top .. today .. index
過去のウエイ

6649.9/14/2011
坂の下の関所[14章]story284

 9月になっても暑い日が続いていた。
 ことしの9月11日は、アメリカの同時多発テロから10年、3月の東日本大震災から半年という区切りだった。
 8月の終わりで、関所への食事の提供は終わっていた。
 わたしは、9月になってから、関所に給食の献立を持参した。それを永田さんに渡したら、関所のカレンダーの壁に貼った。
「これこれ、うずら玉子の五目煮ってやつ、うまそうだなぁ。うめじゃこごはんもいいなぁ。このじゃんばらやってなんのこっちゃ」
 給食の献立を見ながら、ぶつぶつと独り言を繰り返す。こどものなかには、給食の献立を配るとすぐにメニューをチェックするこどもがいる。そのこどもの姿と永田さんが重なって見える。
「あのー、楽しみにしてくれるのはいいんだけど、こどもにとっても楽しみなメニューのときは、必ず残りが出るとは限らないので、あまり大きな期待をしないでくださいね」
「そうだった、そうだった」
 永田さんは、少し恥ずかしそうに頭をかく。
「先生、こないだの日曜日に新人がデビューしたのよ」
 若女将が教えてくれた。
「新人って、どういうことなの」
「すぐそこの郵政官舎があるでしょ」
 関所から歩いて数分のところに、郵便局に勤務する独身者のための寮がある。いまは民営化されたので、官舎という言い方は正確ではないかもしれないが、いまでも地元では官舎で通っている。
「ことしの春から久里浜の郵便局に勤務し始めた宮里さんというかわいい女性よ。これまでも買い物だけは寄っていたみたい。日曜日に思い切って生ビールを飲んでいったの」
 残念。日曜日は仲間と日帰り温泉に行っていたので、関所には寄らなかった。
「春から就職っていったらものすごく若いってこと」
「えー、20歳って言っていたわ」
 おー、気持ちはわかるが、ほとんどが工場労働者しかいない関所の立ち飲みに20歳そこそこの独身女性がメンバーとして加わる。その意味を考えてしまう。
 酔っ払うと、同じことを何度も繰り返すひとたちである。
 なかには、自分の気持ちのままに発言してしまうひともいるのだ。
「そうしたらね。次の日も来たのよ。月曜日にね。そこで相田さんにつかまって」
 わたしは、その月曜日に宮里さんという女性には会っていないぞ。急用があって関所には寄らなかったのか。
「相田さんにつかまったってどういうことなの」
「もう、気に入っちゃってさぁ。かわいいかわいいって連呼していたの」
 あー、想像つくぞー。相田さんの巨体が空気を揺らした大声で、かわいいを連呼している姿を。

6648.9/10/2011
坂の下の関所[14章]story283

 定年後も仕事を続けた、いくつかの理由の一つには、母の死があったと思う。
 父は定年後は、夫婦で全国をのんびり旅したい、海外ものんびり旅したいとつねづね言っていたのだ。その伴侶がいなくなった口惜しさと寂しさは、仕事でもしていないとまぎらわせることができなかったのだろう。
 母が肺がんの末期で、治療から痛みの緩和へと診療方針を転換したとき、父は仕事帰りにこっそりポットに母の好きだった赤ワインを入れて見舞っている。病院が禁止しているものをこっそり持っていく度胸が父にあったとは思えなかったので、とても驚いた。
「こいつを飲むと、嬉しそうなんだ」
 父は、母がモルヒネの影響で意識が混濁してしまうまで、毎回、こっそり赤ワインをプレゼントしていた。
 いま、父はわたしといっしょに暮らしている。同じ敷地内に別々の棟を建て、それぞれ自立した生活を送っている。一応、洗濯も掃除もしているようなので、一人暮らしにも慣れて来たのだろう。
 まさか、それでもひとりで銭湯に行って、ひとりで関所に立ち寄るとは思わなかった。
 相田さんが、解説してくれる。
「お父さん、生ビールを持って、こっちに来るんだよ。お風呂に入ってきたって言ってさ。息子はまだかなぁって心配していたよ。たまには、いっしょに酒でも飲んだらどうなのよ」
 近くにいると、そんなに気を使わないので、あえて酒を飲むこともないなぁ。
 今度、父の部屋にビールを届けて「あのとき話していたひとは相田さんって言うんだよ。俺の作った餃子をワンタンと言った失礼な男なんだ」と教えてやろうか。
「へぇー、あのひとがお父さんだったんだぁ。俺はてっきりあそこのおじいちゃんかと思ったよ」
 永田さんが出した名前は、近所の歯科医院の先代のご主人だ。とっくに亡くなっている。それじゃ、幽霊じゃないか。
「永田さん、今度お父さんが来たら、足元を見てごらんよ」
 大将に笑われている。
 自動ドアが開く。
「あーら、カディさん。こんにちは」
 輸入業のカディさん登場。
「こんばんは、センセー、あした、暇、京都に行こう」
 いつもカディさんは前置きがない。理由もない。
「京都のひと、難しいね。これどうですか?食べてみませんか?こっちから言うと、いいですって、逃げちゃう。向こうから何か行ってくるのをずっと待つしかない」
 そっか、お店に出している商品のセールスに行くんだ。
「おっと、センセー、ちょこっとごめんよ」
 わたしとカディさんの間を抜けて、烏さんが帰るところだ。すれ違いざまに、烏さんがわたしの肩を叩く。
「じゃ、ママに聞いてな。あれ、よろしく」
 烏さんは、夏の間にわたしが酒の肴を作ってきたお礼にといって、日本酒を入れておいてくれたのだ。

6647.9/4/2011
坂の下の関所[14章]story282

 それまで、人事面では上から指示されるままに動いてきた父が、中学校の校長になって、初めて自分の意思を教育委員会にぶつけた。
 海外日本人学校への派遣である。
 海外に在住する日本人のこどもたち。そのこどもたちに日本政府が国内と同じ学習内容を保障するのが、海外日本人学校だ。文部科学省の管轄と思われがちだが、じつは外務省の管轄なのだ。
 だから、海外日本人学校へ教員として派遣されるということは、教育という専門家としての外交官として派遣されることになる。もちろん、出発前には語学の研修が課せられ、赴任地の国内状況などの説明が行われる。
 基本的に赴任地は希望できない仕組みになっているが、父は有名な美術館のある都市を内心では希望していたらしい。パリ、ニューヨーク、ロンドン、マドリード。しかし、現実は厳しく、赴任地は台北だった。意気消沈しているのかと思ったら「あそこには故宮美術館がある」と目を輝かせていた。あくまで美術家なのだ。
 父は母とともに、三年間の台北生活を送った。
 母は、築地の生まれで、結婚して鎌倉に来た。当時は大船に行っても品物が少なく、銀座や築地に直接に買い出しに行っていた。
 おいしいもの、きれいな服、楽しい話題が大好きだった母は、どちらかというと地味な結婚生活を長く送っていた。
「あの三年間は、わたしの人生で最高の三年間だった。すばらしい宝物がいっぱいだった。絶対に忘れない」
 生前、母は台北時代を振り返り、山ほどのアルバムを愛しげに眺めながら話してくれた。
「妻には何もしてやれなかった。だけど、あの台北での三年間をプレゼントできたことが、自分にはせめてもの罪滅ぼしになった」
 母の葬儀のとき、父は涙をいっぱい溜めて、参会者に挨拶をした。それだけ、台北での三年間は意味ある日々だったのだ。
 わたしはその三年間、祖父母と同居した。その期間に祖母が倒れた。クモ膜下出血だった。海外日本人学校に派遣された教員たちの規定で、個人的な理由での一時帰国は認められていなかった。唯一認められていたのは、家族が亡くなったときだけだった。祖父、わたしの家族、妹夫婦、叔父夫婦で交代交代で看病したが、祖母は二度と意識を取り戻すことなく亡くなった。12月30日だった。
 通夜、告別式が決まって父母は帰宅を許された。
「自分がわがままを通して、海外に行ったので、神様が罰をくだした」
 台北で生活を悔やむような台詞を、父が祖母の葬儀でこぼしたことを覚えている。
 台北で三年を過ごし、帰国した父は、鎌倉市立大船小学校で校長をして定年退職を迎えた。そのまま自宅で創作三昧の暮らしをするのかと思ったら、定年後は京浜女子大学(いまの鎌倉女子大学)、横浜高等教育専門学校に再就職して、現在に至っている。

6646.9/3/2011
坂の下の関所[14章]story281

 大和市にある市立渋谷中学が初任地だった。
 そこで美術教員のスタートを切る。
 その後、神奈川県立日野高校に異動した。高校の美術教員になった。
 そして、神奈川県教育委員会に異動になり、学校現場を離れる。桜木町の紅葉坂を上がったところに青少年会館が完成し、美術室が開設された。その担当者になった。
 一般のひとのための美術教室を企画したり、自分が講師になって美術教室を開講したりしたのだ。この青少年会館時代が父の教員生活ではもっとも長かったと思われる。
 わたしがこどもの頃の記憶では、父は毎日、この青少年会館に通勤していた記憶しかない。また、専門の美術室なので高価な美術器材や絵の具が公費で入手できた。父は、仕事をしながら、自分の作品をそこで制作した。
 美術室のとなりには音楽室があった。軽音楽の演奏やコンサートができる設備が整っていた。いわゆるスタジオである。県立の組織でスタジオがあるというのは当時はとても珍しかった。町のスタジオを借りて演奏したり録音したりするととてもお金がかかったが、音楽室は基本的には無料だった。わたしは中学から仲間とフォークソングのバンドを組んでいた。父は音楽室の担当にわたしを紹介した。おかげで、大学を卒業するまで、何度かそこの音楽室でコンサートをさせていただいた。
 おそらくずっと美術室で仕事をしたかったのだろうが、わたしが大学に進学した頃、父は神奈川県教育委員会の美術専門の指導主事になった。こちらは県庁に勤める役人だ。仕事の合間に自分の作品を創るというわけにはいかない。
 青少年会館から県庁に勤務した時代に、父はだいぶ野毛や関内、桜木町を仲間と飲み歩いたらしい。帰宅しないこともたびたびあったので、夜はどこで何をしていたことやら。
 わたしは大学4年の夏に神奈川県教育委員会の教員採用試験を受ける。その試験のなかにデッサンの実技試験があった。出題者は父だ。だから、周囲にへんな疑いをかけられないようにするという理由で、父は試験の一ヶ月前から県庁近くのホテルに連泊して、試験終了まで帰宅しなかった。いま思えば、試験問題などもっと前にできているだろうに、そんなことで疑惑が晴れるのかわからないのだが。
 実技会場で、父が机間を巡視して、目と目があったときには恥ずかしかった。
 県庁勤めの後に、父は鎌倉にある横浜国大附属中学・小学校の副校長に異動した。附属学校は校長が大学の教授なので、副校長は実質的に校長と同じ仕事をこなす。
 同じ頃、わたしは葉山町で教員のたまごとしての新任生活を始めていた。
 附属学校で3年を過ごした父は、なんと次に葉山町立葉山中学校の校長に異動した。わたしは小学校に勤務していたが、同じ町内に侵入してきたのだ。
「あのひと、佐々木さんのお父さんでしょ」
 同僚や先輩、保護者から、何度も同じことを質問された記憶がある。

6645.8/31/2011
坂の下の関所[14章]story280

 父は昭和12年に満州で生まれた。永田さんによると、加山雄三と同い年だそうだ。
 戦後、祖母といっしょに内地に引き上げた。満州時代に、弟と妹が生まれたが、ともに戦時中に病気で亡くなっている。祖母は、侵攻してきたソビエト軍に連れて行かれた祖父と別れ、8才の父と二つの小さなお骨を持って、朝鮮半島を蒸気機関車で下り、九州に船で到着した。
 父に当時のことを聴くと、あまり詳しくは覚えていないという。
 ただし、満州の首都、新京(シンキョウ・現在は長春)はとても大きな町だったそうだ。平原が郊外に続き、朝も夜も太陽は地平線から昇り、地平線に沈んだという。その雄大さは、後に美術を志す父の作風に影響を与えたと思われる。
 引き上げてきた祖母は、そのまま蒸気機関車を乗り継いで、祖父の実家である八戸にたどり着く。祖父の実家は、八戸では有名な和菓子屋だった。その和菓子屋の屋根裏部屋を間借りして、金も何もない生活を始めたのだ。祖母は生前「あのときが一番、つらかった。戦争で悪いことをしたわけではないのに、よく生きて帰って来たなぁと文句を言われた。早く父さん(祖父)が戻ってきて、一日でも早く八戸を離れたかった」と教えてくれた。
 そんな祖母の苦労をまったく知らなかった父は、反対に三陸海岸の自然毎日満喫した生活を送る。ほとんど学校は機能していなかったので、毎日海岸に行き、岸壁から飛び込む。ウニも鮑も取り放題だったそうだ。
 一年後に、いのちからがら満州から祖父が引き上げてきた。父は戦前、内務省(いまの国土建設省)でダムやトンネル、道路の設計をしていた。召集令状で満州に行ってからは、からだが弱かったので、軍馬の世話係だったそうだ。それでも、軍隊にいたというだけで、戦後は公職追放の対象にされた。しかし、地元のひとの特別なはからいで、しばらくは役所の仕事をしていたそうだ。
 その後、建設や設計の腕を買われ、ふたたび陸運局の仕事に携わり、神奈川県鎌倉市大船にあった官舎に家族で引っ越す。父と10歳違いの弟は、この官舎に引っ越してから生まれる。父は、このときに大船中学に入学した。
 陸運局を定年で退職した祖父は、品川にあった港湾工事専門の建設会社に再就職した。そこではおもに開発計画の進んでいた横浜港地区を担当した。いまのそごう、ベイクォーター、高島倉庫の解体などは祖父が設計した図面が元になっている。民間会社に就職したので、祖父は官舎を出て、山崎地区に土地を借り家を建てた。父はそこで高校、大学時代を過ごし、結婚をした。つまり、わたしはそこで生まれた。
 ビールが大好きな父は、わたしがこどもの頃、関所の社長からケースでビールを頼んでいた記憶がある。
 美術を志していたが、芸術家で生計を立てられるほど、資産があったわけではない。父は教員免許を取り、美術の教員になった。

6644.8/30/2011
坂の下の関所[14章]story279

 8月25日は木曜日だった。
 わたしは出勤して定時の5時で退庁した。藤沢から久しぶりに歩いて帰ろうかとも思ったが、蒸し暑さの前に断念して、電車で大船に戻る。
 大船駅からは、徒歩で関所に向かう。自動ドアの前まで来たときに、数メートル前方をわたしの父が歩いていた。きょうは仕事がなかったのかもしれない。
「こんにちは」
 あーあーあー。
 永田さんや相田さんが、わたしの顔を見て声を上げる。
 なんだ、なんだ。そんなに悪いことはしてないぞ。
「いま、お父さんが帰ったところなんだよ」
「あー、お店の前で後姿を見ました」
 相田さんが教えてくれる。
「きょうは、息子は遅いなぁとか言ってさ」
 ん、どういうことだ。
「はぁい、お待ちどうさま」
 若女将が奥から、餃子を乗せた皿を持ってくる。
「あら、センセー、いまお父さんがいらしてたのよ」
 えー、あの父がひとりで関所にいたのか。
「ピンチヒッターですかって、聞いといたんだぜ」
 大将がにこにこしている。
「まさか、ひとりでここに来るとは」
 わたしは、驚いた。父は昔から性格的にひとりでお店に入ることが苦手なのだ。どんなに空腹でも、いっしょに入るひとがいないと飲食店には入らない。どんなに買いたいものがあっても、ひとりではお店のなかに入らない。
 どうすればいいのか、あわててしまうのがいやなのだ。
 母が亡くなってからは、自炊生活をしているので、食材は仕方なくひとりで買っているようだ。それでも、にぎやかな大船駅のルミネの惣菜コーナーで選んでいることが多い。それもあれもこれも選ぶのではなく、一度おいしいと思ったものを飽きるまで買い続けるタイプだ。
「お風呂に行った帰りだってさ」
 永田さんが教えてくれた。
「えー、お風呂って、あそこの銭湯ですか」
 銭湯のような開けた場所にひとりで父が行くとは想像できなかった。
「そういうタイプの人間ではないんですよ。ひとりでは、ふつうのお店にすら入らないんだから」
「あー、俺も似たところがあるなぁ。ひとりで食堂なんか入ってもうまくもなんとないから、どんなに腹が減っていても、うちに帰ってくるよ」
 大将が納得している。おー、ここにも父と同じタイプのひとがいた。

6643.8/28/2011
坂の下の関所[14章]story278

 永田さんが壁にかかっていたカレンダーを眺めている。
「センセー、学校ってのは9月1日に始まるんだよな」
「そうですよ」
「でも、いきなり、1日から給食が始まるわけじゃないんだよな」
 おっと、そういうことか。
「はい、すぐには始まりません」
 佐々木食堂が閉店したので、永田さんの次の期待は給食の残りにシフトしている。なかなかの変わり身の早さ、切り替えのうまさだ。
「別に、給食がいつ始まるのかって聞いているわけじゃないんだよ」
 永田さんは、わたしのこころを読んだかのように言い訳をする。
「それって、聞いているようなものですよ」
「そっかなぁ。では、いつからですか」
「たぶん、5日の月曜日から始まると思います」
「まだ、しばらくあるなぁ」
 永田さんは、しげしげとカレンダーを眺める。
 わたしは、給食の残りがいつも捨てられてしまうことに憤慨して、汁物以外はなるべくタッパーに保存して、関所に運んでいた。それが1ヶ月前のことだ。1学期の終わりに給食が終了してしまったので、それ以降は自分で食べ物を作って食堂を開店していたのだ。
 そして21日の日曜日も、わたしは関所に寄る。
「あーあー、いよいよあしたから仕事だぁ」
「何いってんだよ、みんな暑い中、働いてるんだぜ」
 パソコンで調べ物をしている大将に忠告される。
 おっしゃるとおりである。きっと、わたしのように長期の休暇を連続して取得した勤労者は日本全国でもそんなにはいないだろう。しかし、欧米では夏の間に2ヶ月ぐらいばっちり休むのは当然のことなのになぁ。過ぎてみれば3週間なんて、あっという間だった。
「そういやぁ、横須賀線を昔走っていた113系が近々イベント用でもう一回走るんだってよ」
 113系と言えば、国鉄時代の車体だ。アイボリーホワイトと濃紺のツートンカラーは「スカ色」としてマニアから人気があった。JRになってから、軽量安価のアルミ車体が導入されて、横須賀線から113系はずいぶん前に撤退したのだ。
「どんなイベントなの」
「ほら、その後、113系は房総を走っていたけど、いよいよ完全に引退なんだってさ。それで、かつて走っていた横須賀線を走るみたいだよ」
 いまでも113系が内房線や外房線で走っていたのは知っている。それもいよいよ引退するのか。アルミ車体は国鉄時代の鋼鉄車体と違って軽い。だから、強い横風が吹くとすぐに運行を停止してしまう。車体が軽いので風によって横転してしまうのだ。鋼鉄車体は錆びるので、全面にペンキを塗らなければならない。ステンレスのアルミ車体は錆びない。だから少量のペンキですむ。安上がりなのだ。
 効率を優先させた発想が、中国の高速鉄道事故でどんな結果を招いたかを知っているので、113系の引退は、悔しい。

6642.8/26/2011
坂の下の関所[14章]story277

 さぶちゃんは、仕事場だけではなく、家でも仕事と似たようなことをしているのだ。
「うちでゆでた落花生よ、食べなさい」
 若女将がさぶちゃんにゆで落花生を提供する。
「ありがとうございます。うわぁ、これゆでてあるんですか。俺、こういう食べ方は初めてです」
 落花生は、収穫した状態では食べられない。しばらく天日干しをして乾燥させ、さらに炒ることによっていわゆる「ピーナッツ」として商品になる。しかし、収穫してすぐにゆでて食べるととても甘くておいしいのだ。まだ水分が残っている状態でゆでるので、うまさが凝縮されている。
「落花生って、あれですか。枝豆になる途中が落花生ですか」
 プッ。わたしは、口に含んでいた日本酒の山猿を鼻に入れてしまいそうになった。
「逆だよ、枝豆を放っておくと落花生になるんだよ」
 大将が、ものすごい適当なことを言う。
「へぇ、今度合コンで使えるなぁ」
「さぶちゃん、全然違うよ」
 それに、こんな話題に乗ってくる合コン参加の女性がいるとは思えない。落花生の生産日本一の千葉県の女性だったら、軽蔑するかもしれない。
「ちゃんと茎があって花が咲くんだから。その花が結実するときに細いストローみたいのが伸びて土の中に入っていくんだよ。そして、土のなかで実になるの」
「なんだ、根にブツブツできるわけではないの」
 若女将も知らなかったらしい。
「それじゃ、イモになっちゃんじゃん」
「なるほど、花が地面に落ちるのね。だから落花生かぁ。これも合コンに使えるぞー」
 さぶちゃんは、そういう基準で雑学を得ようとしている。
「ところで枝豆は放っておくと、じゃぁ何になるんですか」
「大豆だよ」
「えー、じゃぁ枝豆を作って、大豆にしようとしたらそのまま収穫しなければいいんだ」
 理屈的にはそうかもしれない。しかし、いまの枝豆はかなり改良されているので、枝豆の時期に収穫しないと、大豆まで育ててもおいしいとは限らない。反対に大豆を育てて、枝豆の時期に収穫しても、枝豆としておいしいかどうかはわからない。そのことをさぶちゃんに説明した。
「じゃ、小豆って小さな大豆を収穫したわけですか」
「おいおい、あれは別の種類の豆だって」
「わー、合コンネタがいっぱい集まったぞー」
 初対面の女性に、いきなり落花生や大豆、枝豆の話をするさぶちゃんの姿を想像する。きっとその合コンは、成功しないだろうと心配になる。

6641.8/24/2011
坂の下の関所[14章]story276

 さぶちゃんは、山崎の谷戸奥深くにあるアパートに住む独身青年だ。新宿まで出勤している。パソコンを使って人物や乗り物を描くコンピュータ・グラフィックのプロだ。バス停の近くの焼き鳥屋「鳥藤」を根城に、飲み歩く。
 ただし、終電で大船に午前1時ごろに帰ってくる生活が日常なので、平日に会うことはめったにない。週末にたまに、近所ですれ違ったり、鳥藤で会ったりする程度だ。関所にはおもにタバコを買いに来る。
 最後に会ってからもう2ヶ月ぐらい経っていた。
「こないだ、仕事場を変えるって言ってたけど、どうなったの」
「よく覚えていますね」
 記憶力だけは、この仕事には欠かせない能力だから、日々磨いておかないとね。
 さぶちゃんは、話のとっかかりを探していたのか、わたしの質問を受けて、奥の冷蔵庫からチューハイを持ってきた。関所の売上に貢献したぞ。
「こないだから、正規に採用になりました」
「そりゃ、よかったね。いままで契約状態だったからね」
 さぶちゃんの業界のひとは、会社と正規に契約せずに、少しでも自分の作品を高く買ってくれる会社に売り込むことが多いらしい。テレビゲームとかパチンコのディスプレイとか、一つの大きなプロジェクトごとにチームが結成されて、完成すると仕事が終わる。また新しい仕事を探すことの繰り返しだと聞いた。
 しかし、そろそろやりたいことだけではなく、組織に入って、求められることもやらねばと、前回にさぶちゃんはしみじみと言っていたのだ。
 たしかに、おそらく30歳は過ぎているだろうさぶちゃんが、今後恋愛や結婚を考えるなら、いつまでも契約社員では生活が安定しない。
「正規に採用って、正社員ってことでしょ」
「そうそう、そうです」
 なんだか、とっても嬉しそうだ。
「でも、自宅のパソコンのディスプレイを増やしたら、ネットにつなげなくなって、やけを起こしそうになっているんで、気晴らしに出てきました」
「モニターを増やすってどういうことなの」
「一つのパソコンにディスプレイ(画面)が一つあるじゃないですか。電器屋でディスプレイだけ売ってんです。それを2つ買ってきて、パソコンの両側につないで同時に3つのディスプレイが見られるようにしたんです」
 同じ画面が3つもあって、どういう利点があるのか、わたしにはわからない。
「そんなことをして、何かいいことがあるの」
「だって、画面が広くなるってことは、それだけ同時にたくさんのことができるってことじゃないですか」
 どうやら、画面の広さが広くなって、右でインターネット、中央でワープロ、左で作画みたいのを同時に楽しめるということらしい。

6640.8/23/2011
坂の下の関所[14章]story275

 20日は土曜日だった。大船の仲通を散歩して関所に戻る。
 前日までの暑さが嘘のように涼しくなっていた。半そで半ズボンだったのに、わたしはその日は長袖長ズボンを着た。
 夏の全国高校野球の決勝戦が午前中に行われた。西東京代表の日大三高が青森代表の光星学園に11対0の大差で勝った。
「センセー、これ、食べるかな」
 若女将が、ゆで落花生を出してくれた。
「わぁ、大好きなんだ。ありがとう」
 食堂を閉店したら、反対に向こうから食べ物がやってきた。やや硬めにゆでた落花生だったが、かめばかむほどに落花生の甘みが口のなかに広がった。
「お疲れです」
 永田さんが、リュックを背負って帰って来た。きょうも県立大船植物園で仕事をしてきたのだ。リュックを床に置き、宝焼酎の空ボトルを取り出す。なかには琥珀色の液体が入っている。
「はい、これ」
 若女将に差し出す。
「センセーにも、ほれ」
「何ですか、これ」
 受け取りながら、質問をする。
「梅にリンゴ酢と砂糖を入れて漬けておいたらできたんだ」
 わたしはキャップを開けて、ホンの少しコップに入れて、口に含んだ。梅の香が口中に広がり、喉の奥に酢の酸味が広がる。甘さをつけてあるので、そのまま飲んでもおいしい。
「永田さん、ありがとう。これ、おいしいですよ」
「いつも、センセーにはお食事をいただいたからな」
 ここでも、食堂を閉店したら、飲み物が向こうからやって来る。
 善意の連鎖はあるものだ。
「これは、炭酸を入れて飲んでもおいしいですね」
「あー、でもあれは気が抜けちゃうんだよな」
 永田さんは職場にこれを持参するそうだ。炭酸で割っていくと、ちびちび飲んでいるうちに炭酸がとんでしまう。なるほど、風呂上りに一気に飲む分には喉にクエン酸と炭酸の泡がしみておいしいだろうに。
「ありがたくいただきます」
 オイルや塩、こしょうをまぜてドレッシングにするのもいいだろう。頭のなかはまだ食堂店主の気分だった。
「こんにちは」
 お、久しぶりにさぶちゃんが登場した。