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7599.3/8/2017
鎌倉のハイキングコースを全部歩く...2



7:09。
鎌倉中央公園内の梅林をゆく。
わずかに白梅が開花していたが、全体的にはまだまだだ。
中央公園を抜けて、梶原の住宅地を歩く。
源氏山公園へ向かう入口から入っていくと富士山がきれいに見えるポイントがある。



7:23。
藤沢から茅ヶ崎や平塚へ広がる平地が富士山のふもとに広がって見えた。



7:25。
葛原ヶ丘神社境内の桜が開花していた。
狂い咲きというよりも、もともとこの時期に咲く花のようだ。

7598.3/7/2017
鎌倉のハイキングコースを全部歩く...1

鎌倉には旧市街を取り巻くようにハイキングコースが設定されている。
もっとも長い天園ハイキングコースは本格的な服装と靴を用意しないとけがをする。
小さなハイキングコースは省略して、起伏があってそれなりに運動になる3つのハイキングコースを1月28日(土)にまとめて全部歩いた。
主なコース。
山崎の拙宅--中央公園--梶原--源氏山-->大仏ハイキングコース
大仏--長谷--六地蔵--下馬--大町--名越-->浄明寺ハイキングコース
浄明寺--衣張山--杉本寺--鎌倉宮--瑞泉寺-->天園ハイキングコース
今泉台--六国見山--高野台--権兵衛踏切--神明神社--山崎の拙宅
出発したのは6:46。
戻ってきたのは11:29。
4時間30分。途中2回のトイレと水分補給の休憩をした。


江ノ電分譲地への登り。



6:49。
山崎の谷戸に朝日が差し込んできた。



7:03。
鎌倉中央公園内の広場。

7597.3/5/2017
肥沼信次...8

Dr.nobutsugu koenuma
(1908年10月9日 - 1946年3月8日)

リーツェンの新市長が市としてこの恩人である日本人医師の生前の偉業を掘り起し、柔道大会や「肥沼通り」という桜並木の道路を造る計画を進めた結果、日本の遺族と連絡が取れた。

1991年。昭和56年。
弟の肥沼栄治氏が、兄が生前現地で言っていた

「日本の桜を見せてあげたい」

という言葉を知り、リーツェンに100本の桜の苗木を贈りった。そのうち枯れずに残った50本が、市庁舎の庭で育った。

1992年、ヴリーツェン市は肥沼に名誉市民の称号を与えた。

1993年に訪独した舘沢貢次氏によると、

「大きく育ったらこれを何本か肥沼さんの墓に移し替え、残りは『肥沼通り』に植えたい」

と市長は言っていたそうだ。

信次の墓石は高さ一メートルの大理石で、表面には古代ギリシャの医神、アスクレピオスの持つ杖、ヘビの巻き付いた杖の意匠が刻まれている。

またこの町では体育連盟の主催による少年柔道大会が行われ、300名弱の参加者は全員大会前に、この墓の前に詣でて花を捧げることを恒例としている。

町の人々が信次の偉業を偲んで何かしよう、ということになったときに思いついたのが柔道だった。

「彼は日本人だから、やっぱりするなら柔道だろう。柔道をやろう」

その柔道大会の名前は、「肥沼杯」という。

このように信次に命を助けられたリーツェンの住民は多く、その伝説は子から孫へと伝えられ、いまではリーツェンの小中学校では必ず先生がこの日本人医師の偉業について伝える時間があるのだそうだ。

(終わり)

7596.3/4/2017
肥沼信次...7

Dr.nobutsugu koenuma
(1908年10月9日 - 1946年3月8日)

1946年。昭和21年1月。
ついに信次も、発疹チフスに倒れた。

「ベッドに横たわっている先生の頬はすっかり落ちくぼみ、顔が大変小さくなっていました。額からは汗がどんどん吹き出し、私はふき取ってあげました」

家政婦だった女性の証言。

肥沼が死んだ前日の3月7日はこの家政婦の誕生日だった。
かねてから誕生日パーティをやりましょうと約束していた。

「誕生パーティをやれずにごめんね・・・・・。誕生日おめでとう」

と言い、次の日の午後一時、38歳の生涯を終えました。

肥沼の遺体は粗末な棺に納められ、数人の囲まれて墓地に運ばれた。

戦後、東ドイツとして社会主義国家に組み込まれたリーツェンでは、当時の日本人関係者は「資本主義国のひと」という見方をされた。
多くのひとが、子どもや孫へ信次のことを語り継いでいたおかげで、ベルリンの壁崩壊後、社会体制が変わり、ドイツ国内でもそれまで公にされていなかったあらゆることが表に出るようになった。

そのなかに、肥沼信次のことがあった。

7595.3/1/2017
肥沼信次...6

Dr.nobutsugu koenuma
(1908年10月9日 - 1946年3月8日)

衛生状態が悪く、伝染病が蔓延していたリーツェン。
医師は戦場へ駆り出されて無医村になっていた。
またチフスが蔓延し、近隣の医師は自分への感染を恐れて診察にも来なかった。

シュナイダー夫人は、リーツェンで医療活動を続ける信次を献身的に支えた。
自分のことを話さなかった信次を、周囲のひとたちは「夫婦という感じではなかった」と受け止めた。
彼女は、やがて彼が亡くなるとリーツェンを去ったという。

「日本の桜は大変綺麗です。皆にぜひ見せてあげたい」

自分のことを話さなかった信次が語った言葉が人々に記憶されて残った。

発疹チフスはペスト、マラリアとともに恐ろしい病気だった。
シラミによって感染し、戦慄、高熱、頭痛、四肢痛、めまい吐き気を伴い、発疹が次ぐ。重傷者は心臓の衰弱により死に至る。

この国境沿いには、ポーランドから退去させられた大量のドイツ難民が400万人流れ込んできていた。
リーツェンの近郊には難民収容所が緊急に作られ、大勢の病人が収容された。

人々はそこでただ虫のように横たわり、苦痛ととシラミに苛まれて助けを求めていた。


「肥沼先生は、まるで勇敢な兵士のように入っていき、身の危険も全く顧みず、もっとも酷い症状の患者に持ってきた貴重な薬をせっせと与え、また次々に患者を見て回るんです。
こんな無私無欲の行いを目の当たりにして、気が遠くなるような感動に打たれました」

看護婦の証言。

それどころか、肥沼はたった一人の患者のために雪の中を一人で往診に出かけ、診察料のことを口にしなかった。

「金銭のことを口にするのは下品である」
「また一つの小さな命が救われた、よかった」

治療の効果が出て患者が回復するたびに、肥沼はこのようにつぶやいた。

7594.2/28/2017
肥沼信次...5

Dr.nobutsugu koenuma
(1908年10月9日 - 1946年3月8日)

1945年は昭和20年。
4月16日にソビエト共産党軍は、ゼーロウ高地攻撃からベルリンへ侵攻した。
4月29日、ヒトラーはピストルと毒薬で自殺した。
5月2日、ベルリン守備隊はソビエト共産党軍に降伏した。
5月7日、ドイツ国防軍全軍が無条件降伏をした。

ソビエト共産党軍による戦後の報復は残虐の極みだったと言われている。
当時ベルリンにいた女性149万5500万人のうち、10万人がソビエト共産党軍によってレイプされ、そのうち1万人が性病をり患した。さらにレイプされたひとのうち1万人が精神的苦痛から自殺した。
この報復はドイツ全土で行われた。

そんな大混乱のなか、信次はベルリンにはいなかった。

(ここはほぼネット情報引用です↓)
3月18日、日本大使館は、ベルリン滞在の日本人を大使館に集めて南部のザルツブルクに避難させたが、肥沼は当日現れなかった。
彼は、ソビエト共産党軍が進行している北方の都市エーデルバルデに、偶然知り合った軍人の夫が戦死したドイツ人シュナイダー母娘を見捨てることが出来ずに、2人とともに避難していた。
その時、占領地区司令官から伝染病医療センターの責任者となることを命じられ、母娘と共にリーツェンに移らざるを得なかった。医療活動中、すべての患者をいたわり、励ましの言葉をかけ、誰からも信頼され尊敬される医師だった。戦後の混乱の中、伝染病が猛威を振るい、薬や医療用品の器具を求めて東奔西走、不眠不休で患者のために尽くしたという。
(引用ここまで)

東経14度3分。北緯52度4分。
フランクフルトの北西。ベルリンのはるか東。ポーランドとの国境に近い町がリーツェンだ。

7593.2/26/2017
肥沼信次...4

Dr.nobutsugu koenuma
(1908年10月9日 - 1946年3月8日)

1944年。昭和19年。
2月に、信次はナチス政権に宣誓書を提出している。

「私はフリーメーソン結社に所属したことはないことをここに宣誓します」

「私は純潔な日本人であり、日本国籍を有することをここに宣誓します」

16世紀後半から17世紀にかけてヨーロッパで結成された友愛結社のフリーメーソン。
一部には石工組合としてスタートしたという説もある。
「デモクラシーは梅毒である」と公言していたヒトラーにすれば、「自由と平等と博愛」を標榜するフリーメーソンは敵対勢力だったのだろう。

また当時の日本政府は、ナチス政権と枢軸関係にあったので、特別に「名誉ドイツ人」として扱われていた。
だから、日本人である矜持を宣誓することは当然のことのように思える。
しかし、ヒトラーのアーリア人純血主義を考えると、あえてそんなことを言わなくてもいいのにと思えてくる。
最新の研究では、この宣誓が「ナチス政権に媚びなかった」と呼ばれる所以になっている。

同年、フンボルトハウスで行われた講演の記録。

「アーリア人こそ優秀な民族である、というが、我々はヨーロッパ自然科学を生み出したのと同じ能力を、日本人も前々から持っていたと考える」
「その証拠として次のような例を挙げたい。ライプニッツやニュートンとほぼ同じ時期に、日本人の関孝和は書式こそ違うとはいえ、かの高等な微積分学とほぼ同一の計算式を考案していた」
「日本人は疑いなく種類や程度の高さにおいて、ヨーロッパのそれと等しい自然科学の研究能力を持っている」
「今日は欧州の築いた基礎の上に独自の研究を重ねてはいるが、他人の畑の果実を収穫するだけでなく、自らの種を撒くことのできる知力を備えていると言っていいだろう」 「日本人が一から行ったと評価されている業績もたくさんある。山極勝三郎、市川厚一による癌発生システムについての研究、吉田富三の肝臓がんを発生させる研究、そして湯川秀樹の作り出した中間子理論などである」

湯川秀樹は、これより5年後にノーベル賞を受賞する。
彼は、いち早くその功績を評価していた。

敗戦の気配が濃厚とはいえ、アーリア人至上主義のナチス政権下で、日本人だって優秀だぜと唱えたひとが、信次だった。
政権から、医師同盟から、どのように扱われていたのかがわかる記録は残っていない。

7592.2/25/2017
肥沼信次...3

Dr.nobutsugu koenuma
(1908年10月9日 - 1946年3月8日)

1937年。昭和12年に横浜港で船に乗った信次は、母と弟たちに見送られた。
それが今生の別れになるとは知らなかっただろう。

信次がドイツに行こうと決心した理由。
そのなかには彼の数学好きが含まれている。
中学時代から数学にのめり込み、アインシュタインやキュリー夫人に憧れていたと言われている。
実家が医者だったので医学を志したと思われがちがだが、実際には医学よりも数学に興味があったらしい。
数学以外の教科を勉強しなかったので、旧制の一校に受からなかった。
しかし東京理科大で数学を教えるアルバイトをしていたというから、後悔はしなかったのでしょう。
そして、まず日本医大へ入学。その後、東京帝大を経て、ドイツのベルリン大学医学部へと進学していく。
どこにいても、信次は「数学が趣味」と言い切り、周囲の評価は「数学の鬼」だったそうだ。

1943年。昭和18年。
大学の放射線研究所研究員だった信次は、論文が認められ、教授資格を得た。
東洋人の教授資格取得は、彼が初めてだった。

非情に排他的な政策を掲げたナチス政権。
ユダヤ人を迫害し、アーリア人種のみを礼賛する考え方が、ドイツ社会に蔓延していた。 信次ら、医師は「ナチス医師同盟」に強制的に入会させらた。
ナチス政権の考え方に反対するだけで、社会から追放されたので、入会を拒むことはできなかった。

7591.2/22/2017
肥沼信次...2

Dr.nobutsugu koenuma
(1908年10月9日 - 1946年3月8日)

生糸の生産地だった甲州地方や八王子では、生産した生糸を輸送する手段が必要だった。
そこで1908年9月23日に横浜鉄道が開業した。横浜鉄道は、八王子と東神奈川を結んだ。
横浜鉄道は、1917年に国有化され、鉄道院横浜線となった。現在のJR横浜線だ。

信次が生まれた頃の八王子は生糸の生産地であり、輸送の拠点だった。

父親が外科医だったこともあり、信次は東京府立二中を卒業した後、医学を志した。
東京府立二中は、現在の立川高校だ。
卒業後、東京帝国大学放射線研究室へ進学した。

30歳を目前にした信次は、1937年、ドイツに渡りベルリン大学医学部放射線研究室で学んだ。
そこで、実験と研究に打ち込み、ベルリン大学医学部で東洋人として初の教授資格を取得した。

1937年は昭和12年。
第一次世界大戦の敗戦で多額の賠償金を払ったドイツ経済は困窮していた。
孤立していくドイツ社会を再建させたのは、全体主義的な政治傾向だった。
1933年にナチスドイツが政権党となった。これによって政権や軍部幹部は極東で孤立化を深めていた日本に接近するようになった。
1936年には日独防共協定を結び、1937年にはこれにイタリアが加わった。実質的な枢軸同盟が形成されたが、この防共はソビエト連邦を意識したもので、共同作戦を意味したものではなかったとも言われている。

信次がドイツに渡った時代は、政治的にも軍事的にも日本とドイツは緊密な時代だった。

7590.2/1/2017
肥沼信次...1

Dr.nobutsugu koenuma
(1908年10月9日 - 1946年3月8日)

神戸港からブラジルへ東洋汽船会社の笠戸丸が出港したのは1908年(明治41年)4月28日だった。
158家族783人と、自由渡航者10人の793人を乗せていた。彼らはブラジルに着いた後、コーヒー豆の凶作という悲劇と出会うことを、そのときは知らなかった。

中国大陸では、清帝国が衰え、末期の悲鳴をあげていた。11月14日には光緒帝が没し、彼を幽閉していた西太后も死んだ。

12月にはイタリアのシチリアで大地震があり、約8万5千人が亡くなった。

国内では社会主義や共産主義への弾圧が厳しさを増し、6月22日、後に赤旗事件と呼ばれる思想弾圧事件が勃発。社会主義に寛容と言われていた当時の西園寺内閣が総辞職した。

佐久間惣次郎商店が「サクマ式ドロップ」を販売し、大ヒット商品になった。

それまでは個人やチームが申し込めば参加できたオリンピックが、この年のロンドンオリンピックから各国のオリンピック委員会を通して行われるようになった。ロンドンオリンピックは、なんと4月27日から10月31日まで開催された。

そして、10月9日。
八王子の外科医、肥沼(こえぬま)梅三郎の次男として信次(のぶつぐ)が生まれた。