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6559.3/27/2011
東北関東大震災...12

 わたしが自宅近くの山崎に戻ったのは5時頃だった。
 地震発生から約2時間が過ぎていた。
 「一休さん」という八百屋では買い物客が列を作る。しかし、停電で店内は真っ暗。
 近くの関所。わたしはいつも帰りに立ち寄る酒屋だ。ぐいっと立ち飲みをして景気をつける。しかし、店内は清涼飲料水などを買い求める客が列を作っていた。ここも停電で真っ暗。若女将や大女将が眉間に皺を寄せながら、買い物客をさばいていた。
 店の外に、久里浜へ帰る立ち飲み仲間がいた。
「きょうは、こんな調子だから、立ち飲みは×」
 人差し指を×の形にして教えてくれた。

 3月13日気象庁は地震の規模をM9.0に訂正した。

 自宅に戻ると、リビングのテーブルに家中から探してきたと思われる懐中電灯がずらりと並んでいた。さらに「安いときに買いためた」という電池がたっぷり並ぶ。
 妻と娘が非常時生活をしていた。蒲田に行った息子は帰れないので友人宅に泊まる連絡があった。横浜に仕事に行った父の消息が不明。携帯電話を持っていないので安否確認の方法がない。しかし、きっと職場に泊まるのだろうと思った。
 もしかしたら、伊豆の妹経由で情報が入るかもね。
 家族で話していたら、その妹からメールが届く。
「大丈夫ですか。父から電話あり。うちに電話をしているんだけど通じないとのこと」
 停電しているんだもの。電話は通じません。家族の無事を返信し、父の様子を質問した。
 とりあえず、家族の様子がわかったので、夕飯の支度にかかる。幸い、水道とガスが供給されていたので炊事ができる。
 大学時代に山登りをしていた経験を思い出す。大量に作って日持ちするもの。
 トン汁作りにかかる。ご飯もたくさん炊いた。冷蔵庫の復旧が不明だったので、冷凍食品のうち揚げ物をどんどん揚げた。
「もっと大きな地震が来て、水もガスも止まるかもしれないから、今夜は飲めるだけ飲んじゃおう」
 娘に「ヘンな理屈」と指摘されながら、わたしは日本酒と焼酎を飲んだ。やや飲みすぎて、たぶん停電のなか、午後7時頃には寝てしまった。
 トイレに行きたくて、午後11時頃起きたら、室内に照明が光っていた。おー、電気が復旧したんだ。そう喜んだ次の瞬間、ふたたび寝てしまい、トイレに行き損ねた。

6558.3/26/2011
東北関東大震災...11


[火災が発生し、黒煙を上げる石油施設=千葉県市原市で2011年3月11日午後4時38分、本社ヘリから佐々木順一撮影(http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110311/20.html)]

 3月13日現在、20000棟の建物損壊が判明。
 停電により、夜中、木炭を燃やし、翌朝一酸化炭素中毒で亡くなった方がいた。
 地震の津波で一気に数百人の方々のいのちが奪われた町があった。
 テレビでは、1500人以上の方々の死亡を報告している。安否がわからないひとは10000人以上。避難しているひとは380000人以上。

 3月12日7時46分のasahi.com。
「福島第二でも重大事故 原子炉の圧力抑えられぬ状態

東京電力によると、福島第二原子力発電所の1、2、4号機で圧力抑制室の温度が100度を超え、原子炉の圧力を抑えることができなくなった。このため原子炉内に水を補給して対処している。

同社は第一原発に続き、第二原発でも原子力災害対策特別措置法に基づく重大な事故と判断し、政府に報告した。水位は保たれ、発電所周辺の放射線モニターは通常と変わらない、という。
http://www.asahi.com/national/update/0312/TKY201103120194.html」

 想定していないほどの巨大地震だった。
 原発の専門家は言う。しかし、想定できないほどの地震があるなら、原発は建設してはいけない。

6557.3/25/2011
東北関東大震災...10

 3月13日。地震から2日目。福島第一原発周辺の住民に被爆者が出た。病院にいたそうだ。原発で働いていたひとではない。すでに放射性物質が空気中に飛散しているのだ。
 地震は、多くの孤立した被災者や津波などによる犠牲者を出している。被災地に家族や親戚のいるひとたちはふるさとの情報を知りたいだろう。しかし、12日から13日にかけて、多くのテレビやラジオは、原発事故の情報に時間を割いている。それだけ、危険な状態だと認識する。

 3月11日。地震発生から2時間を過ぎた頃、わたしはJR東海道線藤沢駅から大船方面に向かって歩いていた。駅の南口からほぼ線路に沿った道路を歩く。
 いまはAZBILという名前になった山武ハネウェル工場の従業員が大量に藤沢駅方面に向かって歩く。わたしとすれ違う。まだ5時前なので、ふだんなら仕事が終わっていない時間なのに。きっと従業員に帰宅命令が出たのだろう。藤沢駅では電車が動いていないことをわたしは知っていた。駅に向かうひとたちのなかに電車で帰ろうとするひとがどれぐらいいるのだろうとぼんやり考えた。
 小塚の交差点。東海道線の線路をくぐる小塚地下道の最下部から水があふれていた。市役所の車が到着していて、被害状況を確認していた。
 宮前地区から、柏尾川方面に向かう。藤沢駅を出た東海道線の線路が大きく大船方面に左カーブを切る。そこにE231系の東海道線二編成が停車していた。一つは小田原行き。もう一つは東京行き。上下線がちょうどすれ違うタイミングで地震が発生したのだろう。
 車内にはまだ乗客が残っていた。しかし、線路に下りて歩くひとたちもいた。電車のドアはなぜか閉まっている。すべての乗客が運転席のドアから線路に降りていた。車内に列を作り、運転席へ向かっている。日本の電車は駅のホームで乗客が乗降するようにできている。線路に乗降するようにはできていない。だから、もしも車輌のドアを開けたら飛び降りなければいけない。その危険を避けるために、ステップのある運転席のドアを使っているのかもしれない。フェンス越しに避難の様子を見ながら、ずいぶんのんびりしているなと感じた。こういうときのために車輌のドアに非常用のステップを用意すればいいのに。

 柏尾川はいつも通りの水の流れだった。
 しかし、柏尾川沿いの道路はいつもと異なっていた。
 明らかにひとの通りが多い。おそらく三菱が従業員に帰宅命令を出したのだろう。歩道からあふれるほど多くのひとたちが大船方面から手広方面に向かって歩く。道路は手広方面から大船方面に向かって渋滞の列が続く。
 信号機が止まっていた。
 家族の安全確認をするメールで、自宅が停電になっているという情報があったことを思い出した。鎌倉市全域が停電だったのか。

6556.3/23/2011
東北関東大震災...9

 今回の地震で、太平洋沿岸の原子力発電所が緊急自動停止をした。
 そういう作りになっていてくれないと困る。
 海岸に近いところにある原発なので津波の心配をした。


[火災が発生した住宅街=宮城県石巻市で2011年3月11日午後5時57分、本社機から後藤由耶撮影(http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110311/64.html)]

 ところがこの原発のうち東京電力の福島第一原発と第二原発で事故が発生した。
 AFPの情報によると。
「【3月12日 AFP】11日に東日本を襲った巨大地震で、東京電力(Tokyo Electric Power)福島第一原子力発電所と第二発電所の冷却装置が故障し、周辺住民数万人が避難する中、政府は原子力緊急事態を宣言した。地震後の日本の原発に対し、国際社会の懸念が高まる中、関係各方面は原発事故を防ぐために奔走している。

 第一原発1号機の中央制御室では、通常の1000倍の放射線量が計測された。しかし当局は、原発の正門前では通常の8倍程度で「差し迫った健康被害はない」と述べている。

 また原発を運用する東京電力は、冷却機能を失った原発の格納容器内の圧力を下げるために、放射性物質を含む蒸気を放出を始めたと発表した。健康上のリスクはないと強調している。(c)
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2790012/6944804?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topics」

 通常の1000倍の放射線量が計測された中央制御室で働くひとたちの今後の健康被害は心配しないでいいのだろうか。また、通常の8倍という放射線量は、どうして健康被害がないと言い切れるのか。具体的な説明がないのが不可解だ。
 権力や電力会社は、また何かを隠そうと躍起になっているのかもしれない。

6555.3/21/2011
東北関東大震災...8

 わたしは荷物をまとめてすぐに学校の門を出た。
 わたしの職場では圧倒的に地元の藤沢市に住んでいる職員が多い。公共交通機関が使えなくなれば、歩いて帰ることができるひとたちだ。わたしのように隣りの鎌倉市から勤務している職員はとても少ない。だから、ほかのひとたちと同じように職場に留まっていたら、いつ自宅にたどり着けるかわからなくなる。
 学校から藤沢駅までの商店街はいつものように活気があった。
 救急車や消防車のサイレンがなければ、地震があったことを忘れてしまいそうだった。


[津波にのみ込まれる車両や軽飛行機=仙台空港で2011年3月11日午後4時1分、手塚耕一郎撮影(http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110311/46.html)]

 しかし、その甘い期待は藤沢駅が近づいてくるに従って打ち砕かれた。
 駅前のサンパール広場には、学生や職業人を始めとした多くのひとたちが集まっていた。みんな携帯電話を手にしているが、通じているのかどうかは定かではない。
 もしも電車が動いているのなら、一刻も早く大船にたどり着いていた方がいいので、改札に向かう。
 そこでわたしが見たのは、14:51で止まったままの湘南新宿ラインの運行表示板だった。つまり地震発生直後から、新しい電車が到着していないことを表していた。
 改札口周辺ではハンドマイクを持った係員が案内をしている。
「まったく復旧の目途がたっていません。ご迷惑をおかけします」
 それでも読書をしたり、携帯型のゲームをしたりして時間をつぶしているひとが多かった。
 わたしは、いつも健康のために大船までの帰りは歩いているので、何の躊躇もなく電車をあきらめた。

6554.3/20/2011
東北関東大震災...7

 校長は緊急放送のマイクを握った。
「これから緊急防災会議を開きます。各学年からひとり、先生方がお集まりください」
 緊急防災会議は、自然災害のときに学校全体として斉一な行動が必要なとき開催される。議論をするものではなく、校長の方針が伝えられる。
 各学年から教員が職員室に集まった。これに事務員、用務員などほかの職員も加わる。養護教諭、特学スタッフも。
「15時15分をもって一斉下校にします。下校順番は放送で指示をします。下校後は、通学路の安全確保をしてください。以上」
 質問はない。
 各自が持ち場に戻っていく。
 わたしは、紙に「地震のため15時15分一斉下校」とマジックで大書した。それをコピーに取り、昇降口に用務員さんと手分けして貼った。こどもが帰った後で、職場から学校に迎えに来る保護者がいると想像したのだ。

 他校に行っていた5年生が戻ってきた。
 これで全在校生がそろい、下校の準備が整う。
 時間になり、校長が学年ごとに下校の指示を出す。わたしは、昇降口に行き、せまいドアにこどもたちが集中しないように交通整理をした。なぜか、狭いドアの場所で靴を履き替えて、後ろから来たこどもに背中を押されるこどもがいるのだ。状況が理解できていないのだろう。
 多くの教員が安全指導に行ったので、わたしは校舎内の安全確認を行う。
 授業中だった6年生の教室は、卒業式のときに体育館に飾る自画像を描いていた途中だった。机上に描きかけの自画像が並び、絵の具の道具もそのままになっていた。月曜日まで放置すると絵の具が乾いてしまうかもしれない。
 窓を閉め、照明を消し、エアコンを切る。鍵をかけ、職員室に戻る。
 多くの職員がテレビに釘付けになっていた。
 職員のなかには東北地方出身者が多い。
「さっきから実家に電話をしているけど、まったく通じません」
 回線が混戦しているのか、あえて緊急用優先になってしまったのか。
「鵠南、鵠洋、湘洋にこどもを通わせているひとは、いますぐ帰宅してください」
 校長が職員に指示を出す。どの学校も海岸沿いの学校だ。関係する職員たちは、幾分青ざめた表情で荷物をまとめて職員室を出て行く。
 いったん停止していた小田急線が、動き始めた。もうすぐ藤沢駅というところで停止していたので、とりあえず藤沢駅に入線させようというのだろう。
 16時、職員集合。
「児童の下校が終了しました。校舎内の安全確認が終了しました。ここでみなさんの勤務を解きます。早く家族のもとに帰り、安全確保に努めてください」
 退庁命令だ。

当初、この連載では「東北地方太平洋沖地震」という気象庁が発表した地震の名前をタイトルにしていました。しかし、その後の原発事故、電力不足、食料不足、津波など多くの災害がひとびとの日常を奪っています。この現実を直視したとき、地震そのものだけでない災いが含まれていることに気づき、タイトルを「東北関東地方大震災」に変更しました。

6553.3/19/2011
2011(H23)東北地方太平洋沖地震...6


[津波を受け、火災が発生している海岸沿いの住宅地=福島県相馬市で2011年3月11日午後5時22分、本社機から後藤由耶撮影(http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110311/76.html)]

 地震の翌日3月12日、TBSニュース。
「これまでに入っている被害の情報をまとめてお伝えします。東北・関東大地震は余震とみられる強い揺れが断続的に続いていますが、死者は少なくとも580人以上、行方不明者もあわせると1345人以上にのぼっています。

 太平洋沿岸では津波による壊滅的な被害を受けた地域もあり、被害はさらに拡大するとみられます。また、きょう未明から長野や新潟でも強い地震が発生していますが、この地震による死者などの情報は入ってきていません。

 JNNのまとめによりますと岩手県では津波に巻き込まれるなどして少なくとも191人の死亡が確認されました。陸前高田市はほぼ壊滅状態で2000から3000世帯が泥の中に埋まっているということです。

 また福島県では老人ホームが倒壊したり土砂崩れが発生するなどして82人の死亡が確認されていますが、南相馬市ではおよそ1800世帯が壊滅状態だということで、この地区で多くの犠牲者がでているものとみられます。

 また、東京電力によりますと福島第2原子力発電所で作業員1人が死亡していますが、放射性物質による事故ではないということです。

 このほか、福島第1原子力発電所内でも2人が行方不明になっているということです。

 また、宮城県では死亡が確認されているのは83人ですが、仙台市若林区で津波に巻き込まれたとみられる200人から300人の遺体が見つかっています。

 また、気仙沼市では市街地がかなりの範囲で水没しているほか、きのうから続いている大規模な火災も鎮火していません。

 茨城や千葉、東京など関東地方でも建物の倒壊などにより死者がでていて、これまでに亡くなっている方は確認されているだけで10都県で580人以上に上ります。

 一方、行方不明者の情報ですが、少なくとも福島県では530人、岩手県では大船渡市の中学校の生徒8人の行方が分からなくなるなど、214人以上の行方がわからなくなっていて、7つの県で、あわせて805人となっています。またけがをした方は確認されているだけで1049人に上ります。(12日10:54)

(TBSニュース http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4671552.html)」

6552.3/16/2011
2011(H23)東北地方太平洋沖地震...5

 職員室に戻ってきた校長が、緊急放送のマイクを握る。このマイクは屋内外のすべてのマイクから音が出るようになっている。
「児童は、まだ机の下にもぐっていてください」
「各学年の担任は、クラスの状況を職員室まで報告」
「報告の際は、同じ棟に必ずひとを残して順次報告」
 厳密には、揺れがおさまってから報告させるのが望ましいのだが、実際の地震を経験してわかった。大地震では、大きな揺れがおさまっても、何度も何度も余震が続くのだ。だから、完全に揺れがおさまるのを待っていたら、何時間も先になってしまうかもしれない。
 電話が鳴り出す。
 こういうときに学校に電話をして安否を確認する保護者がいるのだ。
 学校にはたった2回線しかないのに、そういう問合せ電話でふさがったら、市役所や消防からの連絡が取れなくなる。
「俺、安全報告のとりまとめをします」
 校長に連絡をして、職員室正面の管理職の位置でチョークを持ち、報告を待つ。
「おぅ、頼む。○○さんは電話への応対。1515一斉下校。問合せ者。学年学級。よろしく」
 養護教諭の○○さんがメモを手に、電話の前でスタンバイする。

 次々とヘルメットをかぶった担任が職員室に報告に来る。
 その間に、校長や教頭と次の対応を検討している。
「○年○組。在籍35。欠席5。出席30。異常なし」
「了解。避難状態を継続です」
 報告のあったクラスを黒板に書いていく。
 担任たちは報告をして、教室に戻っていく。
 こういうときのために、学校には防災安全計画があり、避難訓練をしているのだから、パニックにならないのは当然だが、それぞれの意識の高さを感じた。
「全員の報告終了。あれ、5年だけいないよ」
 2年、3年、4年、6年のすべてのクラスで異常なし。5年からは一つも報告が来ない。
「いま体育で隣りの小学校に行っているから、教頭さんが向こうと連絡をしている」
 校舎改築のため、校庭にプレハブがある。だから、体育の授業は隣りの小学校の校庭を借りているのだ。
「この地震は大規模かなぁ、中規模かなぁ」
 校長が聞いてきた。
「震源域は大規模だけど、藤沢地域は中規模でしょう。校舎内の被害状況もないし」
 わたしの感想を聞いて、校長が判断した。
「よし、一斉下校だ」
 大規模地震のときは、保護者への引渡しが原則なのだ。

6551.3/15/2011
2011(H23)東北地方太平洋沖地震...4

 職員室のテレビでは、津波が町を飲み込んでいく。
「これ、映画みたいだー。本当にこんなことが起こっているなんて信じられない」
 わたしは、血圧が下がるのを感じた。

 宮城県名取市上空のヘリコプターからの映像だ。
 名取川を逆流する津波が、ものすごい勢いで上流を目指す。ヘリコプターの速度でも追いついていない。名取川の両端は、広い水田地帯と思われる。あまり人家はない。そこにも、名取川のなかを逆流する津波と同じように、真っ黒な津波が広く襲っていた。


[仙台空港周辺で大津波に飲み込まれた多くの家屋。火災も発生している=午後4時頃、本社へりから手塚耕一郎撮影(http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110311/)]

「あそこ、車が走っているぞ」
 テレビを見ていた用務員さんが叫ぶ。たぶんドライバーには襲ってくる津波が見えていないのだろう。そのまま道路を進むと、やがて津波と激突する。
 水田地帯を抜けた津波は、ビニルハウスや瓦屋根の民家を飲み込みながら、さらに内陸部へ襲いかかる。さっきの車が走っていた道路はもうすぐだ。ぼろぼろになった民家の木材が真っ黒な津波とともに大きな塊になって進んでいく。道路はやや盛り土をしてあるらしい。津波はいったん道路の盛り土にぶつかって、左右に分かれた。そのまま道路を乗り越えるには水量が足りないらしい。ドライバーは危険を察して逃げてくれただろうか。さっきの車は、道路の中ほどで停車していた。
 やがて盛り土部分を覆いつくした津波は、どんどん補給されるエネルギーとともに、二車線のアスファルト道路を乗り越え、反対側の民家が密集している地域へと刃を向けた。

6550.3/14/2011
2011(H23)東北地方太平洋沖地震...3

 いったん屋外に出たわたしは、自分だけ避難していてはいけないと思い、ふたたび非常口から建物の中に戻る。一瞬、家族の顔が浮かんだ。もしも、プレハブが倒壊したら、わたしのいのちはひとたまりもないだろう。

 あのとき、なぜあいつはふたたび室内に戻るという愚かな行為をしたのか。
 小田急線の車内からわたしの行動を見ていた乗客の何人かは、その後のメディアの質問に疑問を投げかけるかもしれない。

 しかし、校舎には多くのこどもたちが残っている。この現実を前にして、自分だけ安全な場所にいるのは、わたしの仕事というよりも、信念が許さない。目の前で崩れ落ちていくプレハブを前にして「あー、戻らなくてよかった」とは思えない。自分が犠牲になってもひとりでも多くのこどもを救いたいと思った。
 けっこう、俺ってぎりぎりのところでピュアじゃん。
 そんなことを思うこころの余裕があった。
 波打つ廊下を職員室に向かう。
 教育行政は、コスト削減の大義名分によって、教員の人件費を抑圧し続けている。そのため、授業時間帯の職員室は空に等しい。正規職員を減らして、時間給の非常勤職員を大量雇用した結果、午後はほとんど非常勤職員は退庁していて、学校にはわずかな正規職員しか残っていないのだ。ここ数日、職員のインフルエンザが蔓延していて、毎日数人の職員が休んでいた。管理職や専科もそういうクラスに入って代わりの授業をする。年度末のこの時期は、自習というわけにはいかない。担任に代わって授業を進めないと、当該学年の学習が終わらない可能性があるのだ。
 職員室のドアを開ける。
 案の定、教員たちの机にはだれもいない。
 閑散とした職員室の後ろの外れで、用務員さんや事務員さんがNHKのニュース映像に見入っていた。
「震源はどこ」
 わたしは室内に入るなり叫んだ。
「宮城だって」
 用務員さんが大声で教えてくれた。えー、そんなに遠く。ということは、震源に近い地方は大変なことになっているかもしれないと直感した。
 窓外を見ると、2時半に下校したはずの1年生の数人が昇降口の周辺でたむろしていた。それを同じ特学スタッフのメンバーが地面に座らせて避難を指導している。
 おそらく6時間目が終わるのを待って、2年生以上の兄や姉といっしょに帰ろうとしていたのだろう。