォルム。日本の狭い線路幅とカーブの多い地形では、もともと電気機関車の高速運転はあまり必要なかったが、ムーミンの愛称で長く親しまれた。運転台が片方にしかなかったので、進行方向の転換にいちいち転車台を必要とした。使い勝手の悪さから1961(昭和36)年に用途廃止になった。1号機のみ高崎第二機関区に放置。1978(昭和53)年に準鉄道記念物に指定された。1986(昭和61)年に整備・復元工事を経て、現在はイベント列車を牽引して復活している。
EF53形電気機関車 ●EF53形電気機関車

初の国産標準型電気機関車のEF52の欠点を洗い出し改造を加えたのがEF53だった。1932年に一号機が製造されている。東海道本線の国府津機関区に配置された。また14号機から19号機までで優秀なものをお召し列車の牽引用として使った。特急「富士」「燕」「櫻」「鴎」の先頭に立って東海道本線を走った。1968年最後の13号機が改造されてEF59-19となり、旧型は消失した。
EF52形電気機関車 ●EF52形電気機関車

東海道本線東京・国府津間の完全電化に伴って、各国から輸入された電気機関車は性能も構造も異なっていたので、保守面での混乱を招いた。そこで、日立製作所・芝浦製作所・川崎車輌・汽車製造・三菱電機・三菱重工業などのメーカーが協力して、国産の電気機関車の製造にあたった。その第一号機がEF52である。1928年に一号機が製造された。改良を含め同型はわずかに9両しか生産されたなかったが、最後の2号機と7号機が廃車になったのは、なんと1975年だった。誕生から47年間も走り続けたのは、電気機関車の信頼性を高めることに貢献したからである。
EF16形電気機関車 ●EF16形電気機関車

EF15を改良して、回生ブレーキを使用したEF16は、奥羽本線の板谷峠越えで活躍した。下り勾配で車輪を締め付けるブレーキを多用すると、車輪が磨耗してしまう。これを回避するために、採用された回生ブレーキは電気的にモーターに負担をかけて車輪の回転数を減らすものだった。これによって電気設備には負担がかかるが、効果は絶大だった。1951年から生産が開始され、1958年までに24両が生産された。水上町「道の駅・水上水紀行館」に28号機のみ静態保存されている。
EF15形電気機関車 ●EF15形電気機関車

太平洋戦争の戦局悪化に伴って設計された「戦時型」電気機関車。限られた材料で製作されたので能力を最大限生かすことができなかったが、想像以上に長寿を保った。1944年10月20日に国鉄水戸工場で第一号機が誕生した。これは学徒によって製作された。ステップは木製だった。戦後はいくつもの改良が施され、最後の24号機が廃車になったのは、1979年のことだった。戦争中だけ持てばよいという戦時型設計の機関車としては異例の長寿車輌だった。
EF13形電気機関車 ●EF13形電気機関車

戦局の悪化によって「戦時設計」ののっとって製作された電気機関車。資材が不足し、熟練技術者が流出した。国鉄は、材料を極限まで切り詰め、簡単な工作によって製造が可能な車輌設計を採用した。それが「戦時設計」だ。1944(昭和19)年10月20日に国鉄水戸工場で1号機が完成した。
EF12形電気機関車 ●EF12形電気機関車

EF10形電気機関車を基本にして主電動機をMT39に換装して出力を増強した。これにより定格出力が1600kWへと引き上げられた。1941(昭和16)年に1号機が完成した。その後17両生産された。最終的に1982(昭和57)年まで現役で働き、使い勝手のよさを証明した。
EF11形電気機関車 ●EF11形電気機関車

EF10形電気機関車を基本にした山岳用の電気機関車。地上整備の遅れや乗務員の習熟の問題があった。そのため4両のみしか製造されなかった。1934(昭和9)年に1号機が完成した。
EF10形電気機関車 ●EF10形電気機関車

東海道本線の丹那トンネル開業に合わせて1934(昭和9)年に登場したのがEF10形直流電気機関車だ。戦前の電気機関車で最多の41両が生産された。これは日本初の国産電気機関車となった。1次型の1-16号機は、日立製作所・芝浦汽車製造・川崎車輌・東洋電機・日本車輌・三菱重工業の5社で製造された。コンセプトは平坦地において1000tクラスの貨物を長距離・長時間牽引できることだった。1935年には回生ブレーキを用いた2次型の17-24号機が製造された。最大の特徴は、住友金属製の一体鋳鋼製台車HT57の採用だった。組み立て型台車と違い、大量生産により大幅なコストダウンにつながった。
ED16形電気機関車 ●ED16形電気機関車

電気機関車の国産化が軌道に乗った1931(昭和6)年、上越線が開通する。一部は電化され、中央本線も甲府まで電化区間が延伸した。ともに急勾配とトンネルが連続する区間があることから、勾配対策用として国産3番目のD型電機が誕生した。1931年に谷川岳の山腹を貫く清水トンネルが開通。このトンネルによって上越線が全通した。軸配置は1BB1。川崎車輌、芝浦電気、日立製作所、三菱重工業で18両製作された。1960年に全18両が立川機関区に集結し、1983年に老朽化を理由に引退した。1号機が青梅鉄道公園、4号機がJR東日本大宮工場、15号機が山梨県若草町総合会館に保存されている。
EF51形電気機関車 ●EF51形電気機関車

1926(大正15)年に、アメリカのウェスチングハウス社から輸入された2両の8010形は運用面では終始目立たない存在だった。しかし、ED52形電機に始まる国産標準電機の手本となった優秀な電気機関車だった。同時に輸入された6010形のF級という扱いだった。旅客用F級機としては唯一の一軸先台車をもつ1CC1配置。首振り式の棒台枠に3対の動輪を配する構造は、のちの国産F級にも受け継がれた。3つの動輪が等間隔で並んでいるのは、8010形の特徴だ。1958年八王子機関区で2両とも廃車になった。
EF50形電気機関車 ●EF50形電気機関車

東海道本線東京・国府津間の電化に備えて8両が輸入された。日本で最初のF級(動輪軸が6本)電機。急行牽引機として安定した性能を発揮した。晩年は高崎線にも転出した。1923年の関東大震災で多くの電車が失われた。その損失を埋めるために、イギリスのイングリッシュエレクトリック社から8000型電気が輸入された。当時の機関車のなかではずば抜けて大柄だった。小津安二郎監督が戦前の1930年に撮影したサイレント映画「朗らかに歩め」の冒頭シーンに登場する。旅客列車を牽引するEF50電機が車を追い越すシーンだ。
ED54形電気機関車 ●ED54形電気機関車

1926(大正15)年、東海道本線向けの第三次輸入電機群の一部としてスイスのブラウン・ボーベリー社から7000型2両が輸入された。日本で唯一のブフリ式駆動装置を持ち、卓越した才能を誇った。東京・沼津間で急行列車を牽引したが、保守の困難さから次第に運用を離れ、早期に廃車にされた。ブフリ式駆動装置は、片側にのみ駆動装置と大歯車をもつため、動輪の片側のみが大歯車のカバーに覆われている。車体左右の重量バランスを保つために床上機器を反対側に配置。その結果、サイドビューが左右非対称になった。1948年に2両とも車籍抹消。1号機は1950年に解体。2号機は1936年に解体。
ED53形電気機関車 ●ED53形電気機関車

1926(大正15)年、アメリカのウエスチングハウス社から6両輸入された6010形(後のED53)電気機関車は、丹那トンネルの延伸に伴い、導入された。やがて6両は仙山線の電化により、4両が転出、さらに中央本線に2両が転出。その後は飯田線の国有化によって6両が移った。そこで歯車比を変更し、ED19形電気機関車となり、永く走行した。
ED14形電気機関車 ●ED14形電気機関車

石炭価格の高騰がきっかけで国内の鉄道は蒸気から電気へと転換していく。1922(大正11)年に第一次着工区間として東海道線の東京・国府津間の電化工事が始まる。先に輸入されていたED11形電気機関車が安定した走行をしたので、引き続きアメリカのGEから4両輸入されたのが、ED14形(当時は1060形)電気機関車だ。1960(昭和35)年に車籍を抹消された。その後、近江鉄道へ4両とも譲渡された。1号機と4号機は現存しており、イベント用に走行している。
ED12形電気機関車 ●ED12形電気機関車

1923(大正12)年にスイスのブラウンボーベリー社から輸入された1020形電気機関車は、前後のひさしの下に前照灯を取り付け、スイスの電車として異形を放った。最初は国府津機関区に配属されたが、1944年に久里浜機関区に移動。そのまま廃車。西武鉄道に移り、昭和50年代まで走った。
ED11形電気機関車 ●ED11形電気機関車

1922(大正11)年12月に横浜に到着したアメリカのゼネラルエレクトリック社製の1010型電気機関車2両は、大井工場で組み立てられた。その後、調整を経て、1923年に中の電車庫に配属された。当時は山手線が環状運転をしていなかった。中野・新宿・四谷・東京・品川・池袋・上野を走行した。その後、東海道線が直流1500V仕様に決まったことを受け、改良。1928の称号改正により、ED11となった。ED11形一号機は、熱海・国府津間の完全電化を受け、1938年に国府津機関区に移り、その後1960年に廃車。そのまま西武鉄道に譲渡された。
ED10形電気機関車 ●ED10形電気機関車

1925(大正14)年の東海道線国府津間電化に伴い、アメリカのウェスチングハウス社製の1000形電気機関車が輸入された。後のED10形電気機関車だ。東海道線が大型電気機関車に変わってからは横須賀線に投入され、1959(昭和34)年の解体まで久里浜機関支区で働いた。
ED41形電気機関車 ●ED41形ED42形電気機関車

1926(大正15)年にスイスのブラウンボーベリー社から輸入された10040形(ED41形)電気機関車は、信越本線の横川・軽井沢間に投入された。それまでのEC40形を上回る性能をもち、群馬や長野の生糸を海外に輸入するための貨物列車を運んだ。その後、国産の量産型ED42形が主流になった。写真は、ED42形電気機関車。
EC40形電気機関車 ●EC40形電気機関車

1911(明治44)年電化された信越本線の横川・軽井沢間にドイツ製アプト式電気機関車10000形が投入された。1928(昭和3)年の称号改正で10000形はEC40形と変名した。
EC10形電気機関車 ●EB10形電気機関車

1927(昭和2)年、東北本線の王子を起点とする貨物専用線が国有化され、専用の10形電気機関車が2両製造された。王子・須賀間2.5キロと王子・下十条間1.2キロに投入された。ここには大日本肥料の工場が隣接していて、おもに王子駅との貨物輸送が任務だった。近くに陸軍の火薬製造工場があったので周辺は火気厳禁。蒸気機関車が走れなかった。そのため蓄電池機関車として誕生した。EB101は東京都府中市の交通遊園に保存されている。
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