top .. today .. index
過去のウエイ

6369.3/15/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 14

 秀夫の目に、田辺のうなじが飛び込む。
 視線をそらさなければいけないと思いながらも、つむじから後頭部、そしてうなじへとたどってしまう。
 自分の肩さえ、ふだんもんだことがないのに、ひとの肩をもむなんてできるのかな。力の入れ加減はこれでいいのかな。女性の肩って、想像以上に小さいな。でも、これはこのひとが小さいだけで、レスラーや巨漢は、男よりもいかつい肩かもしれない。
 首に近いところから、徐々に肩の関節に手のひらをスライドさせていく。
「じょうずねぇ、とっても気持ちいいわ」
田辺は、悦に入っている。
 おや。思わず手がTシャツの下のブラジャーの紐に触れてしまった。
 やばい。
 あわてて、そこから先には行かないで首筋に向かって手のひらを戻した。田辺は、よくこうやってひとに肩をもませるのだろうか。それも男性に。こういうことが抵抗なくできるってことは、付き合っている男性がいるってことかな。連休は、そのひとと楽しい時間を過ごしたんだろうな。なのに、ここで俺が肩をもんでいていいのかな。
 秀夫は勝手に妄想を広げる。
「あー、先生、アツアツ!」
「できてる、できてる」
 田辺の肩をもむ秀夫の姿を見て、それまで遊びまくっていたこどもたちが集まってきた。「できてる」とは、だれに教わった言葉だろう。俺が10歳のときには使わなかったぞ。
 秀夫は、肩にあてた手を思わず離した。頬や耳たぶが自分でも真っ赤だろうなと想像できた。
「どうも、ありがとう」
田辺は、立ち上がり大きく背伸びをした。そして、集まってきたこどもたちに振り返る。
「本当は、4時間目は音楽の授業だったの。でも、戸崎先生が忘れていたから、ここに呼びに来たのよ。そして、忘れた罰として肩をもませたんだから、誤解しないでね。ずいぶん集まってきたから、ここで歌を歌いましょう」
 さっきまで、田辺の肩をもんでいた感触が手に残っていた秀夫は、まだ教員3年目の田辺が頼もしく思えた。

 田辺は、こどもたちを座らせた。
 自分はこどもたちの目線になる位置に立った。
 4月の歌や、これから音楽で扱う歌を指揮をしながら歌った。ピアノ伴奏や音楽の教科書がなくても、こどもたちは田辺の歌にあわせて口を開く。ときどき、鳥の鳴き声が聴こえる。鳥たちもいっしょに歌っているようだった。(おわり)

6368.3/13/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 13

 同僚教師たちは、新採用の秀夫にとっては、全員が先輩でもある。
 ずっと体育系の運動部に属してきた秀夫は、学校も年功序列社会だと想像していた。
 しかし、実際に小学校に就職してみて、年齢による序列は皆無といっていいほどないことに気づいた。
 それは、葉山という町のもつ風土なのか、長田小学校にたまたま集まった職員たちの人間性なのか、わからない。ともかく教員経験年数に関係なく、言葉使いにしても、関係性のとり方にしても、みな平等だった。
 逆に、かしこまったり、へりくだったりした喋り方や行動をすると、周囲のおとなから「偉そうに」と批判された。まだ、ここでの生活が始まったばかりの秀夫には、頭ではわかっていても、からだに染み付いたものがなかなか消えない。まして、先輩の田辺に迷惑をかけてしまったわけだから、本気で悪いことをしたと反省した。
「学校に戻らなくていいんですか。もう4時間目が始まっていますけど」
「何言ってんの」
 拳骨で軽く、胸板をパンチされる。
「あなたのクラスの授業をやるはずだったのよ。学校に戻っても、音楽室は空っぽ。ここで 音楽をしたことにするから、週案は音楽にしておいてね」
「はい。ありがとうございます」
 週案では、理科を2時間続きにしていたから、学校に戻ったら修正しよう。今度こそは忘れないようにしよう。
「その、ていねいな言葉、なんとかならないかな。ありがとうで、いいよ」
「え、でも」
「いいから、言ってみて、ありがとうって」
「あ、はい、えー」
「バカね。プロポーズをしているわけじゃないんだから、そんなに紅くならなくてもいいじゃん」
 え、頬が紅いのか。それとも耳たぶか。
「はい。じゃ、言います。ありがとう」
「そう、それでよし。じゃぁ、授業をすっぽかした罰で、わたしの肩をもんでね」
 そう言うと、田辺はカーディガンを脱いで、Tシャツだけになり、草がよく繁っている場所を見つけて座った。
「ここでですか」
「当然でしょ。それから、ここでですかじゃなくて、ここで、でしょ」
「ここで、もむわけですか。あ、違った。ここでもむの」
「肩をもむのよ。勘違いしないでね。ピアノばかりを弾いていると、すごく肩がこるんだ」
 田辺は、肩をさすったり、叩いたりした。
 仕方なく、秀夫は田辺の背後に回り、両肩に手を置いた。
 田辺は斜面に足を投げ出して、少し上半身を後ろに傾けながら、両手を地面について頭を前に傾けた。視線の先には、逗子や葉山の海が映っているのか。それとも目を閉じているのか。

6367.3/10/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 12

 男の子が木登りをしていたこと。それを女の子たちに注意され、秀夫に何とかしてくれと文句を言いに来た。
 こどもの世界の出来事には、なるべくおとなが絡まないほうがいい。
 こどもは、こどものなかで不完全ながらも自分を成長させていく。そこにおとなが絡むと、完全な存在への依存感を強めてしまい、自分の力で何とかしようという気持ちを大事にしなくなる。とくに教師は、学校ではこどもにとって絶対的な存在だから、日々、裁判官や独裁者にならないように心がけておかないと、裸の王様になってしまう。こどもとの距離感については、赴任してから一ヶ月間で、同僚たちに念仏のように叩き込まれてきた。最近、そのことの意味が少しわかってきたように思う。

 アメリカ海軍の大型ヘリコプターが、爆音をあげて頭上を通過する。
 横須賀基地方面から厚木基地方面に物資を運ぶ、輸送用の大きなヘリコプターだ。プロペラが前後に2つついていて、太い葉巻のような機体だ。パイロットの顔が見えるぐらいの低空を飛行していた。
 こどものなかには、暢気に手を振っている者もいた。
 神奈川県の空は、ほとんどがアメリカ軍の飛行空域で、日本の旅客機が飛行することは認められていないことを、こどもたちは知らない。県内には港はあるが、民間旅客機用の空港はない。たとえ建設しても、かんじんの飛行機が一機もない寂しい空港になるだろう。日米安全保障条約の具体的な姿だ。
 しっとりと詩の朗読をしているとき、バタバタとプロペラの回転音をとどろかせてヘリコプターが通過する。
 ハーモニーを調和させて歌唱しているとき、ゴーンとつんざくような超音速戦闘機が飛行する。
 入学式や卒業式などのおごそかな場面でも、それらの騒音が雰囲気を台無しにするのだろう。
 基地のない町に住むひとには、想像できない。その騒音と震動は、不快感を住民に植え付ける。憎憎しげに空をにらむひとが増える。

 学校から裏山に続く道。
 その道を、音楽専科の田辺静香が登ってくる。
 田辺は、戸崎よりも20センチぐらい身長が低く、25歳の独身女性だ。顔はぽっちゃりしていて、こどもたちに「パンダ」と呼ばれていた。体型は標準だったが、胸だけはとてもグラマラスだった。音楽専科だったので、ピアノ演奏がとてもうまい。指が100本ぐらいあるのではないかと思うほど、一度にたくさんの鍵盤を弾くことができた。
 その田辺が、Tシャツの上に薄いカーディガンを羽織って、坂道を小走りに駆け上がってくる。カーディガンのボタンは外してあり、豊かな胸が走るのにあわせて上下に揺れていた。
 秀夫は、田辺の胸元を見ている自分に気がついた。
「やば、おっと、どこを見ているんだ」
 秀夫は、視線を田辺の顔に向けた。少し、険しい表情をしている。
「戸崎さーん」
「はい」
「きょうの4時間目は、音楽ねって言ったのに」
 あちゃーっ。忘れていた。
 連休前に授業変更を頼まれていたんだ。そのときは、別の用事をしていたから、週案にもノートにもメモをするのを忘れて、そのままになっていた。記憶のなかからも、きょうの音楽は消えていた。
「すみません。いま、こどもたちを集めますから」
 みんな、楽しそうに遊んでいるが、ここはこころを鬼にして全員集合の命令を発しなければいけない。しかし、さっきまで険しい表情だった田辺は、こどもたちが木に登ったり、花を集めたりしている様子を見て、穏やかになった。
「しょうがないわねぇ。忘れていたんでしょ。いまから、こどもを集めて学校に戻っても、大してできやしないから、きょうはこのままでいいわ」
秀夫は、真剣に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「そんなに、かしこまらなくてもいいから。あー」
田辺は、両手を上げて大きく伸びをした。
「ここ、気持ち、いいじゃん。景色もいいし。音楽室にばかりいると、学校のすぐ近くにこんなところがあることを忘れてしまうわ」

6366.3/9/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 11

 口を尖らせている浩太の肩を軽く叩く。
「わかるよ。お前の気持ち。俺も小学校のころ、クラスにやたらまじめな酒田ってやつがいてなぁ」
 なんで酒田を思い出したのだろう。やっぱり江ノ島のことが気になっているのか。浩太はポカンという顔をしている。
「そいつが、ふざけたり、遊んだりしている俺たちを事あるごとに目の敵にして、注意ばかりしたんだ。あんまり頭にきて、あるとき帰りに待ち伏せをして木の影から栗のイガを投げつけてやったことがあるんだ。猛烈に怒るかと思ったら、イガのとげが痛かったのか、泣きそうな顔をして俺たちをにらんで走って帰って行った。なんだか、後味が悪くて。でも謝りにも行けず、しばらく教室で顔を合わせるのがつらかったなぁ」
「どうして、女たちは俺たちを放っておいてくれないんだろう」
浩太の表情が少し緩む。
「どうしてかなぁ。さっきの酒田な。次の日に先生にチクるかと思ったら、誰にも言わなかったんだ。それが、また俺のこころにはグッと来て、ガツンと先生に怒られれば気持ちの収まりにもなったのに、何も起こらないから宙ぶらりんな気持ちがしばらく続いたんだ。そうしたらな、どうなったと思う」
「知らねえよ。どうなったの」
こっちのペースに、浩太が乗ってきた。
「ある日、学校帰りに、俺たちが酒田を待ち伏せしたところで、逆襲にあったのよ。俺たちは栗のイガしか武器にしなかったのに、酒田は仲間を連れて、イガのほかにどんぐりや銀杏まで集めて攻撃してきたんだ。やられたと思ったね。俺のダチのなかには、べそかいてるやつまでいてな。酒田は仁王立ちして、なんか文句ある、だらしないって啖呵を切って帰って行ったよ」
「かっこいいな。そいつ」
 浩太の目が輝く。そういえば、浩太はヒーロー物が大好きだった。
「たぶんな、俺にはまじめに見えた酒田も、同じことをしたかったんじゃないかと思った。俺たちみたいに、羽目を外したり、泥んこになったり。だって、その後は休み時間や放課後は、なぜか俺たちの輪に酒田が入ってくることが増えたんだから」
「じゃぁ、米子も本当は木登りがしたいってこと。自分にはできないから、登っている俺たちをうらやましく思ってるわけ」
「それは、わかんない。うらやましいのかもしれないし、妬んでいるのかもしれないし」
「ネタムってなんだよ、わかんないじゃん」
「うらやましいって気持ちよりももっと強いわがままな気持ちかな。本当は自分もやりたいのに、うまくできない。だから、うまくやっているひとを憎んでしまう気持ちかな」
「米子に、木登りの方法を教えてみるよ」
「それはいい考えだ。うまく行かないかもしれないけどいいのか」
「そんときは、そんとき」
 浩太は、用事が済んだというように、ふたたび繁みの中に消えて行った。

6365.3/7/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 10

 じょうずに編みこんでいて、作りもしっかりしている。
「先生に、あげる」
 そう言いながら、輪飾りを秀夫の首にかけた。
「うわぁ、ありがとう。きれいに作ったね。お前もここに座れよ」
早葵は、素直に秀夫の隣りに座った。
「お前、さっき、お父さんに鉛筆をもらったって言ってただろ」
言っていいものかと迷いもあったが、いまなら聞けそうな気がした。早葵は、声にならない声で、うんと言ってうなずいた。早葵の両親は離婚している。
「よく、会うのか。お父さんに」
 隣りに座った早葵は、両手で膝を抱えた。
「日曜日か、土曜日の夜に会う。お母さんはいないよ」
「お母さんに内緒で会っているってことなの」
「違うよ。うちにお父さんが迎えに来てくれるから、お母さんだって知っているよ。なんだか、知らないけど、そういうふうに約束してるみたい」
「そうか」
それ以上は聞けなかった。おそらく離婚のときに早葵と父親が会う時間を決めたのだろう。
 学校の方角から、チャイムの音が聞こえた。3時間目が終わった。予定では、4時間目は学校に戻るつもりだった。でも、こどもたちの様子を見たら、いま区切りをつけられる雰囲気ではなかった。あせることはない。きょうはこのまま昼までここでのんびりしよう。
 いつの間にか、早葵は秀夫の隣りを離れ、ふたたびシロツメクサを摘みに走っていた。

 反対に、繁みのなかから、浩太が難しい顔をして、秀夫のところにやってきた。
 浩太の父親は旅客機の機長で、母親は元スチュワーデス。経済的に豊かな家庭の長男だ。姉は、長田小学校ではなく、私立の小学校に通っている。金持ちの坊ちゃんには見えないほど、浩太は精神的にも肉体的にもたくましい。身長は、男子のなかで中間ぐらいだが、運動神経は抜群で、いやなことや苦手なことがあっても逃げようとはしないタフな気持ちも持っていた。機長とスチュワーデスの遺伝子を受け継ぐと、こどものころから輝きが違うのだろうかと思ってしまう。学力はさほどずば抜けるものはなく、両親も期待していなかった。将来は、サッカー選手になりたいと言っている。きっと、この家庭の経済力なら、スポーツで有名な学校への進学も不可能ではないだろう。
「先生、米子がうるさいんだよ」
不平を、どう表現していいのかわからない感じだった。
「米子が何か言ったのか」
「俺たちが木登りをしていたら、危ないから降りろって下から何度も言うんだもん。無視していたら、石や枝を投げてきて、そっちの方がよっぽど危ないじゃん」
 木登りは、浩太だけでなくほかのこどもも数人がしていた。きっと、木登りをしているこどもを代表して、浩太が文句を言いに来たのだろう。ふだん、告げ口をするタイプではないので、よほど米子たちの行動が腹立たしかったと思える。

6364.3/6/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 9

 海に背を向けて、秀夫はこどもたちに語りかける。
「ここには、たくさんの種類の草や木が生えているだろ。きょうは、それらをよーく観察してほしい。草や木は、どういう部分からできているかを考えながら、あとで教えてね。それじゃ、ここから見える範囲なら林のなかに行ってもいいよ。笛を鳴らしたら、集合しよう。さぁ、レッツゴー」
 こどもたちは、各自、わーいと声を上げて、たちまち秀夫の前からいなくなった。
 裏山の頂上は整備されているわけではないので、ベンチや芝生はない。それでも、樹木は生えていなくて、黒く硬い赤土に草が低く生えていた。
 秀夫は、きっとこどもたちはまともに自分の指示など聞かずに、各自が勝手に遊びまわるだろうと予想していた。なかには、まじめな米子のように言われたとおりのことをするこどもがいるだろうから、授業はそういうこどもたちの発見や意見をもとに進めればいい。
 きょうのこの時間は、連休から日常の学校生活に、多くのこどもたちの気持ちをシフトしていくソフトな離陸時間だと思っていた。
 草が多く茂っているところに腰掛けて、こどもたちの様子を観察する。
 実際に、秀夫の指示に従って、クヌギやサクラの枝や葉を観察しているのは、10人に1人ぐらいだ。
 ほかのこどもたちは、明らかにフリータイムを堪能している。
 坂道でズボンやスカートを泥だらけにして滑り落ちるのを楽しんでいる者。食べられる木の実を探して、数人で探索している者。ジャンケンをして鬼を決め、鬼ごっこをしている者。
 信夫はスルスルと杉の木に登って、「見よ、東海の空明けて」となぜか軍歌を威勢良く歌っている。教材室で泣き続けていた早葵は、シロツメクサを摘んでいる。

 こどもたちに背を向けて、秀夫は海の方角を見た。
 逗子や葉山の港から、ヨットや漁船が出入りを繰り返している。あまり波はないのだろう、大きな白波は立っていない。
 もしも、三原山が噴火したら、ここからは大きな花火のように見えるのかな。大島にたくさんの住民がいることを忘れて、そんな暢気なことも考えた。
「先生、みんなちっとも木の観察なんてしてないよ」
口を尖らせて、米子がやってきた。その後ろに、米子の仲間が2人ついている。
「しょうがないなぁ。でも、とても楽しそうだから、お前たちも観察ができたら、遊んでいいぞ」
 その言葉を待っていたかのように、米子たち3人も、わーいと木の間に姿を消していった。

 こどもはいつの時代も変わらずにこどもだと思う。
 社会が変化するから、その変化に合わせて、こどもも変化するように錯覚してしまう。
 でも、どんなことでも遊びにしてしまう感性は、こどもならではのものだ。そんな感性を引き出せない環境にしてしまうおとなの責任は大きい。遊び場や遊び道具、遊び相手まで指定するおとなの管理が、こどもたちを息苦しくさせてしまうのだ。
 こどもたちが、学校帰りや下校後に遊ぶ空き地。なぜか、何年も何も建設されない。土地を寝かせて値上がりを待っているからなのだろう。でも、こどもにはそんなことは関係ない。そこに三角ベースやサッカー、鬼ごっこやかくれんぼができる空間があれば、それだけで時間を忘れて遊ぶことができるのだ。この裏山だって、きっと地権者がいて、いつかは宅地に変わってしまうのかもしれない。
「先生、これ」
早葵が、摘み取ったシロツメクサで作った輪飾りを持っている。

6363.3/5/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 8

 教頭は、まだトイレから離れない。
「で、用事は何だ。俺も忙しいんだから、手短にな」
 こっちが焦っているんだ。手長にしているのはあんただろう。今度、飲みに行ったら、そのネクタイで首をしめてやる。
 長田小学校の職員の飲み会は、いつも無礼講だった。個人的な飲み会も、親睦会が主催する歓送迎会などの公式的な宴会も、上下関係のないものだった。秀夫は、連休前に教頭を含む数人の男性教員に飲みに誘われたとき、どういう理由かは忘れたが、教頭の頭を何度もパンパンと叩いていた。
「3時間目に、校庭の裏山に行ってきます」
「わかった。ちゃんと言えるようになって、少しは成長したな」
「それじゃ、伝えましたよ」
 秀夫は、トイレを出た。何をしに行くんだとか、教科は何だとかは聞かないところが、あの教頭のいいところだと思った。手順を踏めば、大方のことはやりたいようにさせてくれている。

 秀夫は教室に戻ると、黒板を背にして立ち、こどもたちに告げた。
「3時間目の理科は、裏山に行くぞ。遊びに行くんじゃないから勘違いすんなよ。理科の勉強だからね」
「教科書は持っていくんですか」。米子が聞く。
「教科書は荷物になるからいらないよ。みんな手ぶらでいいぞ」
「ボールを持って行ってもいいのかなぁ」。体育が得意な男子がつぶやく。
「遊びに行くんじゃないって言ってるだろ。ボールはなし。じゃ、靴を履き替えて校庭に集合」
 こどもたちは教室を出て行く。
 早葵も信夫も何事もなかったかのように教室を出て行った。
 初夏の日差しが長田小学校の校庭に届く。長田小学校は、葉山町に4校ある小学校うち、もっとも新しい学校だ。そのため、校舎のデザインも斬新で、体育館はヨットをイメージしたデザインになっていた。校舎全体も小学校というよりは、何かの研究施設を思わせる造りになっていた。校庭の周囲にはフェンスと桜の木があるので、その向こうの景色は見えない。山の上にある学校なのにもったいないと思ったが、それがなかったら海から吹き上げてくる風でひとも校舎も塩気にやられると教わった。
 秀夫は、クラスのこどもを連れて、校庭の端にあるフェンスの出入り口から裏山へと続く道に向かった。学校が建設される前にあった道で、獣道というひとも入れば、ハイキングコースというひともいる。整備されていない樹間の小道だ。アップダウンを繰り返し、見晴らしのいいところに出た。そこは、裏山の頂上だった。そこからは、校舎を見下ろすことができる。同時に、南を向けば葉山港、逗子海岸、そして相模湾が展望できる。相模湾の水平線に近いところにボヤっと灰色の大島が浮かんで見える。きょうは、かなり空気が済んでいるようだ。三原山のかたちまではっきり見ることができた。
 しばらく、秀夫もこどもたちも頂上の景色を堪能した。海からの風は、ここまで来ると塩気が薄く、肌にべとつかなかった。女子の髪の毛が風になびく。くりくり坊主の男子の頭に日差しが反射する。
「よーし、じゃぁみんなそこにしゃがんで」
こどもたちを頂上にしゃがませて、秀夫は少し下の位置に立つ。こどもたちと同じ目線になった。

6362.3/4/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 7

 秀夫は教卓に行き、きょうの週案を開く。
 3時間目と4時間目は2時間続きの理科だった。教科別になっている大学ノートの並びから、理科のノートを取り出す。ページを開き、指導内容をチェックする。光合成の学習が始まる。
 連休を挟んで同じ単元をすると、こどもたちは連休前の学習を忘れる。
「だから、どんなことをしても、連休前に大きな学習は終わらせておくこと。中途半端に終わらせると、連休明けに、もう一度はじめからやらなきゃならなくなるわよ」
 なるほど、そういうものか。杉田に教わった。
 だから、理科は、きょうから新しい光合成の単元を始めるようにしていた。そのために4月の終わりは、どの教科もかなり飛ばして終わらせてしまった。
 3時間目は裏山に行って、植生を観察し、4時間目は教室に戻って植物の主要な構成を指導する予定になっていた。
「しまったぁ。まだ外に出ることを教頭に言ってなかった」
 秀夫は、あわてて教室を出て職員室に向かう。
 4月に算数を階段下の公園で指導したとき、黙ってこどもたちを連れ出した。校内では4年2組が雲隠れにあったと大騒ぎになった。
「こどもたちに万が一のことがあったらどうするんだ」
 教頭に怒鳴られた。公園で万が一のことなど怒るはずはないと反論したかったが、仕方がない、学校とはそういう組織なのだと自戒した。同じことを繰り返すわけにはいかない。許可を求めに行くのではない。行き場所を伝えに行くのだ。
 職員室には教頭はいなかった。職員トイレに行った。案の定、教頭は用を足しているところだった。5個ある小便器の一番奥で便器に正対している。50を過ぎ、背広を着て、ネクタイが汚れないように肩にかけている。背が低く、きっと150センチぐらいではないかと秀夫は思っていた。
「あ、教頭先生」
 教頭は、秀夫を見た。
「お、戸崎さん。何か用事か」
用事がなけりゃ、こんなところまで来ない。
 一瞬の間があった。秀夫の返事よりも先に、教頭が言う。
「俺がなんで、この入口から一番遠い便器で用を足しているのか、わかるか」
そんなことはどうでもいい。あんたの趣味なんだろう。
 黙っている秀夫にはおかまいなしに教頭が続ける。
「ひとは、いつも手近なところから行動する習性がある。トイレも、入ると一番手前が空いていたら、そこから使う。もしもそこが使用中だったら、二番目に入口に近いところを使いたがる。この学校のトイレは小便器が5個あるけど、5人も同時に連れションをすることはない。結果として、一番奥の便器が使われなくなる。だから、俺はいつもここを使っているんだ」
どういうことかわからない。
「ひとが使っていない便器がきれいだからということですか」
こんなやりとりをするために、ここまで来たんじゃないんだ。
「あほ。いいか、何度も同じ便器を使い続けると、その便器ばかり尿石という汚れがつく。分散して使えば尿石の量は一定だけど、偏りがあると尿石の量がばらばらになる。清掃のひとが困るだろう。どれも同じように洗えばいいものを、汚れにムラがあるといちいち洗い方を加減しなけりゃいけない。俺はそういうひとたちに苦労をかけたくないんだよ。わかるか。これは立派な初任者研修だ」
「はぁ」。
 気のない返事をするしかない。休み時間が終わるチャイムが校舎内に響いている。

6361.3/2/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 6

 教材室のドアにはガラスが入っている。そこから室内を見ると、早葵は1メートル四方のウレタンマットに横になり、眠っていた。起こさないように静かにドアを開けて、秀夫は中に入った。早葵はからだの右側を下にして寝ていた。小さくからだを丸めて、胎児の姿勢をとっていた。白いブラウスに赤いスカート。スカートは両肩にかける紐がついていた。ブラウスの襟口は、よく見るとやや茶色っぽい。垢やほこりがこびりついている。何日か同じ服を着たままなのだろう。
 連休明けなのに、上履きは洗った形跡がなく、スカートから出ている膝小僧は冬でもないのに皮膚が硬くこわばっていた。早葵は、母親と二人で暮らしていた。母親は、逗子のスナックで夜の仕事を続けている。いつも早葵が帰る頃に、濃い化粧をして家を出て行く。早葵が寝るときも帰ってこない。夕飯の準備ができているときもあれば、できていないときもある。もうすぐ10歳にやっとなるこどもに、自分のことは自分でやれとは言えない。

 廊下を走るこどもたちの音や振動が伝わったのか、早葵は静かに目を覚ました。
 かなり寝ぼけた感じで上半身を起こした。
「おはよ」
秀夫は、声をかけた。
 早葵は、ギクッとした。そこに秀夫がいることに気づいていなかったのだ。整理がつかない頭をしながら、両手で目をこすった。
「大事な鉛筆だったんだ」
秀夫が言う。早葵は、少しずつ思い出すようにうなずいた。
「こどもの日に、お父さんが買ってくれた」
 秀夫は、早葵の父親の存在を知らない。うかつに話に乗っては危険だ。実の父親なのか、母親がだれかと内縁関係にあるのか、事情がわからないからだ。早葵にとって、その鉛筆がほかの鉛筆とは違う大事なものだったということはわかった。
「もう、信夫から鉛筆は取り戻したから、教室に戻ろう」
 早葵の返事を待たずに、秀夫は早葵の手を取った。早葵は、素直に従った。こういうときに「戻ろうか」とか「どうする」と聞くと、早葵はどんどん混乱して、自分でも抜け出せない深みにはまってしまうことを、4月の一ヶ月間で秀夫は学んだ。このこどもには、判断を求めるのではなく、方向を示してあげることが必要なんだと思えてきたのだ。
 早葵の手を引き、教材室を出た。廊下を歩く。早葵はうつむきながら歩いていたが、秀夫の手をぎゅっと握り返していた。力強く握り返していた。
 教室に入る。黒板の上の時計が10時半を指している。
「あと、10分は遊べるから、遊んでおいで」
窓側の席でトランプをしている女子のグループに視線を送った。

6360.2/28/2010
湘南に抱かれて-1985年春- 3章

story 5

 4年生の廊下の端に、移動黒板や積木などの教材をまとめて収納している教材室がある。
 早葵が逃げ込む最有力候補の隠れ家だ。秀夫は、廊下を足音を立てないように歩き、教材室のドアの窓から中を覗いた。予想通り、早葵は、ドアに背中を向けて床に座り込み、小さくなっていた。泣いているというよりも、いじけているという感じだった。こうなると、しばらくは周囲の働きかけを受け入れない。だれかが自分を心配してくれて迎えに来てくれるだろうという気持ちが彼女を支配している。こういう段階では、どんな言葉かけをしても、土俵の主は早葵だ。
 4月は、そういうことに気づかずに、秀夫は早葵が用意した土俵に乗り、早葵の思うように振り回された。
「あほたれ、同じ手には乗らないぜ」秀夫はこころで毒づく。早葵をそのままにして、ふたたび1組の杉田の授業に戻った。
 杉田は、こどもたちに課題を出して、席の間を歩きながら、ノートを見ていた。教室に戻ってきた秀夫を見て、目で「どうしたの」と尋ねる。秀夫はそばに行って、事情をかいつまんで伝えた。
「ここにいて、大丈夫なの」
「はい、授業が終わるまでは、早葵はあそこを動かないと思います」
 教材室は行き止まりの廊下の突き当たりにあったので、そこから先に逃げることはできない。仮に部屋を出て、別のところに行こうと思ったら、いま秀夫がいる1組の前を通らなければならない。廊下を通る人影に注意していれば、ここにいても大丈夫だと判断した。

 1時間目の参観が終わり、2時間目は算数だった。こどもたちは、連休モードを引きずっていて、とても算数をやる気にはなれない様子だったが、授業を進めないと学年末までに年間で予定している学習内容を終了させられないかもしれない。こどものやる気に関係なく、メニューはこなさなければいけないのだ。
 秀夫は、教師になる前は、教師の仕事はもっとゆとりのあるものだと勘違いしていた。その日のこどもの様子で、予定を柔軟に変更できるものだと思っていた。しかし、4月が終わったとき、自分が1組の杉田や、3組の田淵に比べて、どの教科も単元が一つ以上遅れていたことを知ったとき、愕然とした。このペースでは学年末に10個以上も単元が終わらないことになる。
 早葵は2時間目も教室に戻ってこなかった。それでも秀夫は気にせずに、授業をした。空席の早葵の机を学級委員の米子は気にしていたが、目で「大丈夫」とメッセージを送った。
 早葵は信夫とのトラブルで教室から脱走したが、それはきっかけに過ぎない。どんなことでも、いまの早葵にはきっかけになる。それぐらい、ぎりぎりの気持ちで登校しているのだろう。だから、脱走しても、気持ちはクラスに向いていると、秀夫は確信していた。詳しい事情を知らないで、4月は早葵が脱走するたびに後を追いかけ、事情を聞いた。そのたびにきっかけになった出来事を口にはしたが、何度も同じことを繰り返す早葵を見ていて、本当は自分をかまってほしい気持ちが大きいのではないかと感じるようになった。前の担任の立木に相談した。
「俺の口から言うよりも、家庭訪問で母親から詳しいことを聞いてほしいんだけど。ある程度はつかんでおいたほうがいいよな」
早葵の出生、家庭環境などについて教えてもらった。

 2時間目と3時間目の間に20分間の休み時間がある。
 算数の時間は、連休明けでやる気が出ないのかと思っていたが、休み時間になったら、クラスのこどもの大半は元気にボールを持って外に出て行った。
「さてと、お嬢さんはいかがかな」
 秀夫は、早葵がこもっている教材室に向かった。