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過去のウエイ

6769.5/29/2012
下りてゆく生き方...3

 2012年2月。
 購入から10年以上が経過している三菱のワンボックスカーの車検を通した。
 ほとんど運転しないので、購入から10年以上経過しているのに、走行距離は3万キロを過ぎた程度だ。
 運転しない車でも、車検を通したり、税金を払ったりするのは、釈然としないものを感じていた。
 もちろん購入した頃は、いまよりも自家用車が必要だった。しかし、祖母が亡くなり、母が亡くなり、祖父が亡くなり、こどもたちが就職し、生活のなかに車の必要性がほとんどなくなってしまったのだ。
 地域によっては、生活の足として車が必要なところが多い。
 だから、すべてのひとにとって車が不必要とは思わない。いつまでも車を必要とする地域が日本にはたくさんある。
 しかし、湘南地域に住むわたしは、幸いなことに、バスやタクシー、電車やモノレールが、生活のなかに溶け込んでいるので、移動手段としての自家用車は「なくても困らない」乗り物なのだ。
 いまの車検期間が満了する2014年2月までに、廃車にしようと思っている。
 インターネットでは、車の買取業務専門会社の宣伝をよく目にする。しかし、購入から10年以上も経過した車をお金を出して買い取ってくれるとは考えにくい。廃車に伴って、むしろ処分に必要な出費があるかもしれない。それを覚悟で廃車にするつもりなのだ。
 電機をエネルギーにした車に買い換える気持ちが、なかったわけではない。
 しかし、車検や重量税、自賠責保険に任意保険などの出費は避けられない。
 だから、もう自家用車を必要とする生活はやめる。
 そもそも、あれだけ多くのエネルギーを使う乗り物に、運転手たったひとりしか乗っていない場合、とても無駄が多いのだ。座席は数人分が用意されているが、公道を走っている多くの自家用車は、歩道から見える限りでは、定員いっぱいの乗車で運転しているケースは少ない。
 堀文子さんというもうすぐ100歳に近い洋画家がいる。
 彼女のモットーに「群れない・属さない・なびかない」というのがある。彼女は、日本国内にたくさんある美術団体に所属していない。一匹狼なのだ。
 所属することが当たり前のように思われる団体に入らない生き方。これも下りてゆく生き方に共通する。
 わたしは、いま教員という世界で、堀さんのモットーを実践している。少なくとも3つの団体から距離を置いている。

6768.5/27/2012
下りてゆく生き方...2

 ゆくゆくはスキンヘッドにしたい。
 高校時代に硬式野球をしていた。そのときにバリカンでつるつるの頭にしていた。大学時代はワンダーフォーゲル部に所属していた。山登りに長髪は不用だ。丸刈りではなかったが、スポーツ刈り程度の頭にはしていた。
 だから、髪の毛が短いことには抵抗はない。
 実際、丸刈りにしたら、ずいぶん下りた気分になる。
 シャンプーを使わない。顔を石鹸で洗った延長上に髪の毛まで洗える。
「髪の毛や頭皮は、石鹸では強すぎるからやめたほうがいい」
 アドバイスをもらった。ならば、顔をシャンプーで洗って、その延長上で髪の毛を洗おうか。
 そもそも髪の毛じたいが短いので何度も洗う必要がない。お湯の節約につながる。
 風呂から出て、乾いたタオルでさっと拭けば、寝巻きを着ているうちに髪の毛が乾いてしまう。ドライヤーが不用になった。ドライヤーが使う電気の節約になった。
 整髪料や育毛剤を使うわけがない。
 寝相が悪くて起きた朝、洗面台で鏡を見てぼさぼさの髪型にびっくり。あわてて、お湯やドライヤーでぼさぼさ頭に手を入れる。
 そういう心配も、時間も必要ない。
 よく見ると、短いながらも、あっちこっちで髪が右に倒れ、左に倒れてはいる。でも、だからどうなのだという気分になる。
 頭皮がよく見えるので、頭皮の具合に気持ちがいくようになる。乾燥していないか、汚れはないか。マッサージをすると、刺激がダイレクトなので、弱い力で済んだ。
 わたしの家は、北鎌倉の円覚寺の檀家だ。
 こどもたちは、円覚寺の幼稚園を卒園した。
 ずいぶん寄付もした。そのお返しなのかどうかは知らないが、円覚寺のロゴが入ったタオルやTシャツを持っている。
 丸刈りで、円覚寺Tシャツを着ていたら、古い友人に、仏の道に入ったのかと真顔で質問された。
 宗教的オーラは、まずは外見からなのか。
 下りてゆく生き方。
 髪の毛の次に計画しているのが自家用車だ。

6767.5/26/2012
下りてゆく生き方...1

 わたしは、これから少しずつ時間をかけて、いまの生活を、いまよりも不便なものに変えていく。
 それを、下りてゆく生き方と呼ぶことにした。
 今年度で50歳になる。
 あと10年で還暦だ。昔ならば公務員は定年退職を迎えていた。しかし、10年後は定年が延長されているかもしれない。年金の支給開始年齢が65歳になってしまったからだ。
 60歳で定年になると、65歳までの5年間を貯蓄で暮らさなければならない。
 まったくひとをバカにした話だ。
 そもそも年金は、クニの金ではない。
 支払っているひとたちの金ではないか。
 それを運用して利益を上げようとしたのだろうが、ことごとく失敗し、そのツケを支払ったひとたちに負わせようとしている。どうして、反乱や暴動が起こらないのか不思議なくらいだ。
 わたしは穏やかな余生を送りたいので、怒り心頭だけど、反乱や暴動には加わらない。
 すると、60歳以降をどうやって生きていくのか。
 金は限られている。
 退職金では、食いつなげないかもしれない。
 高齢者のアルバイトは期待できないだろう。
 少しずつ、日常生活のなかで「なくても困らないもの」を減らしていくしかない。節約の発想だ。
 給料を上げて、経済的に裕福な生活を送ることを、上ってゆく生き方と呼ぶ。わたしが勝手に呼ぶ。勝ち組という言い方は嫌いだ。
 その反対の生き方が、下りてゆく生き方だ。
 いきなり、なくても困らないものを捨ててしまうと、混乱するので、少しずつ10年かけて手放していこうと決めた。
 その手始めが、髪の毛だ。
 頭に生えている髪の毛だ。鼻毛や眉毛ではない。
 最初はスポーツ刈りにした。2ヵ月後にバリカンとはさみ併用のスポーツ刈りにした。2ヵ月後に、全部バリカンにした。いわゆる丸刈りだ。

6766.5/22/2012
大きな溝...story3

 晴れた日に、こどもたちを連れて近くの公園に行く。
 公道を歩く学習や、交差点を渡る学習を、実際に行っているのだ。
 直接的な体験は、どんな座学よりも有効だ。
 公園に着くと、午前9時過ぎにもかかわらず、近くの公立中学校の制服を着た男子や女子がベンチで携帯電話をいじっていることがある。なかには、タバコを吸っている者もいる。
 その公園は、となりの小学校の学区内にあるので、わたしが勤務する小学校の卒業生ではない。見知らぬ顔なので気楽に声をかける。
「きょうは学校に行かないんだ」
 まさか、声をかけられるとは思っていなかったらしく、多くの中学生は返事まで時間がかかる。うなずくだけのこどももいる。
 しかし、少しずつ話を聞いてみると、内面の複雑さを表してくれる。
「校門までは行ったけど、生徒指導のヤツ(教員)が、服装が乱れているから帰れって言った」
「茶髪を黒に戻してから登校しろって言われた」
「遅刻していったら、校門に鍵がかかっていて入れなかった」
「どうせ勉強なんてなにもわからないし」
「あいつら(教員たち)だって、俺たちがいない方が清々していいんだよ」
 どうやら、中学校は校則や学校の流れに従うこどもには門戸を開くが、その流れに乗れないこどもを排除し始めているらしい。
 小学校ではありえない。と、思いたい。
 こどもが生活状態を悪化させていく。その理由は学力低下と家庭環境の劣化。大きく、この2つに集約される。
 勉強がわからないこどもをていねいに指導する学校では、非行やいじめは起こりにくい。もともと能力はひとによって異なるのに、全員を同じ基準まで引き上げようとするから無理が生じる。それぞれが自身を持てる分野とか教科を見つければ、ほかがややわからなくてもやけになることは少ない。
 家庭環境は経済的なものと比例していない。貧しいとか裕福とか、そういう基準は環境の善悪とは無関係だ。父や母、兄弟姉妹などの家族のなかで、本人がどんな位置づけにあり、家族が総体として、どのように機能しているのかが問題になる。互いの存在を無視し、あるいは服従と支配の関係で結び付けている場合が、劣化環境へと発展する。劣化した家庭は、玄関のドアを開けただけで、すさんだ空気がどよんと漂っている。こどもの居場所が感じられないのだ。
 校則は学校の流れに従うこどものなかには、そのことがいやでいやでたまらないこどもも少なくない。
 だから、平日の昼間に公園で日向ぼっこをしている中学生と、我慢の限界に日々挑戦し続ける中学生と、どちらが幸せかはわからない。

6765.5/22/2012
大きな溝...story2

 わたしたちは教科指導のプロだが、心理的なアプローチのプロではない。
 だから、小学校の特別支援学級では、しばしば臨床心理士やスクールカウンセラーたちのアドバイスを重用する。
 プロの見立てを、授業や学校生活の具体的な日常に実践として生かしていくのだ。
 ひとりのこどもを複数の主眼で支えていく。
 ところが、中学校のなかにはそれを受け入れないところがあるらしい。
 あまりにも管理的な中学校の特別支援学級の教員がいるというので、
「臨床心理士の方に授業参観をしてもらって、有効なアドバイスをしてもらったらいかがでしょう」と返事をする。
 すると、保護者から応答は、次のようなことが多い。
「もう何度も心理士の先生が学校宛に参観を申し込んでいるのに、まず返事すら寄越してくれないそうなんです」
 つまり、中学校側は門前払いをしているのだ。
 これでは、学校が閉鎖的と批判されても仕方がない。
 なかには、養護学校へどうして行かなかったのかと詰問されるケースもあるという。公式な記録の残る発言ではないので、保護者が問題視しても、学校側は発言を否定するだろうが。
 もちろん、わたしが知っている中学校の特別支援学級の教員には、尊敬するすばらしい教員も少なくない。
 だから、わたしが相談を受けるようなケースが、すべての中学校で行われているとは信じたくない。
 だが、保護者が以前の小学校の教員にまで、悩みの矛先を向けざるを得ないというのは事実なのだ。もしかして、わたしがその相談を中学の教員に連絡して、逆恨みされてしまう危険性を冒してまで。
「こどもの社会性は家庭のしつけの問題です。集団へなじめないとか、特定の個人にいやがらせをするというのは、親の育て方が悪いからです。家ではどんな育て方をしているのですか」
 まるで、先ごろ、大阪市議団が撤回した家庭教育に関する劣悪条例を推奨するような発言をする教員もいるという。
 自閉症スペクトラムのこどもの多くは、集団への適応不全を特徴にしている。だから、こんなことを言われたら、保護者は自分の責任でこどもが生きにくさを背負っているとショックを受ける。
 集団への適応不全は、あくまでも結果としての症状に過ぎない。
 起因している脳の状態を理解する必要がある。複数のひとがいる場所では、ひとが多くの考えをもっている。それをそれぞれに喋っている。自分はどの発言を聞けばいいのか、あるいはどの発言を無視すればいいのか。情報処理の力が弱いと言われている自閉脳では、仕方がないのですべての情報を記憶しようと努力する。
 そんなことには限界があるので、やがて思考がパニックを起こし、わめいたり、逃げたりせざるを得なくなる。

6764.5/19/2012
大きな溝...story1

 中学校へこどもが進学した保護者から相談の電話を受けることがある。
 小学校時代は特別支援学級に在籍して、中学も特別支援学級に入学した保護者たちだ。
 大きな環境の変化にこどもが戸惑い、入学して1ヶ月ぐらいで、登校を渋るようになるという。
 最近は、小学校と中学校の教員交流が始まっている。
 中学校の教員が小学校の授業時間帯にこどもの様子を観察に来る。当然、観察するのはこどもの様子ばかりではなく、こどもが過ごしている教室環境や、わたしたち教員の接し方も観察していく。
 中学校に進学した保護者からの相談の多くは、中学校では全体での動きが多すぎて、そこから外れたり、そのなかでわめいたりすると、強制的に隔離されてしまうというものだ。
「廊下に立っていなさい」
 古典的な指導が行われているらしい。
 特学のこどもが廊下に立っていても、じっとしているとは思えない。そのうちに、ふらふらとどこかに行ってしまう。すると、そのことがまた教員を怒らせてしまう。
「立っていろと命令したのに、どうして他のところに行ったんだ」
 叱る内容が増えてしまうのだ。
 わたしの経験では、特学に在籍するこどもに、何らかの罰を与えるときは、本人に理解できない罰を与えてもまったく効果がない。
 全体での動きについていけない理由がこどもにはある。
 その理由をとらえ、少しずつ小さな集団から適応できる指導を積み重ねるしかないのだ。そのプロセスでは、反抗的な態度や批判的な言動には厳しく対処する。
「いまの言い方では、相手をいやな気持ちにさせるだけだ」
「その態度は、わかってくれるひとの人数を減らすだけだ」
 あなたは、ひとりぽっちになりたいのかい?
 一般的に自閉症のこどもは、ひとりでいることが多いと誤解されている。
 これも、多くの自閉的傾向のこどもと接してきた経験からわかることだが、決してひとりが好きなわけではない。
 彼らは自分の気持ちをうまく言葉にできない。相手の気持ちをうまく理解できない。だから、ひとりでいた方が「ラク」だと感じてしまうだけなのだ。
 ひとりでいた方がラクだが、だれかと遊ぶ方が楽しいに決まっている。ひとと会話する方が楽しいに決まっている。
 怒った顔に睨まれるよりも、笑顔に包まれた方が嬉しいに決まっているのだ。

6763.5/15/2012
坂の下の関所 第15章...story334

 赤坂さんがよく関所で飲んでいた日本酒。
 ピンクの紙パックでしたね。いまも大型冷蔵庫の入り口に置いてあります。
 ほかのひとの残りなのか、赤坂さんの日本酒なのかはわかりません。
 いつも、わたしの日本酒を取りに冷蔵庫に入るときに、目に触れるので赤坂さんのことを思い出します。
 きっとお医者さんから大好きなアルコールは止められているのでしょう。でも、赤坂さんのことだから、こっそり自宅では飲んでいるのかもしれませんね。
 先日、烏丸さんがおでこに小さな切り傷を作って酒を飲んでいました。
 理由を聞きました。
「いい調子で飲んでてさ。家まで帰ったのはよかったんだけど、家のなかで、すってーんだよ」
 洗面台で自分の顔を見たら、血みどろだったみたいです。
 関所の立ち飲みメンバーは、酒に酔ってけがをしながらも、以前と同じようにわいわい夕方のひとときを楽しんでいます。
 いつか、赤坂さんが元気になって、ふたたび関所に立ち寄っても大丈夫なように、奥のコーナーは空けてあるみたいです。

 大型連休が終わり、関所にいつものメンバーが戻ってきた。
「ただいまぁ」
 わたしは藤沢の職場から1時間をかけて歩いて戻ってきた。背中には汗をかいている。
「やぁ、センセー久しぶりだなぁ」
 関所の中央奥の大型冷蔵庫前で烏丸さんが、焼酎のウーロン茶割を飲んでいた。
「お久しぶりです。烏さん、連休中はどこかに行きましたか」
 烏丸さんはにっこりして言う。
「ちょっとあったかい地方へな」
「西の方ですか」
「瀬戸大橋を渡って、淡路島とか香川とか、最後は広島に行って戻ってきた。一回だけ車で寝たけど、あとは民宿泊まり」
「それは、うらやましい」
 烏丸さんはドライブが趣味なので、軽のパジェロでどこまでも行ってしまう。
「センセーは、何をしていたの」
「わたしですか。わたしは野田の湯というお風呂屋さんに行き、関所という酒屋さんに行っていました」
 目尻にたくさんのしわを作って、烏丸さんが笑う。
「そりゃ、ぜいたくな連休だなぁ」
 あーあ、レジで若女将が背伸びをした。
「みんな、いいなぁ。でも、わたしは来週お仲間と鎌倉山に行くからいいんだ」
 少しずつお金を積み立てて食事会をしている仲間がいるそうだ。今回は、ローストビーフの鎌倉山に行くと言っていた。
 くれぐれも、事前に舞い上がりすぎて、当日までにエネルギーを使いすぎないように。
(15章・完)

6762.5/14/2012
坂の下の関所 第15章...story333

 赤坂さん。
 4月に嬉しい便りを聞きました。
 娘さんに連れられて、首都リーブスに来られたそうですね。
 永田さんが教えてくれました。たまたま仕事を早く終えて、関所に来たときに、赤坂さんが娘さんと来たと。
 藤沢のアパートは引き払って、いまは娘さん夫婦の近くに引っ越したとか。
 退院をして、リハビリを続けながら、元気なからだに戻れるようになってください。首都リーブスへは、もしかしたら退職に関する手続きだったのかな。
 わたしが、関所で立ち飲みを始めるきっかけを作ってくださったのは、間違いなく赤坂さんです。
「ここではなぁ、センセー、みんな勝手に飲んでるんだ。だから、自分の酒をひとにやったり、ひとの酒を自分がもらったりしちゃいけねぇんだ」
 そんなルールをもっともらしく教えてくれましたね。そのくせ、自分はせっせと烏丸さんに日本酒をあげていたのを、わたしは知っています。
 関所の仲間。
 少しずつ、メンバーが入れ替わっています。昔からのひとだって元気なひともいます。
 ご近所の一葉さん。おかずをちょっと作ってはいまも差し入れしてくれます。先日は、ナナフシのようなキャラぶきをプレゼントしてくれました。
 ここにも書きましたが、泥橋さんはゴールデンウィークにも戻ってきました。連日、飲み続け、奥さんの顰蹙をかっていました。一日、2万円ぐらい使っているみたいです。
 佐藤先生はいつもながら元気です。福島のマラソンにも出場したそうです。先日は、製薬会社主催の研究会でもらったお弁当を食べないで持ってきました。なんと御代川の二段重ねの豪華弁当です。大将にあげていました。
 極楽寺のカディさんは相変わらず香辛料を手土産に、プール通いを続けています。最近は、粟とか稗のようにインド原産ではない食材を扱おうとしています。プールの前にビールを飲むことがすっかり習慣になってしまいました。
 シンロートの相田さんは、昇進したみたいで、スーツでネクタイという姿で関所に来る回数が増えました。でも、以前のように遅くまで関所にいることが減って、若女将がちょっと心配しています。
 定年退職後も嘱託として残った山ちゃんは、週末の競馬をいまも楽しみにしています。決して大当たりをしても、そのことは教えてくれません。
 おもに鳥藤の常連客の鎌倉さん。赤坂さんと同じ首都リーブスの社員です。退職までに宝くじを当ててアマゾンに移住する計画をまだ実行していません。先日は1週間の休みをとってスキーに行っていました。帰ってきてから聞いたら
「スキーをしている時間よりも、ロッジで休んでいる時間のほうが多かったよ」
と教えてくれました。

6761.5/13/2012
坂の下の関所 第15章...story332

 かけ湯をして下半身を洗い、わたしは泥橋さんのいる日替わりの湯に入る。
「お久しぶりです」
「やぁやぁ、センセー、元気」
 あまりこういう公衆浴場で、職名を出さないでほしいんだけど。
「はぁ、何とか。泥橋さんはこっちに戻ってきてんですか」
「ほら、きのう会社の創立記念日だったから、半ドンでさ。きのうの午後から戻ってきた」
 泥橋さんは、もともと大船にある機械工場で働いていた。
 しかし、親会社の都合で2月下旬から3ヶ月間、静岡県に出向に行っている。もうすぐ60歳定年だというのに、大企業は容赦ない。
「もしかして、きのうこっちに来てから、ずっと飲み続けているでしょ」
「わかる」
 何となく、けだるい表情の理由は、アルコールだったか。
「きのう観音食堂で夕方までいたじゃん。そんでもって、フラフラしながら関所に行った。それから、今度はほらバス停近くの焼き鳥屋」
「鳥藤ですか」
「そうそう、でもママに怒られちゃったよ」
「また、何かしたんですか」
「センセー、聞き捨てならないこと言っちゃいけないよ。またとかそういうの」
「いや、いくつも伝説を作っている泥橋さんだから」
 泥橋さんのおでこから大粒の汗が頬をつたう。
「焼き鳥屋に入るなり、フラフラで何言ったか覚えてないの。ただ、ママが怒っていたことだけは覚えてる」
 かなりわがままをやってしまったのだろう。
「向こうでの生活はいかがですか」
「それがさ、会社の寮と工場の往復だけで退屈なんだよ」
「飲んでないんですか」
「町まで行くと門限に戻れなくなるから、寮の部屋で缶ビール一杯だけだよ」
 にわかには信じがたい。
「部屋でそれしか、飲まないの」
「仕事前に血圧とアルコールのチェックがあって、引っかかると帰らされちゃうんだよ」
 なるほど、飲みたくても飲めない仕組みになっているんだ。
「じゃぁ、睡眠時間がたくさん確保できますね」
「それが、ちっとも眠れなくて、薬を飲んじゃってるよ」
「えー、そうなんですか」
 もしも、アルコールがないと眠れない脳になっているとしたら、泥橋さんのからだが心配だ。

6760.5/11/2012
坂の下の関所 第15章...story331

 4月21日は晴れた土曜日だった。
 わたしは、午前7時前に娘と娘の日本画作品と画材を車に積んで多摩美術大学に行った。昨年の暮れに、大学の課題で大きな作品を描くので、画材とキャンパスになる大きな板を大学まで受け取りに行った。
 車なら電車よりも早くて便利だろうという世間知らずの娘は
「8時頃、出発すれば大丈夫だよ」
と、暢気なことを言っていた。
 国道16号線。八王子方面。休日に鎌倉を午前8時に出発したら、途中でたくさんの渋滞箇所にぶつかることが予想できた。
 しかし、わたしは娘に自分の考えの甘さを感じてもらうには、大変だったという経験が必要だと考えた。だから、望みどおり、そのときは午前8時すぎに出発したのだ。
 案の定、道路は渋滞だらけで、橋本にある大学キャンパスに到着したのは11時を過ぎていた。帰りも同じぐらい時間がかかり、鎌倉に戻ってきたのは午後2時ごろだった。ほぼ一日をかけたドライブになってしまったのだ。
 今回は、そのときの記憶をいかし、なるべく早く行こうと娘から言い出した。
 ひとは失敗から学ぶ。
 親が失敗をおそれて、こどもに成功ばかりさせていると、生き方を知らないこどもが育つ。
 昔から、失敗は成功のもとというではないか。
 土曜日の早朝、藤沢から用田を抜けて、県道40号線を北上した。国道をなるべく通らないルートをタクシー運転手の宇佐斗さんに教わっていた。
 カーナビなどついていない。
 娘に地図を渡してナビゲートしてもらう。
 地図が10年以上古いもので、そこに掲載されているコンビニやガソリンスタンドの多くが閉鎖されていた。
 大学には、9時頃到着。作品をアトリエに置いて、すぐに戻り、11時過ぎに鎌倉に戻った。
 往復とも前回よりも1時間短縮した。
 午後は、わたしの大好きな町、大船を歩く。
 駅東側に栄える仲通商店街は、いつでもひとでにぎわっている。歩くだけで元気がわいてくる。
 午後3時を気にしながら、近所の銭湯「野田の湯」に到着した。
「あれ、泥橋さんじゃないの」
 日替わりの湯で、玉の汗を流している泥橋さんを発見した。