top .. today .. index
過去のウエイ

6439.8/2/2010
仮設校舎の1学期 ..2

4月8日
給食が始まる。今年度から藤沢市全域で、牛乳パックの返却方法が変わった。これまでは空になった紙パックをたたんで出していた。それを今年度からはいちいち開いて水で洗う。一昼夜乾かして翌日返却する。紙パックのなかには微妙に牛乳が残っているので、開いたときに、なかの牛乳が床や服に飛び散ることを、返却方法を一方的に変更した担当者は知らない。よりによって、仮設住まいで給食が自校からセンター方式に変わっててんやわんやというときに、牛乳パックの処理に追われるとは。特学では、こどもが作業するには限界があるので、多くはおとなたち(教員や介助員)がかわりにやらざるを得ない。
前日の夕刻に、特学の教員が交通事故に遭う。足をけがして、療養休暇に入った。1学期が始まってまだ3日。すぐには代替教員が決まらない。動きが取れないなかで、休暇の教員が担当している4人のこどもの支援体制を計画しなければならなくなった。


4月14日
1年Yに関して、市役所とデイサービスから問合せが続く。担当教員はNだが、松沢神奈川県知事の方針で今年度から特学の特別加配(神奈川県独自の教員配置・法律の定数よりも手厚い)が減らされたので、Nは午前中で帰ってしまう。担当以外の者たちで放課後に対応し、翌朝に事情を説明する状態になる。そもそもなぜ1年Yに関して、市役所が関心を抱くのかが不明だった(後に判明する)。


4月15日
わたしが担当している5年Sが、学校から部屋の鍵を大量に持ち帰っていたことが判明した。プレハブはどのドアもサッシドアだ。設置されたときに、業者が鍵を鍵穴の近くにテープで留めていった。本来なら、建物の設置管理者(校長)本人か、その命を受けた者が開校までに、それらを撤去し整理しておかなければいけなかった。5年Sは、休み時間になると「学校探検に行ってきます」と声高らかに出かけていた。そのたびに、ポケットに鍵を詰め込んでいたらしい。


4月19日
特学は1階だ。その真上が図書室になる。早朝、登校したこどもが図書室で鬼ごっこをしていた。図書室を管理する部署が、授業時間以外の図書室を開放状態にしていたのが原因。おかげで、階下の特学では朝からドタバタと震動と騒音に悩まされる。職員の打合せで事情を説明し、図書管理担当者が善処することになった。


4月26日
この週は29日(木)の昭和の日以外は、前日、どこかの学年の遠足が予定されていた。学校行事を計画するのは教頭の仕事。26日:4年。27日:3年。28日:2年。30日:5年。こういう計画をする教頭は、特学の経験がない。特学は交流学年の行事にはなるべく参加させる。そのため、遠足にはおとなが必ず引率する。人数が多いときは、教員を2人つける。問題は、学校に残る方だ。遠足に教員をつけるとき、その補充として、介助員さんに来ていただく。あるいは通常よりも多くの時間の勤務をお願いする。しかし、遠足は水物。雨が降ると延期になる。介助員さんの来ていただいても、雨で遠足が延期になると、通常よりもおとなが多い状態になってしまう。一週間ぶち抜きで遠足が計画されていると、特学は毎日落ち着くことができない。

6438.7/30/2010
仮設校舎の1学期 ..1

2010年の1月から3月は、校舎の老朽化に伴う完全改築工事に備えて、校庭に建設された仮設校舎(いわゆるプレハブ)への引越し作業に追われた。

いつもなら、年度末の感慨にひたる3月の終わりは、一番引越し作業が忙しい時期だった。
だから、7月20日に1学期が終わったとき、1月から始まった一連の引越し作業にかかわる仕事に一区切りがついた気持ちになった。

校長や教頭は、ことあるごとに仮設校舎を「新校舎」と呼ぶ。
新校舎とは、旧校舎に対して使われる表現だ。いまわたしたちが生活している建物は、新校舎が完成するまでの仮の住まいのはず。なぜあえて仮設校舎を新校舎と呼ぶのか、さっぱりわからない。
「じゃ、2年後にできる新しい校舎は何て呼ぶの?」聞いてみる気持ちも起こらない。

今回の校舎改築工事は、藤沢市では「最後の本格的な改築工事」とささやかれている。
建設にかかわる当初予算だけで20億円を超えている。今後、それだけの予算をつぎ込んだ校舎改築を実施するほど、税収が見込めないのだ。
老朽化して、耐震基準を満たさない校舎は、今後、窓枠に鋼鉄をななめにはめて見栄えの悪い改修をすることになるのだろう。
なぜ、いまわたしが勤務しているH小学校だけ20億円以上もの予算がつぎ込まれるのか。ちまたでは、いまの市長が卒業した小学校だからという噂がまことしやかに流れている。真相はいかに。

夏休みに入ったので、過ぎた4ヶ月を振り返り、少しずつここに仮設校舎での1学期を記してゆく。
それには、たった一つの意味しかない。
特別支援学級がある小学校の校舎改築工事。おそらくそういうことに何も配慮しないひとたちが計画し、実行しているのだろう。どれだけ、こどもたちが我慢し、工夫し、乗り越えたかを記しておきたいのだ。

プレハブ校舎は、想像以上に震動がや音がうるさかった。
聴覚過敏といって、少しの音にも敏感に反応するこどもが在籍する特学(特別支援学級)では、毎日の震動と騒音に苦しめられた。 放送機器関係の配線が画一的すぎて、特学に関係のない放送が流れ、そのたびにこどもたちは混乱した。教室のボリュームで消音できないおんぼろ設計だったのだ。

6437.7/29/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page27

1月8日・午前1時・海岸道路

 赤色灯が光っていた。
 前をゆく数台の車が、制服を着た警察官の指示に従い海岸道路の駐車場に誘導されていく。
 谷口は、ハンドルを握る手のひらに急に汗が浮かび上がるのを感じた。車は、赤色灯をつけたコーンの間を減速しながら、一つの方向に追いたてられる。まさか、深夜に検問をしているとは思っていなかった。
 谷口は、大学時代の同級生と夕方から居酒屋で飲み、10時ごろに同級生のアパートに引き上げた。そこでもウイスキーの水割りを飲んだ。新採用の忙しい一年間がもう少しで終わろうとしている。公開授業と研修出張の繰り返しで、こどもの話をまともに聞くことなどほとんどできなかった。それもあと3ヶ月で終わる。あしたから、ふたたび仕事が始まる前日に、同級生と会うことになった。
 もちろん飲酒運転がいけないことは知っている。しかし、自分はアルコールと車の運転には自信があった。そして、深夜に運転すれば問題はないだろうと考えていた。事実、ここまで眠くなることも、速度を上げすぎることもなく、安全運転してきたのだ。
 前の車のブレーキランプが光る。
 谷口も、ブレーキを踏んだ。
 前の車のドライバー側の席に懐中電灯を手にした警察官が近寄る。谷口は、その様子を瞬きをしないで見つめた。
 コンコン。
 ふと自分の窓ガラスを叩く音。そこに別の警察官がいた。複数の警察官で検問を実施していたのだ。
 たぶん、ばれる。
 谷口は、パワーウインドウを下げる。
「こんばんは。遅い時間にすいませんね。年末年始の交通安全運動を展開中なので、ちょっとご協力をお願いします」
 慇懃な挨拶だ。白いヘルメットから見える表情は穏やかだ。しかし、パワーウインドウを下げたときに車内の空気を体感した警察官の目は鋭かった。
「失礼ですが、はーっと息をはいてください。みなさんにやっていただいているんですよ。はーっとはくだけでかまいません」
 もうすぐ、ばれる。
 かつては、公立学校の教員は採用から半年間が条件付採用期間だった。それが過ぎると正規採用になる。正規採用になると、公務員としての特権が与えられ、様々な壁に守られた。しかし、いまでは条件付採用期間は一年間に延長されている。つまり、一年目の教員は触法行為や反社会的行為、信用失墜行為などをすると、採用が取り消されてしまうのだ。
 九州で市役所職員が飲酒運転で交通事故を起こし、相手の家族が死んだ。その事故以降、公務員の飲酒運転は、全国的に制裁が厳しくなった。
 たとえ、事故を起こしていなくても、飲酒運転で検挙されれば、懲戒免職もありえるようになった。まして、谷口のように採用一年目の教員は、まだ法律上正規採用の教員ではない。
 自分に対する過信が、どんな代償になるのかを、若い谷口には想像できなかった。

(ガッコー「海風」二章・終わり)

6436.7/27/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page26

1月7日・午後11時57分・四畳半

 多谷は、自宅アパートで寝ていた。
 さっきから、何度も寝返りを打つ。
 綿布団を首までかけて、天井を見上げる。古い木造アパートの天井には、角材が走り、天井板を支えている。二階なので雨戸は閉めない。カーテンの向こうには、夜の闇が広がる。
「ふーっ」
 何分も前から目が冴えた。瞼を閉じると、佐藤の姿がはっきりと浮かぶ。
 昼間の光景が目に浮かぶ。詳しいつながりはわからないが、佐藤が大きなトラブルに巻き込まれていることは感じていた。何か、自分にしてあげられることはないだろうか。彼女の苦しみを自分の力で救いたい。
「でも」
 寝つけない。
 断片的な情報をつなぐと、それは校長を頂点とする浅葉などの主流派を敵にまわすことにつながるかもしれない。そんな勇気はない。これまでの多谷は、上からの指示や指導に必ず従ってきた。躊躇も疑問もなく、従順だった。それが組織で働く教員には、最低必要条件だと信じている。だから、一匹狼のような仙田のような生き方は理解できない。だから、戦争のとき、学校は生徒を戦場に送れたのではないか。政府や軍部の命令に従う以外選択肢はないのだから、よけいなことを考える必要はない。
 これまで、先輩の佐藤に世話になったことが頭のなかに浮かんでは消えていく。なのに、自分が佐藤のためにしてあげたことは思い浮かばない。ひとのために何ができるのかを秤にかけて、自分はいつも何かをされてばかりだったことに気づく。
 佐藤は、校長や教頭に命令されて自分の面倒を見てくれたのだろうか。新採用の指導教官は佐藤ではなかった。なのに、細かいところでつまづいているといつもそこには佐藤のアドバイスが届いた。たまたま職員室の机が近かったからだろうか。それとも、もっと違った感情のこもったやさしさだったのだろうか。
 教員二年目のことし、多谷は昨年度ほど佐藤から助けられることはなくなっていた。少し成長したのかもしれない。だから、もう自分の助けはいらなくなったと考えたのか。職員室の机が遠く離れたから、多谷の仕事が見えなくなったからなのか。
「だめだぁ」
 寝つけない。
 多谷は起き上がり、布団を跳ね除け、キッチンの冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の扉に並んでいるグレープフルーツ味の缶チューハイを手にした。プルトップを引く。
 豆電球の弱い光がデジタル時計を照らしている。
「あー、もう日付が変わっている」
 げっぷ。酔えば、眠れる。あしたからこどもたちが3学期の登校を始める。仕事に追われる日々が始まる。佐藤のことは心配だが、目の前の仕事を放り出すわけにはいかない。
 自分はなんて魅力のない生き方をしているのか。空になったチューハイの缶を握り締める。

6435.7/25/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page25

 すると、丹野は鶴湯に何の相談に来たのだ。
「登校しない理由を言っていましたか」
 カマをかけた。
「それすらも知らないのか。お前のクラスのこどものことだよ。なりすましとか言ってたな」
 あっさり釣れた。
 浅葉は、こころから冷や汗が引いていくのを感じた。佐藤の件は酔っていたので、勢いだった。しかし、丹野母子については素面のときだったので、明確な意思があった。しかし、鶴湯はそのことを問題にしているわけではないらしい。
「学校が始まったらこどもたちに聞いてみますよ」
 丹野が不登校になる理由が、こども間のトラブルなら、自分は第三者の岸辺に立てる。当事者ではないのだから、着実に職務をこなせばいい。
 急に晴れ晴れしい表情になった浅葉を、鶴湯は気味の悪いものでも見るような目で眺めた。
「カルディアの件、覚えているな」
「はい」
「俺は定年と同時に再就職、お前は定年前だが勧奨退職に応じて引き抜き。そういう段取りだったな」
「そうです」
「セクハラの話や不登校の話が、先方に聞こえては困る。そうなったら、お前の件は俺は手を引く。そういうやつを向こうが採用するかどうかは、俺の判断じゃない。俺は、先方からお前の素行について訊かれたら、よけいなことは言わない。しかし、質問のなかにセクハラや不登校のことが含まれていたら、嘘はつかない。よけいなことは言わないが、質問には正しく答える」
 浅葉は、愕然とした。
「つまり、俺を売るってことですか」
 自分でも声にすごみが利いてしまったと感じた。しかし、そんなすごみにたじろぐ鶴湯ではない。
「売るとは言っていない。客が商品に関する質問をしたときには、正しく答えると言っているだけだ」
 もう勧奨退職の申請は去年の秋に済ませている。いまさら取り消すことはできない。最悪の場合は、カルディアへの引き抜きは清算されるということか。
 鶴湯は燗をあおる。
「社員がセクハラをすれば、俺だって管理能力を指摘される。そのダメージは拭えない。しかし、セクハラをした社員をかばったのがばれたら、管理能力どころか人間性が疑われる。俺の再就職までぶっ飛ぶ」
 浅葉は、悟った。鶴湯はすでに自分を切っているのだと。ならば、道連れにするまでだ。
 ちょうど、仲居が太刀魚の塩焼きを運んできた。

6434.7/24/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page24

 あの頃のことを思う。
 鶴湯は、国立大学を卒業し、親も伯父や叔母も教員というサラブレットだった。鶴湯についていけば、必ず自分も出世街道を走ることができると信じていた。だから、必死に鶴湯に近づいたのだ。
 高校を卒業して、民間企業に勤めた。ひとに頭を下げるのが苦手で、働きながら教員免許を取った。採用試験を受けて教員になった。コネも地盤も何もない。実力だけでのし上がれるほど、教員の世界は透明ではなかった。周囲を見渡したら、だれしもが派閥に所属し、だれしもがご主人様を奉っていた。
 鶴湯が校長になって、浅葉は海風小学校に転勤した。鶴湯の一本釣りと噂された。その噂は決して嘘ではなかった。
「俺の元で思い切りやりたいようにやれ」
 自分に反発する教員をほかの学校に追い出し、自分の息のかかった教員だけで固めていく。鶴湯の人事は、わかりやすいものだった。いつしか、海風小学校は、鶴湯王国になるはずだった。
 しかし、人事を担当する教育委員会は、そこまで露骨な人事を了承しない。微妙なパワーバランスを考慮する。どの派閥にも属さず、だれも崇めないで、わが道だけを突っ走ってきた仙田が配属されているのは、そのためだ。
「社長は、俺を切るんですか」
 派閥はもろい。膿がたまれば、全部が腐る。いったん膿んだ派閥は、ほかのどこの派閥でも受け入れない。傷が化膿する前に、切り捨てれば、膿は出ない。
「きょう、お前んとこのマルホが来た」
 担当クラスの保護者がマルホだ。
「すみませーん、瓶をもう二本」
 やけ気味に浅葉が注文した。仲居が空の瓶を回収しに来た。鶴湯は、眉尻を下げた。
「ご主人のブリ大根はさすがだねぇ。俺は燗をひとつ」
 仲居は頭を下げて退席した。浅葉は、ひとりで瓶ビールを二本飲まなければならない。セブンスターに火をつける。一服目の吸い込みは浅くなっていた。
「だれですか」
「タン」
 あー、丹野か。一体、何を相談しに来たんだ。
「娘が登校をしないと言っているそうだ」
 浅葉は、せわしなくタバコを吸い終えると灰皿に吸殻を押しつけた。
「なんで担任の俺に相談しないで、いきなり社長なんですかね」
「お前じゃ埒が明かないからだろ。それより、こっちはどうするんだ」
「謝りますよ、セクハラについては」
「エスのことじゃない。タンについてだ」
 一瞬、浅葉は躊躇した。鶴湯は丹野とセクハラを切り離している。

6433.7/22/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page23

 仲居が瓶ビールを二本運んできた。お通しは、ブリ大根。刻んだ生姜が三本乗っている。
 浅葉は、手近なビールを取り、鶴湯のグラスに注ごうとした。
「バカ、手酌だ」
 グラスに傾きかけていたビールの先端から、いまにも黄金の液体がこぼれそうだった。どうしたものかと悩んでいる浅葉の向かいで、鶴湯は手酌ビールをすでに飲み干そうとしていた。
 どういうことだ。俺とは縁を切るってことか。
 浅葉はいぶかった。仕方がないから、自分のグラスに注ぐ。なぜか、瓶の先端がグラスに小刻みにあたり、コンコンコンと音を立てた。
「昼間のエスの件、どういうことだ」
 エスとはアルファベットのS。佐藤の頭文字だ。教員はこどもやその家族の個人情報を知る立場にあるので、学校外に出たときは、符丁をつけることが多い。同僚に関しても同じだ。
「だから、あれは完全な誤解です」
 浅葉は、一息でグラスのビールを半分は飲んでから、炭酸ガスを吐き出すのと同時に言い放つ。
「セクハラってのはなぁ、やられた側がそう思っている限り、セクハラなんだよ。やった側がどんなに誤解だ、違うって言っても通用しない。それぐらいのこと、何度も俺が社員全体に強調してきただろ」
 社員とは教職員のこと。
「だって、あのときエスは嫌がらなかったんですよ。俺のやることから逃げなかった」
 勢いよく手酌したものだから、浅葉のビールは泡だらけになった。鶴湯は、空になったグラスを見つめた。
「ということは、お前はエスに何かをしたことは認めるんだな」
 しまった、誘導か。そう気づいたときには遅かった。
 セクハラのような処分につながる行為は、やったかやらなかったかのどちらしか存在しない。やっていればアウト、やっていなければセーフ。どういうふうにやったかは問題ではない。
「エスは、お前に謝ってほしいと言っている。それさえすれば、上に訴えるとか警察沙汰にするとかは思っていないらしい」
「考えさせてください」
 鶴湯は、鼻からため息を出した。
「勘違いするな。お前は何も考えてはいけないんだ。ひたすらエスの納得がいくように謝るしかないんだぞ。偉そうに答えを留保する立場じゃないんだ」
 浅葉は若いときから、鶴湯とともに働いてきた。鶴湯がヒラのときには同じ研究部に所属して、気に入ってもらうために、お茶汲みから印刷物の用意まで何でもした。教頭になったときには、違う学校だったが、盆と正月の届け物は欠かしていない。鶴湯が主宰した個人的な教育セミナーにも自腹を切って参加した。セミナーのなかみは理解できなかったが、鶴湯の愛弟子のひとりになった。

6432.7/20/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page22

1月7日・午後7時・料亭「網元」

 海南駅は、駅前にタクシーとバスのロータリーがある。
 昔からあまり広くない場所に駅ができたので、一般車両がロータリーに入ると、たちまち混雑してしまう。ロータリーには、何本かの乗り入れ道路がある。そのなかでもっとも幅が広いバス道路は、海南市役所に通じる。市役所通り商店街は、その道路に面して広がる。ちょうど、市役所の正面に道路をはさんで、料亭「網元」がある。
 紺色の布に、白い文字で網元と染め抜かれたのれんが風に揺れる。
 重厚な引き戸を、校長の鶴湯が開ける。後ろから、硬い表情の浅葉が続く。
「いらっしゃい」
 屋久杉を使った一枚板。その向こうで主人が客を迎える。一枚板に面した特等席は、10席ほど。ほかの客は、座敷かテーブルになる。
「エビスビール、あります」
 壁に貼られたポスター。その下に雑誌の切抜きが貼ってある。鶴湯は目を凝らした。そこには、「湘南の幸を豊富にそろえた鮮魚専門店特集」と書かれた記事があった。いくつかの料亭や居酒屋が写真つきで紹介されている。はてな印のマジックインクブラックで、乱暴に囲みのついた部分に、網元の紹介があった。
 まだ松の内だというのに、網元は混んでいる。
 鶴湯は、主人に指を二本出して、二席を依頼する。
 主人は、軽くうなずいて、仲居の女性に席の用意を指示した。
「お二人様。こちらへどうぞ。いつもお世話になっています」
 割烹着を着た年配の仲居が鶴湯に頭を下げる。地元で長い期間教職を続けていると、すっかり飲食店の従業員や経営者には顔を覚えられてしまう。先日、学校の忘年会でも、網元を利用させてもらったばかりだった。その忘年会で部下の浅葉が、羽目を外した。
「できれば、あまり人の声の届かない席がいいんだが」
 鶴湯は、小声で仲居に言った。
「いつも先生にはごひいきになっているので、大丈夫ですよ。ご心配なく」
 案内された席は、テーブル席だったが、ほかの席とは衝立で仕切られていた。しかも、店のなかでは隅に位置していたので、テーブル近くをほかの客が通り過ぎることはなかった。
 4人がけのテーブルに向かい合って、鶴湯と浅葉は座った。熱いタオルを仲居が渡してくれた。鶴湯はそれで顔を拭う。浅葉もそれにならう。タオルの蒸気が、乾燥気味の鶴湯の皮膚にうるおいを与える。
「お飲み物は何から始めましょうか」
「瓶ビールを二本、料理は焼き物をお任せで頼むよ」
「かしこまりました」
 仲居は、注文を反芻することも、ポータブルな機械に打ち込むこともせずに、その場を離れた。
 まだテーブルには、温度の下がった濡れタオルしかない。
 浅葉は、内面の揺れをカモフラージュさせるために、背広の胸ポケットからセブンスターを取り出した。楊枝入れのとなりにあった網元と印字されたマッチで火をつける。一服目を深く吸い込み、天井向けて煙を吐き出した。拡散された煙の粒子が、少しずつ渦を作り、重力で落下し始め、向かいに座っている鶴湯を取り巻いた。そこには、腕を組んで目を閉じた不愉快ではじけそうな表情の管理職がいた。

6431.7/19/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page21

 幸は、娘の雪が、考えていたことを知らなかった。夫婦が離婚し、妻が一人娘を引き取った。生活の支えについては、離婚の際に協議して決めた。
 雪がまだ小学校に入る前だった。
 だから、12歳になった雪が、友人関係で悩み、ひとりでもがき苦しんでいたことを知ったとき、いじめ問題を解決すれば、雪の苦しみは消えると思った。これまで、誕生日やお正月、大晦日や進級の折に、幸は雪に「いつもお母さんは働いているから、雪の面倒を見れなくてごめんね。でも一生懸命働いて、雪を幸せにするからね。だから、雪も寂しいことがあるかもしれないけど、がんばって」と告げてきた。そんな励ましが、雪には押しつけになっていたとは気づかなかった。
「雪ちゃんが、つらかったとき、気づけなくて、ごめんなさい」
 幸の頬を一筋の涙が伝った。雪は顔を上げた。
「わたしは、もう学校に行かないって決めた自分をえらいと思っているんだ」
「どうして、学校に行かないのがえらいの」
「学校に行かないのがえらいんじゃなくて、死にたくなるほどつらいことがあったのに、死んじゃうことを選ばないで、生きることを選んだ自分がえらいと思っているのよ」
「学校に行くのって、そんなに死ぬほどつらいことなの」
「学校に行くのがつらいんじゃないんだよ。海風小学校の6年1組で起こっていることが、わたしにとっては死ぬほどつらいことなの。それなのに、お母さんはわたしが決めたことを間違いだと思っているみたい」
「だって、勉強とか、お友だちとか、お別れ遠足とか、どうするつもりなの」
 ふっと、雪が口の端を上げる。
「やっぱりね、本音はそこでしょう。死にたくなるほどつらいことがある教室で勉強なんかしても、身につかないと思わないの。そんな教室で友だちなんかできないよ。遠足なんか行ってもひとりぼっちに決まってるじゃん」
 それでも、幸は雪が心配でならない。
「じゃぁ、お母さんはどうすればいいのかしら」
「きのうだって、わたしがお母さんに校長先生に相談してって頼んだわけじゃないのに、勝手に行ったでしょ。どうすればいいのって言いながら、自分ではしたいことは決まっている。勝手にしていいわ。でも、わたしはいっしょに行かないからね」
「雪ちゃんは、この先、どうするつもりなの」
 雪は、初めてやわらかな瞳をした。
「そんなのすぐにはわからない。でも、時間をかけて、考える。考えたら、行動する。困ったら、だれかに相談する。自分のことを嫌いにならないうちに、あんないやなひとたちの集団から離れることを決めた自分が、いまは誇らしいんだ」
 幸は、手の甲で頬の涙のあとを拭った。
 雪は、母親がどんなに心配しても、これからは自分で決めたことを優先しようと決めていた。ただ、きょうみたいにこれからは、自分の気持ちをしっかり話してから、行動しようとも思った。大事なことを、きちんと話すのは、気持ちがいいと感じたからだ。

6430.7/18/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page20

1月7日・午後6時・丹野邸

 海辺の町、海風町には日没のぎりぎりまで太陽の光が注ぐ。それでも、この時期の午後6時には、あたりはすっかり暗くなる。民家もレストランも照明をつける。
 丹野雪は、自分の部屋にいた。二階の部屋の窓には、相模湾が見える。シャッター式の雨戸はまだ閉めていない。レースのカーテンも開いたままだ。その大きな窓にぴったり寄せたベッドの上で、雪は波を見ていた。照明のスイッチは入っていない。わずかな外の光が、雪の顔を照らしている。
「入るわよ」
 有無を言わさず、母親の幸が入室した。雪は微動だにしない。
 窓の外にからだを向けている雪。その後ろに幸が立つ。
「きのう、校長先生に相談して、少し気持ちが落ち着いたかしら」
 雪は、母親の言葉を無視した。頭のなかには、校長の鶴湯の声がよみがえる。
「気にすることはないよ。ともかく学校に来れば、ほかに友だちもいるから。あとは、先生たちが何とかするからね」
 こいつじゃだめだと、確信した。
「ねぇ、雪ちゃん。校長先生もああ言ってくださったし、まだ心配なことでもあるの」
 こいつもだめだと、雪は背中の母親を見下し始めている。
「なんなら、あした学校に行くときに、お母さんもいっしょに行って、浅葉先生に相談してもいいのよ。担任の先生なら、クラスのこともわかっているし、問題の解決も早いんじゃないかしら」
 雪は、ゆっくりからだを幸に向けた。少し、幸があごを引いた。
「わたしは、いま、ものすごく、すっきりしているの」
 幸はまばたきをした。雪の言っている意味がわからない。
「ど、どういうこと」
「あの子たちに仲間はずれにされて、陰で笑われて、馬鹿にされて、苦しかった。悲しかった。死んでしまいたいと思った。どうして、わたしだけが、こんなひどいことをされなきゃいけないのって」
 雪は涙を流していない。幸の目頭が熱くなる。
「だから、もうあんなところに行かなくてすむって思うだけで、嬉しいのよ」
「そんなぁ」
「きっと、お母さんはわたしが学校に行かなかったら、ずっとこの部屋にいて、勉強しないで、バカになって、運動しないから太って、わがままになって、そんなの困るから、学校に行ってほしいんでしょう」
「じゃぁ、なんで学校に行けって言うのよ」
 雪の言葉に力がこもった。幸の眉間に皺が寄る。
「言っておくけど、お父さんがいないこととは関係ないからね。すぐにお母さんは、そのことを持ち出すけど、わたしには関係ないことなんだから、わたしに努力させようとしないでほしい。この家に住めるのは、別れても、お父さんがローンを半分支払っているからでしょう。残りをお母さんが働いて払うのは当然じゃないの。自分だけが不幸者みたいな言い方は、もう聞きたくない」