6689.12/10/2011
輝く星にならんことを...1
12月になったと思ったら、急に空気が寒くなった。
わたしは音楽の指導リーダーだ。
支援級では複数のおとなが授業を担当する。音楽のようにみんなで学習する授業では、ひとりのおとながリーダーになり、ほかのおとなはフォロー(支援者)になる。
「きょうは急に寒くなりました。こういう日は、からだが冷えてしまいます」
うんうんとうなずくこどもたち。
特別支援学級。
普通小学校のなかにあって、個別支援を中心とした学習プログラムが用意されている。
しかし、音楽、図工、体育は原則的に支援級のこどもたちみんなで学習する。1年生から6年生まですべての学年のこどもたちがそろっている。同じ年齢のこどもたちで学級を編成する通常級とは集団の年齢構成が異なる。
「さて、からだが冷えてしまうと、ひとはどうなってしまうでしょう」
健康教育のつもりで質問をした。ねらった解答は「風邪をひく」だ。
はーい、はい。あちこちで手が挙がる。
思ったことをすぐに口にしないで、手を挙げて、指名されてから応えるという指導はいつもしている。何も思っていないのに、指名されたいから手を挙げるのはご法度ということも指導しているが、なかなか理解してくれないこどももいる。
「からだが冷えると、冷たくなります」
「寒いです」
風邪という概念は難しかったか。
「そっか、わかった」
6年生の芳雄(仮名)が自信をもって手を挙げた。彼なら答えられるかもしれない。
「はい、芳雄くん」
芳雄は立った。そして、胸を張って言った。
「からだが冷えてしまうと、鍋がいいですね」
きみたちの感性が、きみたちのピュアな気持ちが、そのまま受けいれられる社会の実現を目指したい。そんな社会で、きみたちは暗闇を照らし続ける輝く星であり続けるのだ。
6688.12/6/2011
11月7日。義母は入浴した。おそらく午後8時ごろに入浴した。
義兄がそれ以前に風呂から出ている。
里芋のにっころがしを作って、タッパーに入れ、冷蔵庫にしまった。
その後で、入浴したのだろう。
午後10時。星が降る伊那の夜。義兄が庭先の片付け物をしていたら、まだ風呂場から電灯が漏れていることに気づいた。不審に思って、風呂の扉を開けた。
湯船で義母が眠っていた。おぼれていたわけではなく、静かに目を閉じて眠っていた。
声をかけても目覚めない。義兄は義母を抱きかかえて居間に行く。からだを拭いて服を着せ救急車を呼んだ。
日付をまたぐ前後、義母は病院で息を引き取った。急性心筋梗塞だった。
通夜と葬式は平日に行われた。わたしは仕事の関係で欠席した。
そのかわり、金曜の仕事を終えて、深夜に伊那にたどりついた。
「ここに来るのが遅くなって、申し訳ありませんでした」
義兄に頭を下げる。
「まずは、線香を」
わたしは、仏壇で手を合わせる。
いまの小学校に勤務した7年前の春に、わたしは実母を亡くした。それから7年経って、今度は義母を亡くした。
6687.12/4/2011
飯田線の伊那市駅に、わたしは午後8時40分頃に降り立った。
外気に触れてびびった。そこは久々に味わう冷凍庫感覚だったのだ。あわてて、袖を長く戻し、ジャンバーを羽織る。
とっくにバスは最終を過ぎていた。
タクシーが一台停車していたので、それに乗る。住所を告げる。
「こないだまで、横浜まで行ってたもんでね。この辺の地名は勉強中なんです」
初老に思えるドライバーは、わたしの告げた住所に首を傾げる。
「ま、何となくわかるから近くまで行ってみようかね」
そんなんでいいのだろうか。
ドライバーは、わたしが神奈川から来たと知ると饒舌になった。
「横浜の大黒埠頭まで車を運んでいたのよ。キャリーカーで。相模湖とか津久井湖とか通ってね。甥っ子が横浜スタジアムの近くに住んでいて、よく横浜には休みの日には行ったものだよ」
仕事でいつも行っていながら、さらに休日にも行っていたのだろうか。突っ込むとややこしくなるので、はぁはぁと受け流す。
「さてと、この辺なんだけど」
たどり着いた場所は、確かに実家に近い場所に思えた。しかし、ろくろく街灯がない農地のまんなかで「この辺」と言われても周囲は真っ暗なのだ。標識になるものが見当たらない。
「ちっと待っててね。その辺、行って、聞いてくっから」
ドライバーは、エンジンをかけたまま車を降りると、出かけてしまった。
その辺とやらには人家はなかった。暗がりにドライバーが消えた。道を知らないドライバーが運転するタクシー。なんとのんびりしたことか。わたしが窃盗犯だったら、このままタクシーごととんずらするかもしれないのに。
「一個、早く角を曲がっちゃったね。ちっと戻るから。これ、もういいや」
ドライバーは料金メーターを止めた。
心底、いいひとなのだろう。
6686.12/3/2011
厳冬の伊那は、あまり雪が降らない。
「こっちはね、雪が降ったほうがむしろあったかいもんでね」
義母が、囲炉裏で名物の五平餅を作りながら教えてくれた。
農作業の途中で用が済ませるように、便所は屋外に設置されている。
本物の五右衛門風呂に浸かったのも、妻の実家が初めてだった。
外で薪をくべながら「湯加減はどうかね」と尋ねる義母に、本当はややぬるかったのだが「ちょうどいいです」と応じて気兼ねをした。外気は氷点下なのだ。お湯から出ている部分がどんどん冷えていく。首はおろか、耳近くまで湯に浸かる。それでも耳たぶは痛いほど冷えた。のんびりからだなど洗っていたら凍えてしまいそうだ。シャンプーなど見当たらなかったので、石鹸で髪の毛を洗ったら、ごわごわしてしまった。
「よーく髪の毛を乾かしてね。まちがっても手ぐしなんかしちゃいけないよ」
風呂の後にトイレに行くわたしに、土間の奥から義母が教えてくれた。
トイレまで10メートルぐらいあっただろうか。小さなオレンジ色の電灯が揺れている。用を足しているとき、自分の鼻の穴のなかが凍っていく気がした。
手を洗う。タオルで拭く。無意識に手ぐしをしたら、ポキッと髪の毛が折れた。瞬間的に凍ってしまっていたのだ。吐く息はタバコの煙よりも白かった。
見上げると、空一面に大小の星が隙間なく輝いていた。
きっと、日本の多くの地域はこういうところなんだろうなぁ。都市部は全体のほんの一部に過ぎないんだろうなぁ。
布団を敷く。こたつが中心にあって、四方に四つの布団を敷く。こたつは3台ぐらいあった。足は常時こたつのなかに入るようになっていた。
6685.11/29/2011
特急あずさ25号は、東京都を抜け山梨県に入る。
窓外は真っ暗だ。
午後6時ともなると、11月中旬では仕方がない。
わたしは、新宿で買ったプレミアムモルツで食後の喉を潤す。
もしも自家用車を運転していたら絶対にやってはいけないことのてんこ盛り。飲酒、食事、わき見。
そして、眠気が襲い、わたしはいつの間にか睡魔に負けていた。
気がついたら、下車する岡谷が近づいていた。わたしはあわててビーサンから運動靴に履き替える。長距離電車に乗るときは、わたしはビーサンを室内履きとして使う。足が靴にぎゅっと押さえ込まれる感覚が好きではないので、開放的なビーサンを好む。
午後7時半。あずさは岡谷駅に到着した。飯田線に乗り換える客がかなりいたので驚いた。もしかしたら、単身で都内で働き、週末に住まいのある飯田線沿線に戻るひとたちがいるのかもしれない。
3分の接続で飯田線に乗り換える予定だったが、来ない。
ホームには、運動部の生徒と思われる若者たちが多かった。信州育ちなので、みなさん肌の色が白い。透き通るようだった。サッカーや野球をやっていると思われる男子も、湘南のべたつく太陽に焼かれたような肌の色ではなかった。
予定よりもやや遅れてワンマンカーの飯田線が到着した。車掌がいない。運転席近くに、バスのように料金表がついている。無人駅では、運転席近くのドアのみ開閉する。運転士がいちいち運転席から出てきて、切符を改札したり、定期を見たりしている。乗客も、そのドアしか開かないことを知っているようで、みんな運転席近くのドアから乗ってきた。
外の寒気に負けないように、車内は常夏のように暑かった。とくにベンチの下に暖房でもあるのか、わたしはお尻が焼けるのではないかと思った。周囲を見回すと、そんな車内であるにもかかわらず手袋やマフラーをしている若者が多かった。さっき岡谷のホームにいたときと同じ格好のままだ。わたしなど、ジャンバーを脱ぎ、袖をまくり、タオルで額の汗をぬぐっているというのに。
6684.11/27/2011
妻の実家は、稲作を中心とする専業農家だった。
日本の米を生産する仕事を昔からずっとやり続けてきていた。
わたしが、伊那に行った頃は、もう米だけでは喰っていかなくなっていて、野菜もだいぶ育てていた。自民党の減反政策によって、農地を水田から畑に変えたのだ。
「一度、水を引いた田んぼを畑にするのに何年かかると思ってんだ」
義父がよく怒っていたのを覚えている。
「まったく父ちゃんと来たら酒ばっかり飲んでいて」
そんな義父を、いつも義母が怒っていたのも覚えている。
義父は、早朝からきゅうりやなすを収穫して農協へ持っていく品物を箱詰めする。まだ朝日が昇る前の仕事だ。畳で6畳ぐらいあろうかという土間に新聞紙を敷く。そこにプラスティックのかごに収穫してきた野菜を広げる。大きさや傷を点検して箱詰めするのだ。
伊那は、もともと諏訪湖から流れる天竜川沿岸に栄えた村落だ。
伊那谷と言われるぐらい木曽駒ケ岳と南アルプスに挟まれた谷あいが続く。
農地としては適していないのではないかと思えるほど、平らな土地が少なく、起伏が多い。
そんななかで、手良(てら)野口の蟹沢(かにさわ)という地域で、義父は本家を背負っていた。2011年秋のいまでもそうだが、地域には親分子分という人間関係が存在している。血縁関係とは関係ない。基本は仲人が親分で結婚したひとが子分らしいが、みんなが結婚するとは限らないので、例外的な規定もあるらしい。
義母は、別の村落から嫁入りした。
「昔は、農家の嫁はそりゃ大変でねぇ。言葉は悪いけど、奴隷みたいなものでした。ご飯を作っても、家族といっしょに食べることなんかできなくてね」
畳が4枚ぐらい並べられる縁側で、日光浴をしながら義母が教えてくれたことがある。
「親分子分を知らないと、冠婚葬祭のとき大変でね。親分の葬式には必ず、子分を呼ばなきゃならないから」
義母にも、当時から子分がいたことを教えてくれた日が懐かしい。
6683.11/26/2011
わたしが乗ったのは、新宿駅17時ちょうど発の「特急あずさ25号」だった。一般的にレインボーカラーと呼ばれている新型車両だった。
スーパーあずさに比べて、スーパーがついてないので、貧相に聞こえるが、どういう違いがあるのか、わたしにはわからなかった。知り合いに聞いても「多少、停車駅が多い程度じゃないの」とのことだった。
レインボーカラーのあずさは、スーパーあずさに比べて、座席が広くできていた。わたしは、広い座席が好きなので、むしろこちらの車輌で助かった。
30種類のバランス駅弁の蓋を開ける。
蓋の裏に弁当に使われている30種類の材料が書かれている。端からすべてチェックしながら食べた。
枝豆。うん、どこにあるんだ。探してみたら、ひじきのなかにたった一粒、むいてある枝豆を発見した。これでも1種類としてカウントすれば、合計で30種類ぐらいにはなるだろうなぁ。
17時発の中央線なので、窓外の景色は真っ暗だった。三鷹や立川など、大きな駅に近づいたときだけ、ネオンが光った。駅と駅の間は、生活しているひとがいないのではないかと思うぐらい真っ暗だった。
窓に映る自分の顔。
列車の旅を楽しんでいる場合ではないのに、かなりにやけている。特急列車を使っての旅は、とても久しぶりだったことに気がついた。
6682.11/22/2011
伊那に住む義母とわたしが初めて会ったのは25年前になる。
結婚の挨拶に向かったときだ。
そのときは、車を運転して行った。
わたしの父の母方は長野市が実家だった。だから、長野県とは少なからず縁があったが、諏訪から飯田線沿線方面には、縁がなかった。北信と呼ばれる長野市に比べて、南信と呼ばれる伊那谷を抱える天竜川沿いは、わたしにとって未知の土地だった。
戦後、すぐに全国に先駆けて、通知表をなくした伊那市立伊那小学校が有名だということは教員になってから知った。
近所の画家が、毎年、伊那の近くの桜の名所、高遠というところでデッサンをするというのは、こどものときから知っていた。
すでに法律上は、本人同士の気持ちによって結婚は認められていた。
しかし、互いの両親の許可を得られるかどうかは、その後の結婚生活に影響を与えるだろう。たとえ反対されても、婚姻届は出すつもりではいたが、それでも義母や義父になるひとたちとの面会は緊張した。
彼女の実家は、当時でも少なくなりつつあった専業農家だった。それも稲作を中心とした専業農家だった。なおかつ、地元一体を取り仕切る本家だった。これだけ、古きよき日本の生産社会を背負い込んでいれば、わたしのような青二才はかなうわけがない。
「結婚なんて許さん」
そう言われれば、はーいと星の彼方へ吹っ飛ばされてしまいそうだった。
初めて訪ねた本家は、土間だけで、当時のわたしのアパートの全床面積を越えていた。
靴を脱ぎ、荷物を置き、囲炉裏端に腰を下ろす。民芸店のお飾りの囲炉裏ではない。天井まで真っ黒になる本物の囲炉裏がそこで赤く燃えていた。
「いやぁ、よく来てくんなすったね。こっちは、半端じゃないほど、寒いもんでね。まぁ、ちょこっとどうです?」
緊張するわたしに義母は、いきなりビールを勧めてくれた。
6681.11/20/2011
11月11日。午後2時半に、わたしはこどもたちを下校させ、休暇を取った。背中には大学時代から使っている40リットルのアタックザック。財布の乗車券は、飯田線の伊那市駅まで。 往復9560円もする6日間有効のレアな乗車券だ。わたしは列車の旅が好きだ。だから、乗車券を手にするだけでワクワクしてしまう。
藤沢から湘南新宿ラインに乗った。東海道線乗り入れの湘南新宿ラインは、横須賀線乗り入れの湘南新宿ラインよりも停車駅が少なく、シートに揺られながら、一週間の仕事疲れにうとうとしていたら、あっという間に大崎だった。
新宿まですぐじゃないか。慌てて、眠気をぬぐい去る。
久しぶりに降り立った新宿駅は、かなりあか抜けていた。通過することはあっても、乗り換えのためにホームに降りたのは、26年前の大学のとき以来かもしれない。
大学時代にワンダーフォーゲル部に所属していたわたしは、たびたび新宿駅を利用した。八ヶ岳、南アルプス、北アルプス、奥多摩などに行くときは、新宿駅のアルプス広場が集合場所になる。重たいキスリングを背負って、片足が1.5キロもある登山靴で歩く。出発のときは食料が満タンになっているので、荷物の重さは60キロ近い。地面に下ろしたり、地面から持ち上げたりするときに、コツをつかまないと腰をやってしまう。そのために腹筋や背筋を日夜鍛えていた。
久しぶりのアルプス広場は、携帯電話の販売会をやっていた。
昔の思い出に浸るような雰囲気は、なくなっていた。
出発時刻の17時まで時間があったので、わたしは中央線特急の出発ホームに行ってみた。そこには、わたしが乗る予定の一本前の「特急スーパーあずさ・松本行き」が入線していた。
パステル調の紫を基調としたスーパーあずさ。わたしはデジタルカメラのビデオ機能を使って、ホームの端から端まで車体を撮影した。
客席ではすでに駅弁を広げて、緑茶を飲んでいる家族連れが多かった。なかにはビジネススーツの男性が、必死にマンガを読んでいる。おいおい、そんなに急いて読むと、あっという間に読み終わってしまうよ。
窓辺に缶ビールを置いて、テーブルに柿ピー。うまそうにビールを飲むひとたちも多い。思わず、こちらの喉が鳴る。
そうだ、駅弁やつまみ、飲み物を買わなきゃ。
わたしは、カメラをリュックにしまい、フードコートへ向かった。
6680.11/19/2011
NK細胞と睡眠...7
睡眠時間の確保は大事なことだが、いつ寝るかということも体内時計的には重要な意味がある。外部からの侵入者をやっつけたり、がん細胞を退治するNK細胞が活動をひかえる時間帯は、なるべく体力を温存してリラックスできる状態に保つことが必要だ。
ときどき深夜の電車に乗ることがある。仕事帰りのひとたちがたくさん乗っていることに驚く。働かないと仕事がなくなる。給料ももらえない。しかし、ひとのからだの声を無視して、働き続けると病気になってしまう。
2011年版の最新情報として、人口10万人に対する自殺率という統計がある(WHOによる)。
それによると、世界トップはリトアニアの34.1人。2位は韓国の31人。3位はロシアの30.1人。どの国もとても多い。藤沢市は35万人の人口なので、年間で100人、3日にひとりが自殺する計算になる。
日本は、世界8位の24.4人。WHOが集計しているデータは105カ国(と地域)あるので、8位は残念だがとても上位に該当する。
2008年に統計をとったグレナダという国ではひとりも自殺したひとがいない。
アメリカは42位、イギリスは59位、イタリアは62位、ギリシャは80位、ジャマイカは97位。
日本は、先進国のなかでずば抜けて自殺するひとが多い国だ。
毎日、電車で通勤しているわたしは「人身事故の影響で電車が遅れています」というアナウンスをこれまでに何度も聞いてきた。三日も四日も続くこともある。
自殺するすべてのひとが、睡眠時間の偏りによる体調の悪さが原因ではないだろう。しかし、体調を悪くしたり、精神のバランスを崩したりするきっかけに睡眠時間の偏りが長期間続いたことがあるのではないか。
ナチュラル・キラー・セル。
人体は、すばらしい細胞を作り出した。それも、遺伝子レベルで能力を獲得したのではなく、誕生とともに「学習」しながら、自分と他者を区別できるようになっていくという。だれがどのように指導するのかなど、未解明な部分が多いが、そういう仕組みがあるのに使わないのはもったいない。 あるいは、からだに無理を強いて、自分で自分を修復していく仕組みを弱くしてしまうのはもったいない。
風邪をひいたら治りにくくなった。けがをしたら治りにくくなった。ちゃんと寝ているつもりなのに昼間も眠い。昔は徹夜をしてもなんともなかったのに、いまは遅くなると眠くなる。なかなか寝つけない。
専門機関で、NK細胞を含む免疫系の力が落ちていないかを調べてもらい、生活改善に役立ててみてはいかがだろうか。