6859.11/25/2012
衆議院議員選挙
民主党が政権をとっても、マニュフェストを実行できなかったものが多いのは、民主党に結集したメンバーが、思想信条で結集したのではなく、反自民という旗印に旧自民関係者が結集してしまったからだ。
すべての民主党議員がかつて自民党に所属していたわけではないが、そういうひとでも自民党を離党したひとが結党した政党から立候補して議員になったひとが多い。
11月15日になって、民主党から離党者が相次いだ。
ほかの政党に鞍替えして衆議院選挙に臨むという。まさに「勝ち馬に乗る」ひとたちだ。
そこには、政権公約や有権者への誓いといった政治家としての矜持がまったく感じられない。こういうひとたちが、ひとたび当選しマイクを向けられて語る「国のかたち」や「政治の夢」に説得力がないのは当然のことだ。
自民党・公明党・民主党ではない第三極として、東京都知事を任期を残して辞職した石原新党(太陽の党)、みんなの党、日本維新の会などが大同結集する可能性がある。
それぞれが掲げる考え方には異なりがあるのに、小異を捨てて団結しようとしている。
反自民、反民主の集合体だ。
3年前に反自民で結集した民主党と同じやり方を繰り返している。
このほかに、反原発の旗印で新しい政党ができようとしている。
また以前、小沢元民主党代表が離党して結党した「国民の力が第一」も一定の勢力を保っている。
自民党、民主党、団結するであろう第三極。これら保守勢力には共通するポリシーが欠けている。政治家個々人が利益共有のために同じ党員であるだけだ。だから、利益の恩恵にあずかれないと判断したら、かんたんに飛び出していく。
これに対して、公明党、社民党、共産党や反原発の旗印でできるであろう新党(みどりの風というらしい)は、共通の考え方で集まったひとたちだ。だから、利益の共有ではなく、考え方の共有を尊重する。やや閉鎖的な傾向があるのは仕方がないだろう。
このように今回の衆議院選挙は、多くの政党が乱立し、単独過半数を得る政党はいないだろう。選挙が終わってから、連立与党を組んでいく過程で、どことどこがくっつくかによって、ポスト野田のかたちが決まってくる。
核兵器保有、原発推進を宣言する日本維新の会が政権与党の中核を担うようになると、尖閣諸島や竹島が引き金になって、自衛隊は韓国軍や人民解放軍と戦端を開き、ふたたび戦時体制へと社会が突入していく可能性がある。太陽の党は、いまの日本国憲法を廃止して、軍隊の保有を正当化した自主憲法の制定を目指している。ふたたび天皇を中心とした枢密院制度が復活し、軍国教育が高らかに学校現場を席巻するかもしれない。
それもこれも有権者の一票によって決まるのだ。
6858.11/24/2012
衆議院議員選挙
11月16日に衆議院で野田首相が解散を宣言した。
首相には、衆議院を解散する権限が与えられているので、自らの判断で解散を宣言することにはまったく問題がない。
しかし、野田首相を首班指名した民主党の議員のなかには、解散に反対する議員が少なくはなかった。与党にあって、同じ議員の説得を試みることなく、民主党の代表でもある野田さんが、政局を優先させたかたちに見える。
民主党からは、離党者が現れた。
次の選挙は民主党候補では勝てないという政治判断ゆえだろう。
まったく有権者のことなど考えていない。
思えば戦後長く続いた自民党を中心とした日本の内閣が、民主党にとって替わってから、首相はころころ替わった。しかし、衆議院を解散することはなかった。
だから、今回の選挙は民主党政権に対する有権者の意思表明の選挙という意味合いがある。
自民党も公明党も強く政府に解散を求めていた。
それは、選挙をすればふたたび自分たちが政府与党に返り咲けると考えているからだろう。しかし、現実はどうなのか。
投票日と言われている12月16日の天候が投票率に影響を与える。
日本の有権者は、選挙とか投票に関して骨抜きにされているので、ほとんど投票をしない。その結果、創価学会の政治団体である公明党や、多くの企業経営者からの寄付で政策を決めてきた自民党など、投票を団体単位で動員できる政党が票を伸ばす構図になっている。
12月16日が好天の場合、多くの有権者はレジャーに時間を費やし、投票行動はキャンセルするだろう。
12月16日が曇りや雨の場合、レジャーをキャンセルした有権者が仕方なく投票所へ行くかもしれない。
12月16日が荒天の場合、多くの有権者はずぶ濡れになってまで投票しようとは思わないので、家でじっとしているだろう。
つまり、浮動票と呼ばれている既存政党が予測できない有権者票は、選挙当日の天気が曇りから雨のようなときにのみ、どこかの政党に上積みされる。
そんなことでいいのか。
有識者や進歩論者は嘆くかもしれないが、それが現実だ。
こんなことではよくないと思うのなら、そうならない工夫を示さないといけない。
だから、わたしは最近の選挙は投票日ではなく、期日前投票に行くことにしている。自分の都合に合わせて投票できるので、とてもリスクが少ない。
6857.11/23/2012
2匹の猫
ことしの秋に入って、ハッピーの老化が目立ち始めた。
一日中、お気に入りの毛布から動こうとしない。
あまり食べ物も好まなくなり、どんどんやせていった。
そのうちに、排便がうまくできなくなり、室内のトイレ以外の場所に便を垂れ流してしまうようになった。これは排便をしているのではなく、肛門の力が落ちて、便が自然に流れ出てしまうのだ。
動物病院の医者は、大腸炎と診断したが、老化でもあるので、劇的に完治するものではないと言った。
ひとでも老人になると、紙パンツをつけて尿や便の漏れに気をつける。
ハッピーもそんな年齢になったのだ。
びっくりしたのは、猫用の紙パンツがあったことだ。しっぽの部分に穴が空いていて、後ろ足とお尻をくるむようにはく。猫は排尿や排便の後に舌でなめてきれいにするが、それができないので、紙パンツを取ろうとした。しかし、慣れとはおそろしいもので、何度もつけていると、動物の本能としての動作よりも、紙パンツのお任せしようみたいな態度が見られるようになった。
老齢のハッピーが、来年の春を迎えられるかどうかはわからない。
でも、最期の瞬間まで家族の一員として大事にかかわっていきたい。
体重が2キロを切って、毛がなければほとんど骨と皮しかない体格になってしまった。
それでも自分の身長よりも高いところへジャンプし、ときにはひとの目を見て「ニャー」となく。
娘猫のホックも、いまは元気だが、母猫のハッピーがいなくなったら、急に老けてしまうのかもしれない。こちらも年齢は14才。娘とはいえ、猫としてはだいぶ長く生きた。
6856.11/20/2012
2匹の猫
拙宅には2匹の猫がいる。
2匹とも雌だ。
親猫はハッピー。15歳になった。
娘猫はホック。14歳だ。
ハッピーは、知人が野良猫に餌付けをして産ませた猫だった。たくさん産んだのでわけてもらった。もともと野良猫生活をしていた親の影響が強くて、ひとへの警戒心が強い子猫だった。
最初、わたしは猫を飼うことに反対した。
こどものときからたくさんの生き物を飼ってきた。犬、四十雀、セキセイインコ、うずら、亀、鯉。わたしの親が生き物を飼うことが好きだったのだ。
しかし、その世話をさせられるわたしにとっては、必ずしも「好き」だけで片付けられない面倒臭さを感じていた。また、必ず訪れる生死の分かれは、とてもつらかった。
「猫を飼うって言っても、これから長い時間をともにするのだから、遊びじゃない」
わたしは、猫を飼いたいという小学生のこども2人を前に話した。
「エサをあげたり、トイレの世話をしたり、やんなきゃならないことがたくさんある。そういう面倒をみるのは大変なことなんだ」
2人のこどもは瞳に涙を浮かべながら懇願した。
「絶対に、自分たちで最期まで面倒をみるから、お願い、飼わせてほしい」
15年前、わたしはまだ父親としての先見性に欠けたのだろう。そんなこどもの願いにこころを揺さぶられ、猫を飼うことに賛成した。
しかし、その後、思春期に入っていったこどもたちが、どんどん猫の世話から離れていくことを、当時のわたしは気づかなかったのだ。
ハッピーは白血病だ。
猫には珍しいことではないらしい。
たった1年で親になったハッピーは、一晩で数匹のこどもを産んだ。しかし、翌朝まで生きていたのは、ホックだけだった。ほかの子猫はハッピーが食べてしまった。そういうことも珍しいことではないと聞いて、驚いた。
近所の動物病院で、ハッピーとホックが妊娠しないように手術してもらった。生き物の本能をコントロールすることには抵抗があったが、このまま毎年子猫が産まれてはかなわないと判断した。
6855.11/18/2012
逗子ストーカー殺人
いまは大学生を対象とした大学主催の就職説明会に親が参加するという。なかには親の参加を義務づけているところもあるという。
こどもの自立とは、精神的な自立が重要だ。
何でも親の精神的支配下にあると、苦労や苦痛、苦悩や挫折を親がフォローしてしまうので、立ち直ることや切り替えることを知らないで育ってしまう。精神的に未熟な脳のまま30代を迎えて、社会生産活動に従事しても長続きしないのは当然だ。困ったら対処できないのだ。のこのこ親が出てくる。会社は解雇するだろう。
笑えない話だが、公務員でも行政処分の内容に不服を申し立てるとき、親が登場するケースがあるそうだ。
精神的自立が遅れたひとは、逗子のストーカー殺人犯人のような心理状態に陥りやすいだろう。自分がふられることを認められず、裏切った相手をとことん追い詰め、自分が味わった苦しみを相手にも同じように味合わせることをねらう。
恋愛をしていたのではなく、恋愛ゲームをしていたのだ。ゲームに負けた腹いせとしてストーカー殺人へと発展していく。そして目的を達成した後に、自分が生きる意味がなくなり自らもゲームオーバーへと舵を切る。
ひとを大事に思う気持ち。
自分を犠牲にしても、ひとを大切に思う気持ち。
我慢や忍耐の連続でも、ひとを愛し続ける気持ち。
お互いにそんな気持ちで結び合うふたりなら、いつか別れのときが訪れても、運命のいたずらを呪いながらも、相手という生きた存在を傷つける選択肢はもたないだろう。
政治家に多いものの考え。
どんなに自分が悪いことをしても謝らないタイプ。失敗を認めないタイプ。
こういうタイプが恋愛をするとストーカーと同じ心理状態になるのかもしれない。
これからの恋愛は、つきあいを開始するときに確認する必要がある。
「もしも、別れのときが来ても、お互いに別れの理由は聞かないこと。そして、別れたあとは、お互いを傷つけるようなことはしないこと。必要がない限り、連絡は取り合わないこと」
実印でも押して、念書を用意すべきだ。
6854.11/17/2012
逗子ストーカー殺人
2012年11月。
逗子市で30代の女性が40代の男に殺された。刃物で何度も刺されて殺された。男は近くで首を吊って自殺した。
二人は以前交際していた。
しかし、女性から交際を終了させた。男はふられた。
直後は、男がしつこくつきまとい、女性は警察に相談した。
その後、女性は別の男性と結婚した。名前と住所を変え、男から離れた。警察は男を脅迫容疑で逮捕し、送検した。裁判で、執行猶予付きの判決が確定した。
男は、神奈川県警の事情聴取の過程で、女性が逗子市に住み名前を変えていることを知った。神奈川県警の捜査官は事情聴取を読み上げるときに、何の配慮もなく、結婚して名前を変えた女性の名字と現在の住所を告げていた。
執行猶予期間に、男はその情報をもとに女性の居場所を突き止めた。
ことしに入り、1000件以上の脅迫メールを男は女性に送信した。女性はふたたび警察に相談したが、メールはストーカー防止法の規制対象に入っていないという杓子定規な解釈で被害を認めなかった。電話やファックスではなく、メールだから問題にならないという法解釈は疑問だ。今後、メディアを通じて非難が集中するだろう。
そして、女性は男に刺し殺された。
刺し殺した男は社会的制裁から逃げるように自殺した。
失恋を苦にして自殺するひとがいる。
愛するひとを失う悲しみや、自分のどこがいけなかったのだろうと自分を責める気持ちが重なって、生きる希望を見失ってしまうのかもしれない。
しかし、ひとが生きている価値はひとに愛されているとかひとを愛しているというものだけで決まらない。夢を追いかけているとか、理想の実現に奮闘しているとか、多くのひとに役立っているなど、「あなたとわたし」以外の生き方も大切な要素だ。
失恋の苦しみから立ち直るために、やけ食いもいいだろう。やけ酒もいいだろう。衝動買いもいいだろう。気持ちの切り替えを自分なりの方法でやって、新しいあしたへ一歩を踏み出すしかないのだ。
反対に失恋を苦にして、それまで愛していた相手を苦しめようとするひとがいる。
その考えは許されない。その行為も許されない。
恋愛は始めるのも終了するのも自由という前提がないと、ひとは昔のように親が決めた許嫁とのみ結びつく生活に戻らなければならない。
逗子で首を吊って死んだ男は女性が別の男性と結婚したことを「契約の不履行だ」と批判した。恋愛はそもそも契約ではない。それを契約関係と認識していた男には、恋愛をする資格も価値も魅力もなかったことを女性は見抜けなかったのだろう。
「あんたなんか嫌い、あばよ」
恋愛の終了は、そんなもんだ。
6853.11/13/2012
田中文相による大学設置不認可
大学設置審査会が来春の開校を認可した3つの学校法人に対して、田中文相は不認可の決断をした。
「国内には大学が多すぎて、教育の質を低下させている。これ以上の大学が必要だとは思わない。以前から大学設置のあり方には疑問を抱いていた」
文相の論理である。
何年も文相を勤め上げ、その都度、大学設置についての私見を主張し、設置審査や認可基準について、対案を用意してきたひとならば、新しい設置認可に対して慎重になっても問題はないかもしれない。
しかし風前の灯火の「在庫一掃内閣」とまで揶揄された改造で、転がってきた大臣のイスにラッキーにも座った田中文相の発言は、個人の思いで国政を混乱させる衝撃が大きすぎた。
たしかに国内には高等教育機関としての大学数が多すぎる。そして、経営的に成り立たなくなっている大学も多い。それとともに学生の学力低下が叫ばれ、大学卒業では就職できない時代に突入している。多くの学生が大学院を目指し、修士として社会人を目指す。
こどもの期間が延長され、自立した社会的個人の誕生が遅れていく。
学力をたっぷりつけることと、早くから親元を離れ、社会の常識を習得して、少ない稼ぎながらも自分の生活を成立させることのどちらが重要なのか。
こどものいる労働者は、給料の多くをこどもの学費や教材費、生活費に消費する。とくに高校や大学の授業料は、給料の多くを使わなければならないほど高額だ。なかには教育ローンという商品まである。
つまりどんなに学生の質が低下しても、学生が集まる限り、大学は産業として成立するおいしい分野なのだ。
2012年11月7日、田中文相はそれまでの発言を撤回して、3つの学校法人に対して大学設置の認可を与えた。一度不認可にしたものの、周囲からの批判や非難に耐えきれなくなったのだろう。しかし、撤回の記者会見では一度も謝罪の言葉は聞けなかった。
6852.11/12/2012
横浜市教育委員会、成績表事前渡し...2
そうなのだ。
こんなに成績作業を事務的にするなら、教員は指導と試験までを業務として、試験結果の集約や分析、成績の固定と保護者への知らせは、事務作業なのだから専門家に依頼すればいい。そうすれば、ミスは起こりにくくなるかもしれない。
2012年11月6日の新聞によると、横浜市教育委員会は、多くの批判を受け、通知表の事前確認を中止すると発表した。
わたしの認識が異なっていたが、実際には夏休み前にすでに事前確認を実施していたそうだ。その結果、多くのミスが発見されたそうだが、なかには成績内容についてのものも含まれていた。
「なぜ、この成績なのか」
「これは事前確認だから、実際に渡されるまでにどうすればこれ以上の成績に上げることができるのか」
また、保護者からの意見として、学校としての責任を放棄しているのではないかというものもあったという。
教育委員会の指示に対して、ほぼすべての学校が従っていた。しかし、ほんのわずかな学校では「その必要はない」として事前確認を実施しなかった。
横浜市のように教育委員会や市長の権力が絶大なところでトップダウンに従わない気骨あふれる教職員が所属する学校があることを知って、少し嬉しくなった。
それにしても、教育委員会のやり方には疑問が残る。
今回の措置は、教育委員も知らない事務方で考案され、実施された後に、教育委員に報告されたものだったという。だから、教育委員のなかには事前確認に反対する委員もいた。
教育委員会の名前で実施した政策が、当事者である教育委員そのものが知らない内容だったという珍現象が起こっていた。
6851.11/10/2012
横浜市教育委員会、成績表事前渡し...1
2012年秋、横浜市教育委員会はあまりにも学校での通知表にミスが多かったことを受けて、終業式以前に保護者に通知表を渡し、出席日数や成績について事実誤認がないかどうかの確認をとることを決めた。
呆れた。
通知表の作成が手作業からパソコンを使った作業に変わったことで、多くのミスが発生しているようだ。
わたしはいまでも手作業でこどもの成績管理をしているので、誤字脱字のミスはあっても、他人の出席日数や成績を通知してしまうというミスは起こりにくい。ひとりひとりの名前が書かれた通知票を手にして、そこに文字や数字を記入するので、意識の中に「いま・だれの」通知表を作成しているかが明瞭なのだ。
成績を一括管理するソフトというのは、印刷まで担当してくれるのだろう。だから、教員が数値を入力するときに、資料から誤った数値を入力したら、その誤りに気づきにくい。
これは教科ごとの成績をあまりにも数値にしやすいテストで評価しているから起こることではないか。ノートの提出、漢字の書き取り、計算問題など、多くの項目の能力をすべて数値で表そうとする。するとパソコンソフトの画面上には数字ばかりが並んでいく。
こどもの能力は商品の営業管理のように扱われるものではない。
数字ばかりの羅列からは、ひとりのこども像は浮かんできにくい。
多くの保護者が成績の出し方は全国共通と思っている。
しかし、とくに小学校の場合はまったく違う。
学校内でも統一した基準は設けられていない。
ときには学年内でも基準が担任間で異なることもある。
小学校の成績は、中学進学の参考にならない。多くの公立中学校に進学するこどもは、小学校の成績によって入学の可否が決まることはない。だから、小学校の成績を統一した基準で厳格につける必要は生じない。
私立学校を受験するこどもへは小学校時代の成績を送るが、私立中学校側は公立小学校から送られてきた小学校時代の成績を参考にはしない。入学試験結果に重きを置く。
だから、教員の主観が成績作業に大きく影響を与える。
保護者が「そんなはずではない」と思っても、担任の考えが優先されてきた。しかし、教員の主観を限りなく客観に近づける方法として、統一した内容のテストを使う試験方式が広まり、その結果、数値の洪水のなかで教員が作業をミスすることになった。
6850.11/6/2012
教員志望のあなたへ...9
それは、研修や研究会であれば、主催者が教育委員会であれ、民間であれ、出張として認められていたからだ。だから、高い参加費は私費で払っても、往復の交通費が出張扱いで保証された。これは、助かった。県外で開催される研究会は多い。そこに宿泊つきで参加することが可能だったのだ。
しかし、自民党や公明党の圧力で文部省は、教育委員会が主催する研修会や研究会のみを公費負担とし、それ以外はすべて研修や研究会とはみなさないという通達を全国の教育委員会に出した。
バブル崩壊前後だったと記憶している。
これにより、多くの民間教育団体は参加者を失う。もともと営利を目的とした団体などほとんどなかったので、あっという間に研修の機会はなくなってしまった。
当時の教育委員会は、文部省の意思を学校現場に伝達する中間機関にすぎなかった。
それでもわたしは教員になってからの10年間ぐらいをどっぷりと民間教育団体主催の研修会や研究会で過ごすことができた。そのなかで出会った全国の輝く教員たちの実践に触れ、いつか自分もあのようなひとたちに一歩でも近づきたいと思いを熱くした。
いま教員になりたての若者のなかには、とても自尊心が高いひとが多い。
教員としての技術は未熟なのに、こどもを上から目線で抑圧する態度が鼻につく。
技術が未熟な者ほど、往々にして、自分の立場を振りかざして周囲を従えさせようとするのはよのつねかもしれない。しかし、学校ではそれではいけない。こどもたちがそんな教員を見ながら、いつかおとなになったときの手本にするかもしれないからだ。
いくつになっても、教員を何年も経験しても、こどもから学ぶ姿勢を忘れないことが必要だ。残念ながら、保護者のなかには「あなたはまだこどものままだ」と言いたくなるひとが増えてきた。親であるという自覚よりも、自分の人生を全うしたいという欲求が優先される種族だ。そういう種族はこどもを産まないでほしい。産まれたこどもには親を選ぶ権利がないのだ。もう一つ、自己責任という概念をはき違えて理解し、こどもの失敗やつまづきを支えない種族だ。「全部、こどもに任せていますから」が常套句。こどもに代わって、過失を補う気持ちは爪の先ほどもない。
これから教員を志望するあなた、こういうおとなたちと渡り合っていく覚悟をお持ちください。
(教員志望のあなたへ・第一部終了)