top .. today .. index
過去のウエイ

6829.9/11/2012
坂の下の関所・16章...358

 晴れた日曜日。きのうでこの夏の関所食堂は閉店していた。
 わたしは、早朝6時半に近所のマンション前にいた。いっしょに社会人野球チームを作っている諭吉さんが車に乗せてくれるというのだ。
 諭吉さんといっしょに作った野球チーム。名前は「爺(じじぃ)」。40歳以上のメンバーで作る壮年の部というカテゴリーに入っている。どう考えても読売ジャイアンツを意識したとしか思えないユニフォームの左胸に燦然と「爺」の漢字が縫いつけられている。試合の時以外では絶対に着たくない。
 試合は10時からだったが、練習をするという。
 近くの中学校の校庭を借りて7時から8時半まで練習をした。早朝とはいえ、校庭の温度は30度近かったのではないか。砂埃と汗が試合前のユニフォームを汚した。
 ふたたび諭吉さんの車で試合会場へ移動する。
 センターを守る。見上げると空は青く、雲がない。
 高校時代を思い出す。低空を赤とんぼがよれよれ飛んでいた。
 試合は6対3で勝った。体中の水分が失われてしまったのではないかと思うほど、汗をかいた。わたしは、次の試合の審判をするとい諭吉さんを残し、早めに帰るひとの車に乗せてもらい、関所近くで降りた。
「はぁ、行ってきました」
 自動ドアをくぐる。エアコンの冷気が気持ちいい。
「よ」
 大将が、レジからこちらを見る。
「野球をやってきました」
 汗しかしみ込んでいないタオルで頭や顔を拭く。
「よせよぉ、こんな炎天下に」
 中学時代や高校時代にスラッガーとして鳴らした大将は、炎天下の野球がどれだけつらいかを知っている。
「だって試合時間は向こうが指定してくるんだもん。それより生をお願いします」
「あーあー、痛風まっしぐらだぁ」
 冷えたジョッキを傾けながら、大将は呆れる。
 一杯目はほとんど水のように一気に飲み干してしまう。
「もう一杯お願いします」
「お前なぁ、少しは味わえって」
 この一杯が欲しくて、炎天下を耐えていたのだから。おっともう二杯目だった。

 ロンドンオリンピックは終わっていた。
 パラリンオリンピックが始まろうとしていた。
(16章・完)

6828.9/9/2012
坂の下の関所・16章...357

 商品名を「サクサク王子」というらしい。
 スナップエンドウのような豆かもしれない。食べたときの食感が、水っぽくなくて、しゃきっとしているから、名前がついたのだろう。
 そのサクサク王子をたくさん田中さんからもらった若女将が、料理の腕を発揮して作ったのが、冷製スープの「ビミソワーズ」だった。もちろん、ジャガイモの冷製スープ「ビシソワーズ」のもじりだ。
 いつも夏は暑いのだろう。
 しかし、ことしの夏はとくに暑いように感じた。年齢を重ねたせいかなぁ。
 そんなときに、一瞬の涼を呼ぶ若女将お手製のスープは、喉にやさしく体温を少し下げてくれたような気がした。
「そうそう忘れるところだった」
 わたしは荷物のなかから、ペットボトルを二本出した。
「けさ作った一番出汁です」
「え、いいの」
「ことしも食堂を開店させてくれたお礼です。いろいろとご迷惑をおかけしました」
「そんなこと、気にしなくてもいいのに」
「こっちは、田中さんへのです。もしも俺がいないときに来たら渡してください」
 8月後半の日暮れは少しずつ早くなっていく。
 まだまだ空気は熱気をまとって、ちょっと動くと全身から汗が出る。昔から季節は、少しずつ変化してきた。その少しずつの変化を日本のひとびとは柔軟に生活のなかで受け止めてきたのだろう。
 自動ドアが開く。
 仕事帰りのドクター佐藤さんが登場した。
「こんにちは」
 ゆったりとした歩みで、いつもの奥の冷蔵庫近くに荷物を置く。
「お久しぶりです」
 横浜の病院に勤務する佐藤さんは、休日や研究会の日を使って、福島や長野など遠隔地の病院に応援に行っている。
 いつもは秋田の高清水を飲んでいるのに、きょうは奥からほかの銘柄の一升瓶を持ち出してきた。
「築地のジャコを持って帰ろうと思って」
 そうだ、そうだ。まだ佐藤さんに買い出し荷物が届いていなかったのだ。
「今回はキロ4000円のがやや湿っぽかったので、佐藤さんがお好みの乾いていてうまみがしみ込んでいるもう少し安いのにしてきました。だからお釣りがあります」
 日本丸大という築地魚市場場内仲卸で小魚や干したものを専門で扱っている店で、わたしはいつもジャコを買う。そのジャコを以前に佐藤さんに紹介したら、すっかりお弁当の定番になって、いまでは家族が競ってお弁当に入れていくという。

6827.9/8/2012
坂の下の関所・16章...356

 観音食堂。
 わたしはひとり暑気払いを続行した。
 背中で泥ちゃんがどんなに自分の今後を嘆いても、一斉同調せず、参加せず、反応せず、ビールを飲み干した。
「あの、これ、あそこのお客さんからです」
 お姉さんが生ビールのジョッキをわたしに寄こした。
 あそこの、手を向ける先には泥ちゃんがいた。
 わたしは、片手をあげて礼をした。
 これは、熟女との密会を黙っていてくれという口止め料だと判断したのだ。
 江戸っ子の粋な心意気。わたしは江戸っ子ではないが。
 ひとしきりゆっくりしたので、観音食堂をあとにした。会計を済ませるときに、ちらっと泥ちゃんと目が合った。目礼をして店を出たが泥酔の泥ちゃんに伝わったかどうかはわからない。
 大船。
 駅ビル「ルミネ」の本屋で新刊本をチェックして、仲通を歩く。
 その足で、銭湯の野田の湯に行く。
 たっぷり夏の汗を流して、太陽が傾きかけた時間に関所の自動ドアをくぐった。
「こんにちは」
「まったく暑いしか言葉が出ないわ」
 若女将がクーラーの効いた室内でなおもうちわで首を扇いでいる。
「ビミソワーズを作ったの、食べてみる」
 ビシゾワーズは冷製ジャガイモスープだ。ビミゾワーズなんて料理は聞いたことがない。奥から若女将が器に入れた緑色の冷たいスープを持参した。わたしはスプーンでスープを口に運んだ。
 口の中で緑色のスープが広がる。豆の味がしたが、具体的な野菜の名前が出てこない。
「おいしいです」
 豆の甘みと旨みが塩味とマッチして、夏バテ防止に役立ちそうだった。
「さて、この野菜は何でしょうか」
「いきなりクイズですか」
「先生も食べたことがあるよ。春に」
 わたしには、まったく思い出せなかった。
 それは、農業を志す田中さんが、春に大量に関所に持ち込んだインゲン豆の一種類だった。

6826.9/2/2012
坂の下の関所・16章...355

 晴れた土曜日。この夏の食堂最終日だ。
 月曜日からは仕事が始まる。日曜日は野球の試合で食事を作っている暇はない。
 だから、土曜日が最終日。
 わたしは、約3週間にわたって店の一角を食堂として提供してくれた関所にお礼をこめて、早朝から和出汁を作った。昆布、鰹節、どんこでそれぞれに作った出汁を合わせる。黄金色の液体だ。醤油の合わせ具合で味が作りかえられる。
 大きなペットボトルに関所用とたくさん野菜をくれた田中さん用を作った。
 キッチンに香りが立つ。携帯電話のバイブレータがふるえた。メール着信だ。

「おはようございます。私の方こそ、昨日は失礼しました。連絡してから伺えば良かったですね。でも、久しぶりにお話できて良かったです。ごちそうにもなり、関所の方々のご配慮に感謝です。おかげさまで、気持ち良く帰りました。改めて、ご都合の良い時に関所で飲みましょう。よろしくお伝えください。それでは、また」

 きのう関所を訪ねてきた教え子の千代田くんからのメールだった。
 りっぱなおとなになっていることが文面からわかった。
 わたしには、それだけで十分だった。彼の長い人生で、わたしがかかわったのは小学校4年生の1年間だけだ。10歳。たった1年間だけでも、彼の記憶に少しは残って、いまもつながりを維持してくれていることがわかった。
 それ以上は何も望まない。

 昼は大船で観音食堂に入った。
 いつもはラーメンなどで軽く済ますのだが、きょうはゆっくりできる最終日なので、ひとり暑気払いをしようと思った。
 カウンターに座る。読みかけの本を出す。
「生ビールとブツ、厚揚げね」
 顔なじみのお姉さんに注文した。
 ビールをちびちび飲みながら、本のページをめくる。聞くとはなしに、背中方向から客の話声が聞こえてくる。
「まったくさぁ、年金なんて、これっぽっちももらえないんだよ」
 どこにも年金受給に不満をもつひとがいるのだなぁ。
「それでも、これからの若い世代を考えると、まだ俺なんて60歳からもらえるから恵まれているんだけどさ」
 そうか、このひとは定年を迎えるのか。
 なんだ、自慢をしているのか。それなら小声でしゃべればいいのに。
「一日二万くれるバイトがあったら、嘱託なんてやんないんだよ」
 そんなバイトあるわけないだろ。
 あん、この声、この言い方、どこかで聞いたことあるぞ。同じことを飲み屋でしゃべって、みんなで総攻撃をかけた。泥ちゃんだ。まさかね。
 わたしは、ゆっくり後ろを向いた。
 座卓。熟女を前にして泥橋さんが演説をぶっていた。わたしに気づき、座卓に顔を埋めた。反対にお尻が見えた。
 たぶん、わたしよりも先にいたのだろう。わたしが気づかなかったのだ。

6825.9/1/2012
坂の下の関所・16章...354

 金曜日。わたしは仕事を休んで日帰り温泉に行った。
 もうすぐ終わる夏を前に、からだの調子を整えておこうと思った。風呂からあがってくつろいでいると携帯電話に関所からの着信履歴があった。
 かけなおす。
「もしもし、何かありましたか」
 大将が電話に出た。
「おぅ、緊急事態、緊急事態発生」
 親父に何かあったか。
 でも、もしそうなら関所から電話があるとは思えない。
「もしもーし、センセーですか」
 声が大将から別人に代わっていた。
「はぁ」
「千代田ですよ、覚えていますか」
「えー、千代田くん」
「そうです、千代田です」
 わたしが教員になった1985年。葉山の小学校で最初に担任した4年2組の教え子だ。当時は10歳だったはずだから、もう40歳を目前にしているだろう。
 そういえば、フェースブック上でわたしが関所の話題を出したときに千代田くんが「何時からやっていますか」と質問をしたことがあった。あれは、自分が行くつもりだったのか。
「久しぶりだね」
「突然、こちらにお邪魔しました」
「あー、ごめん。俺はそっちに行けないんだ」
「えー、若女将から聞きました」
 どうやら説明してくれたらしい。 「いま仕事はどうしているの」
「江戸川なんですよ」
「え、住んでいるのは」
「いまも葉山です。小学校の近くに住んでいますよ」
「じゃぁ、きょうは大船で途中下車したわざわざ関所まで行ってくれたんだ」
「えーまぁ」
「でも、きょうの仕事はどうしたの」
「午後、休暇を取ったんです」
 とても申し訳ないことをした。
 再会を願って電話を切った。でも、その日の帰り道、この仕事のだいご味を味わっていた。教え子の自立を促すのがこの仕事の目的だとしたら、千代田くんの自立を達成させた気持ちがしたのだ。休暇まで取って、かつての担任の住む町を訪ねた。見知らぬ町だ。その見知らぬ関所という酒屋を探し出して、たどり着いた。しかし、そこには担任はいなかった。何らかの事情を説明して、生ビールを飲んだのだろう。
 ひとりで生きてゆく。その手助けは、教え子と担任の関係が終わってからも続くのかもしれない。

6824.8/17/2012
坂の下の関所・16章...353

 木曜日。朝から熱気が山崎の谷戸をくるんでいた。
 早朝5時半に、わたしは東京の築地魚市場に買い出しに出かけた。だいたい2カ月に一度、近所に住んでいる築地の師匠であるお母さんと娘さんと築地に行く。お母さんは60歳過ぎまで築地の仲卸として、マグロ専門店で魚臭い男たちに混ざって、卸のセリで冷凍マグロをせってきた経験がある。
 築地は、全国から良質の品物が集まる。それだけ東京は大消費地なのだ。地元ではどんなに良質でも値段が高くつかない品物でも、築地に送れば高く売れる。商品の流れは自然と地方よりも中央のほうが良質なものが集まるようになる。
 8月の買い出しは、生ものの保存が効かないので、知り合いからの注文が少なかった。
 関所からは中落ちとサク。ドクター佐藤からはジャコ。神崎さんからは海苔。鳥藤からは中落ち。そして、泥ちゃんこと泥橋さんの中落ちだった。
 6時半から2時間ぐらいをかけて買い物をした。わたしは、いつも築地で買うものがある。鰹節、ジャコ、海苔、千鳥酢、ハラペーニョソース、それに今回はハバネロとかんずりの合わせソース「雷」を買った。どれも保存が効くものばかりだ。千鳥酢は酢のものだけでなく、オリーブオイルと併用するとまろやかなドレッシングが作れる。近くのスーパーでは400ミリリットルで600円もするが、築地なら一升瓶で1000円だ。
 9時半には山崎に戻った。11時半ごろに関所に頼まれた品物を届けに行った。
 お母さんたちと買ってきたものでランチをして昼寝をした。
 夕方の4時半ごろに野田の湯に行く。5時過ぎに鳥藤に中落ちを届けた。
 甚平を着て、バリカンで頭を丸めたわたしの姿を見て、鳥藤の常連である花田さんが驚く。
「いやぁ、どうしたの。その頭」
「ちょっと出家しようと思って」
 鳥藤のママが「お疲れさまでした」と生ビールをサービスしてくれた。風呂上がりの一杯を喉に流し込む。
「あなたがいると、なんか華があるねぇ」
 それって、ほめられているのかな。
「なんちゅうか、後光が差しているみたいな」
「そんな言われると、照れちゃうよ」
 花田さんは、ずっと前から退職したらアマゾンにこもって生活すると宣言している。その前に宝くじをあてて、資金を稼ぐとも。しかし、まだ資金のめどがたったという報告はない。
「俺も、背中に懐中電灯をくくりつけようかな」
「それって、なに」
 ママがカウンターの向こうから突っ込む。
「後光だけに、あやかりたいと」
 わたしは、ジョッキを飲み干して立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「あれ、もう行くの」
 花田さんはもう少し話をしたそうだった。
「これからお布施を集めに行かないと」
 冗談を言って暖簾に手をかけた。

6823.8/29/2012
坂の下の関所・16章...352

 ふだんは、きっと坂の上に住んでいて、大船と家を往復するとき、関所は素通りしているのだろう。
 アルコールは買うだろうが、量販店に車で乗り付け、箱ごと買うのかもしれない。
 町の酒屋は、常連客が多く、見知らぬ若いひとがビール一本を買うのに寄るというのはあまりない。
 自動ドアが開く。
 また、知らない若夫婦が登場した。
 ビールの冷蔵庫の前で銘柄を確認している。夫が周囲で立ち飲みをしている客に気づく。
「ここで飲んでもいいんですか」
「どうぞどうぞ、座れませんが」
 レジで若女将が生ビールをふたりに注ぐ。
「いやぁ、以前からここを通るたびになかでみんな何をしているんだろうって気になっていたんですよ」
 妻がほほえむ。
 以前は、もう少し大船に近いところに住んでいた。最近、坂の奥にできた宅地に引っ越した。それで、ここを通勤のために通り過ぎるようになった。
 酒屋のはずなのに、なかでは陽気な笑い声や話し声がはじけている。不思議だなぁ。
「うちはねぇ、地域の方々が気軽に立ち寄れる店を目指しているんですよ。ここに来て、話して、少し元気になって帰ってくれたら嬉しいなぁって」
 若女将がここぞとばかりに宣伝を担当する。
「これ、どうぞ」
 食堂のメニューを提供する。きょうのメニューは蒸し野菜だ。
「えー、つまみもあるんですか」
 サービスの充実ぶりに、ふたりはとても驚く。
「あら、じゃぁわたしからも」
 奥に戻った若女将は、築地のいりこで作った肴を持参した。
「うわぁ、至れり尽くせりですね」
 ビールで上気した妻が感動する。
「お勤めはこの辺なんですか」
 だれともなしに、ふたりに質問が集中する。
「いえ、千葉なんです」
「えー、毎日、ここから千葉まで通勤しているんですか」
「はい」
 総武線を使えば乗り換えなしで行けるとはいえ、千葉は遠い。もっと職場に近いところに住むという選択肢もあるだろう。
「ぼくらは、ふたりとも、もともとここの人間ではないんです。でも、たまたまここに住んでみたら、とても住み心地がよくて、職場は遠いですけど、住む場所としてはここかなって」
 いえいえ、関所で立ち飲みをしたら、その瞬間から、あなたたちはここの人間になったも同然です。

6822.8/27/2012
坂の下の関所・16章...351

 日曜日。きのうは雷と急な豪雨で嵐のような一日だったが、ふたたび入道雲がわく暑い夏に戻った。
 4時半に起きて、空を仰ぐ。早朝だというのに、もう体中にじっとりと熱気がまとわりつく。
 わたしは家の脇にずっと放置していた桜の幹を庭に運んだ。以前、家のとなりが駐車場だった。その中央に大きな桜の木があった。駐車場を壊して、宅地造成するときに、その桜の木も根こそぎ伐採された。造園のひとに頼んで、そのときの桜の木を50センチぐらいに切ってもらい、手に入れた。
 いつか、庭の腰掛けにしよう。
 そのときは気楽に考えていた。
 しかし、時間の経過とともに、その桜の存在を忘れてしまう。その結果、雨風にさらされ、内部はすっかりシロアリの巣となった。
「何とかしてほしいんだけど」
 家人に言われ、この夏に処分しようと思っていた。連日の猛暑で昼間に作業をするのは危険だと判断し、この日の早朝に決行することにした。
 幹の周囲をのみで削る。すっかり腐った桜の皮は、彫刻を削るように簡単にはがれていく。その皮のなかにたんまりとシロアリが巣くっていた。皮をはがし、芯の部分をのこぎりで切った。直径が30センチぐらいあったので手動ののこぎりで切るのは力仕事になった。
 全身が汗だくになった。
 シャワーを浴びて、朝からエビスを開ける。
 食堂の料理を作り、関所に運ぶ。大船に買い物に行き、昼食をとる。午後3時頃、野田の湯に行き、筋肉痛が始まりかけた腕をほぐす。
 この夏の日課をゆっくりと過ごしていく。
「こんにちは」
 風呂上がりのわたしは、額から汗が噴き出している。
「おぅ」
 大将がレジで迎えてくれる。
「生をお願いします」
 わたしは、クーラーから冷えたジョッキを出して、大将に渡す。
「まったくぅ、痛風まっしぐらだなぁ」
 それでも、汗をかいた後のこの一口がたまらない。
「あら、いらっしゃい」
 奥から若女将が登場した。家の仕事をして、店の仕事もこなす。商人の家で働くというのは、日常が忙しい。こちらの贅沢が申し訳ない。
 自動ドアが開く。
 お盆期間中なので、ふだんは顔を出さないような近隣の住民がビールや酎ハイを買いに来る。見たことのない若夫婦だ。
「信じられへん」
 わたしがジョッキで生ビールを飲んでいるのを見て、夫が驚く。
「酒屋かと思ったら、飲んでる」
「うちは、立ち飲みできるんですよ。お客さんもいかがですか」
 すかさず、若女将が情報提供をする。

6821.8/26/2012
坂の下の関所・16章...350

 泥橋さんは、右に左に揺れながら、わたしに近づいてくる。
「な、な、何ですか」
「だからさぁ、注文するって言ってるの」
 うー、にんにく臭い。
「いくつですか」
 少しずつ後退しながら、泥橋さんが30センチ以内に入らないように距離を保つ。
「いくつがいいかな」
「一袋、1050円です。だいたい800グラム。中落ちですよ」
「知ってるよー、それぐらい。中落ちって、一番うまいとこじゃん」
 たぶん、ミンチみたいになった粘土みたいなマグロをイメージしているのだろう。
「じゃぁ、3つちょうだい」
「3150円だよ。前払いです」
「えー」
 そう言いながら、ポケットのなかの小銭を探す。
「きょうは持ち合わせがないから、あしたね」
 そんなことだろうと思ったよ。
「わかりました。でももしも前払いをしてくれなかったら、買ってこないからね」
 実際にはそういうわけにはいかない。予約をしてしまうので、こっちがかぶらなきゃならない。そのときはそのときで、知人でほしいひとがいたら売ればいい。
 時計が5時になった。
「鳥藤に行ってきます」
 うんと若女将が頷く。鳥藤に築地の注文を聞きに行くことは、若女将にはわかっている。
「センセー、なに、これから焼き鳥かぁ。俺も行っちゃおうかな」
 行かなくていいです。
 こころで叫んで、背中で無視。
 天神下というバス停の向かいにある焼き鳥屋「鳥藤」。ママがひとりで切り盛りしている。
 もともと肉屋だったので、市場で買ってくる肉を見る目は一品だ。気に入った肉がないと買ってこない。
「お久しぶりです」
「いらっしゃい」
 ママは炭を起こしながら、笑顔で迎える。
「また、築地に行くので、中落ちをどうするかなっと思って」
「そうねぇ、2ついただこうかしら」
 起こした炭を脇に避けて、ママは封筒にお金を入れて渡してくれた。

6820.8/25/2012
坂の下の関所・16章...349

 段ボールにマジックで、注文を書く。
「とりあえず、中落ちは3つね。それからサクが5000円分」
 関所マークを書いて、マグロの注文を書いた。
 マグロだけは、お店の仕入れの関係から、一週間前に電話で予約を入れる。毎日、セリではマグロを落としている。しかし、おなかを切ってみて当たりと外れがある。予約しておくと、もっとも当たったマグロの中落ちやサクを保管しておいてくれるのだ。
 自動ドアが開いた。
 額から汗を流す泥橋さんが登場した。
「あれ、泥ちゃん、早いじゃない」
「冗談じゃないよ、こんな暑くちゃ、仕事なんかやってられないっちゅうの」
 すでに、泥橋さんには数リットルのアルコールが入っている様子だ。
「また、休んじゃったんですか」
「センセー、人聞きの悪いこと言わないでよ。俺なんか、もうすぐ定年だから、有給があまっててさ。たくさん働きたくても、会社が、ヤスメーヤスメーってうるさいんだから」
 相変わらず、世界が自分中心に回っているらしい。
 わたしは無視をして、マグロの注文表を作成する。
「あれ、センセー、何やってんのよ」
 いろいろ説明するのが面倒なので、さらに無視をする。
「センセーね、ときどき築地に買い出しに行くのよ」
 やさしい若女将が、泥橋さんをフォローしてあげる。

「築地って、あの築地か。タコとかイカとか売ってる」

 それもあるだろうが、まずはマグロだろ。
「それで、みなさんからの注文を受けて、まとめて買って来てくれるのよ」
 酔っ払い相手に、とても手短に説明してくれて、ありがとう。どうせ、何もわかっちゃいないと思うけど。
「よし、その話、乗った」
 いや、乗らなくていいです。
「俺も、頼んじゃおうっと」
 そんな勢いで頼んでも、絶対に忘れるんだから。
「きーめた、きーめた。センセー、俺も注文してあげる」
 その言い方が気にくわない。