6779.6/30/2012
ホームベース...3
2週間後、坂の下の関所にはクーラーが入っていた。
「こないだ、明男さんが仙田さんに何か相談したいことがあるって言っていたわよ」
若女将が教えてくれた。
「なんか、いつも担当している女の子の表情がきつかったみたいなことを言っていたけど」
ふーん。
立ち飲み可能な酒屋の「関所」では、ひとの噂をすると、光に吸い寄せられる羽虫のようにそのひとが登場するというジンクスがある。
「あら、明男さん、登場」
ほらね。
「おっ、仙さん、早いなぁ」
明男は、クーラーから一本100円のサワーを取り出す。仙田は、生ビールを口につける。
午後6時、まだまだ空は明るい。だいぶ夏が近づいてきた。
「仙さんよぉ、佑子のことなんだけど」
若女将が明男の肩越しにウインクをする。
「佑子がどうかしたかい」
「なんだか、こないだ行ったとき、やたらと目がつりあがって、俺の指示に対してもいちいち抵抗したんだよなぁ」
「まぁ、そんなもんでしょ」
仙田は佑子を入学した時からいままで5年間担当している。
「えー、俺が行くときって、いつも佑子ってにこにこしていて、『アーアー』って名前を呼ぼうとしていたんだぜ」
「あのさ、明男さんが佑子を担当してもう1年以上になるじゃない。毎週一回とは言え、もう佑子にとっては明男さんはたまに来る珍しいセンセーではないんだよ。自分のことをよく知っているセンセーのひとりになったんだよ」
「なんだ、その説明、わかんねぁなぁ」
「俺は、ふだんの佑子を知っているから、明男さんが帰った後の佑子の姿と、明男さんがいるときの佑子の姿の違いがわかるじゃん。あいつなりに、これまでは明男さんの前では愛想を振りまいていたってことだよ」
「えー、じゃぁあれはいつもの佑子ではなくて、外向きの佑子だったわけ」
「そりゃそうに決まってるじゃん。たまにしか世話にならないひとに対しては、いつもの数倍の気遣いをして、よい子を演じようとがんばっていたわけだよ」
「そんなことをする必要ないのに」
「それが、ひとという動物の自然な社会性なんだよ。言葉を話せない佑子にも、そういう社会性はきちんと育っていたってことを、高く評価したほうがいいよ」
「じゃぁ、あのつりあがった目と仙さんはふだんは向き合っているわけか」
そういうことです。
ひとがひとによく思われたいという気持ちは、脳の成長によって獲得していく。だいたい周囲の認識が始まる10歳前後を境にして急速にその傾向が強くなる。反対に、周囲のひとをまったく意識しない行動を貫いても、気持ちにまったくのぶれも痛みも生じないひとは、脳の成長に何らかの停滞があると考えられている。それを一般的には自閉症と呼ぶひともいる。
6778.6/26/2012
ホームベース...2
明男はすでにこどもが成人している。企業や公務員という組織に就職しないで、演劇やメディア関係の仕事を自営としてきた。いわゆる「フリー」なひとだ。
それで、高額の公団住宅に賃貸で住んでいるのだから、とても能力と技術が世間に求められているのだろう。
いつも二言目には「金になんかなりませんよ」とこぼす。
お金に困っているひとが、時間給900円の学校でのアルバイトには応募しないだろう。
「明男さんはさぁ、支援級には卓みたいなこどもがいちゃ、おかしいと思っているんだろ」
「おかしいっちゅうか、その必要があるのかっていう感じ」
仙田は、ビールの合間に胡瓜の辛いおしんこを食べる。カプサイシンが喉に広がる。
「たぶん、これは日本のお粗末な福祉行政が悪玉の親分だと思うんだけど、親に生活能力がなかったり、近隣とのトラブルが絶えなかったりしても、社会福祉事務所なんて何にもしないんだ。せいぜい、近隣から警察に通報があって、交番からひとが来る程度」
明男の瞳が眠そうに仙田の話を追う。
「そういう家にこどもが生まれると、教育行政がかかわってくる。そのときに福祉が何にもしないから、かわりに教育がやらなきゃならなくなる。そうすると、職員が多い支援級や支援学校頼みになっちまう」
「こどもに明らかな障がいがなくてもか」
「その通り」
「それって、ひどくない」
いまどき女子高生でもやらないような語尾上げで明男は憤慨する。
「それが現実です」
「そういうことに、仙さんはおこんないわけ」
「怒ったところで、どうすんのよ。あんたが親としてきちんと育てないから、こどもはここに来るハメになったと言って、こどもを追い出せってわけ」
「いやぁ、そういうことじゃないけどさ」
「いいかい、卓は親がだれであろうと、学校がどこであろうと、確実におとなになっていく。その結果、どんな人生になろうとうも、それをひとのせいにはできないんだ。だから、小学校が支援級だったメリットを最大限に活かして、ここでできることをたくさんふやしていくしかないんだよ。そして、その力が、18歳を過ぎたとき卓の持ち味になっていなきゃならないんだ。俺の仕事は、その持ち味を確かなものにすることなんだよ」
「出たぁ、仙さんがよく言う、18歳」
日本の特別支援教育の枠組みは18歳で終了する。それ以上は、学校という機関が障がい児を専門に指導したり支援したりすることはない。だから、18歳までに就労できる力や周囲とコミュニケーションがはかれる力を育てておかなければならないのだ。
6777.6/24/2012
ホームベース...1
仙田は、立ち飲みスペースで生ビールに手を伸ばす。
「仙さんさぁ、卓ってどうしてあのクラスにいるのさ」
明男は、すでに昼まっから焼酎を飲んでいるらしく、呂律があやしい。
「卓って、どう見ても健常じゃないか」
ケンジョウ、仙田はケンジョウという音と健常という文字を頭のなかで結びつける。
「健常そうに見えるけど、異常なやつってよのなかにはいっぱいいるじゃないか」
仙田は、ビールを一口ふくんだ。
「そういうことじゃなくてさ、こないだ俺、卓の支援をしたじゃん。あんとき、緊張しちゃってさ」
明男は、仙田の学校で介助員として働いている。
「いつもの佑子とは勝手が違っただろ」
毎週同じ曜日に介助員をしている明男は、ふだんは佑子という女の子を担当していた。しかし、その日は、佑子が遠足でいなかったので、卓を任されたのだ。
「だって、漢字とか計算とか、問題が難しくて、あっているのか間違っているのか、こっちがあたふたしちゃったよ。そのうちに卓が、センセー、ここはボクが読むところですなんて、やり方まで教えてくれたんだぜ」
仙田は、小学校入学のときから卓の担当をしている。ことし6年生になった卓は、仙田の教えを小学校入学以来叩き込まれてきたのだ。
「明男さんさぁ、卓だって、いきなりあそこまで成長したわけじゃないぜ」
「そりゃそうだけど、いまの力なら、通常のクラスに入れてもいいんじゃないか」
ツウジョウ。明男は健常とか通常とか、障がい者と区別する言葉が好きだなぁと仙田は思った。
「だって、あのまま仙さんたちのクラスじゃ、中学校や高校はどうすんのよ。養護学校か」
「まぁそうだろうな」
「そうだろうなって、それじゃ、もっと身につけられることがたくさんあるのに、生き方が狭くなっちゃうだろ」
「その通りだね」
「仙さん、それでいいのか」
明男の目がすわっている。
「右がいいとか、左がいいとか、二者択一ではないんだ。それに、卓がどこの学校に進学するかは親が決めることだ。俺たちにその権限はない」
「それぐらいの権限が先生たちにあってもいいじゃないか」
「いや、それは危険だよ。教員の主観でこどもの学校を決めたら、とんでもない教員がいたときこどもや親は従わざるを得ない。だから、親が最終的に責任をもついまのやり方でいいんだよ」
「だけどさぁ、それじゃ」
仙田は、明男がいいたいことがわかっていた。
6776.6/23/2012
下りてゆく生き方...10
通勤で東海道線を使っている。
同じ車内の乗客のうち、7割は携帯端末をいじっている。
画面を見ながら、微笑んだり、眉間に皺を寄せたり、無表情だったりしている。わたしはイヤホンのついたラジオでエフエム放送を聴いている。しかし、あの携帯端末はものすごい電磁波か妨害電波を出すみたいで、近くでいじっているひとがいるとまちがいなくラジオの受信状態が悪くなる。
たしかにあれでは心臓にペースメーカーを埋め込んでいるひとは、命がけだろう。
友人同士で喋ったり、恋人同士でささやいたりしているひとは少なくなった。読書をしているひとは、世界遺産並みにいない。
わたしの読書タイムは短い通勤時間帯なので、ホームで電車を待っているときから読んでいる。以前は、となりのつり革のひとが読む本は何だろうと何気なく覗いたこともあった。週刊誌を読んでいるひとがいると、俺のほうがちょっと高尚だぞと自画自賛したこともあった。新聞を広げているひとがいると、家で読む時間がないのかなぁと家庭生活を心配もした。
印字された活字を読んでいるひとが、極端に少なくなった。
情報端末は、物理的な距離を瞬間的な時間に置き換える革命的な装置だ。
いまでは動画さえも、撮影と同時に送受信することができる。また双方向性のカメラを使って、テレビ電話みたいなやりとりまで可能になった。
自分にとって大事な存在といつでもどこでも接点を持つことができる。
そのことによって、身近にいる無関係なひとたちと接点を持とうとするひとが減りはしないか。他人とつきあいを始めるのは面倒だから、これまでの知り合いの範囲で一生生きていくひとが増えはしないだろうか。
フェイスブックに登録した。とても驚いた。
まったく音信普通だったひととフェイスブックを通じて再会できた。
逆に、なんと「つぶやく」ひとたちの多いことよ。
雑踏で独り言をつぶやくひとがいる。ああいう傾向はだれにでもあるのだろうか。
わたしは、目の前のひとが息をしていることがわかる範囲でいいから、ひととのつながりを保っていきたい。その結果、少数のひととしか出会えないかもしれない。それでいい。
おもいろいひと、有名なひと、感動するひととは、新聞やテレビを通じて知ることができればじゅうぶんだ。
そういえば、便箋に万年筆で手紙を書かなくなって何年経つだろう。字を間違えて、便箋を何枚も無駄にした。辞書を座右に置いて、意味の違いを検索した。わかりにくい漢字はついついひらがなにした。
下りてゆく生き方には、どんなに不便になっても、自分を見捨てるという選択肢はないだろう。
6775.6/22/2012
下りてゆく生き方...9
自宅に電話がなかった時代を経験している。
知人との情報のやりとりは、直接会って話をするか手紙を書くか、駄菓子屋の店先の公衆電話を使うしか方法がなかった。
だから、だれかと遊びたいときは、事前に約束できればいいが、だいたいそんなことは覚えていない。帰宅してランドセルを放り出して、ふらふらと出かける。あちこちに空き地があった。山があった。小川があった。どこかに行けば必ずこどもが遊んでいた。顔を知っているこどももいれば、顔も名前も知らないこどももいた。でも、なんとなくその輪の中に入って、暗くなるまで遊んだ。
特定のだれかとだけ遊ぶという自由はなかったし、そんなことを口にしたら「わがままなやつ」と馬鹿にされただろう。
ひとは、自分の思い通りにはならないものだとこどもの遊びのなかから学んだ。自分の思いを通そうとしたら、好物を用意するか、おべっかを使うか、腕力をつけるかなど、工夫が必要だということも学んだ。いまのように、こどもの気持ちを親が代弁したら、こどもは一生親になろうとしなくなるだろう。こどものままがラクに決まっているからだ。
となりの家は電話をもっていた。黒いダイヤル式の固定電話だ。プッシュホンなんてどこの家にもなかった。公衆電話もダイヤル式だった。
電話連絡網の(呼)は、呼び出しのマークだ。何か緊急な連絡があるときは呼び出し指定の家に電話がかかる。するとその家の方が「○○さん、電話よ」と教えてくれる。わたしは他人の家に上がり、居間の隅に鎮座している受話器を取る。緊張して、どんな用件かなどどうでもよくなる。早く通話をおしまいにしたい。その結果、電話連絡のすべてを聞き終わらないうちにだいたいのなかみがわかったら、ガチャンと電話を切った。やっかいなのは、次のひとに電話をするためにふたたびその電話を借りなけれいけないことだ。
「申し訳ありません。電話をお借りします」
頭を下げて、次のひとに電話をする。相手が出ると必要最低限のことだけ伝えて電話を切った。
だから、当時の電話連絡網のメッセージは末端に行くほど、伝言ゲーム状態になっていたのではないかと想像する。
そもそも、台風が近づいているので休校にしますとか、雨なので運動会は延期ですなんて連絡は自分で判断すればいいことだ。なんで電話で連絡しなければいけないのか、当時のわたしはとても不満に思ったことを覚えている。
台風で大雨と強風が朝から続けば、当然欠席した。運動会があるかどうか不安なら、学校までひとっ走りして確かめればよかった。
わたしは、あの電話が家になかった時代を経験しているから、現在手にしている携帯電話や家の固定電話がなくなっても、あまり不安を感じない。かなり不便な生活になると思うが、不便な生活は不幸な生活ではない。
目の前の生活を、電話という向こうから突然やってくる情報という横やりに左右されない生活は、かなり幸福な生活なはずだ。
6774.6/17/2012
下りてゆく生き方...8
親睦会に加入していなくても、わたしは同僚に不幸があった時は個人的に香典を包む。めでたい話があったときは、個人的にお祝いを贈る。
こういう当然の行為を、公務員社会では「出る杭」とみなす。
親睦会という組織が、個人を代表して香典を包んだり、お祝いを贈ったりすので、個人が単独で行動する必要はないと抑制をかける。わたしの常識とはかなり異なる認識がまかり通っているのだ。
それは、親睦会ばかりではない。
先述した、教育研究会、労働組合も同じことが言える。
離れてみて、わかることが多かった。
2011年3月11日。東日本、とくに東北地方太平洋側沿岸を震源とする大地震が発生した。3月は学校にとって会計年度末にあたる。親睦会は毎年、年度末の納め会を計画していた。実質的な飲み会だ。しかし計画停電の影響から、幹事は納め会を中止した。その結果、納め会のために用意していた費用が浮く。
「こんなときだから、その浮いた金を被災地に救援金として贈るのなら、わたしも負担します」
そう提案したが、なんと幹事は、浮いたお金をひとり4000円のうなぎ弁当に変えてしまったのだ。
「会費なので、繰り越すわけにはいかなかった」
繰り越せばいいと言っていたわけではない。有効な使い方をした方がいいのではないかと外野から声をかけたのだ。有効な使い方に関する認識が大きく違ったのだ。
うなぎ弁当をむしゃむしゃと食べる同僚たちを尻目に、わたしは年度末最終日、暗澹たる思いで藤沢の町にうどんを食べに出かけたことを覚えている。
そのとき、がっかりする気持ちよりも、下りてよかったというさわやかな気持ちが強かった。自分はああいう考えに毒される前に、下りる選択ができて、本当によかったと思ったのだ。
今後、時間をかけた下りてゆこうとする計画がある。
それは、携帯電話やパソコンなどの情報端末だ。
残念ながら、いまのわたしには不可欠な道具なので、すぐに手放すことはできそうにない。しかし、情報端末は、いまのわたしをいつも社会の最前線に送り込もうとするマシーンであることには変わらない。使わなければ知らなくて済む情報が多すぎるのに、手元にマシーンがあるから情報にアクセスしてしまう。わたしの意思よりも情動に近い部分を刺激する。
わたしが小学生だった昭和40年代。小学校の学級電話連絡網には(呼)と書かれた電話番号が多かった。もちろんわたしも(呼)だった。
6773.6/16/2012
下りてゆく生き方...7
最後に距離を置いたのは、特殊な団体だ。
どこの職場にもあるものではないだろう。
おそらく、公務員が働く職場にしかないのではないか。
それは「親睦会」という名の互助会組織だ。
公立学校には、たぶんどこにでも存在していると思う。
法的な根拠はない。存在しなくてもまったく教育的に問題がない。それなのに、必ず存在している。
労働組合には管理職は入れないが、親睦会には管理職も入る。多くは親睦会の会長を兼務する。
教育研究会には教員以外は入れないが、親睦会には学校で働く教員以外も入る。全校職員が加入することができる。
毎月、会費を払う。学校によって金額が異なる。
集めた会費は親睦会の会計係が管理する。
会員の慶弔費、退職者への謝礼、異動者への謝礼、赴任者へのお祝い、忘年会などの飲食費に使われる。学校によっては、宿泊を兼ねた職員旅行の費用としても使われている。
本来はそのつどそのつど有志で行動すればいいなかみを、全体の名のもとに動こうとする。だから、費用を積み立てておく。
もちろんこの会計には、報告義務はない。だから、ときどき公立学校の教員が親睦会の会費を流用したという事件が明るみに出る。監査役がいないのだから、悪意をもてばだれでも不正に加担できるのだ。
また、悪しき伝統に「繰越」という考えがある。年度末を迎えても、年度初めの急な出費に備えてその年度の会費を残しておくのだ。会員は毎年の異動で入れ替わる。なのに、その年度に集めたお金が翌年度に繰り越される。おかしいではないか、と疑問を呈したことがあるが、だれもが「どこもそんなもんだよ」と不思議がる様子はなかった。
親睦会は全職員の加入が可能だ。しかし、ほとんどが教員だ。だから忘年会や歓送迎会などの飲み会になると話題がどうしても教員中心のものになる。狭い世界の会話で盛り上がってしまう。だから、教員以外のひとたちの居心地が悪くなる。
最近の親睦会は、わたしの知っている範囲では、学校用務員さんや給食の調理員さん、学校事務員さんのなかには、親睦会に入らないひとが増えている。飲み会に行くと、いちいち互いを「○○先生」と呼び合う集団のなかにいるのは、気持ちが落ち着かないのだろう。
わたしは、職場の人間関係を円滑にするための親睦会ならば、いくらでも同意するし、率先して幹事も引き受ける。しかし、いまの親睦会は同じ学校で働く教員たちの「つながりの会」のような気がしてならない。
だから、5年ぐらい前に辞めた。
6772.6/12/2012
下りてゆく生き方...6
神奈川県で公立学校の教員をしていると、出身大学が横浜国立大学であり、労働組合に加入しているひとが圧倒的に多いことを知る。
大多数が、このパターンなのだ。だから、わたしのように出身大学が私立大学で労働組合を途中で辞める人間は、ほとんどいない。大学は同窓会組織があるので、最低でも年に一度は同期で集まる。ヨココク(と地元では呼ばれている)のように歴史のある大学は、機関誌も発行されている。同窓会で顔を合わせることができなくても、機関誌で情報を共有できるのだ。こういう人脈は異動や昇格などの人事面で大きな効果を発揮するのだろう。
わたしは、ずっとそういう蚊帳の外にいた。
労働組合は、職場会という最小の端末組織がある。リーダーを分会長と呼ぶ。そのほかに中央委員や教文委員などの執行部がいる。わたしも加入していた時期には、それぞれの分会内の執行役を経験した。職場会は不定期だが、一か月に一度以上は会議を開く。上層の地域労働組合からの指示を伝えることが主眼になっている。
日本教職員組合は、ものすごいヒエラルキーによって出来上がっている。頂点の日教組に全国の都道府県別の教職員組合が加入している。神奈川の場合は、神奈川県教職員組合だ。通称「ジンキョウソ」。さらにジンキョウソには7つの地域教職員組合が加入している。わたしの働いているところには湘南教職員組合があり、そこもジンキョウソを構成する地域教職員組合の一つだ。だから、湘南教職員組合に加入することは、自動的に神奈川県教職員組合と日本教職員組合に加入することになるのだ。毎月の5500円の組合費の一定割合は、ジンキョウソとニッキョウソに上納金として吸い取られる。
この大きな組織が、小さな存在の教員ひとりひとりを守っている。
15年ぐらい前に、ジンキョウソは大きな過ちをおかした。
それは、もっと以前から続けてきていた過ちだった。多くの組合員は、それを権利と呼んだ。あるいは「基本給が上がらないかわりの措置」と呼んだ。
しかし、わたしは個人のレベルでその過ちを指摘し続け、自分の給与に「権利」が上乗せさせられないように、組合からの指示を拒んだ。
「こんなお得な話に、なぜお前は乗らないのか」
周囲からは、みんなで渡れば怖くないと誘われたが、拒み続けた。
正義を押し通そうとすると、孤立していくことを知った。いつからか、労働組合からの情報が届かなくなった。ちょうど、組合費を合計で百万円以上払った時期だったので、あっさり脱退した。
その直後に、ジンキョウソの過ちが新聞で取り上げられた。それまでの不正受給を返還する命令が出された。組合員のなかには「上からの指示で受け取っただけなのに、どうして自分たちが返還しなければいけないのだ」といきり立つ者もいた。上からの指示に納得したから受け取っていたはずだ。疑問や不安を感じていたのなら、わたしのように拒む自由はあったのだから。
労働組合は大きくなりすぎて、既得権益を守ることが運動の主眼になってしまった。
わたしは、自分の生活を、自分の力で切り開いていこうと、組織からの援助を期待しない、下り坂を選択したのだ。
6771.6/9/2012
下りてゆく生き方...5
次に距離を置いたのは、労働組合だ。
教員の労働組合。ご存知、かつては天下に名をとどろかせた日本教職員組合。通称、日教組だ。
全国の公立学校で働く教職員の労働組合だ。私立学校で働くひとたちには、私学教組があり、区別されている。
日教組は、全国的な上部組織だ。各地方の教職員組合から役員が出て、日々の業務を執行している。
明治維新後、西洋文化や西洋教育を取り入れ、一刻も早く軍事力や経済力を西欧列強に近づけようとした明治新政府は、学校体系を全国に網羅した。それまでは武家の子弟とか、公家の子弟にしか許されなかった読み書きそろばんという基礎的な学力を、一般庶民につけさせる必要を感じたのだ。
そのため、全国に多くの官営学校が設立された。しかし、十分な教員養成制度が機能していなかったので、初期のころはかなりいんちきなおとなが教壇に立っていたらしい。
その後、教員を専門に養成する師範学校、高等師範学校が設立され、全国の学校に多くの教員が赴任していく。
しかし、太平洋戦争を前後して、日本の学校教育は大きく方向性を転換する。それまでの教育を全面否定して、新しい教育を創造したのだ。
だから、こどもたちを天皇の赤子として戦場に送りだした教員たちが、同じ教壇に立つことを多くのひとびとが感情的に許さなかった。
無条件降伏をした日本政府が、中国やソビエトのように共産党勢力によって凌駕されるのを危惧した連合軍、とくにアメリカ政府は、戦後の日本社会に自由という発想を普及させた。自由は権利であり、何人もこれを奪っていはいけないという考え方を憲法に集約させたのだ。
その結果、学校では「ひとりはみんなのために」「みんなはひとりのために」という民主教育が広がっていく。そこで大きな力を発揮したのが、戦後の封建社会や中央集権的な政府のあり方に疑問を感じた新しい教員たちだった。
学校現場だけでなく、戦後の日本社会には、労働者の権利などほとんど認められていなかった。炭鉱でも、地方の農家でも、学校でも、役所でも、労働者は資本家によって病気になるまで働かされ続けた。そのなかから、自分たちの生活を自分たちの力で守ろうとするひとたちが、世界的な社会主義運動に共鳴して、労働者の組合を作り始めた。
日教組ができる以前の教員は、労働者と考えられていなかったので、生活のすべてを教職にささげるのが当然と思われていた。多くの教員たちが殉職の名のもとに命を落とした。給料は公務員のなかでも、とりわけ低かった。女性教員のなかには、出産直前まで勤務を強制させられ、出産後は解雇させられるケースもあった。
日教組は、そんな教育労働者に多くの権利をもたらした。戦う労働組合として、自民党政権と長く向き合い、ストライキも実行しながら、諸権利を獲得した。
しかし、多くの権利を勝ち取った日教組は、保守勢力による組合つぶしや、自らの権利を擁護することを優先する動きなどにより、少しずつ加入者を減らしていく。
現在、日教組に加入している教職員は全国で30パーセントになってしまった。教職員の70パーセントはほかの労働組合に加入しているか、どこにも入っていないかのどちらかなのだ。
わたしは新採用のときから毎月5500円の組合費を13年間払い続けた。支払った組合費の合計が100万円を超えたとき、労働組合を辞めた。
神奈川県は、厚木や横須賀にアメリカ軍基地をかかえ、アメリカ軍兵士やその家族による犯罪や事故に地元住民が巻き込まれるケースが多い。そういう地域事情から、労働組合運動が強い。だから、神奈川県内の公立学校の教員は、95パーセント以上は日教組に加入している。わたしのように途中で組合を辞めたひとを探すのは難しい。
最初から日教組に入らないひとや途中で辞めたひとを、神奈川県の教員たちは「ヒクミ」と呼ぶ。非組合員という意味だ。「ミクミ(未組合員)」「ジクミ(辞組合員)」と呼ばないところに、大きくなりすぎた神奈川県教職員組合の大きさを感じてしまう。
6770.6/3/2012
下りてゆく生き方...4
最初に距離を置いたのは、教員の研究団体だ。
どこの自治体にも、教科ごとに別れた教育研究団体がある。
多くのひとは、それは自治体の組織の一部だと思っている。授業をカットして研究会を開催しているのだから、そう思っても当然だ。しかし、実際は教員が年会費を払って運営している任意団体なのだ。そこに自治体から「おそらく」補助金が支出されているのではないかと推測している。すべてを教員の会費でまかなっているとは思えないほど支出は多い。
わたしは、その任意団体を35才ぐらいのときに辞めた。
それまでのわたしは強制的にみんなが入らなければいけない団体だと思っていたので、自然と加入していた。しかし、たまたま同じ職場になった同僚が
「会費を払うということは、自分の意思で入会したということなんだよ」
と、教えてくれた。
つまり、会費を払わなければ、入会したことにはならないのだ。
教員である以上、多くの研修や研究をするべきだと思う。
いつも自分のやり方ばかりに固執していたら、時代や社会から取り残されてしまう。
だから、教員の研究団体に加入する必要性は認める。
しかし、わたしが知っている限り、その教育研究団体は、初期の創設期の目的からかなり外れた団体として君臨している。
それぞれの教科部には部長がいる。その部長を経験したなかから、指導主事や教頭が選ばれる。そのなかから校長が選ばれる。つまり、教育研究会でのステータスが、昇級や昇格に影響を持っているのだ。
また、特定の教科部から指導主事や教頭が多く選ばれている。教科部間に人事上の軽重があるのだ。
こういう団体は、もはや教育研究のための団体とは呼べない。
純粋にこどもたちがよく理解できるように、教材や指導法を研究する団体とは程遠い。
だからわたしは、神奈川県やほかの民間教育団体が開催している研修会に参加している。また、本屋で積極的に関係書籍を収集し、日々の授業に活用している。
研究と研修。
似ている言葉だが、なかみは違う。
研究団体は、互いに授業を見せ合って、欠点を指摘する。長所を評価する。そして、互いの授業力の向上を目指す。こどもたちは、そういう研究授業においては、実験の対象になる。
こういう教育研究が可能だったのは、それぞれの研究会に各年齢層の教員がいたからだ。新人もいれば経験の長いひともいたのだ。
それが、いまは段階の世代の大量退職に伴って、若いひとたちしかいなくなった。だから、互いの授業を見せ合っても、何が欠点で何が長所かが把握できない。ひとに見せる授業をしなければいけないから、仕方なく研究授業をするという低いモチベーションが充満している。