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過去のウエイ

7119.8/8/2014
銀太の墓...1

飲んべえ仲間にはユニークなひとが多い。
近所の酒屋に夕方になると集まるひとたちだ。

大きく分けて2種類になる。
ひとつは酒屋の近くにある工場や事業所で働き、仕事帰りに寄るひとたちだ。
このひとたちは、飲んだ後で電車に乗って自宅に帰るので、遅くても午後7時には帰っていく。
反対に、仕事場が遠方にあり、自宅が酒屋の近くにあって、あと自宅までもう少しというところで軽く一杯と立ち寄るひとたちだ。
わたしは、こちら側のチームだ。

だから、酒屋に登場する時間は前半のひとたちよりも遅い。前半のひとたちが帰る頃に、入れ替わりで登場というひともいる。
みんな近所のひとたちなので、日常的に顔を合わせている。町内会の祭や集会などでも顔を合わせる。酒屋の隣の銭湯でも顔を合わせる。休みになれば大船の町でぶらぶらしていても顔を合わせる。

ただし、わたしのように産まれてからずっとこの地で育ったひとは少ない。

浅田さん(仮名)は、福島のひとだ。
電機工場で勤務した後に、大船でおそらく一番大きな葬儀屋に転職した。そこでは一番の古株で、一日にいくつもの葬儀を仕切っている。
結婚してすぐの頃は、住む場所がなくて、葬儀屋の事務室に暮らしていた。こどもができてもそこで暮らしていた。居職というのか、どうか。さすがにいまは近くに家を買った。
酒屋の近所で働き、近くに住んでいるので、自然と飲んべえのレギュラーになる。

浅田さんの一人息子は、わたしの長女と同い年だ。
ちなみに農業師匠の今野さんの次男も、わたしの長女と同い年だ。
つまり、浅田さんと今野さんとわたしは、こどもが小学校から中学校卒業まで、ともに保護者としてのつながりがあった。
こどもらはもう20歳を超えているので、長いつきあいだ。
わたしは、浅田さんを通じて葬祭業の実際をたくさん教わった。

「銀太の墓」は、そのなかのとっておきだ。

7118.8/7/2014
40年前の恋物語...4

今野さん(仮名)の話を聴いていた飲んべえは、フーッとため息。
いまは携帯電話やスマートフォンがあるから、非常の場合にすぐに連絡が取り合えます。もしも当時の今野さん(仮名)がすぐにメールで非常事態を伝えていたら、彼女は大槌に戻っていたかもしれません。
なんで、飛行機が無理だった時点で行くのを諦めなかったの。
わたしが質問すると
「だって、11時半に会おうと約束しているのに、行かなかったら、約束を破ることになるじゃない。どんなに遅れてもそこまで行って、それでいなかったら仕方がないけど、こっちの理由で勝手に約束を破るってことは、考えなかったなぁ」とのこと。
武士道みたいです。
自分の都合ばかりを主張して、相手のことをまったく考えないひとが政治家になる昨今。
自分の都合よりも、ひととの約束を優先した40年前の今野さんは、きっといまも生き方に大きな違いはないのでしょう。
台風が通り過ぎた金曜日。
なんだか拍子抜けしたねぇと、飲んべえたちが話していたとき、今野さんはその後の話をしてくれました。
しかし、わたしは本当は今野さんから、この話を聴くのは3回目ぐらいなんです。いつも宝焼酎をホッピーで割ってご機嫌になったとき、生まれて初めて話すような顔をして恋物語をするのです。
その後の話は、ただののろけ話なので、公にはしません。
結論だけを言えば、彼女はその後、今野さんの妻になり、いまも拙宅の近所で健在です。2人の男子が産まれ、下のお子さんはわたしの長女と同い年です。
彼女は漁師の家の長女でした。ご両親は跡取りがほしかったので、婿を探していたそうです。だから、大槌を遠く離れた今野さんとの縁は許してくれなかったのですが、お子さんができてからは、すっかり関係は良好になりました。
そう、2011年3月11日までは。
(おわり)

7117.8/3/2014
40年前の恋物語...3

200キロのタクシー代金、忘れたけど3万ぐらいだったかな。
午後4時頃着いたのよ。
そうしたら、彼女がいた。いたのよ。4時間以上もそこでわたしを待っていたわけ。
なに、え、そりゃ、嬉しかったよ。たまんなく嬉しかったよ。それまでも、それからも、あのとき以上に嬉しかったことはないなぁ。
でも、大槌まで彼女が帰る時間を考えると、もう彼女を列車に乗せなきゃいけない時間じゃん。たくさん待っていてくれたのに、もうお別れってわけにはいかないから。
二人でそのまま花巻空港に行って、2便しかない最終便に乗って、鎌倉に連れて来ちゃった。
彼女は着の身着のまま。おふくろがびっくりしていたね。
そのうち、彼女の実家からうちに電話がかかってきた。帰って来なくて心配だったんだろう。絶対、今野さんとこに行ったはずと思ったんだろうね。予想的中。
10日間ぐらい、うちに居たかなぁ。
とりあえず、いったんは故郷に帰りなさいというおふくろの言葉で、彼女は帰っちまった。
そうしたら、通帳から印鑑から何まで彼女は取り上げられて、実家から出られなくなった。
そう、花巻で会えなくなった。
そんなある時、わたしが不在だったときに、彼女が親の目を盗んでうちに電話をかけてきたんだな。たぶん公衆電話。
これこれこういう事情で動くに動けないとおふくろに訴えた。
そしたら、うちのおふくろも、とっぽいとこあっから
「近くに郵便局がないかしら。そこの郵便局に局留めで現金を送るから、それでこっちに来なさい」と指南したそうだ。
局留めの現金を手にした彼女はそのまま大槌を出奔。鎌倉に来た。
わたしは何も知らされていなかったので、久しぶりに自宅に戻ったら彼女がいてびっくり。
なぁ、なかなかドラマチックだろ。
え、その後、どうなったかって。本当のドラマはここから始まるんだけど、きょうはここまでだな。

7116.8/2/2014
40年前の恋物語...2

あの頃、わたしと彼女が会う場所は花巻だった。
彼女は大槌の人間だから、花巻までは片道で3時間。
え、わたし、まだ新幹線も東北縦貫道もない時代だよ。とことこ一般道を運転なんかしていたら、会えないだろ。
羽田から飛行機よ。贅沢だって、そりゃ、船乗りは現金持っていたからな。
あー、いつも11時半頃に花巻駅で待ち合わせて、3時間ぐらいデートをするのよ。映画を見たり、食事をしたりっていう、まじめなやつ。手なんかつなげないよ、恥ずかしくて。でも、映画館の暗闇でこっそりつないがかも。
そんで彼女を帰りの列車に乗せて、わたしは空港までタクシー。1日に2便しかない羽田行きに乗って帰る。
いつも羽田から花巻に行くとき、飛行機に乗れないことなんてなかったから、予約なんてとらないわけ。そうしたら、ある時、係のやつが、満席ですっていいやがんの。
「キャンセル待ちをしますか」っていうから、もちろんって待っていたら、2便しかない次の飛行機でもキャンセルは出なかった。
さぁどうしたものか。
携帯電話なんかない時代だよ。電話をするにも、公衆電話からどこにすればいいのよ。
東京から列車ということも考えたけど、それじゃその日のうちに着けないかもしれない。
その時、仙台行きの飛行機に空席があることがわかった。
すぐに飛び乗ったね。
仙台空港に下りる。仙台駅まではとっても遠いのよ。タクシーに乗る。駅まで行こうかと思ったけど、
「花巻駅まで」って言っちゃったね。
仙台空港から約200キロの距離。
あ、金、金は持っていたよ。
さすがにタクシーの運ちゃんは心配になったらしく無線で本社におうかがいを立てていたっけ。なんかあやしい関東もんが、花巻まで行けって言うんですがだって。だから、言ってやったよ。
「なんなら、先払いしてもいいぜ」そうしたら安心してくれたけど。

7115.8/1/2014
40年前の恋物語...1

いまから40年前。
まだ携帯電話はありません。東北新幹線も開通していません。高速道路の東北道も開通していなかったそうです。
大学卒業者の初任給が5万円ぐらいだった時代です。
町の駄菓子屋には5円とか10円の飴や杏がお菓子として売っていました。
わたしの農作業の師匠である今野さん(仮名)は、当時、船乗りでした。
マグロ漁船に乗って南太平洋を回っていたそうです。
1年の多くを海の上で過ごしますが、世界中の港に立ち寄るので、免税品を大量に安く買えたと言っていました。
マグロ漁船は三浦港に接岸します。
船から下りるときに直接給金をもらいました。
その額、なんと200万円。現在の相場では1000万円ぐらいの価値があったのではないでしょうか。
いまでは仕事を引退し、日がな畑でせっせと野菜を作り、調理し、近所の酒屋に持参。飲んべえたちに肴としてふるまってくれています。内風呂はあるのに、毎日、銭湯に行く。その風呂上がりに焼酎をホッピーで割って
「ふわぁ、うめぇ」
細い目が眼鏡の向こうでさらに細くなります。
「いただいています」
「ごちそうさま」
飲んべえたちのお礼を聞き流し「うまいっすね」と言われると「当たり前じゃん」とやり返します。
そんな今野さん(仮名)が、台風8号が翌朝にもっとも関東に近づくと言われていた木曜日の夕方に、思い出話を語り始めました。

7114.7/31/2014
初夏の天城へ...8

11:41。



周回コースをたどって、最初の登り口に合流した。
日差しが高くなって、コケの水分が蒸発し始めていた。



天城をあとにして、車で近くの大室山に向かう。
頂上までリフトがあった。
頂上はなぜかアーチェリーの練習場になっていた。



大室山山頂。



宿は国民宿舎を素泊まりで予約した。
近所の中華料理屋で中華丼を頼む。
初めて入ったお店だったが、味は抜群で大当たり。



翌日はドライブ。



伊豆箱根スカイラインを走って、乙女峠へ。



御殿場温泉会館でみくりやそばを食べて帰った。
(初夏の天城へ・完)

7113.7/30/2014
初夏の天城へ...7

山行の楽しみは食事と風呂と睡眠。



ランチは「古奈屋」のカレーうどん。



ちゃんとお店で出している味が作れてしまうところが不思議。 これではお店に行って注文する必要がなくなってしまう。



正面やや右側の噴火口は噴火のすさまじさを表している。 当時、上空に舞い上がった粉塵は遠く江戸の町にも降ったという。



11:26。 天城全山を縦走するひとと分岐する場所。 わたしは周回コースのため、駐車場に戻る。

7112.7/29/2014
初夏の天城へ...6

古来から天城地方は歴史に登場している。
源頼朝が挙兵しながらも敗走したときも、天城山中を逃げ回ったという。



日本の歴史に長いトキを刻んだ天城。
馬酔木やコザクラが満開の小道を過去のひとびとも楽しんだのだろうか。



8:56。
万三郎岳。登頂。
伊豆半島最高峰だ。
1405mは十分に丹沢並みの標高だ。



頂上から富士山が見えた。
伊豆半島から見る富士山には大噴火の痕が正面に見える。







頂上部は樹木が多く視界は悪い。

7111.7/28/2014
初夏の天城へ...5

平地では5月は初夏だが、山地ではまだ春の花が多い。



コザクラとひめしゃらと馬酔木が群生する小道を歩く。
ひとの背丈よりも高いトンネルだ。



コザクラは山地で多く見かける。
山桜の一種だと思う。
可憐な花びらが青空に似合う。



馬酔木の小道。



台風や大雨の結果、土が流れてしまい、根が露出しているところが多かった。
このまま放置するとやがて樹木は倒れてしまう。

7110.7/27/2014
初夏の天城へ...4

ゴールデンウィーク。
伊豆半島の奥懐でのんびりと過ごす。



観光地に無駄なお金を落とすわけではない。
おいしい空気を吸って鳥の鳴き声を友にしながら、汗を流す。



馬酔木の林。
この根を食べると馬が麻痺を起こしたという言い伝えから「馬酔木」と書くそうだ。



すずらんに似たきれいな花が馬酔木。
そういえばすずらんにも毒があったと思う。



馬酔木の林を抜けるとひめしゃらの林が顔を出す。
樹皮がつるつるのひめしゃら。
とても特徴ある樹皮だ。