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6459.8/28/2010
坂の下の関所-12章-
..story203

 サッカーワールドカップは、スペインが優勝した。
 参議院選挙は、与党が負けた。
 大相撲は謹慎力士が多く、テレビとラジオの中継がなかった。
 ことしの夏は、花火のように大げさなニュースが続発している。
「ただいまぁ」
 この頃、関所に入るとき「こんにちは」とか「こんばんは」ではなく、「ただいまぁ」になってしまった。
 常連のひとたちも、お店のひとも「おかえりー」と迎えてくれるからだろう。
 財布から140円を取り出す。
「はい」
 若女将に渡す。冷蔵庫からホッピーを取り出す。まずは、暑いなか歩いてきた自分へのご褒美に、喉を潤す。コップに勢いよく注ぐと、ホッピーはビールのように泡立つ。
 人間ドックまで一ヶ月を切り、ホッピーを焼酎で割るのはやめた。昔のようにストレートに戻した。飲んでみれば、それで十分なのだ。
「センセー、俺には苦くてだめだよ」
 赤坂さんが、ゴーヤの煮物のような料理を渡してくれた。皿に入っているので、だれかからのもらいものなのかもしれない。
「お疲れ様です」
 横浜の病院で麻酔科の医師をしている佐藤さんがやってきた。
「あれ、はやーい」
 佐藤さんは、ホッピーと焼酎を取り出していた。
「えー、あした朝が早いので、きょうはちょっと早く出させてもらいました」
 ゴーヤの煮物をつまむ。かなり醤油や砂糖で味付けがしてあるので、わたしには苦さはあまり感じなかった。佐藤さんも、つまんでいる。
「うーん、苦くないですね」
「佐藤さんは、本場で食べてきたんでしょ」
 先月だったか、仕事の関係で沖縄に行っている。
「向こうのゴーヤは、違う意味で、まったく苦くないんです。採れたてだと、新鮮で、苦味が出ないのかもしれません」
 ということは、あの苦味は古くなってきた証なのか。
「あしたは、また遠くへ行くんですか」
 週末が近づくと、佐藤さんは関東地方の病院に手術の応援に行く。全国的に麻酔科医が不足しているので、彼は自分の休みを返上して、ほかの病院を手伝っている。
「えー、あしたは鹿島です」
「鹿島って、あのサッカーの鹿島アントラーズの」
「そうそう、でも、あの町はほかに何もないんですよ」
 わたしのホッピーは、あっという間に空になった。冷蔵庫から、山猿の一升瓶を取り出した。

6458.8/27/2010
坂の下の関所-12章-
..story202

 盛華園は江ノ電の極楽寺駅から橋を渡り、すぐ右側にある。両隣も飲食店だ。
 店内は、北極かと思うほどエアコンが効いていた。
「こんにちは」
 あまり広くなかった。6人掛けのテーブルが一つと、4人も座れば満席になるカウンターがある。カウンターの向こうが調理場だ。白衣を着た男性が仕込みの最中だったようだ。奥から「いらっしゃーい」という声が聞こえた。
 壁には中国語と日本語でメニューが書いてあった。わたしは、カディーさんのお勧めの焼きそばをお願いした。
「やわらかいの、かたいの、どっちにします」
 昔、地下鉄はどうやってトンネルに電車を入れたんだろうというネタで売れた漫才師がいた。その男性にそっくりだった。
「やわらかいのにしてください」
「はい、わかりました」
 スポーツ新聞を手元に寄せる。トイレの扉かなと思ったら「関係者以外立ち入り禁止」の札が貼ってある。その扉から、大仏のように細かいパーマをかけた女将が登場した。
「いらっしゃいませ」
 わたしは、頭を下げた。
「山崎の関所の若女将からの紹介です」
「あら、どういうつながりかしら」
 北極のように冷えている店内で、女将のおでこには汗が光っている。
 わたしは、関所の常連であるということと、そこでこのお店を教えてもらったことを伝えた。
「以前は、よくいっしょに出かけたんですよ。いまはすっかりご無沙汰しちゃって」
 懐かしむように教えてくれた。
「関所の若女将も、休みが火曜だから、こちらに来られなくて残念だと言っていました」
「いまも、お元気かしら」
「たぶん、昔と変わらず、パワフルですよ」
「あら、そう。わざわざ、こちらまで来てくださったんですね」
「ちょうど、散歩の途中でしたし。それに、そこのカディーさんからもここを紹介されました」
 女将は目を丸くして「え、カディーさんが」と驚いた。
「カディーさんは、週に何回か山崎にあるプールに通っているんです。途中に関所があって、最近は、その帰りに立ち寄って行くんですよ」
「ひとは、つながっているんですねぇ」
 調理場から、元気な声がした。女将は奥に引っ込んで、出来立ての焼きそばを持ってきた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
 焼きそばは、本格的な中華のあんかけそばだ。生麺をゆでる。ゆでた麺をよく湯きりして、軽く油を敷いた鍋で炒める。そこに別に作っておいた野菜や豚肉を炒めた具とあんを乗せてできあがりだろう。具が多く、麺もおいしかった。

6457.8/26/2010
坂の下の関所-12章-
..story201

 わたしは、あぐらを解き、縁側から庭に膝から下を投げ出した。少し背中を反って、両手でからだを支えた。
「カディーさんは、どうやって、ひとの愚かさと自分の考えの間に折り合いをつけているんですか」
「折り合い」
 難しい日本語か。
「許していると言い換えてもいいです」
「わたしは、みんなを許しています。でも、間違いは間違いと言います。間違いはまねしません。ひとは間違うことがあります。でも自分ではそのことに気づきません。だから、それは違うよって言ってくれるひとが必要です。違うよって言うと、怒ります。自分は間違ってないと。間違ってないと思うから、間違えているのです。正しいとばかり思っているひとは、間違っています。わたしも、センセーも間違いはいっぱいしますね」
 わたしは大きくうなずく。
「その間違いを違うよって言ってくれるひとが友だちです。ひとは自分がやっていることよりも、自分の間違いを言ってくれる友だちを大切にしなければいけません。その友だちが、たくさんたくさん増えれば、いまよりも少しは幸せな社会ができるかもしれません」
「カディーさんから見たら、関所に集まるメンバーは、とっても愚かなひとたちですね。肉も食うし、プラスチックのコップも使うし、酒も飲んでたばこも吸うし、盛り上がる話と言ったらギャンブルの話だし」
「おとなのひとはいいんです。間違いに気づいてもひとのせいにはしません。そして、間違いを言ってもなかなかわかってくれません。これからは、こどもに対して、たくさんたくさん考えていることを話していきたいと思っています」
 カディーさんの話はシンボリックすぎるので、こどもにはわかりづらいかもしれない。しかし、相手の気持ちをつかまえて、真剣に考えを伝えようという姿勢は、おとなよりもこどものほうが受け止めるだろう。おとなは、すぐに裏を読んだり、斜に構えたりする。
 午後から築地本願寺に源氏物語の独唱を聴きに行くからいっしょに行かないかというカディーさんの申し出を丁重に断って、わたしはカディーさんの家から数分の中華料理店「盛華園」に向かった。ランチをとるならここと、カディさんと関所の若女将がそろって教えてくれた店だった。

6456.8/24/2010
坂の下の関所-12章-
..story200

 お茶は、ルイボスティだった。たっぷりの蜂蜜が入って、驚いた。
「メキシコ湾で石油が流出しました」
 そのニュースは知っている。海洋性生物が多く死に瀕しているという。
「あの動物についた石油を拭き取るには、ポリエステルが入ったタオルではだめなんです。もとが同じ石油だから、完全には吸い取れない。全部、綿でできたタオルが必要なんです。近所に住んでいるひとが、全部綿でできているタオルを集めて、メキシコに送ろうという運動を始めました。わたしも誘われました。でも、断りました」
「今度は、どこが引っかかったんですか」
「どうして、オバマは、アメリカの石油をメキシコ湾で掘ることを許可したのか。そのことを調べて、事故の責任を取らせるのなら協力すると言いました。でも、そのひとはそこまでは考えていないと言いました」
 カディーさんの一面を見た。近所のプールに来て、からだを大事にするだけのひとではなさそうだ。
「センセーは、太平洋の真ん中に大きな渦があることを知っていますか」
 鳴門にも渦はある。太平洋にもいくつもあるだろう。
「その渦は、海底5000メートルぐらいまで続く大きな渦です。そこには、太平洋中のゴミが集まります。大きな洗濯機。ゴミのほとんどはペットボトルです。ペットボトルは、その渦にもまれて海底深く落ちていきます。ひとは、石油を掘り出し、石油からペットボトルを作り、海に捨てている」
 かなり刺激的な自然主義者かもしれない。
「横須賀のアメリカの航空母艦。あれは、日本の領海から出たとたん、艦内のゴミを一気に海に捨てます。うんちやおしっこは分解されるからいい。でも、プラスチックやビニル、ペットボトルはいけない。それでもものすごいゴミを捨てます」
 具体的に見たわけではないが、あの国はそれぐらいことはするだろうなと予想がつく。
「東京で音楽の先生をしているというひとが、こないだ泊まりに来ました。ここで鳥の鳴き声を聞いていました。帰るときに、カディーさん、あの鳥の鳴き声のCDを教えてくださいと言いました。音楽のプロが、自然の音と人工の音の区別ができなかったんです」
 カディーさんの話は、脈絡なくとぶ。しかし、きっと根っこでつながった話なのだろう。愚かなわたしにはつながりが見えてこない。
「カディーさん、そうやってよのなかのことを突き詰めて考えると、悲しくなってきますね」
「ひとは愚かです。一つのことに満足すると、それでは飽き足りなくなって、もっと満足したくなる」
 彼は、ぐいっとルイボスティを飲み干した。

6455.8/22/2010
坂の下の関所-12章-
..story199

 わたしは縁側で丸い座卓を挟んでカディーさんとお茶をしている。
 庭に面したガラス戸は、全部外されていた。さっきまで15分間ぐらい、畳であおむけになりながら、カディーさんの指示に従って、ゆっくりな呼吸と、両手を合わせて気を逃がすツボ療法をやっていた。肩の張りや腰の疲れが減っていた。
「こないだ、わたし、そこの小学校から、環境教育について、こどもたちに話してくれと頼まれました」
「国際理解教育の一環ですね」
 小学校にも外国の文化や言葉を学習する時代が到来しているのだ。ごちごちの学力主義者は、テストをして成績をつけろと息巻いているが。外国の文化や言葉に触れるということと、それらを覚えて試験を受けるということの間には、深い溝がある。楽しみが、苦痛に変わる溝がある。エリートにはそれが一生わからないだろう。
「わたしは、断りました」
「何のことについて、頼まれたのですか」
「牛乳パックの再利用が、エコにつながるという話をしてくれと言われたんです」
 ははぁ、ピンと来た。わたしは、10年前に小学校の生活科で、牛乳パックからパルプを抽出し、紙を作る学習をやったことがある。捨ててしまうだけの牛乳パックを再利用するのだから、環境にやさしいのではないかと想像した。その想像が、浅はかだったことを、すぐに悟った。牛乳パックには水漏れを防ぐために内側にラミネートシールがべったり貼ってある。石油を原料とするビニルから作ったシールだ。これをはがさないと、パルプは抽出できない。もちろん手ではがせない。一番、手っ取り早いやり方は熱湯にしばらく浸ける。ふやけてきたところを一気にはがす。シールはきれいにはがれ、パルプは無駄なく残る。
 わたしは、そこまでやって笑ってしまった。なにがエコだ。これでは、逆にエネルギーを使ってしまい、ゴミまで出す。熱湯を用意するのに火を使ったり、電気を使ったりするのだ。
「もしかして、カディーさん、瓶の話ならいいと言ったんじゃないですか」
 大きな瞳、長い眉毛がピクン。
「ジャスト。よくわかりますね。どうして、瓶はなくなってしまったのでしょう。あれこそ、使い回しの利く入れ物だったのに」
「牛乳瓶を運んだり、回収したりするひとたちが、重くて、大変だからと聞いたことがあります」
「それも一つの理由かもしれません。さらに、紙パックにすると喜ぶひとがいたのでしょうね」
「製紙会社とか、ビニルを作る会社ですか」
「そう、もっとおおもとは石油関連会社でしょう」
「たしかに、一回飲んだだけで、あとは捨ててしまうラミネートシールがパックの内側に貼ってあっても、多くのひとは気づきませんね」
 庭の梅の木を見上げたカディーさんは、少し寂しそうだった。

6454.8/21/2010
坂の下の関所-12章-
..story198

 一間ばかりの玄関。ガラスの引き戸。
 わたしが生まれ、就職するまで住んでいた故郷の家屋も、同じような引き戸だった。
 ガラガラと音がする。
「こんにちは」
 名前を名乗る。上がりかまちが半畳はあるだろうか。さらに玄関のたたきだけで二畳はあるだろう。そこに、関所でおなじみの香辛料がところ狭しと並んでいた。一応、値札がついている。お店ってここ?
「いやぁ、センセー、お待ちしていました」
 え、何で、待っていたのだろう。直接、彼に行くとは伝えていないのに。
「いま、豆を作っているから、どうぞ上がってください」
 自宅の場所がわかればいいと思っていた。それにたくさん汗をかいて、汚れている。すぐに失礼しようと思っていたのに、カディーさんの瞳に見つめられると断れない。
「カディーさん、これじゃ、どこがお店だかわからないよ」
「そう、振り返ってごらん」
 靴を脱いで、たたきに上がる。振り返ると、引き戸の上に「カディー株式会社」と看板がある。
「玄関の内側に看板を掲げていては意味がないじゃん」
「たしかに、そうだね」
 わかっていて、わざとそうしているのだろう。
 こちらへどうぞと言われ、わたしは広間に通された。広間は障子のレールを境にして縁側を接していた。しばらく、縁側のある家屋に足を踏み入れていない。丸い座卓には、いつもの煮豆が大きく盛られていた。
「きょうは、どうやって、ここまで来た。電車、バス、車」
「ずっと、歩いて来ました」
「よろしぃ。鎌倉市役所に行って、センセーの車の重量税を返してもらいましょう」
 こういうジョークに慣れていないので、ひきつった笑いを返してしまう。
「そこに寝てください」
 いったい、何が始まるのだろう。わたしは言われるままに広間の畳にあおむけになった。
「静かに目を閉じて、両手はからだの横に」
 わたしの両足の下に、座布団のようなものを入れてくれるのを感じた。ウグイスが聞こえる。ホトトギスもときどき混ざる。
「ゆっくり息を吸って、肺の中を空気でいっぱいにしましょう。頭のなかは空っぽに」
 もしかして、カディーさんはヨガの達人か。おっと、何も考えるなと言っていたっけ。
「吐くときは、息をゆっくり吐きます」
 なぜか、言われるままにしているわたしがいた。

6453.8/20/2010
坂の下の関所-12章-
..story197

 長谷の海は、これが同じ鎌倉の海かと思うほど、由比ヶ浜や材木座に比べると、荒れている。漁船が漁から戻ったまま陸地に上がり、カラスやカモメが漁のおこぼれを狙って、砂浜をヨチヨチ歩いている。海の家も、ここではあまり儲けを見込めないのだろう。長谷海岸には大きな海の家は建たない。それだけ、素朴でのんびりしている。そういう風情を楽しみたい地元のひとが、犬の散歩や流れ着いたわかめの採集に訪れている。
 わたしは、砂浜に別れを告げ、国道134号線の信号に向かう。歩行者信号が青になるまでに、靴を脱ぎ、砂を払う。わずかに靴底に残る砂が落ちた。
 長谷から極楽寺に向かう道は、江ノ電の線路に平行している。もっとも江ノ電はトンネルに入るので、道路はそのわずかな斜面に沿って上っていく。右手に神社、左手に成就院が見えてきた。成就院は昨今では、北鎌倉の明月院に並んで、紫陽花を愛でる観光客に人気のスポットだ。成就院じたいは、そんなに大きな境内をもたない。山門から本殿に続く坂道の両岸に見事な紫陽花が咲きそろう。いくつもの種類の紫陽花が、色やかたちを競って、観光客のカメラに収まる。
 成就院を抜けて、やや道は下りになる。
 目の前に極楽寺と江ノ電の極楽寺駅が見えてきた。江ノ電から多くの旅行者が降りてくる。わたしは、極楽寺山門前でカメラを構えた。出発する江ノ電の屋根のポジションからシャッターを切った。
「これが成就院ね。紫陽花がきれいと言ってたけど、見えないわね」
 としの頃、60歳を過ぎたにぎやかな女性たちが極楽寺山門で会話する。
「もうちょっと中に入ってみれば見えるかもしれないわよ」
「そうね、行ってみましょう」
 そこは、成就院ではなくて、極楽寺ですよ。だれかが教えてあげればいいのだが、ほかの観光客もあまり鎌倉のことはしらないらしい。そのにぎやかな女性集団の後を何となく追っている。わたしがとやかく言うことではない。なぁに、こんなに近くまで来ているのだ。本物の成就院を見つけるのは時間の問題だ。
 わたしは、それよりも、カディーさんのお店を探すことにした。
 カディー株式会社、カディー輸入商会、カディーのお店。どんな看板を掲げているのかわからない。しかし、極楽寺の風情にインド風のカタカナ看板は目立つだろうと汗を拭きながら探した。稲村ヶ崎小学校の周囲も探した。極楽寺駅の周辺も探した。考えられる小道すべてに入って探した。意外にも、インド風のカタカナ看板はなかった。そんなはずはない。せっかくここまで来たのだ。極楽寺駅前に、周辺町内会の地図があった。そこに、カディーの文字を見つけた。それまで何度も通り過ぎていた場所だったが、看板など出ていない。そこには、総二階木造建造住宅がそびえていた。おそらく昭和の初期に建てられて、住人が大事に手入れをしてきた家屋。庭には柿や梅が枝を張る。縁側が広く、軒下にどこかで見かけたことのあるインド模様の大きな布がひるがえっていた。表札らしき陶器に、カタカナでカディーと透かしが入っている。
 これ、ふつうのうちじゃん。

6452.8/19/2010
坂の下の関所-12章-
..story196

 いくつかあるハイキングコースのなかで、もっとも険しく、もっとも長いのが天園だ。
 わたしは、そのコースを端から端まで全部歩く。
 樹木の間を抜ける日光が、風に揺られて、山道に陰影を作る。すっかりプロの域に達した鶯が何度も美しい声色を聞かせてくれる。尾根筋は基本的には平らだが、ときどきアップダウンもある。しかし、気持ちのいい時間が流れるので、気にならない。
 天園に入ると、休日の午前8時から9時という時間帯なのに、ひとに会う。体脂肪率ゼロに近い体形のひとたちが、個人で走っている。山道を走っている。そういう競技があるのだろう。わたしは、あのひとたちの楽しみに触れられないが、荒い息をして、山道を走る姿には感動する。高齢の夫婦が、かなりハードな登山姿でゆっくりと歩くこともある。長袖長ズボンは登山の基本だが、こういう場所でその姿は、むしろ熱中症を誘引するのではないかと心配になる。中年の女性が複数で歩く。わたしと似たような準備だ。このひとたちに驚かされるのは、山道を歩いているのに、息を乱すことなく、喋り続けているのだ。だんなのこと、こどものこと、近所のこと。かなりプライベートななかみを大声で喋り続ける。登り道がきつくても、下り道に気をつけなければいけなくても。なぜか、話題は鎌倉の自然にはならない。さっさと追い越して、声が聞こえないところまで差を広げてしまう。
 山道の途中には分岐点がある。建長寺への分岐、覚園寺への分岐を通り過ぎ、やや大きめの岩場を登り切ると、太平山(おおひらやま)山頂に出る。山頂といっても、木の札があるだけのそっけないところだ。しかし、晴れていると、みなとみらいのランドマークタワーがくっきりと見える。すぐ眼下には、鎌倉パブリックゴルフクラブのコースが広がる。ここには早朝から自家用車でゴルフを楽しみに来る客がたくさんいる。駐車場はほぼ満杯になっている。
 ハイキングコース唯一のトイレがある。用を足し、わずかな距離で六国峠にたどり着く。北は金沢八景、東は鎌倉宮・瑞泉寺へと分かれる。峠には大きな茶屋がある。シンロートの山ちゃんこと、山田さんが仲間とここまで登ってきて、一杯やって野毛に繰り出す場所だ。
 峠を過ぎると、山道は少しずつ下り勾配になる。やや急な勾配になったなと思ったら、コンクリートの階段が現れ、瑞泉寺近くのハイキングコース最終点に到達する。
 汗をぬぐいながら、水分を補給し、アスファルトを歩く。鎌倉テニスクラブでは、いつも複数あるコートがプレーヤーで埋まっている。駐車場の車はどれも外車ばかりだ。金持ちしか会員にはなれないのかもしれない。
 ゴルフもテニスも、運動だ。ひとは自分にあった運動で健康を維持すればいい。わたしは、金のかからない方法で、ひたすら歩いている。
 鎌倉宮から、清泉女学院の脇を抜け、法華経の寺が立ち並ぶ裏通りへと入る。大町の交差点を渡り、横須賀線の踏切を越える。風に海の香りが混ざる。材木座は一気に潮の町だ。
 魚屋や酒屋を眺めながら通り過ぎる。九品寺(くほんじ)を右に見ながら、正面に国道134号線が登場した。国道の下をくぐると、材木座海岸。
 これから多くの海水浴客でにぎわう。まだ海の家が完成していない。建設途中が多い。海開きは来週だったか。
 わたしは、波打ち際まで砂浜を歩く。湿気を吸った砂は歩きやすい。寄せては返す波に濡れないように気をつけながら、由比ガ浜、長谷を目指す。

6451.8/17/2010
坂の下の関所-12章-
..story195

 朝食を済ませた。  時計を見ると午前7時。わたしは、梅雨とは名ばかりの暑くなりそうな7月上旬の鎌倉へ歩き出した。
 小袋谷(こぶくろや)交差点の点滅信号。横浜や藤沢から車でくるひとが、必ず鎌倉に入るときに通過する交差点だ。近くに横須賀線の踏切があるので、渋滞のポイントでもある。しかし、早朝なので、ほとんど車はいない。
 そのまま鎌倉街道を歩く。瓦屋根が立派な小坂(こさか)郵便局を左手に見る。その先に左に曲がるわき道がある。わたしはそこで左に折れる。やや登り道。横須賀線の踏切がある。北鎌倉駅が間近な権兵衛(ごんべえ)踏切だ。踏切を渡り、直進する。道はどんどん勾配を上げる。地名では高野台と呼ばれている地域に入る。
 高野台は、不動産業者によって開発された新しい住宅地だ。まず住宅地に上がる120段のコンクリートの階段に取り付く。わたしの心臓は、一週間の不摂生を後悔するかのように急激に血液を全身に送る。脈拍は150を越える。息遣いが粗くなる。とても鼻から吸って口から吐くという段階ではなくなる。口を開け続け、吸っては吐き、吐いては吸う。背中やおでこに汗が噴き出す。
 一気に心臓に負荷をかけ、徐々に運動にからだを慣らしていく。すると、不思議なことに、ある瞬間から脈拍が下がり、呼吸が安定する。発汗は続くが、水分を補充すればいい。からだ全体が運動モードに切り替わるのだ。
 階段を登り切り、高野台の住宅地を歩きながら、からだが運動モードに切り替わる実感に浸る。運動モードに切り替わると、火事場の馬鹿力みたいに、いつもとは違うパワーが出るのだ。
 高野台の住宅地の外れに、六国見山(ろっこくけんざん)への登山道入り口がある。そこからは、アスファルトとは縁遠い山道に入る。まずは320段の階段が待っている。階段を登るとき、わたしはこころのなかで10まで数える。そのたびに指を折る。また10まで数える。次の指を折る。こうしていくと、いまどの辺にいるのかとか、もうすぐゴールが近いという事実が把握できる。ひとのからだはこころと連携しているので、見通しがあると、からだに余分な力が必要とされないのだ。大学時代に教わった方法だ。
 六国見山の山頂は晴れるととても見通しがいい。富士山、大島、丹沢はもちろん。横浜や東京湾も眺望できる。ベンチがあるので小休憩する。お茶を飲む。写真を撮る。
 わたしは、手ごろな竹を手にする。落ちている竹のなかからしなりのいいものを選ぶ。ここから先の山道は、おそらくふだんひとが通らないところだ。確実にくもの巣が道をふさいでいる。竹のしなりを利用して歩きながら、くもの巣をよけて行く。山頂からそうやって起伏のある尾根筋をしばらく歩くと、今泉の住宅地に出る。ここはわたしが小学生の頃に開発された住宅地だ。もう30年近く経つだろうか。車がないと、どこに行けないような不便な場所だ。住宅街を歩く。途中に、北鎌倉の明月院からの道路との合流点がある。静かな住宅地で唯一、車やバイクを多く見かける場所だ。
 その合流点からさらに登り勾配を歩く。外れの外れに、天園(てんえん)ハイキングコースの入り口がある。鎌倉のハイキングコースは、どれもハイキングとは名ばかりで、しっかとした山道だ。だから、最低でも運動靴をはかないとけがをする。飲み物とタオル、携帯食をリュックに入れて歩くと、なかなか通だ。

6450.8/15/2010
坂の下の関所-12章-
..story194

 万歩計をつけている。
 だいたい一日の平均は一万五千歩ぐらいだ。仕事上、動きまわることが多いので、軽く一万歩は越えるとは思っていた。体育のあるときにこどもといっしょに走ったり、歩いたりすると、二万歩を越えることもあった。
 反対に、雨が続いたり、休日に家で休養していたりすると、ほとんど歩いていないことに気づく。なんだか、足が「歩かせてー」と叫んでいるように感じる。
 ならば、計画的に鎌倉散歩で三万歩を目指してみよう。その計画のなかにカディーさんの住む極楽寺をコースに入れた。
 始めた頃は、ウィーキングにはしないであくまでも散歩と決めていた。しかし、やり始めたら、歩く距離や時間などどんどんレベルをアップさせていた。わたしの悪い癖だ。ついつい「とことん」になってしまう。そして、あるとき、飽きてしまうのだ。この傾向は、料理によく現れる。チーズにはまったら、何でもかんでもチーズばかり。焼きそばにはまったら、毎朝やきそばばかり。こういうわたしの傾向を知っている家族や知人は、あまり驚かない。「いつかまた飽きるのだから、どうぞお好きに」と見放している。ちなみに、いまの料理ブームは納豆と出汁巻きたまごだ。
 大学時代の四年間。わたしはワンダーフォーゲル部に所属していた。
 ワンダーフォーゲルとはドイツ語で「渡り鳥」のことだ。ワンダーが「渡り」、フォーゲルが「鳥」である。ワンダーフォーゲルとは、テントと食料を背負って、各地を渡り歩くひとたちの総称だ。多くは、山を対象にする。登山部や山岳部と違って、山頂にたどり着くことが目的ではない。長いコースの途中に山頂はあるが、いくつもの山頂を越えて、山や川、谷や荒野を歩きぬくことが目的になる。だから、登頂思考といって、山頂に最短距離で最速時間で登ることは考えていない。一般的な山道をゆっくり時間をかけて登って行く。
 当然だが、たくさん歩く。一日に20キロから30キロはざらに歩く。登山のように上り下りの激しいコースでも、かもしかや猪のようにひたすら歩く。基本的に、歩くことが上手になる。疲れない、膝や腰に苦痛のこない歩き方を覚える。そのために足の裏全体に水ぶくれができたり、足の指全部の爪がはがれたり、代償はかなり大きかったが。
 ワンデリング(歩くこと)は、山ばかりではなかった。山手線一周、九州は甑島列島完全歩行、町田のキャンパスから群馬の山小屋まで歩き抜くなど、町や里を歩くことも多かった。
 ドイツでワンダーフォーゲルが盛んになったのは、もともと青年たちによる教育の普及活動が中心だった。古いしきたりの多い地方や田舎に、新しい価値観や文化を伝える役目を負った若者たちが、何日も同じテントで共同生活をしながら、国中を歩き回ったのだ。宗教家が宗教を伝える布教活動と似ている。しかし、日本の大学のワンダーフォーゲル部には、そんな高邁な目的はない。手段としての歩行が、目的と化していた。
 あれから25年以上が経過している。
 歩く自信はなかった。しかし、少しずつ距離を伸ばしていったため、もしかしたら三万歩は可能かもしれないと感じていたのだ。わたしの一歩はだいたい80センチだ。三万歩は、一日に24キロ歩く計算になる。大学時代の復活だ。毎日、ランニングや荷物を背負ってトレーニングしていた時代とは違う。
 ちなみに正月の東京・箱根往復駅伝の選手は、だいたいひとり20キロ走る。時間にして1時間ぐらいだ。選手たちの異常な体力に気づくだろう。