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7639.5/10/2017
鎌倉寺巡りpart1...4

鎌倉街道をゆく

8:53

(4)明月院 めいげついん

福源山明月院 ふくげんざん めいげついん

1160年・永暦元年に首藤経俊が父の菩提のために明月庵を創建した。
5代執権北条時頼は、別邸に最明寺という持仏堂を建立したが、彼の死後は廃絶していた。
息子の北条時宗が蘭渓道隆を開山として再建し、禅興寺とした。
1394年・応永元年に関東管領の上杉憲方が亡くなる。それ以前に彼が境内に塔頭を創建し、明月院と名付けた。
明治初期、禅興寺が廃絶し、明月院のみ残った。

とまぁ、複雑な経緯がある。

あじさい寺として有名だ。
戦後、物資が足りず、境内に杭が打てなかったので、そのかわりに植えたあじさいが有名になったという。

臨済宗建長寺派。

神奈川県鎌倉市山ノ内189。
横須賀線「北鎌倉駅」下車。鎌倉街道を八幡宮方面へ歩く。
最初の踏切を渡って左折、川沿いの小道を歩く。
北鎌倉駅からゆっくり歩いて15分。

拝観料あり。300円。ただし6月は高校生以上500円・中学生以下は300円。













7638.5/7/2017
鎌倉寺巡りpart1...3

鎌倉街道をゆく

8:42

(3)浄智寺 じょうちじ

金宝山浄智寺 きんぽうざん じょうちじ

1283年・弘安6年開山。
諸説あるが実際には北条時宗が創建した。

臨済宗円覚寺派。

鎌倉五山で第四位。
過去の象徴である阿弥陀如来・現在の象徴である釈迦如来・未来の象徴である弥勒如来が本尊で国の指定を受けている。

1923年・大正12年の関東大震災でほとんどが倒壊した。
現在の伽藍は昭和になってから復興された。
中国風の三門が目を引く。

神奈川県鎌倉市山ノ内1402。
横須賀線「北鎌倉駅」下車。鎌倉街道を八幡宮方面へ歩いて5分。右側。

拝観料あり。おとな200円・こども100円。






7637.5/6/2017
鎌倉寺巡りpart1...2

鎌倉街道をゆく

8:36

(2)東慶寺 とうけいじ

松岡山 東慶山 総持禅寺 しょうこうざん とうけいざん そうじぜんじ

1285年・弘安8年開山。
北条時宗夫人の覚山志道尼が開山した。

臨済宗円覚寺派。

封建時代は夫婦が別れるとき、女性からは申し出ることができなかった。
そのため「縁切りの寺法」によって、ここに駆け込めば縁切りができる女人救済の寺として1872年(明治4年)の縁切りの寺法廃止まで栄えた。

1902年(明治35年)には尼寺も終了した。
1905年(明治38年)に、釈宗演禅師が中興し、新しく禅寺となった。

わたしが小学生のころ、父は大晦日に紅白歌合戦が終わると、必ずここに行き、除夜の鐘を突いた。わたしも妹も眠たいのに強制的に連れていかれた。
「わたしは遠慮しとく」と母はいつも留守番だった。
今回の寺巡りで東慶寺の正式名称を初めて知った。

神奈川県鎌倉市山ノ内1367。
横須賀線「北鎌倉駅」下車。鎌倉街道を八幡宮方面へ歩いて3分。右側。

拝観料あり。おとな200円・こども100円。





7636.5/5/2017
鎌倉寺巡りpart1...1

鎌倉街道をゆく

わたしは鎌倉で生まれて、いまも鎌倉に住んでいる。
一時、藤沢に住んだが、2年で鎌倉に戻った。
鎌倉では、実家のあった台(だい)地区と、独り暮らしをした手広(てびろ)地区、いまも住んでいる山崎(やまざき)地区の3つで暮らしてきた。
50年以上も住んでいながら、鎌倉にたくさんある神社にはあまり行っていないことに気づいた。
休みになるともっぱら大船の町をうろうろ。
あるいはリュックを背負って、登山三昧。
少しは、地元を知ろうと考えた。
それなら年々落ちる登山体力を回復させるために、寺を全部歩いて訪ねようと決めた。

2月18日の午前中。
最初の寺巡りを開始した。

8:14

(0)成福寺 じょうふくじ
鎌倉で唯一の浄土真宗の寺。
俳優の笠智衆さんが眠っている。
山崎を出発したわたしがまず訪ねようと横須賀線の踏切に来たら、停止信号で踏切を電車がふさいだまま動かない。

幸先が悪いので、成福寺は後日まわし。
小袋谷交差点から鎌倉街道をひたすら下る。

8:29

(1)円覚寺 えんがくじ

瑞鹿山円覚興聖禅寺 ずいろくざん えんがくこうしょうぜんじ

1282年・弘安5年開山。
執権の北条時宗が宋から招いた無学祖言禅師によって開山された。

臨済宗円覚寺派大本山。

読み方は「エンカク」ではなく「エンガク」。仏教の経典円覚経(エンガクキョウ)に由来する。
鎌倉五山の第二位。

神奈川県鎌倉市山ノ内409。

横須賀線「北鎌倉駅」下車、目の前。
元寇で死亡した日本の武士と元の兵士が分け隔てなく供養されている。
最盛期には塔頭(小寺院)が42あったと言われているが、現在では19あるのみ。公開されているのは3つだけ。わが先祖は、公開されていない寿徳庵で眠っている。

8代執権、北条時宗は鎌倉幕府中期の武将であり政治家だった。
二度も攻めてきたモンゴル帝国の軍隊を退けた。
死因は心臓病か結核とも言われているが、わずか34歳で亡くなっている。境内に墓地がある。

拝観料あり。おとな300円・こども100円。

ちなみにこの「寺巡りツアー」は、拝観料をとる寺には入らないで戻る。
拝観料をとらない寺は境内で合掌をする。
できるだけ歩く。
この3つのルールで進行していく。













7635.5/3/2017
1868年のクーデター...3

この未曾有の内乱は、農民や漁民、町人らを巻き込んでの殺し合いだった。

多くのひとびとには、迷惑な話だっただろう。

関東周辺では、19世紀後半は大地震と日照りが続き、農作物の不作が大問題になった。収穫できないので、翌年の蓄えもない。
貧困農民は幼い女子を売ってわずかな現金を得たり、畑地を捨てて江戸に移入したりした。江戸に行けば、何とかなると思ったのだろう。

1868年(明治1年)1月。京都戦争。
反乱軍は、錦の御旗を得て、官軍として、幕府軍を倒すための戦争を始めた。
それまでは、幕府軍が正規軍だったので、立場が逆転してしまった。
いわゆる「鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)」と呼ばれる。西郷隆盛が率いる官軍が、土方歳三らが率いる旧幕府軍を破って勝利した。

3月6日。山梨戦争。
板垣退助らが率いる官軍が、新撰組の「甲陽鎮撫隊(こうしゅうちんぶたい)」を破る。
後に「甲州勝沼の戦い」と呼ばれる。

4月19日。栃木戦争。
香川敬三らが率いる官軍が、土方歳三らが率いる旧幕府軍を破って勝利した。
後に「宇都宮城の戦い」と呼ばれる。

4月から9月までの5ヶ月間。福島戦争。
板垣退助らが率いる官軍が、白虎隊らを破って勝利した。
後に「会津戦争」と呼ばれる。

5月から7月までの2ヶ月間。新潟戦争。
山縣有朋らが率いる官軍が、河井継之助らが率いる旧幕府軍を破って勝利した。
後に「北越戦争」と呼ばれる。

5月15日。東京戦争。
大村益次郎らが率いる官軍が、彰義隊を破って勝利した。
後に「上野戦争」と呼ばれる。

9月。
仙台藩・会津藩・庄内藩が明治政府に降伏する。

10月から翌年の5月までの7ヶ月間。北海道戦争。
清水谷公考(しみずだにきんなる)らが率いる官軍が、榎本武揚らが率いる旧幕府軍を破って勝利した。
後に「五稜郭の戦い(ごりょうかくのたたかい)」と呼ばれる。

榎本武揚らは函館に新しい国家を樹立していたので、旧幕府軍というくくり方は正しくないかもしれない。

日本人民は、1868年から1869年にかけて、国家の記録として残っているだけで、こんなにも互いに殺しあった。
殺されたひとの家族や親族は、殺したひとたちが所属した山口や鹿児島のひとたちを許せない気持ちが大きくなったことは十分に想像できる。
反対に征服したひとたちは、後に権力を掌握したとき、自分たちに抗ったこれらのひとたちへの猜疑心はぬぐえなかったと想像できる。

7634.4/29/2017
1868年のクーデター...2

19世紀後半のニッポンは、世界に冠たる衛生的で人口の多い江戸を首都とする国家だったと、当時の外国人は思った。

うんこや小便はたれ流しが常識の当時にあって、江戸の町ではこれらを農作に再利用するための流通が発達していたのだ。
だからうんこや小便は決まった場所でやって、それを集めるひとたちが仕事として運んだ。

きれいな町だったのだ。

江戸の範囲は、いまの東京都よりもずっと狭かった。
新宿だって渋谷だって、江戸の外。
いまの皇居周辺の一部の地域だけが、江戸だった。

元号はずっと昔からあって、天皇と関係なくしょちゅう変わった。
しかし、慶應という元号から明治という元号に変わった1868年以降、元号は一世一元号と決められた。
決めたのは、徳川家ではなく、クーデターを成功させた反乱軍たちだった。

この反乱軍は、天皇家に伝わる菊の御紋を掲げて行進したので、自分たちを官軍と呼んだ。幕府軍が正規の軍隊なのに、それに対する官軍というややこしい存在を誕生させた。
その主体は、長州軍と薩摩軍だった。

2015年9月に無理やり戦争法案を可決させた阿部総理の出身は、長州だ。似たような血を感じてしまう。

後に
明治維新
などと、かっこつけて、呼ばれるが、歴史学の範疇では、どうかっこつけても、当時の権力の奪取はクーデターだろう。

7633.4/29/2017
1868年のクーデター...1

後世の歴史家が時代区分を勝手につけた。

だから、江戸時代を生きていたひとたちは
「あっしら、江戸時代を生きているんだぜ」
とは、思ってはいなかった。

当時は、徳川家による中央幕府とそれに従う諸藩による連邦国家が、ニッポンだった。
完全な身分社会で、おそらく「ひと」という概念はなかっただろう。
社会の頂点には少数の武士がいて、それ以外のひとたちが納める税金で食っていた。
正確には、金を納めていたのではないので、税金ではないが、意味はいまの税金と同じだ。

べ平連を作家の小田実さんと作った哲学者の鶴見俊輔さんは、人民の記憶という言葉を使う。権力者が使う国民の記憶ではない。

だれが権力の中枢にいたとしても、多くの人々は権力者と同じ思いをしていたわけではない。不満や不平を抱えながら、それを表に出せないで我慢していたひとは少なくない。

言葉や文字に残っていなくても、その思いは記憶に留まり、国家が決めた時代を超えて受け継がれていく。
人民の記憶。

年貢。

7632.4/25/2017
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12年前の4月3日。
母が肺がんで世を去りました。
67歳でした。

今も母の無念を思うと、胸が苦しくなります。

きょうソメイヨシノが少しだけ開いた円覚寺で、13回忌。

79歳になった父が、69歳の叔父(父の弟)とともに、母方の兄姉筋を呼んで法要をします。
5人兄弟姉妹の末っ子だった母は、上に4人を残して先立ちました。
いまも上の4人は健在です。

みなさん遠隔地から春まだ浅い鎌倉へお越しいただきます。
干支でいえば一回りが過ぎ、とっくに母の魂は生まれ変わっているのかもしれません。
それでも残された者たちに、強い印象をいまも残し続ける母のような生き方に憧れを抱きます。

2017/4/2up

法事が終わって父はすっかり気力を使ってしまったようで、桜がきれいなのにあまり家から出ようとしなくなった。
伸びすぎたひげが電動カミソリでは剃れなくなったというので、わたしが使っているバリカンで刈ってあげた。
身動きせず、目を閉じている父の頬や首にバリカンをあてる。
こんなに細くなってしまったのかと、ショックだった。
ひげの多くは白髪だった。

老いは確実にだれにでも訪れる。
いくつという定数的なもので老いは計れない。
いつも行く銭湯には、父よりも高齢の方々が元気に通っているのだから。

気持ちが体よりも先に老いてしまわないように、自分自身も気を付けたい。

7631.4/24/2017
facebookのコメントより...10

3月31日。

たいがい毎年わたしは休暇を使って会社を休む。

年度末のこの日、異動するひとや退職するひとが荷物をまとめて運び出すことが多い。
お世話になったひととの別れがつらいのだ。
前日までにそういうひとたちとは個人的に挨拶を済ませる。
朝刊に県内の異動者と退職者の一覧が載る。

着任から5回の異動をわたしは経験した。自分の名前が新聞に載るというのは不思議なものだ。

数年前から教頭は試験合格者のみが採用されるようになった。
それ以前はいきなりの「肩たたき」や「縁故」、「爆弾」と呼ばれる贈り物作戦など、採用基準が不明な状態が続いていたので、世間並みになった。
新任教頭に、見知った名前が並ぶ。
教頭試験に合格したのだから、なりたくてなったひとたちだ。
「断り切れなかった」という言い訳はしてほしくない。

わたしは生涯一教員を目指してきたので、教頭試験の誘いを二度断っている。
断り切れないはずがない。

月曜からきのうまで、ひたすら会社の自室にこもり、新年度の準備を60個ぐらいやり続けた。
きょうは深沢から腰越あたりの寺巡りでもして、この業界の大晦日を過ごそうか。

2017/3/31up

自ら希望して管理職になった同年代のひとたちは、どんな4月を迎えているのだろう。
かねてから望んでいた明るい毎日を前向きに過ごしていればいいのだが。
管理職という立場に魅力を感じて、一般職を見下すことに生きがいを持つようになっていたら最低だ。

今年度、校長がかわった。
彼の出勤日の書かれていた職員番号から、採用年が判明した。

ついに自分よりも採用が遅いひとが校長になる年齢になってしまった。
採用が遅いと言っても、年齢が若いとは限らないので、あくまでも立場をわきまえた関係を築いていきたい。

7630.4/23/2017
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「人の声が聞こえないほどの吹雪で、周囲は何も見えなかった」
雪中の歩行訓練に参加。雪崩に遭遇するも救助された高校生は言う。

「地元の人間はまず入らないところ。雪崩が起きやすいところとして認識していた」
雪崩発生現場に入り救助に当たった隊長は言う。

「絶対に安全だと判断して訓練を実施した」
訓練そのものに参加せず、ふもとの本部で待機していた講習会主催者は言う。

食い違う認識。
横たわる大きな溝。
やってはいけないことをやってしまった結果、多くの犠牲者を出したと、何も知らないわたしは考えてしまう。

栃木県那須高原での高校生ら遭難事故。

2017/3/30up

新学期を迎えた各高校では、犠牲になった生徒や教員らの喪失感をどのように乗り越えているのだろう。

ワンダーフォーゲル部や山岳部は、これから本格的な登山シーズンへ向けて、例年通りの合宿を実行するのだろうか。