7799.7/14/2018
エンドロール1
退職まであと1日。
ついにラス前になった。
今日から妻と娘、妹夫婦の4人がフランスに行く。妹夫婦は伊豆に住んでいるから、我が家に車を置いていった。好きに使っていいというので、雨の早朝、ラッキーとエンジンをかけた。自家用車を処分してしばらくになる。ドアミラーの開き方がわからない。座席の位置を変えられない。早朝から苦戦して出発。少し走ったら、給油が必要なことが分かり、あわてて帰宅。
いつも通りの電車通勤に変えた。
慣れないことはしない方がいいと、運命の神様が降ってきた。
今日のメニューは大掃除。支援級なので、やり方を視覚的に示す。黒板に
1 かたづけます
2 はきます
3 ふきます
4 かえりのしたく
と大書した。
それぞれの項目に細かい作業をイラストにして追加した。
掃除をする場所が4箇所あり、チームを4つ作り、子どもの顔写真別に掲示した。
8:50-11:00
間に休み時間を挟み、子どもたちは見通しをもって働いた。
ぴかぴかにして4がつをむかえよう
段取りより目立つように、意気込みを書いた。
分かる言葉や絵で、必要な情報を伝える努力を職人としての教員はサボってはいけない。
やるべきことが分かっていない子どもの多くは、自分の物語を作り、それをなぞってしまう。
4つに分かれたチームを俯瞰して、大人の力量とセンスの違いを感じた。
3人の教員のうち、2人が入れ替わる。新しくこられる方が働きやすい環境にしておきたかった。
新入生は一人。その子どもが不安にならない環境にしておきたかった。
明日はバタバタするだろうから、今日のうちに管理職にゆっくり別れをしよう。
そう思って校長室に行ったら、会議中の札がドアにかかっていた。
職員室の教頭を見たら、長い電話対応で頭を抱えていた。
お世話になりました
心で伝えて、帰路についた。
(この原文は、2018年3月22日にファイスブックに投稿した)
7798.7/8/2018
ずさんとげひん。
杜撰と下品。
日本年金機構が年金受給者の情報を入力する仕事を依頼した会社。
その会社が大量の入力業務をこなせないとわかっていたのに、改善命令も、他社への契約変更もせず放置した。
その会社は、中国の会社に入力業務を再委託していた。
きわめて個人情報の高い内容を、ほかの業者、それも外国の業者に売り渡していた。
そのことを日本年金機構では、本来よりも少なく支給された年金の調査過程でやっと気が付いたという。
なんと年金受給者500万人分の情報が外国の業者に渡った。
日本年金機構と入力を依頼された会社との間では、他の業者への再委託は契約上禁止されていた。契約違反が露呈したわけだが、そういうことをしてしまう会社かどうかという信用調査はしなかったのだろうか。
2004年以降、政治家がずるをして年金未納をした事件・あるいは不正に免除した事件・年金記録の改ざんなどで問題になった社会保険庁が前身の日本年金機構だ。
2010年に業務が引き継がれた特殊法人だが、職員のほとんどが旧社会保険庁からの人材だった。
社会保険庁は厚生労働省の外局だった。
今でも日本年金機構と厚生労働省がつながっていると考えるのが自然だろう。
現在の理事長は、三井住友銀行副頭取からの天下り。
副理事長は、内閣官房内閣審議官からの天下り。
理事のうち2人は厚生労働省で課長や支局長をやった後の天下り。
大宅映子さんのように現職しながら理事を兼ねている人は4人しかいない。
ほかの理事は日本年金機構からのたたき上げだが、最初は旧社会保険庁に入庁された方々だったのではないかと想像する。
ちなみに2013年度の報酬情報がある。
理事長は1641万円。
副理事長は1464万円。
(現在の副理事長は当時理事として1406万円)
理事は1406万円から248万円の幅がある。
大宅さんのように現職を続けながら非常勤として任命された人は245万円から3万円の幅がある。
(大宅さんは3万円)
やっていることは杜撰の一言だが、得ている収入はちゃっかりというかぼりすぎだろうとあきれてしまう。
どういう方法で役員にこれだけの収入をはじき出す利益構造があるのだろうか。
年金業務が、多くの利益をうむとは考えにくい。
投資が成功し続けているとも思えない。
だったら、年金開始年齢を遅らせないで、以前のように60歳からに戻していただきたい。
下品な国会議員と杜撰な官僚機構が、日本政治をけん引していることを知る。
(この原文は、2018年3月21日にファイスブックに投稿した)
7796.6/18/2018
エンドロール2
退職まであと2日。
今日は春分の日で学校は休み。私物でも運び出そうかと思ったが、すでに毎日少しずつ運び出していたので、ゆっくり休む。
雨だし、とても寒いし。
思えば、休日返上で出勤し、授業の準備をしたことは何回もあった。
毎年、この時期は年度初めの準備が必要なので多くの教材を作成し、教育委員会へ提出する文書もたくさん用意した。
年度が替わるとわずかな日数で子どもが入学し、始業し、授業が始まる。準備に満足な時間をかけられないままの見切り発車だ。
それがいやで3月のうちに多くの準備をしてきた。
この3月はその必要がなくなった。やろうと思えば、新年度のメンバーのためにいくつかの資料は残せる。しかし、それらは新しいメンバーが苦労して用意するべきものだ。
給食の後に歯を磨く。
コップと歯ブラシ、歯間ブラシ、歯磨き粉を昨日持ち帰った。
給食は終わってしまったが、ランチを外食し学校に戻り歯は磨いてきた。つまり、もう子どもが下校した後は、有給休暇を使って午後の学校には戻らないということ。
4月6日に離任者(他校へ異動したひと)と退任者(定年や早期退職したひと)と子どもたちとの離任式がある。
しかし、私はすでにその時点で「学生(専門学校の)」をしているので、欠席を連絡してあった。
そういうケースはほかにもある。
他県を受験し合格。国元に帰って教員を続ける人も4月6日には来られない。
1年契約の臨時任用のひとたち。次年度は異動が決まっている場合は、同じように4月6日には来られない。実質的には異動しているが、契約が途切れて新しい契約が発生するという役所論理らしい。
こういう人たちのために、23日の修了式の後に離退任式が行われる。
昨日、校長名で離任者名を載せた文書が全校に配られた。
朝一番にお別れセレモニーをする。
しかし、子どもの授業はあるので、私は別れの挨拶をしたのに支援級へ行き、春休みの過ごし方や成績表渡しを行う。順番が逆なのだ。
さらに昼を挟んで午後2時からの職員打ち合わせで、離退任者が異動のない教職員へ別れの挨拶をする。
私のように午後は休暇予定の場合は、教職員への別れの挨拶はない。
「洋平さん、そんなこと言わないで午後も残ってよ」
教頭に言われたが、お断りした。
3月2日に保護者に別れを告げた。
その後の授業で、複数回支援級の子どもに別れを告げた。
23日の朝に全校の子どもに別れを告げる。
世話になった教職員へは、折に触れて別れを告げてある。
体面にこだわって、ありきたりの挨拶をしても、人の心には届かないよ
教頭にはそう言いたかったが、「午後には予定があるので」という大人対応をした。
さぁ、カウントダウンに入った。
(この原文は、2018年3月21日にファイスブックに投稿した)
7796.6/17/2018
エンドロール3
退職まであと3日。
今日は、支援級の教員と介助員さんのポストを作り、お礼の手紙を書こう??と投げかけた。
教員3人と介助員6人のポスト。誰に出そうが自由にした。
明らかに子どもからの通信簿状態。たくさん遊ぶ介助員さんへの手紙がどんどん集まる。3枚は書こう、と言ってあった。
真っ先に教員に書く子どもはいないだろうと思っていたら、一人の男の子が私のポストに最初の一枚を入れた。彼を担当したことはなかったが、それだけに側面から彼を私は支えてきた。
支援級は3人の教員で14人の子どもを担任する。少人数指導のチームを作り、教員を担当につける。担当する子どもたちとのつながりは深い。しかし、担当しない子どもたちとのつながりは薄くなる。
だから、私は意識して、音楽や体育、図工などの全体指導教科では、担当以外の子どもたちを支援してきた。
真っ先に手紙を書いてくれた子どもは、感受性豊かで真面目な気質があり、それを言葉で表すことを苦手にしていた。だから、他の子どもより数倍、表情や文脈を読む必要があった。
手紙には、強い筆圧で、ありがとうの五文字が記されていた。
用紙はあっという間になくなり、増刷して子どもの期待に応じた。
結果的に、どの資源(教員と介助員)にも、数多くの手紙が集まった。
文字を書くことが困難な子どもたちがたくさん所属する。文字は書けても、文章にならない子どももたくさん所属する。
でもそんな子どもたちが精一杯のハートをもって、感謝や思い出を記した手紙は、魂を奮わせた。
ちがうがっこうにいってもがんばってください
この子どもにはきちんと退職を伝えられたと自覚した。
(この原文は、2018年3月20日にファイスブックに投稿した)
7795.5/27/2018
エンドロール4
あと4日で私の教員生活が終わる。
先週、金曜日に卒業式があり、支援級6年生を送り出した。今日は、支援級の下級生と荷物の片付けをした。
とはいえ、全学年いた支援級のリーダー格だった6年生がいないから、教室は祭りのあとみたいな空虚感が漂う。
これって何だろう。無邪気な子どもたちを見ていたら、映画の最後に長々と出てくるエンドロールみたいだと気がついた。
2017年度という長い作品が、先週の金曜日に終わり、今週は金曜日の修了式まで、キャストやスタッフを紹介して感謝する時間にしようと決めた。
だから、今日は交流学級の教員や子どもたちに感謝の手紙を書いて渡す時間にした。
お世話になったという意味で校長、教頭、養護教諭に手紙を書きたいという子どものリクエストにも応じた。
先週で給食は終わっているから、今週は11時半には下校。
わずかな時間の一秒一秒が、私にとってはエンドロール。
ちょっと感傷的になっちまう
(この原文は、2018年3月20日にファイスブックに投稿した)
7794.5/19/2018
子どものころから塾や家庭教師によって受験勉強を強いられ、思春期には進学校で自由を奪われ、偏差値の高い大学を優秀な成績で卒業。さらに難関の国家公務員上級試験に合格し、念願の省庁に配属されるエリートたち。
同期を競争相手として、次々と頭角を現し、官僚トップの事務次官を目指す。
ずば抜けた記憶力と精神力、たまには使命感を秘めた人たちが、自民党議員(一部の)に呼び捨てにされたり、依頼を受けて忠実に実行したのに「勝手にやった」とはしごを外されたりしている。
はたまた事務次官まで務めたのに解任されて、私人になったはずなのに公立中学校で講師として話したら、戦前の検閲まがいの情報提供命令を、自民党議員(一部の)から執拗に迫られて、教育委員会に発令させられる。
この国の政治を自民党議員(一部の)が腐らせていく。
過労死をした方の遺族が働き方改革の公聴会で話したら「じゃぁ週休七日にしろってこと?」と反問したのも自民党議員(元ワタミ社長ね)。
みんな下品すぎて恥ずかしい。
なのに選挙をすると、そんな下品な人たちが当選してしまう。よほど、利権にぶら下がっている会社や個人が多いのだろうか。
また野党が政権を奪取すれば、官僚を大切にした上品な政治が始まるとも言い切れない。
政権で与党になる、あまりにも多くの権力を手中におさめるシステムを見直さないと、いつまでも同じことが繰り返されるかもしれない。
本来は法律の番人であるはずの司法が、政治や外交関連ではまったく機能していないことも問題の根を深くしている。
子どもや若者から見て、魅力のない仕事には人材は集まらないというよのなかの大原則。これって、世襲ばかりが横行している政治家稼業にも、あてはまり始めた気がする。
(この原文は、2018年3月18日にファイスブックに投稿した)
7793.5/12/2018
湘南地方の公立小学校は、おそらく16日が卒業式。
支援級からは3人の6年が卒業する。
その中の一人から手紙をいただいた。
「はげぼうずの頭にじゃりじゃりして、よしよししてたのが思い出に残りました。
日光も色々お世話になって、本当に感謝します。
ココアを飲んだり、ご飯を食べたりが楽しかったです!
いつも「『さよなら〜』が聞こえないぞー」って言われて「さよなら」って言って「OK!」って言われたのが嬉しかったです」
醍醐味、醍醐味。文字で酔えます。
はげぼうずの云々は、もちろん私のこと。
ココアは、こっそり支援級メンバーだけ戦場ヶ原ハイキングをさぼってごちそうして、飲んだこと。
「さよなら」は、俺はあなたを見ているよ!というメッセージを発信し続けていたこと。
どれもこれも、事実であり、真実です。
今から泣けてくるぅ!
(この原文は、2018年3月14日にファイスブックに投稿した)
7792.5/12/2018
教員になった1985年。
忘れもしない4月1日の朝。採用辞令を受けるため、早起きして自宅の食卓につくと、私の朝食に値札がついていた。
いつもの朝食。ご飯、みそ汁、鮭の塩焼き、庭の鶉が産んだ卵。なんと1000円。
「どういうこと?」
父親に聞く。
「今日から社会人なんだから、飯は自分で稼いだ金で作ったり、買ったり、店で食ったりするのが当然。自宅にいるのなら、日割りで家賃も徴収する」と、宣言された。
もちろん、夕食も値札がついていた。
これはやばいと必死になって独り暮らしのアパートを探した。
だから、当時、学校で昼に食べられる給食は、22歳のいつも空腹安月給教員にとっては、主食であり栄養源だった。
子どもたち以上におかわり競争に参加し、じゃんけんで負けると誰よりも悔しがったことを思い出す。
あの頃は土曜日も3校時まで学校があった。給食はない。子どもを帰して、葉山の海べりに出向き(初任地は葉山だった)、漁師飯をいっしょにいただくのが楽しみだった。
懇談会で独り暮らしの不摂生を語ったら、保護者が交代で朝食を子どもに持たせてくださった。中には夕飯もごちそうしてくださる家庭もあった。もちろん、ご家族とそのまま晩酌になり、入浴・就寝。翌朝、子どもといっしょに登校ということも珍しくなかった。
よき時代かな。
今の若い教員たちも、全力でぶつかれば、こういう関係性を築けると思うのは、年寄りの「昔はよかった」発想かなぁ...
(この原文は、2018年3月14日にファイスブックに投稿した)
7791.5/6/2018
2017.12.27丹沢山行...22
丹沢。大倉尾根登山口の大倉バス停。
ここには登山靴を洗浄する専用の流しがトイレ前にある。
正面奥の山よりももっと向こうから歩き下ってきたと思うと、自分の足をいたわりたくなる。
小田原からの東海道線は、ちょっと贅沢にグリーン車を利用した。
地図を広げて、コンパクトカメラで撮影した写真を振り返る。
のど越しのビールがしみわたる。
昨年暮れの丹沢山行記録は、これにて終了です。
7790.5/5/2018
2017.12.27丹沢山行...21
花立山荘への登りは大倉尾根屈指の難所。
100段を越える階段が続く。
登山道では階段のようにある一定の高さまで膝を上げなければならない歩き方が続くと、腿やふくらはぎに乳酸菌がどんどんたまってしまう。
日常的にエスカレーターよりも階段を使うなどして鍛えておく必要がここにある。