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過去のウエイ

7849.11/28/2018

この記事は7月31日のフェイスブックに投稿しました

性犯罪の被害者が、その後、心に負った傷から立ち直るのは並大抵ではないだろう。
夫からの心的暴力や身体的虐待に苦しむ女性は、それでも日常生活の改善を願いながら、さらに傷つく。

肥大化した自我で、反社会的に女性を追い回すストーカー事件は後を立たない。殺害まで至る悲劇も繰り返されてきた。
母子家庭の中には、貧困にあえぎながら、その日の暮らしに精一杯で将来を見通す経済的余裕がないケースもある。
これらの女性たちを救う厚生労働省の婦人保護事業は、62年も前に作られた売春防止法を根拠にしているそうだ。売春を防ぐ目的の法律では、支援体制にはつながらないだろう。なるほど、セクハラは被害者にも問題があると公言する与党の国会議員が処罰されないわけだ。

昨年の100歳以上人口は6万7824人、そのうち男性は8197人。高齢社会のほとんどを生きる女性たちに、心身ともに豊かな社会を送って頂くために、新しい女性保護の法律の制定を望む!

7848.11/27/2018

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わずかな闘い

私は自民党と公明党と維新の会が推進する沖縄の辺野古軍事基地建設を反対する方々への資金援助活動を反対運動開始からずっと2ヶ月に一度ずつ1000円を送っている。
年間にしたら6000円というせこい資金協力だが、忌々しい連中への抵抗協力だと思うと、微力ながら助けになってほしいと願ってきた。

沖縄県は行政として、ついに政府と闘うことを決意した。それはある意味で正義の御旗を捨てなかった証しになるが、結果として対立を煽る政府の目論見にはまってしまったのではないかと心配している。
日本におけるアメリカ軍の存在は、そろそろ不必要です??と言い切らないといけない局面に入ったと感じる。
では、その先の国防や平和維持のあり方はと言えば、まったく議論されていないのが情けない。
江戸時代末期の先代たちは、自主独立を目指していた。アメリカ軍による占領と支配が永久に続く社会は想像していなかった。
私が辺野古にわずかな資金を送る。それは、この社会のあるべき姿を夢見ているからだ。

自主独立を考えませんか?

7847.11/25/2018

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さよなら、横ちゃん

その電話は地元で長いこと続けている葬儀屋の三ちゃんからだった。
いつもの酒屋で立ち飲みをしていると、大将に電話がかかってきた。
「知らないなぁ。ちょっと待って、佐々木さんに聞いてみる」
三ちゃんからの電話は、横ちゃんの正しい名前を知りたいとのことだった。
立ち飲み仲間は、その場だけのつながりが強いので、ニックネームや通称で呼び合う。苗字と名前がバレバレなのは私ぐらいだ。
詳しくはわからないということで、大将は電話を切った。
三ちゃんに、金沢警察署から電話があり、横〇さん(正しい苗字は知っている)という方が亡くなったので引き取りにきてほしいと連絡があったそうだ。 金沢警察署と言えば、東京湾に面した横浜市が管轄のはずだ。
なぜ、三浦半島をはさんで反対側の鎌倉の葬儀屋に連絡がきたのだろう。まぁ、鎌倉市にも横〇さんという苗字の方はいるだろうから、たまたま三ちゃんの会社にお呼びがかかたのかもしれない。
最初の考えは、その程度だった。

水曜日の夕方。
まさか、月曜日まで、ここで元気に缶ビールをあおっていた横ちゃんにもしものことがあるとは思えなかった。思いたくなかった。
月曜の立ち飲みでは火曜に開催される鎌倉花火大会の話題で盛り上がっていた。
メンバーの多くが、若芽漁を手伝ったので、網元から海岸の漁師小屋使用の優先権が与えられていた。都合のつくメンバーで待ち合わせ場所を相談していた。私は、その週は専門学校の筆記試験が続いていたので、参加は遠慮した。
「じゃぁ、明日は楽しんでね」
手を振り、店を出る私に横ちゃんは言った。
「センセーも、試験、頑張ってください」

思えば、あれが彼と交わした最後の言葉になった。

もう教員は辞めたと何度言っても横ちゃんは私を「センセー」と呼び続けていた。
今年の1月20日には、大船の中華屋「来来」で還暦のお祝いをした。
サプライズのプレゼントに、驚きと喜びを満面の笑みで表していた。
大風の後に我が家の屋根のスレートがずれたとき、無料でコーティングを施してくれた。
「センセー、こんなところに足長バチの巣があるよ」
そう言って、迫撃砲のような撃退銃で蜂の巣を片付けてくれた。
横ちゃんはプロのサッシ屋で、網戸の動きが悪くなったときはいつも修理を頼んできた。

遠く、九州の南、屋久島が故郷の横ちゃんは酔うと中学校まで過ごした屋久島での生活をよく話してくれた。
水曜日。
横浜の現場で仕事をしていた横ちゃんは昼の休憩中に弁当を食べていた車の中で急逝した。
心不全。
休憩が終わったのに車から降りてこない横ちゃんを見に行った現場の方が異変に気付いた。
60歳は若すぎる。
火曜は暑い夜だった。仲間とおしまいまで坂の下の漁師小屋で酒を酌み交わしながら花火を見ていた横ちゃんは、いつも通りに楽しんでいたという。
その翌日も、普段通りの仕事だった。
暑すぎる今年の夏が、横ちゃんの体力を奪ったのだろうか。

金曜日。
専門学校の試験が終わり、私は仲間たちと吉祥寺で打ち上げをした。
帰宅してから、お別れの会へ行く。
喜びと悲しみが同居した、7月27日だった。
横ちゃんの魂が安らかにこの地を離れ、天空での宴に興じられますように。

7846.11/23/2018

4月から新宿にある服部栄養専門学校に通って4ヶ月が過ぎた。

7月に入ってから、実技は中間試験というのがあった。とても合格基準が高い試験という前評判だったので、春から週末ごとに練習してきた成果を試す絶好の機会だと思った。
やるだやってだめなら、諦めもつく。
欲を張ることなく、常の力を出そうと決めた。
製菓は、絞り器を使って9種類の絞り。順番や配置をもちろん記憶していないとできない。練習の時から本番を想定していたので、さすがに間違えることはなかった。ただし、出来栄えについては、講師の方の判断によるので何とも言えない。自分が絞ったクリームが乗っているカードを持って、評価する講師の元へ運ぶ。
「だいぶ練習しましたね」
ありがたい言葉を頂いた。45人ぐらいのクラスで合格者は4人だった。
前評判通り、なかなかハードルは高い。

その後も、日本料理・中華料理・西洋料理の中間試験が続いた。
それぞれ包丁をもつ試験なので、絞りに比べると慣れていたので、何とか合格できた。

それから一週間後から、実技本試験が始まった。
中間試験と内容は同じなので、こんな短期間になぜ同じ試験を二度もするのか不思議だった。しかし、中間試験をやって、その理由がわかった。
合格基準が高いので、何もしないで本試験をすると不合格者が続出するのだ。
厚生労働省が決めている調理師資格にふさわしい一定の基準を試験にあてはめなければいけないのだろう。学校独自の温情で合格させるわけにはいかない。

・本試験合格には、もう少し太さをそろえた方がいい
・包丁は上から下ではなく、前へ押し出すように
・切り方の順番が違う

中間試験では、試験中に講師が学生に声かけをしていた。不足している部分を指摘することによって、本試験への課題を示してくださっていた。
考えてみれば、とても丁寧な対応だ。
運が良かったのか、たまたまだったのか、私は中間試験の時、講師からの声かけがなかった。
「はい、始めてください」
「終了です。片づけてください」
何も言われないと、少し不安になった。しかし、それは(そのまま本試験へ望んでください)という気持ちの表れだった。

実技本試験。
製菓は、当日朝にも復習をして本番へ。中間試験よりもさらに落ち着いてできた。

中華料理は、胡瓜の千切りと長葱のみじん切り。どちらも3分という時間制限があった。家でもタイマーを使って練習してきた。最初は4分以上かかったが、練習を経て2分半ぐらいまで短縮できた。長葱のみじん切りは、包丁を研いでいるかどうかが分かるそうで、切った後にまな板が乾いていたら合格。湿っていたら研いでいない包丁が長葱を潰していただけということで不合格。コンビニのビニール袋まで切れるぐらいに研いでおいた。

日本料理は鯵の大名卸しと胡瓜の小口切り。日本料理の包丁は中華と西洋と持ち方が違うので、そこでミスをしたら致命的。具材を持つ手はまな板につける。包丁は前半分を使って押し切りに。頭ではなく体に叩き込んだ。4ヶ月の練習で何匹の鯵を卸したかわからない。

西洋料理は牛刀とペティナイフを使う。人参の千切りと玉ねぎのみじん切り。牛刀は先端をまな板につけて、刃の後方で押し出すように切る。リズミカルに切るのがコツだった。玉葱のみじん切りでは、アリシンの影響で瞼を腫らしながら練習をした。

練習の成果が出て、実技本試験はすべて合格した。
中間試験では不合格だった仲間も、本試験では多くの仲間が合格していた。
下敷きや筆箱で、朝の授業前にお互いに切り方のコツを教えあったことが、懐かしい。

筆記試験。
11教科の試験があった。これはすっかり衰えてしまった記憶力との戦いで、結果は8月20日発表される。不合格だと補習を受けて、1000円払って再試験を受ける。
試験後の自己採点では、どの教科も60点の合格ラインはぎりぎり突破したのではないかと、根拠の薄い安心をしている。再試験があれば受けて立つしかない。

7月27日。最後の筆記試験終了。ホームルームが終わって、吉祥寺に向かった。
隔週土曜に実施されたオーナーマスターコースを任意で受講しているメンバー。毎回の受講日にはランチを兼ねて昼呑みをしてきた。その仲間を中心にした拡大打ち上げ会。
メンバーのご両親が吉祥寺で開業している韓国料理のお店を使わせていただいた。
年齢層は様々で、入学の動機も異なる。
来年の今頃にはもう同じ時間を送っていることはない。
偶然の出会いなのに、いっしょにいてとても落ち着く仲間がたくさんできたことは、専門学校に入学したもう一つの宝物だ。
卒業後も何らかのかたちでつながっていきたいと切に願った。

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7845.11/22/2018

ご実家が広島の方の話を聞いた。もともと山間部の多い広島。最近は山を所有する地主が不動産業者に売り渡し、山の際を削り、住宅地が増えているとのこと。
山を切り崩せば、保水力が担保されず、降った雨はそのまま斜面を流れ落ちるだろう。
また広島に限らず、かつては多くの河川域に広がっていた農地が、後継者不足や都市開発によって、どんどん宅地化されている。春からたまたま新宿まで通うようになって、河川のギリギリまで並ぶ新興住宅地やマンションなどのタワー群の多さに驚いていた。
山から保水力を奪い、河川ギリギリまで宅地化されれば、雨水は山から斜面を流れ落ち、町を抜け、河川に向かう。結果として土手を越える水量に達すれば、氾濫は必至になる。

過去数年間で最大級の被害が出るおそれがあります。
アナウンサーは原稿を読むが、去年も同じ台詞を聞いた。
災害のおそれが近づいてきてから、警告を発するより、平素から災害に発展しかねない開発や宅地化、道路建設を追及できないものだろうか。
南アルプスの地下深くを掘り進められている大プロジェクトだって、その一つだろう。完成すれば技術大国ニッポンみたいに称賛されるだろう。
気象現象は、意思や意図を持たない。猛威をふるうととらえるのは、人の作り出した想像に過ぎない。
気圧に高低差があり、海に囲まれた日本列島では海水が蒸発し雨になるのは過去から繰り返されてきた自然の営みだ。
なのに、100人を越える死者や行方不明者を出す大災害が起こった。
苦しんだ方々の魂が安らかに昇天されることを祈ろう。

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7844.11/21/2018

調理師を目指して専門学校に入学して3ヶ月が過ぎた。7月は最初の評価が続く。
まず今週の中間実技試験。
月曜は座学の後に製菓。8種類の型を覚えてクリームを絞った。
火曜は50人の利用者を想定した集団調理実習。ピビンパ、チャプチェ、唐揚げなどを同じ分量で50食作った。
水曜は昼間は全部座学。夜の部として中華マスターコースで赤坂璃宮の譚彦彬先生にアカハタと野菜のピリ辛炒めなどを教わった。
木曜は午前中座学の後、午後日本料理中間実技試験。胡瓜の小口切りと鯵の大名卸し。
金曜は朝から西洋料理中間実技試験。人参の千切り(エマンセ)と玉葱のみじん切り(シズレ)。
そして土曜の今日は午前中、卒業後に開店を目指す学生のためのオーナーマスターコース。
来週月曜の中華中間実技試験で一区切り。
でも休む間もなく、すぐに実技本試験が待っている。
7月の最終週には座学の筆記本試験。
テストを受ける身になって、自分の弱さや脆さが見えてきてかなり楽しい。
そんな時、私は黙想して般若心経を唱える。特に色即是空、空即是色を繰り返すと、不思議と焦りや戸惑いが薄れ、ありのままの自分を素直に出そうと思える。
3ヶ月で身につけた以上のものを求めず、身につけたものを惜しみなく出せれば結果を気にしなくても大丈夫。あとは評価する側のお仕事だと達観したいなぁ。

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7843.11/20/2018

 本日から調理師免許取得のために校外実習が始まる。
 かつて教職課程を大学で受講していたときにも、教育実習があった。
 あれ以来の職場体験だ。
 
 調理師資格は国家資格だが、これを持っていないと飲食の仕事ができないわけではない。実際には多くの料理人が調理師免許を持っていないのではないだろうか。
 飲食の仕事に2年以上従事すると厚生労働省が実施する試験を受けることができる。これに合格すれば調理師免許が得られる。
 また、私のように調理師免許を在学中に取得できる専門学校に通って資格を得る方法もある。調理師を目指す専門学校のすべてが調理師免許を得られるわけではない。
 きっと調理師としての腕を磨くことと、調理師免許を取得することは、意味が異なることなのだろう。
 調理師免許を取得できる専門学校では実習と同じ時間数程度の学科受講と試験合格が必須だ。食品学、食品衛生学、公衆衛生学、レストラン論、接客サービス、調理理論という学科を私は受講している。
 これらの知識をもって、料理人としての最低技術を習得しているというお墨付きが調理師免許なのではないかと思っている。
 一般の人が飲食現場で2年以上働く。中華料理店かもしれない。日本料理店かもしれない。たいがいはいずれかの専門料理店で働くのだろう。
 しかし、専門学校では中華料理、日本料理、西洋料理、製菓製パン、接客サービス、集団調理のように幅広い実習を行ってきた。料理人を志す人たちに様々な料理法を経験させる教育的配慮も免許制度にはあるのかもしれない。

 ともあれ、私はそんな中で中華料理に興味を抱き、校外実習も中華料理店を選んだ。
 4月から机を並べ、実習台で料理を作りあった仲間たちとはしばらく別れ、一般社会へ身を任す。すっかり学園生活に浸かった緩んだ精神を引き締めて、お客様にもお店の方々にも迷惑のかからないようにしよう。

7842.11/18/2018

文部科学省の局長と言えば、事務次官候補だ。国家公務員試験に合格したエリートたちが目指す最高峰だ。

そんな一人を東京地検特捜部が追っていた。
大学から金を受け取り、有利な計らいをした。
これだけでまずアウト。懲役5年以下。
見返りに息子を不正にその大学へ入学させた。
さらにアウトで2アウト。
懲役7年以下。
上司の受けが良く、部下に厳しいタイプだった。
3アウトでチェンジだ。

便宜を計った大学側の逮捕者はまだいない。関係者が多過ぎて、特定しきれていないとか。
国や政治というのは、ものではないから形が見えない。だからこそ、信用が大切になる。

国や政治がやっている仕事を突き詰めれば、人民から巻き上げた、もとい吸い上げた、いやぁ、託された税金の再分配だ。
国会議員はそれを一円でも貪欲にわが懐に納めようとする。
官僚は、それをちょろまかして国会議員、特に政権与党にすり寄ろうとする。
ついには受動喫煙で体を壊された方に対して、いい加減にしろとまで暴言を吐いて、それでも処分さえ受けない。

形が見えない国や政治を、信用せよというのが無理だろう。
形が見えないからこそ、それを担う人たちの規範意識や正義感は、私のように市井で私利私欲にまみれた野郎以下では困るのだ!

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7841.11/13/2018

(4)

8月下旬に今回と同じ青春18切符で横川を旅した。
その時、一泊後に合流したジャパンフレネの木幡さんから電話が入った。

上野東京ラインに乗車中に、木幡さんにメールで東京へ行くことを伝えてあった。

よければ昼呑みをいかが?

しかし、返事がなかったので忙しいのかなと思っていた。
すると電話で、午前中はずっと映画を見ていたのでスマホを見なかったとのこと。

今、見終わってメールに気づいたから、これからそっちに行く

いつも感動するのだが、木幡さんはとてもフットワークが軽い。
待ち合わせ場所を決めて合流した。
地下鉄の田原町という駅の改札口で合流し、浅草を目指す。
定食屋がいいなぁという私のリクエストにとっておきのお店を紹介してくれた。

そこは浅草六区の水口食堂。
広い店内には大きなテレビ。競馬中継がずっと流れている。一人の客が多い。圧倒的に競馬ファンの中年男性ばかり。うまそうに酒を飲みながら定食をつまみ、競馬新聞と競馬中継を眺めている。そこには「昭和」が色濃く残っていた。

私は木幡さんがおすすめという「いり豚」をいただく。
ウスターソースとケチャップの合わさったような味の豚肉焼きだった。
どのメニューも安かった。
アジフライを頼んだら、注文を受けてからさばいた生のアジを揚げたフライが登場。肉厚でジューシーなフライだった。

浅草で楽しい時間を過ごして、木幡さんとは別れ、青山へ向かった。
夕刻から息子夫婦の結婚式で着るモーニングの寸法合わせがあった。その前に青山の清水湯でくつろぎ、暑い一日を振り返った。











7840.11/4/2018

(3)青春18切符の旅2018夏・最後

寛永寺の敷地は明治政府によって縮小されたが、実際は不忍池を含む広大な敷地だった。大きな時代のうねりの中で崩壊していく徳川幕府の現実を受け入れられず、圧倒的な薩摩長州連合軍への理屈を抜きにした抵抗感が、旧幕臣のみならず、他藩からの脱藩者たちを精神的に結束させていったのだろう。
また、勝安房守など権力の移譲に加担した者たちを裏切り者と蔑む保守的な思想が、自分たちは彼らとは異なるという差別感を昇華させていったのではないだろうか。

現在の上野公園敷地内には多くの戦跡が残されていた。
その中に彰義隊の墓があった。
わずか半日で上野戦争は兵力で勝る薩摩長州連合軍が彰義隊を制圧した。
無数の死体のうち、彰義隊戦士の遺体は回収されることなくそのまま放置されたという。この故事からも敵も味方もニッポン人という連帯感は見えてこない。

上野から常磐線で南千住へ。
円通寺には当時の弾痕が残る寛永寺黒門が移築されていた。
当時の円通寺住職が可能な限り彰義隊戦士の遺体をここに運び弔ったという。墓碑には函館に逃避した榎本武揚による墓名が刻まれていた。