7629.4/22/2017
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那須高原のファミリースキー場で高校生らが雪崩遭難事故で亡くなった。
春山登山の講習会最中に雪崩が発生した。
スキー場は一週間ほど前に営業を終了していたので、圧雪は行われていなかった。
二泊三日の講習会、最終日、付近の山へ行く予定だったが悪天候で中止。
かわりにラッセル(雪中歩行)訓練が行われていた。
雪崩は自然現象なので避けることができない。
一帯には気象庁から雪崩注意報が発令されていた。
一回の事故で8人もが犠牲になり、数十人が負傷した。
これは冬山の事故としては、大事故に入るだろう。
講習会へは高校の山岳部やワンダーフォーゲル部の部員が参加していた。
山のことを知っている若者たちだったとはいえ、雪崩注意報発令中の雪山へ入ることにためらいはなかったのだろうか。
参加を拒むことはできたのだろうか。
講習実施の判断は、だれが下したのだろうか。
山岳遭難事故の多くは、準備不足や体力不足、判断の遅れや判断のミスが複合的に重なって起こる。
しかし、雪崩や落石、突風のように自然の猛威の前になすすべもないことも珍しくない。
3月18日と25日の土曜日。わたしは丹沢登山を計画していた。
しかし、寒波と低気圧の影響で長後から見渡す丹沢山塊は、アルプス並みに雪化粧してしまった。
登山を即刻中止して、鎌倉寺巡りや箱根温泉巡りへと気分を転換した。
わたし個人のイベントだから、計画の中止がやりやすかったとも言える。
講習会のように多くのひとが参加し、運営スタッフも動く場合、予定を変更したり、予定そのものを中止する判断が鈍くなるのはやむを得ないことなのか。
わたしも大学のワンダーフォーゲル部時代に、片品村のスキー場外れでラッセル訓練や雪崩に遭遇した時の退避訓練をした。
その時の教官が言っていた。
「冬山、それも雪山は、ひとを寄せ付けないということを忘れないでください。それでもそこに行くのなら、いのちを守る最善の努力を惜しまないでください」
那須の雪山で、あっという間に意識を失っていっただろう、高校生たちの冥福を祈る。
2017/3/28up
その後の警察の調べで、事故は事件の様相を呈している。
講習会の責任者が当日は本部なるところで待機していた。
生徒を先導した若い教師は、本格的な冬山経験がなかった。
地元のひとは、まず入らない雪の斜面で訓練が実施された。
犠牲者を出した事故なので、原因を徹底的に究明して、責任の所在を明確にすべきだ。
その上で、遺族への誠意を示し、再発防止へ向けた具体策を提示しなければならない。
こういう素人にも考えられることを、学校や役所という機関は内部で解決しようとする傾向がある。その結果、さらなる反発を買って、犠牲者や遺族のこころを傷つけてしまう。
昨今の登山ブームで、こういう本格的な訓練を経ないで山に入るひとが増えている。
だから、高校や大学などでしっかりと訓練をすること自体はとても必要なことだ。
登山は気軽なスポーツではなく、いつでも死が隣り合わせの危険な冒険だ。
地図もコンパスもコンロも持たないで、登山をするひとに比べれば、ずっと貴重な体験をしていただろう若者たちの無念を思うと苦しくなる。
7628.4/18/2017
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教育勅語問題をわたしは違う視点で考えます。
当時の天皇は総帥権のある存在でした。
議会とか選挙とか、民の声とかまったく無視していい権限をもった存在でした。
そういう存在の命令の一つが教育勅語でした。
また同じように天皇の命令で、多くの日本人が中国大陸や太平洋で死にました。
ひとを殺しました。
どんなに文言が優れていても、それが「語られた経緯」を無視する考えは科学的とは言えません。
ヒトラーだって良いこと言っていたでしょう。
ムッソリーニだって良いことやったかもしれません。
だからといって、彼らの言動をそのままに「現代によみがえらせる」のは、愚挙です。
森友学園の幼稚園で使われている大日本帝国憲法下の文言や、現在の周辺国との外交問題を揶揄した文言。
これらを「あえて」子どもたちに連呼させるやり方は、歴史から何も学んでいない無知そのものです。
言いたいことがあるなら、自分の言葉で語るべきです。
2017/3/22up
先人の残した大いなる遺産は文化として後世に残していくべきだ。
そこには負の遺産も多い。
わたしは、維新戦争から太平洋戦争までの日本社会を支配した権力構造は、後々に語り継がれる負の部分が多かったと判断している。
結果的に日本の軍隊は中国大陸で多くの人々を殺戮した。
略奪した。
暴行した。
いまもそのことに正味で向かい合おうとしない保守勢力が権力中枢にあることを、まことに非科学的だと感じる。
右翼や左翼と言っているのではない。
美しい日本だとか、固有の文化だとか、酔いやすい言葉で人々を惑わさないでほしい。
なぜ維新戦争で徳川政権を壊滅させた反乱勢力は、権力をつかみえたのか。
政治的に天皇を使わないで、自らをなぜ大権にしなかったのか。
明治というあたかも新しい時代を産出させた英雄のような「教科書的扱い」は、そろそろ脇に置いて、歴史を客観的に振り返ろうではないか。
7627.4/18/2017
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3月7日。金曜日。
勤務してから32回目の卒業式が終わった。
特別支援学級にはすべての学齢の子どもが在籍しているので、6年生と過ごせる最後の日として、その前日の16日に朝から3時間の「お別れ会」も終わった。
卒業式の前に校庭で行われた4年生以下との「お別れ式」では、6年生が子どもたちの間をぬって退場した。支援級の女の子が「いっしょに中学校へ行く」と言いながら号泣していた。
通常学級の6年担任と違い、支援級の教員は6年だけを担任してはいない。
しかし、毎年ずっと同じ教員たちが指導し続けるので、子どもと教員との距離は、通常学級よりもはるかに近い。
去年まで保護者がお金を出し合って、支援級の教員に豪華な花束を用意してくれていた。
ことしは「お気持ちだけをいただき、ともに卒業の喜びをわかちあいましょう」と、こちらから呼びかけ花束を遠慮した。
その結果、卒業する3人の子どもからはこころのこもった手紙を受け取った。
何よりのプレゼントだ。
さらに保護者の方から、手拭いやタオル、お菓子をいただいた。
わたしは日ごろから手拭いやタオルを首に巻いて、喉が冷えないようにしている。それを察してのことだろうか。
卒業式が終わって、保護者と卒業生が、校庭で教職員が並ぶプロムナードを退場していく。
なんとその先頭に支援級の女子が満面の笑みで、左右に手を振り、登場。
多くの卒業生は保護者といっしょなのに、彼女は1組の担任のすぐ前を大名行列の槍持ちのように進みゆく。
保護者はと探すと、行列のずっと後ろで右往左往。彼女を探していた。
彼女の気分を害さないために、堂々と列を潜り抜けた後、親の場所を教えると、血相を変えてそこへ走った。そして、彼女は保護者とともに、今度は列の最後尾をちょっと照れながら歩いた。
二度も、プロムナードを歩くぜいたくをかみしめながら。
来週の支援級は、5年生以下のみになる。
毎年、卒業式が終わって修了式までの数日、支援級は大きな穴が開いたような気分になる。
それは、さなぎが成虫に生まれまわるための「ための時期」なのかもしれない。
2017/3/18up
別れがあれば、あれから一月で現場は出会いの渦に右往左往の日々だ。
新入生が入り、ほかの会社から異動してきたひとたちも加わった。
あの頃、おっとりと卒業を祝っていたことが嘘かのように、毎日、終わらない仕事を追いかけている。
かつては何時までも会社に残って、できるかぎり仕事をやり切っていた。
しかし、それがたたって体調を崩し、わたしは授業中に倒れた。
それ以来、仕事が終わらなかったら、翌朝に回すようにした。
休日までのオフタイムにはなるべく仕事のことを忘れて気持ちをリフレッシュするようにしている。
そんなギアチェンジをして20年ぐらいになる。
もう体調を崩すのは、呑み過ぎたときぐらいになった。
7626.4/16/2017
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カンボジアで多くのひとを虐殺したポルポト政権。
彼らは、子どもたちに虐殺を正当化する教えを強要した。
少年兵士は、洗脳されたのち、何のためらいもなく引き金を引くように育ったという。
大阪で、幼稚園児に排他的思想を植え付け、教育勅語を暗唱させ、総理大臣がんばれと連呼させる幼稚園。
「その方針に賛同する親がいる」という理由だけで、子どもたちの自由な発想を奪い、単一的な思考へと特化させることを認めていると、恐ろしい未来がやってくる。
子どもたちが、争いを正当化するニッポンが見えてくる。
2017/2/28up
子どもたちが文字や計算を身につけるようになったのは、日本社会ではたかだか100年ぐらいの歴史しかない。
それまでは、農家や漁師の子どもに文字や計算は必要なかったからだ。
都市部で商家に奉公に上がった子どもも、文字を教えてもらうことはめったになかった。
少数の特権階級が社会を支配できたときは、多くの被支配階級の学力が高いことはあまり望まれたことではなかったのだろう。
長く続いた徳川幕藩体制を維新戦争で崩壊させた薩長連合軍は、軍備の拡張を最優先事項にした。
内乱で荒れ果てた国土にイギリスやフランス、アメリカやロシアが侵攻してくことを恐れたのだ。
文字を知らない、計算ができない子どもたちばかりでは、兵士に育てられない。
そこで登場したのが、教育勅語。
天皇の名を借りて全国に学校を設立し、子どもたちに学力をつけるように強制した。
こういう裏地事情を、知らずして、塚本幼稚園では幼児に教育勅語を丸覚えさせていたとは思えない。
7625.4/15/2017
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教育勅語を幼稚園児に暗唱させる。
保護者向け文書には、在日朝鮮人や在日中国人を差別する表現。
大阪にある私立幼稚園。
その経営母体が学校法人森友学園。
この4月に小学校の開設を目指している。
ごみや有害物質が埋まっている土地は国有地だった。9億円の評価額なのに、役人は学園に1億円で売却した。
小学校の名誉校長は内閣総理大臣の妻だった。まだ開校もしていないのに、先日辞任したそうだ。
役人は、ごみの撤去に金がかかるだろうと、1億円を「あげた」「貸した」「寄付した」のたぶんどれかで、面倒を見た。
1億円で買って、1億円が転がり込んだ学園が支払ったのは差額の200万円ぽっち。
なんて、ずるい。
内閣総理大臣は、自分は関係していないと発言しているが、有権者は信じるかなぁ。
なんか、どんどん、この社会はいやな方向へ変容していく。
2017/2/25up
この当時わからなかったことが、それからの1か月で次々と明るみになった。
ついに理事長は国会で証人喚問に応じた。
その時に総理大臣の妻が100万円の寄付をしたり、講演に政府の職員を随行させたりしていたことが判明した。
総理大臣側はでっち上げだと巻き返したが、どうもうやむやになっている。
4月には開校を予定していた小学校は、開校を延期した。
大阪府は小学校設置の認可を取り消した。
せっかくできた校舎は取り壊して、更地にして国に返却するらしい。
そもそもだれが儲けようとして、とん挫した話なのだろうか。
7624.4/12/2017
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知人から文旦をいただいた。
しばらく香りを楽しんだ。
やはり知人から八朔をいただいた。
たくさん食べても残るほど。
けさから、そのピールを使って砂糖漬けを作った。
一日目は、あく抜きまで。
ゆでて、冷やしてを繰り返す。
果肉は種と薄皮をとって、タッパーに詰めた。
そのままでもおいしいし、プルーンヨーグルトに漬けこんでもおいしい。
いま5ミリ厚に切りそろえられたピール(外果皮)たちは大きなボウルで水風呂に浸って休憩中。
続いて北海道産強力粉の「はるゆたか」を使って餃子の皮を作った。
同時に赤城豚のばら肉・白菜・にらで餡を作り、餃子にした。
それらは冷凍庫で、あしたの出番を待っている。
午前中をキッチンで過ごし、久しぶりに自宅でランチをした。
おーもうすぐ、銭湯開店の時刻だぁ!出発!
2017/2/25up
過ぎた休日の過ごし方を振り返ると、大したことはしてないなぁと反省する。
それをわざわざインターネットで公開して何様のつもりだという気にもなる。
明らかな対象を特定しないで、自分の経験や思いを一方的に書き記し、それを公開するという行為が、こんなに簡単にできるようになったのは、めでたいことなのかなぁ。
個人的には、こうやって2か月前の元気な自分に再開できるので、めでたいことなのだなぁ。
7623.4/11/2017
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アメリカの新政権が難民に対して受け入れを拒む。
これを批判する気持ちがあるひとは、日本の現政権(に限らず、戦後、ずっと)の難民政策を振り返ろう。
世界的に見て、ほとんど難民を受け入れてこなかったのが、わたしたちが住む日本という社会だという前提に立つと、アメリカの政策を批判するだけではいけないことに気づく。
2017/2/1up
トランプ政権の政策に対して、いくつかの州政府は反対の立場で裁判を起こした。
難民を受け入れないというのはアメリカの憲法に違反すると訴えた。
裁判所は仮処分を出し、政権の政策を撤回させた。
政府の言いなり判決ばかりの日本では考えられない三権の分立だ。
7622.4/9/2017
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さぁきょうから御用始め。
まだ、いつもの5時10分発の東海道線には乗らないけれど、8時ごろには出勤して3学期の教室準備をする。
特別支援学級の「特殊性」が顕著になるのが3学期だ。
特学にはすべての学齢の子どもが在籍しているので、3学期は学校全体がやるべきことを、スケールは小さいながらもやらなければならない。
たとえば6年生。
3月には卒業するので、文集作成・卒業制作作成・自画像描画・卒業式練習と本番・中学校への引継ぎが目白押しになる。
5年生から1年生は、すべて進級のための準備が始まる。
そして新1年生。
入級(小学校に入学し特学へ入ること)を決めた保護者との面談・本人の体験入級・場合によっては未就学機関(幼稚園や保育園)との引継ぎを実施する。
これらのことを、わずかなスタッフで同時に進める。
わたしが特学は「小さな学校だ」とよく言うのは、このためだ。
早めに仕事を切り上げて、帰りに銭湯に寄れたらいいなぁ
2017/1/4up
この記事をアップしてから3か月が過ぎた。
怒涛の3か月だった。
3人の6年生は無事に卒業していった。
4月からは新しい1年生が2人、入ってきた。
時間だけは、だれにも平等にどんどん過ぎていく。
7621.4/7/2017
鎌倉のハイキングコースを全部歩く2...10
11:20
2週続けて週末に鎌倉のハイキングコースを全部歩いた。
2週目は6:35に歩き始めて、蝋梅の咲く自宅に戻ったのは11:20だった。
スーパーで買い物をしたので、5時間弱のハイクだった。
15:12
休憩をして、ちょっと遠い銭湯へ行く。
ここは廃材を燃やして湯をわかす「常楽湯」。
一日の疲れをゆっくりいやした。
(終わり)
7620.4/5/2017
鎌倉のハイキングコースを全部歩く2...9
10:36
北鎌倉駅に、横須賀線と湘南新宿ラインが停車中。
三浦半島と新宿方面が一本でつながっている。
10:48
末広地区。
路地の向こうに、なぜかとても大きく富士山が見えた。
10:51
近所で一番大きなスーパー。
父親に頼まれた土曜の買い物をしていく。