top .. today .. index
過去のウエイ

6529.1/25/2011
坂の下の関所・13章 ...story 233

 わたしも父も泥橋さんも、若女将のモツ煮込みであったまった。
 わたしは、父を連れて帰ることにした。酔って帰って来た父だ。ここで酒が追加されたので、足元が危ない。
「それじゃ」
 帰ろうとすると、父がバックのなかから財布を出している。
「この煮込みの値段はいくらかな」
「やだー、お父さん。これはわたしからの差し入れですよ。お金はいりません」
 若女将が恐縮している。
 よく考えれば、わたしはいつも「もらえるもの」として当たり前のようにいただいてきた。しかし、父のように初めて口にしたひとが「お金を払わなきゃ」と考えるのは当然のことだ。
「そういうわけには、いかないよ。ね、大将」
 父は、千円札を一枚財布から出すと大将の分厚い手のひらに握らせていた。なかなか強引である。
「いや、本当に、こういうのはいいんだからさ」
 いくら大将が遠慮しても、父はもう渡したお金を受け取ろうとはしない。
 さ、帰ろう。いい気なものだ。
 わたしは、恐縮している若女将と大将に頭を下げて父と帰路についた。
「きょうはずいぶんご機嫌だったみたいだね」
 坂道は、酔いが回った身にはこたえる。話しかけながら息が途切れる。
「ああいうお店は、昔はよくあったもんだがなぁー」
 何年前のことを思い出しているのか。いや何十年前のことなのか。父は、さっきまでいた関所での時間を、こころのなかで壊れないように壊れないように懐かしんでいる。わたしは、父の荷物を両手に持っている。父は空身だ。
 並んで歩く。いつの間にか、父はだいぶ小柄になったようだ。
「ことしの年末な。スペインに行ってくる」
 なんだ、そりゃ。
「共済組合の旅行で、スペインだけをめぐる芸術と教育の旅っていうのがあったんだ」
 父は、公立学校で勤め上げ、その後私立学校で働き続ける。だから、いま所属している保険組合は、私学共済だ。組合員向けに格安の旅行プランが用意されているのだろう。
「いいね。でも、どうして、スペインなの」
「世界の主だった美術館に行ってきたつもりなんだが、どういうわけか、これまでスペインにだけは縁がなくてな。死ぬまでに一度は行きたいと思っていたんだ」
 きっと、それは亡くなった母といっしょに行くつもりで、残しておいた旅だったのだろう。その願いをかなえることなく、母は6年前に他界した。あれから、6年が経過して、ひとりでもスペインに行けると思えるようになったのかもしれない。

6528.1/23/2011
坂の下の関所・13章 ...story 232

 父は決して酒が嫌いではない。むしろかなり好きなほうだ。それもひとりで飲むよりも、大勢とわいわいしながら飲むのが好きなのだ。だから、法事などでわたしが運転手をすると、帰りに食事をしても飲む相手がいないのでおもしろくない。だったら、法事は歩いていけば、帰りにいっしょに飲めると言ったことがあるが、それは面倒だという。わたしの家の墓がある円覚寺は、自宅から歩いて20分ぐらい。わざわざ車で行く必要はないのだが。
 ほろ酔い加減の父に、わたしは泥橋さんを紹介する。
「こちら、いつもお世話になっている泥橋さん。ニンニクが大好きで、辛い物が趣味」
 ホウーッ。父の頬が引っ込む。
「ちょっと、センセー、そういう紹介はないんじゃないの」
 泥橋さんは、おもしろくない。事実ばかりを公開してはいけないらしい。んじゃ
「泥橋さんの息子さんは、さる国会議員の秘書さんなんだよ」
 いやー、まぁ、それほどでも。
 なぜか、本人でもないのに、泥橋さんは頭をかいている。
「国会議員といっても、たくさんいると思うんだけど、どういう方の」
 父は、興味をもったらしい。
 わたしは、そういう話に興味がないのでふたりの位置から適当に距離を置いた。少し離れてみたら、ふたりは政治談議でどんどん盛り上がっていく。初対面のひとが苦手な父には珍しいことだ。それだけ、泥橋さんの温和なキャラクターが、父のこころを穏やかにさせたのだろう。
「はーい、なんだか、難しい話ばかりしてないで。おいしいモツ煮込みを食べてね」
 若女将が、お盆に自家製のモツ煮込みを運んできた。若女将は、たびたび家族用に作っているだろう食事を、関所の常連に運んでくれる。
「わーい、ありがとう」
 わたしは、お椀を受け取り七味をかける。やさしい味噌味の持つ煮込み。日本酒があう。政治談議に盛り上がっていた父と泥橋さんも、あったかいモツ煮込みを口に運ぶ。関内で飲んできたはずなのに、父はよく食べる。
「これは、なかなかおいしいなぁ」
 かなり満足そうである。
「若い頃は、野毛の川向こうに、ちょくちょくモツを食べに行ったんでしょう」
 レジの奥から大将が、声をかける。横浜で高校時代を過ごした大将は、野毛や桜木町に詳しい。父は、30歳代から40歳代を桜木町で働いていたので、やはり「あのヘンのこと」に詳しい。ときどきふたりにしかわからない話題で、にんまりしているのだ。
「モツねー。ホルモンって言ったかなー。青い大きなバケツに入っていて」
「そうそう、放るものから、ホルモンって名前がついたっていうそうだし」

6527.1/20/2011
坂の下の関所・13章 ...story 231

 いつまでも常夏が続くかと思われた。しかし、10月下旬から11月にかわると、さすがに湘南地方は秋の気配が訪れた。ビールは、コクのある秋味がおいしい季節になった。
 いつものように関所で盛り上がる。少しずつ、暗くなる時間が早くなっている。
 週末の金曜日、ついついわたしは関所に長居をしてしまう。翌日が休みだからだ。関所の常連、相田さんや平ちゃんたちは金曜日はむしろ関所に来ない。もしくは来てもすぐに帰って行く。金曜日だから大船や横浜で遅くまで飲むらしい。
 だから、金曜日の関所には、近隣に住んでいるひとが多く集まる傾向がある。
 その日も、わたしは近所の泥橋さんとゆっくりしていた。泥橋さんは、大船にある大きな機械メーカーで働いている。家から歩いて行ける。夕方には大船仲通でキムチや鯖、納豆やニンニクを買い込んで来ることが多い。ときどきは、早めに仕事を終えて近所の銭湯でゆっくりしてくる。わたしよりも数歳上だ。人生を楽しみながら生きている。
 ニンニクを生のままで食べる特技があるので、あまり近づくと全身から漂うニンニク臭で、こちらが酔ってしまう。
「みんなが言うからさぁ、最近はあまり食べないようにしてるの」
 生ビールのプラスチックコップを傾けながら、申し訳なさそうに告白する。
 時計は午後8時を回ろうとしている。いつものわたしならば、翌日のことを考えて、帰り支度をする。どうしようかなぁと考えていた。翌日の土曜日は、日帰り温泉に行って一週間の疲れを取ろうと思っていた。ならば、きょうはもう少しのんびりしてもいいかなぁ。
「あれ、お父さんよー」
 若女将がドアの向こう側に父を認めた。
「おーい」
 手まで振っている。
 父は、いつもなら片手を挙げて通り過ぎるのに、その日に限って、にやにやしながら自動ドアをくぐってきた。
「わぁい、お父さんが自分から来てくれた」
 若女将は舞い上がっている。本当に自分から来たのだろうか。手を振って誘っていたような気がしないでもないが。おっと、父の足取りがあやしい。
「きょうは、遅いじゃん」
 わたしは、飲んで来たなぁという予感を抱く。
「ちょっとな、関内でさ。ほら」
 かつて、父と同じ職場で働き、退職しても、互いに行き来のある友人の名前が出た。
「もう、この歳だからな。金曜日は半ドンにして、午後から関内に出て映画を見るようにしているんだ。その後で、これよ」
 拳骨を握って、ビールジョッキを傾ける仕草をする。なかなかぜいたくな時間を過ごしてきたのだ。
「はい、どうぞ」
 若女将がなみなみと注いだ生ビールを父に出した。
「いや、もう、きょうは飲んで来たからなー」
 そう言いながら、泥橋さんと同じプラスチックコップを受け取っていた。

6526.1/18/2011
坂の下の関所・13章 ...story 230

 10月も中旬になる。
 いつもは運動会の季節で学校はバタバタしている。
 しかし、ことしは校舎の全面改築に伴って、校庭にプレハブを建設して校舎にしているので、校庭がない。6月に近隣の小学校の校庭を借りて、すでに運動会は終了していた。
 だから、比較的、のんびりとした秋の深まりを感じていた。
 ソフトボールの仲間、数人とバーベキューを約束していた。
 バーベキューセットを新調したのでぜひ使ってほしいと、土心さんがメンバーに提案した。それを受け、監督の池根さんが希望者を募った。日程も決まった。しかし、約束の日が近づいてきても、準備や集合時間の連絡がない。池根さんに尋ねると、その日は急に仕事が入ったから、あとは頼むとのこと。もっと早く知らせてくれればいいのにと不満を持ちながらも、参加予定者に準備を指示する。
 アルコールはわたしが調達することにした。
「というわけで、これぐらいの予算でアルコールをお願いします」
 わたしは若女将に注文を出す。
 ワイン二本。生ビールセット。日本酒。焼酎。お茶。生ビールのセッティングもお願いする。
「本当に、うちでいいのかな」
 若女将が心配する。
「どういうことですか」
「アルコールなら、安売りのお店に行けばもっと安く買えるのに。みなさんに文句を言われないかな」
 確かに、ディスカウントショップに行けば、もっと値段の安いアルコールを大量に仕入れることができる。しかし、わたしは、町の小売店を大事にしたい。大きなディスカウントショップや大型小売店は、収入のほとんどが本店に送られてしまうので、地域にお金が還元されない。地元が疲弊していくシステムなのだ。値段の多少は仕方がない。
「気にしないでください。文句を言うひとには飲ませないので」
「また、そんなこと言っちゃって」
 約束の10月16日は好天だった。大船に肉や野菜を買い出しに行った。わたしは、土心さんのお宅の台所を借りて、バックヤードよろしく食材の下ごしらえをした。庭では炭の準備ができて、下ごしらえのできたものからどんどん網に乗せられた。大将が来て、生ビールのセッティングをしてくれた。
「うんめぇ」「かんぱーい」
 庭からは、こどもに返ったような若い声が聞こえてくる。ひとりかふたり、気を利かせて台所まで食べ物とビールを運んでくれると期待していたわたしは、甘かった。すべての支度を終えて庭に出たときには、もう生ビールはほとんど残っていなかったのだ。

6525.1/17/2011
坂の下の関所・13章 ...story 229

 相田さんはバックから紙切れを取り出した。
「えーとね、そうだ、ことしは群馬だ。大船駅に早朝7時に集合だよ」
 わたしの知っている出張と、民間に勤める相田さんが行く出張との間には、もしかしたら大きな隔たりがあるのかもしれない。
 わたしは、ホッピーをコップに勢いよく注ぐ。ノンアルコールビールの元祖ともいえる、ホッピーはストレートでも飲んでもおいしいのだ。勢いよく注ぐと、それなりに泡立つ。
「会長がね、ことしも相田くん、バスのなかを盛り上げてよってご指名なの。向こうに行ってからも、昼の宴会のときになにかアトラクションよろしくって、頼まれちゃってさぁ」
 喉ごしさわやかなホッピーの泡が思わず肺に入りそうになる。
「それって、職員旅行みたいですね」
 公務員の世界ではまだ職員旅行という風習は残っている。しかし、民間会社にもその風習が残っているとは驚いた。
「違う違う」
 相田さんは、焼酎の入ったコップを顔の前で振る。
「いまどき、そんな旅行をする景気のいい会社なんてないよ」
 そうだよねぇ。じゃぁ、なんだ。
「キトリの交流よ」
 ニトリっていう大型小売店は知っている。でもキトリは知らない。奈良地方にキトラ古墳というのがあったが、相田さんと関係あるとは思えない。
「キトリって、何ですか」
「何だよ、ガッコーのセンセーがそれじゃ、困るな。危険物取り扱い業者。キケンブツ・トリアツカイ。略してキ・ト・リ」
 ご丁寧な説明をありがとう。しかし、正確に省略していない気もするが。それに、少なくとも小学校で教えるなかみではない。
「そのキ・ト・リの出張なんですか」
「この辺のキトリ会社が集まって危険物安全協会ってのを作ってんの。元締めは消防署。その署長が会長もやっててさ。電話がかかってきて、ことしもよろしくってわけ。どこの会社も一人ずつ出るんだけど、うちはいつも会長が指名するから、最近は俺ばっかり。前にうーちゃんが出たこともあるんだけど、ほら、うーちゃん、酒、飲まないじゃん。だから、バスのなかや宴会でも退屈なんだよね。それで相田、お前が行けってことで始まったの。なんだよ、やだなぁって思って参加したら、研修なんて名ばかりで、バスのなかでも向こうに行っても、ほとんど宴会よ。そんでもって、ただだらだらと飲んでたから、少し宴会芸とかやったら、受けちゃってさ」
 わたしの頭のなかには、釣りバカ日誌の西田敏行が笑顔で挨拶をしていた。

6524.1/16/2011
坂の下の関所・13章 ...story 228

 わたしは、仕事帰りに関所に寄る。昨晩は、カディーさんとワインを飲みすぎた。朝になっても食欲がなく、珍しく朝食抜きで出勤した。それでもひとの胃袋はちゃんと時間になれば空腹を訴える。昼の給食は、しっかりおさまった。
「こんばんは」
「おかえりー、センセー、きのうは大変だったんじゃないの」
 若女将が、痛いところをつく。
「朝飯が食えなかったー」
「また、お前は飲みすぎたぁって、パパに言われたぁ」
 ふだんから、酒を飲みなれているわたしや若女将でも酔った。きっときょうのカディーさんは、頭のなかでずっと除夜の鐘が鳴り続けていたのではないか。
「なに、センセー、珍しいじゃん。飲みすぎたなんて」
 ウイスキーが並ぶコーナー近くで、焼酎を氷とお茶で割りながら、相田さんが聞き耳頭巾をかぶっていた。
「いやぁ、年を取ると、酒に弱くなるね」
「あんだけ、飲んでて、弱いも何もないよ、あはははは」
 チェダーチーズ味のスナックを、一度に三つぐらい口に頬張る。
「うん、これ、けっこう、うまいんだ」
 相田さんは、どんどん話が展開していく。文脈がつながらないことがあるから、気をつけていないと、いまどんな話をしているのか、わからなくなる。
「それ、こないだまで試食していたやつだよね。うん、けっこううまかった」
 スナック菓子は塩分が多いので、なるべく食べないようにしている。でも、基本的にはポテトチップスや揚げせんべいが好きなので、以前はよく食べた。その結果、血圧が高いからだになったので、いまでは意識をして食べないようにしている。だから、うまそうに食べているひとを見ると、欲しくなってしまうのだ。
「そう、これ、ちゃんとチーズの味がするんだ。ほら、俺、辛いの苦手じゃん。だから、これぐらいがちょうどいい、ちゃって、ふふふふ」
 相田さんは、語尾にあはははとか、ふふふふという照れ隠しがつく。
 わたしもチェダーチーズは好きだ。
「ワインにも合うかもね」
「それがさぁ、あした早起きなんだよ」
 え、チェダーチーズ味のスナックとワインと、早起きがどうつながるんだ。
「相田さんは、あした出張なんだって。だから、きょうは早く帰るんだよね」
 若女将が教えてくれた。相田さんの頭のなかでは、もうわたしとのスナックの話は終わってしまったらしい。
「出張ですか、どこに行くんですか」
「えーと、ことしはどこだっけなぁ」
 そんな出張でいいの。

6523.1/15/2011
坂の下の関所・13章 ...story 227

 立ち飲み。当然だが、視点は自分が立っている高さに固定されている。ケースに座ったら、視点がとても低くなった。
 自動ドアが開く。
「あら、うーちゃん。さっきまで相田さんや山ちゃん、いたのよ」
 特殊ペイント製造会社の内田さんが登場した。アルコールを飲まない内田さんは、いつも関所に来て、相田さんや山ちゃんとコーラを飲みながら談笑する。
「あ、いいんです。きょうは自分だけってわかっていたので」
 うーちゃんは、コーラとスナックを手にしてレジに支払いに来た。
「こんばばんは」
 椅子に座っていたわたしが見えなかったのだろう。うーちゃんは、わたしを見て驚いた。
「珍しい、座っているんですね」
 いやはや……。
「もう、だめ、センセー、飲み過ぎ。これ以上は危険だから」
 若女将が解説してくれる。
 内田さんは、会社での立場は相田さんたちよりも上だという。いわゆる管理職にあたるみたいだが、関所にいるといつも気さくで、ときには相田さんに説教されていることもある。
 ガタン、また自動ドアが開いた。
「お、いたいた」
 カディーさんがプールを終えて戻ってきた。
 しまった。カディーさんの言いつけを守る結果になってしまった。
「別に待っていたわけじゃないからね」
「ママ、きょうはこれをもらおう」
「え、珍しい。カディーさん、ワインも飲むの」
 ワイン棚から、カディーさんは二本の赤ワインを手にしていた。
「一本、開けて、センセーいっしょに飲もう」
 どういう風の吹き回しだろう。すでにわたしの味覚も肝臓もアルコールを区別できない段階に入っている。それなのに、口は喋ってしまう。
「わーい、いただきます」
 あなたも、飲むか。カディーさんは顔でうーちゃんに質問するが、いいえとうーちゃんは手を振る。
「わたしも、もらっちゃおうかな。これ、おいしいの。エルコトティント」
 三人で、一本のワインを開けてしまった。わたしは座っていたから気にならなかったが、運動を終えたばかりのカディーさんは、足元がフラフラしてきた。
 ちょうど、荷物を背負って帰ろうとしていたうーちゃんに頼む。
「うーちゃん、カディーさんを大船までエスコートして。大船からはうーちゃんとは方角が違うから、仕方ないけど、お願いします」
 こんなの大丈夫とつぶやくカディーさん。酔っ払いはみーんな「大丈夫」と言うものです。
「あいよ、了解」
 うーちゃんは気軽にエスコートを了解し、カディーさんを支えるように帰って行った。

6522.1/11/2011
坂の下の関所・13章 ...story 226

 暑い夏が過ぎて秋になる。とはいえ、ことしは秋になっても暑い日が続く。帰りに太陽が早く沈んでいくようになって、あーいつもよりも夕暮れが早くなったなぁとやっと気づく。
 藤沢から仕事帰りに1時間をかけて関所まで歩く。まだまだ関所に到着すると汗をかいている。歩きながらの読書は、日に日に暗くなるのが早くなるので難しくなった。だから、歩くことに集中できるようになり、これまでよりもシャカシャカ歩く。よけいに汗をかくという繰り返しだ。本当に冬が来て、寒くなるのだろうか。
「こんんちは」
 関所の自動ドアをくぐる。
「お帰りー」
 いつものように、若女将の元気な声が響く。おっす、お疲れさん、店のあちこちから常連たちの挨拶が返る。
「あれ、センセー、遅いじゃないの」
 その日は珍しく、極楽寺に住むインド人のカディーさんがわたしよりも先にいた。手には小さなガラスのコップが握られている。
「カディーさん、きょうは早いですね。もうプールは終わったんですか」
 カディーさんは、近所にある「こもれび」という鎌倉市の作ったスポーツ施設に週に一回通う。おもに温水プールで1時間ぐらい歩くそうだ。
「いや、これから行くんだよ」
「えー、それじゃ、飲酒プールじゃないの」
「大丈夫、大丈夫、これぐらい」
 以前のカディーさんは、お店には寄ってもアルコールは一滴も口にしなかった。しかし、少しずつビールを始めるようになったら、かなり慣れたようだ。ついには、プールに入る前に飲むようになっているのだから。
「じゃ、センセー、ずっと待っててよ」
 ガラスのコップを缶ジュースが入っているクーラーの上に置くと、カディーさんはプールに出かけた。プールに行ったら小一時間は過ごしてくるカディーさんを待っていたら、帰るのが遅くなってしまう。まさか、そんな遅くまで待っているわけないじゃんと、こころのなかで告げる。
 しかし、その日はなぜかお酒と話が盛り上がり、常連客がみんな帰って行っても、わたしはだらだらと関所に残っていた。
「だいぶ、ふらふらしてるわよ」
 わたしは、ふだんはビールが入っているケースに腰を下ろす。
「大丈夫だよー」
 そう言いながら、フラフラっとよろめくわたし。言葉に説得力がない。
「おー、いつも見えている風景と違うなー」

6521.1/9/2011
坂の下の関所・13章 ...story 225

 10月後半。極楽寺のカディさんの邸宅で、源氏物語を聴く会が予定されていた。
「わたし、もういまから楽しみなの」
 若女将は、この話を知った半年ぐらい前からうきうきしている。もともと源氏物語には興味があるようで、本番前に復習をすると言って、ふたたび読み直すほどに。
「ほかにも、何人かで行くんですか」
「うん。一葉さんも楽しみにしていたのよ。だって、もともと彼女がわたしに源氏物語を教えてくれたんだもの。でも、ご家庭の都合で行けなくなっちゃって。残念だわー。ほかには、神ちゃんが友だちを誘って行くって言ってた」
「そっか、一葉さん、あんなに楽しみにしていたのに、残念だなぁ」
 一葉さんは、関所の近くに住んでいるご婦人だ。わたしがこどもの頃から住んでいる。当然、わたしの父や母の若い頃も知っている。夕方になると短い時間関所に寄って、レジの奥で休憩をしていく。
 いつも火曜日が定休日の関所では、それ以外の日に若女将が私用で店を離れるというのは考えにくい。買い物やヘアセットならば別だが、映画や舞台などのような文化的なイベントに参加することはめったにない。それは、かわりに関所のだれかが店に立つということを意味するからだ。考えてみれば、かなり拘束力の強い仕事だ。
 学校の教員も拘束力は強い。管理職の許可なく、勤務時間中に学校から離れることは許されない。「ちょっとそこで映画を見てきます」という申請が通るとは思えない。しかし、年間に決まった日数だけ休暇が認められている。用事があるときには、その休暇を使って学校を離れることができるのだ。
 しかし、関所のような自営の仕事では休暇という制度は成り立ちにくいだろう。みんなで休暇を取得したら、お店は開店休業になってしまう。お客が離れたお店には、ひとがつかなくなってしまう。
 だから、源氏物語を聴く会への参加は若女将にとって大きなイベントだ。
 もちろん、それを支えるバックヤードの布陣も頼もしいのだろう。
 営業職のように、日常的に町を歩くひとたちは、自分だけの時間と取引先との時間が区別されている。気持ちにメリハリがある。
 工場でものを作るひとたちは、原材料がかたちを変えていくプロセスに立ちあい、自分の技術で工業用品を生み出しているという自負がある。
 八百屋や酒屋のように、食べ物や飲み物を扱うお店のひとは、自分から出歩いてしまっては仕事にならない。出張販売や注文まわりというのもあるかもしれない。しかし、やはり基本はお店に来る客へ商品を売ることが仕事の中心だろう。お店には来なくても電話で注文を入れる客へ灯油やタバコ、ビールや日本酒を届けることも多いだろう。
 せめて、源氏物語を聴いている至福の時間は、今頃お店は大丈夫だろうかと心配しないでいてほしいと願う。

6520.1/8/2011
坂の下の関所・13章 ...story 224

 10月の中旬。少し風が秋らしくなってきた。
「ただいまぁ」
「おかえりー」
 関所の自動ドアをくぐると、若女将が迎えてくれた。
 レジの近くで長身の鮑さんが発泡酒を飲んでいた。
「あれ、久しぶり」
 首都リーブスを体調の関係で退職した鮑さんは、近所の別の工場に勤務していた。しかし、最近は仕事をしながら同時にハローワークに通っていた。鋳物という高温作業が続く首都リーブスの仕事は、持病を抱えるひとにはつらい仕事だったのだろう。結婚され、こどももいるのに、退職を選択した。それだけ、からだに無理がきかなくなっていたと考えた。
「きょうも藤沢のハローワークに行ってきました」
「いまの工場の仕事があるのに、また転職を考えているんですか」
 わたしは、立ち入ったことと認識しながらも質問をする。
「えー、俺たちの部署が11月から完全にオートメーション化されるんですよ」
 オートメーションというのは、自動化ということか。
「そこには人手はいらなくなるということですか」
 鮑さんは、小さくうなずく。
「簡単にいうとそういうことです。もともと、俺たちの部署はいまの会社の下請け会社からの派遣だったので、親会社にすれば下請けを引き払ってコストを下げるということなんでしょうね」
「ずいぶん、一方的な話ですね」
 わたしは、山猿をぐい飲みに注ぎ、少し憤慨しながら、ぐいっと喉に流し込む。
「9月に班長から事情が説明されてはいたんです。11月からは仕事がないから、それまでに次の仕事を探しておけって」
「こんな不況の時代に、かんたんに見つかるわけがないのにね」
 新聞で、日本の空を代表する大きな旅客機会社が経営破たんした記事が載っていたことを思い出す。従業員の早期退職を受け付けているという。一応、退職を希望するひとを待つという姿勢があるのは、大きな会社のなせるわざか。
「じゃ、下請け会社に戻って、そこでの仕事をするってわけにはいかないんですか」
 わたしは、大学を卒業してすぐに教員の道に入ったので、一般社会の常識を知らない。
「もともと、俺はその下請け会社でも契約社員なんです。いまの会社での仕事があるから雇われたわけで、そこの仕事がなくなったら、即刻これですよ」
 手刀で鮑さんは自分の首を切る。
「そういえば、先週の土曜日かな。鮑さんは北鎌倉駅あたりをワイシャツにネクタイで歩いていませんでしたか」
 鮑さんはしばらく考える。
「はいはい、あの日も逗子まで面接に行くところでした」