6919.4/13/2013
坂の下の関所17章 第二部「脅す」...373
国会議員選挙に立候補するには、膨大なお金がかかる。
当選しても落選してもお金がかかる。
大スポンサーのいない政次がこれから成功する鍵が、懐具合だった。
「なんで、お前、三角電気を窮地に立たせたいんだ」
真一の動機がつかめない。
真一は、研究室で室長の山田からコケにされた出来事を告げた。
政次は、呆れた。
「お前なぁ、自分のミスを棚に上げて、上司からの叱責に恨みを抱くなんて、社会人の考えることじゃないぞ」
「そんなことを言ったって、お袋に頼まれて銀座まで買い物をしていたんだから、仕事なんてできるわけないじゃないか」
政次は、妻の意向を受けて真一を無理矢理三角電気に入社させた。幼い頃から祖父や母の寵愛を受けて育った真一には、つらいときに耐える力が育っていない。自分を苦しめる相手を、排除することしか考えていない。妻も祖父もそのために全力を注いでくれた。
その結果がこれだ。
社会人になれば、少しはよのなかの常識を学ぶと考えた自分が間違っていたのだ。
「それにさ、山田は親父のこともコケにしたんだぜ」
「俺のこと」
「あー、親が議員だからっていい気になってんじゃねぇぞって」
確かにその通りなのだ。こいつの能力だけでは、とても三角電気の入社試験や面接はクリアできなかっただろう。
「それは、俺をコケにしたんじゃなくて、お前がコケにされたんだ。いい年して、いつまでも親の七光りに頼るなってことだ」
大きなため息をつくと、真一は立ち上がった。
「しょうがねぇなぁ。じゃ、親父じゃなくて爺さんを頼るよ」
政次はあわてた。これから自分が国政に出て行くには、義父の柿右衛門の人脈や権勢を使わない手はない。ここで、柿右衛門の心象を悪くするわけにはいかない。
「まぁ、待て。少し話を聞こうじゃないか」
結局、政次は真一の話を2時間も聞くことになった。
すでに防衛省から密かに依頼のあった調達品は、設計段階が終了し、下請け会社に目的を隠して発注していた。設計図面を見ただけでは、それが何に使われるのかはわからないように細工がしてあった。受注したのは、これまでも多くの部品を製造している首都リーブスだ。首都リーブスは鋳物製品を中心とした専門業者だ。高温、高圧の状況下で耐久性を発揮する部品を数多く製造している。自動車のエンジン内に多くの部品が使われている。
首都リーブスには、ミクロン単位の研磨を指先だけの感覚で1日に千個単位で行う赤坂茂がいた。
(第二部・了)
6918.4/7/2013
坂の下の関所17章 第二部「脅す」...372
大きな風車が窓の外で回っている。
そのゆっくりな回転が3回したところで、真一が登場した。
「おっす」
遅れて申し訳ないとか、急いでたけど渋滞にはまってなどの一言がない。
「座れ」
政次はぶっきらぼうに言う。
「要件を聞こうか」
真一は胸のポケットからラークを取りだした。
「たばこは後だ。それから、何度も言うが俺はたばこを吸わない。だから、吸いたいのなら、話が終わってこの部屋を出てからにしろ」
ちぇっと聞こえる声を出し、渋々真一はラークをしまった。
「そんなに、かりかりしない方がいいと思うんだけどな。親父にとっていい話を持ってきたんだから」
真一は、ソファに背中を預けて、足を組んだ。
「その話を聞こうか」
「いま三角電気は防衛省からの仕事を受けている」
そんなことはだれだって知っている。軍事に関する研究や生産ができる企業など、日本にはあまりない。戦前の軍需産業の流れを組む三角電気なら、ノウハウが引き継がれていて当然だ。
やはり真一は、あの恵子並みの脳しか成長していない。
「そこでいま俺が任されているのが、日米間でも極秘な部品にかかわる研究なんだ」
「そんなことがあるのか。日米安保条約違反じゃないか」
「そりゃ、表だってはないことになっているけど、実際には国産兵器の開発は防衛省の長年の夢だからね」
「そんなことを、俺に明かしてどうする。俺は一応公人だから、話の内容によってはお前や三角電気を告発しなきゃならなくなる」
政次の背中を冷たい汗が流れた。
「そう、その通り。だから、逆に言えば、この情報が外部から突かれれば三角電気はしらばっくれるしかなくなるわけ」
「脅せっていうのか」
「ま、簡単に言うとね」
確かにいくら防衛省から頼まれたとはいえ、法律や条約に抵触するかもしれない仕事を引き受けている三角電気は、それをネタに強請られても公にできない。金で解決できるのなら、要求に応じるかもしれない。
6917.4/7/2013
坂の下の関所17章 第二部「脅す」...371
阿久根政次は、ホテルの窓から横浜の海を眺めていた。
もうすぐ8月議会が始まる。いつも議会前はホテルに缶詰になって秘書の藤尾忠と質問書の作成をするのだ。そして、毎晩、中華街や高級レストランに出て日頃の窮屈な家庭生活からの解放を祝う。
政次は48才。同い年の妻は恵子。恵子の父は国会議員だった阿久根柿右衛門だ。柿右衛門の秘書をしていた政次が恵子と結婚して阿久根姓を継いだ。そして、秘書を辞して市議会議員から政治の道へ入ったのだ。
妻の恵子はこどもの頃から裕福な家庭に育ち、金のなる木が本気であると思っているような浪費癖があった。こつこつと自分の地位を築いてきた政次には信じられないほど高価な食べものや洋服を当然のように買う。旅行に行くときは、必ず値段の高い席を予約する。
結婚前からわかっていたことだが、一般家庭に育った自分が政治の階段を登っていくためには、義父が国会議員という事実は強みになると確信していた。そのためには、妻のわがままには目をつぶらなければならないと言い聞かせていた。
だから、公務を理由にして妻から解放されるこの時期は心身ともにリラックスできるのだ。
それなのに、恵子の遺伝子をたっぷり受け継いだ長男の真一がいきなり相談があると連絡してきた。忙しいからと断ったら、あいつはきっと恵子に泣きつく。息子に泣きつかれた恵子は、眉間にしわを寄せてこの部屋に突入してくるだろう。そんな面倒とつきあうのなら、30分と時間を決めて真一と会った方が、やさしい父親を演じられる。
腕時計を見た。
約束の時間を30分も過ぎている。ロビーまで迎えに行っている藤尾からはまだ連絡がない。あいつの遅刻はいつものことだ。よくあんな時間にルーズなまま、三角電気で働けるものだ。もっとも、三角電気への就職には義父の一声があったと聞いている。そうでもしなければ、大学時代にまったく勉強せず、全部恵子の貢いだ大学への多額の寄付で進級した真一が、一流企業に正社員として就職できるはずがなかった。
よのなか、金だ。
持っている者と持っていない者とでは、人生の切り開き方が違う。金の力で、たいがいのことは可能になるのだ。
携帯電話が鳴った。藤尾だった。
「おぼっちゃんが到着しました。これから部屋に案内します」
事務的に言うと、藤尾は電話を切った。
政次は、ダイニングテーブル脇のソファに座って、背伸びをした。
6916.4/3/2013
坂の下の関所17章 第二部「脅す」...370
研究室にはほかにもメンバーがいたが、阿久根以外のメンバーの仕事に停滞はない。むしろ、阿久根の仕事をほかのメンバーがカバーしているぐらいだ。
山田は、ゆっくり立ち上がり、真一の背中にまわった。肩越しに見たパソコンのモニターには、データのチェックどころか、ソーシャルネットワークのアクセス画面が広がっていた。
「おい、阿久根、ちょっと来い」
山田は35というプレートのかかったドアから廊下に出た。
山田が外に出たのを確認してから、大げさにため息をついた真一は、ほかの先輩研究員に視線を巡らせた。
「まったく、室長って、すぐに切れると思いません」
語尾上げで同意を求めたが、だれも同意しないので廊下に出て行った。
35研究室の隣には接客用の小部屋がある。室長の山田は、その部屋のドアを開けて、真一に目でなかに入るように指示を出した。
「お前なぁ、この業界で〆切を守らないということはどういうことか、わかってんのか」
接客用のソファに座るなり、山田は低い声で真一に詰問した。真一は、座れと言われていないのに山田の向かいに座ろうとした。
「だれが、座っていいと言った」
山田は、目をつり上げて威嚇した。
中腰になった真一は、思わず転びそうになりながら、ふたたび立ち上がった。
それから、どれぐらいの時間が経ったか覚えていない。ただ頭のなかには、そんなに〆切を守れと言うなら、早く俺を解放していまからでも遅れを取り戻させるべきではないかという思いが巡っていた。
「お前、親が議員だからって、いい気になってんじゃないのか」
そろそろお小言もおしまいかと思っていた頃に、山田が一言を浴びせた。山田の叱責を全部右の耳から左の耳へ聞き流していた真一は、自分の親のことを言われて、カチンとなった。
「それ、どういう意味ですか」
思わず、室長に反問してしまった。後悔したときには、もう遅かった。
「うちの研究室には、お前みたいになんの基礎研究もせず、論文発表もしていない奴はいらないんだよ。もともと先端技術を扱うサーティーに、なんで新卒が入れたと思ってんだ。まさか、自分の才能とか勘違いしてんじゃねぇよな」
サーティーとは三角電気研究所の部屋番号が30番から39番までの研究室の総称だ。どの研究室も高度な軍事関連の研究をしている。
山田は、一気にしゃべると、もういいという感じで手をひらひらさせて、真一を追い出した。
6915.3/31/2013
坂の下の関所17章 第二部「脅す」...369
7月15日。
阿久根真一はカレンダーできょうの日にちを確認した。
「やっべぇ、きょうまでのデータがそろってねぇ」
出勤してパソコンを起動し、スケジュール管理アプリを立ち上げて、自分の仕事が停滞しているメッセージに気づいた。
きのうは母の恵子につきあって銀座に買い物に行っていた。帰りにライオンに酔って、大ジョッキを4杯飲んだところまでは覚えていた。
恵子はおもにワインを飲み、その後は寿司屋で夕飯を食べたかもしれない。
帰りは、歳費扱いにするから大丈夫よという恵子の申し出を受け、タクシーで藤沢まで戻った。たぶん数万円はかかっただろう。
県会議員の妻である恵子は、夫の政次にことあるごとに国政への転身を助言している。それは助言というレベルではなく、ほとんど脅しのようだった。息子ながら父が哀れになったこともある。
恵子の父、真一の祖父は自分党で長期にわたり国会議員を勤めた柿右衛門だった。防衛大臣を最後に政界を引退していた。78才、近親者しか知らされていなかったが、癌の末期だった。柿右衛門には3人のこどもがいたが全員が女性だった。長女の恵子は、婿養子として政次と結婚した。政次は自分党公認で藤沢市議会議員を経て、神奈川県議会議員になっていた。
35というプレートのかかったドアが開いた。
真一は、三角電気で防衛省がらみの特別オーダーを扱う35研究室に勤務していた。
室長の山田朝雄が入室する。山田は窓際の自席に座ってパソコンを起動し、研究室のメンバーの仕事をチェックする。真一の仕事が停滞していることに気づいた。
「おい、阿久根。先週末が納期だったデータが上がってねぇぞ」
急いで仕事をしているふりをしていた真一は、ちっと舌打ちをした。
「はい、すみません。いま最後のチェックをしているところです。もう少し時間をください」
三角電気一筋で入社から研究を重ねてきた山田は35才になっていた。同期のなかには製造や営業部門で課長や部長に昇進している者もいた。しかし、自分には研究職が向いているという自負があったので、長年この研究室で嫌みな先輩研究員の指導を受けてきた。
とくに35研究室は、国家機密に相当する事項を扱うので、30才をこえて入室できたときには、自分の選択は間違っていなかったと確信した。
そして、あこがれの室長になり、研究全体を統括する立場になったのだ。
それが、去年、突然入室してきた阿久根に振り回されている。阿久根はなんと新卒でこの研究室へ配属された。最初は、よほどの能力があると勘違いした。実際は、議員をしている親のコネでの配属と知らされたときには怒りが喉まで出かかった。
今回のことに限らず、阿久根には研究者に必要な能力や資質がまったく備わっていないミスが多かった。期限を守らない。データを改ざんする。引用しても出典を記述しない。そのたびに山田が頭を下げなければならなかった。
6914.3/29/2013
国策としての教育...3
どんな業種も選考試験をする場合は10倍程度の競争率を維持しないと優秀な人材は集まらない。かつて、こどもの数が足りなかった時代は教員の採用人数が少なかった。だから、競走倍率が30倍近くまで跳ね上がっていた。
しかし、ここ数年、こどもの数がやや上向き、段階の世代が大量に退職したので、採用人数が飛躍的に伸びている。
これにしたがって、採用試験の競走倍率が下がっている。神奈川県では小学校の採用試験倍率が2倍程度になったという。
教員を夢見るひとが教員になりやすい時代が到来した。
しかし、こどもの数が激増したわけではないので、そもそも教員を目指そうとしているひとが激減したことを意味している。本当は教員のセンスがあって、ぜひとも教壇に立ってほしい人材が、日本の学校教育に見切りをつけて他業種や外国へ離れていく。
こどもに渡す通知表を書き間違えるミスが学期末が来るたびに報じられる。
多くが、別のこどもの成績を転記し間違えているものだ。また所見欄に他人のことを書くという信じがたいミスもある。
これは、自分がいまだれの成績を管理し、保護者への知らせに転記しているのかという自覚がないことから起こるミスだ。機械的に多くの通知表を流れ作業で処理しているのだろう。だから、名前の確認という初歩的なことを忘れている。
また、すべての通知表が作成し終わったら、センスある教員ならば、もう一度、すべてを読み直し、親の気持ちになって成績や所見を受け止める作業を必ずする。言葉一つで、教員と保護者の関係は大きく変わる。表現の工夫は、いつまでも続けなければいけない。この初歩的な確認作業さえしておけば、他人の成績をつけていることや、所見の内容がおかしいことに気づくはずだ。
繰り返すが、現在の安倍政権が以前の総理大臣だったときに、教員免許の更新制度を導入した。あの当時、わたしの知る限り、優秀な若者が「そんなこと聞いてねぇ」と突然の法律の改悪に憤り、教員志望を捨てた。
その後も、自民党と公明党の公教育政策は、保守的な内容を強くした。土曜授業の復活や給料の削減、退職金の削減、道徳の教科化など。
こんなに政治が教育に介入したら、夢のある仕事とは思えなくなって当然だ。
わたしの周囲の若者たち、素直で元気がいい。しかし、決して管理職に刃向かわない。何でもかんでも反抗することはいいことではない。しかし、理不尽な要求にも、何の疑いもなく従っている姿を見ると、このひとたちのこころは育っているのだろうかと不安になる。
学校教育はこどもの学力だけでなく、こころの成長とも向き合う。こどものこころが揺れたとき、いくつかの指標を示して、そのこどもにあった方角へ背中を押す必要がある。そういう内面の豊かさは、自分にも同様の豊かな内面がないととても指導できるものではない。
6913.3/24/2013
国策としての教育...2
2013年度は、文部科学省が久しぶりに全国で全学校を対象にした学力テストを復活させる。
ものすごい税金が投入される。民間教育企業にテストの作成や印刷、結果の集計を依頼している。国家予算が文部科学省を通じて、民間企業の利益になる構造だ。
学力テストの結果は集約され、教育効果の濃淡として公表される。
テスト結果が悪い地域や、悪い学校では、教員の入れ替えに大義名分ができる。地元住民も、それなら仕方がないという雰囲気を作り、権力者の意を汲んだ教員たちが大量に投入されていく。
10年以上前から、団塊の世代に勧奨退職をすすめた行政は、その結果として、職人的な教員を現場から放逐し、多くの新卒を雇うことになった。製造現場では考えられない人事政策が横行していった。
新卒とは、教員とは名ばかりでまだまだ未熟な素人たちだ。この素人たちに運動会や卒業式などの大きなイベントを任せていく。どうすればいいのかがわからないから、管理職に相談したり、教育委員会が作成している雛形を参考にしたりする。それらの意見は、ほとんどが権力者の意図を具現化したものなので、その地域やその学校の特徴とは無縁な透明化された計画になる。実行段階で無理や無駄が見え、結果として、破綻していく。
2011年度に滋賀県の皇子山中学校でいじめの末にこどもが自殺した事件があった。皇子山中学校は、なんと文部科学省の道徳の研究推進指定校だったのだ。学校研究は自主的に行う校内研究、市町村からの指定を受ける指定研究、文部科学省の指定を受ける指定研究に分かれる。文部科学省からの指定研究は、今後の学習指導要領改訂へ向けての新しい試みをする猶予が与えられている。反対に新しく改定した学習指導要領の成果を検証する意味が含まれている。いずれにしても、学校全体が一つの方向に向けて取り組まねばならない大きな研究だ。それも「道徳」について研究していた学校で、いじめが横行していたのだ。
権力者の言うままに、何でもかんでも受け入れ、自分の頭で考えることをやめてしまった教員たちが、増えている。
その方がラクなのだ。大きな矛盾やリスクを背負う必要がない。
こどもがどんなに苦しい状況に追い込まれても
「だって、これやんないとウエに怒られるから」
という、理由で押し切ることができるのだ。
自民党と公明党政権は、昔から、日教組を呪詛し、教員を骨抜きにすることを大目標にしてきた。そして、長年の努力により、現在はそれがほぼ達成している。全国の教員のうち、日教組に加入している教員は3割台だ。7割は日教組に加入していない。わたしは、日教組を辞めた人間だが、7割の未加入者の多くといると、自分までも何も考えない人間に染まっていきそうな錯覚に陥りそうになる。
6912.3/23/2013
国策としての教育...1
国家権力は、古今東西を問わず、教育機関を権力の手中に収めてきた。
自分たちの意思を国民に徹底するとき、熟年層を相手にするよりも、若年層をターゲットにした方が効果が大きいことを、人類の本能として感じているのだ。
カンボジアで多くの自国民を虐殺したポルポト。ポルポト自身が虐殺の張本人だったわけではない。彼の手足となって、崇高な理念のもと、何の疑いもなく、多くの人々に銃弾を浴びせたのは、少年少女たちだった。こどもの頃から共産主義教育を叩き込まれ、資本的なものは絶対悪だと教えられ、それらをこのよのなかから排除することによって平和な世界が実現すると信じて疑わなかったのだ。
日本でも戦前は、神国ニッポンを叩き込まれたこどもたちは、世界を相手に戦う日本人こそ、神が使わした選ばれし民であり、天皇は生きながらにして神そのものだと信じて疑わなかったのだ。その結果、アジアの繁栄と解放を信じて、多くの他国民を殲滅した。
いまでも中央アジアでは、宗教の対立や対米感情を利用した暴力の連鎖が続いている。そこでは、恨みや憎しみをこどもたちに教え込むことで、爆弾を抱えたまま相手に突っ込み自滅する方法が正当化されている。
権力者にとって、困るのは、教育の現場でこどもたちにものを教える教員が、権力の意思を無視したり、権力の考えを批判したりすることだ。これでは、権力者の手足が完成しない。
戦後、多くのこどもたちを戦場に送った反省から、教員の多くは二度と同じ過ちはしないと誓った。その誓いが日本教職員労働組合(日教組)の基本理念になっている。
二度と同じ過ちはしないということは、再び権力者から同じような命令があっても、学校ではこどもに軍国教育はしないと宣言していることになる。果たして、それは可能かどうか。
公務員としての教員が、税金の使い道を決定できる権力者からの命令を無視したら、公務員としての立場を奪われるだろう。それを守る憲法や法律の条文があるのだろうか。
平成になり、公教育現場は少しずつ、いつか来た道に戻り始めている。
明治から大正の自由主義教育運動が、一気に思想統制され、国民学校創設へ転換された、暗い道だ。
しかし、そのことをいまの有権者や若者は知らされていない。メディアもあまり報道しない。学校現場ではひしひしと感じていても、教員の多くも発信しない。そんなことをしたら、自分の首を絞めることが分かっているからだ。
そうこうしているうちに、学校はふたたびこどもたちに武器を持てと教えるようになるだろう。
6911.3/20/2013
「仰げば尊し」の意訳と誤訳...4
卒業の歌(「仰げば尊し」のメロディーでどうぞ)
歌詞訳:佐々木洋平 (C)2013 Yohei
ふたたび 会えると 信じている
それまで ひとりで 歩いていく
こころの なかには 朋(きみ)の笑顔
たがいに 満たされ めぐりあおう
かなしみ よろこび 懐かしい部屋
こころに ひびいた 朋(きみ)の言葉
いつしか それぞれ 夢を生きる
たくさん 思い出 置いてゆこう
さよなら ありがとう 愛したひと
仲間の 絆を ほぐしてゆく
あふれる なみだは 頬をつたう
さよなら ありがとう 朋(きみ)に届け
古今東西、歌や映像は、権力者が大衆を同じ方向に持って行こうとする宣伝道具として使ってきた。
いまの北朝鮮の壮大なマスゲームを見てもわかる。あの映像に、いまのわたしは「違和感」を覚えるが、日本でも戦前の学校では似たような光景が繰り返されていた。
軍隊の一糸乱れぬ行進や、軍歌に見られる戦争を賛美し、兵隊を鼓舞する歌詞などは、大衆を魅了し、例外や逸脱者を許さない雰囲気を醸し出していく。
しかし、「Song for the Close of School」のように原典がしっかりしているのに、海の向こうで、まったく異なる歌詞をつけられ、まったく異なる意味合いの歌として使われてしまったことを、後々に知った作詞家や作曲家の気持ちになると、申し訳ないと陳謝するしかない。
明治政府は、軍備の近代化だけでなく、文化面でも外国のものを多く取り入れる必要性を感じていた。とくに歌は、それまでの日本古来のものではなく、音階を取り入れた西洋音楽に日本語の歌詞をつけて国民に広める焦りがあったのかもしれない。
それにしても、メロディを盗んで、とんでもない歌詞を平気でつけ、こどもたちに歌わせる国家とは、諸外国から見たら、どのように思われていたのだろうか。
6910.3/12/2013
「仰げば尊し」の意訳と誤訳...3
それでは原詩と意訳です
Song for the Close of School
(卒業の歌←タイトルからして「仰げば尊し」にはほど遠い)
We part today to meet, perchance, Till God shall call us home;
And from this room we wander forth, Alone, alone to roam.
And friends we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.
わたしたちは再会するためにきょう別れる
たぶん、神がわたしたちを引き合わせるときまで
この部屋を出たら、わたちたちは自分ひとりで歩いていく
幼い頃から知っていた友だちは、思い出のなかで生き続けるだろう
でも、光と愛の国で、きっと最後は再会できるだろう
Farewell old room, within thy walls No more with joy we'll meet;
Nor voices join in morning song, Nor ev'ning hymn repeat.
But when in future years we dream Of scenes of love and truth,
Our fondest tho'ts will be of thee, The school-room of our youth.
さよなら、懐かしい部屋、この壁の内側でもう仲間と楽しく集うことはない
朝の歌をいっしょに歌うことも、夕べに賛美歌を歌うことも、もうない
でも、数年の後に、わたしたちは愛と真実の情景を夢見る
わたしたちの一番大切な思い出は、若い日々を過ごしたこの部屋だ
Farewell to thee we loved so well, Farewell our schoolmates dear;
The tie is rent that linked our souls In happy union here.
Our hands are clasped, our hearts are full, And tears bedew each eye;
Ah, 'tis a time for fond regrets, When school-mates say "Good Bye."
さよなら、深く愛したひとよ
さよなら、親愛なる仲間よ
幸せな一体感としてのわたしたちの魂をつないだ絆は引き裂かれた
わたしたちの手は強く握られている
わたしたちのこころは満ちている
そして目には涙があふれている
友だちが「さよなら」を言うときが、別れのときだ
これって、まったく日本で紹介された歌詞と異なる。
神や賛美歌が登場するので、とても宗教的な歌詞なのだ。
また、close of schoolについては「卒業」ではなく「閉校」なのかもしれない。アメリカでは公立学校の定数区割りが厳密なので、こどもの数が減ればどんどん学校は閉鎖される。逆にこどもの数が増えれば、行政は学校を造らなければいけない。閉校も多いが、開校も多いのだ。
ここでわたしが試みた意訳は、横浜でAPECが開かれたときに日本側の通訳として活躍された方に、確認をとっていただき「大きく外れていない」と評価されています。