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6479.10/12/2010
おるたネットというサイトで公開している日記より
..2010年8月15日

きのう飲み仲間に教わりました。
中学生や高校生で弁当を昼に食べるとき、
いっしょに食べる相手がいないこどもは

ひとりで食べていると友だちがいないと思われるのがいやだから

トイレの個室で弁当を食べるそうです。
それは珍しいこどではなく
「トイレめし」と呼ばれています。

友だちがいないことを「いけないこと」「悪いこと」と教え込んだのは、教師や親でしょう。
たとえ友だちがいても、同じ学校や同じ教室にいないとき、とりあえずの仲良しを作らないといけないと教え込んだのも、教師や親でしょう。

その結果、ひとりでゆっくりと食事をすることが「悪いこと」「いけないこと」「恥ずかしいこと」「情けないこと」「そういう自分をひとに見せたくないこと」となり、トイレめし。

親が知ったらショックだろうけど「ボク、いつもトイレめしだよ」「わたし、こないだトイレめししちゃった」とカミングアウトするこどもはいないでしょう。
そんなことを言ったら、親は説教をするか、心配になって学校に問い合わせるかしてしまう。そういう発展の仕方そのものも、こどもには耐えられないことだからです。

トイレめしは、さすがに場所柄、わずかな時間で終わるそうです。

この話を聞きながら
孤独・孤立・孤高の違いを思い出しました。

6478.10/9/2010
おるたネットというサイトで公開している日記より
..2010年8月14日

きょう床屋に行きます。
近所の床屋です。
その床屋以外に、わたしは行ったことがありません。
何歳のときに父親に連れられて床屋に初めて行ったのかは忘れました。でもきっと就学前だったと思うので、もう40年以上も通っています。
床屋は昔から変わらずご夫婦の店です。ふたりとも理容師です。出身は北海道の富良野。床屋のおやっさんは、どう計算しても60歳を越えていると思いますが、いつまでも若く見えます。

おやっさんはおそらくわたしの人生のほとんどを知っています。野球が大好きです。わたしは高校まで野球部に所属していました。おやっさんのバリカンで1厘とか3厘というほとんどつるっぱげ頭にしてもらっていた時期もあります。大学でワンダーフォーゲル部に入り、一転してパーマをお願いしたときは「佐々木君にはにあわねぇ」とにべもなく断られました。

椅子に座れば何も注文しなくても散髪が始まります。
小泉構造改革に反発し、床屋協会の署名にも協力したことがありました。

これから安い床屋が増えるよ
その代わり、理容師の使い捨て時代になるだろうなぁ

おやっさんの予言は当たりました。
ふたりのお子さんはすでに成人しています。
娘さんはネイルアーティスト。もうママにまっています。息子さんは美容師見習い。
働く両親の背中を見ながら育ったことが職業の選択からわかります。

初めてのデートの前日
大学の卒業式の前日
結婚式の当日
振り返ると、かなりおやっさんには無理を言って「○○似」の整髪を頼みました。

ひとは髪型じゃねぇんだけどなぁ
でも洋服を調えるように、髪を整えようとする気持ちは偉いぞ

おやっさんは、古風な習慣の残る地元にはかつていなかったもみ上げを伸ばしていました。だから、近所のひとからは「ルパン」と呼ばれていました。いまは、普通にしています。

ひとの生涯にわたって
「だれかが知っている」ということ
「だれがが見守っている」ということ
「だれかが気にかけてくれている」ということ
それを生涯教育みたいなカテゴリーでトップダウン方式で試みても根づきません。

その役割は「まち」が担っていたものです。
その「まち」が機能不全を起こしているところもあります。
床屋のおやっさん、酒屋の若女将、焼き鳥屋のママ、八百屋の姉さん、角のあんちゃん、銭湯の先輩……
ひとの一生を互いに見守り続けるひとたちが生きる「まち」は、ゆりかごのような温もりがあります。

もちろん、プライバシーなんか保護されません。
きょう床屋に行ったことも、たちまち「まち」のひとに広がることでしょう。

6477.10/5/2010
おるたネットというサイトで公開している日記より
..2010年8月13日21時40分

あさっては一応終戦の日と呼ばれています。
わたしは教員7年目に初めて6年を担任しました。
そのとき歴史教育を太古の昔からやらないで、現代から逆にさかのぼりました。
学習指導要領的には問題はないんです。
なかみの順序性まで規定していないので。
しかし、教科書無視になるので、オリジナルテキストを作りました。
じつは、最初から卑弥呼の昔までやるつもりはありませんでした。徹底的にこどもに課題を持たせて、調査・研究・発表の連続で学習を継続しました。社会を切り取ると、そこには因果関係があふれています。そのなかから「結果」と思われるものを拾い上げ、そこに至る原因を調査していく。これを繰り返すと、少しずつ時間をさかのぼった歴史学習が実践できます。

結果的には、戊辰戦争ぐらいまででタイムアップ。
こどもたちは卒業していきました。
親も同僚も管理職も何も言わない平和な時代でした。

8月15日以降も、各地で戦闘は続きました。
もちろん犠牲になったひともいます。
降伏の調印は9月2日です。
なぜ8月15日が重要なのか。

それは、玉音放送が流れた日だからです。
玉音自体は前日に録音されたと言われています。
生放送ではなかったんです。
ということは、「耐えがたきを耐え」を知っていたひとは8月14日にいたことになります。

インターネットがない。
テレビは普及していない。
そんな時代のラジオ放送です。
聞いていない、聞くことができなかったひとが山ほどいたことが想像できます。

それなのに、8月15日という特定の日を象徴化してしまう。
そして、その日を「終戦の日」と呼んでしまう。
後年、何も知らない世代はきっと大きな勘違いをするでしょう。その日を境にして何もかもが終わったと。

あれから65年が過ぎました。
にもかかわらず、日本国内にはアメリカの軍隊がたくさん駐留しています。
神奈川は沖縄に次いで多いんです。
授業中に戦闘機の爆音で耳をふさぐことは珍しくありません。

まだまだわたしには終戦の日が訪れたとは思えません。

そして、戦時下に学校が果たした役割を思うとき
権力に教育を預けっぱなしにすると
学校が「思想」と「調練」の装置として使われることを忘れないでいたいです。
こういう観点からも、教育を多様化しておく社会が必要なんです。

6476.10/3/2010
おるたネットというサイトで公開している日記より
..2010年8月13日8時1分

きのうは人間ドックでした。
35歳から毎年受けています。
お金がかかりますが、病気で入院や手術をすることを考えれば、実効性のある保険と割り切っています。

ふだんから酒を浴びています。
いままで人間ドックのγ-gtpは2桁でした。
γ-gtpを見て「ガンマジーティーピー」とすぐに読めたひとは、わたしと同じ酒飲みですね。
肝機能の状態を表す数値です。肝臓の細胞が壊れると血液中に解毒酵素γ-gtp(グルタミルトランスペプチダーゼ)が流出します。この数値が高いと、たくさん壊れているという恐ろしい数値です。

これが去年、3桁になりました。
比例して、腹囲も体重も増加しました。
腹囲が増えたということは、中性脂肪が増えたということです。

神奈川県の基準(国より厳しい)に引っかかり
メタボ予備軍として、管理栄養士の指導を受けました。

教員は健康診断が義務付けられていて、結果を管理職に伝えなければいけません。(神奈川では)
ものすごいプライバシーの侵害ですが。

以来、約1年に渡り、小さなことの積み重ねコースで、予備軍からの退役を目指してきました。

・帰りは藤沢から大船まで東海道線に乗らないで歩く。約1時間。
・休日には自宅近辺を歩く。
・朝ごはんをしっかり食べ、夜ご飯はちょっとにする。
・酒は1日1合まで。それ以上は茶を飲む。
・毎日、体重を計る。

このうち、上の2つは自信をもって続けたと豪語できます。下の3つはかなりさぼりました。ときには「忘れたふり」も。

しかし続けてみるものです。
今回、体重は3キロ、腹囲は6センチ、ガンマは2桁に減りました。帰り際に管理栄養士に「ちょっとこちらへ」と呼ばれることもなく堂々と凱旋しました。

いきなり大きなこと、衝撃的なことをやって
効果が大きく見えることは
反動も大きくて、以前よりも逆効果になる。
それよりも身の丈にあった小さなことの積み重ねが
確実に成果をあげるんだなぁと実感しました。
なんだか、これは湘南に新しい公立学校を創り出す会のこれまでの歩みと重なって思えました。

身の丈にあった小さなこと
それを探し続けています。

6475.10/2/2010
おるたネットというサイトで公開している日記より
..2010年8月11日

きょうの鎌倉は台風の影響はほとんどなく猛暑でした。
あしたの人間ドックに向けて、一粒でも多くの汗を流し、一キロカロリーでも脂肪を消費させるために、由比ヶ浜から江ノ島までの海岸線を歩きました。

道すがら、大学時代からずっとお世話になったペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi 1746年1月12日-1827年2月17日 スイスの教育実践家)を思い出しました。

わたしは大学時代に西洋教育史を専攻し、そのなかのペスタロッチを研究対象にしました。あれから30年近くたっても、わたしのなかにペスタロッチがいます。

フランス革命の影響でスイス政府軍が革命軍と戦い、多くの戦災孤児があふれました。その孤児たちを集めて学校を作ったのがペスタロッチです。
彼は、経営者としての能力に欠けていたので、学校を作っては閉鎖します。財政的な問題、教職員の人事の問題、保護者からの要求の問題など、原因は様々です。

ノイホーフだったか、シュタンツだったか、学校を閉鎖するとき、その理由を聞かれました。

「あまりにも学校が有名になり、貧民のこどもではなく中産階級のこどもが入学するようになってきたからだ 」

彼にとって、学校を作るということは、貧しいひとたちに生きる道筋をつけることと同義だったんです。
「立法と嬰児殺し」では、幼い少女が自分のこどもを殺すのは、社会に絶望し、男に絶望しているからだと説きました。いまから200年も昔の言葉です。

ペスタロッチの教育観は、その後のこども中心主義の原点とも言われています。

わたしにとって、学校を作るということは、社会的な弱者に生きる方向を指し示すことなのかなぁ 。

江ノ島を遠くに見ながら、ぶつぶつ思索にふけりました。
ペスタロッチさん、ご無沙汰です。

6474.9/30/2010
おるたネットというサイトで公開している日記より
..2010年8月11日

極楽寺のAさんの邸宅に行きました。
拙宅から歩いて1時間弱です。
午前8時ごろでした。
わたしはそこでAさんが言っていた謎のフランス人に会いました。
Bさんは、テントをたたんでいました。なんとわたしと同い年です。妻は日本人。川越で幼稚園を経営しています。4人のこども(男2人・女2人)もいっしょでした。Aさんの家族と縁側を開け放って和室で朝食の時間でした。

「わたしはフランスで7年間、生活指導の先生でした。移動遊園地で働く親のこどもが6才から18才まで通う公立学校にいました。フランスでは、授業をする先生は授業しかしません。その学校は全寮制で、250人いました。裁判所が近くにあって、親が刑務所に入るこどもも預かりました」

「フレネスクールってご存知ですか?」

「よく、知ってるよ。フランスでは、公立学校も私立学校も国からお金が出ます。自分の家を学校にもできます。公立学校以外は、市役所に申し込みます。お金をもらうので「これやりなさい」「あれやりなさい」と言われます。一年に一回、調査されます。言われたことをやっていれば、次の年もお金がもらえます。でもフレネはもらいません。自由が大事だからです」

わたしの知っている話だとフレネスクールでも学校として認可されているところもあるはずだったけど、ブツブツ

「そのかわり、フレネは入学金や授業料がとても高いです。貧しいひとは行けません。
わたしの知り合いの銀行員が自宅を学校にしました。自分のこどもと友人のこどもを育てました。市から学校として認められ、お金をもらいます。銀行員の先祖は貴族で、家はお城です。友人はみんなお金持ちです。銀行員はやがて『似たようなこどもしか集まらないからつまらない』と言って学校をやめました。いまは銀行員に戻っています」

Bさんの話。すべてが事実かどうかは不明です。
でも、現場のひとの声は、質感を伝えてくれます。
うーん、やはりフランスも税金が使われるところには、役所があれこれ口を出すんだということを感じました。
その後、Bさんファミリーは横須賀の幼稚園見学に出発して行きました。

6473.9/26/2010
おるたネットというサイトで公開している日記より
..2010年8月8日7時18分

江ノ電の駅に「極楽寺」という駅があります。
その近くに、輸入商のAさんが住んでいます。
Aさんはインド人です。

「あなたのその服、いいねぇ。わたしのサイズにぴったりだよ 」

そう言われて、いままで何着も追いはぎに遭いそうになりました。
インド人の交渉術は強引です。
Aさんの自宅は古民家です。いまの鎌倉でも少なくなった和風総二階家です。

「なんでコンクリートにするの。どうして鉄筋がいいの。わかんないねぇ。土に戻らないじゃないの 」

Aさんは笑顔で憤慨しています。
そのAさんの邸宅の立派な庭に謎のフランス人一家がテントを張っているそうです。きのうAさんが驚いていました。一家はパパ・ママ・男子2人・女子2人の6人です。ママと女子2人はシャワーを浴びたくて、テントを放棄。パパと男子2人があくまでも文化的生活を拒否。

「おもしろいから、あした来てよ。そのパパが言うには、日本じゃ、どこにテントを張っても警察官が来て怒るんだって。だれの許可を取ったのかとか、ここは私有地だとかって。こんな不便な国だとは思わなかったって 」

ちなみに二人の会話は片言の日本語だそうです。
あまりにもおもしろそうなので、きょうのハイキングは極楽寺方面です。

6472.9/25/2010
おるたネットというサイトで公開している日記より
..2010年8月8日

近所の日帰り温泉に行きました。
週末になると日帰り温泉に行く習慣。
もうかれこれ3年ぐらいになるでしょうか。

ゆっくり手足を伸ばして温泉に浸かります。
銭湯でもいいのですが、最近は町場の銭湯が少なくなりました。たまーに見つけると「午後3時より」が多いのです。

その点、日帰り温泉はかなり長時間の営業時間です。
人間ドックが近いのでサウナと水風呂を往復してよけいな水分を減らしています。
サウナに備え付けのテレビでどんなにビールの宣伝をしても、誘惑には負けません。かなり自虐的になりますが。

それぐらいのリハビリをしないと
学校現場に戻ったとき、心身ともにスタート地点に立てない年齢になりました。

6471.9/23/2010
虐待の根は深い
..page9

 たとえ時間はかかっても、地域や町に根ざした循環型経済を育てないと、雇用や福祉は守られない。雇用や福祉がおざなりになると、よのなかは殺伐とする。失業者があふれ、子育てどころではなくなるのだ。いつ解雇されるかわからない不安を押し殺して働いているひとたちのストレスが、幼いこどもたちに向けられる。
 かつて、高度経済成長を目指して工業地帯が建設された。多くの労働者を一堂に集め、日常生活をさせるために団地群が全国に広がった。団地では労働者の日常的な身の回りの世話をする「専業主婦」という役割が奨励された。アメリカのホームドラマを意図的に放送し、家庭とはこれが理想とばかりに核家族を賞賛した。
 家庭から、祖父母や親戚が消えた。実家が遠くなった。地方は農業や漁業の後継者を失った。すべては、工場労働者を確保し、経済に直結する工業の発展の犠牲になった。
 その大きな転換期が1990年のバブル崩壊だった。欲が面の皮からはみ出しそうなひとたちが、次々と土地を転がし、財テクに走った。一瞬で実体のない経済は、崩壊した。
 核家族は、収入源を失った。収入源の権威も失った。母親がパートやアルバイトに出なければローンは返済できない。失業し、無職になり、飲んだくれる父親に、こどもは愛想をつかした。
 そのこども世代が、あれから20年が経過して、いま小さなこどもの親世代になっている。
 小言や援助の手を差し伸べる親や親戚は実家に帰らないと会えない。
 核家族のかたちすら、離婚が日常的になり、維持できない。
 しかし、こどもは産まれ、育つ。

 とても残念なことだが、虐待は連鎖する可能性が高い。
 こどものときに虐待を経験したひとは、親になって自分のこどもに虐待を繰り返してしまう。それは統計が証明している。
 だから、根は深く、連鎖を断ち切るのは難しい。個人の努力で何とかなる段階は、とっくの昔に終わっている。
 消費税だぁ、仕分けだぁ、代表選挙だぁと、生活者から遠いところで活躍している日本の政治家のみなさん、日本社会が虐待天国になっていることに早く気づいてください。
(終わり)

6470.9/20/2010
虐待の根は深い
..page8

 09年度に全都道府県、政令市、中核市の児童相談所(児相)が対応した児童虐待の相談件数は4万4210件(速報値)で前年より1546件増え、過去最多を更新したことが28日、厚生労働省の調べで分かった。90年度の統計開始から19年で40倍超になった。厚労省は「社会的な関心が高まって、軽微な事案が掘り起こされている一方、深刻な虐待も増えている」とみている。
 一方、08年度から虐待の恐れのある家庭に児相が解錠して立ち入ることを可能にした強制立ち入り調査(臨検)は09年度、東日本の1件にとどまった。児童の不登校が続く家庭で、強制立ち入りに先立つ出頭要求や任意の立ち入りを保護者が拒んだケースだった。
 出頭要求は21件(対象児童25人)。このうち16件は応じず、その後の家庭訪問や任意の立ち入りにも応じなかったとして再出頭要求に至ったのは2件(同2人)だった。
 また、厚労省専門委員会が08年4月から09年3月に発生した児童虐待死107件128人(うち心中が43件61人)について、死亡に至る経過や関係機関のかかわりを検証。心中以外で死亡した子供67人から年齢不詳の1人を除いた66人のうち39人が0歳児だった。心中以外の64件のうち、児相や学校など関係機関が関与しないまま死亡に至ったケースは14件あった。
 これらはあくまでも児童相談所がつかんでいるおおやけの数字だ。
 児童相談所が知らない実数は、これよりもはるかに多いだろう。
 おおやけの数字だけを見ても、児童虐待が増えていることに驚く。

 なんと1日平均121件も全国のどこかで児童虐待が発生している。1時間平均にすると5件だ。
 心中を含む児童の虐待死は、約3日に1人の割合。
 心中ではない児童の虐待死は、約5日に1人の割合。
 一週間が終わると、全国のどこかで2人のこどもが親の都合で殺されている。いまの日本社会の異様さが浮き彫りになる。
 この異様さの大きなうねりを作ったのは、ふたりの権力者だったとわたしは考える。バブル経済崩壊後の建て直しに、外国資本を頼ったことが大きな原因だ。おととしのサブプライムローンの破綻や、リーマンショックなど、世界恐慌が吹き荒れたとき、その被害をもっとも受けたのは、外国資本を多く注入した企業だった。