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6339.1/25/2010
坂の下の関所 10章

story 158

 2010年元旦。
 いつもわたしは鶴岡八幡宮に初詣に行く。しかし、大晦日から鎌倉の夜をまたいでの年越しはしない。大学時代までは、そういう無理ができた。就職してからは、一人暮らしをした。大晦日の午後11時45分あたりから、NHKで「行く年来る年」を放送する。全国の年越し寺社が中継されている。なかには雪景色の古刹もある。除夜の鐘が始まっている。わたしは、テレビの横に空の丼を置き、財布からお金を出してはそこに投げ入れ、勝手に願い事をしていた。就職してからは、とても横着な初詣に変更したのだ。
 厄除けや、札を取り寄せるようになった。40歳を過ぎていた。
 その頃からふたたび正月の鎌倉に行っている。
 午前6時に出発する。鎌倉の中心部は三が日の期間、一般の乗用車の乗り入れが規制される。歩いて鎌倉に行くにはとても便利だ。バスやタクシーは動いている。
 出発したときは、あたりは暗い。しかし、鶴岡八幡宮に到着する7時ごろには日の出を迎える。たいがい、徹夜をしてきたひとたちは始発電車で帰っている。起きてから初詣に行こうと思っているひとは、まだ起きたばかりぐらいの時間だ。だから、午前7時ごろの鎌倉はとても空いている。ねらい目なのだ。
 それが、ことしの元旦は裏切られた。
 道路も八幡宮の境内も混んでいたのだ。
 そういえば、海外旅行に行くひとが減ったとニュースで言っていた。不景気なので収入が減り、贅沢をしていられないひとが増えたのだ。遠出をしないひとが増えたので、近場の初詣に変更したのだろう。
 不景気になると神様はたくさんの願い事を聞かなければならない。
 不景気にした張本人たちに、神様の鉄拳が下るのはごもっともだ。
 初詣から帰り、家族で雑煮を食べる。かんたんなおせち料理をつつく。
 関所は三が日は休みなので、日本酒「山猿」「出羽桜」が自宅にキープしてある。ふだん、あまりテレビを見ないわたしは、実業団対抗のニューイヤー駅伝を見ながら、山猿を喉に流し込む。選手たちは、元旦の上州路を必死に走る。わたしは、窓辺のロッキングチェアで横になりながら、その必死さと正反対の心地よさに包まれる。
 暮れにデジタルカメラを買った。以前、買っていたが壊れてしまった。その後は携帯電話のカメラ機能に頼っていた。いまは携帯電話のカメラでも十分な写真が撮影できる。わざわざカメラを新調する必要がなかった。それが、家族の事情で買わなければいけなくなった。
 いつまでもニューイヤー駅伝を肴に酒を飲む元日はからだにいかん。
 そう思い立ち、新しいデジタルカメラの練習を兼ねて、山崎から大船を歩くことにした。
 さすがに元日の山崎商店街はシャッターを下ろしている。お馴染みの関所には、新年は四日から営業いたしますの貼り紙。ここでもカメラの練習。シャッターを下ろし、きっと壁の向こうでは大宴会の真っ最中を想像し、関所を撮影した。

6338.1/24/2010
坂の下の関所 10章

story 157

 すっかり、自動ドアの外は暗い。はす向かいの八百屋に、さっき帰って行った烏丸さんと赤坂さんの後姿が見える。ヨタヨタ歩きながら、八百屋のご主人になにやら話しかけている。いつまでも話そうとしている烏丸さんの肩を赤坂さんが抱いて、バス停方向に歩き去る。ふたりは、住んでいる方角が同じなので、たいがいはいっしょに帰って行く。
 店の奥のシンロートコーナーでは、ずっと相田さんが携帯電話をにらんでいる。
「また、だれかとデートの約束してるんでしょ」
若女将が冷やかす。その声が聞こえないかのように、相田さんは大きな指で小さなボタンを押している。
「ちわっす」
カンちゃんが仕事から帰ってきた。
「お帰りー、どうする。ビールかな」
すでに若女将の右手は生ビールのコックにかかっている。
「うん、あれ、センセーいたの」
かくれんぼをしているんじゃないんだから、そういう挨拶はないでしょ。
「まだ、学校あるんでしょ」
生ビールを受け取り、レジ前からわたしのいる焼酎コーナーに近づく。
「うん。でも、冬休みに入ったら有給を使って仕事は休むんだ」
「じゃ、学校に行かないの」
そういうことでしょ。わたしはうなずく。
「それじゃ、朝、会えなくなるの」
「会えないって、カンちゃんはチャリで俺の横を暴走して行くだけじゃないの」
「暴走なんて、失礼な。ちゃんと挨拶をしてるでしょ」
 カンちゃんはいつも大船駅で上り方面の電車に乗る。わたしは、違うホームで下り方面の電車に乗る。だいたい同じ時間帯の電車だから、通勤途中で会う。会うといっても、徒歩のわたしと自転車のカンちゃんとでは、瞬間の出会いだ。わたしが歩いていると、ペダルをこぐ音が近づいてきて、すれ違いざまに「おはよー」とカンちゃんが言う。返事をしようと思ったときには、すでに数メートル前方を立ちこぎしている。
「やっと、あの早朝出勤から逃れられるぞ」
わたしは、小さくガッツポーズをする。
「えー、寂しいから、学校に行かなくていいけど、あの時間に大船まで歩いていてよ」
「あほ」
何が悲しゅうて、早朝、まだ日の出前の時間に用もなく外出しなきゃならんのじゃ。
「あ、佐藤先生だ」
若女将が、ドアの向こうの佐藤さんに手を振る。佐藤さんは、ドアの向こうでマフラーを外している。関所に入ってから外した方がからだが冷えないのに、律儀なひとだ。
「どうも、こんばんは」
佐藤さんは、荷物をわたしのリュックのとなりに置く。
「佐藤さんの家って、どこなの」
急にカンちゃんが元気になった。
「今度、忘年会やるんでしょ。でも、行き方を知らないんだもん」

6337.1/22/2010
坂の下の関所 10章

story 156

 赤坂さんが、関所のカレンダーを眺めている。
「今度の金曜日は会社の納め会だから、ここに来るのは年内はあしたが最後か」
つぶやくように言って、タバコをくわえる。
 眺めていたカレンダーを、わたしものぞく。
「ずいぶん、早く年内は仕事納めなんですね」
まだ、大晦日までは一週間ぐらいありそうだ。
「不景気だからさぁ」
 そういえば、去年の今頃は派遣社員が全国で大量に契約期間切れを理由に解雇されていた。東京では、年越し派遣村ができた。仕事も住むところもなくなったひとたちを、有志のメンバーがテントで支えた。ことしは、東京都が行政をあげて派遣村を開設したという。予想していた人数よりも多くのひとが集まり、受け入れ側は対応に追われているそうだ。一年が過ぎても、仕事も住むところもないひとが減ってはいない。
 ジュースやペットボトルのお茶が冷やされている大きなクーラー。その影から、烏丸さんが顔を見せる。
「センセー、こっちゃ、来い」
すでにかなりアルコールがまわっている。わたしは、山猿を入れたコップを片手にクーラーに近づく。赤坂さんと烏丸さんが並んで飲んでいる間に立つ。
「烏さんも、今週で仕事は終わりですか」
「しかし、なんだなぁ」
おいおい、わたしの質問に答えてくださいな。
「インフルはおさまったかい」 完全に、わたしの質問は聞いていないようだ。
「いや、まだ学校では猛威をふるってますよ」
プ、カラスさんはペットボトルの焼酎のウーロン茶割を口に当てながら、吹く。
「猛威だって、さすが、センセーは難しいことを言う」
いや、そんなに難しい表現だったかな。
「センセーは冬休みは何して遊ぶんだ」
「遊ぶ余裕はないですよ。それに厳密に言うと、まだ休みではないし」
プ、また烏さんは、吹く。
「厳密だって。そういう難しい言葉はやめようよ」
「あほ、カラス、センセーは俺たちとここのなかみが違うの」
赤坂さんが自分の頭を指差して、烏丸さんを諭す。
「そういうことか、そうだろうなぁ」
そこって、納得するところかな。
「俺なんか、休みは朝からこれよ」
赤坂さんが、ぐいっとコップをあおるまねをする。
「朝から、飲んじゃうんですか」
「そうそう、赤坂さんは呑み助だから」
うなずく烏丸さんは嬉しそうだ。
「じゃぁ、烏さんは何をしてるんですか」
「俺かぁ」
 そう言いながら烏丸さんは、両手でハンドルを握るまねをする。
「ドライブですか」
ピンポーン。そのリアクションは古すぎます。
「でもな、最近は金がないから、同じハンドルでもこっち」
今度は、右手だけで手元の小さなハンドルを回すまねをする。
「パチンコですか」
ドンピシャ。そのリアクションも古いなぁ。

6336.1/21/2010
坂の下の関所 10章

story 155

 冬至が近づいていた。
 わたしは手袋をして家を出る。午前5時50分。外は暗い。車はヘッドライトをつけている。まだ夜が終わっていない。仕事納めまでもう少し。
 家からの坂を下る。近くの病院の自動ドアが開く。あれ、永田さんだ。
「おはようございます」
わたしに気づかない永田さんは、タバコを手元にしてライターで火をつけようとしていた。
 もう一度、挨拶をする。
「あれ、センセーか。はぇーなぁ。こんなところで何をしているんだ」
それは、わたしもあなたに聞きたい。
「いや、うちはすぐそこなんですよ。これから出勤。それより、永田さんこそ」
「俺は、ここで清掃の仕事なんだよ」
 お互いに吐く息が白い。
 大船駅で午前6時30分の東海道線に乗るためには、ここであまり長話をするわけにはいかない。
「だって、ここの仕事は以前は昼からって言ってなかったっけ」
そんな記憶がある。
「ほかの仕事をやめて、こっち一本にしたんだ」
もしかすると、永田さんは夜勤明けなのかもしれない。
「そうですか、それじゃ」
わたしは、手を振り、永田さんと別れた。
 暗い歩道を歩く。そういえば、最近は関所で永田さんに会わなくなった。それまでは、夕方にわたしが関所に寄ると、必ず赤い顔をしていた永田さん。しばらく会わないと、病気でもしたのかなと心配になった。赤坂さんに永田さんのことを聞いても「おら、知らね」と関心がないようだった。
 でも、夜勤の仕事が始まったとしたら、夕方に飲んでいるわけにはいかない。生活のパターンが変わってしまったのか。永田さんは、いつも焼酎やウイスキーを買っては、クーラーに保管する。どれも少ししか飲まないから、いつの間にかクーラーは、永田さんがキープする飲み物であふれてしまう。
「永田さん、ほかのひとの酒が入らないから、どれか飲んでから、次のを買うようにしてよ」
わたしは、文句を言った。
「いいじゃねぇか、俺はいろんな酒を少しずつちびちび飲むのが好きなんだよ」
そう言って口を尖らせていた永田さんが、懐かしい。
 わたしは、シャッターの閉まっている関所を通り過ぎ、大船駅に向かう。
 シャッターの向こうのクーラーには、いまも永田さんのキープした酒があるのだろうか。もう期限を過ぎて処分されてしまった。いや、飲み屋ではないのでそもそも期限などない。お店に迷惑がかかっていたら、処分されて当然なのだ。でも、毎日夜勤ということはないだろうから、たまに関所に寄ったときに、また話をしてみたいものだ。

6335.1/19/2010
坂の下の関所 10章

story 154

 わたしは寿司を握っていた。
 麻酔科医の佐藤さんのお宅で調理人をやっている。年末の鎌倉。マンションのベランダからは鎌倉山の山並みが見える。佐藤さんの知人を集めての忘年会で、食事を作る手伝いをしているのだ。
「うわぁ、こりゃ、うまいっす」
テーブルに集まった佐藤さんの知人たちから、握り寿司に対して感動の声が上がる。作りがいがある。前日に、築地で仕入れてきたネタが台所に並ぶ。
 インドマグロ、キンメダイ、白イカ、ホタテ、ウニ。
 すべて前日のうちに握れるように下ごしらえがしてあった。
「センセー、このお寿司、うますぎるよ」
ダイニングから台所に少しビールがまわっているカンちゃんが声をかける。
「これ、お土産」
カンちゃんの手には、なぜか大量のよっちゃんの酢漬けイカが握られていた。
「なんだ、そりゃ」
「関所に寄ってきたんだ」
 カンちゃんなりに、それは差し入れのつもりなのだろう。
「それから、これ」
次に差し出した手には、エビスビールのロング缶。わたしのお気に入りのビールだ。緑色の缶ビールだ。
「若女将がセンセーはいつもこれだからって言ってた」
 何日も前から、年末に佐藤さんのお宅で忘年会の手伝いをすることは関所で話題にしていた。だから、気を使ってくれたのだ。ありがたい。
 いますぐにでも飲みたい気持ちを抑える。
 テーブルから声がかかる。
「ごいっしょにやりませんか」
 年配の男性が、コップに注いだビールを片手に持っている。
「いやぁ、飲んでしまうと、作れないんです」
 これは、謙遜ではなく事実だ。
 わたしは、これまでも友人で集まって何度か食事会の手伝いをしてきた。しかし、途中からアルコールに手を出し、予定していた調理をほとんどしないまま酔っ払ってしまったことが何度もある。今回こそは、頼まれた仕事をやり終えるまではアルコールに手を出さないと決めていた。それに、酔うと手元が狂うので、よく包丁で手を切ってしまう。出血した手で握り寿司は作れない。
 佐藤さん、カンちゃん、若女将。みんな関所のつながりだ。
 関所で出会わなければ、佐藤さんのお宅で忘年会の手伝いをしていることはなかっただろう。

6334.1/18/2010
ガッコー「海風」 cap. 1

1月6日・午後8時・比翼カゴメ邸

 井桁は、湯飲みのお茶を半分飲んだ。両手でお茶の温もりを受け止める。
「何もかもお見通しですね」
「チャコちゃんとは付き合いが長いからね」
 井桁は、ゆうひで佐藤から相談されたセクハラの話をした。話を聞いている間、カゴメは珍しく険しい表情を何度も浮かべ「許せない」と鋭くつぶやいた。
「わたしは、組合に相談するように佐藤さんに言ったんです。あそこなら女性部もあるし、セクハラ問題担当のセクションもあるので。でも、佐藤さんが話を大きくしたくないから、そこまでしないでほしいって強く断るです。校長に頼んで、浅葉さんに指導し、浅葉さんから誠意ある対応があればいいって。でも、それじゃ、犯罪に近いことをされたのに、謝ってくれればいいなんて、ひとがよすぎるって反対したんですけど」
カゴメは、二杯目のお茶を湯飲みに入れる。
「たしかに組合に話をもっていけば、対応に間違いはないと思うわ。でも、佐藤さんが心配するように話が大きくなるかもしれない。もしかしたら、佐藤さんの手を離れて、代理人が法的な手続きをするようなね。そこまでは佐藤さんが求めていないってことなのかしら。わたしなら、昔からセクハラの噂が絶えない浅葉さんのことだから、いつかきちんと処分されたほうがいいと思うけどね」
空になった湯飲みを両手で持ちながら井桁はうなずく。
「親身になろうと思えば思うほど、彼女のつらさが見えてくる。自分が受けた苦しさを蒸し返されるのがいやだという気持ち。でも泣き寝入りしたら、口惜しさはふくらむばかり。どうすればいいのか、わからなくて、身動きが取れない。ただ、わたしがこんなことを言うのはご法度なんですけど、いまの校長、鶴湯校長に、この問題を解決する能力があるとは考えにくいんです。若い佐藤さんにはそんなことは言いませんでしたが」
井桁の湯飲みに二杯目の緑茶をカゴメが注ぐ。
「鶴じゃ、無理ね。佐藤さんにとっては校長ならば諸問題を解決する能力があって当然だと考えているんだろうけど。校長だってピンきりなんだから。とくにあと二ヶ月で定年退職を迎える鶴の最大の関心は、このまま何も問題が起こらないことのはずよ」
「そうなんです。だから、校長を期待して相談しても、反対に期待が裏切られて、いまよりも、もっと苦しむ佐藤さんが予想できてしまうんです」
 カゴメはお盆を持って立ち上がる。
「とりあえず、話はわかったわ。今夜は遅いから、ここまでにしましょう」
「あら、やだ、もうこんな時間」
携帯電話の時計が午後10時をさしていた。
 カゴメは木戸まで送る。
「遅くまでごめんなさい」
井桁が頭を下げる。
「謝る必要はないわ。あしたはわたしは休務日だけど、適当に理由をつけて出勤する。そのときに今後のことを相談しましょう。くれぐれも佐藤さんの動向には気を配っていてね」
 木戸の向こうにカゴメが消えた。井桁は、静かに感謝の礼をした。
 暗い小さな港町。外食チェーンの照明だけが灯台のように明るい。カゴメの家から歩けば10分の道のり。井桁は自宅まで小走りで帰る。

(第一章・おわり)

6333.1/17/2010
ガッコー「海風」 cap. 1

1月6日・午後8時・比翼カゴメ邸/FONT>

 一通りの夕飯をすませた。
 台所に立ち、井桁は食器を洗う。となりのテーブルでカゴメが洗った食器を拭く。乾いた頃を見計らって、食器棚にしまう。
 井桁が、カゴメに頼まれていたのは、河鹿の様子だった。
 若い河鹿は教員としての意欲はあるのだが、いつもから回りする。意欲をうまくかたちに移せないのだ。それを先輩の仙田に叱られる。ひとは叱られて伸びるタイプと、萎縮するタイプに分かれる。明らかに河鹿は萎縮するタイプなのだが、仙田はおかまいなしだ。それが、カゴメには気になる。
 仙田は仕事ができる。それを自慢するような仕草を見せない。
 しかし、仕事ができない相手に対しては厳しい。真っ直ぐ過ぎる。
 カゴメがとやかく口を挟むと、たった3人の海風学級は指導者の関係が崩壊する。だから、いつも援護を井桁に頼んでいるのだ。
「それにしてもねぇ。河鹿さんにはまいったもんだ。始業式前前日になっても出勤しないとは」
 井桁は、食器を洗いながら、振り向いた。カゴメのため息が聞こえる。
「あしたは出勤するでしょう。動静表をチェックしてきましたので」
「だといいんだけど。もしも休暇を取ったら、仙ちゃん、怒るよ。河鹿さんのアパートに乗り込むぐらいのことは平気ですると思うな」
 ふふ。そういう熱い教師がいてもいいではないか。井桁は、ゆうひで山猿を飲んでいた仙田を思い出す。
「わたしの予想では、仙ちゃんはもうきょうは授業準備完了。あしたは家庭訪問のつもりだと思うよ」
カゴメは、拭いた食器をきれいに重ねる。
「ピンポーン。わたしの机上に朝から家庭訪問して出勤するってメモがありました」
「家庭訪問から戻ったときに、河鹿さんが休暇を取っていたら、血の雨が降るかもね」
「そんなぁ、よしてください」
そう言いながらも、井桁は海風学級のスタッフをうらやましく感じた。
「さ、片付けも終わったことだし、向こうでお茶にしましょう」
「もう遅い時間ですから、わたしはこれで失礼します」
「チャコちゃん、忘れ物はいけないわ」
カゴメは、茶器をお盆に乗せて、和室に向かう。後ろを追いながら、井桁は忘れ物って何だろうと考えた。
 緑茶。からだの芯が温まる。
「さ、忘れ物を見せて」
「え、忘れ物って」
「あなたがここに来た目的は、わたしに伝えたいことがあるからでしょ。それも急に何か問題が発生したから、あしたではなくきょうがよかったんじゃないの」

6332.1/15/2010
ガッコー「海風」 cap. 1

1月6日・午後8時・比翼カゴメ邸/FONT>

 背中に小山、正面に小さな海岸。バス通りをはさんだ家並み。そのなかで、古くからの大きな屋敷が比翼カゴメの家だった。同い年の夫は、学校用務員として働き、カゴメと同時に60歳で退職した。再雇用の誘いを断り、いまは趣味の釣り三昧の日々を送る。
 海風町には町立小学校が3校ある。比翼の住んでいる海寄りの地域は、渚小学校が学区だ。高台を切り崩して開校した海風小学校の周囲には森と畑しかない。これに対して古くからの渚小学校の周囲には、旅館、土産物屋、雑貨屋、魚屋、八百屋などが立ち並ぶ。海風町役場もあり、小さな町の政治、経済の中心地なのだ。最近では、外食チェーン店まで進出している。
 井桁は、海風小学校から比翼の自宅まで歩いた。木戸でインターフォンに用件を告げた。
 ほどなくして、カゴメが現れ、井桁を敷地内に招き入れた。
「ゆっくりできるの」
カゴメが、思いやる。
「少しは」
そう言ったとき、井桁の胃袋あたりで、空腹の虫が悲鳴をあげた。
「やだぁ、お昼はゆうひでちゃんと食べたのに」
井桁は、自分のへそあたりを押さえた。
「チャコちゃん、旦那に電話して。きょうはうちで食べていくって」
カゴメは、井桁の名前、知耶子を短縮して、チャコと呼ぶ。
「ありがとう、じゃ、甘えますね」
 きれいに手の入った庭園を障子のガラス越しに見ながら、井桁は掘りごたつに入っている。
 カゴメがお盆にガラス製の徳利とお猪口を持ってきた。肴は、太刀魚の塩焼きだ。
「まずは、あったまろう」
カゴメもこたつに入る。互いに直角の位置関係に座る。井桁が高清水をカゴメのお猪口に注ぐ。徳利をカゴメが受け取り、井桁のお猪口に高清水を返す。ふたりはお猪口をもって、小さく合わせる。
「あけまして、おめでとう。ことしもよろしく」
月並みな挨拶で、始まる。
「ご主人は」
井桁が、ふすまの向こうを気にする。
「もうこの時間には寝ているわよ。釣りがいまは人生のすべてだから、朝が早いのね。だから、今夜は何も気にしないで、飲んで、食べて」
「ありがとうございます」
竹箸を使って、井桁は太刀魚を口に運んだ。

6331.1/14/2010
ガッコー「海風」 cap. 1

1月6日・午後0時30分・ゆうひ

 学校の近くの食堂なので、桜も自然と隠語を覚えている。スペシャルなお客さんとは、障害児のことだ。
「あー、そいつとは大学の同期でね。暮れに久しぶりに会って、この酒を紹介されたんだ。酒米が珍しい。コクリョウミヤコっていうんだよ」
 淳と桜が少しずつ作り、ためている、陶器のぐい飲み。かごに入ったぐい飲みを、桜が三つ取り出す。
 どれどれ、淳が栓を抜く。鼻を瓶の口に近づける。
「広がるねぇ」
「だろぅ」
 とととととと。ぐい飲みの半分ほどに山猿を注ぐ。
「じゃ、ことしもよろしく」
三人で乾杯した。
 がた。頭上で何かが触れた音がした。
「正月早々、しけこんでるやつがいるみたいだな」
仙田は、瞳を天井に向ける。ビップルームのことを、仙田は知っている。知っているなんてレベルのものではない。あの部屋への思い入れはだれよりも強い。
「さっき、井桁さんと佐藤さんが来て食事の途中だったんだけど上がっていったの」
 ふうーん。仙田には興味がなかった。
 わざわざ人目を避ける必要があるのだから、大事な話なのだろう。結婚話かな。でも、そんなのは秘密にはしないか。結婚前妊娠でもしたのか。相手はだれだ。
 夢想をふくらませながら、仙田は山猿を少しずつ口に含んだ。
「きょうは火を通したもの、それとも火を通さないもの。どっちの気分だ」
淳が山猿を飲み干して、厨房に戻りながら、振り返った。
「まだ大して市場が開いてないから、火を通したものがいいかな」
 了解。淳は厨房に入った。
 階段をひとが降りる音が響く。仙田は振り向かない。階段を降りた井桁が店内を見回し、仙田を見つけた。一瞬、仙田の背中で空気が張りついたように感じた。
 もう一つの足音は、とても弱々しい。その足音を助けるように、井桁の強い足音が重なった。振り向いてはいけないと、仙田は直感した。自分は、いま、何も見ていないし、何も聞いていない存在になることを求められているのだ。
 佐藤は、涙で曇る眼前の風景のなかに、だれがいるのかなど確認はできなかった。視界に映るものがぼやけて、脳裏に過去のいまわしい場面がよみがえる。
 井桁は、桜にお金を支払い、佐藤の肩を抱き寄せながら、声を出さずに唇だけ「じゃあね」と桜にわかるように動かした。

6330.1/13/2010
ガッコー「海風」 cap. 1

1月6日・午後0時30分・ゆうひ

 仙田は、塩辛と4合瓶の日本酒を持って食堂「ゆうひ」のドアを開けた。
 カウンターが空いているのを確認して、厨房にもっとも近い席に座る。
「正月からご苦労さん、はい、桜さん、これ」
仙田は、桜に塩辛の入ったタッパーと日本酒を渡す。
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」
「何よ、あらたまって」
仙田は、席からおりてお辞儀をする。
「こちらこそ、ことしも俺の胃袋を満足させてくださいな」
 厨房から店主の淳が出てきた。
「よ、仙ちゃん、ことしもよろしくな」
 淳は、桜からタッパーを受け取る。
「昼から、やるかい」
そう言って、お猪口を飲む仕草をする。
「いいねぇ、お願い。冷やでいいから」
 仙田は、数ヶ月に一度築地市場に買出しに行く。一人暮らしをしているので、自分のためだけでは行かない。だいたい、知人の注文を聞いて購入してくる。ゆうひの素材としては、季節オンリーのメニューになってしまうが、淳がうまく調理するので、季節オンリーメニューを楽しみにしている客も多い。
 暮れにも行った。そのときにスルメイカの大きいのが安く売っていたので、まとめて10杯買って、半分をゆうひに、半分を自分で塩辛にした。その塩辛を小分けして、カゴメにあげた。近所の隠居にもあげた。仙田の塩辛を楽しみにしているファンが少なからずいるのだ。
 淳もそのなかのひとりだった。桜は、仙田の塩辛を炊き立ての土鍋ご飯に乗せて食べるのが好きだった。
「仙ちゃん、いまのご時世、昼からアルコールはまずいんじゃないの」
桜が心配をする。
「ご心配、ごもっとも。でも、昼までできょうの仕事は終わらせてきたから、午後は休暇にした。だから、もう会社には戻らない」
学校関係者が、学校以外で勤務先を言うときの隠語が、会社だ。
「じゃぁ、安心」
桜は、四合瓶の包装を解いた。
「これ、山猿っていうの。聞いたことないけど」
「あー、同業者の紹介でね。この辺じゃ大船の関所っていう酒屋でしか扱っていない。山口の酒だよ」
「へー、山口ね。珍しい。仙ちゃんの同業者の方も、やっぱりスペシャルなお客さんを相手にしているの」