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6510.12/21/2010
坂の下の関所・13章 ...story 214

 おそらく2010年の9月は、タバコの愛好家にとって忘れられない月になっただろう。税率がアップされ、10月からタバコが大幅に値上げされることになったからだ。
 関所でもタバコを売っている。
 わたしは、もう止めてしまったので、あまり気にならなかったが、関所メンバーでもタバコ愛好家たちは悲鳴をあげている。
「これをきっかけにやめちまおうかなぁ」
 できるわけないでしょ。
「10月からは、ちょっとタバコくださいってもらえねぇよ。20円払って、これで一本売ってくれってやんなきゃな」
 ありえる光景だ。
 昔から、権力者が、ひとびとの生活に必要なものに税金をかけて、富を吸収する仕組みは変わらない。タバコは嗜好品と呼ばれているが、吸ったり吸わなかったりするものではなく、吸うひとはおそらく死ぬまで手放さない必需品なのだ。
 そういうひとの気持ちのあやをつかんで、税金をかけてくる考え方はいやらしい。これは、酒類にも同じことが言える。そのため、ビールは世界に類を見ないほど多様な商品へと発展してしまった。
「マイルドセブンを三つ」
 お酒を買わないで、タバコだけを買いに来るお客さんは多い。お客さんによって異なるタバコの好みを若女将は記憶しているのだから、職業意識というのはひとの脳を鍛えるものだ。
「来月から値上げされるから、まとめ買いをするのなら、いまのうちに予約を受け付けますよ」
「じゃぁ、10カートンお願いしようかな」
 9月に入って、こういうお客さんが増えていた。
 お店が、タバコを注文する期限があるらしい。その期限をすぎると、残りは在庫で対応するので、次の注文のときには値上げ後の注文になり、同じ商品でも値段が上がってしまう。だから、値上げ前の最後の注文に予約を入れるということだ。
 10カートンといったら30000円を越える。そのお金があったら、大好きな日本酒「山猿」が12本は買える。ひょえー。
「あら、こないだなんか、60カートンというお客さんもいたわよ」
 10カートンで驚いていたわたしに、若女将が驚きの事実を教えてくれた。60カートンといったら、600箱。一箱に20本のタバコだから、12000本のタバコを一度に注文したというのか。一日一箱吸っても、2年はかかる。タバコって、品質が落ちてしまわないのだろうか。
 やがて、9月は下旬を迎えた。

6509.12/18/2010
坂の下の関所・13章 ...story 213

 そこには長身の鳥藤さんの息子さんがいた。
「申し訳ありません」
 そういったのは、わたしでも佐藤さんでもなく、彼だ。どうして。
「急いで出てきちゃったから、書置きもできなかった」
 彼の肩越しに、聞きなれた鳥藤のママの声。
「あれ、どうしたの」
 ママは、お孫さんを抱いている。
「ほら、義娘が急に産気づいちゃって、きのうの夜からてんやわんやだったの」
 そうかそうか、そうだったのか。そういえば、二人目の孫がもうすぐ産まれるって言っていたっけ。それで、こっちの面倒を見ていたんだ。
 わたしは全身の力が抜けていくのを感じた。しかし、その緊張の緩み方は、とても心地よいものだった。
 佐藤さんと関所への帰り道。
「あー、心配したね」
「でも、無事でよかったですよ」
「もしものことがあったら、佐藤さんはプロだから人工呼吸をお願いしようと思っていたんだ」
「え、俺がママとやっちゃうんですか」
 なぜ、そこで佐藤さんは紅くなるのか。
 ふたりで、関所に戻って、大将や若女将に報告した。
「何よりも、ママの無事と二人目のお孫さんの誕生にみんなで乾杯をしましょう」
 お孫さんの性別も聞いてなかった。ただ、ママが無事だったことですべてが解決していたのだ。
「鳥藤さんのママは幸せだわ。お客さんにこんなに心配してもらえるなんて」
 若女将がしみじみと言う。
「いやー、心配というか。もしもお店が開いていないという情報を知っていながら、何もしなかったら、何かあったとき、自分が許せないと思っただけだから」
 そう。鳥藤のママのためというよりも、わたしは自分を守りたかった。鳥藤のママの消息が不明という情報を得ていながら、ふーんと知らん振りをしていつもの山猿を飲んでもおいしくない。落ち着かない。
 ひととひととのつながりって、問題がないときにはあまり見えない。しかし、ひとたびいつもと違う心配事や不安事が浮かんでしまうと、それを放置できない自分との闘いなのだ。無視してもよのなかは大きく変化はしないだろう。しかし、無視した結果「もしもあのときすぐに動いていれば」 「どうしてあのときすべてを優先できなかったのだろう」という事態に直面したら、わたしはわたしを許せなくなる。弱い自分が情けない。不義理な自分に落ち込む。だから、よけいなお節介かもしれないが、ひとのことに首を突っ込んでしまう。そういうつながりを、昨今のひとたちは避ける傾向が強いそうだが。

6508.12/14/2010
坂の下の関所・13章 ...story 212

 わたしは、佐藤さんに様子を見に行こうと声をかけた。佐藤さんの表情も幾分か青白い。
「あー」
 専門家が近くにいてくれるというのはありがたい。
「いや、待て。お店に行っても入ることはできないのだから、息子さんの家に行こう」
 わたしは、頭をフル稼働させる。
「そこで、事情を話して、お店の鍵を開けてもらうんだ」
 鳥藤のママが、だれにも発見されずに、奥の座敷かテーブルの脇か調理場の溝かどこかに倒れている。そんな予測が確信に変わっていく。一刻も早く見つけて救急に連絡をしなけりゃ。
 わたしの祖母が倒れたとき、すぐに祖父に救急車の手配を頼んだ。
 わたしは、口の端から舌の先を出して大きないびきをかいている祖母の耳元で声をかけた。
「婆さん、婆さん」
 繰り返し繰り返し。肩甲骨の上あたりを軽く叩いた。まったく反応がなかった。
 中学のときからわたしは祖父母の家で寝泊りをしながら思春期を過ごした。ときに母親以上に厳しく、ときに母親以上に近かった祖母が、目の前で別人のような形相で呼吸だけを繰り返す。
 救急法の知識を総動員する。脈拍を確認する。呼吸の回数を確認する。祖父がつないだ電話を受け、消防署のひとに祖母の様子を伝える。
 佐藤さんと、鳥藤の息子さんの家に向かう途中、わたしの脳裏にあのときのことがよみがえっていた。
 息子さんの家は、富士見町モノレールの駅の近くだ。わたしも佐藤さんも「何となくこの辺」というのだけはわかっていたが、正確な位置や番地は知らない。駅の近くまで来たら、手分けして表札を確認した。これでは間抜けな刑事だ。
 ない。
 しかし、一軒だけ、表札のない家があった。
「ここかもしれないね」
 佐藤さんが指をさす。わたしは迷わず、インターフォンを押していた。ややあって、なかから男性の返事。聞き覚えがある。
「夜分、申し訳ありません。こちら○○さんのお宅でしょうか」
「はい」やや警戒気味。
「わたし、いつも鳥藤さんでお世話になっている○○ですが、さきほど関所の大将からお店が開いていないという話を聞きました。もしものことがあってはいけないと思い、こちらに確認にうかがいました」
「はーい」どこかで聞いた女性の声。わたしは佐藤さんと顔を見合わせる。
 ガチャ。玄関のドアが開いた。

6507.12/11/2010
坂の下の関所・13章 ...story 211

 自動ドアの向こうから大将が怪訝な顔をして戻ってきた。
 時計は5時半になろうとしている。この時間は、バス停近くの焼き鳥屋「鳥藤」で注文を取ってくる時間だ。
「パパ、おかえりー」
 パパこと大将は、怪訝な表情のままレジの奥にある椅子に座る。小声で若女将に何かを伝え、首を傾げる。
「また、後で御用聞きに行くから、もう一度そのときに確認すればいいんじゃないの」
 大将の小声の質問に、普通の声で若女将が応じる。わたしと佐藤さんが聞きつける。
「どうしたの」
 ん、若女将が振り向く。
「きょうは平日なのに、鳥藤さんがまだ開いてないんだって」
 時計はとっくに開店時刻の5時を過ぎている。それはおかしい。
「何かある時は、シャッターに貼り紙を出したり、常連さんに教えたりするのに、今回は何にもないんだって」
 どくん。
 わたしは、いやな予感がした。
「電話をしてもだめなのかな」
「さっきからしているけど、出ないんだって」
 どきっ。
 わたしは、もっといやな予感がした。
 鳥藤のママは、とても几帳面なひとだ。支払いにも店の準備にも手を抜かない。そういうひとが、お客さんに迷惑のかかるようなことをするとは思えない。
 もう20年近く前になる。隣りに住んでいた祖父母。早朝の電話。祖父からのものだった。
「婆さんが、台所で倒れてるんだ」
 祖母は、朝食の用意で起きていた。医者に止められていたマイルドセブンを一服した。ガラスの灰皿に吸殻が残っていた。きっとそのままクモ膜下出血が襲った。椅子から崩れ落ちるように台所の床に倒れていた。祖父は、いつもの朝食の時間に合わせて起きていた。だから、祖母が倒れてから、だいぶ時間が経っていたのだ。
 あわてたわたしは寝間着のまま祖父母宅に走った。居間で立ち尽くす祖父。台所で倒れていたという話だが、祖母は居間に横たわっていた。
「爺さん、婆さんをここまで運んだの」
「あー、あそこじゃ寒かろうと思って」
 どこに小柄な祖父にそんな力があったのだろうと驚いた。意識不明の人間を運ぶのは至難の業だ。全身が脱力しているので、運ぼうとする人間に協力してくれない。
 しかし、救急法で学んだ知識が、そのときわたしの記憶の向こうで「絶望」というランプを灯していた。意識不明の人間は、救急隊に引き渡すまで動かしてはいけないという原則があるのだ。

6506.12/7/2010
坂の下の関所・13章 ...story 210

 夏が近づくと帰り道がいつまでも明るくて嬉しい。
 早く暗くなると、仕事帰りの疲れといっしょになって、気分まで落ち込んでくる。まだまだ太陽が沈まないと、仕事が終わっても「よし、これからいっちょ元気に飲むか」とやる気がわいてくるのだ。夏にビールの消費量が多いのは、気温が高いことだけが理由ではないだろう。
 先日の山ちゃんの姿を思い出しながら、柏尾川沿いの遊歩道を歩く。ここまで来ると、地元までもう少しだ。職場の藤沢から地元の山崎まで歩いて帰り始めて半年ぐらいになった。去年の夏に人間ドックをした。メタボリック症候群と言われて、ショックだった。
「すでに太ってしまって、肥満というひとはメタボリック症候群ではないんですよ。そういうひとは、すでにメタボを通り越したひと。メタボリック症候群は、予備軍という位置づけなので、これからの節制でいつでも脱出できます」
 担当の管理栄養士がなぐさめてくれてから一年が経過している。また人間ドックが近づいていた。わたしは、去年の夏から出勤前に腹筋運動などの筋力トレーニングを続けた。しかし、年末になってもその成果はほとんど現れなかった。年が明けてから、方法を転換し、わたしは歩くことにしたのだ。
 職場のある藤沢から、東海道線で一つ分の駅を歩く。電車で4分の距離だが、歩くと1時間はかかる。そのウォーキングを年明けから続けていたのだ。これは、前回の筋トレに比べると、わずかだが体重や腹回りに変化が現れた。
 右側に三菱製作所鎌倉工場を見ながら、山崎の方角に折れて行く。天神山の脇を抜けて、山崎保育園のこどもたちの元気な声が聞こえる。モノレール線路下を渡ると、関所の看板に明かりが灯っていた。
「こんばんは」
 開け放たれた自動ドアをくぐる。
「お帰りー」
 若女将の元気な声が迎えてくれる。
「センセー、またきょうも歩いたの。こんな暑い日は無理をしないで電車にすればいいのに」
「それじゃ、意味がないじゃん」
 わたしは、ショルダーを下ろしながら、タオルで汗をぬぐう。トイレのある階段下のドアが開いた。
「おや、佐藤さん、早い!」
 横浜の病院で麻酔科医をしている佐藤さんがハンカチで手を拭きながら登場した。
「あ、いまお帰りですか」
「えー、どうしたの。なんか、大きな仕事でも終わったとか」
「きょうは、もう若いもんにあとを任せてきました」
「そういう日って大事だよねー」
 まだ、ドアの向こうは明るい。少し西の空がオレンジ色になろうとしていた。こんな時間から佐藤さんと会えるというのは珍しいことなのだ。

6505.12/5/2010
坂の下の関所・13章 ...story 209

 関所は酒屋だ。日本酒、ビール、焼酎、ワイン、ウイスキーなどアルコール類はもちろんのこと、お米やお塩、スナック菓子や缶詰なども売っている。それぞれがまとまって並んでいる。関所の常連は、自分が落ち着きやすいポイントで立ち飲みをする。そのポイントには、それぞれ特徴のある売り物が並んでいる。
 特殊塗料製造会社のシンロート社員の山ちゃんや相田さんたちのポイントは、自動ドアをくぐって左側奥になる。そこはウイスキー、お酢、サラダ油などのポイントだ。
 鋳物工場の首都リーブスで働く赤坂さんや烏丸さんたちのポイントは、正面奥になる。ただし、店内に入って正面には、日本酒とワインの棚があるので、その向こう側がポイントになる。正面奥の壁は一面が冷蔵庫になっていて、大きなガラスの扉の中には、缶ビールやチューハイが所狭しと整列している。
 わたしは、ふだん麻酔科医の佐藤さんと自動ドアをくぐって右側のレジの並びをポイントにしている。レジの並びの壁には、黄桜や月桂冠など昔からの日本酒や魚沼や浦霞など地方の銘酒の四合瓶、霧島などの焼酎が並んでいる。日本酒や焼酎好きとしては、かなりコアな一画だ。銘柄や瓶を見ているだけでも楽しくなる。
 店内に入ったわたしと山ちゃんは、それぞれのポイントに分散した。
 わたしは、レジの並びのポイントで荷物を下ろし、小さな冷蔵庫から愛飲している日本酒「山猿」とぐい飲みを出す。
 こぼさないように注ぐ。よく冷えているので、喉に心地よい清涼感が広がる。
「おー、山ちゃん。そろそろ上がりだっぺ」
 山形出身の烏丸さんが、正面奥のポイントでウイスキーのウーロン茶割りを飲みながら挨拶をする。
「いやぁ、さっきセンセーにも話していたんだけど、まだなんですよ」
 魚肉ソーセージ2本、ホッピー2本、プラスティックコップを片手に山ちゃんが烏丸さんのポイントに足を運ぶ。ふだんと違うポイントで話をしたり、酒を飲んだりするのは、山ちゃんに限らず、あまりみなさんやらない。だから、きょうの山ちゃんは珍しい。
 しばらくすると、山ちゃんは金を払いにレジに移動した。
 新聞のスポーツ欄を開いていた大将と、次週末の競馬の予想をやりとりしている。山ちゃんは週末ごとに横浜の野毛で馬券を買っている。近くの居酒屋で競馬仲間とレースを予想して一日を過ごすのだそうだ。最近は、一念発起して、その仲間となんとハイキングをしている。鎌倉の建長寺から六国峠に登り、峠の茶屋で乾杯。遠く鎌倉の海を肴に、そこでも競馬談義をして下山。北鎌倉からその足で電車に乗り、野毛に行くのだそうだ。重要なレースは午後にあるので、それで十分なんだそうだ。
 お金を払えば、おいしいお酒が飲めるというのはわかる。だから、お金を払う。しかし、競馬はお金を払っても、負ければ、口惜しさだけが残り、何も手に入らない。そういうものにお金を払うという気持ちが、わたしにはわからない。もったいないなぁと単純に思ってしまう。
「なんだよ、山ちゃん。きょうは、あっちこっちで引っかかって、ちっともここに戻ってこねぇよ」
 いつものポイントで、携帯メールを打っていた相田さんが暇そうに文句を言う。
「なんか、いいこと、あったのかよ。世界一周の旅に出ちゃったみたいだもんな」

6504.12/3/2010
坂の下の関所・13章 ...story 208

 日の入りが遅くなり、わたしは文庫本を読みながら歩く。
「あぶないから、やめた方がいい」
 多くのひとに言われながら、どうしてもやめられない。とくにミステリーの後半になると、事件の解決を知りたくて、瞳が文字を追ってしまうのだ。
「センセー、まるで二宮金次郎みてぇだなぁ」
 関所の交差点。店の外に出てタバコをふかしている山ちゃんの声がした。文庫本から顔を上げると、もう関所まで目と鼻の先になっていた。
「こんにちは」
 わたしは、文庫本をショルダーバックにしまう。さすがに、飲みながら読むという不健康なことはしない。
「そういえば、山ちゃん、そろそろ定年だっけ」
「まだ、もう少しあるよ。秋だもん」
 公務員をしていると定年退職は、年度末と決まっている。3月31日だ。だから、民間に勤めているひとから、誕生日が退職の日だと聞いて驚いた。4月生まれと3月生まれでは、働ける日数がだいぶ異なる。
 中学校の部活帰りが、ふたりの横を通り過ぎていく。軟式テニス部か。全身、真っ黒に日焼けしている。野球部はユニフォームを着たままだ。
「でも、再任用なんでしょ」
「まだ、わかんない。うちの会社は、ひどいもんだよ。一週間前にならないと、継続かどうか、教えてくれない」
「それじゃ、退職後の計画とか立てようがないじゃん」
「その通り。ま、だいたいのひとが継続なんだけどね」
 それにしても、会社の都合で長年勤続した職人さんをあっさりと切ってしまっていいはずがない。
「結局、上にどう思われてっかってこと」
 山ちゃんはそういって親指を立てる。
「それって、仕事のなかみとは関係ないんですか」
「ないね」
 これじゃ、日本のものづくりは廃れてしまうかもしれない。上司の顔色をうかがう職人では、仕事への打ち込み方に期待をもてない。
「ま、えらそうなこと言えないな。学校だって、校長や教育委員会のことばかり気にしている教員がいないとは言えないもん」
 自動ドアの近くで立ち話をしているので、センサーが反応して、ドアが開閉を繰り返す。
「お前さんたち、そこで立ち話をすると、ドアが開いたり閉まったりしてうるさいから、もっと離れるか、中に入るかどっちかにしてよ」
 レジのなかから、大将の声がする。
「山ちゃん、出て行ったきり戻ってこないからどうしたのかと心配してたんだぜ」
 元気のいい、山ちゃんの後輩、相田さんの声もした。

6503.11/30/2010
坂の下の関所・13章 ...story 207

 2010年の夏は記録的な暑さだった。
 全国各地で猛暑による熱中症で亡くなった方々がいる。救急車で運ばれた方々も、過去に例を見ないぐらい多かったという。
 にもかかわらず、関所に集まるひとたちは、元気に夏を乗り切っていった。
 関所は、ゆるやかな坂の下りきった小さな交差点にある酒屋さんだ。道路を隔てて花屋さん。斜向かいには八百屋さん。向かいの道路を隔てて教会。コンビニや大型チェーン店が隆盛の昨今、昭和の香りを残す懐かしい商店街の一画にある。鎌倉市山崎地区。戦後の地名改編でふるい地名は住所からは姿を消したが、町内会レベルではまだ名前が残っている。戸ヶ崎、市場、富士見町、末広など。
 わたしの住まいは、町内会では戸ヶ崎にあり、住所では台(だい)にあり、地区では山崎にある。こういうややこしさが、古いまちには混在する。マンションが新しくできて、ほかの地域から引っ越してきたひとたちには永遠にわからない地域性なのだろう。
 関所には、社長と大女将がいる。おふたりは新潟から出てきて、鎌倉の中心街で卸酒屋の奉公をした社長がいまの場所に何十年も前に土地と建物を買った。
「当時のお金にしちゃ、そりゃ大枚をはたいたもんだよ」
 いまでもときどきレジに立つ大女将は、わたしが昔話を喜んで聴くと、よく教えてくれる。
「あの頃は、この辺には何にもなくて、よくお父さんとふたりで、大変なところに来ちゃったねと笑ったっけ」
 わたしは、生まれも育ちも在所だ。こどもの頃を思い出してみると、確かにいまよりも野山は深かった。中学校で野球の練習をした帰り道、街灯が暗くて怖かった記憶がある。まだ若かった社長が、軽トラックでビールのケースや灯油をわたしの家まで運んでくれた。
 お二人には男の子と女の子がいた。男の子がいまの大将だ。中学校のときから付き合っていた女性と結婚した。その女性が、若女将だ。いまでは、店の現場仕事のほとんどは大将と若女将が仕切っている。
 このお二人には長女、次女、長男の順に三人のお子さんがいる。お子さんと言っても、三人ともすでに成人している。長女さんと次女さんは結婚をして、地元を離れた。結婚式を控えた数日前に、店内でバージンロードの歩き方を客のみんなで大将に伝授した。酔っ払いの伝授なので役に立ったのかどうかは定かではない。
 一つの街で長い時間を過ごす。それを生活と呼ぶなら、わたしの生活には、いつもより所となるひとやひとの生活がある。困ったとき、嬉しいとき、思わず「ねぇねぇ聞いてよ」と喋らずにはいられないひとや場所があるのだ。
「あいつに会いたきゃ、関所に行けばいい」
 最近、わたしの知人ではこのように噂されているらしい。先日は、父も同居しているのに、わたしへの用事を若女将に託していったぐらいだ。

6502.11/29/2010
Nさん、ありがとう ...6

反対に、Nさんに支援をお願いしたプレイルームでは、3人から4人のこどもに対して、教員・ボランティア・介助員の3人で指導するので、おとな一人あたりのこどもの数は1人から2人になる。これは、様々な理由によるが、基本的にはこどもの状態と教員の力量が関係している。一人で2人のこどもを同時に異なる指導するのが限界の教員に、無理に3人以上を押し付けるわけにはいかないのだ。こういう部分に介助員さんやボランティアさんの存在が必要になる。

わたしは、ときどき自分が担当している学習ルームから、廊下を隔てたプレイルームを覗く。窓際で小田急線の線路を見ながら、2年生のこどもと並んでNさんが線書きのプリントを指導・支援している姿が目に映った。
「俺に、センセーみたいな仕事ができるかなぁ」
焼き鳥屋で不安そうだった彼の言葉を思い出す。
やったことがないことへの不安はだれにでもある。しかし、教育という仕事は、その不安をこどもが解消してくれる。そこにこの仕事の醍醐味がある。こどもはおとなや競争相手のように私利私欲ではものを考えない。もっと本能に近い部分で動く。その本能の琴線にうまく響けば、お付き合いをしてくれるのだ。

4校時は、個別学習全体の様子を観察してもらうように依頼した。
初めての支援に入ると、狭い部分しか見えない。学級全体がどのように動いているのかを確認するには、こどもの指導・支援から切り離した方がいいのだ。
わたしが指導しているテーブルにもNさんはやってきた。
いつも焼き鳥屋で焼酎や日本酒を片手に酔っ払っている姿しか見ていないNさんにとって、本業に精を出すわたしはどのように映ったのだろうか。

後日、坂の下の関所で飲んでいるとなじみの客が教えてくれた。
「センセー、Nさんがきのう焼き鳥屋でセンセーの学校で働いたって言ってたよ」
「そうそう、急なお願いでも、やってくれたんだ」
「なんだか、得意になって、話していたぜ」
わたしのように仕事として学校に勤務した経験しかない人間にとっては、学校の内側は当たり前の日常だ。しかし、保護者としてしか学校との接点がなかったひとにとっては、学校の内側は敷居の高い「役所」みたいなものだろう。そこに入り込んで、こどもに接する仕事を体験するというのは貴重なことなのかもしれない。
これからの依頼も、いつも当日の朝では申し訳ないので、12月分の依頼を表にして渡した。
「都合の悪いときを教えてください」とメッセージをつけた。
「すべてのスケジュール、大丈夫です」と返事をくれた。
Nさん、これからもよろしくお願いします。

6501.11/28/2010
Nさん、ありがとう ...5

休み時間が始まろうとしていた。わたしは黒板に「○○せんせい」とNさんの名前を書く。
「きょうはいつものT先生がお休みです。かわりに初めての先生、N先生に来てもらいました」
それまで廊下から、こどもたちの様子を観察していたNさんがやや恥ずかしそうに入室した。決して焼き鳥屋では見せない溌剌とした笑顔を振りまきながら。
「みなさん、おはようございます。Nです。よろしくお願いします」
わたしよりもはるかに人生の先輩であるNさんでも、初めての仕事は緊張するようだ。こどもたちを前に、表情が硬い。
「みんなも挨拶しましょう。よろしくお願いします」
わたしの音頭にあわせて、こどもたちが挨拶をする。こういうやりとりは、通常級のこどもよりも、特学のこどものほうが、ずっと純粋だ。こころから、新しいおとなを迎える喜びを表情や声に表す。

休み時間は、そのままこどもたちの様子を観察してもらう。
気に入った場面があったら、なかに入って、いっしょにこどもと遊んでいいと伝えた。その間に、わたしは同僚やほかの介助員さん、ボランティアの方々にNさんを紹介した。
T介助員が休んだことによって、穴が開いた3校時のシフト変更を担当の教員と打合せをする。
「Nさんは、こういう仕事がまったく初めてだから、すぐにTさんの代役になるとは思えないよ。やることを細かく伝えてあげてください」

3校時は個別学習の時間だ。
特学には大きく3つの部屋がある。ホームルーム。学習ルーム。プレイルーム。こどもたち相互の関係性を考慮して、個別学習では部屋を分けている。あまり仲良しが集まると共鳴しあって、学習に集中できない。また、犬猿の仲どうしだとおとなが目を離した隙にケンカが始まる。互いに、無関係を装いながら協力的になれる者どうしでグループを作り、各部屋に分かれる。
わたしは個別学習の時間はいつも学習ルームでほかのM教員のグループ3人とともに指導している。わたしのグループには4人のこどもがいる。だから学習ルームは常時7人のこどもと2人の教員がいる。これは個別学習の環境としては多い。となりのホームルームでは教員と介助員が4人のこどもを指導する。さらに廊下を隔てたプレイルームでは教員と介助員とボランティアが3人から4人のこどもを指導する。
つまり特学では、個別学習といえども教員のかかえるこどもの数は増減があるのだ。わたしのように一人で4人を同時に指導するのは多いほうだ。4人がそれぞれの成長に合わせた学習をしているので、内容も速度も異なる。それを同時に指導するので、個別学習の時間は千手観音のような振る舞いが要求される。

6500.11/25/2010
Nさん、ありがとう ...4

「はい、もしもし」
明らかに電話の向こうの女性は不機嫌だった。しまったぁ。
「Nさんのお宅でしょうか」
無作為の電話ではないことをわかってもらう。
「はい」
まだ、声に不機嫌さが残る。
「わたくし、藤沢市立○○小学校の○○と申します。Nさんに火急にお願いしたいことがありまして、早朝のご無礼を覚悟でお電話しました。Nさんはいらっしゃいますか」
「あー、はい。お世話になっています。しばらくお待ちください」
何かのセールスとか、業界がらみの難題ではないことを感じてくださったようで、女性の声は明るく聞こえた。学校というキーワードは、とりあえず安全地帯だ。
本当にしばらく待つ。
「ハイ」
声が枯れている。
「俺です。いま起きたところですね。申し訳ないけど、介助員の方が急に休まなければいけなくなって、きょうNさんにお願いしたいんです。9時半から入れますか」
我ながら無謀なお願いだ。
「ちょっと、待ってください」
頭がまだ回転していないのだろう。夢と思われているかもしれない。書類を渡してきっと数日しか経っていないのに、もう仕事が入るのかと驚いてくるのか。
「9時半から何時まですか」
「できれば13時半なんですが」
「そっかぁ」
手帳でスケジュールを確認しているらしい。
「とりあえず、おしまいの時刻はNさんのご都合でかまいません。9時半に入れるようなら、折り返しこの番号に電話をお願いします。俺は、これから登校してくるこどもの対応に入るので、電話に出た者に、きょう来られるのかどうかをお知らせください」
なんとも乱暴な「お願い」だ。電話を切った後は登校指導や朝の支度の支援が始まり、Nさんからの返事は頭の隅に置き去りになる。
1校時の終わり。思い出して職員室へ。教頭からのメモ。「Nさんより○○へ。9:20大船。これから学校に向かう。telあり」。
あんないきなりのお願いに応じてくれたのだ。9:45には合流できるだろう。
しかし、その思いは甘かった。Nさんが道々「○○小学校はどこですか」と訪ねながら到着したのは10時をすぎていた。住宅地のなかにある小学校なので、大通りからの曲がり角がわからなかったらしい。