6619.7/25/2011
坂の下の関所[14章]story254
わたしは、鳥肌が立った。
「宇佐斗さんも、重松先生のところに通っているんですか」
わたしは、師匠の名前を出して質問をした。
「いや、昔から陶芸や陶器が好きで、いろんなところに行っているんです。寶扇窯には、ずいぶん昔に行ったっきりですよ」
本当にそうなのかなぁ。
ずいぶん昔に行ったっきりなのに、横須賀の大楠っていったら、すぐに窯の名前が出てくるというのは、かなりお師匠さんと親交があるのかもしれない。そう思ったら、素人丸出しの自分の作品が、宇佐斗さんの手のひらのなかにあるのが、とても恥ずかしくなってきた。
自分で作ったなんて、言わなきゃよかった。
「どうも」
自動ドアが開いて、香山さんが登場した。
「香山さん、この方が宇佐斗さん。宇佐斗さん、この香山さんも宇佐斗さんと同じで、牡鹿半島の避難所に物資を運んでいるのよ」
若女将が、いい具合に話を切り替えてくれた。
「わたしと、妻の実家が、大槌町なんです。今回の震災では、両家あわせて、14人の親戚が亡くなり、いまも8人が行方不明です」
その数の多さに、日本酒をすするわたしは胸が痛む。
香山さんも手に取った米袋をレジに置こうか、持とうか迷ったまま固まっている。
わたしは、ふたりから少し離れて、缶ジュースやビンビールが入っている大きな冷蔵庫の前に立つ。ふたりは、互いにどうやって被災地に向かったか、何がいま不足しているかなどの情報交換をしていた。
しばらくして、若女将がキッチンから夏野菜のカレーをあたためて持参した。そこに相田さんや永田さんが登場して、いつもの立ち飲みメンバーがそろい始めた。
夏の日は長い。夕刻6時半を過ぎても、まだ空は青い。
わたしは、湯気が出そうな夏野菜のカレーを片口に配膳した。
「はーい、きょうは夏野菜のカレーです。ビタミンAがたくさんあるので、夏ばて帽子に役立つよ」
永田さんと相田さんに差し出した。
「最近のがきゃぁ、いいもん喰ってんなぁ」
いつも、永田さんは一言、言いたくなるらしい。
「うん、センセー、おいしいよ。これぐらいなら大丈夫」
辛いものが苦手な相田さんから合格印が出た。
6618.7/24/2011
坂の下の関所[14章]story253
7月11日は月曜日だった。
梅雨が明けた。関東地方は例年よりもかなり早い梅雨明けだった。猛暑の記憶しかない去年の夏よりも、梅雨明けが早いという。先が思いやられる。
その日の給食の残りは、夏野菜のカレーと枝豆だった。それを若女将にあたためてもらっている間、わたしは臨時の店番をしていた。
自動ドアが開く。作務衣を着て雪駄を履き、頭にタオルを巻いた宇佐斗(うさと)さんが登場した。
「いま、お風呂の帰りですか」
「えー」
にやっとしながら、宇佐斗さんが頷いた。
「いま、ちょっと奥にいるので、お待ちください」
宇佐斗さんは、わけがあって休職している。しかし、休職していても行動的だ。借りているらしい農園で、プロも顔負けの野菜を栽培している。東日本大震災では、何度も東北とこちらを往復して、支援物資を届けた。近所の銭湯に夕刻に浸かり、その後で関所で生ビールをあおるのが日課になっている。そのまま生ビールを持ち帰る日もあれば、関所に残って立ち飲みをしていくときもある。
「はい、いらっしゃい」
若女将が枝豆をあたためた容器をわたしに渡す。わたしは、それを葉っぱのかたちの皿に小分けして、お中元見本の置いてある棚に生ビールのカップを置いて一息ついている宇佐斗さんの横に置く。
「ビールには合いますよ。給食の残りなんです。遠慮なくどうぞ」
いわゆるスキンヘッドの宇佐斗さん。にっこり笑うと、ひとのいい和尚さんみたいだ。
「うん、けっこううまい」
口に入れて、じっくり味わい感想を言う。きょうは、そのまま帰らずに、ここで飲んでいくことに決めたらしい。
「よし、今度はわたしがお礼をしよう。きゅうりがきょうだけで150本もとれたんだ」
「150本ですか」
びっくり。
「すごいのよ、この方は自分で耕している畑でいつもおいしい野菜を作っているの」
若女将が解説をする。
「塩もみをしてそのまま食べるのが一番うまいんだけど、どうやって持ってこようかな」
すでに、提供する側の気持ちになっていた。
「その皿は、わたしが作りました」
実際にはろくろを使って成形しただけだ。乾燥させて、底を削ったり、窯で焼いたりしたのはお師匠さまである。相田さんのリクエストに応じて持参した、片口も見せた。
「これね、ちらっと見てなんだろうって思ってたんだ。湯冷ましにいいじゃない」
あれ、もしかして、宇佐斗さんって陶芸通なのかな。
「どこで焼いているの」
陶器を見て、窯を聞くひとは珍しい。
「横須賀の大楠近くの窯です。葉山の長者ケ崎の先になります」
「それって、寶扇窯(ほうせんがま)かな」
えーっ、なんで宇佐斗さんがお師匠さんの窯の名前を知っているの。
6617.7/23/2011
坂の下の関所[14章]story252
自動ドアが開いた。
「ちわっすぅ」
額から汗を垂らして、シンロートの相田さんが登場した。
「暑くて、やってらんないよ」
手のひらをうちわ代わりにして、ひらひらと自分を扇いでいる。洋酒コーナーに荷物を置く。五目煮に気づく。
「お、センセーいつもありがとね。きょうのは、こりゃ、なんだ。あれか、あの、かたい焼きそばの上にかかっているやつか。なんっつったけぇ、ポリポリ麺だ」
いつも相田さんは、一人で問いかけて、一人で答えを出してしまう。そして、あははと笑う。
「ビール代がかかっていけねけなぁ」
そう言いながら、瓶ビールを持ってレジに来る。
「センセー、いただきます」
「はぁい、どうぞ」
こうして、ゴミになるはずだった給食の残りが、一日の仕事を終えた労働者の胃袋に消えていく。衛生面とか、食中毒とか、心配しだしたらきりがない。でも、捨てるよりも、食べたほうが食べ物にとってはいいはずなのだ。
これがアメリカのニューヨークあたりだったら、宗教団体系のボランティアグループが定期的にファーストチェーン店の残りを回収して、路上生活者に配っているのだろう。そして、そのことをとやかく言う人などいないのだろう。
「センセー、これ、うまいんだけどさ。食いにくいなぁ」
相田さんから早速クレーム。
「言われると思ったぁ」
「こういうとろとろしたやつ、ちゅうか、汁物みたいなやつは、お椀っちゅうか、小鉢みたいな容器のほうがいいと思うよ」
その通りなんです。
「ちょうど、うちにあったから使って」
若女将が、近所の製麺所のポリポリ麺を持ってきた。五目煮と和えて食べる。確かにあの揚げ麺焼きそばのできあがりだ。
わたしが、自宅にあった4脚の片口を関所に届けたのは、その週の終わりだった。
6616.7/18/2011
坂の下の関所[14章]story251
週が明けた。
わたしは、その日、うずら玉子とタケノコの五目煮をタッパーに詰めて関所にたどり着いた。
「おかえりー」
若女将の元気な声。藤沢から1時間かけて歩いて帰ってきたわたしの背中には汗が吹き出している。
「あっためようか」
すでに、若女将はキッチンに向かおうとしている。毎日、キッチンのレンジを使わせていただいているので、習慣になっている。
「申し訳ありません。よろしく」
わたしは、タッパーを渡した。
「よ、センセー、きょうの給食はなんだい」
県立フラワーセンターで、清掃の仕事をしている永田さんが目を輝かせている。
「きょうは、うずら玉子とタケノコの五目煮です」
「なんじゃそりゃ。ずいぶん、しゃれてんじゃねぇか」
60才に近い永田さんにしてみれば、たしかにそういう給食メニューは記憶にないだろう。
「麺がポリポリした焼きそばにかける餡みたいなものですよ」
いつも焼酎の四合瓶が陳列してある棚の一角に、紗綾形模様の刺し子が施された花布巾がかけてある。その花布巾を引き上げると、先日、関所に持参した陶器の皿が重ねてあった。わたしは、それを焼酎の瓶がないスペースに並べた。
「こんなんでいいかしら。冷たいようだったら、言ってね」
若女将が電子レンジであたためたうずら玉子とタケノコの五目煮を運んできた。
「ありがとうございます」
わたしは、それを葉っぱの形をした皿に盛り分けた。もうじき、シンロートの相田さんたちも登場するだろう。彼らの分も取り分けておいた。五目煮は、片栗粉でとろみをつけてある。だから、皿のように平たい容器だと、端からこぼれそうになる。でも、入れ物はこれしかないから仕方がない。わたしは、こぼさないようにそーっと永田さんのくつろぐ関所中央のお中元コーナーに五目煮を運ぶ。
「いやぁ、いつも悪いねぇ。まぁこれでも食えよ」
永田さんは、返礼のつもりなのか、柿の種とピーナッツが10粒ぐらい入った一口サイズのおつまみをくれた。
気遣いは無用なのに。
6615.7/16/2011
坂の下の関所[14章]story250
若女将は、わたしが作った陶芸作品を見て驚く。
「やだぁ、そんなことしなくていいのに。割れてしまったらもったいないもの」
「いやぁ、いつも紙コップを使っているほうがもったいないよ。それに、かたちあるものは必ず壊れるんだから、割れてしまうことなど気にしないで」
立ち飲み仲間は、わたしがせっせと運んでくる給食の残りを当てにするようになった。そうなると、配るときに使っている皿替わりの紙コップはもったいない。5人に配れば、毎日必ず5個の紙コップがゴミになる。その点、専用の皿を用意すれば、洗う面倒だけあるが、ゴミを増やすことにはつながらない。
給食は、大腸菌による食中毒の発生によって、全国的に加熱処理が原則になった。かつては定番メニューだった、生野菜を使ったサラダが禁止された。必ず中心温度が80度まで加熱しないといけない食品ばかりになったのだ。だから、サラダは消えた。カットしてあるリンゴもなくなった。皮がついているくだものはいいらしい。だから、冷凍みかんは消えない。バナナを半分にカットしたものが出たのだが、あれはどうして許可されるのだろうか。
また、給食の残りは必ず、調理場に戻さなければならなくなった。おなかがいっぱいで食べきれないというこどもは、紙袋に入れて家に持ち帰ることができなくなった。わたしのこどもの頃は、クラスのこどもたちの家の経済状態が、いまほどよくなかったから、夕飯にとっておくと言って、おかずを持ち帰るのは日常的に行われていたのに。
だから、毎日、ものすごい量の「残り」が出る。
飲食店の仕入担当が見たらきっとあきれるほどの「ゴミ」の量である。せっかく用意した食材の3割ぐらいが残ってしまうのだ。それらは、かつて畜産農家に引き取られた。しかし、いまはこどもたちが口にした物が混ざっている可能性があるので、畜産農家が引き取らなくなった。こどもたちの細菌やウイルスが食べ物の残りを通じて、家畜に感染するかもしれないからだ。
その結果、あふれるほどの給食の残りは、必ず捨てられている。
何が、環境教育だと叫びたい。
何が、もったいないを合い言葉にだと叫びたい。
日本の公立学校では、日々、ものすごくたくさんの食べ物をゴミとして捨てているのだ。
だから、わたしはこっそり給食の残りを持って帰っている。少しでも、生産者や調理員のひとたちの労苦を思い、ゴミの量を減らすことに、ひとり奮闘しているのだ。
ひとの口に入る物なので、食中毒のような衛生面には気を使っている。
まず、クラスのこどもに配膳した後、おかわりなどで減ったおかずを専用のタッパーに詰める。もちろん、こどもが嫌いな食べ物を戻す前の段階だ。それをすぐに冷凍庫に保管する。帰る時間が5時頃なので、お昼からだいたい4時間は冷凍庫で保管される。ほとんどの食材は冷凍状態になっている。それをビニール袋で梱包して、関所まで運ぶのだ。たくさんタッパーに詰めた日は、けっこう荷物が重くなる。デリバリーは力仕事だ。
6614.7/12/2011
坂の下の関所[14章]story249
7月2日は土曜日だった。
わたしは、数年前から始めた陶芸を習いに、葉山町の先の横須賀市大楠というところに行っていた。ろくろで作る陶器だ。土のかたまりを菊練りをして空気を押し出す。ろくろに乗せて、土の中心をとる。これはとても難しい作業で、わたしなどにはまだできない。師匠はなんとかやらそうとするが、数ヶ月に一度の教室では前回のことを思い出すのが必死で、新しいことを吸収するのは至難の業だ。
陶芸教室の帰りに、わたしは関所に寄った。
「こんにちは」
「あれ、きょうは欠席だったんじゃないの」
関所には、ほぼ毎日顔を出しているので、行かない日を教えてある。そうしないと体調を崩したのではないかと心配をかけるからだ。土曜は陶芸教室があるから欠席すると伝えてあったのだ。
「うん、でも早めに終わったし、これを届けたかったから」
わたしは、紙袋に入ったたくさんの文庫本を若女将に渡した。いっしょに陶芸教室に通うひとに貸していた文庫本が戻ってきたのだ。
わたしは、だいたい5日間で1冊の本を読む。趣味というよりも、読書をしていないと落ち着かないので、中毒なのかもしれない。だから、値段の高いハードカバーはあまり読まない。文庫本を愛読している。読み終わった本は、どんどん知人に貸してしまう。そうしないと、自宅の書庫がいっぱいになり、床が抜けてしまうかもしれないからだ。ほとんどの知人が読み終わったら、よほど手元に残しておきたい本以外は、ブックオフに持って行く。
「センセーに借りた本、まだまだこんなにあるよ。読み終わるのに何年もかかりそう」
そんなことを言うが、若女将もかなりの読書家だ。読むペースが速い。
「それからね。これも置かせてもらいたかったの」
わたしは、新聞紙にくるんだできあがったばかりの葉っぱの形をした陶器の皿を三枚取り出した。
「これを、この棚に置かせてほしいんだ。給食の残りを運んできたときに、いつも紙コップを使うのはもったいなくてさ。これなら洗って何度でも使えるから」
小学校に勤務するわたしの昼食は、給食だ。
給食は、必ず毎日残食が出る。ぴったりすべてのおかずや主食が食べきられることはめったにない。調理場のひとたちにしてみれば、不足して食べられないこどもを作らないために、やや多く作るのだろう。しかし、その結果、配膳を終えても、おかわりをしても、手のつかないおかずが残ってしまう。その後、食べきれなかったこどもの残し物が加わり、それらは残食となって捨てられてしまう。
一時期、学校給食の残食は、家畜のえさになったことがあった。しかし、こどもの残り物が加わっているので、そこに細菌やウイルスが含まれている可能性があり、畜産農家が受け入れを拒むようになったのだ。
わたしは、こどもが残した物を戻す前の「残り」をタッパーに詰める。ご飯ならばラップにくるんでおにぎりにする。以前は、夜遅くまで仕事をする職員たちに夜食用としてプレゼントしていた。しかし、最近になって持ち帰ることにしたのだ。それを、関所の電子レンジで暖めてもらい立ち飲み仲間の肴として提供することにした。
これが、なかなか評判がいいのだ。
本当は給食の残りを持ち帰ってはいけない決まりになっている。
6613.7/10/2011
坂の下の関所[14章]story248
長谷さんは、きれいな黄色いビーサンを履いていた。
「それもお店で扱っているの」
「えー、そうです。今度、来てくださいよ」
「俺は、ビーサンは葉山のげんべいって決めてんだぁ。あそこのは生ゴムだから、履きやすいんだよ」
「これだって、生ゴムです」
生ゴムのビーサンは、げんべいだけではないのか。だとしたら、わざわざ遠くまで行く必要はない。
「ねぇ、だれか。はえ取り紙をたくさん売っているところを知らないかしら」
若女将が、店内の立ち飲み仲間に声をかける。
「最近は、見なくなったなぁ」
洋酒コーナーで、同じ会社のひとたちと盛り上がっていた相田さんが返事をした。
「はえ取り紙って、風にぶらぶら揺れてさ。前に、俺さ、髪の毛にくっついちまったことがあって。あれ、一回くっつくと大変なんだ。取ろうとした指までくっつきやがんの」
唇をとがらせて、相田さんは、過去の記憶を披露している。しかし、話は、どんどんずれていく。
「どうして、はえ取り紙なの」
演説している相田さんには聞こえないように、わたしが若女将に質問する。
「日曜日に、香山さんがまた牡鹿半島に行くんですって。そのときにいま向こうでは、はえが大量に発生していて、それを駆除するのに、はえ取り紙が必要なんだっていうのよ。この辺でも昔は普通に使っていたけど、いまではちっとも見かけなくなったから」
そういえば、わたしがこどもの頃は食堂でもはえ取り紙を使っていたところがあった。就職してすぐの頃、夏休みに研修旅行で行った民宿の食堂にもはえ取り紙がぶら下がっていた。はえ取り紙の威力は強い。あの粘着力は、はえならずとも効果が大きい。そして、食事をしている最中、目の前ではえ取り紙に吸着したはえが息絶えていく姿を目の当たりにするのは、あまり好きではなかった。ときどき、自分の足を引きちぎり、ほとんど胴体だけになって逃げていく猛者もいたが、あのはえは次に着地するときが大変だっただろう。
「香山さんは、向こうでこういう写真を携帯で撮影しているんですか」
「携帯のときもあるけど、デジカメもあります。でも、思ったことや感じたことをツイッターに載せると、反応がものすごく早くて驚きます」
「へー、たとえば、どんな」
「ついこないだも行ってきたんです。震災から3ヶ月が過ぎているのに、まだ何も始まっていない場所がけっこうあるんです。そんなとき 『ひっでー』とか打つと、すぐに反応があったりして」
なるほど、インターネットは見ず知らずのひとたちを瞬時に場所をこえてつないでいるらしい。
それにしても、3月11日の東日本大震災以降の政府と東京電力の対応には大きな疑問や不満を抱く。全国から多くの義援金が日本赤十字社や中央共同募金会に集まっているのに、その分配先が決まらないという事実は、この国の縦割り行政という仕組みの大欠点を露呈した。部署が異なると、それぞれに権益を主張する。だから、必要なところに必要な義援の手が届かない。
関所周辺の地域では、3月下旬から計画停電が実施された。東京電力が不足する電力を有効に使うために、管内を5つのグループに分けて強制的に送電を停止したのだ。そんなことをしておいて、3月下旬の電気料金の請求にはまったくそのことに関する詫びが一言もなかった。非難が集中し、その後「詫び」だけを記したはがきが送られてきた。無駄なことだ。すべての契約者にはがきを送るのに、いったいいくらかかったのだろうか。
6612.7/9/2011
坂の下の関所[14章]story247
関所の自動ドアが開く。
「あら、いらっしゃい」
買い物客が入店する。若い男性だ。品物を選ばずに、レジで大将に目配せをしている。祭りで御輿をかついだり、地元の消防団の仕事をしたりするひとかもしれない。何度か、関所に入店するのを見かけたことはあるが、積極的に話したことはない。
「へー、先生、見て。この方、香山さんっていうの。ご自身で被災地に品物を届ける活動をしているのよ。ほら、こんなに写真があるわ」
若女将の手には、透明な袋状のファイルが数枚綴じ込まれたクリアブックが4冊ぐらい。表紙の固いプラスティックページを開くと、パソコンで打ち出したデジタルカメラの映像に、コメントがついている。ページによっては、写真よりもコメントが多いページもある。それは、どうやら香山さんの活動記録らしい。
「テレビや新聞で見たような写真ばかりだね。これ、場所はどこですか」
「牡鹿半島です」
サーファーと言ってもいいぐらい小麦色に焼けた香山さんの肌と、被災地の牡鹿半島がいまいちピンとつながらない。
「どなたか、こちらにお知り合いでもいるんですか」
「いえ、たまたまテレビを見ていて、そこの避難所が映ったんです。そうしたら、不足している物がわかったんで、とりあえず車を飛ばしました」
香山さんは、平然と言う。
「お仕事は、そういう運送かなんかの」
「いえ、全然関係ありません」
「じゃぁ、週末とかを利用して」
「えー、ほとんど日帰りですけど」
牡鹿半島まで、神奈川県鎌倉市から車をとばして何時間かかるのだろう。
わたしは、自分で車を運転していると眠くなってしまうという危険な能力を持っている。だから、長時間の運転は自殺行為になってしまう。もっとも助手席に乗ったら、たちまち寝てしまうので、わたしの肉体は車に乗ったら眠るという条件関係が成立しているのかもしれない。これが、列車の場合は全然違うから、脳は神秘だ。
その話はさておき。
「こんばんは」
自動ドアが開く。生ビールを入れるプラスティックのカップを持参して、長谷さんが登場した。ふだんは、一人で登場するが、きょうは彼氏もいっしょだ。
長谷さんは、30才前後だろうか。長谷で輸入雑貨を扱うお店を経営している。関所近くの銭湯「野田の湯」の二階に彼氏が住んでいて、週末はいっしょに過ごすらしい。金曜になると空になった生ビールのプラスティックカップを持参して、生ビールを買っていく。多くのひとが一度使ったら捨ててしまうプラスティックカップを大事に使うエコライフを実践している。
いつもは生ビールを注いでもらうとそれを手にして帰るのに、きょうはふたりでそのまま生ビールを飲んでいる。
「おー、立ち飲み体験だね」
わたしは、冷やかす。
野田彼は、口元に泡をつかながら苦笑いをする。
「そんじゃ、俺、行くから」
赤坂さんが、リュックを背中にして戸口に向かう。ふと、振り返る。
「いいよなぁ。あしたから休みのひとは。俺なんか、あしたもあさっても仕事だぁ」
だれかに慰めてほしいのだろう。
「気をつけて帰ってね」
わたしは、遠くから赤坂さんに声をかける。
電力の使用制限を決めた国会議員。そのひとたちのなかに、関所で寂しそうに帰って行く赤坂さんの気持ちを想像したひとがどれぐらいいるのだろう。全国に、7月1日金曜日、週末を喜ぶことができないひとたちが大勢生まれた。そのひとたちの憤懣やあきらめが、たくさん集まり、渦になって、入道雲のように空に舞い上がっていく。
6611.7/5/2011
坂の下の関所[14章]story246
仕事帰りに自宅近くの酒屋「坂の下の関所」に寄る。
もう少し歩けば、家にたどりつくのに、その手前で寄り道をする。
「ただいまぁ」
「おかえりー」
レジで若女将が首筋に汗を光らせて迎えてくれる。レジの奥では大将が、汗がしみたシャツのまま一息ついている。
赤坂さんが、いつもの日本酒をコップに入れながら、目で「おかえり」と言う。
「センセーさぁ。こないだ、うちに役所からヘンなものが送られてきたんだけどさ。何か、わかるか」
それだけの情報では、何もわからない。
「どんなものが送られて来たんですか。手紙、封書、小荷物」
赤坂さんは、両手を長四角にして見せてくれる。
「これぐらいの封筒に入ってた」
何が、入っていたのだろう。酔っ払い相手に事情を聴きだすのは難しい。
「なんだか、介護保険の支払いに関するものだった」
「だって、赤坂さんの介護保険料って毎月の給料から引かれているんじゃないの」
「そうなの。だから、これ以上、払う必要があるのかっていいたいの」
「そういえば、赤坂さんの誕生日っていつだっけ」
「5月5日のこどもの日」
「じゃぁ、6月の給料ってもう出ましたか」
「いつも月末だから、もうすぐ出るよ。でも何でそんなこと聞くの」
「だって、これまで給料から引かれていた介護保険料の請求が突然やってきたっておかしいでしょ。考えられるのは、65歳をさかいにして、介護保険料は自分で支払うことになるのかもしれないってこと」
「封を切って、中を覗いたら、介護保険支払い証明書ってのが見えたんだよな。これまで払っていたものがいくらになりましたよって、教えてくれてんのかな」
役所から封筒が送られてきたと言っていた。行政がそんなサービスをするとは考えにくい。
「あした、その封筒ごとここに持ってきて見せてください。その方が早そう」
「おぅ、悪いな」
わたしも介護保険料を給料から天引きで支払っている。でも、これまで役所からそれに関する報せが来たことはない。
翌日、わたしが封筒のなかみを確認したところ、やはり6月から来年の3月までの月ごとの介護保険料支払いの請求書だった。その請求書の右端にミシン目がついていた。ミシン目の右側に支払い証明書が同時についていた。窓口で支払ったひとに、そのミシン目から切り取って、右側の証明書を渡す仕組みになっているのだろう。
それにしても、行政の通知はわかりにくい。
拝啓。このたび貴殿が65歳になったことを契機に、介護保険料はご自身で支払う決まりになっています。ついては、来年3月までの請求書をお届けするので、金融機関などの窓口で支払いをお願いします。
このような文章が入っていれば、赤坂さんは迷うことがなかっただろう。
6610.7/3/2011
坂の下の関所[14章]story245
2011年7月1日。電気関係の法律により、東京電力管内と東北電力管内の大きな事業所は、電気使用制限が始まった。
各事業所は、昨年に比べて15%の電気使用量の削減が強制された。違反すると、罰金が科せられるという。
わたしの知り合いも、この波に飲まれている。
事業所は、電気使用の少ない土曜日と日曜日に開業して、平日を休むことにしたのだ。また、5月の連休あたりから休日そのものをなくして、夏場に仕事のない日を作っているのだ。
電気を使わないようにするには、工場やオフィスを稼動しないようにせねばならない。エアコンの設定温度を上げるとか、小まめに部屋の電灯を消す程度ではどうにもならないのだろう。
「まったくよぉ。なぁんか、かったるいんだよな」
関所の真正面にある工場。首都リーブスで働く赤坂さんが、愚痴る。
「やっぱ、金曜には一週間が終わるって感じが大事ですよね」
わたしは、関所のいつもの場所で赤坂さんの話を聞く。
そう、7月1日は金曜日だったのだ。
「あしたも、あさっても仕事なんだよ」
赤坂さんは、やや震える手で日本酒をなみなみと入れたコップを口に持っていく。
首都リーブスは、大手自動車メーカーのエンジンに関する部品を製作している。重要な下請け会社だ。赤坂さんのような職人たちが、ロボットや工作機械では作れない1ミリよりも小さな単位の研磨や調整をした部品を朝から晩まで作っているのだ。
部品を納入する元請会社が、土曜日や日曜日を稼働日にして、平日を休みにすると言えば、首都リーブスのような下請け会社は、従わざるを得ないのだろう。ましてや、その会社でさらに契約会社からの派遣として働く赤坂さんには、労働組合のような働く者の権利を擁護する仕組みはないのかもしれない。
「そういえば、センセー。こないだの介護保険のやつ、ありがとな。きのう休みを取って、全部払ってきたよ」
「毎月、口座から引き落とす方法もあったけど、一括にしたんですね」
「毎月っちゅうのは、なんか面倒でさぁ」
引き落としは自動的に行われるので、口座契約者の赤坂さんが何かをする必要はないのだが、よけいなことを言うと混乱させるので、黙っていた。
「しかし、あの介護保険の通知だって、よくわかんない通知でしたね」
赤坂さんが、わたしに藤沢市役所から送られてきた介護保険に関する分厚い封筒を見せてくれたのは、6月下旬だった。