7479.8/23/2016
詰め込み全開へ...0
2020年度から小学校5年生以上で英語が義務化されそうだ。
教育課程審議会にかけられるとのこと。
週に2時間も扱うので、現在でも6時間ばかりの日常にどうやって英語の時間を作れというのか。
これでは7時間授業の日ができる。
公立学校はあらゆる行事を無くそう。
遠足なし。修学旅行なし。音楽会なし。観劇なし。水泳学習なし。運動会なし。文化祭なし。卒業式の練習なし。
行事を無くすと、多くの授業時間が算出されるので、英語を組み入れる余裕ができるだろう。
7時間授業。
4時過ぎまで子どもを学校に残すと、まず教職員は会議の時間と授業準備の時間が確保できなくなる。5時などの退庁時間を過ぎて仕事をするのが日常化し、精神的に不安定なひとが次々と療養休暇に入るだろう。
実際に、わたしの周囲でも1年生の担任3人が、年度末までに全員交代(理由は様々だが)ということも始まっている。
教員には残業手当が無いので、退庁時間を過ぎて、どんなに仕事をしても手取りは増えない。
完全に家と学校の往復だけの生活を送る教員に、社会性が育つはずが無く、流行にも、ニュースにも鈍感な属性が大きくなる。
ひととして、魅力のないおとなが、どんどん担任になれば、子どもは学校をつまらないと感じて当然だろう。
どうしても英語を教科として位置づけたいのなら、小学校5年以上は、中学校のように完全な教科担任制へ移行すればいい。
中学では教科ごとに担任が代わるのだから、その前段階としての意義も生じる。
これには多くの教員を雇用する必要があるので、予算を喰う。
だから、絶対に財務省が許可しない。
結果として、現場にしわ寄せが続く。
2020年。
わたしは定年を間近に控え、若い教員たちが疲弊していく姿を哀れみをもって見ているしかないのだろう。
7478.8/22/2016
現場主義...0
「佐々木さん、そろそろ教頭試験を受けないか」
校長に呼ばれて言われたのが去年の今頃だった。
丁重にお断りした。
民間企業にお勤めの方や階級社会で働くひとには想像できないかもしれないが、小学校の教員は校長・教頭・教員で、給与に大した違いは無い。
校長には人事権も予算権限も無い。
教頭はそんな校長を補佐し、教育事務のほとんどを担当する。
教員をヒラと呼び、教頭や校長を目指す人は少なくない。
そういう人を、ヒラメ(目が片側についていて、いつも上を向いている)と呼び、ヒラのままでいることを自慢する人も少なくない。
互いがうまくいかないのは当然だ。
わたしは、教員は職人だと信じたい。
子どもの今を知り、未来を拓く職人だと信じたい。
だから、労務管理のような仕事をしたり、顧客管理のような仕事をしたりする管理職は、避けて済むものなら避けたいと願ってきた。
神奈川では教頭になるには教頭試験に合格しておく必要がある。
だから、教頭試験を受けなければ、絶対に教頭にはならない。
退職まで、一職人でありたいと願うわたしには、ありがたい制度だ。
Aさんは、神奈川県ではなく市に採用された職員だった。
15年ほど前に同じ学校で働いた。
といっても、Aさんは教員ではなく栄養士だ。
毎日、給食の献立を考え、調理員さんたちに調理のアドバイスを行う。
よく同じ学校の人たちを含めて辻堂の町で酒も飲んだ。
明るく、しゃきしゃきした感じの人だった。
わたしがほかの学校に異動した後、Aさんは教育委員会に入った。
そこで学校給食の業務を一手に引き受けた。
保護者から徴収する給食費を管理し、月ごとに業者に支払いを行う。
だれかがやらなければいけない仕事だが、栄養士を志した人が進んでやりたい仕事ではない。
だから、栄養士さんたちは数年毎に輪番でその仕事を引き受けていた。
しかし、Aさんは年度がかわってもずっとその仕事を続けた。
栄養士さんたちにしてみれば、いやな仕事を率先して引き受けてくれるありがたい存在になっていた。
あるとき、学校訪問でばったりAさんと会った。
数年ぶりだったが、少し表情が険しくなっていて驚いた。
厳しい仕事が続いて精神的につらいのかと想像した。
そのAさんが、ことしの3月、60歳で定年退職をした。
結局、最後まで学校には戻らないで教育委員会の仕事を全うした。
ところが、年度がかわってから異変が起こった。
給食の材料を納入した業者から旧年度の支払いが滞っていると教育委員会に連絡があったのだ。とっくに支払われているはずの給食費が支払われていなかった。
通帳や伝票を調べて、事実が判明した。
Aさんが業者に払うべき金額を着服していたのだ。
こうなると教育委員会レベルの話ではなくなる。
市が前面に出て調査が始まった。
現在わかっている2011年度以降で6500万円弱の着服が判明した。
これまでAさんが率先して仕事を続けていたのは、辞めるに辞められない理由があったのだ。
住宅ローンの返済・海外旅行・外食などに使用したと供述しているらしい。
市は刑事告訴を検討するそうだ。給食費は税金ではないので市が被害を被ったと言えるのかは疑問だ。しかし、保護者から集めた金を懐に入れた罪は逃れられない。
また多くの業者に被害をもたらした罪も逃れられない。
また何年もにわたり、Aさんの不正を見抜けなかった学校給食課の上司や部の責任も問われるだろう。
ありきたりの表現だが、わたしの知っているAさんはそんな人ではなかった。
明らかに入庁してから、Aさんのなかで何かが変わったのだ。
だれも止める人がいない状況で、道徳や常識に鈍感になってしまったのだろう。
わたしはAさんが、ひとりでこんな大それたことを繰り返していたとは思えない。
共犯とは言わないまでも、着服を知っていて、ともに恩恵にあずかった存在がいるのではないかと疑っている。
あのまま学校に残って給食現場の仕事を続けていれば、こんなことにはならなかっただろうと、口惜しくなった。
7477.8/21/2016
大倉を訪ねて...9
渋沢でランチをして小田原に出ました。
東海道線で大船に戻りました。
仲通をぶらぶらして「焼鳥道場・さくら」へ。
冷酒を見たらなんと「獺祭(だっさい)」があるではありませんか。
暑かった一日のしめくくりに、こいつで一杯やりました。
(終わり)
7476.8/20/2016
大倉を訪ねて...8
若竹は初めて入った店でした。
そもそも丹沢でしか渋沢駅を使ったことがなかったので北口ばかり。
南口は初めてだったのです。
天ぷらそば。
見るからにうまそうです。
海老が二本も乗っていて、衣はさくさくでした。
店構えはいかにも町の食堂です。
周辺には連休中なのに、まったく人影は見当たりません。
地元の人に愛される店なのかもしれません。
7475.8/19/2016
大倉を訪ねて...7
大倉から歩いて45分。
小田急線の渋沢駅に戻りました。
快晴で、駅からも丹沢がすっきり見えました。
小田原方面には雪をかぶった富士山もとても近く見えました。
ちょうど山と山のくぼみのところに富士山が位置していました。
喉がからからで渋沢駅南口の「若竹」食堂に入りました。
まずは生ビールを一杯。
7474.8/18/2016
大倉を訪ねて...6
秦野ビジターセンター。
ここはバス停「大倉」のロータリーと併設しています。
画面中央、もっとも奥の山頂がおそらく塔ノ岳と思われます。
ここからだいたい4時間弱の行程です。
秦野ビジターセンター周辺にはキャンプやバーベキューの施設があるので、山歩きではない観光客もたくさんいました。
帰り道。
バスが中途半端に来ない時間帯になってしまったので、渋沢駅まで歩くことにしました。
途中、ふり返ると表丹沢全山が視界に納まりました。
7473.8/17/2016
大倉を訪ねて...5
新緑の滝沢園テントサイト。
木立ちを抜ける風がとても気持ちよかったです。
ゲートはとても古びていました。
わたしが大学生だった頃と変わっていないかもしれません。
滝沢園から大倉尾根登山口へ向かう坂道です。
7472.8/16/2016
大倉を訪ねて...4
テントサイトには最新のモデルが張ってありました。
二重構造になっていて、内側はメッシュです。
外側に雨よけがありました。
昼間、テントだけが設置され、雨よけを外して風通しをよくしていました。
住人はハイキングにでも行ったのでしょうか。
テントサイトはとても広く、落ち葉や枝のカーペットがやわらかそうです。
崖に近寄りすぎると、崩落しそうな石や根がありました。
テントを張るときはここからは離れていたほうがいいなと思いました。
7471.8/15/2016
大倉を訪ねて...3
大倉「滝沢園」キャンプ場は水無川をへだててテントサイトとバンガローに分かれます。
写真の手前側がバンガローサイト。
向こう側がテントサイトです。
連休のこの日、テントサイトには設営したままのテントがありました。
山登りが目的ではなく河原でのバーベキューと宿泊が目的なのでしょう。
アルコール缶がたくあんありました。
滝沢園の母屋です。
いまはここに宿泊室があるのかもしれません。
多様なニーズに応じられないと生き残りは難しいのでしょう。
7470.8/14/2016
大倉を訪ねて...2
大倉にあるキャンプ場「滝沢園」を訪ねました。
近いうちに来たいので下見に来ましたと言ったら、ご主人が「いまどき珍しい」と驚かれていました。
何事も事前の準備なのに、いまどきのひとたちはその場感覚で乗り切ってしまうのでしょうか。
トイレは昔よりもきれいになっていました。
トイレの前には食器などの洗い場があります。
ここもとても清潔にしてありました。
屋根のある炊事場です。
多くのメンバーでバンガローを利用するときに使うのかもしれません。
テント泊では、ここは使いません。