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過去のウエイ

6379.4/3/2010
学校の引越し ..story 3

 2月に入り、引越し業者が大量の段ボール箱を持ってきた。
「これに入るものは、なるべく入れきってください。どうしても入らないものは、備え付けのシールを貼ってください」
 備え付けのシールとは、プレハブ校舎のどこに運ぶかを示したものだ。校舎ごと、階数ごとに色分けされたシールだ。特学の場所は、黄緑の場所にあったので、わたしたちは、大量の段ボールとともに黄緑色のシールもたくさんもらう。
「段ボールに入れるったって、まだ授業をやってんだぜ。授業で使うものが学校にあるのに、それらを段ボールに入れたら、授業ができないじゃん」
 業者の説明を代弁する管理職。堂々と管理職に文句を言う者はいなかったが、多くの職員は管理職のいないところでため息をつく。
「それにさぁ、本って、たくさん集めるとものすごく重いぜ。なのに、あの段ボールに入れきってしまうほど詰めてもいいのかな。業者のひとは慣れているから、重くは感じないのかな」
 学校には本がたくさんある。わたしたちは、経験から、本がとても重いことを知っている。
「しらねぇよ。管理職がああいうんだから、ともかく詰めちゃおう」
 組織としては、末期症状。下の者が思考を停止し、上の者にたてつかない。建設的な議論など生じる余地がなくなる。童話「はだかの王様」と同じ。
 特学では、2月に段ボールを渡されても、日々の学習に使うものをしまうことができなかった。だから、ふだんあまり見たことのないような戸棚の奥のものをしまうことにした。特学の開設から20年以上も経過しているので、棚の奥に入れたきり、使っていない無駄なものがかなりあったのだ。当然、そのなかにも、紙芝居や教科書、ドリルなどの書籍類がたくさんあった。
「まったく、こんな無駄な予算の使い方をしないで、介助員さんや学生ボランティアのひとたちの人件費にまわしたほうが、ずっとずっと有効なのに」
 議会を通過した予算は、名目予算と言って、使い道まで決まっている。だから、どんなに金があまっても、ほかの名目には流用できない。かといって、年度末にお金を残すと、翌年の予算がつかなくなる可能性があるので、何が何でも使い切って帳尻を合わせる。民間では考えられない無駄をしているのだ。そういう無駄をしないで、いったん残ったお金を業者にあずけて、年度を越えてから、自由に使えるお金としてプールする考え方が広がっている。しかし、これは最近ではメディアで「不正」の烙印が押されてしまった。プールしたお金を、職員が個人的に使ったケースが発覚したのだ。いくらなんでもそれはまずいだろうと、わたしでも感じる。
 3月中旬、業者から引越しの連絡が入る。
「3月27日と28日の二日間をかけて集中的に引越しを行います。どういう順番で行うかは、この予定表を見てください」
 業者の説明を、いつも管理職は代弁する。
 手元にカレンダーがあれば見てほしい。3月27日は土曜日、28日は日曜日だ。わたしたちは仕事しても給料が出ない休務日だ。ふつう、休務日に仕事をする場合は、校長が仕事をさせる正当な理由を明示して、職務を命令する。運動会や修学旅行など、土曜日や日曜日の学校行事は少なくないので、この手はずがとられる。それでも、教職員には給料は支払われない仕組みになっているので、実際には仕事をした時間と同じ時間を別の日に休むことが許されている。それを振替という。しかし、この振替の事務というのは、わたしは知らないが、管理職にしてみればとても面倒くさいものらしい。
「だから、二日間は、来られるひとだけでかまいません」となってしまった。
 もう一つ、職員が大きくため息をついた理由がある。それは引越しの日程だ。学校は3月25日に修了する。25日のお昼ぐらいから、もうこどもはいなくなる。それから、すべての引越し荷物を段ボールに詰めようと思っていたのに、わずか2日後の27日は、荷物を運ぶという。これでは、25日から27日まで徹夜で仕事をしろということになる。
「もっと、早くから、こういう日に引越しになるって、わかってなかったのか」
 度胸のない教職員たちは、やはり管理職のいないところで、こぶしを握った。

6378.4/1/2010
学校の引越し ..story 2

 いよいよ新しい校舎のデザインが決まってきた2009年。それでも、市の考えと学校職員の考えは食い違う。
 まるで、グッドデザイン賞を目指しているかのような内装やかたち。それらは、こどもが使うという立場になったとき、不便なものばかりだった。
 学校の廊下には、よく窓に面して水飲み場がある。どうも、学校を知らないデザイナーには、あの水飲み場は邪魔だったようだ。示されたデザインには、廊下から水飲み場が消えていた。とても廊下がすっきりした。それでは、喉が渇いたこどもたちはどこに行くのだろう。設計図をよく見ると、廊下の外れの階段下に、よく銀行や郵便局で見かける足で踏んで冷水を飲む機械が設置されていた。
「これでは、一度にひとりずつしか水が飲めない。休み時間のあとに水を飲む行列ができてしまう」
「それでは、冷水機の数を増やしましょうか」
「学校の水飲み場には、絵の具のパレットや汚れた手を洗うという機能があります。冷水機のように、飲料に特化した機械だけでは不十分ですよ」
 絵の具を使う図工や、墨汁を使う習字をするなというのか。
「地球環境の未来を考えるという観点から、新しい本田小学校の電気は、屋上に設置する風力発電機から得ることにします」
 胸を張って力説する市の職員。とてもすばらしいアイデアだろうと自負している。
「あのー」
 地域住民を集めての説明会で、地元のひとが声をあげた。
「こんなに学校のそばまで住宅が密集している地域で、屋上に風力発電機を取り付けたら、強風のときに危険ではないのですか」
 このとても当然な疑問ひとつで、風力発電構想は消滅した。
 学校の職員も地元のひとも、市のプランを真っ向から否定してきたのではない。示されるプランの具体的ななかみを見たときに、これでは無理だと直感する内容が多く含まれていたのだ。市は多くの税金を使って公立小学校を建設する。だから、有効な税金の使い方をする義務がある。見た目や、流行の考え方にばかりを気にかけ、かんじんのこどもたちの学校という考え方を忘れてしまうのでは本末転倒だ。
 本田小学校は、現在の市長の母校だ。だから、ちまたでは市長の苗字を冠して「○○学校」とか「○○御殿」と揶揄しているひともいる。なにせ、総工費が23億円というから、びっくりだ。地元の多くの建設会社や設計会社、電話会社やガス会社、水道会社や引越し会社が、23億円を分配して受け取るのだろう。
 今回の校舎改築は、シンプルな方法で実施される。
 つまり、まず校庭にプレハブを建てる。そこに、学校機能が移転する。それを一般的に引越しと呼ぶ。古い校舎を壊す。土地をたいらにする。そこに新しい校舎を建てる。プレハブから学校機能を移転する。新しい校舎での学校生活が始まる。プレハブを壊す。校庭を整備する。
 校庭にプレハブを建てるのは、2009年の秋から始まった。運動会を例年通りに行い、その後からプレハブ建設が始まった。しかし、このプレハブ校舎は、このウエイを書いている3月31日になってもまだ完成していない。4月5日にこどもたちが登校するぎりぎりまで工事が続きそうだ。運動会を例年通りにした学校が悪いのか、引越しを年度替りに設定した教育委員会が悪いのか、建設に携わるひとたちがさぼってしまったのかは、わからない。
 古い校舎を壊し、土地をたいらにして、新しい校舎を建てるのに、計画では2年かかる。その間、わたしたちはプレハブ校舎で過ごすことになる。

6377.3/30/2010
学校の引越し ..story 1

 わたしは、勤続25年目にして初めて校舎改築に伴う学校の引越しを経験している。
 いまの鉄筋コンクリートが主体の校舎は、年々耐震基準が厳しくなり、昔に建設された校舎の多くは耐震基準を満たしていない。だから、毎年、少しずつ校舎を修理したり、改築したりしなければならない。
 しかし、その予算は市町村が負担するので、市町村の予算に余裕がないと、学校の改築はできない。わたしが勤務する学校、とりあえず本田小学校としておこう。本田小学校は、市内で初めて木造校舎から鉄筋コンクリートの校舎に立て替えた過去をもつ。当時としてはモダンな校舎だった。もうじき創立73年目を迎える。
 かつては、第四小学校と呼ばれた。市内で四番目に開校した小学校なのだ。
 5年前に前任校から異動したわたしは、職員の玄関からなかに入って驚いた。床に石が敷いてあったのだ。ラバーやタイルではない。たぶん薄い御影石を並べたのだと思う。灰色の光沢をした御影石が廊下で鈍い光を発していた。壁のコンクリートはいたるところでひび割れていた。場所によっては、ひびが広がり、明らかにコンクリートが剥離したと思われる部分もあった。
 職員室の床は、板だった。歩くと、お城の廊下みたいに、キュルキュルと音がした。不審者の侵入を知らせるには役立つが、ひとの多い職員室では、ただただうるさいだけだった。
 こどもの数が増加していた時代に、無造作に(としか思えない)校舎を増築した。そのため、校舎間の高さの調整が取れていなくて、校舎と校舎の間に段差が生じていた。もっとも古い第一校舎、次に増設された第二校舎、新しい第三校舎。それぞれ異なる学校建築基準で建設されたので、内装も使われている材料も異なっている。もちろん、第一校舎のおんぼろぶりは群を抜く。
 わたしが本田小学校に異動して驚いていたころ、教育委員会は一部の修理で住む方法を検討していたらしい。耐震基準を満たせばいいのだから、壁に大きな鉄骨をはめこむ方法だ。本田小学校の前任校では、その方法で耐震基準を満たしていた。しかし、あれはどう見ても、建築物としての美しさがない。遠くから校舎を眺めると、いくつもの×印が校舎の壁に並んでいるのだ。収容所みたいだった。
 本田小学校で、壁のコンクリートを抜く検査が始まった。その結果、運が悪いことに、そのコンクリートはかつて市が頼んだコンクリートの基準さえも満たしていなかったことが判明した。たまたまそういう部分もあったのだろうと、その後も壁に穴を開ける検査がひんぱんに行われた。あるときなど、あまりにも穴を開けすぎて、かえって壁の強度が弱くなったので、その教室をほかの場所に移動させたこともあった。
 しかし、いくら検査をしても、でたらめなコンクリートが使われていたことが証明されるばかりだった。その結果、ようやく市は、全面的な建て替えを決定した。
 2008年は、新しい校舎のデザインを検討した一年間だった。わたしは、いくつかの新しい特別支援学級を見学し、理想的な教室環境を提案した。

6376.3/26/2010
 倉本さんが4年前に特学に顔を出し始めたときのことを思い出す。
 いつも小さなメモ帳とボールペンを用意していた。
 わたしたち教員がやることや言うことを、よく見ていて、それをメモ帳に記していた。同じようにこどもに接しても、思ったようにはできないで、首を傾げていた。
 こどもたちが帰った後でも、そのメモ帳を開いて、わからないことがあると、質問をしてきた。
「○○くんが、きょうわめいたのはなぜですか」
「○○さんが、あのような行動をしたときは、どう対処すればいいのですか」
「先生たちは、授業の準備をいつやっているんですか」
 特学の教員は、通常級の教員と違って、こどものよだれや鼻水、排泄物に触れる機会が多い。倉本さんは、その様子に面食らっていた。わたしたちも、そういう始末はボランティアの方にはお願いしていない。しかし、4年間もやってきたので、彼には違和感はなくなり、鼻水とよだれの始末は、頼まなくても自主的にやっていた。
「倉本さんみたいなひとは、どんどん海外に行った方がいいかもしれない」
「どういうことですか」
 わたしは、空になった彼のカップに日本酒を注ぐ。
「このまま日本のどこかの小学校に勤務するよりも、ここでの経験を生かして、倉本さんを求めている世界のこどもたちに、学習を指導する方が向いている気がするんだ。それを何年間かやって、日本に戻ってくる。そうしたら、学生時代の特学経験、その後のジャイカでの経験が、小学校に勤務したときに、大きな自信になると思う」
 べつに、ジャイカの後で、ほかの分野に進んでもいい。もしも、少しでも教員志望という気持ちが残っていたらの話だ。
 3月20日。深夜。窓外は台風並みに発達した低気圧がバケツをひっくり返したような雨を屋根に叩きつけていた。ひとが立って歩くのが無理なほどの強風が、谷あいを抜けていた。遠雷も聞こえた。
 わたしは、そんななか、書斎でパソコンの電源を入れ、資料を作成していた。
 新年度の特学に関係する資料だ。新年度は、こどもの数が増える。にもかかわらず、教員は増えない。だから、教員ひとりひとりの持ち時間が増えてしまう。これまでよりも、より仕事を効率よくするにはどうしたらいいかを、連休明けの話し合いに提案する資料だ。
 本当は、じっくりと、ゆっくりと、これまでいっしょに仕事をしてきたひとたちと別れを惜しみたい。そんな後ろを振り返る時間を、いまの教育行政は与えてくれない。
 学校現場の人間が、いつもこころにゆとりなく、保護者や教育委員会の指導にびくびくし、終わらない仕事にからだを壊していたら、一番被害を受けるのは、長い目で見て、クラスのこどもたちだ。環境にばかり「やさしい、やさしい」と言っていないで、世間もマスコミも、「ひとにやさしいよのなか」を求めようではないか。

6375.3/23/2010
 倉本さんは、昨年度、教員免許を取得した。すぐに教員採用試験を受けるが失敗。今年度も残念ながら失敗した。とても、能力はあるし、知識だけでなくこどもとの接し方にセンスがあるので、ぜひとも教員になってほしいのに、試験だけはうまくいかない。答案用紙の記入すべき場所を間違えているのではないかと疑った。
 すでに教員免許を取得しているので、以前からボランティアは今年度で終了すると公言していた。
「春からは、リンニンとして、どこかの小学校で先生をするんだね」
 3月19日、卒業式を終えた夜、わたしは倉本さんと飲んだ。日本酒のグラスを重ねながら、尋ねた。リンニンとは、臨時任用教員の略。教員免許を持っているが、まだ試験に受かっていないひとが、市町村や都道府県に一年契約で採用される制度だ。給料は正規採用と同じ金額が出る。ボーナスも出る。免許を持っているのなら、ボランティアよりも、リンニンのほうがずっといいと、わたしたちもアドバイスしてきたのだ。
 倉本さんは、姿勢を改めた。
「いえ、ちょっと考えるところがありまして」
 わたしも、姿勢を改めた。
「ジャイカに応募しようと思っています」
「ジャイカって、あの、あれか」
「そう、あれです」
 青年海外協力隊。
 学校設備が整っていない国や地域に行って、教育活動を通じて協力したいのだそうだ。
「そのためには、研修があるんです。だから、リンニンをしているわけにはいかないんです」
 夢はでかいほうがいい。
「でも、これはまだ両親には話していません。いずれ応募して、試験に合格したら、話そうと思っています」
 倉本さんのご両親は教員だ。彼が、苦労して教員免許を取得し、いずれ自分たちと同じ町で同じ仕事をすることを楽しみにしていた。それを思うと、進路変更は伝えにくいのかもしれない。
「どこの国に行くかはわかりませんが、先生に教えられた餃子は、必ずこどもたちに教えようと思います」
 わたしは、冬になると必ず特学で餃子を作って食べる。連続2週間行う。最初は、買ってきた皮に餡を作って包む。2回目は、小麦粉から皮も作る。倉本さんは、振り返れば、わたしの助手として、餃子作りの授業を8回もサポートしてくれた。
「ボクは、もしこちら(特学)でお世話にならなかったら、きっと教員になったとしても、言い方が悪いかもしれませんが、ここのこどもたちには近寄れなかったかもしれません。それだけ、最初の衝撃は大きかったんです」

6374.3/22/2010
 わたしは、大学生のボランティアさんたちに、とても恵まれた。
 神奈川県知事に松沢さんがなってから、県内の学校教育予算はガタガタと音を立てて削減されている。とくに松沢さんは、特別支援教育に興味がないらしく、この分野の予算削減は、やがて神奈川の未来に禍根を残すのではないかと不安になるほどだ。
 まぁ、国の教育予算じたいが先進国で最下位を何年間も堅守しているから、松沢さんだけの問題とは言い切れない。
 それを考えれば、神奈川県は、大学3年の教員志望者を集めて週末に宿泊キャンプを開催したり、採用試験合格者を対象にやはり週末に連続講義を開講したり、学校現場以外には、予算を配分している。その企画運営をやらされている県の職員は、休みなしの連続勤務に悲鳴をあげないのだろうか。
 特学は、国の法律では8人のこどもに対して教員がひとり配属される。これも先進国では類を見ないほど、お粗末だ。もしも、朝から帰りまで、教員が一対一でかかわらなければいけないこどもが入学してきたら、残りの7人を指導する教員はいなくなる。だから、神奈川県では以前から、神奈川県独自の予算で教員を追加配属してきた。
 これは神奈川県だけのことではなく、多くの都道府県で実施している。国のお粗末な法律を都道府県が補っているわけだ。
 ちなみに、お粗末な法律しか作れない国に三行半を突き出して、自分たちの法律は自分たちで作りますという考え方が、民主党がマニュフェストに掲げている道州制です。
 いろいろ遠回りをしたが、いずれにせよ、特別支援学級でこどもの指導と支援にあたる人材が減少していることを伝えたかった。そこで、藤沢市を始めとする全国の市町村は、大学生で教員を志望する者に、ボランティアとして教育活動に携わる制度を導入した。これが、学生ボランティア制度だ。数年前には、横浜で児童性犯罪者が応募して問題になった。採用する体制が不十分なので、逮捕歴や性的な傾向を見抜くことはできないのだろう。
 わたしが勤務する学校でも、4年前から大学生のボランティアを募集した。この4年間に特学には、10人近い学生さんたちが支援の協力に入った。とても幸運に恵まれて、どの方もこどもとの関係をじょうずに作り、すばらしい方々だった。大学生なので、卒業と同時にボランティアは終了する。必ず、いつかは役割を終えるという期限付きなのだ。
 その中で、4年前の夏から協力してくれていた男性の学生ボランティアさんが、この3月で終了する。仮に、倉本さんとしよう。
 倉本さんは、大学を卒業し、就職試験に失敗。進路を変更し、大学の通信教育で小学校の教員免許を取得した。その通信教育を始めた頃から、ボランティアを始めた。ボランティアのない日は、コンビニでアルバイトをしていた。
 教育実習は、わたしが勤務する小学校で行った。いつもは特学にいる倉本さんが、通常級で多くのこどもに囲まれていた。それを見聞きする特学のこどもたちは、意味がわからず、不思議だったと思う。

6373.3/21/2010
 紀子さんの転籍にともなって、あすなろ小学校で1年生のときから、紀子さんの介助をしている方が、わたしの働いている特学の介助員として異動してきた。というか、わたしたちが、それを強く希望したのだ。
 紀子さんのことを、4年間も介助している方がいるのだから、わたしたちよりもずっと紀子さんのことを知っているはずだ。その方から、紀子さんについて様々なアドバイスを受ける必要があったのだ。
 その介助員さんは、小池さん(口惜しいけど仮名)という。
 小池さんは、たぶんわたしと同い年ぐらいのとてもパワフルな女性だ。スイミングスクールでインストラクターをしている。地域では民生委員もしている。夏になると小学校のプールでこどもたちに水泳を教えている。いくつかの小学校で介助員を掛け持ちしている。
 特学に転籍したので、小池さんはあすなろ小学校時代と違い、一週間に一度だけ、紀子さんの介助員として勤務していただいた。その一度のときに、わたしたちは一週間の様子を伝え、支援方法の疑問や質問を尋ねた。そんなことを繰り返しながら、わたしたちは紀子さんの個別指導計画を作成し、彼女に必要な教材や教具を用意した。
 その紀子さんの担当教員として2年間、直接の支援をしたのは、小梅さんだ。
「ノリちゃん、すごーい。こんなにできるようになったんだね」
 小池さんは、金曜日に勤務する。毎週、紀子さんの成長に触れ、感激していた。あすなろ小学校には特学はなかった。だから、小池さんは見よう見まねで、オリジナル教材を作り、支援をしていた。しかし、小学校高学年を前に、もっと体系的にきちっとした場所での学びが紀子さんには必要だと強く感じた。保護者やクラス担任に、特学への転籍を助言したという。
 その紀子さんが、2010年3月19日に小学校を卒業する。
 だから、小池さんは紀子さんとともに、特学での介助員生活を終了する。小池さんは、紀子さんを支援しながら、特学のほかのこどもたちにも自然に接してくれた。全員の名前を完璧に覚えている。
 体育で、わたしは紀子さんにボールを転がした。ゴムでできた野球のボールぐらいの大きさ。紀子さんは自分に近づいてくるボールを目で追う。ちょうど、手に届く距離になって腰を折り、片手でボールをつかんだ。
 わたしは、両手をパンパンたたいて「ナイスキャッチ、ここまで持っておいで」と呼ぶ。紀子さんは、やや早足でボールを持ったまま、わたしに向かって走る。わたしは、両手でお椀を作る。「はい、ここに入れて」。紀子さんは、お椀の上にボールを持ってきて、つかんでいた指を広げる。ボールは、お椀のなかに納まる。「やったぁ、できました」。頭をなでると、紀子さんは少しはねて喜びを表す。
 2年前の紀子さんは、まず転がってきたボールを注視できなかった。だから、ボールを拾うことは無理だ。目の前で手渡すところから始めた。なんとか、ボールを中止できるようになってからは、ボールをつかんで持っていこうとする動きが見られた。しかし、途中で行動の目的を忘れるのか、ほかの方向に走って行く。意識集中が続くように、短い距離の移動を繰り返した。ボールをつかんだままわたしのところまで来た。あとはお椀のなかにボールを入れるだけ。ボールをつかんでいる指の緊張をとき、目指すところにボールを落とす。逆に緊張してしまい、うまくボールを放せない。何度も、不機嫌になっていた。
 同じ運動を2年間繰り返した。卒業を前にした3月の体育で、紀子さんは、ボール運びの運動を3回連続で支援なしでやり通した。学習が成立した。特別支援教育の世界で言われる「目と手の協応」動作が身についてきたのだ。
 紀子さんの卒業式に、小池さんはわたしたちといっしょに支援すると申し出た。最初は、卒業する紀子さんを見たいだけだと言っていたのだが、どうせならわたしたちといっしょに紀子さんのそばにいて、支援メンバーのひとりとして、いっしょに彼女を送り出そうよと提案したのだ。

6372.3/20/2010
 その話があったのは、3年前の冬だった。
 教育委員会の高木指導主事(もちろん仮名)から電話があった。高木さんは、教育委員会のなかで特別支援教育の担当指導主事だ。高木さんから電話がある時は、何かの依頼が多い。だから、あまり嬉しい電話ではないと推測できた。
「いま、あすなろ小学校(これまた仮名)の4年生。女子。新年度から、そちらの特学に転籍できるように保護者と調整中なの。まず、保護者が見学に行けそうな日をピックアップして教えてほしい」
 案の定だ。
 転籍とは、テンセキと読む。学校で使う専門用語だ。
 よく引っ越してほかの学校に行くことを、転校という。これは俗語。思えば、昔からわたしが恋心を抱く女子は、いつも途中で転校していた。引越し先を尋ねる勇気がなくて、その後の人生では、二度と会っていない。
 そんなことはどうでもよろしい。はい。
 公立小学校と公立中学校には、法律で3種類の教育内容が示されている。
 もっとも一般的なのが、通常の教育を行う通常学級。さらに通常学級のある学校に併設されている特別支援学級での教育。わたしは、ここで働いている。特別支援学級の教育内容は、朝会・遠足・入学式・運動会などは通常学級と同じだが、言葉や数の学習は大きく違う。そして、朝会・遠足・入学式・運動会も学習内容も何もかも違うのが養護学校(いまは特別支援学校)だ。
 通常学級、特学、養護学校。それぞれの同じ教育の場を動くことを転入・転学という。これに対して、通常学級から特学へとか、特学から養護学校へと異なる教育の場へ動くことを、転籍という。
 高木さんからの電話は、通常級4年生女子を特学に移したいので、まず親に特学見学をさせたいという提案だった。わたしたちには、教育委員会からのお願いを断る権限はない。ただひたすら、はいわかりましたと応じるしかない。形式的にも実質的にも、学校は教育委員会の出先機関だ。かつては、そんなことはなかったのだが、わたしが教員になってからの25年間で、大きく学校現場は議会(政治家)や教育委員会(役人)に支配されてしまった。
 その後、特学を見学した保護者が最終的に転籍を判断した。
 2年前の4月に、彼女はわたしが働く特学に転籍してきた。仮に紀子さんとしておこう。
 通常学級から特学へ転籍するケースは、決して珍しくない。
 大きくパターンは二つに分かれる。一つは、通常学級に入学したものの学年が上がるに連れて徐々に勉強が難しくなったパターン。もう一つは、どちらかというと入学の段階から特学か養護学校がふさわしかったのに、保護者の強い希望で通常学級が選ばれ、その後、保護者の考えに変化があったパターン。
 紀子さんは、後者のパターンだった。

6371.3/17/2010
 ことしの3月でお別れする方々。
 いまの学校に異動になって以来、5年間もお世話になった方が退職する。
 仮に、小梅さんとしておこう。
 小梅さんは、わたしが異動したとき、同じように特別支援学級に配属された。わたしは、ほかの学校から、いまの学校に異動して、特別支援学級の教員になった。これに対して、小梅さんは、いまの学校で通常級の担任をやっていた。そのまま学校を異動しないで、特別支援学級の担任を希望したのだ。
 いまから、5年前、小梅さんは57歳だった。しかし、小梅さんは若々しく、言われなければ、50歳とは思えない。肌もつやがあり、何よりも動きが俊敏だった。人一倍、仕事をして、剛毅だ。身長は低く、高学年のこどもと比べると、こどものほうが身長が高かった。
 めっぽう日本酒が好きで、いっしょに飲みに行くと、いつもわたしと同じものを頼んでいた。
 公立小学校の教員は、60歳が定年だ。教員の資格を持っていても、60歳になったら正規の教員としては働けない。
 小梅さんは、定年まで残り3年しかないのに、教員生活の最後の数年間を、それまでとは違う畑の特別支援学級に託した。どうして、やりなれている通常級を継続しなかったのかは、知らない。
 わたしは、通常級担任を13年間、担任以外の専科を7年間して、いまの特別支援学級の担任になった。特別支援教育の世界に入って、はや5年が終わる。肉体的に大変なのは、間違いなく、現在の特学だ。おそらく経験豊富な小梅さんなら、そんなことは百も承知であえて定年までの残り3年間を特学に捧げたのだろう。
 2年前に、無事に小梅さんは60歳の定年を迎え、退職された。
 そのときに、一度お別れをした。しかし、小梅さんは退職後も教員の資格を使って再就職できる制度を利用して、ふたたびわたしと同じ特学で担任を継続した。給料は、とても減額されるという。一年ごとに更新する契約で、2年間、特学の担任を続けた。
 その2年目が終わる。
 これ以上の再任用の継続は望まないという。
 小梅さんは、大学を出て教員になった後、一時、学校を離れ経理の仕事をしていた時期がある。だから、お金の事務にはとても詳しい。いっしょに働いた5年間、小梅さんは特学の複雑な経理をひとりですべて引き受けてくれた。就学奨励費、教材費、介助員時間数など、数字とにらめっこの仕事を、春からだれが担当するのか。どちらかというと、そういう仕事を逃げてきたわたしは、気が重い。
「大丈夫、あなたには頼まないから。飲んで使わないという自信がもてないでしょう」
 堂々と言われると、わたしには反論できない。

6370.3/16/2010
 あたたかい季節になってきた。
 昨夜は湘南地方はものすごい風雨だったが、朝になったら雲が切れ、青空が見えた。夜のあいだ、雨戸を叩いた雨粒は、アスファルトに吸い込まれ、湿気を発している。
 冬から春へと季節が動いていく。
 鉄道のダイヤが改正されたそうだ。それを知らないでいると、いままでの時刻と違う電車に乗るはめになる。気をつけないと、乗り場も異なっているかもしれない。
 梅はすっかり終わった。白もくれんが鎌倉では盛りだ。鶴岡八幡宮。強風で大銀杏が倒壊した。ニュースでも報じられた。関係者のショックは計り知れないだろう。わたしも週末に見学した。おとなが10人ぐらい手をつながないと、根元に近い胴回りは一周できないほどの太い銀杏だ。倒壊した規模も大きかった。近くに舞殿がある。同じ日に、そこで結婚式をしていた。多くの観光客が、白無垢の花嫁ではなく、倒壊した銀杏に携帯電話を向けてカメラ撮影していた。花嫁をはじめ、参列したひとたちは複雑な気持ちだっただろう。
 そんな境内の桜。何本かの枝には、もう花が開いていた。大きなソメイヨシノはまだ咲いていなかったが、小ぶりな桜は少し季節を先取りするのか。大きな桜が満開のもとでは、自分が目立たないことをしっているのか。いまなら、シャッターを独占できると考えたとしたら、その作戦は大成功。倒壊した銀杏の次に多くの観光客の注目を集めていた。
 日本社会は会計年度が3月で終わる。だから、4月から新年度だ。
 会計年度にあわせて、学校も始まる。
 ややこしいことをしないで、暦年にすれば、すべては1月から始まり12月で終わるのに。だれも文句はないらしい。ちなみにアメリカでは、9月に始まり8月に終わる会計年度だ。これはややこしい。だから、年度を表すときは2004−5年度みたいな表記になっている。当然、アメリカの学校の新学期は9月から始まる。3月に日本の高校を卒業したひとが、アメリカにわたり、9月からの大学に入るとき、4月から8月まで語学学校に通えるのは、こういう裏事情があるからだ。もっとも、アメリカの大学に受かるぐらいの英語力があるのなら、わざわざ語学学校に通う必要はないのかもしれないが。
 なにはともあれ、日本の3月は、別れやおしまいのイメージが強い。
 わたしは、ずっと学校で生活しているので、振り返れば小学校1年生のときから、いままでずっと入学式と卒業式のある一年を過ごしてきたのだ。なんと40年以上も。
 4月になれば入学式。3月になれば卒業式。涙の数だけ思い出があり、笑顔の数だけ希望があふれる。そんな季節の移り変わりを、40回以上も繰り返してきた。かなりメリハリのある人生だ。
 ことしの3月は、わたしにとって、かなりつらい。
 ここ数年の3月は、いっしょに働いているひとたちが異動しなかったので、4月になっても
「またよろしく」
 と、気軽な気持ちだった。
 しかし、ことしの3月はそうはいかない。
 いまの学校に異動になって以来、5年間もお世話になった方が退職する。
 特別支援学級の介助員さんとして、2年間、協力していただいた方とお別れする。
 同じように、特別支援学級の学生ボランティアとして、大学に通いながら教員免許を取得し、その間、講義のない時間帯に協力していただいた3人の学生さんともお別れする。
 これだけでも、わたしの涙腺は緩みっぱなしだ。