6309.12/7/2009
ひとと予算の削減を防げ cap.
3
わたしが勤務する湘南の地方都市でも介助員を雇って学校に派遣している。
実際には、介助員は各学校で探し、各学校が教育委員会に申請するので、市は給料を支払っているだけだ。この給料は、時間給だ。恐ろしいほど安い。労働基準法に抵触しそうなほど安い。
この介助員時間数が新しい市長になってから激減している。ついに昨年度は3月は0円だった。
特別支援教育の現場で、介助員の果たす役割はとても大きい。
教員ではないので、指導計画立案や授業計画にはかかわらない。しかし、個々のこどもの支援補助や休み時間の安全管理など、教員だけでは補えない隙間部分をていねいに補完してくれている。
介助員の多くは、とても長く同じ学校で仕事を続けている。わたしがお世話になっている介助員は、20年近くいまの学校で仕事をしている。だから、保護者たちのほとんどが知っているほどだ。
また、ひとの役に立ちたい、とくに障害を負っているこどもたちの役に立ちたいという純粋な思いを強く抱いている。だから、すきあらば仕事をサボろうとするような輩はいない。信頼できるひとたちなのだ。
だいたい介助員時間数は、年度当初と半年後、年度末の3回に分けて配当される。昨年度は3回目の年度末が0円だった。半年後は市議会で補正予算が成立するので、例年は年度当初と同額程度の配当になってきた。それが、今年度は、年度当初の配当時間の8分の一しか半年後に配当されなかった。
通常級にも支援が必要なこどもがいる。
介助員は通常級でも申請できる。
通常級、特別支援学級、ともに困っているこどもを助ける役目の介助員を、教育行政は削減し続けている。
こどもたちは、十分な指導や支援が受けられなくなる。
特別支援教育を担う教員、介助員が減るかもしれない。
にもかかわらず、新しい市長は、不透明な公金の支出で新聞に載った。
市の土地開発公社を通じて、数億円の公金で山林を購入していたのだ。そもそもその土地に、それだけの価値があったのかを疑問視する声もある。
「緊急に購入し、公共的な使い方が必要だった」
そう釈明している。しかし、半年以上も前に購入した土地は11月になっても手つかずだ。
土地を売った地元のひとたちと、市長との間にどんなつながりがあるのだろうかと訝りたくなる。数億円の売却金のうち、何割かが市長にお礼としてリターンしていないといいのだが。
特別支援教育の現場から、ひとと予算を削減すると、確実にこどもどうしのトラブル発生へとつながる。未然に防ぐことが困難だからだ。発達障害のこどもは、悪意なく、想像もしない衝突へと発展する。一生に渡り後遺症が残る怪我が発生したら、管理責任を問う裁判が起こるだろう。いま、不必要とけちった予算が、数億円という賠償金にかわることを危惧している。
6308.12/5/2009
ひとと予算の削減を防げ cap.
2
神奈川県は、全体的な歳入不足を理由に、学校配当予算関係を大幅に減額している。
新しい知事になってから、それは顕著だ。
教育公務員の給与削減も断行された。労働組合はどうしてストライキで対抗しないのだろう。
発達障害は、身体障害と違って目には見えない脳の障害だ。手や足が不自由でも脳が正常ならば、発達障害とは呼ばない。
発達障害は、大きく知的障害と情緒障害(自閉症)に分かれる。特別支援学級も、知的障害児学級と自閉症および情緒障害児学級に分かれる。これは、脳の障害に根本的な質的違いがあるからだ。ただし、いずれも多くの支援者を必要とする。少しでも多くの専門的な支援があれば、社会的自立へ向けた計画的な態勢を組むことができる。
それが、あやうくなっている。
特別支援学級は、こどもが8人いると教員が1人配当される。さらに神奈川県は独自の予算で、5人をこえると1人の教員を加配する。つまり、1つのクラスに2人の教員がいる。学校現場では実際には、2人の教員が対等な立場で8人のこどもを支援する。この加配部分の教員を削減しようとしているのだ。
たった8人しかいないのだから、そもそも教員は1人で十分ではないか。素人は思うだろう。発達障害の場合、1人のこどもにかかりっきりにならなければいけないケースが少なくない。そうするとほかの7人への配慮が足らなくなる。こどもどうしがトラブルを起こす。怪我をする。ときには大きな障害が残るような事故に発展する。
これまで加配部分の教員は、正規採用の教員と同じ週40時間雇用だった。これを半分の週20時間雇用にしようとしている。というか、すでに多くの学校で実施されている。週40時間勤務を臨時任用教員、週20時間勤務を非常勤講師と分けている。週20時間では1日平均4時間だ。8時半の勤務開始から12時半で勤務が終了になってしまう。これでは給食を食べている途中で「はい、さようなら」だ。
放課後に、支援計画を相談できない。教材の準備ができない。成績事務ができない。すべてが正規採用教員への負担になるのだ。
通常級の学年が遠足に行くときに、なるべく通常級のこどもたちと交流するチャンスを大事にしたいと思っても、特別支援学級から付き添いの教員を出すことができない。加配教員が非常勤では、遠足の途中で勤務終了になる。正規教員が付き添うと、加配教員は学校に残り、こどもだけを残して昼過ぎに帰らなければならない。つまり、交流活動ができなくなる。
せっかく通常学級のこどもたちと交流できる環境として、特別支援学級を選んだ保護者の願いをかなえられない。
市は、独自の予算で、教員以外に介助員を雇い、特別支援教育の現場に派遣している。
6307.12/3/2009
ひとと予算の削減を防げ cap.
1
事業仕分けがブームだが、それによって必要な事業までつぶされていないだろうか。
わたしは、税金の使い道に市民の目が光ることは必要だと思う。しかし、予算を立てる段階で、素人に近いひとたちが計画を仕分けてしまうのは無理がないかと心配になる。とかく、目の前の事業に重点が置かれ、長期的に必要な事業が後回しにならないか。後回しならまだいいが、計画がなくなったり、大幅な予算削減になったりしないか。
わたしが勤務する湘南の地方都市では、まだ事業仕分けという制度は導入されていない。しかし、おととし当選した市長のもと、着々と新しい事業が始まっている。マニュフェスト大賞を受賞した市長だ。教育委員会の人選では、市議会始まって以来初めて市長の推薦した教育委員が議会で承認されなくなりそうだった。コスト削減の名の下に、教育行政の無駄を省く考え方のひとを選んでいたからだ。
無駄を省く。
聞こえのいい言葉だが、だれが無駄と感じるかによって、物事の見方が変わってくる。
一部のひとたちには、とても必要な事業でも、多くのひとたちには無関係な事業が、無駄と判断される。教育はその領域だ。とくに、わたしが関係している特別支援教育は、少数のひとたちのための領域なのだ。
特別支援教育。かつては障害児教育と呼ばれていた。大きく身体的障害と発達障害に分かれる。教育の場は、専門とする特別支援学校(養護学校)と通常学校のなかに併設している特別支援学級(特別指導学級)だ。障害の程度に応じて、どこで学ぶかが決まってくるが、最終判断は保護者がするので、必ずしも適切とは思えないところに在籍しているケースもある。
特別支援学級の設置基準は、こども8人に対して教員が1人だ。だから、こどもが9人になったら5人と4人にわけて教員は2人になる。神奈川県は、条例で、国の設置基準に加えて、こどもが5人をこえたらさらに教員を1人配置している。これを加配という。
通常級の設置基準は、いまはこども40人に対して教員が1人だ。
だから、特別支援教育はとてもお金がかかる領域なのだ。しかも、多くのひとには接点の少ない領域でもある。
新しい市長になってから、学校への市の配当予算全体が減らされている。当然ながら、特別支援教育の予算も減らされた。
予算の減額は、確実に事業の質の低下をもたらす。教育の質は下降線をたどるだろう。現場の教育関係者に、超人的なはたらきが期待されるとしたら、ますます病気で入院するケースが増える。人材は流出し、若い世代にとって魅力のない職種として敬遠され、教育の質は地に落ちる。いったん、地に落ちた教育の質を回復させるのは容易ではない。マニュアルでマスターできるほど、教職は単純ではないからだ。
6306.12/1/2009
坂の下の関所・9章 story
153
鳥藤も関所も、わたしにとっては、ひととひとが出会う大切な場所だ。
それをひとはなんと呼ぶのだろう。わたしが大学時代にワンダーフォーゲル部で全国を歩いていたとき、多くの道が交差する場所には「寄」という漢字を書いて「ヤドロギ」とか「ヤドロキ」と読む地名がいくつかあった。
昔から、道が交差する場所は、ひととものが寄せては離れていく中継点だったのだろう。
その中継点で、ひとびとの生活や暮らし振りを見守り続ける関所の大将や若女将、鳥藤のママは、昭和や平成という時代の生き証人だ。
出張に行き、いつもより少し早く関所にたどり着いた。まだメンバーは仕事中らしい。大将が店番をしていた。
「こんにちは」
「よ、早いじゃん。また仕事、おさぼりか」
またという言葉は、誤解を招く。いつもさぼっているみたいではないか。
荷物を置き、よっちゃんの酢漬けイカの箱から、当たりそうな顔をしている袋に手を伸ばす。
「きょうは、出張先からそのまま帰ってきたから、早いの」
言いながら、30円と商品を渡す。
当たりつきの酢漬けイカ。いつもは若女将が鋏でくじの部分を切り開き、結果を教えてくれる。
「俺に、開けろってか」
大将は、酢漬けイカを受け取りながら鋏を手にする。
30円の商品なのでそもそもが小さい。小さいパッケージに小さい字で印刷してあるから、商品の説明もくじの結果もわたしには見えない。
「いや、じゃぁ、自分であけます」
わたしはバックから老眼鏡を出そうとする。
「いいからいいから」
大将は鋏で袋の角を切る。よく見ると、当たりくじの部分は袋の角にあって、四分の一の円が描かれていた。若女将はいつもそこをスパンと鋏で直線的に切るので、わたしはくじは三角形だとばかり思っていた。しかし、大将は大きなごつい手でていねいに鋏を動かしながら、きれに四分の一の扇のようなかたちに切り取ってくれた。
「やることがていねいだね」
わたしが褒めても相手にしない。そーっとくじを開く。一瞬、目が見開かれた。次の瞬間にはガクッと膝が折れていた。
「当たっちゃったよー」
くじを開いたときの大将のポーズは、喜びではなく、がっくりというポーズだったのだ。
「やったやった、運がいい」
わたしは、前日に鳥藤で飲みすぎたことも忘れ、酢漬けイカをもう一つただでゲットし、コップに山猿を注いだ。
(9章・終わり)
6305.11/29/2009
坂の下の関所・9章 story
152
わたしは、上木田さんとジョッキで乾杯をした。一気に三分の一を飲み干した上木田さんは、ふーっと息を吐き出す。
「のんびり着替えていたら、ふとカレンダーが目に入ったんです。そうしたら、きょうが火曜日だということに気づきました。あわてて、事務所を飛び出してきたんですよ」
「どうして、火曜日だとあわてるんですか」
わたしは、出来上がったばかりのホルモンを一つ口に運ぶ。タレがこげた部分がホルモンの弾力に包まれていく。
「そりゃ、急いで行かないと、関所軍団が押し寄せてくるのがわかっているから」
「そんな大げさな」
「決して大げさではないんですよ。センセーは最近来られなかったから知らないでしょ。あっという間にカウンターは軍団で占領されるんです」
上木田さんも、わたしと同じようにテーブルでひとりというのは寂しいタイプなのだろう。
まさかと思った上木田さんの心配。それが確かな未来予測だったとわかるのに、1時間もかからなかった。
ふたりで飲みながら語っていると、続々と関所のメンバーがカウンターを埋めた。
「さすけねぇなぁ」
ここでも、烏さんは同じことを言っている。
「湯豆腐一つ」
立ち飲みの関所では、あまり食べ物に口をつけない赤坂さんは、鳥藤でちゃんと食べ物を頼んでいた。少し安心する。
「こりゃまた、みなさん、おそろいで」
永田さんが、近くの銭湯帰りで登場した。
上木田さんは、ほらねという顔で、わたしに目配せをした。もう、カウンターには空いている席は一つしかない。
「あらぁ、大変。これじゃ鎌ちゃんが座るところがなくなる」
ママは、あわてて残り一つになったカウンター席に「予約席」と書いたプラスティックの札を置く。
鎌ちゃんこと、鎌倉さんは赤坂さんと同じ首都リーブスに勤務する事務職だ。もうすぐ定年を迎える。職階的には、管理職だろうと想像している。
わたしは、たまに鳥藤で隣りがけに座り、親しくさせてもらっている。サッカーの結果を予測するくじや数字の並び方を当てるくじを定期的に購入し、いつか賞金でブラジルに旅立つ夢を持っている。だから、鳥藤で会うたびに「また、外れですね」が挨拶になる。鎌ちゃんは、関所に煙草を買いに寄るが、関所でアルコールを口にすることはめったにない。いつも、鳥藤のカウンターに座り、30分ぐらいホワイトウイスキーのロックを傾け、飲みすぎない程度で帰る。きょうも、もうすぐ鎌ちゃんが来るべき時間が迫る。
6304.11/28/2009
坂の下の関所・9章 story
151
火曜日。関所は休みだ。
わたしは、火曜日になると、鳥藤に決まって通っていた。そこで会った佐藤さんを関所に誘ったのだ。しかし、人間ドックを受けてから、肝臓にアルコールが入らない日を作ろうと決心した。その候補が火曜日だった。
だから、決まって通っていた鳥藤は、めったに行かなくなった。こういう地元のお店は、いつも顔を出していた客が、ぱたりと顔を出さなくなると、たちまち噂の対象になる。
たぶん、わたしは病気かなんかで入院していることになっているだろう。
そんなことを考えながら、鳥藤の赤い暖簾をくぐった。
「こんばんは」
瞬時に店内を見回す。開店の5時を少し過ぎていたが、客はいない。ラッキー、一番乗りだ。
カウンターのなかでママが炭を並べて、火を起こしている。
「どうも、久しぶり」
お手拭を出してくれる。わたしは入口に近いカウンター席に座る。ここは、ママが目の前で焼き鳥を焼くのが見える特等席だ。テーブル席にひとりで座ると、寂しい。カウンターの奥の席は、焼き鳥や煙草の臭いと煙が充満するので、できれば避けたい。特等席は、頭上に大きな換気扇があるので、煙の心配をしなくて済む。
「来週の買い出しで、何か注文があったら、買ってこようと思って来ました」
わたしは、お手拭でおでこから頬、頬からあごをぬぐう。
やばい、おじさんっぽいことをしているぞ。
「そんな理由をつけなくても、来ていただいて、いいんですよ」
はいはい。
生ビールとホルモンを注文した。ホルモンができあがるまでに、生ビールを飲んでしまう。もう一杯注文する。そのなかで、買い出しの注文をメモした。だいたいいつもと同じなかみだ。
「今回はお茶はいいんですね」
「なーんか、ないときは全然ないんだけど、あるときはあっちからこっちから届いちゃってね」
わたしの背中に外気が触れる。
引き戸があいて、上木田さんが登場した。
「あ、センセー、ちょうどよかった」
上木田さんとは、久しぶりだ。久しぶりなのに、ちょうどよかったとは、これいかに。
「きょうは、ずいぶん、カジュアルな服装ですね」
わたしはスーツやワイシャツの上木田さんを見慣れている。しかし、きょうの上木田さんは、ジーンズにトレーナーだった。
「事務所がこないだの台風で大変なことになって、きょうまで大掃除ですよ」
なるほど。
「まだ片付いてはいないんだけど、だいぶ目途はついたんで、焼き鳥食ってビールを飲もうと思ってね」
肉体労働の後のビールはうまい。
6303.11/25/2009
坂の下の関所・9章 story
150
中島さんの話。
東急田園都市線の長津田駅から支線に入る。いわゆる「こどもの国線」と呼ばれている支線だ。
その途中に車両工場がある。そこへ深夜に撮影に行くという。
東急電鉄で走っていた古い車両を改造して、奈良の伊賀鉄道に販売するそうだ。販売といっても、車両の販売なので移動をどうするかという大きな問題がる。既存のレールを乗り継いで行く方法があるが、そのためには多くの鉄道会社の協力が必要になる。レールを使わないで、車両を台車とウワモノとに分解して、大型トレーラーで運ぶ方法もある。
その移動の様子をビデオに収めてくるというのだ。
「正確な時間が東急から発表されているわけではないけど、だいたいの目星はついているんです」
鉄道会社に勤めるわたしの知り合いの話によると、日本の電車を建造しているのは、東急車輛ともうひとつの会社のみということだ。あのJRでさえも、自社生産はほとんどしていないとのことだった。だから、東急は電車を走らせるだけでなく、国内の車両すべてについての安全面に関する大きな責任を負っていることになる。
「わけのわかんねぇこと言ってて、オラ、もうけぇるぞ」
赤坂さんが荷物を背負って、自動ドアを抜ける。ドアが閉まりかけるときに、右腕を上げていた。あれは、バイバイのつもりだろうか。
「というわけで、きょうは早いけど、これで帰ります」
中島さんは、まだもう少し関所にいたがるミッキーの巨体を引っ張って、赤坂さんの背中に続いた。
「あー、あしたは火曜日。嬉しいなぁ」
若女将は、上機嫌だ。
「あーあー、きょうはまだ月曜日。一週間が始まったばかりで悲しいよ」
わたしは、今週の仕事の予定を思い出し、ため息をこぼす。
関所は火曜日が休みだ。
「ママさん、ここも日曜日休みにしたら、どうかなぁ」
カップのワンタン麺を食べ終えた相田さんが、空になったカップを捨てに来る。
「そうしたら、みんな火曜日に行くところがなくて困らないのに」
どこまで行っても、相田さんの純粋な考えは、自分が基準だ。
「日曜日だからこそ、お店に来てくださるお客さんもいるのよ」
「そっかなぁ、俺なんて日曜は家で寝てるけどな」
相田さんは横須賀に住んでいる。たとえ、日曜日に外出しても、わざわざ勤務先に近いここまで来ることはないだろう。
わたしは、空になったコップを所定の位置に置く。山猿の一升瓶をクーラーに戻す。
「センセーは、あしたはどうするの?」
「たぶん、鳥藤。今度、買出しに行くときの注文を聞こうと思う」
6302.11/24/2009
坂の下の関所・9章 story
149
相田さんは、ペヤングのソース焼きそばを手にする。
「カップ麺の王道だよな。これだけ、ラベルに絵や写真がないんだぜ。それだけ、商品に自信があるってことだよ」
相田さんが、ペヤングおかかえのプレゼンテーターに変身した。
でも、言われてみると、たしかに四角い箱のペヤングソース焼きそばのラベルには文字しか書いていない。なかみの宣伝になる絵や写真がないのだ。初めてこのソース焼きそばを買うひとは、なかみを想像して買うしかない。
だいぶ昔だったと思うが、わたしはカップラーメンではなく、カップ焼きそばができたとき、たしか最初に食べたのがペヤングのソース焼きそばだったと思う。そのときの感想は、これは焼きそばではない!だった。だって、麺を焼いていないのだから、焼きそばと呼ぶには名前に無理がある。ゆで麺にソースをからめた新しいジャンルのヌードルだと思った。
「はーい、しょっぱいかもしれないけど、どうぞ」
若女将が夕食から戻る。お盆にはいくつかの小皿にチャーシューが乗っている。このチャーシューは、いつも味も歯ごたえも絶妙だ。わたしは最小限の味付けで十分なのだが、関所のメンバーにはそれでは物足りない。醤油で味付けをしてある。
「うわぁ、これが来たら、やっぱ、買っちゃおう」
相田さんの手には、カップのワンタン麺が握られている。
「ママさんのチャーシューは、最高の料理なんだよ。これを食べたら、ほかの店のは食べられない」
「うん、なかなかよろしい」
若女将はご機嫌だ。
自動ドアが開く。
中島さんがミッキーを連れて登場した。
「久しぶりです。こんばんは」
わたしは、中島さんに挨拶をする。大型犬のミッキーは行儀よく静かにしている。クーラーボックスのなかに好物のチーズを発見する。
「待て、ミッキー。急ぐな」
わたしは、チーズを一つ取り出して、中島さんに渡す。代金を払って、チーズを包装している銀紙をむく。ミッキーは、もうすぐご馳走にありつける喜びを尻尾で表す。
「できたどー。ここにこいつを乗せてっと」
できたぞーではなく、どうして、できたどーなのだ。関所奥の相田さんのコーナーから、カップのワンタンメンの香りが漂ってくる。
ズズズ、ズー。
「このスープにからめたチャーシューがうまい!」
こころなしか、チーズに満足しているはずのミッキーの耳がぴょんと相田さんの方角へ。
ふと見ると、いつもは生ビールを飲む中島さんがお茶のペットボトルを手にしている。
「きょうは、これから電車を撮影に行くんです」
わたしが質問をする前に、中島さんが飲まない理由を教えてくれた。
6301.11/23/2009
坂の下の関所・9章 story
148
永田さんが腕を組んで天井を見上げる。
「ラグビーなんかじゃ、両方とも優勝ってのがあるらしいぜ」
「じゃ、クライマックスステージも引き分けなら両方とも優勝かな。でもそれじゃ、日本シリーズはどうなるわけ」
相田さんは深く悩んでいる。
「ほら、相撲でも最後に優勝の可能性があるひとが何人もいたら、巴戦ってやるじゃん。あれをするのかな」
わたしも、会話に加わる。
あまり、スポーツに関心のない赤坂さんは、どうでもいいと言わんばかりに煙草に火をつける。
「このワンタン麺って、本当にこんなにうまそうなワンタンが入っているのかな」
乾物コーナーを物色していた相田さん。カップ麺のひとつを手にして、ラベルの写真を眺めている。
おいおい、プロ野球の話題はもうおしまいかい。
答えがわからないから、これ以上考えないようにしたな。
それにしても、見事な方向転換だ。彼は、話の切り替え選手権があったら、間違いなく初代チャンピオンだろう。
「そういうのって、中身のないワンタンの皮だけってのが多い」
永田さんが、いかにも経験者という感じで強く主張する。
永田さんも、あっさりと相田さんを追従する。
わたしが、クライマックスシリーズの第二ステージがどうして6試合しかないのか知ったのはずっと後になってからだ。
「そうだよね」
名残惜しそうに、相田さんはワンタン麺を棚に戻す。本当は食べたいようだ。
「じゃぁ、それって、ワンタン麺じゃなくて、ワンタンの皮麺だ」
わたしが合いの手を出す。
「でも、なんだか、いまボクの胃袋はワンタン麺を欲しているんだよなぁ」
相田さんは、すっかり食欲の塊になっている。最近、自分のことをボクと呼ぶようにしたらしい。
「うーちゃんと半分ずつにすればいい」
赤坂さんが新プランを提案する。
「だめだめ、うーちゃんはノンアルコールじゃないと」
たしかに、うーちゃんこと内田さんはアルコールは飲まない。アルコールなしで、関所のメンバーに付き合う貴重な存在だ。しかし、カップのワンタン麺とノンアルコールにどんなつながりがあるのだろうか。相田さんの思考回路は複雑すぎる。
「そうだなぁ、うーちゃんはペヤング専門だし」
おーい、赤坂さーん。相田さんの返事に納得してどうするのー。
6300.11/21/2009
坂の下の関所・9章 story
147
プロ野球が太平洋をはさんで最終ステージに入る。
夕方の6時を過ぎると、永田さんや相田さんらは、大将に店内放送をプロ野球にしてくれと頼む。大相撲は6時までに終わり、6時からはプロ野球。BGMがわりのスポーツ中継だ。その趣味は、親父そのものだ。
「どうせ、俺は結婚してねぇし、こどももいないから、親父の気持ちなんてわかんねぇよ」
ときどき、永田さんや相田さんは独身であることを卑下する。しかし、その生活スタイルは、どこから見ても立派な親父です。
わたしは、ベビースターラーメンを肴にして、山猿をちびちび飲んでいた。
人間ドックで栄養士さんと約束したダイエット。日々の少しの積み重ねコースを選んだ。そのため、毎日、悲鳴をあげるようなダイエットプランにはなっていない。しかし、ついついさぼると、たちまち体重が増えてしまう。
本当はベビースターラーメンのような高カロリーお菓子は禁止なのだ。でも、少しずつ食べればいいだろうと自分にあまくなる。
いけませんな。
「マスター」
奥の洋酒棚から、相田さんが大将を呼ぶ。相田さんは大将をいつもマスターと呼ぶ。
「あん」
レジ横の回転椅子で新聞を広げていた大将が返事をする。
「これから、クライマックスシリーズの第二ステージが始まるじゃん。あれって、なんで試合数が6試合なの」
「そんなこと、ねぇべ」
大将は新聞のスポーツ欄を広げる。
「あ、ホントだ」
「だろ、ボクは嘘はつかないんだ」
相田さんは少し得意そうだ。
「もしも3勝3敗だったら、どっちの勝ちにするんだろう」
相田さんの素朴な疑問は、ふだんテレビも野球も見ないわたしにも共感できる疑問だった。
「まてまて、ここにこう書いてあるぜ」
大将は新聞を朗読する。
第二ステージ。リーグ戦一位のチームには一勝のアドバンテージがある。試合数は全部で6試合。
「この説明じゃ、わかんねぇな」
大将も腕組みをする。
「もしかして、3勝3敗だったら、監督同士がじゃんけんでもして決めるのかな」
相田さんは、本気で冗談みたいなことが言えるひとなのだ。
6299.11/20/2009