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6549.3/13/2011
2011(H23)東北地方太平洋沖地震...2

 そのとき、わたしはこの地震の震源は東海沖か東京、あるいは相模湾だと思っていた。
 それほど、地震の揺れが大きく、被害が発生しそうな直感がしたのだ。
 学校に平行している小田急線。目の前で片瀬江ノ島行きの下り電車が停止していた。乗客が座席に座っているのが見えた。
 
 しかし、この地震の震源は、神奈川県からはるか遠くの宮城県三陸沖牡鹿半島の東南東130キロ、震源の深さは約10キロの地域だった(報道によれば地震発生は2011年3月11日午後2時46分頃とのこと)。わたしは、地震発生とほぼ同じ時間に何百キロも離れた藤沢で巨大な揺れを感じた。これでは、緊急地震速報では間に合わないではないか。


[津波で住宅街が壊滅した仙台市宮城野区蒲生地区から避難する人たち。奥の松の木まで住宅街だった=2011年3月12日午前7時50分、丸山博撮影(http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110312/)]

 地震の規模を示すマグニチュード(M)8.8。
 これは気象庁が観測を始めた明治以降、もっとも大規模な値だそうだ。
 わたしが大好きな川口納豆のふるさと、宮城県栗原市がもっとも強い震度7を観測した。納豆生産は大きな被害を受けているだろう。福島、茨城、栃木県などで震度6強、岩手、群馬、埼玉県、千葉県で震度6弱を記録した。
 その後の各地の震度を見ると、神奈川県東部は震度5強だった。そうか、あの揺れは震度5強なのかと思っていたら、翌日の朝刊で鎌倉市や藤沢市は震度4と表示されていた。
 震度4にしては、大きな揺れだった。

 地震が起こったとき、その当事者になると何も情報が入らないものだ。
 いまどこで何が起こっているのかという基本情報がまったくわからないというのはとても不安だった。だから、こころのどこかで、これは地震ではなく、メニエール氏病のようにわたしのからだに問題があるのではないかと思ったほどだ。
 しかし、小田急線が、学校脇の線路で停止している現実は、メニエール氏病ではなく、地震の発生を無言でわたしに押し付けた。

 気象庁は今回の地震を「平成23(2011)年東北地方太平洋沖地震」と命名した。しかし、地震から日数が経った3月13日のメディアでは、NHKで「東北関東大震災」、毎日新聞が「東日本大震災」という呼び方をしている。
 ややこしいので、このウエイでは、気象庁の命名を使用する。

6548.3/12/2011
2011(H23)東北地方太平洋沖地震...1

 その週は月曜日から季節外れの大雪が湘南地方に降った。
 わたしは、その数日前から腹の調子を崩し寝込んでいた。月曜日も出勤できずに終日布団の中でうなっていた。
「お前が寝込むから雪が降った」
 火曜日に出勤したら、同僚に突っ込まれた。
 そう、雪だの、腹痛だの、いつもと違う何かが起こっていたのだ。それらが、何かの予兆だなどと気づくことはなかった。

 体調が少しずつ回復していき、週末の金曜日には「やっと週末だぁ」と思えるようになっていた。腹の影響で量を控えていた酒も、今夜あたりはレギュラーに戻せそうかなと考えながら、特学のこどもたちを下校させた。
 だれもいない教室の片づけをする。
 一日の仕事を終えて、ホッと一息つける瞬間だ。こどもたちのざわめきは消え、静寂が室内を包み込む。月曜日の準備を少しずつ開始する。
 14:45。2011年3月11日金曜日。
 準備に一息入れて、男子トイレに入ったときだ。小便器の前でチャックを下ろそうとしたら(下ろしていない)、足元が上下に揺れた。
 うわっ。
 何なんだ。
 とっさにはわからなかった。たらふく酒を飲んだとき、帰り道で味わうような酔っ払い感覚だ。でも、きょうはまだ一滴も飲んではいない。
 チャックにかけた手を元に戻し(だからチャックは下ろしていない)、わたしはトイレから廊下に出ようとした。そのとき、次の揺れが大きく襲ってきた。それは上下左右にゆっくりと何度も揺れるものだった。かつて、東京から大分までカーフェリーで旅行したとき、紀州沖の荒海で似たような揺れを経験したことを思い出した。船酔いをする揺れ方だったのだ。
 壁や柱につかまりながら、トイレから廊下に出る。
 わたしの勤務する小学校は去年から校舎改築のため、プレハブ校舎で生活している。この揺れ方はプレハブだから増幅しているのかもしれないと思った。ということは、天井が落ちてくる心配だあるではないか。わたしはあわてて、廊下の突き当たりの非常口を目指した。その間も廊下は大きなきし麺のように波打っていた。

 クレセント錠を外して非常口から屋外に出た。見上げると、二階と三階では窓からこどもたちの不安そうな声が漏れ出していた。しかし、それは悲鳴でパニックになっているというものではなかった。単純に揺れに対して驚いている。きっと担任たちが、机の下にもぐるように指示を出したのだろう。

6547.3/9/2011
 自分の気持ちをこどもが受け止めないで反発するとき、多くの教師は傷つきます。
 自分の考えをこどもが無視するとき、多くの教師は怒ります。
 自分の指示が日に日にこどもに伝わらなくなっていく実感を感じるとき、教師は失望と無力感に襲われ、正常な判断をしにくくなっています。
 こういう教師の多くは、性格が真面目なひとです。周囲にはよく思われ、家族にも頼りにされているひとです。酒を飲んで大暴れしたり、満員電車で大声で話したりは、絶対にしないタイプでしょう。
 わたしは、このどのタイプの教師とも違います。
 理由はわかりません。きっとそんな育ちをしていないからでしょう。
 こどものときから「ほかのこどもとは違うことを考えよ」が家訓みたいな親だったので、周囲にどう思われているかということは、大学で山登りの運動部に入るまではあまり考えませんでした。
「お前の勝手な行動が、同じパーティーの命を削ることになるんだ」
 山登りでは、連帯・協調行動が重要です。体力差や経験の差が大きい山登りでは、もっとも体力や経験の少ないひとに合わせた行動が基本です。そんなときに、周囲のことを考えないで、しゃかりきになったいた自分を先輩がたしなめてくれました。
 そのときは、とても納得しました。
 しかし、学校に勤務するようになってから、こんなに組織は同調圧力が高いのかと驚きました。服装や言葉遣い、使用するテストやノート。授業の進め方や、発言の仕方。何から何まで、みんなと同じようにできるようになるのが、初任者が最初に覚えることでした。
 わたしは、そういう同調圧力があると、天邪鬼になってわざと知らん振りをするタイプです。だから、周囲に合わせているように見せて、こっそり自分独自のやり方をたくさん工夫しました。
 だから、わたしの気持ちをこどもが受け止めないときは「ねぇ、どうしてわかってくれないの。教えてよ」と質問しました。
 わたしの考えをこどもが無視したときは「無視するわけが知りたいなぁ」とも。
 相手のことを知ることは、教育の世界では基本的な要素です。それは「こども」という一般的な存在ではなく、苗字も名前もある目の前にいる具体的なこどもについて知っていくという意味です。相手を知れば知るほど、こちらの対応が変えられるのです。
 どのこどもにも、同じ対応しかできない教師は、こどものことを知ろうとする義務を果たしていません。こういうタイプの教師ほど、大声でこどもを叱り、牽引力のみでこどもを掌握しようとするのです。やっかいなのは「熱血漢」と勘違いされて、一部の保護者に熱烈に支持されることがあることです。

6546.3/8/2011
 こどもを育てるというのは大変な作業です。
 一般的に、自分のこどもを育てることを育児といいます。育児は、ひとりで担当するよりも、家族が多ければ多いほど役割が分担できて、肉体的にも精神的にも助かります。しかし、いまの日本社会は、核家族化が進んで、自分の両親や親戚が同居している家庭はほとんどありません。だから、育児といえば、多くの場合、母親の仕事になっています。
 これは、全世界的なことではありません。
 日本社会の特徴と考えたほうがいいでしょう。
 小さなときに育てる育児と違い、もっと大きくなって育てるときは、養育という言い方に変化します。小学生や中学生の子育てで「育児」と言ったら、ずいぶん幼いこどもがいるのねと勘違いされるでしょう。
 もしも、こどもに肉体的、あるいは脳の発達に障がいがある場合は、養育とは言いません。専門機関と連携した子育てが必要になるので、療育という言い方になります。療育する場合は、家族の力のみではなく、医療や福祉、教育もかかわって総合的にこどもの成長をアシストする体制が求められます。
 しかし、残念ながら、この療育分野は、全世界的に日本社会はもっとも遅れています。それは政府が国家の予算を福祉に優先的にまわしてくれないからです。先端科学や原子力、道路や鉄道などの分野に多くのお金が使われています。
 養育困難という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
 保護者が、自分のこどもをこれ以上育てることが無理な状態です。本人が感じることもあります。児童相談所のように外部機関が判断することもあります。保護者に固定した仕事がなく、安定した住居もなく、こどもを育てる能力もない場合、養育困難と判断されます。また、何らかの理由でこどもが保護者から虐待を受けた場合も同様です。保護者のなかには、こどもをいつくしむ気持ちはありながら、どうしても不幸にしたくないので育てられないというケースもあります。
 こういったこどもたちを集め、おもに18歳まで保護者にかわって育てる施設を児童養護施設といいます。昨今、タイガーマスク騒動でプレゼントが贈られた施設です。
 わたしは、児童養護施設の方々とのかかわりのなかで、そこで暮らすこどもたちの半数以上が、療育が必要なこどもたちだと認識しました。何らかの障がいをもって生まれたにもかかわらず、保護者から適正な育児や療育を得られず、施設に預けられてしまったのです。
 療育が必要なこどもたちを専門に受け入れる児童養護施設は、全国に数えるほどしかありません。だから、多くの児童養護施設では、十分な療育的ケアがなされないまま、こどもに集団生活を強いざるを得ない状況が生じています。
 こういうこどもたちにとっての学力とは何でしょうか。
 生きる力とは何でしょうか。
 そもそもそういうことを、学校に長時間がんじがらめにして教え込む意味ってあるのでしょうか。

6545.3/7/2011
 いやぁ、久しぶりにノックアウトだった。
 こんなにも下痢が続くとは想像もしなかった。
 金曜日の昼までは元気ぴんぴんだったのだ。
 金曜日の給食の時間に事件がおきた。いっしょに給食を食べていたこどもが突然の嘔吐。うまいことお盆の上にまいてくれたので、机や隣りのこどもにはひっかからなかった。
「口の周りや服を洗っておいで」
 こどもに言って、わたしはラテックスをはめた。ラテックスの使い捨て手袋は、特学では必須のアイテムだ。お盆をそーっと便所に運ぶ。まさか流しに捨てるわけにはいけない。ビニル袋を用意して吐しゃ物を流し込む。
「よく洗ったら、タオルで拭いて待っていてね」
 不安な表情のこどもに、冷静に声をかける。自分でもどうしていいかわからないのだから、おとなが混乱しては、さらに不安になるだろう。
 汚れたお盆、皿、フォークを水と石鹸で洗う。それらを雑巾で拭き取る。そのときに流しの鏡で自分の顔を見た。しまった。マスクを忘れた。
 急いでいたのでラテックスはしたが、マスクで口と鼻を覆うのを忘れてしまった。
 その後、こどもを保健室に送り、ベッドに寝かせる。汚物をまとめてゴミ小屋に捨てる。保護者に電話連絡をする。帰りの荷物をもって保健室に届ける。
 特学は複数の教員がいるが、給食の時間帯は通常学級で給食を食べるこどものために、わたし以外の教員は出払っている。通常学級で教職を食べないこどもたちとともに、わたしは特学でいっしょに給食を食べているのだ。その日は嘔吐したこどものほかに3人のこどもがいたが、3人とも大きく混乱することなくその後の給食を続けてくれたのには助かった。
 一連の片づけを終えて、自分では念入りに手洗いやうがいをしたつもりだった。
 しかし、土曜日の夜から腹痛と下痢が始まった。日曜日はかろうじて朝食は食べたものの終日下痢が続いた。吐き気がするので食欲なし。
 人間ドックの前日。夕飯をカットすると翌日まで空腹で仕方がない。そんな記憶は吹っ飛ぶほど、何も食べたくなかった。水分が放出しているので、ポカリやお茶などを飲んだほうがいいとわかっていても、口が要求しないのだ。
 日曜日の夜は、汗をかいて3回ほど下着を替えた。
 月曜日の朝、いつもの午前4時に起きて出勤の支度をした。ところが、全身に力が入らない。立っているつもりでも、何かにからだを預けないと折れてしまいそうになる。ものをつかんでも、下に落ちてしまう。目がくらむ。
 これでは、無理に出勤しても同僚に迷惑をかけるだけだと判断して、休むことにした。
 たっぷり布団で寝た。軽い食事をはさみ、20時間ぐらい布団にいたら、腰や背中が痛くなった。吐き気がなくなったら、急激に空腹感が襲ってきた。
 月曜日の昼からは、こうやってパソコンを起動できるまでに復活した。
 この間、薬を飲まなかったことに気づいた。キューレオピン、ポカリ、フルーツソース入り紅茶、ほうじ茶で乗り切ったのだ。

6544.3/5/2011
坂の下の関所・番外編

 ことしの冬は二月に一度あたたかい日が訪れた。立春過ぎには春一番が吹く。
「少しずつ、春が近づいているんだね」
「これからは花粉が大変だぁ」
 いつものメンバーが、夕方の関所でビールやチューハイ、日本酒を片手に季節の移り変わりを語る。
 つい先日のことだ。
 関所近くの公団にお住まいの風さんが仕事帰りに寄った。風さんは、おそらくわたしよりも年長だろうが、わたしのこどもよりも小さいこどもたちの父親だ。
 風さんが結婚が遅かったのか、父親になるのが遅かったのか。わたしが結婚が早かったのか、父親になるのが早かったのか。
 そんなことはどうでもいい。
 おそらく家で飲むだろうロング缶を買ったついでに、生ビールを若女将に頼んだ。
「そういえば、センセー。かさなりステーションって、センセーのホームページですか」
 おぅ、まさか関所でホームページの話題が出るとは思わなかった。
 足元では、シベリアンハスキーを親にもつミッキーが横になってくつろいでいる。飼い主の中島さんが、笑う。
「鉄道の写真も載っているんですよ」
 てっちゃんの中島さんが解説をする。
「関所というキーワードで検索をかけたら、たどりついたんです。トップに戻ったら、かさなりステーションってなっていて」
「うちのことも、書いてあんのよ。坂の下の関所」
 若女将も宣伝をする。
「見ました、見ました。微妙にここのひとたちの名前や会社をデフォルメしていて、おもしろかったです」
「ホント、センセーは、ここのひとたちの話をよく覚えていると思って感心しちゃう」
 ふふふ、ここは天然ネタの宝庫なのだ。
「ということは、油断も隙もありゃしないのか」
 ビールを口に運んだ風さん。もう生ビールは飲み終わっていて、持って帰るはずの缶ビールのプルトップを開けていた。
「おぅ、こんばんは」
 鮑さんが目を輝かせて登場した。着ている物からして、まだ仕事帰りだろう。中島さんに何やら熱く語っている。それを聞いた中島さんは、あわててリラックス状態のミッキーを起こし、帰ろうとする。
「あれ、どうしたの」
「あしたのはやて運転にあわせて、これから大船始発の夜行寝台が新青森まで運行するので、写真を撮ってきます」
 ダイヤオタクの鮑さん。満面の笑みで「花金」の夜よりも、臨時列車の待つ大船駅構内へ足を向けていった。

6543.3/3/2011
支援教育を行う普通学校

 神奈川県では、発達障がいのこどもがもつ療育手帳4段階のうち、A1・A2(いわゆるA手帳)のこどものみ、県立養護学校高等部への入学を認めるようになりました。これにより、B1・B2(いわゆるB手帳)のこどもは中学校卒業後に進学する高等教育機関がなくなるという大問題に直面しています。
 なぜ、養護学校が療育手帳のランクによって入学の区別をつけたのでしょうか。
 それは、養護学校を希望する保護者が増加したからです。
 養護学校の高等部の大きな使命は、障がいのあるこどもたちを、その先の就労へつなげることです。普通公立高校に進学していたら、とても面倒を診てくれないほど、障がいのあるひとたちの就労は狭き門です。だから、保護者の多くは一般的な受験が必要ない養護学校の高等部を選択するのです。その結果、神奈川県内の養護学校の高等部は軒並み定員オーバーになりました。教室をつぶし、廊下にまで机を置いて臨時教室にあて、多くのこどもを受け入れてきたのです。しかし、いよいよこれ以上の入学に関しては、一定の歯止めをかけないと、特別支援教育の道筋に保障がもてないと判断したのでしょう。その結果、苦汁の思いで、B手帳のこどもたちの受験希望を制限したのだと思います。
 というか、そう思いたい。
 そこで神奈川県では、全国で大阪府と二例しかない、新しいタイプの公立高校を設置しました。

 「既存の高等学校の一部を、持っている力を十分に発揮できなかった生徒に対してきめ細かな指導を行い、卒業後に自らの良さを活かしながら社会に参加できる人材の育成を教育目標とする、クリエイティブスクールに指定し、平成21年度入学者選抜から制度を実施。
全日制普通科、学年あたり240人程度、学校全体で720人程度としている。
教育方針
・基礎学力の定着
・社会的規範を身に付けさせる
・キャリア教育の推進
平成21年度から実施された高等学校。
神奈川県立大楠高等学校
神奈川県立釜利谷高等学校
神奈川県立田奈高等学校」Wikipediaより

 入試選抜方法も各学校で特色を出しています。

6542.2/27/2011
 全国の公立小学校では、2011年4月から改定学習指導要領(10年毎改定)が実施されます。
 学習指導要領とは、現在ではとても法的な拘束力の強い公教育のなかみを規定したものです。日本中の公立学校が、このなかみを実施しなければいけないことになっています。一般的に、学校でこどもたちが学ぶなかみを「教育課程」と呼びます。戦後、それまでの軍事教育への反省から、教育課程はそれぞれの学校で作成しようという時期がありました。しかし、その後の政治的な圧力によって、教育課程は国家が定めるという方向に変わっていきます。
 ちなみに、日本では外国と違い、私立学校も国からの助成金を得ているので、学習指導要領の拘束を受けています。宗教教育やそれぞれの学校の特色を生かした教育など、一部分だけ、自由に教育課程を作成できるようになってはいますが。これだけ、全国的に「同じ教育内容」が行われている国や地域は、世界では珍しいことでしょう。
 その教育課程の基準を定めた学習指導要領は、およそ10年ごとに見直されています。前回の見直しでは、いわゆる「ゆとり教育の実施」を旗印に、総合的な学習の時間という教科が増えました。今回の改訂では、前回のゆとり教育を否定し、授業時間を増やし、学力を向上させることを主眼にしました。文部科学省や中央教育審議会などが、改定しています。
 だから、当然ながら、大きな特徴は、現行5367時間の総授業時間数を5645時間に増やしたことです。278時間も増えます。年間授業日数はおよそ200日なので、一日に1時間以上も授業時間が増える計算になります。
 なお、学校行事やクラブ活動は、授業時間数には含まれないので、授業日数を増やさないと物理的に5645時間の授業を実施するのは困難になります。あるいは、運動会や避難訓練、遠足などは国大付属校みたいに一切中止、クラブ活動も委員会活動も廃止にするとか……。
 現在でも、6校時まで実施している小学校は、4月以降、最終下校時刻が午後4時半、7校時実施みたいな状況になるかもしれません。
 わたしは、25年以上も学校現場にいて、学習指導要領体制の変化は3回目です。どの改定でも、現場は大混乱です。教科が増えたり、なくなったり。授業時間が増えたり、減ったり。そして、確実に言えるのは、どの改定でも、飛躍的にこどもの学力や生活力が伸びたとは思えないということです。
 だから、教員のやる気を引き出すような改定が必要だと考えます。そういう意味では、教育課程をゼロから作成しやすかった生活科や総合的な学習の時間は、わたしにとっては授業を創るのが楽しい教科でした。しかし、全国の多くの教員が「何をしたらいいのかわからないから、雛形を作ってくれ」と教育委員会に頼んだという、情けない話も知っています。
 こどもの日常生活のほとんどを学校に縛り付ける今回の改訂。その弊害に気づくのは、次の改定まで待たなければいけないのでしょうか。

6541.2/24/2011
坂の下の関所・13章

これまでの「坂の下の関所に登場した人物」

若女将:関所。大将の妻。
大将:関所主人。本人は婿という。
大女将:関所。大将の母。

一葉:近所のご婦人。

土心:ソフトボール仲間。
池根:ソフトボール仲間。
諭吉:ソフトボール仲間。
矢野:ソフトボール仲間。
力石:ソフトボール仲間。
黒木:ソフトボール仲間。
中田:ソフトボールと炭焼き仲間。

カディー:インド人。輸入業。関所近くのフィットネスで健康維持。

赤坂:首都リーブス下請け社員。
烏丸:首都リーブス社員。
鮑:元首都リーブス社員。
鎌倉:首都リーブス社員。
モンデ:首都スリーブ下請け社員。ペルー人。
ローリー:元首都リーブス契約社員。ペルー人。

王:ディレクター。小学校で介助員のバイトを始める。
木下:辻堂の元蕎麦屋の主人。
美鈴:バレーボール熱血少女。
泥橋:にんにく大好き。芝浦製作所工員。
ショルダー:買い物客。

永田:清掃業。

相田:シンロート社員。
山田・山ちゃん:シンロート社員。
内田・うーさん:シンロート社員。

佐藤:麻酔科医。
神崎・カンちゃん:東京でよのためひとのために働く。
山中:年金暮らし。水道配管業。
東:年金暮らし。ビール大好き。

鳥藤:焼き鳥屋「バス停の前の小さな窓」。
大東:鳥藤常連客。釣りが趣味。バッテラの注文を受けた。
ピカちゃん:スキンヘッドの自由業。

上木田:大船で衣類販売・貸しビル業。
足元:定時買い物。

中島:犬のミッキーと散歩のついでに寄る。

お母さん:築地魚市場買出しの師匠。
お姉ちゃん:お母さんの長女。
あーちゃん:お母さんの次女。

石原:中華街永楽製麺所店員。
豊田:音楽CDを購入した客。

6540.2/20/2011
坂の下の関所・13章 ...story 244

 2010年がもうすぐ暮れていく。
 わたしは、関所で買った八海山をぐい飲みに注ぐ。リビングのテーブルからウッドデッキを眺める。肴はキムチだ。
 くっと喉にしみわたる。八海山独特の香り。飲んだ後にもう一度、喉の奥から鼻に抜けていく米と水の味わい。
「こいつは、二度楽しめる酒なんだ」
 正月の酒を選んでいるときに、大将がすすめてくれた。そのときに、二度楽しめるという意味がわからなかったが、こうやって飲んでみると、なるほどと思う。
 ふっと、万葉集ラストの和歌が思い浮かぶ。
 たしか、作者は大伴家持(おおとものやかもち)。

新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事
(あたらしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけ よごと)

 高校のとき、古文の時間に教わった和歌だ。「新春の今日降り積もる雪のように、良い事も積重なってゆけ」という願いがこめられている。
 当時は、太陰暦(月の暦)を使っていたので、大晦日はいまの1月後半から2月前半にあたる。よく節分と呼ばれる日が、昔の大晦日だったのだ。
 作者の大伴家持は、朝廷に仕える役人だったが、陰謀により因幡の国に左遷される。その因幡の国の元旦の饗宴で詠まれた歌だ。万葉集の編纂に携わったと言われている大伴家持が、42歳のときに詠んだ。その後、大伴家持は和歌を一首も残さないで、26年後に亡くなる。
 積年の恨みを抱えたまま、地方に飛ばされ、ひねくれてもおかしくないのに、災いではなく人々の幸運を願う。もともと歌人としても有名だった大伴家持。たくさんの和歌を残しながら、わずか42歳で歌作りをやめてしまった。謎の多いひとだし、謎を感じる和歌だ。
 関所に集う。そこは多くのひとたちの人生の交差点だ。それぞれ守るべき空間や考えがあるが、長い時間ともに過ごすと、少しずつ互いに自分のことを話し始める。ひとがひとを知るというのは、一足飛びにはできない。だからこそ、その仲間の身に危険や不幸があれば、わがことのようにつらい。反対に、ラッキーな話を聞けば、いっしょに嬉しくなる。
 2010年は、関所の仲間の身にどんなことがあっただろう。
 八海山が、わたしの記憶の扉を開けていく。
 別れ、出会い、重なり……。
 だれか特定のひとへ、何か特別な思いがあるわけではない。それぞれのよさが集まって関所の温もりを作っている。
「いや重け吉事」
 つぶやいていみる。和歌は声に出さないと。今度はもう少しはっきりと詠んでみる。
「いや重け吉事」
 きょうは、大晦日だ。
(13章・完)