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ほぼ毎日更新の雑感「ウエイ」
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井川香四郎
koshiro ikawa

ご隠居は福の神
13
人身御供

吉右衛門と和馬は富岡八幡宮の参道にいた。出店が並び客寄せの威勢がある。「祭りとはいいものでございますなあ」。吉右衛門は目を細めて平穏そうな人々の顔を眺めていた。そこに威勢のいい女の声が響いた。「さあさあ、買った買った!これを買わないと末代まで悔いを残しちまうよ」。桔梗模様の粗末な着物を纏う、はち切れそうな若さと美貌の女香具師がいた。茣蓙に並べた壺を前に派手な口上を並べ立てる。気になった吉右衛門が近づく。それを見た和馬の表情が一瞬曇った。「これこそ初代唐九郎の手になる青磁の壺だよ」「唐九郎なら私も持っているが、これは紛い物だな」思わず吉右衛門は言ってしまった。「この耄碌爺さんじゃだめだ、そちらの若旦那はいかがです」。少し離れたところで俯いていた和馬に声をかけて、あっと驚いた。「高山和馬様ではありませんか」女香具師は和馬に抱きついてはしゃいだ。懐かしそうに頬ずりをする。「私だよ、お欄だよ」  (2024.10.17)二見時代小説80020245

ご隠居は福の神
12
罠には罠

相模湾で獲れたばかりのシラスを釜茹でにして熱々のご飯の上にたっぷり載せ、葱や海苔、胡麻などをかけて生醤油で戴く。丼をかきこんでいる吉右衛門。贅沢の極みを味わう。千晶はあきれ顔で見ていた。小田原城下の外れにある一膳飯屋。吉右衛門と同い年ぐらいの年寄りがひとりでやっているどこにでもありそうな店だった。この店の親爺は一癖も二癖もあった。吉右衛門は何度も来ている。若い頃、事件がらみでこの地を訪ねた時「おまえさん、今の仕事はやめた方がいい」と親爺に言われた。吉右衛門はまったく無視をして強引に事を進めたら、大失敗に終わったのだ。「あんたが余計なことを言ったからまとまるものもまとまらなかったではないか」。八つ当たりに過ぎなかった。しかし、親爺は「今やぜんぶ悪いつきものが落ちた。これからは上向きになる」そう言ったのだ(2024.10.10)二見時代小説80020237

ご隠居は福の神
11
八卦良い

正月の高山家はいつまでも賑やかさが続いていた。吉右衛門の日頃の親切に対して近在の人たちが感謝の挨拶をしにくる。その人波が絶えないのだ。小さな子どもらを高山家に預けて、親たちはゆっくりと参拝に出かけたり、仕事に行ったりしていた。そこに178歳の小柄な女が愛嬌のある顔で入ってきた。油売りのおたまだった。「そろそろ油壺が空っぽになっているかなと思って」。ちょうどみんなと鯛と大根の煮付けを食べているところだったので吉右衛門は、油を注ぎ足したら一緒に食べるように誘った。そこに大柄な岡っ引きの熊公がのっそりとやってきた。古味という評判の悪い同心から十手を預かっているので熊公も高山家に集まる人たちにすると相手にしたくはなかった。吉右衛門はあまりそういうことを気にしない。一緒に煮付けをどうだいと声をかけると「すぐ近くで死体が上りやした。大横川で水死でやす」と告げた。叫んだおたまを見て熊公が驚いた。二人は知り合いだったのだ。熊公が若い頃に世話になった孫六親分の娘がおたまだったのだ。5年前に親分が流行病で亡くなってからは、母親も病みがちになり、おたまが働かなくては干あがっちまうという(2024.9.10)二見時代小説75020233

ご隠居は福の神
10
そこにある幸せ

深川一帯は材木屋が多い。火事が多い江戸の普請を支えるのは深川だ。富岡八幡宮の参道は、日本橋と変わらないぐらいの繁華な町並みだった。その一画に和馬たちがテコ入れをした口入れ屋の閻魔屋がある。そこに身なりの良い年増女が訪れた。閻魔屋の権之助が女に気づき近づく。もしかして、権之助は女を路地に連れ込み詰問した。何が狙いなんだ!権之助は閻魔の顔になり、実の母親の女を追い返した。たまたまそれを見ていた和馬が権之助に近づく。事情聞こうとしたが、権之助はその場をごまかした。数日後、権之助は武士の別宅にいた。お茶を喫した権之助は久能という武士に250両を差し出した。公儀普請の賄賂として権之助が用意した金だった  (2024.9.5)二見時代小説750202211

ご隠居は福の神
9
どくろ夫婦

豊臣秀吉の財宝が各地に眠っているという噂は古くからあった。深川八右衛門新田の一角にある閻魔堂には地下蔵があり、その中の大きな壺の中にもお宝があるとお歌は信じていた。月のない真夜中、小雨が降っている。お歌は幽霊とか妖怪を信じていないので怖くない。これまで散々裏切りに遭ってきた。おだてられると二つ返事で面倒をみる女だったので、男には裏切られるし、商いでも貶められた。大損したことは数限りない。心を許した夫の平助だけ。そんな二人も50歳を過ぎた老夫婦になっていた。平助は何年か前に労咳になり、最近は長屋でふさぎ込んでいた。自分が稼がなきゃ粥の一つも用意できない。そんな思いがお歌をお宝へといざなう。閻魔堂本堂裏に小さな祠を見つけた。弘法大師の石像が置かれ、その下に秘密の階段があり地下につながっているという。小さなやっとこを手にしたお歌は、これまで少しずつ石像をずらしてきた。今夜は最後のひとずらし。コツコツと動かしていた石像が、突然ぐらついて崩れるように倒れた。ガラガラドスンと激しい音を立てて祠の壁にぶつかった

(2024.8.19)二見時代小説70020227

ご隠居は福の神
8
赤ん坊地蔵

亀戸村の真ん中に羅漢寺があった。信仰だけでなく困った人たちを助けたので庶民にも信者が増えた。本所の羅漢さんと親しまれたが最近妙な噂が広がる。悪い奴を地獄に落としてくれるというのだ。葬儀に使う黒い縁取りの絵馬に人の名前が書かれると数日後に必ず死ぬというのだ。吉右衛門がたまさか黒縁の絵馬に高山和馬の名前を見たのは粉雪が舞う夕暮れだった。「旗本 高山和馬 何人もの女を手籠めにしたろくでなし」と書かれていた。屋敷に戻った吉右衛門は千晶とともに働く若い女に気づいた。お喜美という。富岡八幡宮でヤクザにからまれていたのを和馬に助けてもらい、屋敷に来た。吉右衛門はお喜美の表情に気になるものを感じたが和馬は相手にしなかった。羅漢寺の黒縁絵馬のことも伝えた。俺のことではないと和馬はあっさり否定した。吉右衛門は屋敷に奉公する前の和馬を知らないと食い下がったが、お前には迷惑はかけぬと突っぱねられた。そこに現れた岡っ引きの熊公が人殺しの人相書きを見せに来た。和馬は知らない顔だったが、吉右衛門はある男のことを思い出していた(2024.8.16)二見時代小説70020223

ご隠居は福の神
7
狐の嫁入り

深川診療所に羽織姿の中年男が足を引きずりながら入ってきた。脇腹には匕首が刺さり、血がたれていた。千晶は真っ先に男を抱きとめ、医師の藪坂が駆けつけた。しかし、その時には息絶えていた。男の顔を見た藪坂は、米問屋、会津屋の主人、守右衛門だという。米の値段が高い今、蔵の米をさらに高値で売りつけ、評判はとても悪い男だった。すると後ろ手にねじ上げられた若者が突き飛ばされ、入ってきた。後ろ手を取っているのは還暦ぐらいの総髪、穏やかで品格のある顔立ちだった。藪坂は「これは淡窓先生ではありませぬか」と駆け寄った。誰かを刺して逃げたのをたまたま目撃したので、怪しい男をとっ捕まえたというのだ。豊後からはるばる江戸に出てきた淡窓、ご公儀から苗字帯刀を許され、江戸見物に来たという。藪坂は若い頃に豊後で仕事をした。その時の儒学の教え子に藪坂がいたのだ。(2024.8.8)二見時代小説700202111

ご隠居は福の神
6
砂上の将軍

梅雨。尻がムズムズした吉右衛門は番傘をさして小名木川沿いを歩く。大雨になっていた。川は溢れんばかりに増水していた。避難する人が増えて和馬の屋敷がまた大変なことになるのではと心配した。小さな橋が激流となった川のせいで大きく傾く。そこを通りかかった荷車が人足ごと転落した。吉右衛門が駆けつけるとあっという間に荷車は沈み、人の姿も巻き込まれた。わずかに波打つ川面から人足の手が葦のように伸びた。吉右衛門は流れに飛び込んだ。死に物狂いで人足を川沿いまで運び、船着場から引っ張り上げた。近くには人影がない。吉右衛門は人足を担いで高山家の屋敷まで運んだ。翌朝早く目を覚ました人足は、そこがどこだかわからない様子だった。挨拶に来た吉右衛門を見て「この顔だ、俺を助けてくれた仏様は」。激流の中で自分を助けてくれた吉右衛門の顔をしっかり頭に焼き付けていたのだ。文太と名乗った男は、近くの商家の男が何日も放置されて邪魔な荷車があるからごみ置き場まで運んでくれと頼まれ、雨の中、荷車を引いていたという。日常的に人を助けることが当たり前の吉右衛門にとって、文太の命を救ったことは当然のことだった(2024.8.6)二見時代小説70020217

ご隠居は福の神
5
狸穴の夢

産婆として骨接ぎとして深川診療所で働き続けてきた千晶。若い医師とうまくいかなかったり、給金が安かったり、自己犠牲に押し潰されそうになっていた。和馬は少しも振り向いてくれない。永代寺前で辻占いに呼び止められた。「今の自分に満足してないねぇ」すっかり見透かされた。深川診療所に戻り、努力してより良い自分に転生するのですという辻占いの言葉を思い出しながら寝息を立てた。すると真夜中に目が覚めた。火事を知らせる半鐘で飛び起きた。(2024.8.1)二見時代小説65820213

ご隠居は福の神
4
いのちの種

記録なし。既読(2024.7.8)二見時代小説6582020

ご隠居は福の神
3
いたち小僧

3歳児のような物言いしかできず、表情も感情も乏しいその子どもは10歳の男の子だった。名前を小吉という。読み書きがほとんどできず、手先は不器用、人と話すのも苦手だった。論語の素読もできない。まったく教育を受けることなく体だけが大きくなってしまったのだ。門前仲町で太物を扱う丹波屋という商家の息子だった。3歳の時に何者かに拐かしにあった。届いた脅し文に「百両払え、でないと倅の命はない」と記されていた。主人であり小吉の父親の諭吉は親戚など方々からお金を借りなんとか百両を集めた。指定された場所で川船に金を乗せた。この船には仕掛けがしてあり、河岸の向こう側に船は引っ張られ、拐かし一味にまんまと金が盗まれてしまう。町方の役人も待機していたが、息子の居場所はわからず。金だけが奪われ、小吉は戻らないという最悪の結果を招いたのだ。その小吉が7年ぶりに母親のおそのの元へ単独で帰ってきた。しかし、小吉の体は10歳だったが、中身は拐かされた3歳の時のままだったのだ。7年のうちに諭吉は酒に溺れ、家業も傾き、店は潰れ夫婦は別れた。諭吉は飲み屋の女と駆け落ちをして消えた。一人残ったおそのはいつの日か小吉が戻ってくることを信じて丹波屋に近い場所で内職を請け負って暮らしていた(2024.7.8)二見時代小説6582020

ご隠居は福の神
2
幻の天女

小名木川沿いにある銀座御用屋敷で騒動が勃発した。幕府が公営している銀貨、銭貨を鋳造する役所であるが、実質は幕府の許可を得た御用商人が請負事業としていた。庶民は金貨を拝むことはなく、銀貨や銭貨は日常で必要不可欠なものだった。この御用屋敷で働く者たちは重労働を課されている。熱い炎を扱うので火傷同然に体が焼けたり、溶けた金属のために入病を患ったり、鋭い刃物でけがをしたりする者が絶えなかった。500人あまりの職工が奉公していたが暮らしぶりは豊かにならない。年老いて作業ができなくなるとお払い箱。奉公人は給金を上げてほしいという望み以上に人扱いをしてほしいという気持ちが強かった。その先導役は三十路に入ったばかりの栄五郎だった。当主は日向屋善兵衛。そんなに嫌ならいつでも仕事を辞めろと言い放つ。交渉が決裂したので奉公人たちは話がまとまるまで仕事場に出なくなった。人気がなくなった御用屋敷に盗賊が入ったのはそれからまもなくのことだった。主夫婦は惨殺された。一人だけ娘が生き残ったがあまりのショックに言葉が出なくなっていた。吉右衛門は娘を引き取り和馬の屋敷に連れてきた

(2024.5.15)二見時代小説6482020

ご隠居は福の神
1

旗本でありながら深川に屋敷を構える高山和馬。わずか二百石取りの和馬は上総一宮に領地があり俸禄を受け取っている。三百坪の屋敷には自分一人で暮らす。困った人たちに蓄えや俸禄を惜しまずに与えるから自分が貧乏になってしまう。深川には藪坂という医師の深川診療所があった。近ごろ、小さな咳を繰り返し急に痩せていく患者が多くなっていた。隠居風の老人が訪ねてきた。古稀を過ぎた頃の老人は吉右衛門と名乗った。藪坂は吉右衛門の仮病を見破った。何のために来院したのか。そのとき、近くの藪坂が管理をしている寺の賽銭箱に十両もの小判が入っていたと若い医師が報せに来た。年に二度、一度に十両の小判が入っているという。それを知った吉右衛門は境内に向かった。すると和馬が思い詰めた顔で川面を見ていた。そこに地元のごろつきが近づく。十両の金を賽銭箱に入れたのを目撃されていた。財布に残っているだろう残りの金を脅し取ろうとしていた。しかし、和馬は財布にあった小判を全部賽銭箱に入れたのでごろつきに渡す金がなかった。信じようとしないごろつきが力づくで和馬を襲う。すると吉右衛門が素早く近づき、ごろつきたちを退治してしまった(2024.5.14)二見時代小説6482019

与太郎侍
2
江戸に花咲く

日本橋新右衛門町のおたふく長屋。朝から住人が起き出してきて一軒の長屋の前で文句を言う。ガーガー、グーグー一際大きなイビキが聞こえてくる。イビキの張本人は長屋の住人から与太郎と呼ばれている気ままな浪人だ。与太郎は本当は小田原藩の支藩で江戸家老を務める武士なのだが、箱根山中で育ち、たまたま山を降りたら家老にさせられたので武家の窮屈な暮らしを嫌がって長屋住まいを続けていた。気持ちよく目覚めた与太郎はいつもの日課で町を歩き日本橋で遠くの富士に感嘆の声を上げた。その時、目の端に内儀風の女が目に入った。どうしたのかと尋ねると「この辺りに子返し天神はないか」という。江戸の地理に詳しくない与太郎は、道ゆく人に尋ねて、それが楓川神社だと知る。地元では胡散臭い神社として有名だった。与太郎は女と共に神社へ向かった。そこには風采の上がらない宮司と薄汚れた氏子が数人いた。宮司に事情を話した与太郎は、お絹と名乗った女が詳しい話を始めた。孝助という5歳になる孫が婿の兼蔵に連れて行かれてしまったという。娘は流行病で亡くなり、その葬儀の後に孝助が兼蔵に連れて行かれたのだ。孝助の居場所を霊感を使って探し出します、そのためには幾らかのお金が必要という宮司にお絹は実家から持参した大金を渡した。与太郎はこの神社に違和感を覚えながらも、孝助探しに一枚肌を脱ぐことになる(「子返し天神」より)(2023.8.21)集英社文庫660202212

与太郎侍

1与太郎侍

箱根山中で育った古鷹恵太郎。父親は恵太郎が幼い時に亡くなっていた。祖父が恵太郎を連れて箱根山中にこもり二人だけの暮らしを長く続けた。猪や鹿とともに山をかけめぐり、祖父から人の生き方の根幹を学んだ恵太郎。祖父が亡くなったので山を下りて市井の暮らしを経験しようとした。大磯の浜辺でいきなり幼い子どもをかどわかす浪人連れに出会い、お互いを諭して子どもの命を救った。父母は恵太郎に深く感謝したが、恵太郎は二人が実際には父母ではないことを見抜いていた。小田原は江戸開府の昔から箱根の関所を任せられた由緒ある藩だった。水野忠邦が老中になって小田原藩とのかかわりが薄くなり、藩士たちは老中の企みによって藩が改易にならないように富を蓄えて準備していた。領民から法定以上の無謀な年貢をかき集め圧政を敷いて幕府への忠誠を示していた。恵太郎はそういうことに無関係な立場だったのに出自が明らかになるにつれて政との関りが増えていく

(2023.6.7)集英社文庫70020228