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ほぼ毎日更新の雑感「ウエイ」
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井原忠政
tadamasa ihara

うつけ屋敷の旗本大家

3夫婦道中

ただ今読書準備中(2024.11.13)幻冬舎650202411

北近江合戦心得

4天王寺忠義

天正4年(15671月。大石与一郎は家臣の武原弁造と大和田左門とともに北近江小谷城の東尾根へと向かう坂道を上っていた。「殿様は随分と浪費をなさる」。与一郎が喘ぎながらこぼした。四町進んで七十丈も上る坂道だ。若い与一郎にもかなり応えた。殿様、羽柴秀吉はここから南西に二里の琵琶湖に長浜城を築き、拠点とした。この一月、小谷城からの引っ越しに忙しい。小谷城は御殿や武家屋敷が立ち並ぶ清水谷を険しい尾根が馬蹄形に取り囲んだ山城だ。その湾曲した尾根筋にいくつもの曲輪が設えてあり、互いに協力して防御すれば攻め手はとても苦労する。なかなかの堅城だ。「これだけの名城を惜しげもなく廃するとはもったいない」。小谷城は旧主、浅井長政の居城だった。浅井家家臣の嫡男として清水谷で育った与一郎にとって、この尾根筋は遊び場であり、学びの場でもあったのだ。「なんとか小谷城を残せないものか、殿様に進言してみるかな」「小谷城があると城の維持に大層銭が要りますんや、廃城にするのも仕方ないことですわい」。与一郎のすぐ横で弁造が苦しげに答えた(2024.11.23)670円小学館文庫20248

三河雑兵心得

14豊臣仁義

植田茂兵衛は甥の上田小六とともに京の三条大橋を見上げる鴨川の中州にいた。文禄31594)年824日。朝夕はかなり冷え込むようになっていた。豊臣秀吉は天下人になった。徳川家康は秀吉の命を受けて京に入り伏見城下の徳川屋敷に滞在する。家康は茂兵衛に目立たぬ姿で地味な格好でゆけと命じた。極悪人の公開処刑を見て来い、集まった民衆の反応を観察して来いという。身の丈が6尺もある大男の茂兵衛はどんなに地味な格好をしても当時の平均身長を大きく超えていたので目立つに決まっている。なんでわざわざ目立つ自分を選んだのかが理解できなかった。盗賊団、石川五右衛門一味が刑場まで護送されてきた。鴨川べりは河川敷が218メートル以上もあり極悪人の公開処刑やさらし首が行われていた。20本の磔台が並び、中央には差し渡し1.8メートルはあろうかという大釜が据えられている。多くを殺し奪うことで武士は賞賛される一方、盗人は残虐な刑に処せられる。茂兵衛と五右衛門、立場の差は大きくとも本質的な違いは少ない。磔台に縛り付けられた盗人たち、五右衛門の一族は次々と脇腹を槍で突かれた。死ぬまで突かれ続ける。五右衛門は煮えたぎった油の中に突き落とされた。「秀吉、呪い殺してくれる」わめき叫ぶ五右衛門。聴衆たちは口を手で押さえてうつむき、笑いをこらえていた。刑吏たちの動転と混乱をあざ笑っていたのだ

(2024.8.28)680円文春文庫20246

うつけ屋敷の旗本大家

2悪友顛末

高価な泥染めの大島紬を意気に着流した大矢官兵衛。町へ繰り出そうとして息子の小太郎に引き留められた。早々に隠居をして飲む打つ買うの三拍子でお気楽に暮らし続ける官兵衛。当主の時からの借金が現在の大矢家にのしかかる。それらの整理をすべて息子の小太郎に押しつけていた。大福帳を手にした小太郎は逃げようとする父親を引き留め母屋の書院で向かい合う。「父上がお作りになった1400両の借財を相模屋と山吹屋に返済せねばなりません」。大福帳を手に小太郎が迫る。直参旗本の大矢家は幕府から広大な土地を与えられていたが、庭に貸家を6軒建てて家賃から少しずつ借財の返済をせねばならなかった。1400両の借金のうち800両は博徒の相模屋からのものだった。官兵衛が博打で負け続けた結果、借りまくったものだ。官兵衛は狡猾そうに返済案を考えた。大火事が起こったら日本橋や京橋の大店に忍び込み、井戸に投げ捨てた大福帳を盗み、大金で売りつけるというものだった。大福帳は濡れても文字が消えないように蒟蒻粉を練りこんだ特殊な紙でできていた。大火事の現場へ誰が行くというのか。火消も近寄れないような大火を狙うという。ますます大福帳を盗みに入った者の命が危険すぎた。官兵衛は当然、自分が行くとは思っていない。ということはその役目を小太郎に押しつけるに決まっているのだ(2024.7.3)620円幻冬舎文庫20245

人撃ち稼業3

闇夜の決闘

老中水野忠邦が鳥居耀蔵に命じて御三卿家老職の久世伊勢守を暗殺させた。その実行部隊、徒目付の多羅尾組は事件の裏を暴き始めた南町奉行所の同心、本多圭吾の命を狙った。狙撃の瞬間になって玄蔵の腕に震えが走り実行は延期された。多羅尾は鳥居の許しを得て玄蔵を休ませることにした。湯池に出かけたが快方に向かわず、女忍びの千代の発案で青梅にある忍び道場に身を寄せることになった。千代の育ての親が道場主だった。玄蔵に剣術修行と山歩きを課した。猟師としての本来の姿を取り戻す必要があると見抜いたからだ。妻子を人質にとられ、慣れない江戸での暮らしと命令されたとは言え人を撃つ仕事をするなかで体と心のバランスが崩れていたのだ。青梅の道場は小田原の北条氏が抱えていた忍び集団、風魔が北条氏滅亡の後に青梅に逃れて地元になじんだものだ。同心の本多は伊勢守の遺体を墓から掘り返し喉の奥から鉄砲の鉛玉を取り出し、卒中で死んだのではなく鉄砲で殺害されたことを証明した。新しく南町奉行になった鳥居は本多にこの件の探索をやめるように忠告していた。ということは伊勢守の暗殺は幕閣につながる裏があるということだ。真相追及のために本多は伊勢守が使えていた田安家を頼ることにした

(2024.5.2)角川春樹事務所68020243

うつけ屋敷の旗本大家

大矢小太郎は甲府での勤番を命じられ5年後に江戸に戻ることが許された。何もすることのない甲府勤番は役目のない旗本たちの吹き溜まりだった。何もすることがないまま死ぬまで甲府で過ごすことを覚悟していたのだ。それが急に江戸への帰還が命じられた。時の老中、本多豊後守が小太郎の父親、官兵衛と知り合いだった。その豊後守に官兵衛が頼んで今回の帰還が可能になった。どうして隠居している官兵衛にそんな力があるのかわからなかった小太郎だが、ともかくも江戸の屋敷に戻って驚いた。敷地の至る所に長屋が建てられていた。父を詰問すると、官兵衛は決して安くない店子からの家賃収入で自由気ままな暮らしをしているという。その中に佳乃という若い女性がいた。この女性が本多豊後守の妾だった。将軍の娘を正妻として迎えた豊後守は外に女を作ることを許されなかった。そのため官兵衛の敷地内にこっそりと佳乃を住まわす見返りに小太郎の帰還を条件にしたのだ。そのほかには博徒の相模屋、幕府転覆を企む国学者の堀田敷島斎、犬猫の死骸を腑分けするのが趣味の蘭方医、喧嘩ばかりしている歌舞伎役者と絵師が住んでいたのだ(2024.2.19)幻冬舎時代小説文庫62020226

三河雑兵心得

13奥州仁義

茂兵衛は江戸に移り、本多正信と徳川家康から奥州での謀叛を討伐する豊臣秀次の再仕置軍に鉄砲百人組を率いて参戦するように命じられた。九戸政実。陸奥の国、九戸城の主だ。前年に行われた秀吉の奥州仕置に猪木を唱えた。主家の南部信直に対して謀叛を起こして城に立て籠っているという。秀吉は奥州仕置への異議は惣無事令秩序に対する反逆ととらえ、甥の秀次を総大将にした六万人規模の軍隊を送った。徳川にも参陣が命じられた。簡単に制圧できると想像した茂兵衛に家康は言葉をつなげた。奥州には秀吉の仕置に不満をもつ武将が他にもたくさんいるという。生半可な仕置ではかえって大反乱を招くので、徳川からは茂兵衛と井伊直政を出すことにした。しかし、徳川はあまり本気で戦をするなと茂兵衛に命じた。真意がわからない茂兵衛に家康が丁寧に説明する。今は豊臣の世の中だが、今後、豊臣と徳川が戦う時がきっと来る。その時に奥州が徳川憎しで団結したら豊臣と戦えないというのだ。今回は豊臣側だが、ほどほどに戦い、徳川は豊臣とは違うところを植えつけてこいと命じられた。武力には長けた茂兵衛だが、知略は苦手。直政も同じ。二人は頭を悩ませながら、遥か遠くの九戸を目指した (2024.1.18)双葉文庫660202312

北近江合戦心得

3長篠忠義

越前の朝倉義景を滅ぼした織田信長は翌年の天正2年の越前を責めあぐねていた。一向一揆衆が支配するとはいえ、実際には本願寺加賀一向一揆の強い影響下にあった。顕如が任じた守護が悪政を敷き、専横をほしいままにしていた。朝倉旧臣の領地を簒奪し、織田軍の侵攻に備えるという名目で重税と過酷な賦役を農民に課していた。羽柴秀吉の命を受けた小頭の藤堂与吉。その配下に入った大石与一郎は敦賀で越前の情報を収集していた。やがて信長が侵攻する越前。その先手を務める秀吉は一つでも多くの情報を得ようと躍起になっていた。敦賀には与一郎の乳母の実家、木村喜内之助の屋敷があった。ここを前線基地にしていた。木村の娘の於弦は与一郎と夫婦の約束をしたのに、いつまでも約束を果たそうとしない与一郎に怒りをぶつけ、故郷を逐電していた。その於弦が一向一揆衆の中に紛れているという話が伝わっていた。越前府中へ探索に出る与一郎らに、与一郎の乳母、於弦の母、紀伊が娘を探し出してほしいと頼んだ。信長が越前に侵攻してしまってからでは於弦を救い出すことは不可能だ。女子どもも皆殺しにする信長のやり方を知っているからだ。その前に与一郎は、於鶴を見つけ出したいと願っていた (2023.12.18)小学館文庫670202311

三河雑兵心得

12小田原仁義

秀吉は最後に残った自らへの反逆者、北条家を討ち取りにかかった。和睦を主張する北条氏規に、秀吉は小田原を攻めるつもりはないと嘘の情報を流した。これにより、北条の主戦派は勢いづき戦の準備を整え、上州の名胡桃城まで攻め落とした。これを理由に秀吉は北条討つべしと大名たちに命令を出した。騙された氏規は最後まで韮山城で奮戦した。幼少期に今川館でともに人質として過ごした家康は氏規の除名を願い、茂兵衛に降伏の使者を任せた。武士の矜持を示した後、氏規は降伏。その後の北条との交渉に家康側の使者として働いた。小田原城無血開城の後、秀吉に功績を認められ高野山への幽閉となった。北条家の滅亡を防いだ家康は茂兵衛に高野山までの護送を命じた。その途中、何者かが一団を襲った。寄騎の辰蔵が負傷。近隣の村に医者を探しに行った茂兵衛は偶然、綾女と遭遇した(2023.11.1) 双葉文庫66020239

北近江合戦心得

2長島忠義

岐阜城下の足軽小屋で大石与一郎は夢を見ていた。主君、浅井長政の懐かしい声。「倅のこと、頼んだぞ」。お市と長政の長男、万福丸を守り通すことを命じられたのだが、織田信長の策略により、万福丸を奪われ、殺されてしまった。首が晒してあった河原を襲い、護衛の兵士を殺害、首を奪って山中に丁重に葬った。そのことを知った秀吉が与一郎を密かに足軽として雇い入れた。いつの日か、万福丸を主人にして浅井家の再興を願っていた夢が潰えた。いつの日か、得意の矢で信長を射殺すことだけを考え続けた。与一郎には武原弁造という家臣がいた。元は与一郎が浅井家で武将だった頃の遠藤家の郎党だった男だ。弁造は与一郎がいつまでも信長を狙う生き方を否定した。長政には側室に産ませた万寿丸という庶子がいた。その万寿丸を奉じて浅井家を再興せよと迫った(2023.8.23)小学館文庫69020237

人撃ち稼業2

殿様行列

玄蔵は多羅尾に命じられてお城に登城する大名を射殺することになった。悪人だから殺さなきゃならないと言われても、対象の大名の面相には悪を働くような表情が浮かんでこない。むしろ、多羅尾やその上司の鳥居耀蔵の方が悪人面をしている。それでも妻と子どもたちを人質にとられている玄蔵は命じられたことを遂行するしかない。鳥居は射殺と気づかれないように玄蔵に耳の穴に打ち込めと命じた。何日か弾を込めずに試し打ちを試みたがどれも困難だった。そこで口の中に撃ち込んで卒中で倒れたように見せかけることにした。女忍びの千代と夫婦連れという仮の姿で射殺が可能になりそうな町の屋敷に身をひそめることにした。

(2023.7.6)ハルキ文庫68020235

人撃ち稼業

天保12年。丹沢で熊撃ち名人として知られていた玄蔵。徒士目付家臣の多羅尾という武士に「江戸に出て武家奉公をしないか」と誘われる。妻と子ども2人との幸せな暮らしに満足していた玄蔵は誘いを断るが、多羅尾は玄蔵の妻、希和が耶蘇だということを調べていた。誘いに乗らないと耶蘇の事実を公にすると脅した。泣く泣く江戸に出た玄蔵は多羅尾の上司が鳥居耀蔵だと知った。鳥居は生かしておいては世の中に悪いことをし続ける悪人を撃ち殺すことを玄蔵に命じた。罪人ではなく悪人を殺すということは鳥居の政治的出世に取り込まれたことを知った。希和と子ども2人を人質にとられ、玄蔵は自分の射撃の腕を悪への依頼に応じるために使うと決めた

(2023.6.9)ハルキ文庫640202210

北近江合戦心得

1姉川忠義

浅井長政に仕えていた家臣の遠藤与一郎。若い彼は弓の名手だった。織田信長と徳川家康の越前朝倉攻めに際して、殿様の浅井長政は途中から寝返り、織田と徳川の連合軍を窮地に陥れた。元山賊の弁蔵を家臣にしている与一郎は小谷城で織田軍に囲まれながら籠城戦を強いられていた。ある日、主君から呼び出され、長男の万福丸を逃亡させる役割を負う。幼い頃に乳母として育ててくれた紀伊が敦賀にいることを思い出し、弁蔵とともに万福丸を連れ出した。義理の母親にあたるお市の方は長政の元を離れ3人の娘たちと羽柴秀吉の庇護下にあった。兄の信長が幼い子どもに罪はないというので万福丸を連れてきてほしいという手紙を与一郎に渡す。信長の恐ろしさを知っている与一郎は疑いながらも万福丸を小谷城で引き渡す。しかし、数日後、万福丸の首が河原の刑場にさらされていることを知った

(2023.6.1)小学館文庫680202212

三河雑兵心得

11百人組頭仁義

駿河国南部で茂兵衛は三百人もの鉄砲隊を訓練していた。百人の鉄砲隊、それを支える百人の弓と槍隊、さらに百人の荷駄を運ぶ者たちによって構成されている。その組頭に家康に任じられたのだ。本来ならば幟を立てられる侍大将扱いのはずだが、扱いは今も組頭のままだった。これには百姓出身の茂兵衛が侍大将になることを面白く思わない家康の側近らが少なくないことと関係しているらしい。茂兵衛はあまりそのことを気にしていなかったが、妻の寿美はいつも悔しがった。そのため新調した陣羽織は絢爛で目立つものを作った。茂兵衛はそんなものを着ていたら足軽や寄騎たちから遠い存在になってしまうことを心配した。ほぼ全国の覇権を手中に収めた豊臣秀吉は九州の島津との争いに決着をつけ、北条、上杉、伊達を天下統一の総仕上げに支配下に置こうと考えた。早くに武田家が滅んだのちに秀吉に恭順の姿勢を示した信濃の真田昌幸は沼田城を巡って北条と対立を繰り返した。家康は真田を助けるために茂兵衛に鉄砲隊を信州へ送った。本田平八郎の娘、於稲を昌幸嫡男の信之に嫁がせるための護衛だった茂兵衛はそのまま沼田にも足を運ぶことになった

(2023.6.13)双葉文庫65020233

三河雑兵心得

10馬廻役仁義

上田城攻めで大敗を喫した徳川勢。退くときにしんがりをつとめた植田茂兵衛。寄騎の花井が敵に囲まれたのを見て単身敵地に乗り込み軍神のごとく戦い討ち死にした。と、浜松に伝えられた。ところがどっこい、敵将の真田源三郎に救われ牢獄につながれた。源三郎とは知己の間柄だったので茂兵衛の扱いは丁重を極めた。そんな時、上田地方では大きな地震が続き、ついに源三郎の戸石城が大きな被害を受ける。源三郎は地震で土牢が壊れたことにして茂兵衛たちを逃がした。浜松に戻った茂兵衛は家康の傍に使えて警備役を命じられた。戦場に出ない日々は退屈を極め、家老の本多正信に悩みを打ち明けた。家康は北条との同盟を強め、秀吉への対抗軸を固めていく。秀吉は妹の旭姫を家康の妻として嫁がせる。浜松城から駿府城へ本拠地を変えることを決意した家康は旭姫との婚儀を邪魔立てするだろう本田平八郎に引っ越し奉行を任せて茂兵衛を平八郎監視の役につかせた。

(2022.11.23)双葉文庫650202211

三河雑兵心得

9上田合戦仁義

甲斐国と信濃国を治めた家康は重臣を城代として派遣した。小諸城で信濃総奉行としておさまった大久保忠世の寄騎として植田茂兵衛は小諸にいた。家康重臣の本田忠正の命令により上田城の真田昌幸の元をたびたび訪ねて変化の様子を探っていた。しかし、どこまでも家康に従順な姿勢を崩さない昌幸。ところがある日、家康の元へ次男の源二郎を上杉に人質に出したので家康との同盟関係は破棄すると通達があった。昌幸の変心を見抜けなかった茂兵衛は忠世から叱責を受ける。徳川軍は上田城攻略のため兵を進めた。どこまでも順調に見えた城攻めは徳川軍を城内にわざと引き入れて反撃を喰らわす昌幸の作戦だった。徳川軍は総崩れとなり撤退する。しんがりを命令された茂兵衛は寄騎の花井が助けを呼んだので引き返して源三郎まで迫るが手傷を全身に受けて意識を失う

(2022.8.31) 双葉文庫64020227

三河雑兵心得

8小牧長久手仁義

信長が明智光秀に殺されたのち、豊臣秀吉が家臣団のなかで勢力を増し、ついには織田本家をしのぐ勢いにまで至った。信濃と甲斐を平定し、広くなった領国の経営に着手した家康は上杉との境までを支配下においた。信濃の小さな領主たちは形式ばかり家康に追従する立場を整えた。かつては武田信玄に忠実だった者たち。その中でとくに真田昌幸は真の悪党として茂兵衛の記憶に刻み込まれた。凡庸な織田信長の息子の信雄から秀吉討伐の依頼を受け続けていた家康は、表向きだけ同盟を結び、勝たないまでも負けない戦を心がけ秀吉と対峙した。戦端は小牧長久手で開かれ、家康は各地で勝利を収めた。大坂に逃げ帰った秀吉は勝手に信雄と和睦を結ぶ。梯子を外された家康は次男の秀康を人質として大阪に送り出すことにした。その護衛に鉄砲足軽大将として茂兵衛は加わった

(2022.10.13) 双葉文庫64020222

三河雑兵心得

7伊賀越仁義

本能寺で信長が明智光秀の謀反で命を落とした。堺に物見遊山に出かけていた家康に第一報を伝えた茂兵衛は、三河へ逃げる家康を平八郎らとともに殿で護衛することになった。明智勢の落ち武者狩りに遭わぬように伊賀越えを決意した家康は、武田軍から寝返った穴山梅雪を退却の殿につけた。結果的に穴山は家康を裏切り京に向かう。穴山の寄騎だった茂兵衛は穴山を追いかけて落ち武者狩りの地侍や農民兵らに殲滅された穴山一派を発見する。唯一生き残った家老の有泉。けがを負っていたが茂兵衛が担いで三河まで逃げ帰った。信長家臣団の分裂と抗争が激しくなると予測した家康は権力の空白地帯になった信濃と甲斐を奪うために兵を進めた

(2022.10.6) 双葉文庫630202110

三河雑兵心得

6鉄砲大将仁義

甲斐の国へ戻った武田勝頼。駿河にはまだ武田軍がこもる城がいくつか残っていた。家康はそれらを攻城するために周囲の城を落としたり、砦を築いたりしてじわじわと攻め寄せた。武田信玄の娘を妻とした穴山梅雪を調略した家康は、武田勢に人質に出している娘と妻を奪還してくれたら徳川側に寝返ると約束する。植田茂兵衛は梅雪の妻と娘の奪還を成功させ鉄砲大将に昇格した。織田信長は息子の信忠に命じて武田勢を掃討するために甲斐の国中心部へ入り込んだ。戦場への遅参を気にかけた家康は再び茂兵衛に出陣を命じ、梅雪を案内人にして寄騎として甲府盆地へ進出した。武田を裏切った穴山への反発は強く茂兵衛は必死の戦を繰り返した。四面楚歌になった勝頼は天目山で自刃し、武田一族は滅亡した。信長は武田との戦で論功のあった武将を安土に集めて慰労の席を設けた。穴山に付き添って安土へ赴いた茂兵衛は信忠から織田軍への務め替えを求められた。そんな折、明智光秀が謀反を起こし本能寺に攻め入った。茂兵衛は信忠から堺を見物しに行った家康へ早急に事態を伝える役目を命じられ御所の使いに返送して京を脱出した

(2022.9.30) 双葉文庫63020219

三河雑兵心得

5砦番仁義

設楽が原の戦いで竹田軍を破った徳川家康は内患外憂に悩んでいた。信玄が死んだという噂を聞きながらも、まだ駿河で勢力を誇る武田勢と対峙する。植田茂兵衛は家康に命じられて牧之原台地で小山城から補給物資を運ぶ人馬を襲う山賊役を引き受けていた。何度か物資補給を断ち、作戦は成功した。そんな時、西側から商人に化けた二人連れを捕縛しようとして殺してしまう。持ち物を調べるとあぶり出し手法を用いた岡崎から今川への手紙を隠し持っていた。これは岡崎城にこもる家康の長男、信康と母親の築山が武田方へ内通する証拠になった。信長が放った忍びの者たちもこの情報をつかんでいた。家康が信長との同盟を裏切り武田と手を結ぶ証拠として受け取った信長は、家康に信康の処分を命じた

(2022.9.28) 双葉文庫65020212

三河雑兵心得

4弓組寄騎仁義

三方原の戦で負けた徳川家康。松平善四郎の寄騎として騎乗身分になった植田茂兵衛は善四郎とともに騎乗に馴れるために日々鍛錬していた。渥美半島の付け根にある植田村に凱旋した茂兵衛は村で新たに七之助という男を家臣として雇った。村で手のつけられない酒乱男を名主の言葉に騙されて押し付けられた。徳川家康は三方原の敗戦で同盟を組む織田信長から裏切り者として扱われるのではないかと戦々恐々としていた。そのため少しでも武田勢に占拠された城を奪い返していく。茂兵衛は前線で活躍していた。そしていよいよ武田勢に取り囲まれた長篠城奪回へ向けて動き出す。織田の援軍を信じて城を守り続ける長篠城。しかし限界が近づいていた。茂兵衛は徳川家康の重臣、酒井の作戦で武田軍の出先砦を奇襲する最前線に送られた。いつまでも援軍が来ないことに不信感を募らせながら、偵察を繰り返した。そしていよいよ徳川織田連合軍の本隊が長篠城に近い設楽が原に到着。いきなり丸太で柵を組み立て始めた。その意味が理解できないまま奇襲攻撃に加わった茂兵衛は砦を奪い返し、そのまま長篠の戦いに突入していく。柵は鉄砲と弓の攻撃に有利な使い捨てのものだった。敵の攻撃を少しでも食い止めるための障害物だったのだ。欧州の近代戦の情報を知った信長が実践でそれを使った。武田軍は四天王が討死し勝頼は甲府まで逃げ延びたが、もう甲斐武田に勢いは残っていなかった。善四郎の姉と結婚した茂兵衛は初恋の人、綾女への思いを募らせながらも戦果が評価されて寿美との暮らしを大切にしていた

(2022.9.25) 双葉文庫630202011

三河雑兵心得

3足軽小頭仁義

植田茂兵衛は本田平八郎に命ぜられて、徳川家康一族の若者、松平善四郎を補佐しながら浜松へ進軍してくる武田勢に立ち向かっていた。戦の経験がない善四郎に細かいやり方や考え方を伝授しながらの日々だった。浜松城に籠城する覚悟だった家康だが、三方原へ進軍する武田信玄の策にはまっって打って出ることに決めた。それは武田信玄の陽動作戦だった。家康の手勢は気が付けば武田3万の軍勢の直中で孤立無縁の戦いを強いられてしまう。それぞれが勝手に戦地を脱して浜松城へ逃げ帰るしか方法はなかった。茂兵衛は善四郎たちと共に夜の闇を使って帰路を求めた。途中、方角を失った大将の家康と遭遇する。家康に現在地を告げ、無事に帰還の手助けをした茂兵衛も後に無事に生還した。その後、武田勢との攻城戦を覚悟していたのだが、いつまで経っても信玄は攻めようとしなかった。そのうちに武田軍が兵を引き始めたとの知らせが届いた。茂兵衛は平八郎の口利きにより善四郎の寄騎として弓足軽隊の副将格に任じられ、騎乗の身分になった

(2022.8.23) 双葉文庫63020206

三河雑兵心得

2旗指足軽仁義

徳川家康直属の旗本先手役となった植田茂兵衛。本田平八郎に使えることになった。平八郎の旗印である鍾馗の旗印を預かり旗指足軽として戦場を駆け抜けていた。今川氏真が逃げ込んだ掛川城を取り囲むが武田軍の助勢を気にしながらの攻城になりなかなか切り崩せない。家来の辰蔵と丑松を連れて掛川城の朝比奈康朝に傷を負わせた植田茂兵衛は家康に認められ足軽から侍への道を約束される。北陸への侵出を目指していた織田信長から援軍の申し出があった家康は戦力の三分の一を率いてはるか越前の地に赴く。しかし浅井長政の裏切りにより織田軍は必死の撤退を余儀なくされた

(2022.8.18) 双葉文庫630 20204

三河雑兵心得

1足軽仁義

植田村の茂兵衛は粗暴だった。弟の丑松がからかわれた仕返しをしたら、翌日に相手が死んだ。茂兵衛が殺したという風聞が村に広がると母や妹たちが暮らしにくくなる。庄屋に諭され、茂兵衛は丑松とともに村を出た。三河の国守、松平家康が一向宗の寺を攻め立てるので寺を守る足軽になった。野場城で、足軽小頭から戦の仕方や槍の使い方を叩き込まれた。戦は数ヶ月に及ぶ籠城戦になった。内通者のせいで野場城は陥落。しかし家康は敵の命を助けて本領も安堵した。野場城城主に呼ばれた茂兵衛は戦働きを認められ植田の苗字を得て、家康の旗本衆に加わることになった

(2022.7.10) 双葉文庫 20202 630