6799.8/1/2012
学校内人権侵害...3
担任は放課後の教室で一郎と向き合っていた。
「ほかのこどもが、お前が良夫たちにいじめられているっていうんだけど、本当なのか」
担任に、放課後に残れと言われたときから、一郎はそのことだろうなぁとは覚悟していた。
公園の一件以来、良夫たちのいじめはエスカレートしていた。
給食の牛乳に雑巾の絞り水を混ぜる。掃除分担場所をひとりでやらされる。ごみ小屋で袋叩きにされる。体育のマットの片付けで中に挟まれる。ノートや教科書に「死ね」の落書き。座席にセロテープで逆さまに留めた画鋲。図工で作った絵が破られる。
それでも、一郎はそのことを自分から担任には相談しなかった。
「センセーに言ったら、どうなるか、わかってんだろうな」
凄味の聞いた声で良夫が言った。
弱い自分が、もっと弱くなるようで、ひとに助けを求めることができなかった。
それにしても、学校の教員とは、ほかのこどもから言われないと、自分がやられていることに気づかないのか。
「困ったことがあるのなら、なんでもいいから、先生に言ってくれないか」
一郎は、話したいことがたくさんあった。しかし、どれから話せばいいのかわからない。記憶があいまいで、自分が話すことが正確なことかどうかの自信がない。
それでも、いくつかのいじめについて、ぼそぼそと一郎は語った。担任は、まるでそんなことを知らなかった表情でいちいち驚きながらメモをとった。
「どうして、お前たちはそういう関係になってしまったんだろう。去年までは仲良しに見えたんだけどな」
確かに一郎は幼稚園のときから良夫たちとは遊び仲間だった。同じ塾に通ったのも、お互いに友だちだったからだ。
「わかりません」
ある瞬間までは仲良しだったとは思う。しかし、どうしてお互いがこうまでも敵対するような関係になったのかは、一郎にも説明できない。
多くの教育関係者は、こどもから事情を聴くときに、最後に「どうして」と理由を尋ねてしまう。
事情を聴くというのは、事実の記憶をたんねんにたどる作業だ。
それなのに、観念的な「どうして」という質問をする。これは、こどもを混乱させてしまう。理由を考えるのは、おとなの仕事であり、当事者に質問しても、明確な答えは見えてこない。また、いじめの理由がわかったところで、問題はそんな単純なレベルで解決しないのだ。
6798.7/31/2012
大津市中学生自殺事件...4
加害者3人のうち、XとYはAに対してヘッドロックをかけていた行為について「遊びであり、いじめではなかった」と弁論している。また、残りのZはいじめの認否そのものを保留した。
つまり、3人とも、自分たちの行為とAの自殺との間には関連性はないと主張しているのだ。
事実だとしたら、学校も教育委員会も、無実の生徒を加害者に仕立て上げていることになる。
ただし、それならば、なぜすでにこのうちの2人は、県外に転校してしまったのか謎が残る。
「悪いことは何もしていない」と主張すべきなのに。
2012年3月の卒業式で、大津市長はこの中学校で挨拶をした。
そのなかで、「自らも過去にいじめに遭い死にたいと思った」と話した。
しかし、大津市側が裁判で争う姿勢を示したので、Aの父親は「あのスピーチは政治的なパフォーマンスに過ぎなかったのか」と批判している。
おっしゃるとおり。
中学校が自殺の後に実施したアンケートでは、15人の生徒が「自殺の練習をさせられていた」と回答している。
これが新聞などのメディアに伝わったのは、2012年7月のこと。大津市教育委員会はアンケート実施後の2011年11月の記者会見で、このことを隠した。
毎日新聞。2012年07月07日。
大津市で昨年10月、いじめを受けた市立中学2年の男子生徒(当時13歳)が飛び降り自殺した問題で、生徒の父親(47)が滋賀県警に被害届を再び提出する意向を固めたことが7日、関係者への取材で分かった。父親はこれまで「同級生から暴行を受けていた」とする被害届を県警大津署に3回提出しようとしたが、いずれも受理を拒否されている。
学校側は男子生徒の自殺後、全校生徒対象のアンケートを実施。複数の生徒からいじめを受けていた事実が判明した。暴行に関する説明もあったため、父親が昨年10月に2回、同12月に1回、同署を訪れて「被害届を出したい」と相談したが、「被害者が死亡しており、事件にするのは難しい」などと断られたという。同署の福永正行副署長は5日、「遺書もなく、犯罪事実の認定に困難な部分があると説明させていただいた。被害届の受理を拒否する意図はなかったと、当時の担当者から報告を受けている」と取材に答えている。
警察も教育委員会と同様に、事件の真相解明には当初はあまり協力的ではなかった。
6797.7/30/2012
学校内人権侵害1
担任が休み時間になったので教室から出て行く。
良夫は席を振り返り、後ろの信也に向って言う。
「おい、最近、一郎のやつ、生意気じゃないか」
学習道具を片付けていた信也は、良夫の言葉を聞いて頷いた。
「あー、こないだ塾の時に、ノートを見せろと言ったら断りやがった」
「そうだよな、一郎のくせに」
ふたりは、視線を合わせて頷き、立ち上がる。窓側の席で次の授業準備をしていた一郎を左右からはさむ。
「おい、一郎、ちょっと来い」
「なんだよ」
「うっせぇなぁ、ちょっと外まで来いってんだよ」
一郎はしぶしぶ立ち上がる。一郎の隣の席の真奈美は、3人が休み時間に外で遊ぶのかと思った。
廊下に連れ出された一郎を、良夫と信也がはさむように歩く。二人ともどこか目的のあるところに一郎を連れて行こうとしているわけではなかった。廊下の端まで来た。階段の踊り場がある。踊り場の隅に、何気なく一郎を誘いこむ。
「お前、なんでこないだ塾で、俺たちにノートを見せなかったんだよ」
3人とも体格はあまり変わらない。良夫と信也がすごんだところで、一郎には恐怖感は与えなかった。
「べつにいいだろ」
一郎は、口を尖らせて横を向く。
むかっとした信也は横を向いた一郎の顎を片手で握り、良夫の方へ向かせた。
「いてぇなぁ、なにすんだよ」
一郎は、顎を握っている信也の腕を握り返し、振りほどいた。同時に、良夫の蹴りが一郎の鳩尾に入った。
う、一郎は前のめりになった。瞳に熱いものが盛り上がる。
「良夫、それはやばいよ」
信也が周囲を気にする。だれかに見られていないだろうか。
「行くぞ」
良夫は信也に目配せをして、その場に一郎を残して教室に戻った。
しばらく腹を抱えていた一郎は、手の甲で涙をぬぐう。歯を食いしばり、昇降口に向かう。ためらうことなく良夫と信也の靴を引き抜き、男子トイレの大便器に突っ込んだ。
いじめ問題が全国で報道されている。
いじめの端緒は、小さな出来事から始まっている。そして、それは必ずしも一方的ではない。
しかし、ある瞬間から、衝突は劇的に頻度と衝撃度を増し、反社会的になっていく。
6796.7/29/2012
大和署の変態警察官
2012年7月27日。
新聞に、神奈川県警察大和警察署に勤務する4人の警察官の不祥事が報道された。
4人は、ことしの3月に勤務時間外にカラオケボックスに行った。
そこに、同じ大和署に勤務する20代の女性警察官を呼び出した。呼び出したのは、女性警察官の上司にあたる男だった。
そこで、男たちは女性に服を脱ぐように強要した。
「断ると、大和警察署で仕事がしづらくなるぞ」脅し文句も忘れなかった。
男たちは、女性の脱いだ服を着た。
「お前は、男の服を着ろ」
女性は言われるままに、男の脱いだ服を着た。
女性は4月に勤務地を異動になった。異動先の上司に、この出来事を相談した。上司が県警の警務に報告して、問題が発覚した。しかし、神奈川県警察は女性から被害届が出ていないので、この出来事を事件化しないという。
大和署の変態警察官4人は無実ということだ。
女性警察官は、異動したとはいえ、異動先やこれからの勤務先で「あいつが大和署時代に上司を訴えたんだぜ」と陰口を叩かれることを恐れたのだろう。警察とはそういう組織だ。
だからこそ、警察官の服務を監察する警務課は、不祥事を放置してはいけないのではないか。
男たちのやったことは、セクシャルハラスメントとパワーハラスメントだ。
民間企業やほかの公的機関では、行政処分が明白な「罪」だ。セクハラを理由に懲戒免職になることは、教員世界では珍しくない。
それとも、警察組織では、セクハラやパワハラは日常茶飯事で問題視されない雰囲気があるのか。だとしたら、市民の安全を守る前に、職場の弱者を救済する運動を開始した方がいい。
大和署の変態警察官たちは、きょうも世の中の悪を追って、正義のために職務を全うしているとは、思えない。
6795.7/28/2012
負けたら終わり社会...3
「規制緩和という言葉を聞いたことがありますか?規制緩和は経済構造改革を進める一つの有効な手段で、市場における様々な制限を取り除いたり、条件を緩(ゆる)めることにより、企業が自由な活動を行い易くしたり、新たな市場をつくることです。
例えば市場参入に関する規制を取り払うと新しく市場に参入できる企業が増え、企業間の競争が生まれるので、企業は創意工夫し、より品質の良いサービスや品物を作るようになります。また、新しい技術や発明が生まれる可能性も高くなります。さらに新しい雇用(こよう)も大幅に増えることが期待され、国民の利益になります」
「経済産業省」
http://www.meti.go.jp/intro/kids/economy/06.html
経済産業省では、規制緩和はいいことだと明言し、国民の利益になるとまで言い切っている。
では、規制緩和の犠牲になったひとたちは、利益を享受できなかった負け組みなのか。
「(規制緩和のもたらす影の部分)
一方、規制緩和がもたらす次のような負の部分も見過ごせない。
@競争の激化によって終身雇用や年功序列型賃金制が崩壊する一方、起業によって莫大な富を築く者が出現する結果、貧富の差が拡大することが考えられる。
A競争が激化する結果リストラ・失業の増大も懸念される。
B競争の激化にともなう激しいコスト削減競争が展開される結果、技術の低下や安全性に問題が起きないかが心配される。実際問題として、ここ数年、家電製品や自動車、タイヤなどの欠陥商品が急増していることが社会問題になりはじめている。
Cウインブルドン現象も間違いなく起きる。イギリスがかつて規制緩和をした結果、イギリスの企業は競争に破れ、勝ち残ったのは外国企業ばかりという現象が起きた。これは、ウインブルドンのテニス大会で活躍するのは外国勢ばかりということにたとえて、ウインブルドン現象と呼ばれる。これと同じ現象がいま日本にも起きつつある。約10社ある日本の自動車会社で生き残れるのはトヨタとホンダだけだと数年前から言われていた。当時はそんな馬鹿なとも思ったものだが、だんだんその通りになってきた」
「南英世の政治・経済学講義ノート」
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/h-minami/note-kiseikanwa.htm
南さんは大阪の公立高校教諭を経て、現在は私立高校で教壇に立っている。
役所が独占していた権限を委譲したり、撤廃したりすることは、一部の者の利益を分散させるので必要なことだ。
しかし、大規模な資本によって、小さな力が消し飛んでしまうような競争は、自由とは呼べない。
「例3:金融規制緩和(金融ビッグバン)−間接的な悪影響
近年金融の規制緩和が行われ、外資系銀行が日本に入ってくるようになりました。24時間CD(キャッスディスペンサ−)の稼働やコンビニのCD設置、新たなサービスを行うことができるようになりました。
が、その反面、従来の「銀行は潰さない」という大蔵省の規制がなくなり、21世紀は、銀行選びも消費者の責任となります。率直に言えば、今は銀行がつぶれても預金は確保されます。が、21世紀は一定額以上は保護されません。そんな銀行を選んだ人が悪い、となるのです。
しかしこれは大きな問題をはらんでいます。
日本の中小企業は、実は大銀行でなく「信用組合」や「信用金庫」といった中小銀行から融資を受け、経営しています。しかし、弱肉強食の時代では大銀行が強くなっていくでしょう。日本人は「寄らば大樹の陰」ですから。
そうするとそういった中小銀行が苦境に立たされます。それはすなわち中小企業の苦境です。そしてそれは中小企業で働いている方々の苦境になるのです。
このあたりから、本当に規制緩和はいいことばかりなのか少し怪しくなっていきます。民主党が言うように「悪い銀行は潰せ」とやってしまうだけでいいのでしょうか。実際、(都市銀行ですが)拓銀の倒産で北海道経済は冷え切っています」
「例4:大店法改正等による規制緩和−消費者も考える時代に
規制緩和によって、最近は大規模ディスカウントストアが店を構える様になっています。また、夜遅くまで営業しています。しかしこれにより今まであった商店街やスーパーは大打撃を被りました。
この場合、通常はサービスの向上または専門店化によって商店街やスーパーは張り合います。しかし、今の不況下の日本ではどうでしょう。そうです。サービスなんかより安いほうがいいのです。専門店化もある意味博打です。そこまで思い切れるかどうか。
その結果、そういう商店街やスーパーは店を閉めざるを得ません。不況を呪いながら一方、我々消費者もしばらくたって気付きます。あれ、近所のお店がなくなったから、いちいち郊外や大きな町まで買い出しにいかなくちゃいけないから面倒だなぁ、と。コンビにには売れ筋商品しかないし、種類も少ない。そもそも食料品と日用雑貨中心だ、と。
もちろんそれが苦ではない我々若者にとってはまったく関係ありません。
しかしこれは体が若干不自由になりかけている人、あるいは病気になってしまった人、さらには多忙で、時間がなかなかとれない人はより一層痛感させられるでしょう。
つまり、「便利」と「金」を引き替えたのです」
「明るい!?国家公務員のページ〜FUNNY!?GOVERNMENT OFFICIALS〜」
http://www.ops.dti.ne.jp/~makinoh2/trueth/kisei.html
遠方のひとたちが連休を使って東京ディズニーランドで過ごす。
電車や飛行機を使うよりも、値段の安い高速バスを選択した。
規制緩和を進めた政治家や大金持ちは、「だから遠方のひとたちも連休に自分の楽しみを安い交通手段でつかみとることができたじゃないか」と胸を張る。
しかし、値段が安いということは、運転手の過酷な労働と表裏一体なので、いのちの危険と隣りあわせだった。規制緩和は、値段の安い交通手段を選ぶひとたちに、いのちの危険を覚悟すれば、電車や飛行機よりも夢を実現できるよと教えている。
会社の営業や生産努力が、直接的に労働者の努力と結びつく社会は、生きにくい。
ひとたび失敗をすれば、会社の経営そのものに大きな影響を及ぼしてしまう。
わたしは、町にあふれるディスカウント店やファーストフード店、吸収合併して巨大化する銀行や証券会社に囲まれながら、忘れてしまうのだろうか。
この辺に呉服屋があったよなぁ。
ちょっと歩けば、公衆電話があったよなぁ。
朝から豆腐を作っていた親父がいたよなぁ。
そんな記憶にしがみついていたら、自分に隙ができて、負け組みになってしまうかもしれない。
だから、少しずつ負けることに慣れて、下りていく生き方を始めようか。
6794.7/27/2012
負けたら終わり社会...2
3つの交通事故。
業務上過失致死罪になるのだろうか。
殺意があったわけではないので、殺人罪や傷害罪では、起訴されないだろう。
しかし、それでは、亡くなったひとやその家族、友人らの口惜しさや無念さはいつまでも晴れないのではないだろうか。
わたしは、これら3つの事故の運転者個人をまったく知らない。
だから、個人を擁護するつもりはまったくない。
しかし、だれでも、これらの運転者になりうるし、家族がこういう運転者になるかもしれないということを、自覚したい。
その理由は、3つに共通する状況は、わたしたちの身の回りにいまも浮遊しているからだ。
発作という病気の問題。
社会への適応不全と反社会的行動への衝動と孤立感。
低コスト長時間労働による終わらない過労。
これらの問題は、高度経済成長期を経て、日本社会が手にした豊かさの対極でじわじわと確実に広がり、社会の底辺を侵食してきた問題なのだ。多くの警鐘が鳴らされていたにもかかわらず、自民党公明党政権も民主党政権も、まったく手を出さなかった。自民党公明党政権時代の小泉首相は、規制緩和策を断行し、これらの問題をさらに置き去りにした。それを引き継いだ安倍首相は、学校教育の規制緩和を断行し、こども間にさまざまな格差を助長した。
発作は薬でコントロールできる。しかし、発作をもっていることを隠さないと認めてもらえないことが多い。だから、発作を隠してしまう。車の運転もその一つなのだろう。運転免許の取得や更新のときに、発作の有無を自己申告するひとはほとんどいないだろう。就職するときに「運転免許取得者」であることが有利だからだ。
発作をもっていて運転免許が取得できないひとと、発作がなくて運転免許を取得しているひととの間には、大きな格差があるのだ。
こどものときから発作とともに生きているひと、病気やけがが原因で発作が誘発されたひと、ともに決して少なくない。そういう多くのひとたちを負け組みにしている社会構造が、発作を隠すという選択へと導いてしまう。
よのなかの多くが規制緩和された。
それにより、安い賃金で働く外国人労働者たちが多く入国した。国内の若い労働できる世代は、安い賃金を嫌って短期間のアルバイトや親掛かりの生活を選択する。自活することなどできない社会の誕生だ。
学校では、素行が悪いこどもや低学力のこどもは、学校全体の学力点数を引き下げるので、無理に登校させないようになった。登校させて校内で大暴れされるよりも、不登校になって町で暴れて警察の管理下に任せた方が安心なのだ。
教員の指示に従順で、そこそこ学校のテストの成績の優秀なこどもと、教員の指示に反発し、あるいは無視し、テストそのものを受けないので成績がつけられないこども。両者の大きな溝が拡大した。
その世代が、成人を迎え、運転免許なしで、負け組みどうしのこころの傷を癒しあう。
6793.7/26/2012
負けたら終わり社会...1
2012年4月から5月にかけて、自動車による悲惨な交通事故が相次いだ。
4月12日、京都市東山区(祇園)で軽ワゴン車が暴走し、死者7人を含む20人が死傷した。運転手も死亡した。
4月23日、京都府亀岡市では無免許運転の車がこどもを含む4人を死亡させ、10人以上が死傷した。
4月29日、関越自動車道路藤岡ジャンクション周辺で、高速夜行バスが側壁に衝突し、死亡した乗客7人と運転手を含む45人が死傷した。
それぞれの交通事故の原因がこれから明らかにされることだろう。
しかし、明らかにされる原因は、事故を起こした直接的な原因に限定される。事故を誘発した運転手の生活環境や労働環境、身体的問題は、あくまでも間接的な背景として、やがて忘れられていくのだろう。
その結果、ふたたび同じことが繰り返されるのだ。
祇園の事故は、運転手に発作の持病があったと伝えられている。
運転中に軽い発作を起こし、タクシーに衝突。焦りとパニックにより、発作が重症化。そのままひとでにぎわう交差点に車ごと進入し、多くの通行人をはねてしまった。
亀岡の事故は、無免許運転の未成年による反社会的行動が背景にある。事故を起こしたときには運転していた若者と2人の友人が同乗していた。しかし、前日から一睡もしないで遊びまくっていた仲間はほかにも多くいた。また、車は運転していた若者の車ではなかった。
無免許で遊びまくる男子。それを制御できない家族。つるんで遊びまくった仲間とそれを制御できなかった家族。無免許と知りながら車を貸した名義人。社会的規範とは遠いところの生活が見えてくる。
中国から帰化した運転手。難しい日本語の会話はできなかった。長距離夜行運転にもかかわらず、途中で何度も居眠りをしそうになったと供述している。バス会社は、国土交通省の通達を無視し、運転手の運行や健康管理を怠っていた。そういう会社は、ほかにも多いらしい。
観光バスの利用客が激減して、バス運行会社は長距離運転に命運をかけ始めている。料金を引き下げることで、利用客を確保する。そのために運転手へのコストも下げなければならなかった。
6792.7/25/2012
大津市中学生自殺事件...8
2012年7月14日。
大津市教育委員会は、記者会見を開いた。
その席に、中学校の校長が臨んだ。
毎日新聞。
「いじめについて話し合いの場は持った」。しかし、「いじめとの認識はなかった」。大津市で市立中学2年の男子生徒が自殺した問題で、14日記者会見した校長は、あいまいな説明に終始した。昨年9月末と自殺6日前の10月5日に別々の生徒から指摘があったことを認めながら、「けんかと判断した」と、いじめとしての受け止めを否定。生徒や保護者は学校に対する不信の声を上げ、教育問題に詳しい専門家も、学校の対応を「教育者として失格」と批判した。
「生徒のSOSに気付かなかった。(いじめを警戒する)意識がほとんどなかった」。問題発覚後、初めて会見に臨んだ校長は、こわ張った表情で釈明した。しかし、当時の対応については「報告がなかった。詳しいことは分かりません」「資料を持っていない」とはぐらかした。答えに詰まり、隣に座る沢村憲次教育長が耳打ちする場面も見られた。
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滋賀県警は、学校が夏休みに入る7月下旬以降、順次、在校生への事情聴取を本格化させるという。学校や教育委員会は、その聴取で、これまで隠蔽してきた事実が公表されることを恐れているだろう。警察は、聴取内容を公開するとは限らない。しかし、犯罪につながる情報が出てきたときには、隠すわけいにはいかない。
これまでの新聞情報でも、Aは口座から現金を下ろしていることがわかっている。
下ろしたお金がXYZらに渡ったことは、推測できる。
Aが自発的にお金をプレゼントしたとは考えにくいが、恐喝されていたという事実を証明することは難しい。物的証拠が明確にならないと、警察は起訴へは持ち込めないだろう。反対に、XYZらが否認すれば、真相は永久にわからなくなる。
いじめ問題の難しいところは、本当にあった「ひどいこと」と、そこまではやっていない「ひどいこと」が、混同されてしまうことだ。Aの被害感情に共感するがあまり、加害者や責任機関への憎悪が膨れ上がり、あれもこれもみんなお前らがやったんだろうと安易に直結してはいけない。
6791.7/24/2012
大津市中学生自殺事件...7
文部科学省は、これまで全国の小学校や中学校、高校でこどもが自殺するときに「いじめによる自殺はない」という立場を貫いてきた。
データベースを照合すればわかるが、自殺者の内訳に「いじめ」はないのだ。
これは、各党道府県教育委員会からの報告に、原因がいじめと特定できたものがないということだろう。本当にいじめが原因でこどもが自殺したケースがないとは、だれも思っていない。公式な報告にする段階で、学校関係者や教育委員会関係者の手によって、いじめがなかったことになってしまうのだ。あるいは、いじめがあったとしても、それと自殺の間に因果関係が認められないと判断されてしまうのだ。
いじめを苦にして自殺したこどもの魂は、死んでも悔しさと恨みを抱いたまま。
2012年7月11日、文部科学省は、学校におけるいじめの集計方法や、いじめに起因する自殺の調査方法を根本的に見直す方針を発表した。
これは、大臣が音頭を取っている。だから、霞が関の高級官僚たちはあまり乗り気ではないと考えられる。選挙を念頭に置いた大臣と、日々の実務に追われる官僚とでは、何を大事にするかという行動の基準が異なる。ただし、どちらも、こどもたちに目線を向けていないという共通項はある。
同日、県警は、傷害と脅迫の容疑で中学校と教育委員会の捜索を開始した。学校が実施したアンケートを押収し、加害生徒による傷害の実態を解明するとのこと。
これにより、2011年の体育祭で、Aを鉢巻きで縛り上げ、暴行を加えるXYZらに対して、女性教諭がやめるように注意をしていたことが警察の調査でわかった。学校側からは明らかにされなかった事実が、警察の介入わずか1日で判明するとは、いったいどういうことだろう。
7月12日、皇子山中学校は保護者説明会を開催した。しかし冒頭で黙とうもしない学校側の態度に保護者が抗議。保護者からの声を受けて、黙とうを捧げることになった。校長は「当時としては最善の方法で学校は対応をした」と弁明し、多くの保護者から怒りの声が上がる。
多くの親はわが子が学校でいじめに遭わないように願う。
しかし、わが子が学校でいじめの首謀者であることは、認めようとしない。
いじめに遭う確率よりも、いじめる側に回る確率の方がはるかに高いことを信じようとしない。
いじめという表現をなくして、学校暴力・傷害・殺人・ハラスメント・恐喝・強要・窃盗・強姦など、わかりやすい言葉に置き換えた方がいい。多くのいじめは、実質的にはそれらの総称なのだ。一つ一つの加害内容の方が非人道的で残酷なのに、いじめというぼんやりとした言い方にしたとたん「こどものケンカ」程度の響きになってしまう。
いわれのない暴力をふるわれる。
理由のない中傷を継続的に受ける。
私物が何者かに盗まれたり、壊されたりする。
集団生活が維持できないほど、孤立を強要させられる。
唯一の救いである教員が頼りにならない。
このどれか一つでも経験したら、遠慮なく相談できる「学校以外」の相談機関の設立を望む。
その相談機関は、学校や教育委員会とは連携しない。担当者は法律の専門家と心理士を中心としたプロジェクトチームを結成し、問題の解決に当たる。相談機関には、調査権限が与えられ、公開しないことを前提にした情報の収集が可能。内容の深刻度によっては、捜査機関に応援を求めることもできる。
この相談機関に相談したことが原因で、さらにいわれのない誹謗中傷を受けたときは、警察に被害届を出すことができる。
これぐらいの対応策を行政機関が取らないと、今後も学校という外部からはほとんどなかが見えないところで隠ぺいされ続ける「いじめ」の実態は浮かび上がらない。
6790.7/23/2012
大津市中学生自殺事件...6
朝日新聞。2012年7月8日。
大津市立中学校の男子生徒(当時13)が自殺した問題で、同市の越直美市長は6日の定例会見で、市教委が「(生徒が)自殺の練習をさせられていた」などとする生徒のアンケート回答を公表していなかったことについて「最初に十分な調査、公表ができていれば、ここまで問題が大きくなることはなかった」と話し、当時の市教委の対応が不十分だったことを認めた。
越市長は3月、生徒の通っていた学校であった卒業式に来賓で出席し、自身も過去にいじめを受けていた体験を告白していた。会見の冒頭から涙を流し、「1月に就任してからもっと早く、外部調査をするなどの対応をすべきだった」と述べた。市教委に代わり、市長部局の中に大学教授や臨床心理士、弁護士など第三者による調査委員会を立ち上げ再調査する意向を明らかにし、調査委の調査結果次第では、いじめと自殺の因果関係を認める可能性にも言及した。
この日は滋賀県の嘉田由紀子知事も会見で「ひとごととは思えない。ご家族の方も大変つらいと思う」と声を詰まらせた。嘉田知事は、大津市が設ける予定の調査委員会との情報共有や問題の再発防止を目指し、県教委と県健康福祉部を中心とした「緊急対策チーム」をつくり、大津市にも参加を呼びかけ、来週にも初会合を開く考えを示した。
小学校や中学校でのいじめが自殺にまで発展するケースはあまり多くないのかもしれない。しかし、まったくありえない話ではない。
実際に起こってしまったとき、学校関係者や教育委員会担当者が、事態に真摯に対応できないのはなぜか。責任のなすりあいや、問題そのものの隠蔽に汲々として、問題の深刻さへ切り込む姿勢は見られない。
それは、まずいじめの発生環境が、学校関係者でもわかりにくいということだ。
となりのクラスで深刻ないじめが進行していても、壁一つ隔てて異空間と認識されるので、担任が黙っていたらわからない。わかったときには、問題はかなり大きなところまで発展している。教員個々人の力量ではどうにもならない。無力感から、何も対策を講じない。その結果、いじめはエスカレートし、悲劇的な結末へと突入する。
教育委員会担当者は、日々役所の建物のなかで仕事をしている。管内の学校で、いま何が起こっているかなど知りもしない。学校内でも発見しにくいいじめが、教育委員会にいてわかるはずがない。
つまり、自分たちでは発生の認識も、深刻化した理由も何もわからない大きな問題が、いきなり「教育委員会の問題」として降りかかってくるのだ。
だから、どうしてこんな深刻な状態になるまで放置したんだと、内面では学校に対して不満だらけなのだ。そんな問題の責任を負う覚悟など、さらさらない。