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E10型蒸気機関車 ●E10型蒸気機関車

峠越えの4100型が車齢30年を越え、新たに誕生したのがE10型蒸気機関車だ。1948(昭和23)年に誕生した。1E2という珍しい軸配置だ。巨大パワーを発揮して多くの旅客や貨物を運ぶはずだったが、予想以上に各地の電化が進み、活躍した期間は短かった。サイズが大きすぎたために、線路への負担が大きく、地方路線では敬遠された。
4100型蒸気機関車 ●4100型蒸気機関車

山野の多い日本の地形では峠越えが機関車にとっては大きな課題だった。アプト式の碓氷峠以外では、奥羽本線の板谷峠と鹿児島本線の矢岳越えが難所とされた。その難所専用に導入された蒸気機関車が、4100型と4110型だった。動輪が5軸もある特殊な形態をしていた。ドイツから輸入している。
D62型蒸気機関車 ●D62型蒸気機関車

戦時下に設計されたD52の改良型として戦後に作られたのがD62型蒸気機関車だ。国鉄最大重量の貨物用蒸気機関車になった。パークシャー型と呼ばれる1D2軸配置。晩年は東北本線で貨物列車を牽引したが、全線区電化にともない生産された20両すべてが廃車になった。
D61型蒸気機関車 ●D61型蒸気機関車

1960(昭和35)年、浜松工場で1号機が作られた。国鉄最後の蒸気機関車だ。全部でわずか6両のみ。母体になったのはD51。すでに蒸気機関車としては技術の頂点にあったD51なので、改良部分は少なかった。おもに寒冷地仕様が目立つ。
D60型蒸気機関車 ●D60型蒸気機関車

戦後、D50を改良して完成したのがD60だ。全部で78両が改造された。線路規格の低い地方線に導入された。
D52型蒸気機関車 ●D52型蒸気機関車

1943(昭和18)年12月21日に1号機になる21号機が完成した。戦時下なので、資材が節約され製造工程が簡略化された。国鉄最大の牽引力1200トンを誇る。1946(昭和21)年まで285両が製造された。1945年に3件、1954年に1件のボイラ破裂という大事故を起こす。これは、使用材質と溶接工作の不良が原因とされている。1973(昭和48)年5月北海道の室蘭本線で最後の運転をした後に廃車になった。
D51型蒸気機関車 ●D51型蒸気機関車

昭和不景気によって貨物輸送量が激減し、製造が終了したD50にかわり、景気が上向いてきた1936(昭和11)年に1号機が製造されたのがD51だ。日本政府と軍部が世界戦争に突入していく時代に、おもに物資の輸送に活躍した。1945(昭和20)年の製造終了までに1115両も製造されるヒット機関車になった。1C1軸を採用。1975(昭和50)年12月24日、蒸気機関車牽引による営業運転最終日に運転したのがD511086号機など4両のD51だった。
D50型蒸気機関車 ●D50型蒸気機関車

9600型の後継機として登場したのが9900型蒸気機関車だ。動輪直径1400mm。広火室を採用し1C1軸。1923(大正12)年に1号機が製造され、1928(昭和3)年の称号改正でD50になった。1931年までに380両も製造され、四国を除く全国各地でおもに貨物輸送用に使われた。牽引力では9600型よりも50%もアップし、およそ1000トンもの牽引に成功した。現在は、梅小路蒸気機関車館と北海道北見市の三治公園にそれぞれ140号機と25号機が静態保存されるのみだ。
9600型蒸気機関車 ●9600型蒸気機関車

明治時代の日本では蒸気機関車を製造する技術が乏しく、ほとんどを輸入に頼っていた。工業生産力の向上とともに、国産の蒸気機関車の製造が待望された。そんななか1913(大正2)年に貨物用9600型機が、翌年には客社用8620型機が、川崎造船所、汽車製造をおもなメーカーとして量産に入った。それまでの蒸気は動輪間にボイラを配置していた。しかし、9600型は動輪上にボイラを配置したので、狭軌でも走行できるようになった。そのため動輪は1250ミリという小径のものを採用し、機関車全体の重心を上げない工夫がなされた。「網走番外地」「男はつらいよ」などの映画にも登場している。
軸の配置は1D。最大軸重は13.7t。1913年から1926年まで770両製造された。
C62型蒸気機関車 ●C62型蒸気機関車

C59の走行性能を目指し、戦争時に貨物輸送用として使われ戦後に余剰となっていたD52とD51を改造して製造されたのがC62型蒸気機関車だ。軸配置を2C2にすることによって、軸重を16.08tにまで軽減することに成功した。シロクニの愛称で知られる蒸気は改造車であったためか、1948年にわずか49両しか製造されいない。しかし、その後もひとびとの記憶に強く残った。それは、この機関車が全国各地で特急電車を牽引したからだろう。東海道本線「つばめ」「はと」。「かもめ」。寝台特急「あさかぜ」「さちかぜ」「はやぶさ」「みずほ」。東北本線「はつかり」「ゆうづる」「みちのく」。北海道では「ニセコ」。1972年10月に引退。
C61型蒸気機関車 ●C61型蒸気機関車

戦後の旅客輸送のために貨物用機関車を改造したのがC61型蒸気機関車だ。1947年から1949年までに33両が製造された。おもにD52を改造したC62に対して、D51を改造したのがC61だ。軸配置は2C2。軸重は13.7t。この軽量化が旅客輸送にむいた。
C60型蒸気機関車 ●C60型蒸気機関車

軸重とは、機関車の動輪にかかる重さ。軽すぎると上り坂で車輪が空転する。重すぎると線路にかかる負担が増す。特別甲線と呼ばれる東海道線や山陽本線は線路が強力だったので軸重の重い機関車には有効だった。しかし、これらの区間が電化され、蒸気機関車が地方へと追いやられるのに伴い、軸重を軽減する改造が必要になった。軸配置をC59の2C1から2C2のハドソン型に改良したのがC60型だ。これにより、軸重が16.2tから15tに軽減された。「はつかり」「はくつる」「さくら」などを牽引した。
C59型蒸気機関車 ●C59型蒸気機関車

C53の改良型として1941(昭和16)年から製造が始まったC59型は、1943年に戦局の悪化でいったん製造を中止。戦後の1946(昭和21)年からふたたび製造が再開された。これにより戦中型と戦後型は仕様が異なった。2C1の軸配置。戦後型はボイラに燃焼室が設けられ、火室の前に位置した。長さが50センチも伸び、全長21575mmという最長の蒸気機関車になった。
C58型蒸気機関車 ●C58型蒸気機関車

通称シゴハチ。8620型のスピード性能と9600型のパワーをもつ旅客・貨物万能機として製造されたのがC58型蒸気機関車だ。1C1の軸配置。現在も363号機が秩父鉄道で「パレオエクスプレス」として走行している。1938年から1947年まで427両も製造された。1966(昭和44)年の蒸気機関車最後の年まで一両も廃車がなかった優秀機だ。
C57型蒸気機関車 ●C57型蒸気機関車

C55を改良した国鉄最後の旅客用蒸気機関車がC57だ。その優美な姿からファンには「貴婦人」の愛称で知られている。現在もSLやまぐちとSLばんえつ物語号が走行している。ボイラ圧力をアップしたことから鋼鉄の厚さを14mmから16mmに変更している。動輪はスポークから、当時流行していたアメリカンタイプのボックス動輪に変更された。1937年から1947年まで川崎車両・汽車製造・日立製作所・三菱重工業が201両を製造した。
C55型蒸気機関車 ●C55型蒸気機関車

現場泣かせのC54に近代装備を着装し、C51の後継機として登場したのがC55型蒸気機関車だ。1935(昭和10)年から1937(昭和12)年にかけて62両製造された。ボイラー上部の砂箱と蒸気ドームが一体化した。動輪は、自転車のようなスポーク芯を採用している。スポークの数は18本だった。
C54型蒸気機関車 ●C54型蒸気機関車

C51型を改良し、規格の狭い路線への入線を可能にしたのがC54型蒸気機関車だ。2C1軸配置の1750mm動輪直径。川崎車両と汽車製造が1931年から1932年にかけてわずか17両しか製造していない。軽量化によって、車輪の空転が起こり、操縦しにくい車両だった。戦時下で、部品が不足し、整備が追いつかず、現場泣かせの車両だった。
C53型蒸気機関車 ●C53型蒸気機関車

1928(昭和3)年から製造が始まったC53型蒸気機関車は、客車が木造から鋼鉄に変わっていく時代に牽引力不足になったC51型の後発機となった。本線用の3シリンダー搭載だ。43号機は流線型をしていて目立ったが、結果的に空気抵抗が少ないことが立証されず、戦争が始まるとカバーは軍隊に供出された。川崎車両と汽車製造が1930年までに97両製造した。
C52型蒸気機関車 ●C52型蒸気機関車

すでに狭軌のレール上ではこれ以上の改良は不可能と言われていた時代に、シリンダーを追加するという新しい技術で登場した国産唯一の三気筒機関車。アメリカンロコモティブ社から輸入した機関車を改良して製作された。木製の客車が安全面から鋼製にかわり、重い客車を牽引する必要がC52誕生の背景にあった。
C51型蒸気機関車 ●C51型蒸気機関車

線路幅が狭い(狭軌)日本の鉄道で、動輪の直径が1750mmという驚異の大きさを実現し、東京・大阪間を従来の10時間40分から2時間半も縮めた特急「燕」を牽引した。軸の配置は2C1。1919(大正8)年に登場し、289両が製作された。なお線路幅を国際標準の1435mmにしようとする動きと従来の狭軌1067mmでいいという考えは、戦前の国会で衝突したという。
C50型蒸気機関車 ●C50型蒸気機関車

8620型の改良機として1929(昭和4)年から登場した。しかし、世界大恐慌の影響を受け国内は輸送業が低迷し、製作台数は1933(昭和8)年までのわずか158両だった。C50の先台車は曲線で元に戻ろうとする復元力が強すぎて脱線しやすいという欠点があった。そのため最終的には入れ替え作業用の機関車として使われた。
8620型蒸気機関車 ●8620型蒸気機関車

国鉄初の国産旅客用量産蒸気機関車。ドイツから輸入された8800型をもとにして設計された。1914(大正3)年から732両が製作された。熱せられた蒸気を蒸気溜めを経由(飽和式)しないでボイラ側面の過熱管をくぐらす(過熱式)方法を採用し、1Cという小型化を実現させた。機関車の形式を4桁の数字で表す形式称号は1909年に決まったが、改造が繰り返された8620型は形式称号が不足し、8699型の次を18620型という80進法表記にした。
6760型蒸気機関車 ●6760型蒸気機関車

国産標準化最初の蒸気機関車6700型を改良した6760型蒸気機関車は軸配置が2Bというアメリカン方式を採用した。1914(大正3)年〜1918(大正7)年までに88両が製造された。2B式テンダー型国産機は、その後の蒸気機関車の標準スタイルとして多くのひとびとの記憶に残るスタイルとなる。しかし譲渡の記録がなく1958年までにすべてが解体された。
C56型蒸気機関車 ●C56型蒸気機関車

簡易路線でありながら、長時間給水、長時間給炭せずに走行できる蒸気機関車として製造されたのがC56型蒸気機関車だ。1935(昭和10)年〜1939(昭和14)年にかけて164両製造された。軸配置は1Cで、テンダー車つき。破裂の危険のあるボイラーを電気溶接した。この技術の確立は、日本の工業の発展にも寄与する。
C12型蒸気機関車 ●C12型蒸気機関車

世界大恐慌の影響を日本国内でも受けていた昭和初期、国鉄も蒸気機関車の製造に節約という要素を必要とされた。その結果、軸重や車重を軽減させたC12型蒸気機関車が製造された。1932(昭和7)年〜1947(昭和22)年までに293両も製造された。軸配置は1C1。建設費の縮小を求められた国鉄は新規路線を規格が低い簡易路線にした。C12は簡易路線専用に誕生したのだ。
C11型蒸気機関車:新橋駅前にてhttp://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/playback/sl/ ●C11型蒸気機関車

C11は1932年に製造が始まり、戦後までに381両も製造されるスタンダード機関車になった。
C10-8号蒸気機関車:ウィキペディアより 大井川鐵道大井川本線千頭駅にて 2001年7月 ●C10型蒸気機関車

1930年国鉄が輸入蒸気機関車を徹底的に研究し独自の機関車を生産したのがC10型だ。大都市の人口増加と工業の発展を支えるひととものの輸送に、短距離用の機関車が必要だった。川崎車輌が15両、汽車製造が8両の23量しか製造されなかった。この結果を受けて大量生産されたのがC11型である。
1号蒸気機関車150型:鉄道博物館HPより ●シャープ・スチュアート

日本で最初に輸入された蒸気機関車11両のうちの2号機から5号機までがシャープ社製作。160型と呼ばれる。輸入当初、運転台に屋根がなかった。雨が多い日本の風土を考え、輸入後に屋根が取り付けられた。運転性能がよかったので、12号機が追加配備された。12号機はいまでも愛知県明治村で動態保存されている。1883年すべての160号機が日本鉄道に貸与された。
写真:二川にて。相原大樹氏撮影 ●小田急MSE甲種輸送

日本車輌で落成した60000形「MSE」60253編成6連が、2009年10月30日(金)、豊川から松田(新松田)まで甲種輸送された。 豊川から西浜松までは愛知機関区のDE10 1725が、西浜松から松田(新松田)までは新鶴見機関区のEF65 1077が、それぞれけん引した。(railf.jpより) 甲種輸送とは、自力走行せずに他の機関車に牽引されて輸送されること。トレーラーに乗せる乙種輸送、船舶での丙種輸送と区別される。
NEWS ●鉄道の始まり

1872年(明治5年)新橋と横浜間に蒸気機関車が走った。開業は旧暦9月9日が予定日だったが、暴風雨だったので9月12日に延期された。新暦へはこの年の12月から移行されたので、当時はまだ旧暦が使用されていた。新暦では10月14日。イギリスから10両の蒸気機関車が輸入された。5つの会社が製作した。一社に利益を独占させない判断からだ。
NE Train スマート電池くん ●蓄電池駆動システム

JR東日本は充電した電池で非電化区間を走行する新型車両を公開した。名前は「NE Train スマート電池くん」。電化区間は架線電流を使用する。非電化区間になると、蓄電池の電気を使用する。これによりディーゼルエンジン使用時に比較して、CO2を大幅に削減できるという。
NEWS ●荷物を網棚へ

特急電車や新幹線で旅をする。手荷物を大きなバックやリュックに入れるひとは多い。その荷物を手元や足元に置かないで、網棚を使うひとも多い。そのときに、最低限のルール。自分の座席から垂直方向に上にのびた範囲に荷物を収めるべきだ。網棚には座席の区分はない。となりの座席の上にある網棚まで荷物をはみ出して載せるのはマナー違反ですよ。
NEWS ●鉄道博物館は実物がたくさん

大宮の鉄道博物館は、蒸気機関車から新幹線まで実物がたくさん展示してある。見るだけでなく、客席に座ることもできる。ランチトレインはランチを食べることも可能だ。
伊豆急行伊豆熱川駅ホームより ●伊豆北川温泉

伊豆急行線の「伊豆北川」駅下車。勾配のきつい斜面上の駅から、海岸沿いの温泉街に一気に道が下っている。小さな石でできた海岸には、黒根岩風呂。600円で相模湾を一望できる露天風呂。北川温泉で唯一の食堂「磯辺」は、さざえにあわびなど海の幸が豊富。
NEWS ●運転士が乗客を携帯撮影

JR西日本の運転士が運転中に携帯電話で乗客を撮影していた。その間、両手をブレーキハンドルから放してからだを客席側に向けていた。運転士は20代後半。「興味がある女性が乗り込んできたので撮影した」と動機を述べている。国鉄時代、運転士の育成にはとても時間がかかった。運転という技術だけでなく、先輩運転士は社会性や道徳性も指導した。
大船駅に入線する特別急行「踊り子」 ●特急踊り子号で伊豆に行こう

1981年10月1日に東京と伊東・伊豆急下田・修善寺間を結ぶ特急として「踊り子」が誕生した。老朽化が進んだ急行「伊豆」の153系車両から新鋭の185系車両が一気に特急化された。「踊り子」という名称が国鉄の特急名にふさわしくないという議論を巻き起こした。
ED75 775番。交通博物館。2009年8月
ED75 775番のスカート部分。交通博物館。2009年8月
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