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過去のウエイ

7459.7/31/2016
遠慮はいらない...0

「おい、Aさんがクレヨンで爪に色を塗ってるよ」
「あ、はぁ、だめじゃない。Aちゃん」
そういって、T2はAを叱る。
だからわたしは憤慨する。
「T2がAさんの目線にしゃがまないで、テストの丸付けなんかしてっから気づかないんです。子どものせいにしないでください」
T2は、おろおろする。

特別支援学級には複数の教員がいる。
音楽や図工などは、通常学級のようにクラス全体で指導する。
いまのわたしの勤務先には4人の担任がいる。
だから、Aが手持ち無沙汰でネイル遊びをした図工のときも4人で指導していた。
指導の中心にいて授業を組み立て、教材を用意し、リードオフするのがT1。
支援が必要な子どもの近くにいて、介助をするのがT2からT4。
このとき、わたしは字が書けない・はさみが使えない3人の子どもを同時に担当するT4だった。
近くで、字が書ける・はさみが使える・指示理解が弱い2人の子どもを同時に担当するT2がいた。
指示理解が弱いので、T1の指示が伝わらないことを前提にし、やるべきことをその場でリピートする必要があるの。しかし、このT2は少人数指導で自分が担当している子どものことばと数のプリントの丸付けをして、さぼっていた。
そのうちにAは、指示がわからないのだから、机上のクレヨンで遊び始めた。

4月に着任したT2は、一生懸命なのだが、センスが無い。
わたし以外の2人の若い教員は、ずっと先輩のT2に表立って意見は言わないが、影で文句を言い合っている。
新採用のときから、年配だろうがなんだろうが言いたいことは言ってきたわたしは、T2へ遠慮が無い。

T2が担当しているIが欠席がちになった。
保護者の話では、T2の少人数指導がいやだとのこと。
教員相互でミーティングを開いて、やや神経質なIへの対応を相談した。
にもかかわらず、せっかく登校したIをつかまえたT2。
「どこがいやなの」
「これが難しいの」
「言ってくれないとわからない」
滝のような言葉を浴びせて、翌日からふたたびIを不登校にしてしまう。
わたしが近くにいると文句を言われると学習したT2は、こういうことをわたしの前では言わない。だから、久しぶりに登校するとIは、わたしのそばから離れない。T2は、それも気にくわない。
「あんたには、児童理解っていう研修を5回ぐらい受けて合格証をもらってきてほしいよ」
こういう皮肉が伝わらない。
「過去に何度も行ったんですけど」とほほ。

それでもわたしはT2を疎外しない。
あきらめたら、事故が起こり、子どもや保護者が苦しい思いをするからだ。
遠慮ない言葉はつらいだろうが、転ばぬ先の杖になるなら、いやいや転んだ直後の応急措置でもいい、何度でもいつまでも繰り返すつもりだ。

7458.7/30/2016
初鳴き...0

毎日、9時ごろから校庭で朝の運動をします。
雨でない限り、朝の運動はなくなりません。
衣服の着脱と服のたたみ方なども指導対象です。
決まった内容を毎日繰り返すことで、活動に見通しをもつ力が育ちます。
いまは7歳の男の子がリーダーになって
「これから朝の運動を始めます」と進行しています。

朝の運動の最後のメニューは、フリータイム。
時間になるまで各自が体を動かすなかみを決めます。

わたしは男の子6人とフットベース(キックベース)に付き合いました。
やりたい気持ちはあっても、チーム分けやボールやベースの準備はおとながいた方がスムーズなのです。
「先生、よっちゃん(仮名)、やなんだよ」
フットベースやる気満々のよっちゃんを見ながら不平が聞こえてきます。
「なんで?」
「だって、よっちゃん、負けると『お前のせいだ』とか言ったり、わんわん泣いたりすんだもん」
確かに何度もそういう前歴がある、よっちゃんです。

3人対3人でホームベースを挟みます。
わたしは審判。
「これから試合を始めます。でも、終わったときに負けたひとが『お前のせいだ』とか言ったり、わんわん泣いたりしたら、もう100年間やりません。気をつけてください」
「はーい」
よっちゃん、返事してました。

ゲームは互いに点を取り合い、合計していないもんだから、勝敗は不明のまま終了。
ふたたびホームベースを挟みます。
「点数はわかりませんが、これで試合を終わります。だれか『お前のせいだ』と言いましたか?」
みんな口を真一文字に結んでいます。

「だれか、わんわん泣いていますか?」
ちょうど、そのとき、近くの大きな桜の木からミンミンゼミの初鳴き。
「先生、蝉が泣いてます。やべー、100年できないよー」
「大丈夫、蝉は許しましょう」
「じゃぁ、またフットベースできるね」

よっちゃん、うきうきで「みーんみーん」と言いながら教室に戻って行きました。

7月12日。9時半。藤沢は長後の蒸し暑い朝にあった実話です。

7457.7/29/2016
監視社会...0

わたしが生まれた大船は当時松竹撮影所があり、映画の町としてにぎやかでした。
買い物や旅行で駅周辺に行くと、映画関係者に何人も会いました。
近所には松竹で働くひともたくさんいまいした。
わたしの妹は松竹美術部に就職し、そこで職場結婚までしました。

だから将来は映画関係の仕事に就きたいと何となく思ったこともありました。
結果的にはまったく方向の違う仕事を選びました。
しかし、写真や動画はずっと趣味として続けていたので、学校に就職してからは視聴覚関係の仕事を率先して担当しました。

就職は1985年。
マイクロソフトがウインドウズの最新版を発売し、よのなかはITブーム。
子どもの数は激減し、小学校教員の採用は超氷河期の時代でした。
まだわたしの周辺にはビデオはありません。映写機はありましたが薄給では手が出ません。ひたすら映画館に通って邦画も洋画も見まくっていました。
カメラはフィルムの時代です。
ものすごい金持ちやマニアが肩から提げる移動電話を手にし始めましたが、もともと電話が嫌いだったわたしにはまったく興味がありませんでした。

就職してからわかったことです。
学校職員のなかにはあまり視聴覚関係に興味があるひとがいません。
だから自ら「やる」と言い出す、珍しい新採用と見られましたが、だれもがやりたがらない仕事だったので、その後異動するまでずっと担当しました。

なぜが学校では視聴覚担当は、放送も兼務します。
朝会や運動会、集会や儀式のPA担当です。
写真撮影や動画撮影、放映や鑑賞などのメインの仕事よりも、放送の仕事の方がずっと多かったです。だから、いまでもマイクの修理ぐらいはハンダゴテさえあればすぐできます。
運動会のとき、マイクに向かってホイッスルを吹いた先輩教員を蹴っ飛ばした思い出があります。ヘッドホンをして音声確認をしていたわたしの鼓膜はしばらく異常でした。

幾度目かの異動。
その学校でも視聴覚担当をしました。
その頃、バブル崩壊の後ぐらいでしょうか。
学校にもパソコンなどを使った情報教育の導入をという気運が高まり、視聴覚室がどんどんパソコン室に改装されていきました。
役所というのは、新しい業務を起こすとき、必ず担当者を求めます。学校でも情報教育担当が必要になりました。
2000年ごろの学校でパソコンを自由自在に使いこなせるひとは、かなりのマニアで、ほとんどいませんでした。またパソコンをどのように授業に結びつけるのか、未知の領域だったのでだれもそんな担当者にはなりません。
わたしはランケーブルが蜘蛛の巣みたいに這う視聴覚室兼パソコン室を見て、あーあとため息をついたものです。
だれも担当者に手を挙げないので、役所は「視聴覚担当者が兼務すること」という命令を出しました。
そんなわけで否応なく、わたしはキーボードを叩くことになったのです。

当時役所が採用したパソコンは、本体もハードもでかくて、研究室から飛び出してきたような代物でした。
それで「教材を作れ」と命令されても、ちんぷんかんぷん。
フロッピーを挿入するAドライブ、MOなどを挿入するBドライブを実際に使っていた時代です。
いまもハードディスクをCドライブと呼ぶのは、当時の名残です。
多くのプログラミングでデータの保存先にAとBのドライブ(保存先)を割り振ってしまったために、いまは使うことのないドライブなのにいきなりCドライブから始まるのはそのためです。
古いOSのプログラムを修正するよりも、無視したほうが賢明なのでしょう。

わたしは仕方なく神田や秋葉原に行き、プログラムの本を購入。
入門程度のC言語やジャバスクリプト、HTMLを独学で勉強しました。
その結果、積木崩しみたいなゲームを作ったときには感動しました。

しかし、どんなにこちらが頑張っても、任天堂様にはかないません。
ファミコンなどのテレビゲームを経験した子どもたちは、わたしが苦心して作ったゲームなど「だせー」おもちゃでした。

それでも教育関係の情報化はものすごい速度で進み、現場の担当者が教材など作らなくても製品が続々と登場して行きました。
そこでやっとノートパソコンやデジカメなどを使った可塑性のある試みがいくつか始まりました。
わたしは情報教育の担当者だったので、当時は仕方なく授業にこれらを取り入れましたが、可塑性のある試みには興味を抱きました。

可塑性、つまり、やり直しの効く学び。
間違えたら削除して、すぐにもう一度やれる学び。
当然、トライ&エラーを恐れない子どもたちが育ちます。
本当はふだんの学習も、こうでなきゃと感じ始めました。

そんなとき、子どもたちの学習記録をサーバーに効率的に保存するネットワークの研究を任されました。パソコン室にあるサーバーに、子どもがアクセスし、保存したり呼び出したりする仕組みの構築です。
これはおもしろかったです。
フォルダ名をひらがなにしたり、「どらエモン」など子どもが知っている名前をもじって学校名に近い親フォルダを作ったり。
アクセスごとに他人のデータを消さない仕組みの構築もしました。
しかし、ネットワークの利用はそもそも善意の利用者を前提にしているので、悪意によって破壊される可能性はいつもありました。
ネットワークを使ったいじめです。
意図的にひとのファイルを削除したのか、過失で削除したのか、管理者にはわかりません。
だから、一律に自分以外のファイルへアクセスできない状態を確立しなければなりません。
また学級内で情報をフリーにやりとりできるBBSなどの機能が付加されると、一定のグループ内での情報共有をオンにする必要も生じました。

その後、わたしはこんなのやってらんねぇと特別支援教育の世界に鞍替えしたので、頭痛や肩こりから解放されました。

SNSの大手が、ニューヨークと東京の株式市場で同時上場をしました。
わたしの周囲でも多くのひとが利用しているラで始まるアレです。
韓国に本社があります。
わたしは、いまも利用していません。
ちなみに、ツで始まるアレも利用していません。
そもそもスマホを持っていません。
ガラ携一筋、フェで始まるこのSNSだけ利用しています。

でも、なんの不便もありません。
創世記にネットワーク構築の入門をかじった者として、情報の絶対管理は不可能だとわかっているので、なるべくデータをサーバー上に残すサービスには加入したくないのです。
フェで始まるこのSNSについては、一つぐらい世界とつながっていたいので仕方がないかなと加入しています。

莫大な情報がデータとしてサーバーに保存され続けるSNSという情報収集マシーンは、その管理者に巨万の富をもたらすでしょう。なぜかといえば、収集される情報そのものを監視し、分類し、傾向を探れば、大きなビジネスチャンス情報として価値が生じるからです。
また、政治的にも利用されることが考えられます。敵対勢力の分析にも有効でしょう。
そして、加入しているひとりひとりの日常生活を監視することによって、いつもと違う変化に気づくことができます。異変の発生をいち早く察知できるのです。
こういう情報を、それぞれのサービス提供会社が絶対に漏洩しないという保証はありません。悪意をもった者に乗っ取られる可能性もあります。プロ集団がひそかにサーバーに忍び込んで情報を盗み取る危険性もあります。

そういう監視社会のなかで、生きていることを、もっと認識したほうが、いざというとき、驚きが少なくなるでしょう。

7456.7/28/2016
奥武蔵・名栗の郷へ...15



12時。
下山ルートに昼の日差しがさします。



頂上付近は落葉樹が多く、紅葉の頃はきれいだろうなぁと想像しました。
尾根筋は、半分が杉の植樹林で反対側が自然な落葉樹林でした。
ゴールデンウィークに、ひとのいない山歩きを堪能できました。



奥武蔵。
埼玉県と東京都の境界に近い名栗というエリアは穏やかでした。
武川岳山行。終了です。

7455.7/27/2016
奥武蔵・名栗の郷へ...14



サッポロ一番「カレーラーメン」にセブンイレブンで買った豚の角煮を乗せます。
ラーメンスープの熱で角煮がとろけて行きました。



箸はこだわりの竹箸です。
テーブルの板目が自然そのものです。



11時半過ぎ。
下山を開始しました。

7454.7/26/2016
奥武蔵・名栗の郷へ...13



10時26分。
武川岳頂上。
見晴らしのいい南斜面から武蔵の山並みを眺めます。



きょうのランチはサッポロ一番のカレーラーメン。
塩や胡椒、七味唐辛子なども持参して、細かい味付けを楽しみます。



自然のなかでの食事は、どんなおしゃれなレストランへ行くよりも気持ちが晴れ渡ります。

7453.7/25/2016
奥武蔵・名栗の郷へ...12



武川岳頂上周辺のかたくりの群生地は自治体によって守られているのでしょうか。
登山道のすぐ脇につんと尖った葉を見つけて、心配になりました。



山にはピンク色のつつじ(さつき?)と思われる花が満開でした。
緑と茶色が多い春山でピンク色は映えます。



今回のランチは「カレーラーメン」です。
カレーうどんとは違った、なかなかの味でした。

7452.7/24/2016
奥武蔵・名栗の郷へ...11



秩父や武蔵と呼ばれる山間を背景に記念写真を撮影しました。
鉄道が発達する前は、このあたりは主要な幹線道路で、関西方面や東北方面は抜けるひとたちが多く往来したエリアです。



トンネルのように地面を掘削する技術は最近のものなので、それまでは地形をいかした道が張り巡らされていました。



武川岳頂上付近は天然のかたくり自生地域です。
もう少し早い時期だと花が見られたそうですが、若い葉がつんと伸びていました。

7451.7/23/2016
奥武蔵・名栗の郷へ...10



9時36分。
登山口から歩いてきて尾根筋に出ました。



10時6分。
武川岳登頂です。



1051m。
快晴の山頂はかなり広くて、南面に展望が開けていました。

7450.7/22/2016
奥武蔵・名栗の郷へ...9



9時14分。
林道をしばらく歩くと、見えにくい「武川岳」という標識の分岐がありました。
ここから登山道が始まります。
連休だというのに、まったくひとの気配がなくてのんびりできました。



「武川岳登山口」という標識の上半分が折れて消えていました。
地図で確かめながら、画面右側の斜面に取り付きました。



かなりの斜面に杉が等間隔で植林されています。
枝打ちと間引きをしながら何十年もかけて建材としての杉を育てているのでしょう。