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6909.3/10/2013
「仰げば尊し」の意訳と誤訳...2

おなじみの日本語歌詞

仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば

互(たがい)に睦し 日ごろの恩
別るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

朝夕 馴(なれ)にし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば

日本には、文部省音楽取調掛の伊沢修二らが移植した。日本語の歌詞は、大槻文彦・里見義・加部厳夫の合議によって作られたと言われている。1884年(明治17年)発行の『小学唱歌集』第3編より収録されたのが、唱歌としての始まりである。
(ウエキペディアより)

 この日本語歌詞は、あまりにも文語調で平素の言葉からはかけ離れている。
 また、卒業にあたって教員を賛美する歌詞なので、教員と生徒の関係が、まるで徒弟制度のような錯覚を受ける。
 戦後もしばらくは公立学校の卒業式で歌われていたが、立身出世を促している2番の歌詞が、社会的に問題視され、昭和の終わりとともにほとんど消えてしまった。
 さぞかし、英語の原詩も格調高いものだと思っていた。
 ところが驚くことに、そこには「先生」にあたる単語も、庭も、窓も、身を立て名をあげも、白雪も、なーんにも出てこないのだ。

6908.3/9/2013
「仰げば尊し」の意訳と誤訳...1

 いつだれに頼まれていたのかを忘れていたわたしが、その依頼に気づいたのは3月2日のMさんからの電話だった。あわてて、調べて、拙い翻訳と歌詞訳(音符にあわせて文字数を減らす)を試みた。

依頼内容

「仰げば尊し」の原詩が見つかった。それによると、日本の卒業式で歌われている歌詞とまったく異なる内容だった。どうか、正確に訳して、これからは堂々と卒業式やあっちこっち(ってどこ?)で歌ってしまおう。っつうわけで、原詩を渡すから、訳してくれたまえ。

まずは調査結果

 研究者の間では長年、作者不詳の謎の曲とされていた。これまで作曲者については、作者不詳のスコットランド民謡説、伊沢修二説などがあった。
 しかし、「Song for the Close of School」という楽曲が、1871年に米国で出版された楽譜『The Song Echo: A Collection of Copyright Songs, Duets, Trios, and Sacred Pieces, Suitable for Public Schools, Juvenile Classes, Seminaries, and the Home Circle.』収録されていることを、一橋大学名誉教授の桜井雅人が2011年1月に突き止めた。
 同書は基本的に初出の歌曲を載せているし、旋律もフェルマータの位置も同曲と同一であるので、これが原曲と思われる。同書は作曲者をH. N. D.、作詞者をT. H. ブロスナンと記載している。ブロスナンはその後保険業界で活躍した人である。また、H.N.D.はどのような人物であったかは明らかではないが、桜井によると、当時の習慣として未婚女性などはイニシャルのみを表記することが多かったので、女性ではなかったかとの説が生まれている。またどのような経緯で日本に入って来たのかもわかっていない。
(ウエキペディアより)

6907.3/5/2013
先輩 (2)

 話によると、インフルエンザの診断でもらった薬を家で飲んでいたそうだ。
 そうしたら、食欲はなくなり、全身から力が抜けて、頭がぼーっとなった。
 ついに火曜日の朝、布団から起きることができなくなった。
「あー、きっとこのまま死ぬんだろうなぁ。そのときはマジに思ったぜ」
 朝食に起きてこないので妻が寝室を行ってびっくり。
「あいつ、あのとき運命の決断を迫られた。このまま放置したら、確実に俺は死ぬ。でも救急車を呼んだら助かるかもしれない。どっちがお得かってね」
 なはは。
 知人は力なく笑う。冗談のつもりだろうが、笑えない。
 結局、救急車で病院に運ばれ、検査をしたら、肺炎が発症していた。すぐに入院。
 わたしは、翌日、24日の夕方に焼き菓子をもって見舞いに行った。
「おや、なんだよ。っつうか、こんな姿、やだなぁ」
 ベッドの背中をやや角度をつけて上げ、彼は週刊誌を読んでいた。
「元気になったとき、みんなの前で、あんときこうでしたって、証言するためには、現場を押さえておかないとね」
 わたしは、胸のなかに広がる不安をかき消すために、大法螺を吐いた。
 知人は、鼻にチューブを入れられ、両方の腕には数本の点滴の管が刺さっていた。もともと痩身だったが、しばらく食べ物が喉を通っていないらしく、骨が皮膚に浮かび上がっている。
「じゃぁな、わりいけど、下に行って売店で週刊誌を買ってきてくれ。昼間にうとうとすると夜に眠れなくてかなわねぇんだ」
 わたしは、見舞いの焼き菓子を小さなテーブルに置いた。
「えーと、サンデー毎日と週刊現代は読んだから、それ以外のやつ」
 頷いて、エレベーターに急いだ。4階から1階までがとても長く感じた。
 わたしの知っている先輩は、もっと溌剌としていた。
 職員会議で、校長や教頭に反対する考えを堂々と述べる姿は、有能な検察官みたいだった。こどもや保護者に圧倒的な人気を得て、卒業しても何年も生活の面倒を見ていることもあった。
 同じひとだと思えないほど、病魔は彼から精気を奪い取っていた。
 1階に降りて売店に行く。シャッターが閉まっていた。すでに営業を終了していた。仕方なく、病室に戻り、店がやっていなかったと告げ、30分ぐらい話して帰った。
 帰り道、病院の外のコンビニに行って、週刊誌なんか何冊でも買えばよかったと悔やんだ。

6906.3/3/2013
先輩 (1)

 知人が肺炎で入院した。
 知人といっても、わたしよりも10歳以上も年上の先輩教員だ。
 しかし、○○先生という呼び方をしたら怒る。
「そういうのはやめようぜ。俺はお前の担任じゃねぇ」
 そのひとは、クラスのこどもにも自分のことを先生とは呼ばせなかった。苗字のあとに「ちゃん」付けだった。
 タバコと酒をこよなく愛する。
「もう年なんだから、タバコは減らした方がいいよ」
 そんな言葉には耳を向けない。
「やーだね」
 2月の後半に風邪を発症した。なかなかだるさが引かないので、病院にいったら、立派なインフルエンザだったそうだ。
 風邪ではなかったのだ。
 その知人は定年を2年ぐらい残して、勧奨退職で辞めてしまった。
「いまさら、異動なんて、したくねぇし」
 退職理由だ。
 その後は、一転して、農地を借りて、ファーマーになってしまった。朝から自転車で畑に行って、野菜を作る生活を始めた。季節の折々に収穫物を配った。イモができたときは、畑でイモ煮会を催した。
 去年、久しぶりに会う機会ができた。それ以来、月に一度程度のペースで連絡を取り合っていた。
 2月23日は土曜日。携帯に着信履歴があった。
 わたしは、電話が好きではないので、だれかからかかってきても出ない。どうしても連絡をしたいひとは何度かかけ直してくるだろうとうぬぼれている。留守電に録音することもできるし。
 いつもは留守電にメッセージを吹き込む知人が、着信だけだった。
 大したことのない用事かなと一瞬思ったが、わたしには珍しくこちらから電話をかけ直した。
「おぅ」
 声に張りがなかった。
「火曜日から入院しています」
 ですます口調が似合わないひとなのに、そんな語尾を使っていた。
「入院って、なに」
 聴きなおす。

6905.3/2/2013
卒業まで1ヶ月 (2)

 小学校の特別支援学級を卒業するこどもの進路は3つある。
 中学校の通常学級への転籍。中学校の特別支援学級への進学。養護学校(特別支援学校)中等部への転籍。
 日本の初等教育では、同じカテゴリーの学校間移動は「転校」「進学」と呼ぶ。
 小学校の通常学級から中学校の通常学級へ卒業して入学するのは「進学」になる。
 同じように小学校の特別支援学級から中学校の特別支援学級へ卒業して入学するのも「進学」になる。
 しかし、小学校の特別支援学級から、中学校の通常学級や養護学校の中等部へ卒業して入学するのは、カテゴリーが変わるので「転籍」と呼ぶ。
 転籍するには、保護者の願いだけではかなわない。
 転籍が妥当かどうかを判断する教育委員会内の専門機関(多くは就学支援委員会と呼ぶ)で議論検討し、最終結果を待つ必要がある。
 実際には、小学校の特別支援学級から中学校の通常学級へ転籍するこどもはあまりいない。わたしの教員経験では担当したことはない。
 反対に小学校の特別支援学級から養護学校中等部へ転籍するこどもはいる。こどもの状態や、高校進学を考えたときに、受験が必要な普通高校を目指すよりも、高等部を併設している養護学校への転籍を保護者が望むのだ。
 神奈川県では、養護学校の絶対数が少ないので、養護学校への入学には療育手帳と呼ばれる障がい者手帳のランクが上位の者しか入れない。
 つまり希望はしても、あまり障がいの程度が重くない場合は、養護学校には入れないのだ。
 だから、小学校の特別支援学級を卒業するということは、その後の中学校や高校までも視野に入れないと決められないことなのだ。
 いま神奈川県では県立高校のうち3校が、中学校のときに不登校だったこども・学力が著しく低かったこども・何らかの発達障がいが認められるこどもたちに特化した高校を開校している。もちろん入試があるので定員を超えている場合は、入学できないこともある。
 そのほかには、養護学校が分室という形態で普通科の高校に部屋を設けて、療育手帳の下位のこどもたちを受け入れている。養護学校には入れないが、分室という異なる教育課程での学習を保障しようということだ。これはとても定員が少ないので競争率が高い。
 わずかだが、中学校の特別支援学級へ進学した場合の進路は開かれているが、まだまだ保護者が安心して高校卒業後の就労へつながる道筋はできていない。
 本来は、様々な価値観・タイプ・能力のこどもたちが同じクラスで生活し、学ぶことが望ましい。それを一つの尺度で評価しないで、多くの専門スタッフが常駐し、一人一人にあった教育を展開していくべきだ。国連では10年以上前に世界各国にそういう教育機会(統合教育・インクルージョン)を推奨するサマランカ宣言を発表している。しかし、教育後進国の日本では、その宣言の理想の姿にはまったく近づいていない。
 なぜだろうか。

6904.2/24/2013
卒業まで1ヶ月 (1)

 小学校の卒業式まで約1ヶ月になった。
 わたしは小学校の特別支援学級に勤務している。
 特別支援教育では、こどもひとりひとりのニーズにあった教育が求められている。できないことを押しつけるのではなく、できそうなことをより引き延ばす教育が必要なのだ。
 だから、教師と保護者がこどもの状態を話し合い、何がいまできそうなことなのか、それは将来にどうつながっていくのかを検討していく。
 そして、学年制がない。
 通常学級や養護学校では、学齢と呼ばれる学校独特の年齢区切りで学年集団を形成する。
 その年の4月2日生まれから、翌年の4月1日生まれまでが同じ学年になる。会計年度と似ているが1日だけずれている。理由があったはずだが忘れてしまった。
 しかし、特別支援学級には学齢の区切りはない。
 在籍するこどもは6才から12才まで、小学校に在籍する年齢すべてのこどもがいる。
 6才も年齢が異なると集団としてのまとまりよりも、家族や兄弟姉妹と似た集団が育っていく。必然的に年上の者が年下の者を大事にしていくのだ。
 そうはいっても、支援級のこどもはそれぞれに特徴があるので、一概に上級生が世話をして集団を引っ張るとは言い切れない。その年次によって集団の質は異なってくる。
 ことしの卒業生は2人いる。
 わたしはこの2人が入級(支援学級に入ること)したときから担任をしている。同じ時期にもう一人入級したので、このこどもたちの同期は3人だった。
 ひとりは5年生になるときに、支援学級から通常学級へ移動した。正式には「転籍」という。保護者の要請と本人の成長を総合的に判断して、市の就学支援委員会が了承し、転籍が可能になった。
 残った2人はそのまま支援学級で、来月の卒業の日を迎えようとしている。
 2人とも性格はとても穏やかで、とても仲がよい。以前は近所に住んでいたので、放課後にいっしょに遊んだこともあった。
 互いの親どうしも顔つながりがあり、休みの日にはいっしょに出かけることもあった。
 いま教室の廊下には、2人が入級したときからいままでの写真をパソコンでプリントアウトして掲示してある。
 小学校の6年間は、成人を過ぎてからの6年間と異なる。とくにからだの成長は目を見張る。身長は伸びる。体つきがしまっていく。表情が大人びる。
 あらためて写真で変化を比べると、とてもよくわかってくるのだ。

6903.2/19/2013
「さすけねぇ」坂の下の関所・17章 第一部「傷つく」

368

 赤坂が襲われた病院。
 自動ドアをくぐった田中は全速力でフロアを抜けた。外科の入院棟がある4階までの階段を一段抜かしで駆け上がった。
 それでも息を切らさなかった。
 廊下に出て、部屋のプレートを確認した。
 目指す407号室は廊下の突き当たりだった。
 部屋の前まで走り、大きく開いている入り口からなかをのぞき込んだ。右側に3つ、左側に3つのベッドが並んでいる。それぞれ天井からレールがつるされ、カーテンで仕切られていた。入り口に掲示されている患者のベッド位置を確認した田中は、もっとも奥の窓際右のカーテンを開いた。
「しまった」
 そこにはだれもいなかった。毛布がはぎ取られ床に落ちていた。テレビは消えている。枕元には田中が神崎に貸した文庫本が無造作に放り投げられていた。
 きびすを返して廊下に出る。
 田中はとっさに手近の非常階段に続くドアを開けた。踊り場に出る。下を覗く。
 螺旋状の金属階段は、真下で駐車場とつながっていた。
 見ると、グレーのスーツを着た男が楽々と神崎らしい人体を両手で抱え、黒のセダンの後部座席を空けていた。
「待て、このやろう」
 田中は猛然と階段を駆け下りた。途中で何度もつまずきそうになった。左回りに何度も回転するので、階段を下りながら目が回りそうになる。
 駐車場に駆け下りたとき、グレーのスーツの男が田中に気づき振り向いた。すでに男は運転席のドアを閉めようとしていた。
 車はエンジンをかけたと同時に急発進し、駐車場から消えていく。
 必死にナンバーを記憶しようとしたが、田中の目には末尾の7しか見えなかった。駐車していた場所まで走った田中は、そこでからだを折り、膝に両手をあてて口から飛び出そうな心臓が鎮まるのを待った。
 駐車場の向かいにある小さな墓地。
 迎え火が墓石の前で焚かれていた。そこから立ち上る白い煙が、炎天の高見に消えていく。降りしきる蝉の声音が、2010年の暑い夏を予感させていた。
 衆議院選挙が数日後に迫っている。

(第一部 了)

6902.2/17/2013
「さすけねぇ」坂の下の関所・17章 第一部「傷つく」

367

 泥橋が汗だらけのシャツをまくって団扇で風を内部に送る。
「ママさん、もっとクーラーの温度を下げてよ。これじゃ、ひからびちゃう」
「泥ちゃん、さんざんダマヤ電気でマッサージチェア体験をしているって聞いているわよ。そこでずっと涼んできたんでしょ」
 ダマヤ電気は大船にある家電製品の大型小売店だ。
「このひとはどこに行ってもマイペースだから、そのうちにどこからも出入り禁止になっちゃうわけ」
 元タクシー運転手の田中法然が大柄なからだで泥橋を見下ろしながら、焼酎のトマトジュース割を飲む。真っ赤な液体を喉に流し込む姿は、吸血鬼が生き血を飲んでいるようだ。
「田中さん、そんなこと言うけどね。まるで、どっかで見てきたみたいじゃん」
「だって、野田の湯の女将がいつも言ってるもの」
 自動ドアが開く。
 暖気が室内に割り込んできた。
 先日、40歳になったばかりの後藤三郎が、赤坂に肩を貸して入ってきた。赤坂は全身に力が入らないらしく、ときどきうめきながらよろよろしている。
「赤坂さん、どうしたの」
 田中がビールを入れるポリケースを裏返して、そこに赤坂をゆっくり座らせた。赤坂は背中を壁に預けて、ぎゅっとつぶった瞳をなかなか開けようとしない。
「サブちゃん、なんで」
 女将が後藤に事情を質問する。
「きょう、大船に買い物に行ってさっきちょうどバスで戻ってきたところだったんだ。そうしてバス停を下りたら、赤坂さんが病院の喫煙コーナーで倒れていたんだよ。声をかけたら返事をしたから、ここまで連れてきたわけ」
 後藤も、よく事情はわかっていないらしい。
「赤坂さんも、昼から飲んではいけないよ」
 少しだけ心配そうな顔をして泥橋が説教じみた台詞をはいた。
「ばかやろう」
 力なく赤坂が声を発した。まだからだのどこかが痛いらしく、表情をゆがめながら前屈みになった。
「俺は、カンちゃんの見舞いに行ってきたんだよ」
 ゆっくり、ときどく咳き込みながら、赤坂は見知らぬ男に襲われた経緯を話した。
「えー、それ警察に話した方がいいよ」
 連れてきた後藤が狼狽している。
「それより、まず会社に事情を伝えないと」
 女将はそう言って、道路をはさんだ首都リーブスに走っていった。
「田中さん」
 苦しそうに顔を上げた赤坂は近くにいた田中にだけ聞こえる声を出した。
 目でうなずいた田中は、赤坂の側で耳を近づけた。いくつかの言葉をつないでやっと赤坂が話し終えたとき、田中はやや顔を青ざめながら関所から走り出ていた。
「どういうこと、何があったの」
 後藤と泥橋が同時に叫んだ。

6901.2/16/2013
「さすけねぇ」坂の下の関所・17章 第一部「傷つく」

366

 鎌倉にお盆が訪れていた。
 観光化された町では、昔ながらの盆習慣は廃れていたが、多くの寺は檀家を抱えて迎え火のお経をあげていた。住職のなかには地元の檀家を直接訪ねて仏壇に手を合わせる者もいた。
 しかし、マンションの乱立で新しい住民が増えた大船地区や山崎地区では、各家々で迎え火や送り火をする習慣はほとんど見られなくなっていた。
 アスファルトから陽炎が立ち、全身の水分が蒸発するのではないかと思う昼下がり。
 関所近くの総合病院から、赤坂がよろよろしながら出てきた。
 数日前に交通事故でけがをした神崎を見舞った帰りだった。
 赤坂は、首都リーブスの下請け会社社員で研磨の専門家だった。62歳。酒焼けの肌はややどす黒い。古くからの関所メンバーで、買い物客も顔を知っていた。こどもたちにも愛想が良くて、地域のこどもたちの成長をよく知る一人だった。
 元々、面倒見がいいので、神崎の入院を知って、面会が可能になった日にすぐ昼休みを使って会社から見舞いに来ていたのだ。
 想像していたよりも、神崎の表情が明るかった。
 安心した赤坂は病院前の喫煙コーナーに入り、マイルドセブンに火をつけた。むせる。数日間、胃の奥からせり上がるような咳が続いていた。
 いきなり、喫煙コーナーのドアが開いた。
「赤坂茂さんだね」
 30代前半と思われる体格のいい男が詰問した。
「だれだ、おめぇ」
 一人暮らしをしながら、ほとんど飲酒を中心とした生活を送っている赤坂は痩せていて、骨のまわりに皮膚がついている。
「もう一度、聞く。赤坂茂さんだね」
 七三に分けた髪の毛をムースで固定し、黒のサングラス。黒のネクタイで白のワイシャツ、濃いグレーのスーツを着こなした男は胸板が厚く、身長は赤坂よりも10センチ以上は高かった。
「だったら、どうした」
 男はいきなり赤坂の指からたばこを奪い床に落として革靴で踏みつけた。連続動作で赤坂の胸ぐらをつかむと顔を寄せた。
「粉をどこに隠した」
 すごみのある声でささやいた。抵抗を試みようとした赤坂は頚が締め付けられ、手足の自由がきかない。
「知るか、んなもん」
 いきなり男の拳が鳩尾に決まり、赤坂はその場にうずくまり気を失った。

6900.2/11/2013
「さすけねぇ」坂の下の関所・17章 第一部「傷つく」

365

「阿久根真一(23歳)。父親は県会議員の阿久根政次。その長男で三角電気社員。35研究室で防衛機密事項を扱う。室長は山田朝雄(35歳)」

 真野の頭にインプットされた情報。
 その真一が、500万という高額依頼を持ち出したということは、おいしい仕事かもしれない。
 それでもわざと2日の猶予をおいて、真一に連絡をつけ、依頼を受けることにした。
 そして、きょう真一が事務所を訪れたのだった。
 階段の手すりに錆がこびりついた古い木造アパートに、真一は目を丸くしながら、真野という表札しかないドアをノックした。
 自室に入れてもなお不安と侮蔑が入り交じったような表情の真一に、真野は座布団を勧めて座らせた。
「探偵なんて言っても、所詮はこんなもんです」
 安心させようとしたが、逆効果だったかもしれないと後悔した。
 しかし、本当に驚いたのは真一から依頼内容を聞かされた真野だった。

 パパクアのカウンター。
 グラスのウイスキーを半分、ぐいっと喉に流し込む。真野は口を開いた。
「お宅の依頼は、さっきも言いましたが、犯罪すれすれというより、犯罪そのものなんだ。本当に実行していいのか」
 事務所でのやりとりで、すでに顧客と探偵という立場から共犯的な立ち位置になっていた。
 スーツの胸のポケットからラークを取りだした真一は、カウンターのマッチを擦って一服目を深く吸い込んだ。
「もちろん、わかってる。でも、あんたはやってくれるんだろ」
 鼻から煙を出しながら、真一も真野にため口を叩く。
 仕事内容を聞かなければ、500万円という高額収入は喉から手が出るほどほしかった。しかし、真一の依頼は調査ではなく窃盗だったので、真野は即答できなかった。
「もしも、俺は断ってあんたのことを警察に密告したらどうするつもりだったんだ」
 真一はウイスキーを口に含んで唇の端で笑った。
「俺だって、手当たり次第にこのヤマを頼もうとしていたわけじゃない」
「つまり、相手を選んで、ということか」
「あー、断れない事情がありそうな相手をね」
 一瞬、むっとした。しかし、真野は真一の言うことが真実だったので感情的にはなれなかった。
「これが事務所の見取り図だ」
 真一は内ポケットから封筒を出して真野に渡した。真野は、すばやく受け取り自分のバックにしまった。この店に2人以外はいないとしても用心に越したことはない。
 一瞬、マスターの五木は封筒に「三角電気」のロゴが入っていたのを瞳の端に留めた。