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7669.7/21/2017
父が逝く...6

6月16日。午後3時。

それまでナースステーション隣りの救急治療室にいた父は、あわただしく個室へ移動した。
すでに意識はない。

個室で、医者と看護師の手によって、父の人工呼吸器が外された。
早い人で数分、長い人でも数時間で呼吸が停止します。
残された時間はあまりありません。
みなさんで、あたたかく見守ってください。
医者と看護師は退室した。

病室に残った家族は、父の傍らで元気だったころの思い出を語った。
ただ、ひたすらに最期のときを待つ。

そんな経験はしたことがない。
本当にこの判断でよかったの?
こころで問いかけるが、返事はない。

医者は、長い人でも数時間で呼吸が停止すると言ったが、3時間を過ぎても脈も血中酸素濃度も呼吸も安定していた。
ただし、自発呼吸はしているように見えても、肺で酸素を取り込めていないので鼻からチューブで入れている酸素が供給されているだけだった。
血中の二酸化炭素濃度は、どんどん増加していく。

みんな、ここまで見守ったので、これでお別れにしよう。
これから夜になってしまうので、たとえ最期の瞬間が来ても、ここから先は俺が一人で送ります。
そう言って、家族を帰し、私は3泊目の準備をした。
妹はいったん伊豆の松崎へ戻った。そして、翌日に夫とともに来ることを約束した。
父は妹の夫も、とても頼りにしていた。
この調子なら、まだまだ大丈夫かもね。

16日の夜。父の呼吸と血中酸素濃度が何度か0になった。
看護師さんがそのたびに痰を吸引したり、姿勢を変えたりしてくれた。
すると、呼吸が戻り、血中酸素濃度が正常値に戻った。
機器の警告音、救急車のサイレン、ほかの患者の声、自販機の微低音。
深夜の病院は、3泊目にしても、これらの音で眠れない。

うつらうつらしているうちに、17日の朝を迎える。
父の状態は安定し、入院が続くと予想された。
きのう帰った妹が、きょうは夫とともに車で来る。

おはよう。俺はここにいるよ。
きょうは伊豆から〇〇さんが来るからね。
それまでは、がんばろうと耳元で声をかけた。

7668.7/19/2017
父が逝く...5

私は今回の父の入院で初めて知ったのだが、人は血液中の二酸化炭素濃度が増えると脳の意識レベルが低下するそうだ。

それは脳が委縮するとか、何らかの病気であるとか、そういうこととは無関係なのだそうだ。

吸った空気から酸素を取り込んで全身に届け、不要な二酸化炭素を肺で吐き出す。
呼吸の役割が低下した父は、不要な二酸化炭素が吐き出されないでそのまま血液中に残っていた。

通常は40%以下が望ましいのだそうだが、このときは120%になっていた。
鼻からチューブで酸素を肺に送り込む。
すると血液中の酸素濃度が上がる。
しかし、脳は酸素濃度が上がると「十分に肺で呼吸ができている」と判断して、積極的に二酸化炭素を排出しなくなってしまうそうだ。
16日の意識レベルの低下は、ついに父がこの状態に入ったことを示していた。

だから睡眠を誘導する薬を飲み過ぎると、血液中の二酸化炭素濃度が向上するとドクターは教えてくれた。

老化によって肺に筋肉が少ない父は、人工呼吸器の力で肺を上下動する。
しかし、チューブで酸素を供給しても二酸化炭素濃度が下がらず、反対に上がってしまう段階に入ったので、今後、意識の回復は困難だとの説明だった。

このまま人工呼吸器をつけても意識は回復しないが、ゆっくりと寿命が閉じることを待つ。 人工呼吸器を外して、自然な状態での心肺停止を迎える。

意識がない状態での延命措置を父は望んでいなかったので、選択肢はこの二つだった。

妻と妹と手分けして、下北沢でレストランを経営する叔父(父の弟)を呼ぶ。
恵比寿で働いている息子を呼ぶ。
桜木町で働いている娘を呼ぶ。
近親者がそろった。

7667.7/18/2017
父が逝く...4

16日の午後3時。

父の弟。私の子どもたち。妻と妹が集まり、ドクターの話を聞く。

血中二酸化炭素濃度がこれまででもっとも高くなり、人工呼吸器をこれ以上つけていても回復は期待できない。
このまま人工呼吸器をつけ、意識のない状態で数週間から数か月を過ごすのか、人工呼吸器を外して自然な最期を迎えるのか、相談してほしい。

私は最後に責任をとるので、一人一人の気持ちを話してほしいと願った。
各自がそれぞれの思いを語った。
父へ寄せるそれぞれの思いが、言葉になった。
私は、おわりに父が望んだ最期をドクターに頼んだ。

意識はなくても、聴覚は残っていると聞いたことがあった。
人工呼吸器を外す前に、集まった一人一人が父の耳元でお別れをした。
そして、ドクターは父から人工呼吸器を外した。

7666.7/16/2017
父が逝く...3

14日の夜。
15日の夜。

戸塚にある栄共済病院で父のベッドわきに泊まり込んだ。

昼間は妻や妹と交代し、夕方から翌朝までを担当した。

夜の病院は、機器の警告音や救急車のサイレン、患者の大声など、独特のサウンドが絶え間ない。
夜間も巡回し、一人一人の患者の様子を調べ、たんを吸入し、紙パンツを交換し、急変する患者に対応していた看護師の方々。
その働きぶりを間近に観察することができ、こころから尊敬した。

父はとても危険な状態だったので、ナースステーションに隣接したオープンルームだったので、とくに看護師さんたちの動きが、私の視野に入った。

そして、16日。

妻と妹と午前10時ごろに交代しようとしていたころ、ドクターからの呼び出し。

「意識がありません」。

7665.7/11/2017
父が逝く...2

13日の午前中。
畑で収穫したジャガイモを調理して子どもたちと食べた。

片づけを終えて、やれやれと思ったら、携帯が震える。

「(父の)意識レベルが低下したから大至急来てほしい」病院からの電話を妻がメールで教えてくれた。

授業の引継ぎ、出張(午後から予定されていた)のキャンセルなどをバタバタとこなして雨の長後へ。

病院は本郷台にある。
最悪のことを覚悟しながら電車に揺られた。
12日にこれまでの検査結果をもらうために妹と父は通院した。
呼吸器科専門のドクターが父の息苦しさに違和感を覚え、血中酸素濃度を計測して、すぐに入院が決まった。
その翌日のことだった。
大部屋ではなくナースステーション隣りのCUという部屋だった。
意識は戻り、私の到来も父は認識できた。
酸素マスクを装着しているので聞きにくかったが、会話もできた。

「おちんちんのホースを抜いてくれ」
管を挿入されて、痛そうだった。

これだけ話せれば、とりあえずの危機は脱したと考えた。
ドクターが私と妹、妻を別室に呼んで症状と今後の方針を確認した。
病気にかかったのではない。
老衰という、だれもが通る道をゆっくり確実に歩んで、父は肺の機能が低下した。

CO2ナルコーシス。
血液中の二酸化炭素濃度が極端に高いため、意識レベルが低下するそうだ。
意識がなくなると、呼吸が停止し、心臓が止まる。
いまNPPVという装置で二酸化炭素濃度が下がるようにしているとのこと。
ただし、胸の筋肉がほとんど落ちているので肺を動かせなくなっているから、自発呼吸は難しいだろうと言われた。

数年前に、父は私と妹に末期のケアについて書面を残し、私と妹から了承する一筆をとった。

..意識がなくなったとき、延命措置はいらない
..意識があったなら、延命ではなく痛みの緩和ケアをしてほしい

ドクターによると喉に穴をあけて強制的に肺に酸素を送り込む方法があるそうだ。この方法は強烈な痛みを伴うので強い麻酔を使い、再び会話することはできなくなる。
また、電気ショックで止まった心臓をよみがえらせることもできるそうだ。
私は、きょう、呼吸停止・心臓停止のとき、自然なまま楽にさせてくださいと、頼んだ。

つらいが、頼んだ。

7664.7/9/2017
父が逝く...1

facebookを日記代わりに、父の看病と死亡に付き添った日々を書き残した。
いまそれらを振り返り、記憶の糸をたどる。

..................................

6月10日の土曜日。

父を連れて近くの内科クリニックに行く。
予約した日なので行くという。歩けるけど息苦しいので車いすサポートをした。

「ご予約は入っていません」

受け付けの方が眉を下げる。

「7日に来た時に先生が、7.8.9.10日って言っていました」

父も抗う。

「それはお薬を4日分出すので、その日付のことだと思います」

申し訳ありませんと頭を下げて帰ろうとすると、ちょうどお薬が無くなったので追加のお薬を出していただきましょうと、言ってくださった。
お薬と言っても、便秘が続いて腹痛になり、水と飲むヨーグルトをしこたま飲んだら逆に下痢になって七転八倒して通院したのが7日だったので、漢方薬と整腸薬。
いのちにかかわる薬ではない。

父は1937年・昭和12年11月に満洲で生まれた。

数年前に結核を患い、3か月間の隔離治療を経て、ことしの4月に完治している。

にもかかわらず、息苦しさが消えない。
便秘で通院したのに、内科のドクターにそのことを訴える。
かかりつけの病院から治療情報をいただきたいとのこと。

「あそこの病院へは、もう行きたくないんですわ」

美術家の父は、頑固一徹。
8日・9日と宿泊込みの仕事を終えた土曜日。
あたまがぼうーっとなりながら、父とドクターの間を取り持った。
これから長く始まる介護の「よーいどん!」かもしれない。

7663.7/8/2017
鎌倉寺巡りpart2...12

七曲と小町界隈をゆく

12:34

(22)常栄寺

慧雲山 常栄寺 けいうんざん じょうえいじ

日蓮宗

1606年・慶長11年。日祐が開基した。
鎌倉時代に源頼朝が、由比ガ浜を遠望する桟敷として建設。ここを守護していた御家人の妻が龍ノ口で処刑される日蓮へ、牡丹餅を送った。日蓮は龍ノ口で奇跡を起こし一命を守ったことから、「御首継ぎに胡麻の餅」として有名になった。

法難のあった毎年9月12日には、参詣人にもぼた餅が供養接待されている。

神奈川県鎌倉市大町1-12-11

JR鎌倉駅東口から徒歩8分

拝観無料





7662.7/2/2017
鎌倉寺巡りpart2...11

七曲と小町界隈をゆく

12:28

(21)妙本寺

長興山 妙本寺 ちょうこうざん みょうほんじ

日蓮宗

1260年・文応元年。比企能本が開基した。
比企谷(ひきがやつ)と呼ばれる谷戸に妙本山がある。
鎌倉時代、御家人の比企一族が住んでいた。比企能員(ひき・よしかず)の娘、若狭局は二代将軍頼家の妻となり、男児・一幡を産んだ。頼家が病死したのち、三代将軍をめぐって北条氏と対立した比企氏は戦闘で能員を失い、若狭局は自害する。一幡も戦闘の中、殺された。
能員の子ども、能本が屋敷を日蓮に献上し法華堂を建立したのが妙本寺の前身となった。

山門の向こうに本覚寺が見える。

神奈川県鎌倉市大町1-15-1

JR鎌倉駅東口から徒歩8分

拝観無料









7661.6/3/2017
鎌倉寺巡りpart2...10

七曲と小町界隈をゆく

12:23

(20)本覚寺

妙厳山 本覚寺 みょうごんざん ほんがくじ

日蓮宗

1436年・永享8年に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建した。
後に身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めたので、「東身延」とも呼ばれている。昭和49年に日蓮宗の本山に昇格している。
若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則があったため、本覚寺は小町大路(辻説法通り)に入り口を向けている。

古くは12世紀後半に源頼朝が幕府の裏鬼門(南西)に、鎮守のために夷堂を建てた。当時は天台宗のお堂だった。1274年(文永11年)に日蓮が佐渡から戻り、ここにこもって辻説法の拠点にした。近くには日蓮が説法をしたとされる場所が保存されている。

とても広い境内だが、多くの建造物は近代になって造られた。

神奈川県鎌倉市小町1-12-12
JR鎌倉駅東口から徒歩5分

拝観無料





7660.6/24/2017
鎌倉寺巡りpart2...9

七曲と小町界隈をゆく

12:15

(19)妙隆寺

叡昌山 妙隆寺 えいしょうざん みょうりゅうじ

日蓮宗

1385年・元中2年、千葉胤貞を開基、日親の叔父日英を開山として創建。

二代目の日親は、生爪をはがした血で墨をすり曼荼羅を描いたという人物で、1439年(永享11年)、「立正治国論」を室町幕府第六代将軍足利義教に建白したが、捕らえられ灼熱の鍋を被せられたいう。

拷問を受けても所信を曲げない人物であったという。
境内には日親が水行したとされる池が残されている。

神奈川県鎌倉市小町2-17-20
JR鎌倉駅東口から徒歩5分

拝観無料