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6879.1/3/2013
books 2012

 かさなりステーションが選ぶ2012年のおすすめ。

★ハードボイルド部門

「川の深さは」(2012.8.4読了) 福井晴敏 講談社 2003年8月 648円

「 保と葵は逃げていた。元暴力団対策の警察官をしていた桃山は、警察を辞めてから、民間警備会社に勤めていた。ある夜、自分が警備しているビルに葵と怪我をした保が逃げ込んできた。 「自分と同じ目をしている」  そう感じた桃山は、保の怪我の手当をして3日間、ビルで面倒を見た。しかし、3日目の朝になって二人は姿を消していた。かつて自分が担当していた地域のやくざが同じように二人を捜していることに気付いた桃山は、その頃のつてで金山というやくざと会う。金山から聞かされた話は、本当はやくざも関わりを持ちたくない危ない頼み話に親分が乗っているというものだった。  陸上幕僚部。市ヶ谷駐屯地の地下深くで、警察の公安とも内閣の調査部とも異なる情報活動に従事するだれにも知られない組織があった。通称在日CIA。アメリカからの極秘の依頼を受けて、北朝鮮が日本を侵略するというシナリオを未然に防ぎ、国防の必要性を高める計画が進行していた。  しかし、その計画はベルリンの壁の崩壊、ソビエトの崩壊などによって中止された。さらにその計画に関係していた協力者たちを抹殺する命令が出された。命令の実行者だった保が、結果的に命令を無視して逃亡したのだ。そのときに、日本侵略計画が記録されたフロッピーを手にしていた。そのフロッピーには、計画の実施を総理大臣が許可した認証が含まれていた。だれの目にもそのフロッピーを見せたくない市ヶ谷の上官たちは、必死になって保を捜し、フロッピーの回収を命令していたのだ。その一翼をなぜかやくざが担うことになった。  かつては保とともに訓練を受けた涼子は、いまは上官の佐久間とともに保を追いつめる立場になっていた。涼子は、桃山が二人をかくまったことを知り、接近をはかる。桃山は涼子の指図のままに保を危険にさらした。 「これはあんたが預かってくれ」  桃山は、保にフロッピーを渡された。  やがて、保は葵をかくまいけがをさせた金山の親分を見つけ暗殺する。事前に金山と連絡を取り合っていた保は、そこで大芝居を打って、金山とその後の計画の連携を計る。金山はすべてを桃山に話し、自分といっしょに北朝鮮へ渡らないかと誘う。休みの日に横浜で偶然会った涼子とデートの約束をしていた桃山は金山からの申し出を断る。その夜、自宅に戻った桃山は佐久間とその部下にフロッピーごと拉致された。  市ヶ谷の地下でフロッピーの解析が始まった。暗唱番号の解析が進んだとたん、フロッピーから放たれたウイルスがすべてのセキュリティマシーンをダウンさせた。市ヶ谷に忍び込んだ保は、葵を無事に北朝鮮に逃がすために爆弾を爆発させて、アパッチヘリを盗む。行きがかり上、いっしょになった桃山はアパッチに乗って北朝鮮に逃げる葵と金山を救おうと日本海へ向かう。それを待ち受ける護衛艦「こんごう」。海上に落水した桃山の目前で、保は「こんごう」に体当たりして葵らの逃亡を助けた」

6878.1/2/2012
books 2012

 2012年に63冊も読んだのは佐伯泰英さんの本だ。
 吉原裏同心シリーズ全17冊。坂崎磐音シリーズ全40冊。夏目影二郎シリーズ6冊。
 よくもまぁ同じ作者の本を読み続けたと思う。
 さらに佐伯さんはほかにもシリーズものを多く出版している。年またぎになる本として密命シリーズを読み始めた。
 どのシリーズも、この世のものとは思えない超剣客が主人公だ。この主人公はどんな悪党を前にしても決して怖気づいたり、逃げたりしない。その代わり、女性には縁がなく、色恋沙汰には鈍感だ。
 また、どのシリーズにも美人の助演者が登場する。みんな名前こそ違うが、明らかに佐伯さん好みの女性と思われる。
 なかでも圧巻なのはいまなお物語が完結しない坂崎磐音シリーズだ。
 とくに33作品目の「孤愁ノ春」はショックで読み終わったあとで呆然とした。
 それまでの磐音シリーズは読み終わったときに爽快な気持ちになった。あーよのなかはやはり悪党は滅びるのだと嬉しくなった。しかし、この作品では磐音の義父としてシリーズ当初から登場していた佐々木玲圓夫妻が自決してしまう。
「嘘だろう」
 読みながら、思わずつぶやいてしまった。

「田沼一派の謀略によって次期将軍候補の家基が殺された。家基の次期将軍着任を願い、田沼一派からの攻撃の盾になっていた尚武館は閉門が命令された。その夜、佐々木礼圓とおえいは自害した。亡骸を磐音はひとりで田沼一派からの墓荒らしを恐れ、密かに礼圓存命のときに教えられた墓所に埋葬した。ふたりの遺髪を胸にして、磐音はおこんとふたりで今津屋別邸の小梅村御領から旅に出る。いずれ田沼一派の刺客によって自分たちが狙われることを察知していたのだ。船を使って小田原まで逃げ、箱根山中を歩き通し、磐音は徳川家発祥の地を目指す。そこには佐々木家本家の菩提寺があった。そのことを知った田沼の側室であるおすなは、磐音を生かしておく限り、田沼に平穏は訪れぬと、将軍警護の花畑番を使って暗殺集団を追っ手に送り出す。弥助と霧子の奮闘で、磐音とおこんは暗殺集団を分散させ、頭の陣内と雹とのみ対決する。磐音の剣で、陣内は散ったが、雹は姿を消し、戦いがこれからも続くことを示唆した。佐々木家菩提寺の住職の言葉により、磐音は佐々木姓を捨て、坂崎姓に戻ることを決意した。 (2012.10.27) 双葉文庫 2010年5月 648円 」

6877.1/1/2013
books 2012

 百田尚樹さんの本も2冊読んだ。「海賊と呼ばれた男(上下)」「モンスター」だ。
 昨年、「永遠の0」を読んで涙が止まらなかった。太平洋の海に散っていった多くの若い戦闘機乗りたちの悲しみと苦しみ。戦争を始め、戦争に負け、その責任を逃れることしか考えていなかった将校たちにはらわたが煮えくり返った。
 同じ系列の物語が「海賊と呼ばれた男(上下)」だ。しかも、この物語は実在の人物の伝記的小説なのだ。おそらくほとんどが事実だろう。出光興産の創始者の波乱万丈の物語なのだ。

「国岡商店の国岡鐡造は明治18年に生まれた。実在の人物だ。貧しい家で育ちながらも当時新しいエネルギーとして注目を集め始めていた石油の販売に未来への活路を見出していく。まだまだ石炭全盛の時代に、原油を精製し、灯油や軽油を作り、販売する独自の方法を確立していった。太平洋戦争では戦艦や戦闘機のエンジンはほとんどが石油を燃料とした。しかし、日本国内で算出する石油ではとてもこれらを動かすことはできない。国岡は戦争へと突入していった軍部の無謀さを憂う。東南アジアの油田を抑え、一気に戦況を優位にする作戦に失敗して以降は、負けるべくして負けたと国岡は判断した。それでもアジア各地に支店を作り、現地人を採用して、国岡商店の名前はアジアで大きく広がっていた。戦後はGHQと一部の石油大手会社に支配された業界から飛び出し、多くの規制を突き破って単独の民族会社としての地位を確立していく。出勤簿はない、定年はない、解雇はしないという家族主義的な国岡の考えを慕って多くの有能な社員が集結していく。サンフランシスコ講和条約以降は、アメリカのメジャーと呼ばれる大石油資本(セブンシスターズ)に呑み込まれた日本の大手石油会社を敵に回して、多くの戦いを挑み続けた。国岡商店は、出光興産のことだ。国岡鐡造は創業者である。日本人とは、ひととして生きることとは、いかなることかを、部下に問い続けた男の一代記だ。(2012.12.23) 講談社 2012年7月 1600円(上・下) 」

 現在も、多くの産業にアメリカ資本は介入している。銀行、保険会社、流通、小売業など、わたしたちはアメリカ資本からものを買う。その代金はドルに換えられて日本からアメリカに流出している現実を知らなければならない。
 そんななか官僚の天下りを一切受け入れず、アメリカ資本との提携を拒否し続けた出光興産という民族会社の大きさに圧倒された。

6876.12/31/2012
books 2012

 堂場瞬一さんの本は2冊読んだ。「第四の壁」「虚報」だ。
 アナザーフェイスシリーズ第3作の「第四の壁」は、主人公の大友鉄が、演劇の道をあきらめて警察官を志した若い頃の動機が描かれていた。

「警視庁刑事総務課の大友鉄は、息子の優斗と義母の聖子とかつて鉄が所属した劇団の記念公園に招待された。「夢厳社」は鉄が大学時代に所属していた劇団だ。当時はアマチュア集団だったが、いまはプロ集団としてチケットが取りにくい。劇団創立20周年を記念した芝居「アノニマス」。それは鉄が大学時代に演じた作品のリメイク版だった。第一幕のラスト、主人公が胸にナイフをつき立てて死ぬ。緞帳が下がる。だれもが演技だと思った。しかし下がった緞帳の向こう側で、主人公は本当にナイフを胸につき立てて死んでいた。主人公を演じたのは、劇団の主催者の笹倉逸朗だった。混乱する劇団員に助けを求められて鉄が舞台の中止と現場保存の指揮をとる。笹倉は鉄が所属した当時から、自分にもひとにも厳しい存在だった。だから、劇団員の多くが何らかの恨みを笹倉に抱いていた。つまり、笹倉が自殺していない限り、容疑者は劇団員すべてだったのだ。かつての仲間を容疑者として取り調べる鉄は、冷徹な刑事になりきれず、取調べでは私情が混じってしまう。「お前はどうして劇団を辞めたんだ」「安定した道を選んだのか」「夢を捨てたんじゃないのか」。かつての仲間たちから、多くの指弾を受け、鉄は傷つく。そして、第二の事件が起こる。そのストーリーはまるで「アノニマス」の脚本のままの流れだった。それでは、次にターゲットになるのは看板女優だ。鉄をめぐって、大学時代に奈緒と争った看板女優、早紀のいのちが危ない。(2012.3.30) 堂場瞬一 文春文庫 2011年12月 676円 」

 東野圭吾さんの本も2冊読んだ。「聖女の救済」「ガリレオの苦悩」だ。ともに天才物理学者湯川を主人公にしたガリレオシリーズだ。長編大作は「聖女の救済」だが、わたしは短編集の「ガリレオの苦悩」のうち「操縦る」が記憶に残っている。若い学生時代の湯川が世話になった元大学教授が殺人犯かもしれない物語だ。あえて湯川に自分が犯人だとわかるヒントばかりを残す理由がわからない。

「操縦る
湯川が学生時代に世話になった元教授が教え子たちを自宅に招いた。その席で離れ家で爆発が起こり、火災が発生した。なかからは教授の一人息子の他殺死体が発見された。日本刀のような鋭利な刃物が心臓を貫通していた。かつてメタルの魔術師と言われた教授の犯行を湯川は確信した。しかし教授は湯川にまるで自分が犯人だとわかるヒントばかりを与えた。湯川にはその理由がわからない。(2012.4.7) 東野圭吾 文春文庫 2011年10月 648円 」

6875.12/30/2012
books 2012

 2012年に読んだ87冊の小説を書いた著者は、五十嵐貴久・伊坂幸太郎・逢坂剛・今野敏・佐伯泰英・堂場瞬一・パトリシア コーンウェル・濱嘉之・東野圭吾・百田尚樹・福井晴敏の11人だ。
 そのうち63冊が佐伯泰英さんの本だった。
 年間を通じて、頭の中は江戸時代の剣客物語が占めていた。
 ほかに複数冊読んだ本を振り返る。
 伊坂幸太郎さんの本は5冊読んだ。「陽気なギャングが地球を回す」「陽気なギャングの日常と襲撃」「ゴールデンスランバー」「重力ピエロ」「ラッシュライフ」。昨年に初めて「オーデュポンの祈り」と「終末のフール」を読んで、やや興味をもった。
 ことし読んだなかでは「ゴールデンスランバー」が記憶に残る。

「青柳雅春は、宅配のドライバーをしていた。そのとき、たまたま荷物を届けた家で強盗をやっつけて住んでいたアイドルを救った。当時、その話題はワイドショーを席巻した。取材のためにメディアが会社や仕事先を訪れ、多くのひとに迷惑をかけた。そのうちに青柳のもとに嫌がらせとも思える誹謗中傷も届く。「お前、あのアイドルとやったのか?」。青柳は仕事を辞めた。そんなとき、大学時代、同じサークル「食文化研究会」のメンバーだった森田が会いたいと電話をしてきた。東京で仕事をしていた森田は仙台に異動になった。ふたりで仙台の町を行く。車の中で森田は青柳に睡眠薬を飲ませて眠らせた。その時間帯に、新進気鋭の総理大臣、金田が仙台の町をパレードしていた。若手の金田は多くの老獪な国会議員を追い越して首相の地位を手に入れていた。パレードの車がテレビ中継される。空からリモコン操縦のヘリコプターが近づいた。金田の頭上でヘリコプターに搭載された爆弾が爆発した。金田は夫人もろとも爆死した。睡眠薬の効き目からさめたとき、青柳は首相暗殺の犯人にされて、得体の知れない「警察官」たちに追われることになる。「俺にも借金があってさ、家族もいるし、ごめんな」。泣きそうな顔で森田が青柳を売ったことを告白する。理由がわからないまま、車を飛び出す。背後で森田を乗せた車が爆発した。自分は首相暗殺の犯人として殺されるところだったのか。次々と青柳を追い詰める警察官たち。自分は犯人ではないと叫んでも叫んでも、相手は信用しようとはしない。たどり着いた考え。自分は犯人にされているということだ。どうせ、犯人としてつかまるなら、テレビを通じて無実を訴えてからにしようと決意した青柳は、思い切った作戦に打って出る。アメリカのケネディ暗殺をベースにした物語。国家権力の陰謀を壮大な物語として再現した。(2012.7.23) 伊坂幸太郎 新潮文庫 2007年12月 857円 」

 身に覚えのない罪を国家がひとりの国民に押しつけるとき、ひとはとても弱い存在として逃げ惑うことしかできないのか。ありえない話ではないと感じた。

6874.12/29/2012
books 2012

 わたしはことし87冊の小説を読んだ。
 昨年が46冊、一昨年が61冊だったから、飛躍的に読書量が増えた。それはひとえに佐伯泰英作品との出会いが大きい。
 時代小説でいくつものシリーズものを出している佐伯さん。それをたくさん購入していた知人がごっそり貸してくれたのがきっかけだった。
 オンタイムで文庫本を読むと次が出版されるまで数ヶ月は待つ。しかし、過去に発行されたシリーズものを手にすると、次から次へと読むことができる。だから、シリーズものを読み始めてからは一気に読んでしまった。

 ことし最初の本は逢坂剛さんの「しのびよる月」だった。

「警視庁御茶ノ水署生活安全課保安二係の斉木斉(さいきひとし)係長と梢田威(こずえだたける)。二係はふたりしかいない。ふたりは警部補と巡査長という上下関係だが、小学校の同級生。下町の小学校開校以来の秀才と言われた斉木と、全校一の悪太郎と言われた梢田。小学校時代は、梢田が斉木をいじめぬいた。しかし、同じ警察に勤務して立場は逆転していた。御茶ノ水署が管轄する地域で起こる事件を、ふたりの刑事が解決する物語。このふたりはもともと仕事をする意欲も犯人を追い詰める活力もない。できれば仕事から逃げ、何事もないまま終日を過ごし、管内の飲食店でただ酒を飲むことを唯一の楽しみにしている。課長の辻村にはいつも雷を落とされている。「裂けた罠」「黒い矢」「公衆電話の女」「危ない消火器」「しのびよる月」「黄色い拳銃」の6篇が収録されている。拳銃を持った強盗に「警察だ、拳銃を捨てろ」と迫る梢田。強盗が拳銃を発射し、びびる。「警察というのは嘘です」と開き直る斉木。すべてに渡ってふたりの行動は、ちぐはぐでコミカルだ。小学校時代の恨みをちくちくとはらそうとしているかのように斉木の梢田いびりが効いている。(2012.1.6) 逢坂剛 集英社文庫 2001年1月 590円 」

 御茶ノ水署シリーズと呼ばれる一連のシリーズものの第一作だ。その後「配達される女」「恩はあだで返せ」「俺たちの街」の4冊を一ヶ月内に読んだ。

6873.12/28/2012
学校教育の多様化へ

 憲法では、6歳から15歳までの9年間を義務教育期間にしている。
 ほとんどこの期間をカバーするのが、小学校と中学校だ。
 義務教育期間は、保護者がこどもに教育の機会を与える義務を負う。
 そのために、行政は、必要な学校を用意している。
 しかし、義務教育期間の小学校と中学校は、あまりにも画一すぎて、選択肢がほかにない。中学校と高校を一つにした中高一貫校ができたが、小学校にはほかの選択肢がない。

 多様化は、内容を異なる別の教育機会を用意し、保護者やこどもがそれを選択できる権利を持たなければ実現化しない。
「そんなもの必要ない」
「どうして、そんなものが必要なのか」
 いまさら、そんなことを言うひとがいたとしたら、あまりにも能天気な生き方をしすぎている。理由は自分で調べてほしい。

 ゆとり教育の弊害としてこどもの学力が低下したという非科学的な論理で、かつての詰め込み型授業が復活した。
 一斉指導、知識の詰め込み型指導によって、多くのこどもが学習への意欲をなくして、学校に行くことがいやになった時代を忘れたかのようだ。
 ふたたび不登校のこどもは増加へ向かうだろう。
 きっと教育行政の責任者たちは、いまの学校に不満なら自分で勝手に勉強しろとでも思っているんだろう。家庭にそれだけの経済的な余裕があるならばかまわない。しかし、経済的に恵まれていないこどもは、どうすればいいのか。
 学校に行ってわけのわからない勉強を一日中叩き込まれる。叩き込まれても、何も理解できない。テストをすれば0点ばかり。勉強ができない、家が貧しいと、周囲から差別され、隔離され、無視されていく。学校へ行くことがつらくなって、家庭に引きこもる。親はあわてる。力ずくで学校へ行かそうとする。親子の関係が冷めていく。
 一部のエリートを育てる教育を安倍政権は目指していくだろう。
 大多数の落ちこぼれたちは、徴兵制度によって最前線の危険な場所に送り込めばいいと考えているのだろう。

 学校教育を多様化しなければ、こういう時代はすぐそこに迫っている。

6872.12/27/2012
学校教育の多様化へ

 2012年冬の衆議院選挙で大勝した安倍自民党政権は、公教育に関して中央の統制を強める計画がある。これまで知事や市長にとって邪魔な存在だった教育委員会を無力化しようという計画だ。
 一般のひとは、教育委員会の役割をあまり知らない。
 これは戦後に導入されたアメリカの教育制度の一部だ。
 アメリカでは州ごとに教育法が異なる。公立学校に関する予算の使い方や、学習内容が州によって異なるのだ。それを憲法が認めている。
 アメリカ建国の歴史を振り返ると、南北に分かれて殺し合いをしたほどの国家なので、中央政府による統制には強く反発する気質があるだろう。だから、公教育については、住民による投票によって選ばれた教育長が、委員を集めて、教育委員会を組織して、自主独立の教育を実施する。結果について責任を負うので、次の選挙で落選することもある。
 日本でも戦後に教育委員会制度が導入されたばかりの時期は、教育長や教育委員の公選制が実施された。しかし、自民党などの保守政権にとって、教育委員会が住民の代表ではやりにくい。なんだかんだと条例を作って、公選制度は消失した。
 いまの教育委員会は、教育基本法・学校教育法などに規定された公教育制度を全国津々浦々まで行き渡らせるための事務的な職務が中心になっている。その教育委員会を支えるために役所の中には教育委員会事務局が存在する。学務課、指導課、保健課、給食課、施設課などに分かれている。
 だから、いまの教育委員会は住民の願いを実現する組織ではなく、法律どおりの学校教育を遂行する役所的機構の一部なのだ。  戦前の日本では学校教育が多くのこどもたちを戦争へ駆り立てた。こどもたちは天皇のこどもと教えられ、赤子と呼ばれた。赤子は天皇のために戦い、天皇のために死ぬことをもっともすばらしい生き方と教えられた。その教えを信じ、多くのこどもたちが少年や少女のまま戦地に赴き「天皇陛下、バンザイ」と叫んで死んでいった。
 これは、軍部の方針が政府を動かし、政府の方針が文部省から各学校に命令され、実現した。
 戦後の日本国憲法では、学校教育への政治の介入を禁止している。
 戦前の苦い経験から、同じことを繰り返してはいけないという誓いの証だ。
 現在、大阪の橋下氏や安倍氏のようなひとたちが、教育委員会を邪魔者扱いするのは、教育長や教育委員に気概のあるひとがいるからではない。
 教育委員会という制度が、忠実な法の執行機関になりすぎて、市長や知事など権力者の思いのままにならないことが多いからなのだ。
 公然と公職選挙法に違反して、告示期間後のインターネット情報を更新した橋下氏は「あんな馬鹿げた法律に従う必要はない」と、弁護士とは思えぬ発言をして、自己正当化している。

6871.12/25/2012
学校教育の多様化へ

 いまの日本の公教育は、税金が投入されているという意味では公立学校も私立学校も同じくくりだ。私立学校は補助金がカットされたら経営が成り立たなくなる。
 国立大学は、一応、独立行政法人として法人格を授けられたが、運営費はほとんどが税金だ。
 日本のように私立学校でありながら、国から補助金をもらっている国は少ない。
 金をもらうということは、国の政策に従うことを意味している。だから、私立学校を建学した精神が脅かされることを恐れて、多くの国の私立学校は補助金をもらわない。
 そのかわり、アメリカのように企業や個人資産家からの多額の寄付を受けつけている学校は多い。
 自分の富をよのなかに再分配することで、社会に尽くし、神に感謝するという強い宗教心が背景にあるという見方もある。その一面を否定はしない。しかし、アメリカのように寄付行為が会社の必要経費として認められる税制が大きく影響しているのも確かだ。
 つまり、ある会社が年間の収支決算で1000億円の収入を得て、800億円の支出があったとしよう。200億円が利益になる。国はその利益に対して税金をかけてくる。日本の場合は60パーセントぐらいの課税率だと思った。アメリカでは、その200億円のうち100億円を慈善事業として各団体や学校に寄付したとする。するとそれが必要経費として認められるので、残りの100億円が課税対象になる。仮に100億円の課税率が10パーセントだったら、日本の会社よりも利益が多く残ることになる。社会に貢献できて、かつ利益も多く確保できるわけだ。
 日本では寄付行為が必要経費として認められていないので、多くの資産家や大企業は寄付という利益を捨てるような行為はやろうともしない。
 けちに見えてしまうのだ。

 一枚の写真がある。
 2012年秋に、わたしが担当している小学校特別支援学級のこどもたちとみかん狩りに行ったときの集合写真だ。15人のこどもがカメラを見てそれぞれの表情をしている。
 ピースポーズのこども。キャップのひさしを後頭部に回して笑顔のこども。首をかしげたこども。舌を出しているこども。あらぬ方角を見つめているこども。うつむいているこども。両手をだらりと出してお化けポーズのこども。
 みんな表情やポーズは異なるが一枚の写真のなかで、ともにみかん狩りを共有している。
 それぞれ脳の成長に何らかの特徴をもつ。話し言葉が出ないケースもある。
 ひとりひとりの違いを認め合い、それぞれにあった学習計画を作成し、学校が保護者と相談しながらできることをふやしていく。特別支援教育の基本にある考え方は、公教育全体に対してもあてはめていい時期にさしかかっている。

6870.12/23/2012
クリスマス

ヨセフとマリアがユダヤのベツレヘムにいる間に、マリアはお産の日が満ちて、男の初子を産んだ。そして、その子を産着でくるんで飼い葉桶に寝かせた。

ルカ2章6節から7節

 毎朝出勤の時にニッポン放送のラジオを聴いている。
 6時25分頃になると「こころのともしび」という日本カトリック教会がスポンサーの番組が始まる。
 今月は「毎日がクリスマス」というテーマで、おそらくカトリック教会と深いつながりがあるひとたちの説教が説かれている。
 番組の最後に、賛美歌のソロがかかる。それをバックにして、冒頭の聖書からの引用が読まれる。
 キリストが産まれた日をひとはクリスマスとして祝っている。
 日本のように、サンタ−クロースがやってきて、宗教の分け隔てなくプレゼントをする習慣は珍しい。とくにキリスト教信仰の強い地域で、そんなことを暴露したら笑われるだろう。日本のクリスマスは、バレンタインと同様に、経済団体の強い要請と企画によって根付いた商品戦略だ。
 聖書のなかには、正確にはキリストの生まれた日付は記されていないという。
 だから12月25日が誕生日というのはあやしい。
 しかし、キリストだって誕生日はあるはずなので、古代信仰の太陽神が産まれた日とされる12月25日を誕生日にしたという説が一般的なのだそうだ。
 いまや日本のクリスマスは完全におとながこどもにプレゼントをこっそり贈る不思議な習慣として定着してしまった。幼子は本当にサンタクロースなる外国人の老人がやってきて、プレゼントをくれると信じる。ある程度の年齢になるとサンタクロースの正体がわかるが、それでもサンタクロースを信じているふりをする。真実を告白すると、翌年からプレゼントがもらえないかもしれないからだ。そして、サンタクロースはなぜかあるときから来なくなってしまう。
 いつまでもこどものままでいたいというピーターパン症候群が誕生する。
 そもそもおとなが用意するプレゼントをこどもが受け取ったときに、用意してくれたおとなに「ありがとう」の一言もない無礼な習慣だ。どうして、それをだれも問題にしないのだろうか。