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過去のウエイ

6929.5/18/2013
丹沢山行...5


駒止茶屋でトイレ休憩。


駒止茶屋の樹間から、小田原や真鶴半島を眺める。


おしゃれな茶屋の看板。


茶屋に到る上り坂。

6928.5/12/2013
丹沢山行...4


渋沢からバスに乗り15分。大倉のバス停には立派なビジターセンターがあった。


登山口から大倉尾根に入る。山は緑が濃かった。


丹沢ベースまでの緩やかな上りでは杉木立が目立つ。


雑事場からの尾根筋では広葉樹が目立つ。

6927.5/11/2013
丹沢山行...3

 8時15分。

 やや肌寒い大倉尾根登山口から登山を開始した。
 左右には背の高い杉の木立ちが並ぶ。そのなかを石と赤土の山道が伸びていく。傾斜はゆるやかだ。
 それでも30分も歩いたら、背中とザックがあたる部分が汗ばんできた。1500メートル歩いたところに無人の「丹沢ベース」と書かれた小屋があった。日常的に何に使われているのかはわからなかったが、ベンチがあったので、そこにザックを置いて防寒着を脱いだ。
 丹沢ベースから傾斜がややきつくなっていく。
 短髪の間をぬって、汗の粒が額に流れ出てきた。曇り空なので、帽子はかぶらなかった。半そでのTシャツになっても、全身が暑くなっていた。
 道幅が狭くなり、傾斜がきつくなっていく。
 丹沢ベースから25分歩いて、雑事場に着いて休憩をした。
 一本目は56分かかった。大学時代の一本は50分歩いて10分の休憩ペースだったので、ややペースが遅い。しかし、あのときとは30歳も違うのだから、それぐらいのペースダウンは仕方がないだろうと自分に言い聞かせる。
 雑事場は、営林関係のひとたちが作業をする場所のようだった。
 大きな平たいベンチが複数あって、登山者が思い思いに休憩をしていた。
 明らかに関西地方から来たと思える中年女性の3人は、まったく疲れを知らないのか、ひたすら喋り捲っていた。

 9時17分。

 二本目を開始。雑事場までは、大倉尾根最初の登りで、ややきつかったが、雑事場からの歩き始めは、小さな尾根筋に出たので、平坦な道が続く。
 登山道の両脇にはぶななどの広葉樹が広がり、あたり一帯は落ち葉の絨毯になっていた。太い松の木も力強く立っていた。
 1385メートルを47分で歩いて、駒止茶屋に到着した。休憩をする。
 トイレがあったので、交替で使用する。
 丹沢のトイレはすべてバクテリア分解型のトイレだった。これは、糞尿を回収しないで、地中のバクテリアの力で分解する方法だ。そのため、トイレ周辺は臭い。
 また、トイレットペーパーや生理用品を流すことは禁止されている。バクテリア分解を阻害するからだ。小さな白いビニール袋が常備されていて、使用済みのペーパーなどを入れて、自分で持ち歩かなければいけない。ただし密室でのことなので約束を守らないひともいるのだろう。トイレの壁には、毎年、冬になってから全山のトイレで関係者が糞尿のなかからペーパーや生理用品を回収して、ヘリコプターで麓に運んでいると、やや怒りのこもった注意書きがあった。
 ドアの外に鍵のかかったチップボックスがあった。わたしはそこに100円を入れた。トイレの保守点検に使われるのだという。
 本格的な登山が初めてのひとたちは、このトイレルールに驚いていた。

6926.5/6/2013
丹沢山行...2

 わたしは、コンロを二基と食料を背負っていた。だいたい30キロぐらいの重さだっただろうか。大学時代は、これに鍋や釜、テントや寝袋を背負っていたので、60キロぐらいは背負っていた。

 今回は山小屋に宿泊するので、不要なものは荷物に入れなくて良かった。
 それでも、30キロとう重さが両方の肩と腰に食い込みながらの、坂道歩きは懐かしい苦しさを思い出させてくれた。

 小田急線の渋沢駅から神奈川中央交通のバスに乗る。7時ごろのバスだったが、登山者で満員になった。わたしは小田原から小田急に乗った。ちょっと早くバス停に着いたので座ることができた。新宿方面から小田急に乗ってきたひとたちは、一度にたくさんいたので、バスでは座ることができずに立っていた。
 これから長い山道が待っているのに、歩く前から疲れてしまうかもしれない。

 大学時代を思い出すと、この渋沢駅からわたしたちは登山口の大倉まで歩かされた。多くの荷物を持った大学生が何人もバスに乗ったらとても迷惑だっただろう。
 バスは15分ほどで大倉に着いた。

 手提げバックに入れていた登山靴を取り出す。
 登山靴は、登山専用の靴なので、アスファルトやコンクリートの地面を歩くと、靴の裏がこすれて磨耗してしまう。
「いまの靴はそれぐらいでは大丈夫ですよ」
 登山用品店の店員が胸を張っていた。
 しかし、わたしは信じない。
 それに登山靴は足首を固定し、足の甲を思い切りひもで締め上げるので、膝から下を自由に動かせなくなる。だから、山歩きを始めるぎりぎりまではサンダルで済ます。
 手入れしてある登山靴に足を入れる。専用のニット靴下は、靴のサイズに合わせたので、滑らかに足が靴の中に吸い込まれる。いったん靴のかかとと、足のかかとを合わせて、指先に少しの隙間を作る。この状態でひもを締め上げていく。靴の先端と足の指先がぴったりついてしまうと、歩くたびに指先に力が加わり、最終的には爪がはがれたり、血豆ができたりしてしまう。
 いったん靴を履いたら、歩き終わるまでは靴を脱がないほうがいい。だから、靴を履くときはたっぷりの時間をかけて、足にフィットした状態を作る。
 ヒルや小石が登山靴とふくらはぎの隙間から入らないようにスパッツを装着した。屈伸をして、荷物を背負い、懐かしい大倉尾根登山口から歩き始めた。

 30年ぶりに帰って来た。

6925.5/5/2013
丹沢山行...1

 ゴールデンウィークの後半を使って、丹沢へ山行に行ってきた。
 丹沢への山登りは、大学以来なので、30年ぶりだった。

 久しぶりに訪れた大倉は、当時とすっかり様相を変えていた。
 当時は小田急線の渋沢から、登山口でテクテク歩いていく田舎の町だった。畑が広がり、人家はほとんどなかった。トタンぶきのキャンプ場がいくつかあって、河原でバーベキューをする親子連れが目立っていた。
 大倉からの登山道は、山頂の塔ノ岳まで、ほとんど景色が開けないので、登山客にはあまり人気のコースではない。
 5時間近くの上り道をひたすら足元を見ながら歩かなければいけないのだ。
 だから、大学のワンダーフォーゲル部や山岳部が合宿を組むのに絶好のコースだった。一般の登山者に迷惑がかかることを防ぐことができる。軍隊みたいな行進をして、大声を出して、どかどか山道を歩く姿は、自然を愛好しているパーティーとはかけ離れいたからだ。

 30年ぶりの大倉は、登山道ぎりぎりまで人家が立ち並び、畑が少なくなっていた。道路が整備され、渋沢駅からのバスが1時間に5本も6本も走る開かれた町になっていた。
 バスを降りると、ビジターセンターというすてきな建物があり、秦野市の職員なのだろうか、
「みなさん、こちらで入山案内カードに記入してください」
と、声かけをしていた。

 山ガールなどの流行語でも知られるように、若い女性が山に行くようになったという。
 数日前の高尾山でも、それは感じていた。
 わたしが登山をしていた30年前には信じられない光景だ。
 都会を離れて、山に登る者は変人扱いされた時代だ。
 それが、いまはカップルや家族連れで気軽に登山ができる時代へと変化していた。
 だからかもしれないが、近年の山岳事故は、当時のわたしたちが先輩から教えられたことを守っていれば、防げるものが多い。なぜ、そんなところで事故に遭うのかという疑問が多いのだ。
 つまり、多くのひとが気楽に山へ行けるようになったが、登山のルールやマナー、危険性を教えてくれるひとがいないということだ。そういうテクニカルスクールはあるのだろうが、料金がかかったり、時間がなかったりして、行かないのだろう。
 便利と安全が背中合わせになっていた。

6924.4/30/2013
高尾山行...1

 ゴールデンウィークを使って、高尾山に登ってきた。

 頂上近くまでケーブルカーやリフトがあるので、多くの観光客が訪れていた。
 京王線の「高尾山口」駅に降りると、トイレが満杯だった。とくに女性トイレは、長蛇の列になっていた。登山道に入るとトイレがないので、出発地で済ませておこうという考えなのだろう。
 しかし、実際には駅の改札を出て、特設のトイレや駐車場には立派なトイレがあった。もっと京王線の駅員がアナウンスしないと、空いているトイレがあることを列に並ぶひとたちは気づかないだろう。

 高尾山は、旅行ガイドのミシュランが星を3つもつけて、多くの日本人が仰天びっくりした。高尾山のような観光地は、関東だけでも数多くあるのに、なぜ三ツ星を獲得できたのか。わたしは行ってみたけど、よくわからなかった。
 京王線の高尾山口で、サンダルから登山靴に履き替える。
 登山靴は、ビブラムというゴム底をつけている。2センチぐらいの厚さがあって、登山道で足の裏をしっかりと守っている。しかし、ビブラムはアスファルトやコンクリートを歩くと、少しずつ削られてしまうのだ。
 だから、山の近くまでは履き慣れた運動靴やサンダルでいい。
 いざ、山登りを始めるときに、登山靴に履き替える。
 わたしは、日本の登山靴メーカーのキャラバンの三シーズンモデルをリュックから出した。前回の鎌倉アルプス歩行で汚れた。それを手入れして、この日のために部屋のすみで、洗濯ネットに入っていた。ほこりをかぶらないようにするために、洗濯ネットが役に立つのだ。

 高尾山口から頂上へ続くルートは、ケーブルカーを除いて、大きく3本あった。
 わたしは、そのなかで主に沢伝いに歩く「琵琶滝コース」を選択した。
 沢伝いと言っても、本格的な沢歩きではない。傍らにせせらぎをみながらのなだらかなコースだ。
 古くから修験者が滝に打たれて修行した。道の途中には地蔵や祠がいくつもあって、歴史を感じさせた。
 汗がどっと頭皮から噴き出し、額をつたって、目に入った。首筋の汗は背中にまわった。
 このコースを選択する多くのひとは、最低限の登山スタイルをしているひとが多かった。しかし、なかにはちょっとデートのつもりで登ってしまったというカップルも少なくはなかった。カジュアルな洋服が汗でびっしょりになっては、デートも台無しだろうとよけいな心配をした。

6923.4/28/2013
坂の下の関所 第三部「気づく」...375

 円錐形なので、先が尖っている。
 何に使うのかはわからないが、尖った部品というのはその周囲の部品を傷つけることになるので、エンジンのような組み立て製品にはあまり使わない。
 いつもは、研磨する製品が何に使われるのか興味はない。しかし、赤坂は、職人の勘で製品部長の部屋を訪ねていた。
「なんだよ、赤坂さん。ここに来るなんて珍しいなぁ」
 部長室は工場の2階にある。
 赤坂たち、工場労働者は1階で働く。
 上下関係を、働く位置で示すような構造だった。
「俺だって、きたかぁねぇけどさぁ」
 そういう構造を、赤坂はちっとも気にしていない。
 さっき研磨した円錐形の部品を部長の机に置いた。
「これ、何に使うか、聞いてっか」
 部長は、ぶっきらぼうな赤坂の言葉遣いには慣れているので、老眼鏡をかけると、研磨した部品を手にした。
「相変わらずいい仕事をしているなぁ。これなら納期に間に合いそうだ」
 赤坂の研磨した部品を誉めて、部長は質問から逃げる。
「そういうことじゃねぇんだ。何に使うのかって」
 コトッ。
 部長は円錐形の部品を机上に置く。
「三角電気からの発注で、たしかお上からの急な仕事だったって聞いたぜ」
「お上って言ったら、防衛省か」
「おっと、俺たち下請け企業は、親会社のそういう細かい事情には首を突っ込まないのがルールだろう。発注があり、設計書どおりに製造して、納期までに届ける。これさえやってら、次の仕事が舞い込んでくる。だから、部品の一つ一つが何に使われているのかなんて、気にしなくていいんだ」
 赤坂は、研磨した部品を手に取り、じっと眺めた。
「このかたちが気にくわねぇんだ」
 部長はこれ以上赤坂と話すつもりはないように、老眼鏡を外した。
 赤坂も、これ以上は何を聞いても無駄だと判断して、部屋を出た。

6922.4/27/2013
坂の下の関所 第三部「気づく」...374

 お盆に入ると、鎌倉の夏は本格的になる。
 アスファルトから熱気が上昇し、足元や膝がじりじりと焼かれるようだ。
 首都リーブスは、高電圧の電気溶解炉で鋳物を製造している。工場で働くひとたちは、全身汗だらけになりながら、真っ赤に融けた金属と格闘していた。
 赤坂は、すでに60歳を過ぎた。
 首都リーブスには下請け会社からの派遣という立場で出向している。しかし、実際は数十年も首都リーブスで働き続けている。
 正規社員を増やすと、会社が景気の浮き沈みで合理化を実施しにくくなる。
 だから、契約社員を増やすことによって、人員の増減に対処する。
 日本経済が終身雇用制度を捨てて、会社の利益を最優先する競争主義制度を選択してから、派遣を中心とする契約社員が増えた。
 将来に対する安定した生活基盤の保障がない社会では、ひとびとはいつも不安を抱えて生きる。その不安が解消できない限り、結婚や出産などの家庭生活へと舵を切る勇気は生じない。そういうことを何も考えないひとたちが親になり、生活に困り、こどもを虐待する。
 負の連鎖は、2010年の8月も続いていた。
 いつもは、車のエンジンに使われる部品のバリ取りをしている。
 電力を安く買える8月に工場を稼動させる首都リーブスでは、大量の鋳物ができる。鋳物は型に融けた金属を流し込み、注文どおりのかたちにする。型を外すと、どうしても棘やささくれのような部分ができる。それをバリという。
 赤坂は、製品のバリを回転するやすりで削り取る職人だ。
 多い日には、一日に6000個はバリ取りをする。
 製品をつかみ、手のひらや指の感覚でどこにバリが生じているかを瞬時に判断する。
 回転し続けているやすりに、バリを押し当てて、削り取る。うまく削れたかを、目と指先で瞬間的に確認し、次の製品を手にする。
 この作業を数秒の単位で繰り返さないと、とても6000個なんてバリ取りは達成できない。
 製品の多くは、部品なので、それぞれが何に使われるのかは、あまり知らされない。
 しかし、漠然と車のエンジンで使われているのだろうと思っていた。少しずつ、かたちは違っても、共通する丸みや大きさがあるので、赤坂は「またこれか」「お、あれね」と手にした瞬間に、記憶の引き出しから、以前にも同じ製品を扱ったことを思い出すことができた。
「これ、やばくねぇか」
 そんな赤坂が、製品部長から、今回だけの特注だから最優先で仕上げろと命令された円錐形の製品を手にしていた。

6921.4/20/2013
準免許制度...2

 日本の教員が質的に低下している。

 そういう印象を持たれる背景には、諸外国に比べて、日本の教員が学習指導以外の仕事を引き受けすぎている実状がある。
 多くの国々の学校では、教員は授業で学習指導のみをするのが仕事だ。
 だから、家庭訪問なんかしない。掃除や食事の指導ももちろんしない。そもそも掃除をこどもにさせている先進国なんか、数えるほどしかない。文部科学省が清掃業者への出費を抑えるために「清掃活動も教育活動の一翼」というもっともらしい理屈をつけているにすぎない。
 自民党の準教員制度を考案したメンバーの発言に
「かつては、学校で先輩教員が若者を育てる習慣があった。いまは教員の仕事が増えすぎて、ほかの教員の面倒まで見る余裕がない」
というのがあった。
 これは、一面ではもっともらしく聞こえる。しかし、わたしは「なに言ってやがんだ」と叫びたくなった。

 教員に新人や後輩の面倒を見させないように、あれもこれも仕事を押し付けたのは、かつての自民党公明党政権だったのだ。それにより、年間に100日も研修漬けにする新採用研修制度を構築した。
 研修の冒頭で
「同学年の教員や、先輩教員は仕事が忙しいので、新人は困ったことがあったら、校長や教頭に相談し、新採用研修を有意義に活用するように」
と諭されるのだそうだ。
 教員たちから新人たちを引き剥がしたのは、あんたたちだろ。
 そこにまったく触れていない。

 わたしが教員になった30年前は、多くの先輩教員が授業を見てくれた。アドバイスをしてくれた。研修会を案内してくれた。そういう機会の中で、当然だが、指導力の向上だけでなく、ひととしての成長や、平和や民主主義に対する考え方も学んだ。
 きっと政治勢力は、そこがいやだったのだろう。
 これから日本の教員の仕事を学習指導のみに集中させれば、きっと質的な向上が期待できる。やっかいなのは、中学や高校の運動部で顧問をしている教員だ。学習指導は二の次で、運動部の顧問を本業と勘違いしている教員は、運動部の成績が自分の指導力と直結していると信じているのだ。日本中でもっとも体罰といじめが蔓延しているエリアだ。

6920.4/14/2013
準免許制度...1
 自民党の教育関係の検討会が、将来教員になるひとへ大学卒業時に「準免許」を与え、実際の学校現場で3年から5年の経験を経た後に、本免許へ移行する制度を考案した。
 今後、文部科学省の中央教育審議会で検討されるという。
 これにともない、民主党が考案した大学院まで行かないと正式な教員免許が取得できない修士免許制度は撤廃されるだろう。

 教職課程をいまの4年から6年に延長する修士免許制度は、効果に疑問が多かった。
 まだ制度が導入される前に代替案が登場したことは喜ばしいことだ。

 しかし、準免許というややこしい教員免許は、本免許を取得したい者にとって、足かせにならないだろうか。また、指導力が不足しているという理由で指導力を向上させる前に、安易に解雇の道具として使われないだろうか。

 いまの教員免許制度では、多くのひとがストレートに大学に入学し、留年しなかったとして、22歳で取得できる。そこから準免許機関が最長で5年続いた場合、28歳になる。そのときに
「あなたは、教員にむいてないので、本免許は与えられません」
と言われたら、そこからほかの仕事を探すのはかなりリスクが大きすぎないだろうか。

 インターン期間を導入している医師免許制度と似ているというひとがいる。
 根本が違うので、似ていても、本質的にはまってく異なるものだ。
 医師を志すひとは、大学卒業時に医師国家試験を受けて、合格しなければ、インターン制度が始まらない。国の認定を受けない限り、見習い修行が始められないのだ。そして、合格していれば、医師の資格はよほどの事がない限り剥奪されない。
 いまの教員免許は、教職課程のある大学が認定し、都道府県教育委員会が発行している。国家試験ではない。
 そして、悪しき免許更新制度により、10年ごとに、効力がなくなり、大学に戻って必要な単位を補充し、試験に合格し、更新しなければならない。

 準免許から本免許へ移行するには、学校長と教育委員会の許可が必要になるという。
 つまり、だれがそのひとを一人前の教員として認めたのかを明確にしようという試みだ。本免許を与えたのに指導力が不足していたり、不祥事を連発したりした場合は、本人のみならず、学校長や教育委員会にも責任の一端を負わせようとしているのだろう。
 
 とてもわかりやすいやり方だが、このやり方では、将来的に管理職のなり手や教育委員会で教育行政にかかわろうとするひとが減少する心配が生じる。