6519.1/7/2011
坂の下の関所・13章
...story 223
いつの間にか、家でだれにも相手にされない邪魔者たちを総称して、ジャマーズというグループができている。それにしても、もうひとりのレギュラーとはだれだろう。
「ちわっす」
手動レールドアが開く。
「おー、久しぶり」
わたしは、思わず、声を上げる。ソフトボールチームの監督を務める池根さんだ。
「あら、連絡はとれなかったけど、向こうから勝手にやってきたよ」
矢野さんが、驚いている。
「あ、矢野さん。さっきから携帯に入れてくれていたみたいだね。何の用?」
池根さんは、直接会ったことが決して偶然ではないような口ぶりで、電話のなかみを聞きたがっている。それより、返事の電話をどうしてしなかったのか。その方が問題だろう。
「いやぁ、こういう会を開いているから、いつもお世話になっている池根さんを呼ぼうかと思ったわけ」
矢野さんは、役者である。いや脚本家というべきか。
「そっかぁ、ちょうど、俺も家族でここで飲もうということになってさ。じきにうちの者が来るんだ。だから、わりぃけど、隣りの席でやらせてもらうわ」
池根さんは、いいひとだ。別に自分が声かけをしたわけでも、誘いを断ったわけでもないんだから、どこでだれと飲食をしようと勝手なのに。
その後、マージャンが終わった諭吉っちゃんを加え、10月の宴会は外が暗くなるまで続いた。洗濯物をクリーニング屋に取りに行くと言って家を出ただけの黒木さんも、最後までいた。彼が家に帰って、家族にどんな目で見られたのかは、想像したくない。あまり華々しいものではないことだけは確かだから。
隣りで、家族や親戚と飲んでいた池根さんは、なぜかいいちこの水割りを飲むとき、わたしたちの席に来て、水割りを作っていく。向こうの席にはいいちこはないのかなーと観察した。ちゃんとテーブル中央に氷セットといっしょにいいちこは鎮座していた。なのに、わざわざこちらのテーブルに来ては、自分のグラスにいいちこの水割りを作っていく。わずかな時間に、さりげなく、わたしたちと短い会話を交わしながら。
よく考えれば、わたしたちとの接点を大事にしようとしていたのかもしれない。
悪く考えれば。
いや、悪く考えるのはやめよう。50歳近い親父たちが、わいわい楽しみながら酒を飲める幸せは、何ものにもかえがたいのだから。
6518.1/3/2011
坂の下の関所・13章
...story 222
黒木さんを交えて、ソフトボールのチームメイト親父が、休日の昼間っから飲んだくれる。
外は、猛暑。店内は涼しい。最高の夏だねー。
「それにしても、このメンバーは国際色豊かだなぁ」
わたしが、感慨深く、力石さんたちを見渡す。
「きみね、それ、どういうことよ」
高知出身の力石さんは、やっと鷹の爪の影響が薄まってきたらしい。
「だって、海の向こう、四国は土佐の力石さんでしょ。さらに関門海峡を隔てた黒木さん」
ふたりは、口にあてていたいいちこのコップを、プッと吹く。
「ってことは、俺は内地だから、海外ではないぞ」
杜の都、仙台出身の矢野さんが誇らしげになる。
「いや、かつては、赤城の山を越えたら、そこは異国の地だったんだから」
わたしのみ、純正の鎌倉人なのだ。
「ところで、さっきから気になっているんだけど、黒木さんのそのクリーニング荷物は何なの」
矢野さんが、黒木さんが座席の横に二つ折りにした洗濯物を指差す。
「おー、そうじゃった。嫁には洗濯物を取りに行くと言って出て来たんや。こんなところで、飲んだくれているとは知らんはずや」
黒木さんは、やや慌てた。力石さんが、黒木さんの肩をたたく。
「ここで、こうして飲んでいたら、奥さんが心配して、怒ってしまうんじゃないのかな」
「あほな。んなこと、あらへんがな。あんたらこそ、昼間っから飲んでて、家では平気なのか」
勝ち誇った瞳で力石さんは宣言する。
「ここに集めた精鋭は、家にいても邪魔者だろうという基準があるわけ。だから、じきに諭吉っちゃんも来る」
わたしは、咀嚼していた餃子を誤嚥してむせる。
「諭吉っちゃんも、邪魔者なのか。まだ若いぜ」
むせながら、いいちこを飲み、わたしは質問をする。
「あったり前じゃん。暇があればパチンコかマージャンをしているひとが、家で大事にされているわけがない」
力石さんは、言葉に力を込める。
「そやそや」
なぜか、黒木さんも同調している。
「本当は、もう一人、ジャマーズレギュラーがいるんだけど、連絡が取れなかった」
矢野さんが、告白する。連絡しようとして取れないひとと、関所に狩りに来られてまんまとつかまったわたし。比較するのはやめよう。
6517.1/2/2011
坂の下の関所・13章
...story 221
10月の日曜日。ソフトボール仲間の力石さんがわたしを求めて関所に来た。
「携帯をかけるよりも、ここに来れば必ず会えるでしょ」
「そんなことは、わからないよ。きょうはたまたまかもしんないじゃん」
「いや、きみは生活時間のほとんどを関所で過ごしているから、たとえいなくても若女将にメッセージを預ければ、留守電センターよりも確実に伝わるはず」
確かにそうだ。
それに、関所に行けばわたしに会えると考えた力石さんのねらい通りの結果なのだから、わたしは予想的中の競馬馬みたいなものだ。逃げても隠れても無駄だ。
「じゃ、いこか」
高知出身の力石さんは、あまり地方言葉はないが、ときどきイントネーションが高知になる。
「その前に、ナスの浅漬けを食べて行ってよ」
若女将が奥の冷蔵庫から、自家製の漬物を持ってきた。コップの半分以下になった生ビールの肴にはうってつけだ。
「それ、鷹の爪だよ。辛いよ」
力石さんは、ナスではなく味付けのために入れてある唐辛子を手にしていた。
「知ってるよ」
言いながら、ぽいっと口の中に放り込んだ。ボクは辛いものは強いんだよとでも言いたげに。
「いやー、それはきついんじゃないのー」
口に入れてから二秒ぐらいは笑顔に余裕があった力石さん。三秒目からは、瞳に充血が始まった。あわてて、生ビールを口に含んだ。どうやら、ビールといっしょに鷹の爪を飲み込んだらしい。そんなことをすると、胃に刺激が強すぎるのに。
「うん、確かに辛かった」
かなり強がりの性格である。
「行ってらっしゃい」
若女将の声に背中を押されて、わたしは、まだ息をはぁはぁさせている力石さんと近所のラーメン屋「尽ちゃん」に行った。
尽ちゃんには、すでに矢野さんが来ていて、ひとりでいいちこの水割りを作っていた。
「じゃ、大義名分は何でもいいので、とりあえず、乾杯」
だったら、乾杯などしないで、それぞれのペースで飲めばいいのに。日本人というのは、何でもいっしょが大切な民族だ。
手動のレールドア。背の高い男性が入店する。黒木さんだ。
「あれ、黒木さん、どうしたの」
「そこの関所に行ったら、あんたらがここにおると、女将が教えてくれたんじゃ」
黒木さんは、福岡の出身だ。
6516.1/1/2011
坂の下の関所・13章
...story 220
力石さんは、メガネをおでこにあげて、目を細めて財布のなかから小銭を出した。
一足先に飲んでいたわたしとコップを合わせる。意味はなくても乾杯は成立するのだ。
「きょうは、どうしたの」
わたしは、関所で力石さんに会った記憶はほとんどない。買い物に立ち寄った記憶はあるが、休みの日にこうして生ビールを飲みにふらっと寄ったところに、わたしがいたという記憶がないのだ。
「きみを、探しにきた」
「きみって、俺のこと」
「ほかに、だれがいるのよ」
携帯電話が広く使われている時代に、とてもアナログな方法だ。
「きょう、矢野ちゃんと秋季大会を観戦してきて、これから尽ちゃんで待ち合わせ」
「秋季大会って、高校野球の」
「そうだよ」
「好きだねぇー」
そういえば、けさのソフトボールの練習のときに、力石さんは矢野さんと待ち合わせを確認していた。お互いに50歳を越えている親父が、こどもみたいに待ち合わせ場所を確認している姿が、少し滑稽だった。あれは、高校野球を観戦しに行く相談だったのか。
「そんで、暇をもてあましているひとたちを呼ぼうということになったわけ」
「はぁー」
わたしは、数人のソフトボールメンバーの名前を挙げた。
「そのひとたちは、休日の家族サービスで忙しいでしょ。だから、呼び出したら迷惑。休日でも家族に相手にされていないひとを呼び出してあげることにしたのよ」
ずいぶん、押し付けがましい理屈だ。
「そんなかに、俺が入っているわけなの」
「当たり前でしょ、違うの」
休日だからって、家族がいっしょに行動するとは限らない。それに、こどもが何歳かによっても休日の過ごし方は変わってくるだろう。
「じゃ、携帯にかけてくれればいいのに」
「きみの携帯はつながらないことで有名でしょ」
おっしゃる通りです。コール3回ぐらいで留守電センターにつながる設定にしてあるのだ。仕事柄、仕事の途中で電話に出るわけにはいかない。だからといって、呼び出し音が鳴り続けるのはまずい。そういう事情を考慮した結果、かかってきたら、すぐに留守電センターにつなげることにしたのだ。留守電センターの機械的な女性の声で、メッセージの録音をするのは、わりと面倒なようだ。登録されているメッセージを再生すると、「こうかな」「これでいいんですか」「もう終わりにしたいな」というメッセージとは異なる不安そうな声が録音されていることが多いのだ。だから、もともと電子機器に不慣れな力石さんは、留守電センターに切り替わったとたんに電話を切ってしまう。
6515.12/31/2010
坂の下の関所・13章
...story 219
10月。県内各地でスポーツ活動が真っ盛り。
高校野球も、秋季大会が週末ごとに開催されていた。わたしは、自分が高校時代に硬式野球をやった経験がある。だから、野球は、どちらかというと見るものではなく、自分自身がやるものという気持ちが強い。それは、社会人になってからも地元の草野球チームに入ったり、ソフトボールチームに入ったりした動きへとつながっている。
しかし、なかには、野球をやるのも好きだけど、野球を見るもの好きだというひとがいる。
それが、力石さんだ。
日曜日。わたしは、秋の鎌倉を散歩した。大船でランチをとり、ぜいたくな気分で関所に到着した。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
夕方ではないので、こんばんはという時間ではない。
「生ビールをください」
「あら、珍しい。きょうも歩いたの」
若女将が、生ビールを入れる。わたしは、レジに270円を置く。
「北鎌倉から鶴岡八幡宮を経て、材木座。そこから海岸を歩いて極楽寺コースを歩きました」
生ビールを喉に流し込む。ごくっ。この一杯のために、坂道も暑さもがまんしてきたのだ。
フーッ。
自動ドアの向こうには、秋の日差しが降り注ぐ。時計はまだ午後3時を指している。
ふと、自動ドアが開いた。
「あれ、どうしたの」
そこには、カジュアルな服装をした力石さんがいた。
「ちわっす」
「いらっしゃい」
若女将は、力石さんを知っているようだ。地元の活動に協力的な力石さんなので、多くのひとが彼のことを知っている。
わたしは、たまたま力石さんのこどもと、わたしのこどもが小学校一年生のときに同級生だった縁で、つながりを得た。そのこどもたちは、もう22歳。つまり力石さんとは、16年間もお付き合いをさせてもらっている。大きなつながりは、ソフトボールチームのメンバーだ。そのほかにも、地域で炭焼きをしたり、子ども会の夏祭りで焼きそばを作ったり、学校のマラソン大会でトン汁を作ったり、なんだかんだと年中顔を合わせている。
「力石さん、生ビールかな」
若女将が尋ねる。
「あ、じゃぁ、そうしてください」
6514.12/30/2010
坂の下の関所・13章
...story 218
赤坂さんは、わたしが初めて関所で立ち飲みをしたときに、親身になって話しかけてくれた。とても面倒見のいいひとだと思った。
同じ会社の首都リーブスのひとのなかには「あいつはちっとも働かないで飲んでばかりいる」って憤慨するひともいる。同じ職場ではないので、わたしには詳しいことはわからない。しかし、よく酒を飲むというのは、同感だ。そして、転んだり、ぶつかったり、酒が原因のケガが多い。
いわゆる下請け業者として首都リーブスで長年に渡り働く赤坂さんは、正社員のひとたちが当然のように保障されているものが認めれていない。ボーナス、有給、保険。酒を飲んでぼやきたくなる気持ちがよくわかる。サブプライムローンの破綻やリーマンショックで何度も解雇の危機にさらされながらも、溶接や研磨、鋳型の技術で会社から重宝がられてきた。やはり、最終的には技と腕なんだなぁと学ばされる。
その赤坂さんが、10月中旬から、帰る時刻が早くなった。
「じゃ、お先に」
きょうも、リュックを背にして帰り支度。
「最近、帰るのが早いですね」
「俺もな、センセーみたいに、一日の酒の量を二杯までって決めたのよ」
赤坂さんは、わたしがぐい飲みで飲んでいる日本酒よりも、大きめのガラスのコップを使う。それが二杯というのだから、だいたい300ミリリットルぐらいか。2リットル入る紙容器の日本酒を好んでいる。
「なんか、いっしょに食べなきゃだめだよ」
若女将がいつも気にしている。赤坂さんは、飲み始めると、ほとんど食べない。家でも、息子さんと二人暮しで、酒は飲んでも、まともに料理は食べないという。これでは、アル中まっしぐらになってしまう。
お豆腐なら調理しなくていいとか、インスタントラーメンなら簡単だとか、みんなが心配する。最近は、心配を受けて、少しは食生活を意識してきたようだ。
「うちは早くにおっかぁが死んだから、不便が多いんだ」
口癖のように言う。奥さんを病気で亡くしたこころの傷が癒えていない。関所で、寂しさや悲しさを言葉にすることで、少しずつこころの傷が修復できていくといい。
コップに二杯というわりには、足元がおぼつかない赤坂さん。
「じゃ、お先に」
関所のメンバーに手を振る。自動ドアの向こうに消えていく。その姿を追いながら、わたしはこころのなかでつぶやく。
赤坂さん。俺は日本酒はぐい飲みに三杯って決めました。かなり例外なくそれは守っています。でも、そのほかに焼酎やビールを飲む量が増えました。こないだなんか、銘柄の違う日本酒の300のやつを飲みました。だから、あまり俺を参考にはしないでくださいね。
6513.12/27/2010
坂の下の関所・13章
...story 217
カディーさんは、明らかに瞳に気分を害した気持ちが現れている。小さなコップにまだたくさん入っているビールを、一気に飲み干す。あまりふだんは酒を飲まないという彼にとっては、この飲み方は珍しい。
「じゃ、ママさん、また」
そこに、高林さんがいることを意識しないで、悠然と自動ドアの向こうに出て行く。扉がしまったら、高林さんの舌打ちが聞こえた。
「ち、もっと冗談がわかるヤツかと思ったのになぁ」
あれが冗談だとは、きっと関所にいる立ち飲み仲間全員のうちだれひとり思っていないだろう。
「あの方は、とても繊細なんだから、あんまりいじめないでね」
若女将が、間髪を入れず、的確に言い放つ。
「あー、帰ろう帰ろう。ここの空気は俺にはあわん」
そう言うと、高林さんも自動ドアの向こうに消えた。
「あーやって強がっているけど、本当はいいひとなのよ」
若女将が、立ち飲みメンバーに高林さんのフォローをする。
「そうなんだよ、こないだんんか、鳥藤で俺の酒をあげたら、翌日にはボトルが入っていたもんな、律儀なんだぜ」
奥の首都リーブスコーナーから、赤坂さんがややろれつの回らない口調で解説する。
翌日、わたしは雨のなか、モノレールの富士見町駅にいた。午前5時半のモノレールを待つ。雨でなければ大船まで歩くのだが、雨の日はモノレールを使う。バックから文庫本を出し、読書の世界に入る。
すると、重低音のスキャットが左後方から接近してきた。
「だんだぁ、だだっだぁー。だだっだぁー。だんだだぁー」
鳥藤でいっしょに高林さんと飲んだとき、盛んに唱えていたので、それなんですかと聞いたら、センセーは流行歌も知らねぇのかと怒られた。大黒摩季の「ら・ら・ら」。ヒット曲だ。しかし、たしかヒットしたのは1995年だったはず。最近の流行歌という範疇に入れていいのかどうかを尋ねたら、これだから学校の先生はつまんないと返された。
早朝から、高林さんとモノレールの駅で会うというのは、何だか気まずい。知らん振りをして読書を続ける。しかし、重低音の大黒ソングはどんどん接近してくる。そのとき、モノレールがホームに滑り込む。
ラッキー。
わたしは、ドアが開くのを待ち切れず、急いで乗車する。戸口から離れた電車内部に忍び込んでつり革につかまった。まだ、窓外が暗いので窓には車内の客が映る。わたしは隣りのつり革に高林さんがつかまっているのを確認した。
「あ、おはようございます」
「今頃、気づいたような振りしちゃって」
声の大きな高林さん。周囲のひとたちがこちらを向く。穴があったら入りたい。
6512.12/25/2010
坂の下の関所・13章
...story 216
10月に入り、まだ猛暑の影響が残る鎌倉。
仕事帰りの関所では、ぐびっと喉をうるおすビールが売れている。
海岸に近い極楽寺に住んでいるカディーさんは、インド生まれで、輸入商だ。素人のわたしには、あまり味の違いがわからないカレースパイスたっぷりの煮豆を関所に持ってくる。
「どう、これ、みんなで食べてよ」
最初にいただいたときは、物珍しさで肴になった。しかし、たびたびいただくと、からだにはいいとわかってはいても、やや飽きてしまう。
カディーさんは、関所から100メートルぐらいのところにある鎌倉市のスポーツ施設「こもれび」に通う。あまり膝の調子がよくないらしい。プールでゆっくり歩くことが大事だと教えてくれた。週に2回から3回ぐらい通っているのだろうか。ちょうど、わたしが仕事帰りに関所に寄る前後に、カディーさんも「こもれび」にいるのだ。
宗教上の制約が多いらしく、肉料理はほとんど食べない。以前は酒も一滴も飲まなかったのに、関所に立ち寄るようになってから、小さなコップに一杯ぐらいのビールなら飲むようになった。きっと体質的には飲めるひとなのだ。
「プールに入る前は、からだによくないからいらないよ」
以前はそんなことを言っていたのに、いまはプールに行く前も、プールから出た後も、軽く一杯のビールを飲んでいく。
その日は、額に汗をかきながら、プールからの帰りに関所に寄ったようだ。
「や、センセー、なんかいいことなぁい?」
いつも不思議な糸口から会話が始まる。
「俺にとっては、毎日が同じように始まり同じように終わることが、とってもいいことです」
カディーさんの太い人差し指がわたしのわき腹をつつく。
「また、そんなカッコいいこと、言っちゃって」
そういうつもりではないのだけどなぁ。
と、そこへ義理と人情の世界の高林さん、登場。スキンヘッドから湯気が立ち、いつもと同じ寝間着姿。
「やだ、ピカちゃん。もう酔ってるでしょ」
高林さんは、でかい。レジのテーブルに小銭を置き放つ。
「もう、これでタバコ、おしまい。やめるんだ、こんなもの」
そう言いながら、いつもと同じタバコを受け取り、封を切る。
「なんだ、センセーよぅ。もうこんな時間から飲んでんのか。これじゃ、日本の教育はお先、真っ暗だ」
はいはい。高林さんの目が、わたしと話していたカディーさんに向かう。
「なんでこんなとこに、インド人がいるんだよー」
どうして、このひとは、いつもこうケンカ調なのか。憎めないひとなんだけど。
6511.12/23/2010
坂の下の関所・13章
...story 215
いよいよ明日から大幅にタバコは値上げをする。
「ねぇねぇ、自動販売機って、全国的に今夜一斉にだれかが値上げに対応できるように設定を変えるの」
自動販売機にタバコを詰めている大将に聞く。
「そんなわけねぇだろ。もう何日も前に業者の人間が来て、コンピュータの設定を変更してあるんだよ」
なるほど、値段の管理は内蔵されたコンピュータがやっているのか。
「でもさ、値段の表示とか変更しなきゃいけないじゃん」
「よく見ろ、ほれ」
大将は自動販売機を指差した。
よく見ると、商品の下の値段表示は、値上げ前の値段と値上げ後の値段の両方が記され、間に矢印が書かれている。つまり値段の変化がわかるようになっていたのだ。いかに、タバコの自動販売機を見ないようになっていたかを思い知る。
「こんなことしたって、税収が増えるとは思えねぇよ」
大将がつぶやく。政府税制調査会など専門家のひとたちは、消費者やまちの小売業者の声を聞かない。聞こうとしない。聞いたふりだけする。だから、現場の感覚が政治に反映されない。実際、税収は増えないだろう。わたしの知り合いは、JTの工場で働いていた。今回の値上げで工場が閉鎖になり、解雇された。タバコ税率を引き上げたひとたちは、無職になったひとたちの生活の面倒は見ない。
「あーあ、あしたから一日に吸う本数を決めなきゃいけないよ」
関所では、赤坂さんがお酒で真っ赤な顔をしてぼやく。
「いらっしゃい」
値上げ前の最終日。きょうもタバコ愛好家が買いに来た。
「あしたから、値上げだから10カートンぐらい買おうかな」
ずっと前から、予約を受け付けたり、直前の買い溜めは無理なことを知らせたりしているのに、暢気なひとがいるものだ。
「ごめんなさいね。もう在庫だけでやりくりしているから、いまある分だけなの」
若女将が、事情を説明する。
「えー、そうなの。じゃぁ、ある分だけお願いします」
大将は、自動販売機まで行って、なかにあるものを取り出していた。
しかし、タバコの値上げは、タバコを吸わないわたしでもかなり大きなニュースだったのに、このお客さんは値上げの前日に来て、少し買い溜めができると思っていたのか。その感覚に驚いた。解禁になったボージョレーヌーボーを一ヵ月後に買いに行くようなものではないか。
とっくの昔に売り切れです。