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過去のウエイ

7469.8/13/2016
大倉を訪ねて...1



5月4日。
ゴールデンウィークの真っ只中、丹沢の大倉を訪ねました。
空はどこまでも青く、こんな日の山歩きは脱水を覚悟だなぁと思いました。
でも、今回の大倉は山歩きが目的ではありません。



登山口にあるキャンプ場「滝沢園」の下見が目的でした。
滝沢園はわたしが大学でワンダーフォーゲル部にいた頃も利用していたキャンプ場です。
現在の姿を確認して、やがてテント泊をするときの参考にしたいと考えました。



思えば、以前は必ず山行の前に登山口周辺を下見していました。
現在のようにネットで何でも情報を検索できる時代ではなかったので、事前に自分の目で確かめることが必要だったのです。

7468.8/12/2016
学校を去る前に...いろはのト

 あらためて文字にすると、けっこうペスタロッチの教えに影響を受け、なんだかんだと意識しながら教職をしてきたなぁと思う。

 もうこれ以上はペスタロッチは語らない。

 あなたのおかげで助かったひとがいる。
 あなたのおかげで喜んだひとがいる。
 あなたのおかげで楽しんだひとがいる。
 あなたのおかげで報われたひとがいる。
 あなたのおかげで幸せになったひとがいる。
 あなたのおかげで命がつながったひとがいる。

 それ以上を求める必要はない。
 それだけであなたが生きている意味がある。
 そのようなチャンスをくれた多くのひとに感謝しよう。

 わたしが、ずっと子どもたちに語ってきたこと。
 ペスタロッチの教えが凝縮されたもの。
 きっと、こんなもの。

 わたしの家はずっと臨済宗円覚寺派の檀家だ。臨済の教えにも通じるものがあると感じた。
 欲を捨て無心で生きよとは、こういうことか。

7467.8/11/2016
学校を去る前に...いろはのヘ

 ペスタロッチの教育方法。

 メトーデ。
 目や鼻、耳、手で触れるなどの感覚器官を通して、まず学ぶ。知識や言葉は後でいいという考え方。直感教授と翻訳される。
 わたしは、32年間、しょっちゅうこのお世話になった。
 教科書をほとんど使わないので、ずい分、同じ学年の同僚や管理職、進歩的な保護者からは叩き上げられた。
 だから、普通学級の担任は13年間が限界だったのかもしれない。
 その後の5年間の学級外担任時代は、まぐろのサクやイカ丸ごとを持参し、さばいて食べる授業やひたすら牛乳パックを集めてラミネートをはがし、紙スキをして手紙を書きまくる授業などに没頭した。
 特別支援学級に移ってからの12年間は、何の苦労もしていない。メトーデが常識であり、教材も指導法もかなりそろっていたのだ。

 労作。
 当時の一般的な学校は教会内に設置され、教壇があった。対面するように机が配置され子どもが座る。
 おー、いまの日本中の教室と同じではないか。
 ペスタロッチは、畑が教室だったり、機織工場が教室だったり、手芸場が教室だったりした。実物に触れて、自活能力の向上を目指したからだ。
 これは普通学級の担任時代は、やりたくても困難だった。
 しかし、学級外担任時代は、半分が畑、半分が図書室か視聴覚室の授業を実現した。
 特別支援学級では教室も使うが、一日の半分以上はもっと小さな単位で集まっての授業が行われている。

 自活する能力。
 当時の慈善施設の多くがパンを与える活動をしていたのに対して、ペスタロッチは子どもはパンを与えられると堕落すると考えた。パンを与えられるよりも、自らこれを得たり、作ったりする知識が技能を習得した方が大切だと考えた。
 貧困からの脱出という大きな目標があったので、当然のことと言える。
 これも普通学級の担任時代は、やりたくても困難だった。
 しかし、学級外担任時代から現在までずっとわたしは教室の隣りに大きな畑を確保し、年間を通じて子どもと土作りから収穫、調理までの一貫した授業を実現できている。
 採れたての大根をスライスして味噌をつけ「大根カナッペ」として並べたら、大根嫌いが「うめぇうめぇ」と食べてびっくり。
 オクラの粘々が苦手な子どもが、種から育てたオクラの花を見て「うわぁ、きれい!」。それをわたしががばっとむしりとり、むしゃむしゃ食べて「きれいな花はうまいのぅ」。「ずるい」「どうせ、お前は嫌いだから喰わないだろうが」。その子どもはよほど口惜しかったのだろう、翌日開花した花を勇気を出してパクリ。「センセー、花も粘々してるぅ!でも甘くてうまいよぅ」。

 家庭的なあたたかさ。
 貧困家庭で育った子どもや孤児には、親のぬくもりやあたたかさが必要と考えたペスタロッチは、たとえば食べ物を分かち合う人間関係を重視した。
 これは長い教員生活で、いまも到達できていない大きな課題だ。
 子どもたちそれぞれが抱えている問題が、とても複雑になってきて、裕福でも親のぬくもりを知らなかったり、両親がいてもまともに育てられていなかったりするケースが増えてきたからだ。
 特別支援学級に移ってからの12年間、意識していることは、帰りまでに必ず全員と会話をすることだ。声をかけるのではなく、話題性のある会話をするようにしている。

7466.8/8/2016
学校を去る前に...いろはのホ

同じ時代を生きた教育思想家のルソー。
彼は自分の子どもはどんどん教会前に捨てたことでも有名だが、著作物は評判が良い。
彼の対象は、中産階級以上の子どもで、決して貧民や孤児を念頭にはおいていなかった。

ペスタロッチは言う。

「玉座にあっても、木の葉の屋根の陰に住んでいても,すべて同じ人間である」『隠者の夕暮れ』
「どんなに貧しい,どんなに不良な子どもの中にも,神より与えられた人間性の力があると信じている」『シュタンツだより』
「家庭の幸福は、最もよき、もっとも著しい自然の関係である」『隠者の夕暮れ』
「善悪についての言葉の説明を、日常の家庭的な場面や環境と結びつけるようにしなさい。十分にそれらに基づいているかに留意しなさい」『ゲルトルート児童教育法』

だれもが道徳的な状態へたどりつく可能性があると信じていた。

ひとの3つの状態。
自然的状態。
社会的状態。
そして、道徳的状態。

これらが調和され、日常生活の細かい場面でいつもより善い生き方をこころがけるひとを育てたいと、彼は願っていたのではないかと、わたしは考える。

「やってらんねぇ。つまんねぇ」(快か不快)
んだんだ、で?
「ご褒美ないの?」「これやって、なんに、なんの?」(損か得)
べつにぃ。
「でも捨てておけないんだよなぁ」「知らん振り、できねぇんだよ」(善か悪)
だよなぁ。

 わたしは、ペスタロッチの考えた3つの状態を、日々の生活のなかで、子どもたちとおおむねこんなやりとりで具現化してきた。
「えらい」とか「すごい」という評価を与えることは、得を与えることになるので、なるべく避けてきた。
 だよなぁと、共感することで十分だ。

7465.8/7/2016
学校を去る前に...いろはのニ

ペスタロッチの考え方に触れよう。

ひとは最初、自然的な状態で生まれる。
動物たちとなんら変わりなく、快か不快かが行動の基準になる。
成長とともにひとは社会的な状態を学んでいく。
気持ちのいいことばかりを追い求め、不快なことを避けてばかりいては、商売も勉学も成功しない。目的のために、その社会で良かれという段階へと自らを引き上げていく。
損か得かが行動の基準になる。

多くのひとは、自然的な状態と社会的な状態の両方を抱えて生きてゆく。
そして、たいがい、そのまま死んでいく。

だから、だめなんだと彼は言いたかったのではないかと、わたしは推測する。
だから、争いや貧富の格差はなくならないと、彼は言いたかったのではないかとも。

教育の力によって、もう一段、上の段階である道徳的な状態へと引き上げる必要性を説いた。
そして、それこそが人間らしい生き方だと主張した。
道徳的な生き方の判断基準は善と悪だ。
たとえ苦痛が伴い、一文の得にもならなくても、ひととしてより善い行いをする生き方を目指した。そのためには、学校が必要であり、教育の力によってのみ、それは実現すると考えた。
ただし、学校が必要だったのは、孤児や貧しい暮らしの子どもには家庭が存在しなかったからだ。ペスタロッチは、孤児や貧しい暮らしの子どもに自分で生きていく力をつけさせ、やがてぬくもりのある「より善い」家庭が築かれることを願った。
ドイツ語を翻訳すると「健全な家庭」という呼び方になるが、わたしはややニュアンスが異なると感じている。
彼が目指したのは、権力や風習が求める健全さではなく、キリスト教精神に則ったより善くひととして生きる健全さだったのではないか。

だから、ときに社会の悪弊に立ち向かう原動力にもなるだろう。
あるいは、過去の因習を断絶する機動力にもなるだろう。
そういう社会改革的な考え方が、多くの権力者や役人に嫌われたのは、とてもうなずける。

ペスタロッチは、当然、学校に家庭のモデルとしてのあたたかさや寛容さを求めた。
食べ物を供給するのではなく、食べ物を得るための手段を学習させ、子ども自らが教師とともにそれを実践(労作と翻訳されている)、対価を得て食べ物を入手するのが教育だと説いた。
これを学んだ子どもたちはやがて、自活する能力を得て、貧困から脱出できると考えた。
イギリスで始まった産業革命がヨーロッパ全土に広がり始め、スイスやフランスの農村でも、産業資本が伝統的な社会を破壊し始めていた。農民は大地主の小作となり、自らの土地を手放した。家庭崩壊の始まりだ。

崩壊する家庭と貧困の広がり。
これを食い止めるために、教育の役割を説き、実践した。

遠い昔の話に聞こえない。
いまの日本社会にも、あてはまることがたくさんありすぎる。
なのに、家庭のモデルとしてのあたたかさや寛容さを実践する公立学校って、聞いたことが無い。
教員は、ただひたすらに学習指導要領の具現化に励み、日本全国一律な教育実践に努めている。
ペスタロッチは怒るだろうなぁ。
こんなんで、いいわけがない。

7464.8/5/2016
学校を去る前に...いろはのハ

ペスタロッチは生きている間は挫折の連続で、しまいには何もかも投げ捨てて世捨て人みたいになって、自らを隠者などと呼んでいじけたかに見える。
それも30代から40代の働き盛りにいじけていたのだから始末が悪い。

50歳を過ぎてから、彼の著作は評価され、孤児の学校や貧民のための学校を設立することができた。
そこには彼を支えた多くの女性がいたと言われているが、わたしには詳しいことはわからない。いじけた50男をなだめすかして支えた献身的な女性がいたとは、うらやましい限りだ。

彼の思想で、わたしがずっと影響を受け続けてきたのは、よりよく生きるために教育があり、それを実践するために学校があるという考え方だ。

この場合の、よりよくとは、より善くという漢字がふさわしい。
道徳的に正しく生きること。その基準が善悪の善だ。
辛くてもいい。苦しくてもいい。儲からなくてもいい。評価されなくてもいい。
ひととして正しい行いをする生き方が、もっとも人間的だと、ペスタロッチは説いた。

彼は熱心なキリスト教徒だったので、宗教的と考えそうだが、大きく違う。
無心になって祈りを捧げるのではなく、教育の力によって、より善く生きるひとを育てようとした。
それも、富裕層のこどもを対象にせず、孤児や貧しい家庭のこどもばかりを対象にした。
だから、民衆教育の父なんて言われ方もする。

彼の考え方は20世紀になって、児童の権利という発想を生み、その後の児童の権利条約へと大きく影響を与えることになる。
第二次世界大戦でナチスドイツにとらわれたひとたち。
そのなかでポーランドのワルシャワゲットーで、ユダヤ人孤児の孤児院院長をしていたヤヌシュ・コルチャックは熱烈なペスタロッチ信奉者として知られている。
生前、彼はペスタロッチの活躍の舞台を訪ね、主著をもじって自著のタイトルにしたというから、かなりのファンだったのだろう。彼は「児童の権利」を世界で初めて提唱した。

7463.8/4/2016
学校を去る前に...いろはのロ

1746年1月にチューリッヒに生まれた。
日本では江戸時代。町民文化が真っ盛りの頃だ。
大学時代にフランス革命に触発されて民主化運動に傾倒し、卒業してからは要注意人物として政府機関の仕事には就けなかった。
そこで農業経営をするが、まったく能力が無く、すぐに挫折。
そのとき、農村の貧しい子どもたちを目の当たりにして、貧民のための学校を開校する。
ノイーホフという村だったので、当時の実践を「ノイーホフの教育実践」と呼ぶ。
経済的に自立できるだけの職業的技能をつけることを目的とした。
しかし、またまた挫折。
ちっとも寄付が集まらなかった。
子どもの親から、実習によって得られた報酬をよこせと詰め寄られた。
学校経営から手を引き、隠者生活に入る。

なんと、1780年から18年間も執筆活動を続けた。
(当時のおもな著作)
『リーンハルトとゲルトルート』Lienhard und Gertrud. 4 Bande 1781 - 1787
『隠者の夕暮』Die Abendstunde eines Einsiedlers. 1780
『クリストフとエルゼ』Christoph und Else. 1782
『立法と嬰児殺し』Gesetzgebung und Kindermord. 1783
『然りか否か』Ja oder Nein? 1793
『人類の発展の歩みについての私の探究』Meine Nachforschungen uber den Gang der Natur in der Entwicklung des Menschengeschlechts. 1797
『寓話』Fabeln. 1797

ちなみにわたしが卒論で取り上げたのは、『隠者の夕暮』と『人類の発展の歩みについての私の探究(玉川大学出版の本には単純に「探求」という題がついていた記憶がある)』。
どちらもゼミを主催する東岸克好教授の命により、ドイツ語の原典をあてがわれ、ドイツ語辞典を片時も放さず四苦八苦した。

1798年。スイスのシュタンツという町で悲劇が起こった。
隣国フランスは、自国の民主革命を広めようとしていたが、シュタンツはその抵抗拠点になっていた。そこでフランス軍が町を襲い、多くの住民が死傷した。
そのとき、親を失った子ども、孤児が多数あふれた。

そこでスイスの文部大臣に孤児のための学校を開くように頼まれた。
文部大臣シュタッパーはペスタロッチの理解者だった。
しかしここでも彼の社会改革思想が問題視され、足を引っ張るひとたちの批判の受け、孤児のための学校は半年で閉鎖になった。
また挫折だ。

1800年。
ブルクドルフに学校を開校した。
この学校はその後移転するたびに発展した。
しかし、発展するたびに孤児が少なくなり、中流階級の子どもたちが増えた。
教員たちに派閥ができて対立が始まった。
またまた挫折。
学校を抜け出したペスタロッチは、グランディという土地に移って貧民のための学校を創った。

とまぁ、挫折の多い人生だ。

わたしはいま2016年を生きている。
1827年に彼が死んでから、ざっと190年が経った。
彼が問題視した貧困や孤児の問題を、人類はいまも解決していない。
より一層、深刻になっている。
だから、彼の教えはいまのわたしに響く。

わたしが大学に在籍した1980年代。
玉川大学には、文学部はあったが教育学部はなかった。創設者の強い意志で、教育者は教育学に特化した学びではいかんという考えがあったと聞く。
だから、文学部教育学科。講義には教育学以外の講義がたくさんあった。
国大の教育学部を卒業したひとたちは、専攻は「社会です」「算数です」という。
しかし、玉川大学文学部教育学科には、教科の専攻はなかった。
「教育社会学です」「児童心理学です」「西洋教育史です」。
就職しても、何の役にも立たないと思われた。
ところが、教科の専攻には思想がないので、子どもたちと対峙したとき、自分の立ち位置が個人の主観頼みだった。
教育学が専攻だったわたしは、あちこちぶれたが、いつもペスタロッチの教えに支えられた。

これは大いに助かった。

7462.8/3/2016
学校を去る前に...いろはのイ

定年まであと7年になってしまった。
早期退職をするつもりなので、学校におさらばするまで、あと5年ぐらいか。
30年以上も同じ仕事をよくも続けたもんだ。

ついにことしは管理職がわたしよりも年下になってしまった。
とても丁寧な方で、いちいちわたしに気を使ってくださるのが申し訳ない。

ずっと小学校に勤務した。
学級担任を13年間。学級外担任を7年間。特別支援学級担任になって12年目になる。

いまあらためて、ペスタロッチ(ペスタロッツィ)を想う。
わたしが大学で専攻した西洋教育史。
卒業論文で選んだ教育者が、彼だった。

当時はあまり深く考えなかったが、最近になって
「なぜ、ペスタロッチだったのか」を問う。
なるほど、彼は世界で初めて貧しい者たちに教育の必要性を説き、実際に学校を設立したひとだったのだ。
きっと、そこに共鳴したのだと思う。

彼が生きた18世紀後半から19世紀前半のフランスは長く続いた王朝が市民革命によって滅ぼされ、大混乱の中にあった。
社会が殺伐とし、多くの孤児がよにあふれていた。
当時のヨーロッパはキリスト教会が絶対的な権力をもち、教育は聖書を読むための装置だった。聖書に書かれたことを読むためだけに、文字を覚えさせられたのだ。
裕福な家庭はいいだろうが、貧困層にはよけいなお世話で、そんな時間があったら一秒でも働いて稼がないと生きてゆけない。
結果、孤児らは文字の読み書きができないまま成人し、死ぬまで同じ労働をくり返し、貧しさのどん底を生き続けた。

彼の墓碑には次の銘文が残る。
「ハインリッヒ・ペスタロッチ、ここに眠る。
 1746年1月12日 チューリヒに生まれる
 1827年2月17日 ブルックに没す
 イノホーフにおいては貧民の救済者
 リーンハルトとゲルトルートにおいては民衆への説教者
 シュタンツでは孤児の父
 ブルクドルフとミュンヒェンブッフゼーにおいては新しい民衆学校の創設者
 イヴェルドンにおいては人類の教育者
 人間、キリスト者、市民。
 おのれを捨ててすべてを他の人のために為す!
 彼の名に祝福あれ!」

わたしが彼に惹かれるのは、もちろんその思想でもあるのだが、それと同じぐらい、彼の生き様が人間的波乱に満ちているからだ。

7461.8/2/2016
耳を疑った...0

2016年7月26日。きょう未明の殺人事件。
津久井やまゆり園は、神奈川県の最北部に位置する。もうすぐ高尾山だ。
重度の障がい者が入園する福祉施設に、あろうことか元職員が午前2時半に侵入し、刃物で入所者を刺した。
多くの負傷者を出し、不幸にも19人が亡くなった。
警察が発表する動機。
「障がい者がいなくなればいいと思った」
どこまでこの表現を信じていいかはわからない。

犯人は26歳男。
無職で一軒家に一人暮らし。
両親は別の場所に暮らす。父親は小学校の教員だという。
地元の小学校で教育実習をしたが、教員にはならず、運送会社に就職。
この施設でも働いていた。

刺青をして、髪の毛を染めて、体内から大麻成分が検出された。
措置入院明けの惨事だ。

衆議院議長宛に、障がい者を何百人も殺すことができるとか、ターゲットの施設とかを記した手紙を送っている。
精神的疾患患者の手紙とスルーしてしまったのだろうか。
とくに犯罪をおかしていない段階での身柄確保は難しいとは思う。

日本のお粗末な福祉行政や精神医療体制が背景にあるとしても、あまりにも犠牲が大きすぎる惨事だ。
社会的弱者が粗末にされるよのなかが、こんなかたちで顕著になるのは苦しすぎる。

7460.8/1/2016
0.5ゲーム差...0

ついに横浜ベイスターズが二位の巨人にゲーム差0.5と肉薄した。
(2016/07/24の出来事です)
オールスター明けから調子がいい。
きのうの勝利で4連勝。そろそろ負けるのではと、横浜ファンは気が気でない。

何しろ毎年ゴールデンウィーク明けにはそのシーズンの望みが絶たれ、よっしゃ来年もがんばろうとはやこころのプロ野球は終わってしまう。
去年はそれが交流戦まで上位独走という珍事をやってのけた。しかし、交流戦で予想通りの展開になり、その後は定位置へ。

ことしは監督が代わりちょっと違う。
わたしは、前監督の中畑さんが育てた選手たちがやっと実践で力を発揮してきたのではないだろうかと分析している。

おとといの巨人戦。
2対1でリードしていたのに8回の表にラミレス監督は石田から投手を交代した。
今シーズン、投手交代で何度か失敗している。
石田は決して調子が悪くなかったのに8回での交代。
「あーまた、やられるかもぉ」
予想通り中継ぎ投手はヒットを打たれて2対2の同点になった。
こうなると坂道を転げ落ちるのがこれまでのベイスターズだが、今シーズンは粘る。
9回の表は守護神の山崎が抑え、延長戦に。
これ以上やると引き分けになる12回の裏、いまや全日本の4番バッター「つつごう・筒香」がライトスタンドへ28号さよならホームランで決着。
セリーグ防御率トップの菅野に負けなかったベイスターズ。
勝利の美酒に酔いしれたかったが、一ヶ月の断酒決行中で、仕方なくウイルキンソンの炭酸で乾杯した。

きのうの巨人戦。
1対1の同点からいきなり井納が大乱調。
ファーボール2回でヒットを繰り返されて4対1へ。
こういうときは投手交代を早めにするべきなのに、ラミレス監督はしない。
2アウトになってランナーがまだいる状態で投手交代。どうせ引っ張ったのなら、ランナーがいない状態にしてから交代にしないと、交代投手の負担が大きい。
それでも、あのとても野球選手には思えない体格のサガンスキーが好投しそれ以上は取られなかった。
その裏、7回。なんとベイスターズ打線は連打爆発。
6対4と試合をひっくり返す。6対4でランナーがいて2アウト、さらにリードを広げるかというときに打者は筒香。ここで一発という期待は、翌日に持ち越されたが、そのまま試合終了。

これで二位の巨人までゲーム差は0.5になった。
きょうの三戦目で勝てば、二位と三位が入れ替わる。
首位の広島がちっとも負けないので、首位と二位とのゲーム差は縮まらないが、四位以下にゲーム差をつけておくことはクライマックスシリーズ進出へ向けて必要なことだ。

巨人戦は横浜スタジアム。
きっととっくにチケットは完売なのだろう。
そういえば、特学の教え子が家族と巨人戦を見に行くと言っていた。
どの試合に行くのだろうか。
交流戦やオールスターの意味はわからなくても、ベースターズの全選手の名前とポジション、背番号はインプットしている子どもなので、楽しんでくることを祈る。