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6429.7/17/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page19

1月7日・午後4時・山尾小百合のアパート

 河鹿は、ドアのノブに手をかけた。
 鍵はかかっていない。ノブはかんたんに回り、ドアは開いた。
「山尾さーん。海風学級の河鹿でーす」
 近隣に、自分が不審者ではないことを知らせるために、わざと大きな声を出す。家庭訪問の基本原則だ。
 部屋のなかには、ひとの気配はなかった。タバコと酒と、醤油のにおいが残っている。河鹿の鼻がもっとよければ、それにカビの臭いも追加されているはずだ。
「やっべー」
 親がいないことは、この際、どうでもいい。
 こどもがいないことが問題なのだ。
 家族全員がいない。一般的には、家族で食事や買い物に行ったと想像できる。しかし、山尾の家に限ってそれは考えられない。
 母親は、化粧と装飾品で着飾って朝から、夫以外の男の元へ。
 父親は、統合失調症と戦いながらも、薬や酒におぼれる生活。
 一人娘の小百合には、脳の発達障害がある。
 日本社会には、この家庭を救う手立てがない。生活保護は、子育てに使われているとは思えない。療育保護ですら、酒や化粧品に消えているのだ。
 しかし、事件にならない限り、警察も児童相談所も、こどもを親から隔離しない。憲法や法律が、親権を厳しく保護しているからだ。勝手に親権を損ねるようなことをすると、裁判になったときに面倒だ。
 児童虐待で、幼児やこどもが親に殺される。メディアは「どうしてもっと早く学校や児童相談所が対応できなかったのか」「日常的な虐待を知っていたのに、学校や児童相談所は問題を放置した」と騒ぎ立てる。
 ふん。
 河鹿は、小百合を探すために、コーポ・オーシャンの階段を降りた。降りながら、そういうメディアの偽の正義に鼻を鳴らす。家族のことに、行政権力が介入することを、法律でカバーするよのなかを作ってから、文句を言えと。
 学校では、仙田から佐藤の一件について探りを入れるように指示された。
「そもそも、あれは仙さんが比翼さんに質問されたことなのに」
 佐藤の様子がおかしくないかと仙田が聞かれたのだ。
「そういうことには、俺は興味がないから、こいつを使ってください」
 比翼は、河鹿に同じ質問をすることになった。
「きょうきたばかりのボクには、どういうことかわからないけど、やってみるだけやってみます」
 言ってしまったのだ。ちょっと探ればわかるだろうと思っていた。しかし、職員室に行ったら、佐藤はおろか、教頭もいない。午後になっているというのに、ふたりとも戻ってこない。待っていてもしょうがないから、小百合の家庭訪問を先に片づけることにした。
 そうしたら、小百合もいなかった。
「あー、あしたから学校が始まるというのに、みんなどこに消えやがった」
 大きな独り言になった。

6428.7/13/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page18

1月7日・午後2時・廊下

 多谷宗平は、朝から佐藤の様子が気になっていた。
 職員室で初めて顔を合わせたときから、佐藤の表情に血の気がないことを感じていた。
 多谷は、23歳。教員になって2年目だった。ことしは5年生を担任している。去年、新採用で右も左もわからないとき、何度も先輩教師の佐藤が助けてくれた。
 ふたりきりで、ゆうひで夕飯を食べたこともある。
 30歳の佐藤にしれみれば、多谷は弟よりも若い存在だった。だから、きっと男性として意識するよりも、大きな男の子のような距離だったのだろう。しかし、多谷にとっての佐藤は、単純に同じ職場の先輩教師とは思えなくなっていた。7歳という年齢差は、佐藤をとてもおとなにしていた。どんなことでも頼りになり、女性としての魅力も十分な存在だったのだ。
 だから、2学期の終わりに冬休みに入るとき、何度も年末年始のプライベートな時間をいっしょに過ごしたいと願った。もしかしたら、佐藤から誘いがないかと期待した。
 しかし、そんな期待ははかなく消えた。どんなに待てど暮らせど、佐藤から多谷に連絡はなかった。年賀状さえなかった。
 失恋にもならない。一方的な思い。それが好意なのか、恋なのか。コーイなのか、コイなのか。一本、棒があるかないか。悶々としながら、きょう出勤して佐藤に会えることを意識していた。
 だから、佐藤のほんの少しの変化にも敏感だったのだ。
 いったいどうしたのだろう。午前中、職員室で事務仕事をしていても、多谷は何度も佐藤を盗み見てばかりいた。とくに10時ごろに校長室に入っていったときは、注視した。しばらくして泣きそうな顔で校長室から佐藤が戻ってきたときには、抱きかかえて「何があったんですか。話してください」と行動しようかと思った。
 しかし、多谷にはそれができない。周囲の目が気になる。教頭や校長に変に思われたくない。探偵のように、佐藤の行動を追跡した。女子更衣室にこもったので、男子更衣室に入った。男女の更衣室は、もともと同じ部屋の真ん中についたてを壁にしただけの構造だ。声は筒抜けになる。
 息を殺して、女子更衣室の様子をうかがう。やがて、多谷の耳にはっきりと、佐藤のすすり泣く声が聞こえてきた。ときどき嗚咽も混ざった。理由がわからない多谷は混乱した。自分がどうすればいいのか、判断できず、ただひたすら佐藤の悲しみを感じていた。そのうちに、だれかが女子更衣室に入った。
「佐藤さん、どうしたのかな」
 聞いたことがある声だった。たしか、海風学級の比翼さんの声だ。
 しばらくすると、比翼が出て行く。次に、明らかに更衣室に飛び込んできたひとの音。
「何があったの」
 大きな声。教頭の声だ。
「こんなところで泣いていたらだめ。行きましょう」
 ドアが閉まる音。となりの部屋からひとの気配が消えた。多谷は一部始終を聞いていた。全身を耳にして聞いていた。しかし、何もできなかった。しなかった。
 だから、比翼に尋ねてみようと思って、海風学級に足を運んだ。開け放たれたドア。なかから、仙田や河鹿、比翼の話し声が聞こえた。
 ここでも、多谷は廊下で聞き耳を立てていた。

6427.7/12/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page17

 仙田は、けさ、山尾小百合の家庭訪問をしたときの様子を話した。
「仙さん、ゲーセンで中学生に暴力を振るってきたんですか」
 河鹿には、自分の担当しているこどもの身の危険よりも、仙田が中学生にしたことのほうが気にかかるらしい。
「暴力なんて大げさだよ。ちょいと指の関節を外してあげただけ。すぐに元通りにすれば、一ヶ月ぐらいですぐに治るって」
「そんなことして、警察や教育委員会に親が文句を言ったらどうするんですか」
「どうするもこうするも、あんなやつらの親が文句を言えた義理かって、逆襲してやるよ」
 比翼が、空になった仙田の湯飲みに急須を傾ける。
「家に連れて帰った後は、どうしましたか」
 さすが、カゴちゃんは、大事なところを押さえてくれる。河鹿を横目で睨む。
「相変わらず父親が口の端からよだれをたらして寝ていたよ。一応、頬を張ってたたき起こし、小百合を届けてきた」
「頬を張ってって、仙さんはお父さんをビンタしたんですか」
 河鹿は、目を丸くしている。
「どうして、お前はそうやって、自分に理解しやすいように、言葉を置き換えるんだ。ビンタじゃねえよ。寝ている父親を起こすために、頬を手のひらではたいたの」
「そ、そ、それをビンタっていうんじゃないんですか」
「ま、どうだっていいや。それより、準備が終わったら、お前、当然、午後は小百合んとこ、見てこいよ。あの様子じゃ、母親は遅くならねえと帰ってこない。きっと小百合はまたふらっと家を出てしまう」
「もちろん、行きますよ。でも、またいなかったら、どうすればいいでしょう」
「あほ、探すに決まってんだろ、ここで考えろ」
 仙田は、人差し指をこめかみにあてる。
 休憩を終えようとした。比翼が、お盆に三つの湯飲みを乗せている。
「わたし、ちょっと気になることがあるんだけど」
 比翼が、仙田にからだを向ける。
「ん」
「仙ちゃん、きょう、職員室で佐藤先生に会ったかしら」
「あー、3学期も拓郎の交流をよろしくって、挨拶ぐらいはしたよ」
「そのとき、佐藤先生に何か変わった様子はなかった。というか、何かを仙ちゃんに相談しようとしていなかったかな」
 仙田は、思い出そうとした。
「きのうだったかなぁ、ゆうひで飯を食っているときに、教頭といっしょにいたのが佐藤さんだった気がする。あのときは、なんか深刻そうだったけど、さっき会ったときは、普通だったような」

6426.7/10/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page16

 結局、河鹿はポポンSの空瓶を5つ用意し、ふたに1から5までの数字を書いた。
 次に、大きさの同じビー玉を15個用意し、小さな巾着に入れた。
 このセットは、クリアケースには入らないので、金属の缶を用意して、そのなかに入れた。ふたにはマジックで「かぞえていれます」と書いた。
「わーい、できたできた」
 河鹿は、新しい数量マッチング教材を小百合のかごに入れた。
「実際にやってみて、うまくいかないときは、わかってんだろうな」
「はいはい。悪いのはこどもではなくて、指導方法か教材そのものだから、改良を重ねるんですよね」
「合格」
 海風学級の職員室には、流しやガスコンロがある。さっきから掃除をしていた比翼が、沸騰したやかんのお湯を大きな急須に注いでいた。
「少し休んでお茶にしましょう」
 仙田は、こどもの机を3つ合わせて、即席休憩所を作った。
 河鹿は、米どころ庄内平野の濃い口醤油せんべいの封を切る。
 教室内に、緑茶とせんべいの香りが広がった。
「いただきます」
 仙田は、比翼に礼を言う。
「きょうって、カゴちゃんは休みじゃないのかな」
 比翼の名前はカタカナのカゴメだ。
「そうそう、きょうはボランティアよ」
「申し訳ないなぁ」
 仙田と比翼におかまいなしに、ばりばり音を立てて、河鹿がせんべいを食べている。
「拓郎くんと小百合ちゃんは、どうしているかしら」
 湯飲みを両手で包み、比翼がふーっと湯気に息を吹きかける。
「けさ、家庭訪問してきました」
「仙さん、はふがでふね」
 せんべいが口の中にある河鹿の日本語はあやしい。
「拓郎は、ひとり、こたつで寝てました。小百合がやばくて、町で保護しました」
 え、ゴホゴホ。せんべいで誤嚥するのは、かなり苦しい。河鹿の目が充血する。
「保護って」
 比翼が、心配そうに眉間を寄せる。

6425.7/7/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page15

 河鹿は、画用紙や工作用紙が収納されている棚から、色の違う紙を数枚取り出した。鍵をかけ、ふだんこどもが開けられない棚から、はさみとのりを探す。
 自分用の指導に使う事務用品が入っているかごから、ボールペンと定規を抜いた。
「さてと、準備はできました」
「お前、数量一致って、そもそも小百合のレディネスはどうなってんだよ」
「とりあえず、1から5までは数えられます」
「下りは」
「5から1までも、間違えません」
「序数の唱えは5まで理解しているってことだな」
「おそらく」
「あほ、担当がおそらくじゃ、だれが評価するんだよ」
「たまーに、3と4が入れ替わります」
「不完全だな。同時平行するしかないな」
「了解」
「数唱(数を声に出して言うこと)するときに、数字とマッチングさせているか」
「春からやってきました」
「マッチングはできているのか」
「まぁ、ほぼ」
「なんだか、あやしいなぁ」
 マッチングとは、一致のことだ。声に出して「いち」と言いながら、1と書いてあるカードを手にする。これが間違いなくできると、脳は1という数字と「いち」という音を一致させる力をつけたことになる。「いち」と言いながら、5のカードを手にしたら、まだマッチングは成立していない。間違えても怒らずに、何度も正しいやり方を教えていく。間違いを放置すると、マッチングは成立しない。必ず正しいやり方を教えなければいけない。
 河鹿は、そのあたりの手を抜いていると、仙田は見破る。
「量の具体物は何を使うつもりだ」
「画用紙を丸く切り取ろうかと思います」
「そんなのつまんねぇよ」
「出たぁー、仙さんのつまんねぇー理論」
「お前、この道に入って三年も経っているんだから、そろそろこどもがワクワクするような具体物を考えろ」
「そんなことを言っても、思いつかないんです」
「おはじき、ビー球、ビーズ、マグネット、サイコロ、ピンポン玉。俺なんか、瞬間的に、こんだけ思い浮かぶぞ」
「恐れ入りました」
「感心してないで、考えろ」
「じゃぁ、麦チョコなんてどうですか」
「お、なかなかいいじゃん。あれはいいねぇ」
「当たりですか、買ってきますよ」
「でも、あれはダメだ」
「えー、どうしてですか」
「やったことがある。ほぼ、間違いなくこどもたちは喰っちまうんだよ。マッチングに持っていけないんだ」

6424.7/4/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page14

1月7日・午後1時30分・海風学級

 仙田は、ロッカーの中から洗濯物を入れるかごを取り出す。プラスティックでできたかごには、仙田が担当している雑賀拓郎の勉強道具が入っている。
「百均で、クリアケースが大量にあったから、まとめて買っといたぜ。棚にあるから、自由に使っていいよ」
「助かります。ありがとうございます」
 観音開きの棚から、河鹿がクリアケースを取り出す。
 特別支援学級では、教科書にそった学習をしなくてよい。脳の発達に特徴のあるこどもたちが在籍している学級なので、それぞれの成長にあった学習をすることが、法律で認められている。
 だから、逆に言えば、教科書のように使いまわしのできる教材がない。いつも、自分が担当するこどもに応じた学習を計画し、それに必要な教材を用意しなければいけない。これを怠ると、こどもは何をしていいかわからなくなり、一日を無駄に過ごすことになる。
 仙田は、かごのなかに拓郎の教材を6つ用意してある。文字、計算、ひも、磁石などのオリジナル教材が一つずつクリアケースに収納されている。
 だいたい同じ教材を三ヶ月継続し、習得が見られたら、内容を発展させる。反対に、三ヶ月経っても、変化がなかったら、ばっさり捨てる。こどもには不向きな教材だったということだ。無駄な三ヶ月を過ごさせてしまうので、教材作りは重要だ。
 それを、三年間も河鹿に指導しているのだが、なかなかしみこまない。すぐに「仙さん、なんかおもしろいネタありませんか」とひとを頼りにする。
 毎年、新採用の何割かがこころを病むという。
 教員全体の何割かも、こころを病んで休職するという。
 周囲の期待に応じようとする気持ちが強すぎる。主張の強い親や指導の入らないこどもを担当すると「こんなはずじゃない」と頑張りすぎて、疲れ果てる。
 だから、河鹿のように、適当に息を抜き、適当にやる気を持っている程度がちょうどいいのだろうと、仙田は思う。
「小百合に、5までの数量一致を始めようと思うんですけど、どんな教材がいいでしょうかね」
「少しは自分で考えろ」
「でも、俺があれこれ考え、ちまちま作り、仙さんに見せ、合格印をもらったのって、この三年間で片手もないんですよ。だったら、始めから聞いちゃったほうが時間の短縮になると思うんですよね」
「たしかに、お前はセンスがないからなぁ」
「あれ、そういう言い方は傷つくなぁ」
「こんな無駄話してないで、さっさと作ってみろ。少しはヒントをやるよ」

6423.7/3/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page13

1月7日・午前11時45分・ゆうひ

 仙田は、カウンターでノンアルコールビールを飲んでいた。
「仙ちゃん、ってことは、午後も仕事なの」
 ゆうひのマスター、地久淳がランチメニューを盛り付けている。きょうは、妻の桜が厨房に入っている。
「残念ながら、そういうこと」
 細長いグラスに注いだノンアルコールビールを一気に半分飲み干す。
「でも、見た目にはビールみたいじゃん。どう?酔える?」
「わけ、ないでしょ」
 仙田は、カウンターの端から折りたたまれた新聞を取る。社会面を開く。
「奈良県で、5歳の男児が、母親に暴行されて死亡」
「千葉県で、4歳の女児が、継父に暴行されて死亡」
 いきなり虐待事件のニュースが目に飛び込む。
 けさ、早い時間に海風学級に在籍しているふたりのこどもの家庭訪問をしてきた。結果的には、どちらも生きていた。しかし、両方とも明らかに親の育児放棄状態だった。
「ネグレクト」
 ぼそっとつぶやいた言葉を、淳が耳にした。
「ネックレス?だれかにやるわけ」
「あほ、そんなひとがいたら、とっくに紹介してるよ」
「そりゃ、そうだ」
 ドアが開いた鈴の音がした。
「あけましておめでとうございます」
 河鹿蛍。25歳。男性。仙田といっしょに特別支援学級「海風学級」の担任をする。大学を卒業してすぐに教員採用試験に合格。新採用から特別支援学級の担任という異例の赴任だった。
「仙さんもいたんですか」
「いたんですかじゃねえだろ。6日から出ろって、言ってあっただろうが」
「あれ、そうでしたっけ?」
「これだもんなぁ」
 河鹿は、悪びれる様子もなく紙袋を淳に差し出した。
「きのうまで、実家に帰っていました。これ、お土産です」
「ありがとう、お、山形の銘酒だね」
 河鹿の実家は山形の寒河江だ。
「仙さんこそ、昼間っからビールなんて飲んでて、余裕ですね」
 仙田は、河鹿の頭をはたく真似をする。
「余裕があったら、本物を飲んでるよ」

6422.6/29/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page12

1月7日・午前10時30分・女子更衣室

 その部屋は、扉がしまっている。
 それでも、廊下には、部屋のなかから嗚咽が漏れてきた。
 ドアノブに手をかけた比翼は、わざと音を立てて、ノブを回した。
「入るわよ」
 きょうは、出勤日ではない。だから、何時に学校に来ても問題はない。しかし、昨晩、教頭の井桁から佐藤の話を聞き、心配になっていた。
 特学「海風学級」の介助員として、教材の準備やおとなの茶菓子の補充をする名目を思いついた。
 女子更衣室は、縦長のスチール製のロッカーが壁に並んでいる。もっとも奥に窓があるが、スリガラスで外からは見えない。ひとが着替える空間はあまり広くない。介助員の比翼のロッカーは、扉に近いところだ。
 窓の手前のベンチに、佐藤が座っていた。
 ハンカチで目頭を押さえ、上下する横隔膜を必死にこらえている。口を真一文字に結び、声や息を漏らすまいとしているのだ。
 比翼は、事情を察している。しかし、佐藤は自分のことを比翼が知っているとは思っていない。一般的な対応をするのが自然だ。
「佐藤さん、大丈夫かな」
 どうしたのとは、聞けなかった。
 佐藤は、顔を比翼には向けないで、二度頭を上下させた。
 比翼は、着替えをする。それ以上のことを尋ねるのは残酷だ。静かに更衣室を出た。向かうのは職員室。
 教頭の井桁を呼ぼう。呼ぶしかない。
 11時が近づいていた。職員室には限られた職員しかいない。多くの職員は、それぞれの持ち場で、あしたからの3学期開始に備えた準備をしているのだ。
 教頭の井桁は、職員室の端にある自分の机でパソコンに向かっている。
「あれ」
 職員室に入ってきた比翼を見て、井桁が小さく驚く。眉間に皺を寄せて、唇だけで「どうしたの?」と聞く。
 比翼は、いったん自分の執務机に座る。ピンクのポストイットを取り出してボールペンでメモを取る。それを手のひらに包み、井桁のパソコンのモニターに貼り付けた。
「すぐに更衣室へ。佐藤さん、あぶない」
 メモを読んだ。井桁はあわてて立ち上がった。急にスチール製の回転椅子を引いたので、背中側にある壁に椅子がぶつかった。その衝撃音が職員室に響く。
 反対側の壁際に魔法瓶が置かれている。小さな声で話していた校長と浅葉が、驚いて教頭を見た。しかし、大したことではないと気づき、再び内密の話を続けた。
「だから、それは誤解ですよ」
「そういうわけにはいかないだろ」
「謝ればいいんだよ」
「なんで、誤解なのに、謝る必要があるんですか」
「ここじゃ、埒が明かない。続きは、今夜、網元な」
 席に戻った比翼の耳に、ふたりの声をひそめたはずの会話が届いていた。

6421.6/27/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page11

1月7日・午前9時30分・海南駅周辺

 海南駅周辺の繁華街を一周した。
 仙田は時計を見る。すでに勤務時間帯だ。家庭訪問をしてからの出勤は事前に井桁に伝えてある。やや遅れての出勤を井桁はどう読むだろうか。
 河鹿の野郎。きょう来てなかったら、ただじゃおかねぇ。
 仙田が探している山尾小百合は、そもそも河鹿が担当しているこどもなのだ。
 ふっと、視界の片隅にショートヘアの小百合が映った。どこだ、周辺を見渡す。昔からのゲームセンターだ。自動ドアが開いた瞬間に、なかにいた小百合の姿が見えたのだ。
 仙田は、小走りでゲームセンターの自動ドアを抜けた。店内には、コンピュータゲームの電子音が響き渡る。タバコの煙が充満している。小百合は、コインを使って遊ぶ競馬ゲームを見ていた。周囲に、私服を着ているが、明らかに中学生と思われる男が2人いた。ひょろりと背が高い長髪と、小太りで背が低い短髪だ。仙田は、迷うことなく小百合の後ろから近づき、左腕の二の腕をつかんだ。小百合は、びっくりした顔をしたが、声は出さなかった。ゆっくり振り返ると、仙田の顔を認めた。
 こんなところで、センセー、何をしているの。
 あどけない瞳がそう語っている。
「帰るぞ」
 あまり強い調子にならないように配慮して、仙田は小百合に告げた。うん、こくりと小百合はうなずく。
「おっちゃん、待ちなよ」
 短髪が、いきがって仙田の前に立つ。タバコをくわえたままだ。仙田は、唇の端をちょっと上げて、いきなり短髪の口からタバコを引き抜き、右目一センチ手前に火種を近づけた。
 うぉ。短髪のまつげがちりちりとこげた。
 競馬ゲームに興じていた長髪が、椅子から降りた。
「俺のダチとスケに用があんのかよぉ」
 背の高さは、仙田よりも高い。右手の人差し指を突き出して、仙田の左肩を突こうとした。
「甘いな」
 仙田は、長髪の人差し指を左手で握り、そのまま体重を上から下にかけた。一瞬のことだった。ポキッ、人差し指の第二関節が外れる音がした。
 ぎゃぁ、長髪は床に転がった。
 目が見えねぇと叫び続ける短髪と、骨が折れたと泣きじゃくる長髪を背にして、仙田は小百合の腕をつかんでゲームセンターを出た。小百合は、何が起こっているのか、これから何が起こるのか、まったく興味がない表情のまま仙田に腕をとられていた。
 駅のロータリーに来た。仙田は腕を放した。やや後ろを小百合が歩く。
「ひとりで駅に来ちゃ、いけない」
「はい」
 背中で、小百合の明るい声が聞こえる。
「あしたから学校に来ます」
「はい、はい」
 さっきよりも明るい声が聞こえた。

6420.6/26/2010
ガッコー「海風」第二章 ..page10

 話し終えたとき、佐藤の頬にはいく筋もの涙のあとができていた。
 それをハンカチでぬぐう。
 鶴湯は、深くため息をついた。
「浅葉先生には、困ったものです」
 その言葉を聞いて、佐藤は、校長も力になってくれると思った。完全に涙をぬぐって、ハンカチをポケットにしまう。
「あしたから、3学期が始まりますが、何もやる気が出ないんです。正直なところ、あしたの朝、出勤しようと思えるかどうかもわかりません」
 これは、正直な気持ちだった。助けを求めようとしているのではない。本当に、何もやる気が出ないのだ。
 鶴湯は、腕を組んで、姿勢を正した。
「わたしから、浅葉先生には二度と同じことをしないようにきつく指導しておきます。だから、佐藤先生は、何も心配しないで、あしたからの仕事をお願いします」
 きのう、教頭の井桁は、気持ちが落ち着くまで休んでもいいと心配してくれた。しかし、あともう少しで今年度が終わるというのに、ここで仕事を休んだら、クラスのこどもにも親にも迷惑をかけるから、それはできないと佐藤は拒んだ。だから、校長の言い分はわかる。
「わたしは、浅葉先生にきちんと謝ってほしいんです。きっと先生は、わたしが苦しんでいることを何もわかってないんだと思います。だから、忘年会から何日も経つのに、一言も謝罪の言葉はありません」
「そうですか。ま、そこんとこも含めて、きちんと指導しましょう。だから、安心してください」
 佐藤は、立ち上がり、校長に頭を下げた。
 校長の鶴湯も、立ち上がる。
「一応、確認のためですが、佐藤先生は一方的にセクハラみたいなことをされたんですよね」
 少し、気持ちが明るくなっていた。その気持ちが一気にどよんと闇に包まれた。
「どういうことですか」
口調が厳しくなってしまったことに、佐藤は気づいた。
「いえ、気にしないでください。ただ、浅葉先生にも言い分というものがあると思うので、聞いてみたら、微妙なところで佐藤先生のお話と食い違うところがあるかもしれないとね」
 拳をぎゅっと握り締めた。
「もしも、浅葉先生がそんなことをしていないと言ったら、それを信じるということですか」
「何もそんな極端なことは言ってないでしょ。ま、落ち着いて、大丈夫、大丈夫」
 何が大丈夫なのか、佐藤にはわからなくなった。
「失礼します」
 もう一度、頭を下げて、鶴湯に背中を向けた。