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7769.3/21/2018

日常的な心がけ...13最終回

質の向上(臨機応変)

もっとも心がけていること。
それは機を見て敏でありたいということ。

どんなに準備をしても、子どもたちはその日その瞬間にそれまでとは違う表情を見せる。

原因は様々だが、それを探っても問題の解決にはつながらない。
大切なのは、様々な心の状態の子どもたちを前にして、いかにこちらが用意したステージへ子どもの興味や関心を挙げられるかということだ。

教材のもつ楽しさや深さ、構造の広がりがもちろんもっとも重要だ。
しかし、それだけでは教員はいらない。
用意した教材を子どもたちに提示していくとき、それぞれの教員のセンスが問われる。

べそをかいている子どもがいるのに、無視して指導を続ける教員がいる。
理由なく登校していない子どもがいるのに、気にもかけないで指導を続ける教員がいる。
小さな声で教員に話しかけているのに、背中を向けているので全く聞こえず、他の子どもの対応に追われる教員がいる。
隣同士の子どもが小さなトラブルを始めたのに、無頓着に指導を続ける教員がいる。

私は子どもたちが、生命にかかわるいたずらや間違いをしたときは、どんな状態でも、授業をストップして、その場で状況を説明し、子どもたちと議論する。
何が起こったのか。
どんな危険があったのか。
それを防ぐにはどうすればいいのか。
全体で確かめる。

私は子どもが孤立し、表情がなくなっていくことに気づくと、休み時間でも何でも全員を集めて、何が起こったのかを尋ね、状況を把握する。
そして、一人の悲しみはやがて全員の悲しみに広がることを教える。
何が起こったのか。
どこに気持ちの掛け違いがあったのか。
修正すべき気持ちのあり様はないか。
一人でいることと、孤立することの違いを教える。
そして、全体で一人ひとりを大切にすることを確かめる。

その結果、用意していた授業ができないことは珍しくない。
保護者や同僚、管理職から進度(授業の進み具合)が遅いと批判を受けても、反論する。
いまここでスルーしていいものは、授業であり、立ち止まって子どもの脳と心に考えさせなければいけないのは、生命の大切さと孤立の解消だと。

教員の仕事はマニュアル化できない職人仕事だ。
だからといって、頑固一徹になる必要はない。

子どもたちが、家庭以外の空間として長く過ごす学校や学級環境で、安心して充実した生活を送れるようにすることも、教員に求められる大切な能力だ。

2017年のおしまいに、33年間の教員生活で培った心がまえを整理できた。

学校に限らず、子どもに関わる方々の日々の業務に少しでも参考になれば幸いだ。

素敵な年末年始をお過ごしください。

(註:このシリーズは2017年の年末にフェイスブックにアップしたものです。最終回は12月31日にアップしました)

7768.3/18/2018

日常的な心がけ...12

質の向上(準備性)

指導や支援の質を向上させるというのは、もちろん授業の中身がもっとも重要な要素になる。
しかし、それは教師の本業なので、日常的な心がけとしてあえてここで触れる必要はないだろう。

昨今、教員の仕事が忙しすぎるということで、やっと文部科学省は業務の見直しを開始しようとしている。これまで、何もかも学校に押しつけておいて何を今更とも感じるが、若い人たちの悲鳴やため息を日々聞いていると、彼ら・彼女らの負担が少しでも軽減されるのは望ましい。

だから、現在、私が担当している授業以外の業務は、将来的にはほかのだれかが担当することになるかもしれない。しかし、ほかのだれかを想像しにくいので、しばらくは教員の業務のままかもしれない。
それぐらい、教員の業務は複雑多岐になり、代替できる業種が存在しない現実が蔓延している。

特別支援学級には、教員のほかに介助員さんがいる。
教員免許不要なので、指導は認められていないが、教員の補助としての支援はできる。
実際には、何年も介助員さんを継続していて、働かない教員よりもはるかにセンスのある方は大勢いる。
介助員さんは、市町村で雇用する。
勤務できる人は学校が探す。
これは、私が勤務する行政の話なので、他市や他県は状況が違うだろう。

私が勤務する市では、正確には雇用していない。
給与を払っていないからだ。
扱いを「謝金」としている。
これはお礼というニュアンスが強い。
給与にしてしまうと、雇用関係が発生し、労働基準法に定められた様々な取り決めをしなければならない。だから市は、アルバイトやパートとしても採用しない。
あくまでも、お手伝いに対してのお礼としてお金を渡している。

時給は900円。県の最低賃金ラインだ。
1日最高6時間まで。
交通費は不支給。もちろん保険はない。給食費は実費をいただく。

こんな劣悪な条件なのに、献身的な方々が特別支援教育を支えてくださっている。
しかし、善意の足元を見るような政策を続けていくと、やがて他の福祉事業者にどんどん有能な介助員さんたちは引き抜かれてしまうだろうと予測する。

私は特別支援学級の担任になった時から、介助員業務を担当している。
業務は市に介助員時間数の請求。
月ごとの消化時間数の報告。
年間介助員時間数の配置計画と実施。
不足介助員時間数の請求。
新規介助員登録の代行。
継続介助員登録の代行。
謝金送金先口座の引き落とし事務。
月ごとの介助員計画の作成。
月ごとの介助員給食費の徴収。

さっと思いつくだけでこれだけ並ぶ。
年度当初に年間に必要な介助員時間数を市に請求するが、これまで13年間、満額認められたことはない。教育に予算を使わないことで有名な市なので驚かないが、横浜市や相模原市から異動してきた方々は一様にびっくりしている。

少ない年間時間数を8月を除く11か月で分配し、3月の年度末に使い切る。
多くの学校が12月で使い切り、1月以降は教員だけで綱渡りをしている。
私はこれまでの経験から、介助員さんが必要な月と、教員だけで乗り切る月が見えてきたので、年間の分配は平均化しない。

運動会の練習へある学年が行き、ほかの子どもたちが学習を継続する9月。
多くの学校は重点的に介助員時間数を増やす。
しかし、私はあえて9月はそこを減らし、教員だけで乗り切らせる。
そもそも運動会の練習や運動会という軍隊的な行事に乗り気ではない私の個人的な思想も背景にはあるが、こんなことで大切な介助員さんたちを振り回させたくないと考える。
また、学校行事としている以上、教員が担当するのが本務であり、悲鳴を上げようが不満を募らせようが、介助員さんの助け舟は与えない。

反対に子どもたちが楽しみにしている遠足がある10月から11月は、いつもよりも介助員さんの時間を増加する。
学校外の行事なので、手厚くする必要があるが、理由はそれだけではない。
介助員さんたちに、子どもの多様な側面を感じてほしいからだ。学校にいる姿と、遠足に出て嬉々とする姿と、どちらもその子ども本人だと感じてほしいのだ。

毎月の勤務計画を介助員さんたちに作成して渡す。
学校は翌月の予定を前月中旬から下旬の職員会議で決める。その後に翌月の計画を渡すのは、あまりにも失礼だと感じてきた。
そこで、私は職員会議を待たずに年間予定を参考にして、2か月前の下旬か前月の上旬には渡すようにしている。
例えば12月の計画ならば、10月下旬か11月上旬に渡した。早めに計画を渡せば、介助員さんたちの都合による変更にも対処しやすい。教員たちも早めに資源確保(その日、子どもに関わる大人の人数)がわかり、授業の組み立てがしやすい。

ちなみに、12月上旬には来年1月から3月までの3ヶ月分の計画を渡した。残りの介助員時間数が確定したので、3月末までの計画が可能になったからだ。

同様に、下校時に子どもたちを預かるデイサービスの方々にも翌月の下校時刻を知らせている。これも前月上旬には伝えるようにしてきた。
保護者は、デイサービスにいつ子どもを預けるのかを前月に行わなければならない。その時に学校の下校時刻を伝えて、デイサービスの方が何時に学校に迎えに行くのか分かるようにする。
しかし、学校から下校時刻情報が伝わるのが遅いと、保護者は憶測で下校時刻を伝えるしかなく、急な変更やいつもと異なる状況に対応しにくい。いつもと異なる下校時刻にデイサービスの方が迎えに来ないということは、かつて何度か経験した。学校からの連絡が遅すぎて、保護者が変更を伝え忘れてしまうのだ。
それを防止するために、保護者にもデイサービスの方にも、同じ情報を学校から早めに伝えるようにしてきた。
その結果、学校からの文書を見ていない保護者がいつものように下校時刻を伝え、逆にデイサービスの方が学校からの文書で保護者の勘違いを指摘できるようになった。

介助員業務やデイサービス業務は、授業とは関係ない。
だから、あまり熱心ではない特別支援学級もあると聞く。
いくつかの学校を掛け持ちしている介助員さんは多いので、悪口とは言わないが、他校の情報はすぐに入るのだ。

しかし、私は子どもを取り巻く多くの人たちとの接点業務は、大切な準備の一環だと信じている。介助員さんとデイサービスの方と教員がタッグを組めば、多くの保護者は安心して子どもを学校に託してくれるのだ。

7767.3/17/2018

日常的な心がけ...11

質の向上(2人以上で見ない)

現在、私が勤務する特別支援学級には14人の子どもが在籍している。
教員は3人。
1人平均で5人弱の子どもを担当している。

さらにたいがい毎日1人以上は介助員さんが支援に入る。

14人を4人のおとなで指導・支援している。

1人平均3.5人の子どもを担当することになる。

尿や便を漏らした子どもがいると、4人の大人のうち1人がその子ども1人の支援にあたる。
残りの13人を3人のおとなが担当するすることになる。
この瞬間1人平均4.3人の子どもを担当することに変化する。

だから、子どものADL(日常生活の能力・ability of dairy life)の向上は不可欠な育成目標になる。
いつまでもトイレ自立ができない子どもは、いつまでも大人1人を必要とする。
いつまでも着替えが自立できない子どもも、同じ。
いつまでも1人で遊べない子どもも、同じ。
いつまでも鋏を持たせられない子どもも、同じ。
いつまでも箸やスプーンが使えない子どもも、同じ。

毎年、子どもの個別指導計画を立てるとき、最初の年間指導目標にADLの向上を掲げる。
3年間ぐらい、これらを計画的に指導すると、多くの場合はこれらを自立的にできるようになっていく。
支援のための大人が不要になり、全体の支援の質を下げなくて済む。

しかし、保護者の多くは
・コミュニケーション能力の向上

・基礎学力の獲得

指導目標のトップに掲げてほしいと願う。

もちろん両方とも子どもの成長に必要な力だが、それ以前に「一人でできることを増やす」指導を優先すべきだと、私は考えている。

教員の中には、1人の子どもがほかの指導者の指導や支援を受けている時に吸い寄せられるように寄っていき、あーでもない・こーでもないと大人2人で1人の子どもを囲んでしまう人がいる。

これは自立できない子どもに大人が1人ついてしまう以上に、意味のない行動だ。

14人の子どもを4人の大人で指導・支援している時、1人の子どもに2人の大人がかかりきりになる。
その瞬間、12人の子どもを2人の大人が担当することになる。
大人1人が平均6人の子どもを見る瞬間ができてしまう。
これは数値上のことであり、私の経験から言うと不可能な人数だ。

同時にどの子どもにも同じように気を配れるのは、3人から4人が限界だ。
だから、1人の子どもに2人の大人が関わっている瞬間、残りの大人の視野や聴覚、心の配り方から4人ぐらいの子どもが見えなくなってしまう。
そこで子どもどうしのトラブルやケンカ、事故が起こっても、何があったのか把握していない状況が生じてしまう。

ミーティングでは、こういう数字をあげて
「だから、複数の大人が1人の子どもに関わるのは危険なんですよ」と
諭し続けてきた。
にもかかわらず、浸透しない。
その根底には、教員といえども、子どものすべてを見守り、把握し続けるのは無理だというあきらめがある。
職業人としての矜持や努力を放棄する情けなさがある。

7766.3/11/2018

日常的な心がけ...10

質の向上(役割分担)

通常学級と特別支援学級の大きな違いは、教員が複数常時いることだ。
これに介助員の方々も含めると、つねに3人から4人が子どもの指導と支援にあたっている。

私が通常学級から特別支援学級に異動した時、特別支援学校から長い期間、特別支援教育に携わっていた方がいたので、とてもお世話になった。
その方をリーダーとして、教員チームが形成されていたので、私は多くのことをその方から学ぶことができた。
残念ながら、その方は「小学校では充実感がない」という理由で中学校の特別支援学級へ早々に異動してしまったので、それ以来、ずっとその学校ではリーダーを任された。

授業場面では、リーダーになる教員とフォローにまわる教員に分かれる。
互いが同じ考え方で指導しないと、子どもは混乱をする。
私が指導したことと、異なることを別の教員が指導すると、子どもはどちらを信じればいいのか分からなくなってしまう。
だから、授業前のミーティングが重要になってくる。

毎週、必ずミーティングの時間をとり、次の予定を検討し、互いの役割を確認する。これまでのやり方を反省し、互いのミステイクを指摘し、再発防止を心がける。
毎日、子どもが登校する前に、事前に決めてあるその日の予定を確認する。決めたとおりに実行する日よりも、微調整する日の方が圧倒的に多い。その微調整こそが、子どもの実態から判断する大事な修正点になる。

その学校では勤務できる最長期間、9年間お世話になった。
最後の1年間は、残る教員たちに日々の心がけやミーティングの重要性を説き続けた。

そして現在の勤務先へ移動した。ここでも特別支援学級に配属された。
私よりも5年先輩の教員がリーダーをしていた。
その方にすっかり任せていればいいと思った。
ところが、この学校ではまったく教員同士のミーティングをとる時間が設定されていなかった。
リーダーの頭にあるものを、フォローする教員や介助員の方々が想像して立ち回るという超人的なやり方を踏襲していた。

当然、保護者と教員たちとの間には信頼感が薄く、互いを中傷する声もあった。
私は2年目からリーダーを交替し、最低でも毎週、ミーティングの時間を確保することから取り組んだ。
すべての打ち合わせ事項を「レジュメ」として文書化した。そうしないと、メンバーが忘れてしまうのだ。
またミーティングの中では歯に衣を着せずに、互いの見立てや指導の感想を言い合った。時には批判めいた言葉も飛び交った。

「あの時の対応は、形を変えた体罰です。今度やったら委員会に報告します」
「授業準備がまったくされていないから、DVDばかり見せるのは指導の放棄です」
「ジェンガと将棋ばかりしていて、個別指導とは思えません。教材の広がりや構造を教えてください」

ミーティングでは、そんなことばかり私が言うので、内心はだいぶお怒りだっただろう。

しかし、そういう本気のやり取りを通して、若手が大きく育った。
油断すると自分も何を言われるかわからないという危機感があったのかもしれないが、すべては子どものためという気持ちが通じたのではないだろうか。

特別支援教育は、その特徴から複数の大人が協力して指導と支援にあたる必要がある。
だから、チームとも呼べる複数の大人たちの実力を向上させないと、教育の質を向上させる方法はないのだ。

だれか一人が勝手にやって空中分解。
だれも相手を信用せずに勝手放題。
そういう学級は、減らさなければいけない。

7765.3/10/2018

日常的な心がけ...9

話し方(アイコンタクト)

自閉的な特徴の強い子どもは、人の気持ちが読みにくいと言われる。
だから、第三者の会話に前触れなく割り込んでしまう。

しかし、私はそういう子どもたちに接してきて、この解釈は違うのではないかと強く感じるようになった。

第三者が楽しい、あるいは深刻な会話をしていることが分かっていないから、前触れなく話に割り込んだり、自分のことを一方的に話したりするのは、自閉的な特徴に起因しているのではなく、その子どもの心の問題が大きいのではないか。
満たされない思いが強いと、人は大人でも子どもでも、自分の存在を認めてほしくなり、相手に関係なく自分のことを話そうとする。
とくに親子関係がうまくいっていない場合の子どもにはその傾向が強い。
親が承認してくれないので、代替行為としてクラスの子どもや教員へ自分のことを伝えようとする。

ではなぜ自閉的な特徴の強い子どもが、文脈を無視して、他人の会話に入ってくるのか。
それは「話し方」が苦手だからではないかと、私は考える。
多くの子どもが経験から蓄積していく、人との距離感を、何らかの理由で長い時間をかけないと自分のものにできない脳の弱さに起因していると、仮説を立てている。
つまり、相手には悪いなと感じながらも、文脈を止める話し方や、距離感を縮める話し方を習熟しにくいので、いきなり本音で割り込んでしまうのだ。

多くの場合、
「今はその話をしていない」
「なんだよ、いきなり割り込んできて」
など、あまり良い印象を与えない。

自分が嫌がられたことを自覚して、落ち込む。

残念ながら、話し方の問題ではなく、本当に周囲の状況が理解しづらくて、いきなり大きな声を発したり、床をどんどんと蹴ったり、全速力で逃げたりする子どももいる。
何らかの脳の弱さが原因と思われるが、それは自閉的な特徴とはリンクしないだろう。

私は自閉的な特徴が強い子どもには、なるべくアイコンタクトをとるようにしている。
睨むのではなく、目線を合わせて、こちらの表情を読むトレーニングをさせるのだ。
目線があったら、微笑んだり、口に人差し指を立てたり、耳たぶに掌をあてたりする。言葉ではなく、表情や仕草から、私の感情を読み取れるように指導する。

このアイコンタクトを中心とした指導は、特別支援教育の世界では確立していないので、非科学的なものだ。
また、指導する者の人間性や力量に左右されるので、科学的になりえないかもしれない。
ただし、目線を合わせられる子どもは、確実に2年から3年で、人との距離感を覚えていく。そこに「ちょっといいですか」とか「聞いてください」という言葉を教えていくと、生きづらさがかなり軽減されていく。
アイコンタクトは、大脳新皮質レベルの能力ではなく、進化途中の哺乳類などの脳の力に関係しているだろう。捕食されたり捕食したりしていた時代の脳の記憶に関係していると思われる。

アイコンタクトが成立すると、離れていても、無駄な大声は必要なくなる。

7764.3/4/2018

日常的な心がけ...8

話し方(わかった?満足禁止)

教員に限らずだが、子どもに向かってあれこれと指図をした挙句に
「わかった?」と
ダメ押しをする大人は多い。

電車やバスなどの公共交通機関を使っていると小さい子どもと母親とのやりとりでも、耳にする。

子どもはまさか
「わかんない」
とは、答えないので、たいがい「わかった」「わかりました」となる。

しかし、私のこれまでの33年間で、本当に子どもが「わかった?」と問われてわかったためしはほとんどなかった。
なぜかというと、子どもは大人からあれこれ言われ続けることに飽きて、あるいは嫌気がさして、これ以上黙ってほしいから
「わかった?」と聞かれて
「わかった」と相槌を打っているのだ。

大人が求める内容への理解ではなく、相槌を打つことでこれ以上の小言に終止符を打ってほしいと願っているのだ。

だから、時間が経つと、大人が求めたことを子どもがやらないことが露呈し、事態はさらに悪化する。
「さっき、わかったって言ったじゃないの」

あなたの言葉を終わらせたいから、相槌を打っただけだよと言いたくなることもあるが、きっと火に油だろうと思って、私は黙っている。

中には
「わかった人?」と聞いて手を挙げさせる教員もいる。
子どもは意味も分からずに手を挙げているだけなのに、そのことに気づけない。

親も教員も、子どもが自分のコントロール下にあるかどうかの確認として、いちいち小言の最後に「わかった?」と聞いているのだろう。だから、それは質問ではなく「わかったか、お前」という押し付け言葉なのだ。
その時に、子どもが「わかったよ」「わかりました」と言ってくれることを期待し、その通りになると、子どもを支配下に置けた満足を得る。

まったくコミュニケーションが入り込む余地はなく、主従関係の確認がされたのみ。

「ここまでのお話がわかりましたか?わからない人は遠慮なく質問してくださいね」
こういう締めくくりを、私は心がけている。

7763.3/3/2018

日常的な心がけ...7

話し方(反復否定)

「帽子はどこにいったの?」
帰り際になって支度をしている子どもに水を差す。
「いつもかぶらないんだから」
その子どもは朝の段階でかぶってきてはいなかった。
保護者からの連絡帳に何かしらの情報があるかもしれない。
それなのに、手間を省いて子どもに問いかける。
「だから、帽子はどうしたの?」
さっきは、どこにだったのに、今度はどうしたのになっている。
子どもは無視して勉強道具やタオルをランドセルに詰めている。
そのわきに立って、子どもを見下ろしながら、また繰り返す。
「聞いてるの?帽子はどこにあるんですか!」
荷物をしまう手を止めて、子どもはその教員をにらむ。
「うるさいなぁ。帰りの支度ができないじゃん」

私は教室の前方にある大きな教卓で、日直とともに並んで座り、帰りの会を始めようとしている。
その教卓の真ん前の席の子どもに、帽子云々の同じ言葉を何度も発射している。

なぜこの大人は何年も教員をやってきて、せっかく帰りの支度を自律的にやっている子どもの行動を制止しようとするのだろう。
帽子の所在など、帰りの支度が一段落してから聞けばいいではないか。
また、自分の質問に取り合おうとしない子どもの精神状態を想像する力があれば、何度も何度も「帽子はどうした」関連の質問は、今はやめておこうと自覚できるはずなのに。

「うるさいとは何ですか。先生に向かって」
権威だけで教師性を保っている大人の常とう句だ。
帽子の所在を聞きながら、問題が別の方向へ向かってしまう。

「帰りの会を始めるので、そこどいてください」
ほかの子どもたちの多くが帰りの支度を終えて着席し前を向き始めた。
その視界に、何度も同じことを繰り返す教員の姿が入って、子どもたちの集中をそぐ。

「後で探すから、いいわね」
捨て台詞を残して、その教員は子どものそばを離れていく。
何が「いいわね」なのだろうか。

同じことを何度も言ってしまう。
それはコミュニケーションになっていないから。
発言内容に自信がないから。
相手に伝わっているかどうか不安だから。
すべて教員側の事情だ。
話を受け止める子どもの状態や事情はまったく考えられていない。

聞きたくもない話を何度も聞かされる子どもの精神状態を想像すれば、大事なことは一度だけ、明確に話すことができる。
「え」
「もう一度言って」
と子どもが言ってくれれば、興味が向いた証拠なので、もう少し詳しく伝えることができる。
なのに、同じことを何度も言う教員に限って
「さっき言ったでしょ」
「何度も聞かないの」
と、せっかく子どもが向けた興味の気持ちをつぶしてしまう。

翌日の予定を確認して、帰りの会は終わる。
日直の挨拶で、教室から子どもたちは飛び出していく。
その中には、帽子云々で注意されていた子どももいる。
「まったくもう」
帽子を探すつもりだった教員はため息をつく。

あんたが「まったくもう」なのだ、私は心で子どもの思いを代弁する。

7762.2/25/2018

日常的な心がけ...6

話し方(滑舌)

ものを喋る仕事では、滑らかな話し方は基本中の基本だ。
しかし、教員の中には滑舌の悪い喋り方をする人が少なくない。

自分はわかっている。
だから、子どもにも伝わっている。
だれも、滑舌が悪いと指摘しない。

この3つの論理によって、ぼそぼそ喋り、めりはりなし喋り、抑揚なし喋り、かみかみ喋りが修正されないまま強化され、定着されていく。

通常学級の担任だったころ、とても素敵な保護者がいた。
何が素敵かというと、喋り方が素敵なのだ。
ていねいというよりも、周囲の人がうなづいたり、メモを取ったりするのが自然なぐらいひきつけてしまう魅力がある話し方をする方だった。
私はまだ新米の駆け出しだったので、個人的にどうして滑舌や話し方が魅力的なのかを質問した。自分もできればそういう話し方を習得したいと。

その方は結婚前にラジオのアナウンサーをしていたそうだ。
それ以前も、もともと話し方や喋り方に興味を持っていたとのこと。子どもの出産で退職した後は、アルバイトで野球場や選挙のアナウンスをしているとのこと。

そこで教わったのは、もちろん発声法の基本だったのだが、それ以上に自分の喋りをよく分析することを教わった。
だれにも喋り方には癖があるそうだ。
その癖に気づかないままの人が多いが、人にものを伝える仕事では、できれば癖を直した方がいいと教わった。
やり方はかんたん。
自分の授業を録音し、後で聞きながら文章化するだけ。
このトレーニングは3年ぐらい続けただろうか。

効果はてきめんだった。
何度も同じことを言う。
主語がないので、何を言っているのか不明瞭。
主語が述語にかかっていない。
接続詞の使い方が不適切。
抑揚がないので、聞いていて、飽きてくる。
呼び捨てにする子どもと、「くん」や「さん」などの敬称をつける子どもがいる。
自分を「先生」と呼んでいるので、違和感が残る。
話に落ちがないのでつまらない。

こんな話を毎日聞かされる子どもたちはよく耐えてくれているなぁと痛感した。
自分を「私」と呼ぶようにしたのも、その頃からだった気がする。

このトレーニングによって多くの改善点が見いだされたが、何よりも嬉しい誤算は、滑舌がよくなったことだった。
癖だったシの修正が、聞こえやすい音へ転換された。
シを「スィ」と発音していることが多かったのだ。

また語尾に「思う」をつける癖にも気づいた。
これは「思う逃げ」と個人的に名付けたのだが、はっきりと断定しないで「あくまでも、私はそう思う」と逃げてしまう言い方をしていたのだ。
自信のある考えなら、はっきりと断定すればいいのに、自分の弱さを隠そうとしている気持ちが「思う逃げ」になっていた。

7761.2/24/2018

日常的な心がけ...5

話し方(ゆっくり)

子ども、とりわけ小学校年齢の子どもは、まだ言語を完全には習得も理解もしていない。
「コドモ」という音を耳から聞いて、頭の中で「こども」や「子ども」という文字に変換したり、「コドモ」という音が意味する概念を思い出したりするのに、時間がかかる。

だから、教員は教室で子どもに向かって話すときは、ゆっくり喋る必要がある。
これは、義務といってもいい。

私の経験では、同じことを何度も言うよりも、大切なことは小さな声でゆっくり、それもたった一回だけ言うほうが、子どもの脳は話を聞いていることのほうが多かった。

子どもの聴覚に心地よい音量と言葉の速度になったとき、大人の言葉はどうやら子どもの心に届くようだ。

若い教員がせっかく工夫した、組み立てのこった授業を計画しても、大声で早口で話してしまうがために台無しにする例はいとまがない。
教材の本質を見る目はあっても、演者としての素質に欠けるために、もっともかんじんな指導へと結びつかないのだ。
逆に表現力に優れていても、なかみのない授業しか用意できない教員は、すぐに子どもから本質を見抜かれて錆びついてしまう。
繰り返すが、最優先すべきは授業の構想や構造、何を教えるのかという思想。それに、どんな順序で展開していくのかという計画性が続く。
だから、私がここで触れている「心がけ」は、それらの準備を整えたのちの「本番場面」や「日常的な生活場面」で必要なものに過ぎない。

教職課程ではまったく教えてくれない。
教員になってからも、こういうたぐいの研修はほとんどない。
しかし、成長し続ける存在である子どもたちを相手にする仕事なのだから、子どもと接する同じ空間での所作やコミュニケーションは工夫しなければもったいない。

ある程度、自我が確立し、あるいは強情なほどに信念を変えなくなったような大人を相手にしているのではない。
これから何度でも気持ちの変化を乗り越えていくことが必要な子どもたちを相手にするのだから、その心に届く言葉を用意し、心に届くような伝え方の技を磨くことは職人としての教員には意識してほしい。

7760.2/22/2018

日常的な心がけ...4

話し方(小さな声)

教員、とりわけ小学校の教員は声が大きい。
多くの子どもたちに自分の言葉を伝えようとして、声が大きくなってしまう。
冷静に考えると、これはおかしな話だ。

どんなに多くの子どもがいても、静かな空間があれば大きな声を出さなくても声は通る。
また、準備した授業の質が高ければ、子どもは授業に関係ない「よけいなおしゃべり」をしない。学習に関係するおしゃべりで、教室の音量が高くなるのはよいことだ。

私はよく単元の導入部や、事前部でブレインストーミングを使う。
あるキーワードやテーマを示して、子どもたちのイメージや連想を引き出す。
私が想像していないことがたくさん出てきて、とても楽しい。
そうやって登場した素材を黒板に貼った模造紙にどんどん記入していく。
この記入の仕方にはルールがあって、無関係に並べるのではなく、似た要素や関連するものはどんどんくくっていく。そのうちに、まったく別の角度からの素材が登場すると、別の余白に新たな陣地を作って書き加えていく。

一人の思考力では行き詰まるような発想の限界を、集団の発想力で突破していく。

こういう時、私は「すごい」とか「なるほど」という相槌をなるべく打たない。
「ほー」「それで」「ほかには」という無評価のつなぎ言葉で表出を促す。
その時も、なるべく小声で対応する。
そうしながら、何回も発言する子どもばかりでなく、目は何かを訴えながらも口から言葉が出てこない子どもを探す。
そういう子どもの発想は、次から次へと思いを口にする子どもの発想よりも、練られていて、深いものが多い。
「言おう」「言うまい」「いや言ってもいいかも」。
そんな逡巡をくぐった発想だから、本質をつく。
しかし、そういう子どもに発言を促すタイミングは難しい。何気なく机間巡視(きかんじゅんし・業界用語かな?教員が子どもの机の間をぶらぶらすること)しながら、耳元で聞いてみる。
「何か思いついたかな?」
真顔でうなづいたときには、小声で発言を促す。うつむいてしまったときは、メモ用紙を渡して「これに書いていいよ」と伝える。

だれもが思いを口から言葉にできるとは限らない。
なのに、大声教員にはそのあたりのデリカシーが欠けていることが多い。
「〇〇さんは、何も言ってないけど、何か思いつかないかな?」
「同じひとばかり発言しているけど、ほかの人はどう?」
テンションを下げる大声を出して、自分を疑わない。

支援級の同僚がそういう態度を示すこともある。
「あなたの大声が、大声の子どもばかりを刺激しているんです。あなたの声が大きければ大きいほど、心が離れていく子どもの姿が見えていますか」
授業参観で保護者がいるときでも私は遠慮なく、同僚を指導する。